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225 一竜一猪

先日、Yahoo!ニュースで「第1志望に「3分の2が不合格」中学受験の現実」という記事を見つけました。
葵さん(仮名)が経験したことを元に構成されたこの記事の一部を、以下に紹介します。

C校に入学して間もない4月上旬。葵さんが驚いたことがあった。男性の担任教員が「この中で第1志望じゃなかった子は?」と聞くと、クラスの大半の生徒が手を挙げた。「じゃあ第1志望だった子は?」。手を挙げたのは数人だった。「そうだよね、第1志望の子もいれば、そうじゃない子もいるよね」と担任は言った。

「私だけじゃないんだ」。葵さんは自分と同じ境遇の子が多いことにほっとした。同級生と互いの受験をオープンに話すことで、気持ちがほぐれ、友達が増えていった。そして学校が好きになった。

この記事を読んで、昔の思い出がよみがえりました。

以前にも紹介した私の中学受験は、学校の担任からは「合格するわけないからやめなさい」、塾の先生からは「合格しちゃうからよしなさい」と相反するご意見をいただき、結果は不合格。

「ほらね」と言わんばかりの学校の担任。
「悔しいだろうが喜べ。12歳で大学を決める必要はない!」と難しいことをおっしゃる塾長。

受験失敗という挫折感はわずか数日で消え、小学校の仲間と一緒に通った地元の公立中学は、楽しい3年間でした。

そして、迎えた高校受験。
思うように成績が伸びなかった私は、大学の付属校を受験対象から排除することにしました。
小学校6年生のときに学習塾の先生からいただいた言葉を思い出し、3年後、大学受験でもう一度勝負しようと決めたのです。

東京都にまだ学校群制度が存在した当時、私の第1志望は「41群」でした。
しかし、あまりにも内申点が低く、あえなく撃沈。
自身の第2志望だった、私立城北高等学校へ進学しました。

当時の城北高校は、1学年に750人ほど在籍していたマンモス校でしたので、それはそれはバラエティに富んだ生徒がいました。

その1人が、1年生のとき同じクラスだったS君。
入学当初からどことなく元気がなく、ねじ曲がって、ひねくれたような雰囲気を醸し出していました。
どうやら、有名県立高校合格間違いなし! と言われていたにも関わらず、運悪く失敗したそうで、「オレはこんな学校に来るつもりじゃなかったんだ」という気持ちが、入学当初、顕著に表れていたのでしょう。
その後、卒業まで同じクラスになることはありませんでしたが、決していい噂は耳にしませんでした。

もう1人印象的だったのはW君。
当時、城北高校の文系コースには、早稲田大学への推薦枠が1つだけありました。
文武両道、品行方正な生徒が毎年選ばれていましたが、我々の代では、W君とK君の一騎打ちとなりました。

W君はサッカー部、K君は体操部に所属し、各々運動部で活躍していました。
肝心の成績も、5段階評価でW君は平均4.9、K君は4.95と、どちらも非の打ちどころがありません。
W君は私立文系、K君は国立文系に所属していましたので、ここも評価対象になるのではないかなど、一時期、来る日も来る日も学校はこの話題で持ちきりでした。

結局、この激しい争いを制したのは、K君でした。

戦いに敗れたW君は、決して不満を口にすることなく、粛々と受験勉強を続けました。
普通に受験してもお前なら早稲田くらい楽勝だよ、と仲間に勇気づけられて臨んだ大学受験。
残念ながら志望校への合格は叶わず、明治大学への進学を決めたようでした。

「1浪して早稲田に行くべきだ」
「投げやりになっちゃだめだ」

人気者だったW君を心配する多くの仲間の声には耳を貸さず、明治大学へ進学したW君は、大学3年生の時に公認会計士の資格を取得したと、風の噂で聞きました。

推薦入試で落胆を経験し、一般入試でも夢破れたものの、自ら選んだ大学で腐ることなく努力を重ねたのでしょう。
同級生でありながら、心から尊敬できるなと思ったものです。

私の大学受験はというと、不合格の通知を重ね、入学を決めたのは第6志望の学校でした。
そして、入学金に加えて1年次の授業料も支払ったあと、第1志望の大学から補欠合格の報せを受けました。

仮に私が第6志望の大学へ進んでいたなら、W君のように努力することができただろうか・・。
補欠合格の電話を受けた際の感動や高ぶりを、大学生活に反映できただろうか・・。
受験は決してゴールではないな、と今更ながら感じます。

一竜一猪。
努力して学ぶ人と、怠けて学ばない人との間には大きな賢愚の差ができるということ。

セガレよ、まだまだこれからが勝負なのだぞ。

224 刻露清秀

有難いことに、ここ1ヶ月、とても忙しい日々を過ごしています。
勤労感謝の日も終日出勤し、その後の土日も処理しなければならない仕事をかなり抱えていました。
しかし、この週末はカミさんと京都へ紅葉見物に行く計画を、半年前から立てていたのでした。

ところが、カミさんはカミさんで、母親が先々週突然入院する事態となり、そのお世話に追われることとなりました。
ドタキャンか強行か、直前まで迷いましたが、「無理せず、欲張らず」を掲げて、予定通り上洛いたしました。

初日は、お気に入りのお蕎麦屋さんで昼食をとったあと、毘沙門堂と安祥寺へ出向きました。
どちらも山科駅から徒歩圏内にありますが、清水寺や嵐山と違って穴場的存在なので、さほどの人混みではありませんでした。

毘沙門堂では、ポスターにもたびたび起用される「勅使門」につながる石段の参道や弁天堂周辺、晩翠園が、キレイに色づいていました。
参道は散り紅葉で真っ赤に染まる写真で有名ですが、その時期にはまだ早かったようです。

参考までに、この毘沙門堂は、ウオーカープラスの京都府の紅葉名所人気ランキングでは第6位に選ばれています。
https://koyo.walkerplus.com/ranking/ar0726/

安祥寺は普段は公開されていないお寺ですが、10月から11月にかけて、期間限定で特別拝観が行われています。

御朱印をいただく際に小銭を持ち合わせていなかったので、千円札をお渡しし、そのままお納めくださいとお願いしたところ・・・・、

「ささやかですが、絵はがきをお持ちください。明日は日曜日なのですが、ほかのお寺のイベントに参加するため、今日が最後の拝観日なんですよ。この時間ですから、お二人が今年最後の参拝者かも知れませんね。」

なんだかご縁を感じた参拝となりました。

2日目は、ホテルでゆっくりしたあと、穴場中の穴場、京田辺市の「一休寺」を訪れました。

正しくは酬恩庵(しゅうおんあん)といい、とんちで知られるあの一休さんが、63歳頃から88歳で亡くなられるまでの約25年間を過ごしたお寺です。

正応年間(1288〜1293年)に南浦紹明が開いた妙勝寺が前身で、その後、戦火にかかり荒廃していたものを一休和尚が再興し、師恩に報いる意味で「酬恩庵」と命名されたそうです。

京都駅から近鉄線で南へ30分ほどの新田辺駅から徒歩25分というアクセスで、近くに観光地もないことから、紅葉の見頃であっても、混雑はしていませんでした。
(我々が帰るころ、団体客がバスで訪れ、若干様相が変わっていましたが・・)

ここには一休和尚の墓所があり(下)、宮内庁が御陵墓として管理をしています。

初日の午前中は、少し不安定な空模様でしたが、総じて天候には恵まれました。
ただ、行きの新幹線はみっちり仕事、初日夜は23時過ぎまでホテルで仕事、翌朝は4時に起床してカミさんの睡眠の邪魔にならぬよう洗面所で仕事・・・・と、カミさんにはやや申し訳ない旅になってしまいました。
帰りの新幹線でもやるぞ! と張り切っていたのですが、弁当を食べ終え、PCをオンにしてまもなく、寝落ちしてしまいました。
体力がほとんどエンプティだったようです。

それでも京都の紅葉ツアーは、大いに私に鋭気を与えてくれました。
来年も訪れることができるよう、日々仕事に精進したいと思います。

216 紅顔可憐

ゴールデンウィークに突入しました。
カミさんと買い物に出掛ける程度で、我が家は毎年大した予定がありません。

今日は残った仕事を片付けるため、朝から近所のカフェに来ています。
カフェやレンタルスペースなど、耳障りでない程度のノイズを背景に、自分が誰であるか周囲が知らない場所は、仕事をする環境として嫌いではありません。

ただ、「耳障りでない程度のノイズ」、要するに「いい感じの騒音」が難しいところです。
ガハハと笑いながら同時に数人がしゃべりまくるおばさま集団の存在は仕事の効率を低下させそうですし、一方、ちょっぴり好みのタイプの女性が近くにいたら、注意力散漫になりそうです。

因みに、今、私の前の席では、外国人男性と日本人女性のカップルが、朝から情熱的に肩を寄せ合っていますが、この程度は仕事に影響なさそうです。

私が普段利用している1つは、東京ミッドタウン日比谷のBASE Q内にあるワークスペースです。
1人席は、3時間1,500円、6時間2,000円と、都会のど真ん中にしては良心的な価格です。
ネットで予約ができますので、席を確実に抑えることができます。

個室ではありませんし、隣にカフェが併設されているため、騒音をシャットアウトすることはできませんが、個室型ワークブースの閉塞感が苦手な私にとっては、そこそこ快適な空間です。

会社にいると、電話、来客、その他諸々により、思うように仕事が捗らないことがありますが、外に出ればやりたい仕事に集中できます。
ノートPCのモニターがもう少し大きいと、老眼に優しいのですが・・。

朝、そろそろカフェに行こうか・・と思っていたところ、玄関でガチャという音がしました。
玄関を覗くと、徹夜明けとは思えない、元気溌剌な姿のセガレがいました。
昨日は夕方からサークルの新歓イベント→打ち上げ→カラオケ→朝帰り、と相成ったようです。

私にとって徹夜とは、ほぼほぼイコール徹マンです。
(「徹マン」は令和にあって死語でしょうか・・)

高校から大学にかけて、何回夜通し麻雀に興じたか、数え切れません。
夜も更けて朝が近づいてくると、「自摸って!」なんて声で起こされる寝落ちする輩が出現したり、こいつは半分寝ているだろう思っていたらでっかい手をテンパっていたり、睡魔による感覚マヒで突然強気になる奴が出現したり、予期せぬ事態が多発して楽しいものでした。

特に思い出深いのは、スキー旅行です。
上野から夜行電車に乗り、越後湯沢駅のダルマストーブの前で数時間過ごした後、朝イチのバスで民宿へ。
そして、朝イチからナイターまでゲレンデで過ごし、宿に帰れば深夜まで麻雀という、底なしの体力で遊んだものでした。

ただ、ダルマストーブの前で卓上麻雀に興じていたら、いつの間にか始発のバスが行ってしまったことが一度ありました。
4人もいながら、誰ひとり気付かないほど麻雀に熱中していたのかと呆れました。

ただ、徹マンは話し声はもちろんのこと、牌を手積みする音が響きますので、周囲へずいぶんと迷惑を掛けたことと思います。
また、灰皿は山のように積み上がりますので、健康上もあまりよろしくないですね。

60を過ぎた今は、日付変更線を過ぎるまで起きていることが、年に数回しかありません。
ましてや徹夜などしようものなら、1週間は抜け殻のようになってしまうと思います。

さて、朝からの仕事も一段落しましたので、昼メシの弁当を家族分買って帰ることとします。

214 千秋万歳

令和になって4度目の天皇誕生日を迎えました。
今年は、コロナ禍の影響で中止されてきた一般参賀が即位後初めて行われましたので、いっそう喜ばしい日になりました。

「誕生日に、初めてこのように皆さんからお祝いいただくことを、誠にうれしく思います。(中略)皆さん一人ひとりにとって、穏やかな春となるよう願っています。皆さんの健康と幸せを祈ります。」

国民に向かってお言葉を述べられた陛下。
好天のもと、声を発することなく、日の丸を振って祝意を示す参賀者。
日本人としての麗しさを感じました。

来年は、陛下も参賀者も、マスクなしで開催できたらなお嬉しく思います。

天皇誕生日というと、直感的に12月23日を思い浮かべてしまうことがあります。
平成の時代を30年以上過ごしましたので、致し方ないと思いますが、きっと数年すると解消するのだと思います。

上皇さまは昭和8年12月23日のお生まれですが、同じ年の父が、先日誕生日を迎えました。
90歳、卒寿です。

昭和8年の出来事を調べてみると・・、
01月01日 ラジオの時報が手動から自動式になる
01月30日 ヒトラーが独首相に就任
03月04日 フランクリン・ルーズベルトが第32代米大統領に就任、ニューディール政策始動
03月27日 日本政府が国際連盟脱退の詔書を発布
07月25日 山形市で気温40.8度を記録
10月19日 ドイツが国際連盟から脱退

まるで歴史の教科書を読んでいるようですね・・。

注目すべきは、7月25日の「山形市で気温40.8度を記録」です。
2007年8月16日に岐阜県多治見市と埼玉県熊谷市で40.9度を記録するまで、国内最高気温が昭和8年の記録だったとは驚きです。

伊豆の農家の三男坊だった父が上京したのは昭和24年、16歳のときでした。
東京都中央区の印刷会社に住み込みで働き始めました。

東京に行ったらうまくなるぞ!と思っていたことがが3つあったそうです。
ビリヤード、ボウリング、社交ダンスです。
(女性にもてたかったのでしょうか・・)

ビリヤードとボウリングに夢中になっていた姿は、私の記憶にもありますが、社交ダンスは全く知りません。
聞くと、銀座にあった社交ダンスの店へ恐る恐る行くと、スラリとした華やかで美しい女性に「いらっしゃいませ」と出迎えられ、恥ずかしくて逃げてきたそうです。
「でもな、やっぱり習っておけば良かったな」と悔いるように言うときがたまにあります。

90にして今もなお、ほぼ毎日出社しています
運転免許証は返上してしまいましたので、電車通勤です。

本人を目の前にしては言葉にしませんが、生涯現役を貫く姿勢には敬服です。
もちろん、出来ることは年々少なくなってきていますので、温かく協力してくれる社員の皆さんには感謝しなければなりません。
ときに、卒寿の祝いの品を社員からいただいたそうで、本人は心から喜んでいました。

誕生日当日、セガレとカミさんと連れだって、久しぶりに実家へ行きました。
我々の到着よりも早く、事前にオーダーしておいた花が届いていました。
数日後には、名前入りの夫婦茶碗が届く予定です。

セガレは大学に入ってから始めたクラシックギターを演奏するため、ギターを持参しました。
ひょっとすると、花よりも夫婦茶碗よりも、初心者ながら孫のギター演奏が一番心に残ったのかも知れません。

211 終食之間

最近お気に入りのお弁当があります。
亀戸升本さんが作る「すみだ川あさり弁当」です。

ツイッターでも高評価を得ている亀戸升本さんは、明治38年に酒屋として創業。
その後、幻の江戸野菜「亀戸大根」を復活させ、割烹料理屋として復興したという、少し変わった経歴のお店です。

では、このお弁当のお薦めポイントを3つご紹介します。

お薦め①:亀辛麹(かめからこうじ)
写真中央の小さなカップに入った、米麹と青唐辛子と有機醤油を長期熟成させた秘伝のタレです。
ピリッとした辛さが特徴で、鶏つくね、里芋、ご飯等、何にでも合います。
思い出すと無性に食べたくなる、やみつきのタレです。

お薦め②:卵焼き
ちょっと隠れてしまって分かりづらいのですが、写真の一番下に、かなり分厚くてビッグサイズの卵焼きが入っています。
様々詰められたおかずの中で、ふんわり柔らかくてほんのり甘いこの卵焼きが私は一番好きです。
半分はそのまま、残り半分は亀辛麹と共に楽しむことにしています。

お薦め③:カラダに優しい
美味しいだけではなく、添加物が少ない点も大きな魅力です。
原材料表示は下記の通りです。

お弁当でよく見かける、増粘多糖類、pH調整剤、ソルビット、グリシン、酢酸Na、保存料(ソルビン酸K)などなど、定番の添加物が見当たりません。
私は小さい頃から食の安全について母から教えられてきましたので、このお弁当はとても嬉しいですね。

さてワタクシ、お弁当にまつわる忘れ得ぬ思い出が2つあります。

1つは、小学校高学年の頃。
ひとりで夏期講習か冬期講習に参加したときのことです。
確か、日暮里駅か鶯谷駅の近くにあった、当時としてはそこそこ大きな規模の学習塾だったと思います。

昼の休憩時間、持参したお弁当を席で食べていたら、前に座っていた見知らぬ2人の生徒が振り向きざまにこう言いました。

「お前のエビフライ、ちっちぇな」

そう言い放ったのは背の小さな方。
そして、その横でニヤニヤ笑う小太りの男が持つお箸には、私の2倍以上の大きさのエビフライが握られていました。
その存在感は、抵抗する気持ちを萎えさせるに十分なものでした。

私ひとりで見知らぬ塾生2人を相手に喧嘩をする度胸もなく、「テストの点数は負けねーからな」なんて密かに思うのがせいぜいでした。

「あなたの学習塾の費用が結構バカにならなくてね・・」と大人になってから母に聞かされましたので、あのエビフライのサイズは、当時の我が家の経済状況そのものだったのだと思います。

50年も前の出来事なのに鮮明に記憶しているということは、当時のショックは大きかったことの裏返しなのでしょうか。

今思えば、あの大きなエビフライは、お総菜コーナーで購入したのではないでしょうか。
かーちゃんが愛情込めて手作りしてくれたことに値打ちがあるんだ、なんてやり返すことは、当時無理だったなと思います。

もう1つは高校1年生のとき。
教室の席は氏名の五十音順に決められていましたので、私・ヤマダは最後から3番目の窓側の席でした。
そして、私の右に座っていたのは、お坊ちゃまの雰囲気漂う「前田」。
昼になれば隣の机に広げられる前田のお弁当は必然的に目に入りますが、これがとても印象的でした。

端的に言うと、美しいのです。
男子高校生が持参する弁当ですから、キャラ弁とかいう美しさではなく、まるで仕出し弁当屋さんが作ったように、色や盛り付けがキレイなのです。
しかも、来る日も来る日も期待を裏切らない、見目麗しいお弁当でしたので、前田の弁当をこっそりのぞき見するのが、日々の楽しみにもなっていました。

こう言っては叱られそうですが、私の母の弁当はとても美味しかったけれど、見栄えは普通でした。
高校1年生にして、料理は美を表現できるものなのだ、ということを前田のお弁当を通じて学びました。

我が家のセガレも中学高校の6年間、お弁当を持参しました。
たまには売店でパンを買うとか、食堂で名物の唐揚げ丼でも食べればいいのに・・、と思うことがありましたが、頑なに弁当を持っていきました。

日曜日以外毎日ですから、作る方は大変です。
ほとんど冷凍食品を使わずに、よく作ったものだと感心します。
少しはカミさんに感謝しているのかな、と思ったりします。

あ・・。
かく言う私も、見栄えがどうとか言う前に、母に感謝の言葉を伝えたことはあっただろうか・・。

209 椿萱並茂

私の父は、昭和8年生まれの89歳です。
16歳の時、荷物を1つ抱えて故郷の伊豆から上京しました。
90歳目前ですが、今も現役で働いています。

80歳を過ぎてから、心臓のバイパス手術を受けました。
入院中、「こんな歳だけど、まだやり残したことがあるので、元気になりたい」と看護師に話し、有言実行、仕事復帰しました。

また、昨年は肩に打った注射から感染症を起こし、入院生活を余儀なくされました。
3週間の入院生活は、88歳の老人の脚力を容赦なく奪いました。
それでも、母の協力もあってウォーキングで筋力を戻し、またまた社会復帰を果たしたのは天晴れでした。
44歳のとき弊社を興した本人とはいえ、 仕事への思いは並々ならぬものがあり、生涯現役を貫くつもりなのだと思います。

一方、母は昭和12年生まれで、誕生日は1月1日です。
本当は12月下旬に生まれたそうですが、役場が休みだったから元日生まれで届けを出した、と自身が子供のころ聞かされていたそうです。
元日の方が確実に役場はお休みだと思うので、理屈に合わないのですが・・。

85歳になっても変わらず料理が上手で、今もおかずを作って私に持たせてくれることがあります。
また、スマホでLINEができるのは、この歳にしてはスゴイことだと思います。

日本歯科医師会が80歳になっても20本以上自分の歯を保とうという「8020運動」を推進していますが、母は85歳にして歯の欠損がありません。
「子供の頃、貧しいものしか食べられなかったのが逆に良かったのかも」などと本人は言いますが、驚異的な口腔内健康の持ち主です。

父と同様に、母も若い頃からよく働く人でした。
狭いアパートでノンブルを打つ内職作業を、毎日のようにしていました。

「ノンブル」とは印刷業界用語ですが、ページ番号と表現すればわかりやすいでしょうか。
フランス語で「数」を意味する「nombre」に由来すると聞いたことがあります。

要するに、母の内職は、ナンバリングの機械で伝票に番号を打つ作業でした。
小さい卓袱台のような作業台の前に正座して、1枚1枚番号を打っていくのですが、これが思ったより難しい作業です。

まず、指定の位置に打たなければなりません。
多くの場合は、アンダーラインに沿って、その上側に打っていきます。
上下左右に位置が動いてしまうと、見栄えがよろしくありません。

また、ペラものであれば打つたびに番号を進めればよいのですが、2枚複写であれば2回に1回、3枚複写であれば3回に1回、機械の一番上にあるボタンを親指でノックして番号を進めなければなりません。

そして、機械を紙に強く押しつけると必要以上に紙が凹みますし、機械の番号部分も摩耗します。
なによりアパートでしたから近隣への騒音も気にしなければなりません。

母は、なるべく音を立てないように、でも、番号の印字が欠けないよう絶妙な力加減で作業する達人でした。

「実は、あなたの塾代が結構負担でねえ・・」
15年くらい前、母が打ち明けました。
1回打って1円に満たない内職代が私の通塾を支えてくれたんだなあ、とずいぶんいい歳になってから気付きました。

椿萱並茂。
両親がどちらも健在でいること。

私の年代になると、両親のどちらかを既に亡くされた友人が目立ちます。
中には、両親ともに他界された仲間もいます。

自身が還暦ですから、親は80代から90代。
悲しいことですが、致し方ありません。

両親とも健在、しかも元気で暮らしているのですから、私はとても恵まれています。
そんな両親に、先週の敬老の日には、お気に入りの京都の名店から、秋限定のご馳走膳を贈りました。

203 大驚失色

携帯電話が日本で発売されたのは1985年、ショルダーホンという名称で、肩に掛けて持ち運ぶスタイルでした。
ウィキペディアによると、重量は900グラムもあったそうです。

私が社会人になったのはその1年前、1984年4月ですから、当時会社との連絡手段はポケットベルでした。
プッシュ回線から数字を送ることができたので、急ぎの時は「9」、大至急の時は「99」というルールを設けて、緊急度を伝えることにしていました。

しかし、いくら「99」と表示されても、公衆電話がなければ連絡ができません。
ポケットベルって便利だなあと当時は思っていましたが、公衆電話が町から消えた今となっては、過去の遺物ですね。

時は流れ、初めて携帯電話を所有したのは、32〜33歳頃だったと思います。
記念すべき1台目は、富士通製でした。

ドッチーモ、なんて機種も使用したことがあります。
1台で携帯電話とPHS双方の機能を持つNTTドコモの端末です。

その後、富士通のほか、NECやSONY など、国内メーカーの製品をずっと使用してきましたが、先日、カミさんと一緒にiPhoneに乗り換えました。

カミさんはiPhone 13 miniの青、私はiPhone 13の赤にしました。
男女逆な感じがしますが、私の赤は還暦にちなみました。

私は仕事ではずっとMacを使用していますし、個人でiPadも所有しているので、携帯電話だけAndroidだったこれまでがちぐはぐだったと言えるかも知れません。
ただ、なんとなくアメリカ製のiPhoneや韓国製のGalaxyではなく、日本製品頑張れという気持ちで主にSONYのXPERIAを愛用してきました。

実際iPhoneを使用してみると、カバーは多くの種類から選べますし、Macとの相性など、便利さを実感しています。

Macに関しては、初めて購入したのは1995〜1996年頃でした。
確かPerforma 5260とかいう機種だったと思います。
NECのPC9801を個人ユースで所有していましたが、Mac購入はDTPへ移行するための第一歩でした。

思い出すのは、漢字Talk7.5.1というOSが、変な名称だなと感じたこと。
プリインストールされていた「3Dアトラス」が面白かったこと。
DTPソフトの先駆けであるQuark Xpressが、1ライセンス248,000円で驚愕したこと。
QuarkもillustratorもPhotoshopも操作がわからず、デザイナーや製版屋の知人に、恥も外聞もなく聞きまくったこと・・。

メモリもハードディスクも、今では考えられないほど小さな容量だったことでしょうが、目の前で処理される様々な事象に驚嘆するばかりでした。

話はポケットベルに戻りますが、ある土曜日、ディスプレイに「999999」と表示されたことがありました。
「99」が大至急なのに、どんだけ急ぎなんだ・・。
下請けの製本屋さんにいたので電話を借りて会社に連絡すると・・、

「事務所の裏が火事です!!!」

急いで会社戻ると、おびただしい数の消防車が到着していました。
野次馬も大勢いて、周辺は騒然としていました。

「今後の状況によっては御社の建物の裏側からも放水します。窓ガラスが割れる可能性が高いですが、お許しください」とのこと・・。

印刷屋の事務所兼倉庫ですから、中は大量の紙で溢れています。
ガラスを突き破って水が入ってきたら、事務所内の製品は全部アウトだ・・と呆然としましたが、幸い放水には至らず、鎮火いたしました。

今でも数字の9がいくつか並んでいるのを見ると、あの喧騒を思い出します。

202 時代錯誤

フラワーショップに行くのが、少し苦手です。
どことなく照れくさい想いがあります。

花束をいただくのは、さらに苦手です(これまでの人生で花束をいただいた回数は、片手に余る程度ですが)。
初めていただいたのは、22歳の誕生日。
赤い薔薇の花束でした。
どう対処したら良いか、当惑した記憶があります。

究極は、いただいた花を抱えて電車に乗れとなったら、かなりよからぬ事態です。
浮いてる感で、車内での居心地は最悪だと思います。

これらは、典型的な時代遅れの男の姿、と言えそうです。
なぜなら、花を贈ることに恥ずかしさや照れくささを感じる男性は年々減っている、という調査結果があります。

また、バレンタインデーに花を贈る男性が増えているそうです。
バレンタインデーって男性が女性からチョコレートをもらう日でしょ! と思うのですが、これがまた昭和の男の発想のようです・・。

世界では、バレンタインデーは「男女がお互いに愛や感謝の気持ちを伝え合う日」として、主に男性から女性へ花を贈る風習が根付いているそうで、実はバレンタインデーは「世界でいちばん花を贈る日」なのだそうです。

そんな文化を日本にも広めようと、2010年に花業界が「フラワーバレンタイン」の啓発活動を始めました。

日本農業新聞によると、この推進活動によって、バレンタインデーに花を買う男性の割合が2020年には平均で7.5%となり、7年間で6倍に増えたとの調査結果を掲載しています。
特に20代の購入率が高く、若年層には既に浸透しているようです。

かくいう私も、以前に比べれば、花に対する抵抗感が少なくなってきたと自覚しています。
今年はカミさんの誕生日と母の日が重なったため、先日、2日続けてフラワーショップに立ち寄りました。
カミさんにはアレンジメントされたフラワーボックスを、そして、実母と義母にはカーネーションを購入しました。

因みに、2012年から「Mr.フラワーバレンタイン」に就任しているキングカズこと三浦知良さんは、年間で1,000本を超える赤いバラを女性に贈っているのだそうです。

スーツを颯爽と着こなし、花束が似合う男・・。
ちょっと自分には及びがたいですね。

201 六十耳順

昨年10月、60歳になりました。
20歳になった時、遂に大人の仲間入りなんだなと感慨深かった記憶があります。

しかし、30、40、50とその後は別段思うことなく通り過ぎましたが、60歳を迎えた心境はこれまでとは異質でした。
一言で表すなら、老人への入口に来たなといったところでしょうか・・。
40年前は胸躍る心境だったのに、今は少し胸がつかえるような気分です。

そんなことを考えていたら、数日前、新型コロナウイルスワクチンの4回目の接種について、厚生労働省から発表がありました。
それによると、接種対象は当面、60歳以上の人や18歳以上の基礎疾患のある人などに限定するそうです。

やはり、60歳は高齢者の範疇であることに間違いなさそうです。

ところで、60という数字はやや特徴的と言えそうです。
例えば、1時間は60分で、1分は60秒です。
また、角度の単位でも1度(°) = 60分 (′)、1分 = 60秒 (″) です。
このように60を1単位として数える六十進法は、自然界に数多く存在しています。

また、結婚50周年を祝う金婚式は有名ですが、60周年をダイヤモンド婚式と呼ぶそうです。
さらに上もあるようですが、一般的には60年が最後でしょうか・・。

あっ、私の両親は3年ほど前がダイヤモンド婚式だったかと・・。
金婚式には東北旅行を贈りましたが、60周年には思いが及びませんでした。

さらに、60の前後の数字、59と61は素数です。
前後が素数な数は、4、6、12、18、30、42、60、72、102、108、138・・・・。

セガレにそう話すと、双子素数ね、と返されました。
ある素数に2を足した数も素数になる組み合わせを双子素数というのだそうです。

幼稚園入園、中学校入学、大学入学、厄年、還暦、除夜の鐘‥。
偶然にも人生の節目にあたる数が並んでいるように思います。

さて突然ですが・・、

「子曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。」

孔子の有名なお言葉です。
そして、この言葉はこう続きます。

六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

60歳になり、他人の言葉に素直に耳を傾けられるようになった、という意味ですが、自分に置き換えてみると、実践するのはなかなか難しいですね。

30歳はまだ独身でしたので自立とは程遠く、40歳では迷いまくり、50歳で自分の使命を悟ることなど到底できませんでした。
そう考えると、60歳になっての未熟さは推して知るべしかと思います。

ただ、孔子の生きた時代は、平均寿命が現代とは大きな差があるはずです。
孔子の指す60は、今の80に相当すると勝手に解釈したいと思います。

最後に、高齢者あるあるの失敗談をひとつ。

先日、コンビニで支払いをしていたら、東南アジア出身とおぼしき店員さんがお釣りを渡しながら私の股間を指さしました。
意味が分からず、問いかけると、私の股間に触れるのではないかという距離まで人差し指を近づけてきます。
困った店員さんだな、と思っていたら・・・・

「ちゃっく、が、あいて、ます。」

たどたどしい日本語でしたが、自分の身なりがだらしがないことは十分伝わりました。
べらぼうに気まずい中、努めて明るくお礼を述べ、店をあとにしました。

歳を重ねるということは、注意が散漫になることでもあると、改めて思い知らされました。

200 恪勤精励

先日、セガレの受験が終わりました。
お陰様で第一志望の大学に合格することができました。

受験にあたり、この2年間はコロナという厄介な敵がいました。
実力不足で不合格になるのであれば諦めがつきますが、受験の土俵に上がれなくなることだけはなんとしても避けたいと思っていました。
そして、共通テスト当日には、本郷の東京大学近くで物騒な事件もありました。

親としては、勉強以外に気を配らなければならないことも多く、多難な日々でした。

合格発表は3月10日正午。
当然私は仕事でしたが、発表の10分くらい前から、そわそわして落ち着かなくなりました。
そして、カミさんから「合格!」とのLINEが届いたときは、年甲斐もなく興奮してしまいました。

セガレが合格しただけでも十分幸せな気持ちでしたが、その後、仲良くしている学校の仲間も揃って国公立大学に合格したと知り、喜びが2倍にも3倍にもなりました。

幸運なことに中学受験も大学受験もセガレは夢を叶えることができたわけですが、自分を思い返してみると挫折だらけの受験人生でした。

最初に蹴躓いたのは中学受験。
特に教育熱心な両親だった訳ではありませんが、なんとなく周りの流れにのるかように中学受験に挑みました。

受けたのは、明治大学付属明治中学校。
当時は男子校で、御茶ノ水駅近くにありました。

小学校の担任からは、合格の見込みがないから「やめなさい」と言われました。
塾の先生からは、合格しちゃうから「やめなさい」と言われました。

塾の先生の真意は、この先頑張れば東大だって狙えるかも知れないのに、小学校6年生で大学を決めてしまっていいのか、というものでした。

要するに、小学校の担任とは反りが合わず、一方、塾の先生は私を実力以上に評価してくれていました。

当の本人は、「あー、学校帰りはこのロッテリアでハンバーガーでも食うか・・」という程度の意識でした。

そして、結果は不合格。
学校の担任からは「でしょ」なんて顔をされました。
塾の先生からは「ショックかもしれないけど喜べ」と12歳には理解不能な言葉を掛けられました。

3年後の高校受験。
内申点が低いにもかかわらず、地域で最上位の都立高校を受けさせてくれ、と担任の先生に直談判しました。
先生は難色を示しましたが、私立高校はある程度の幅をもって複数受験することを条件に認めてくれました。

この時、かつて塾の先生に掛けられた言葉を思い出しました。
「努力すれば東大だって狙えるんだ・・」

若いというか純粋というか単細胞というか、大学の付属校は受けない! と決めました。
結果は予想通り都立高校は撃沈し、私立城北高等学校に進学しました。

そして迎えた大学受験。
塾の先生がちらつかせた東大には程遠い目標となりましたが、国立大学を第一志望としました。
私立も6校受験しましたが、合格をいただいたのは第6志望と第7志望の大学でした。
少なからず傷心の日々を過ごしていたところ、補欠入学打診の電話があり、紆余曲折の末に第一志望の横浜国立大学への入学を叶えることができました。

高校一年生から大学受験に向けて本格的な通塾を始めたセガレに比べると、私の受験勉強なぞ遊んでいたようなものだと思います。

セガレにとっては、中学受験の時に通っていた塾も、最近まで通っていた大学受験の塾も、先生に恵まれ、厳しくも楽しく過ごせたようで幸せな限りです。

下は、塾へ合格の報告に行った際にいただいたお祝いグッズの1つです。
さもないペットボトルではありますが、合格者だけがいただけるので、価値あるお茶ですね。
そういえば、塾の数学の先生が、合格したらサイゼリヤ食べ放題に招待するぜ、と言っていたようですが、実現する気配はないですね・・。

さてさて、親としては、お金の工面もしなくてはなりません。
入学金をはじめ、入学式に着用するスーツやネクタイ、ワイシャツ、革靴。
また、通学用の洋服、パソコン、iPad、パスケース・・・・。
結構出費はかさみます。

40を過ぎてから授かった子供ですから仕方ないのですが、退職して悠々自適な生活は、私にはまだまだ先のようです。

2000年に始めたブログが今回で200回目となりました。
暇にまかせてくだらぬこと良くも書いてきたものだと思いますが、節目の回に、喜ばしい記事が書けたことをとても嬉しく思います。