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224 刻露清秀

有難いことに、ここ1ヶ月、とても忙しい日々を過ごしています。
勤労感謝の日も終日出勤し、その後の土日も処理しなければならない仕事をかなり抱えていました。
しかし、この週末はカミさんと京都へ紅葉見物に行く計画を、半年前から立てていたのでした。

ところが、カミさんはカミさんで、母親が先々週突然入院する事態となり、そのお世話に追われることとなりました。
ドタキャンか強行か、直前まで迷いましたが、「無理せず、欲張らず」を掲げて、予定通り上洛いたしました。

初日は、お気に入りのお蕎麦屋さんで昼食をとったあと、毘沙門堂と安祥寺へ出向きました。
どちらも山科駅から徒歩圏内にありますが、清水寺や嵐山と違って穴場的存在なので、さほどの人混みではありませんでした。

毘沙門堂では、ポスターにもたびたび起用される「勅使門」につながる石段の参道や弁天堂周辺、晩翠園が、キレイに色づいていました。
参道は散り紅葉で真っ赤に染まる写真で有名ですが、その時期にはまだ早かったようです。

参考までに、この毘沙門堂は、ウオーカープラスの京都府の紅葉名所人気ランキングでは第6位に選ばれています。
https://koyo.walkerplus.com/ranking/ar0726/

安祥寺は普段は公開されていないお寺ですが、10月から11月にかけて、期間限定で特別拝観が行われています。

御朱印をいただく際に小銭を持ち合わせていなかったので、千円札をお渡しし、そのままお納めくださいとお願いしたところ・・・・、

「ささやかですが、絵はがきをお持ちください。明日は日曜日なのですが、ほかのお寺のイベントに参加するため、今日が最後の拝観日なんですよ。この時間ですから、お二人が今年最後の参拝者かも知れませんね。」

なんだかご縁を感じた参拝となりました。

2日目は、ホテルでゆっくりしたあと、穴場中の穴場、京田辺市の「一休寺」を訪れました。

正しくは酬恩庵(しゅうおんあん)といい、とんちで知られるあの一休さんが、63歳頃から88歳で亡くなられるまでの約25年間を過ごしたお寺です。

正応年間(1288〜1293年)に南浦紹明が開いた妙勝寺が前身で、その後、戦火にかかり荒廃していたものを一休和尚が再興し、師恩に報いる意味で「酬恩庵」と命名されたそうです。

京都駅から近鉄線で南へ30分ほどの新田辺駅から徒歩25分というアクセスで、近くに観光地もないことから、紅葉の見頃であっても、混雑はしていませんでした。
(我々が帰るころ、団体客がバスで訪れ、若干様相が変わっていましたが・・)

ここには一休和尚の墓所があり(下)、宮内庁が御陵墓として管理をしています。

初日の午前中は、少し不安定な空模様でしたが、総じて天候には恵まれました。
ただ、行きの新幹線はみっちり仕事、初日夜は23時過ぎまでホテルで仕事、翌朝は4時に起床してカミさんの睡眠の邪魔にならぬよう洗面所で仕事・・・・と、カミさんにはやや申し訳ない旅になってしまいました。
帰りの新幹線でもやるぞ! と張り切っていたのですが、弁当を食べ終え、PCをオンにしてまもなく、寝落ちしてしまいました。
体力がほとんどエンプティだったようです。

それでも京都の紅葉ツアーは、大いに私に鋭気を与えてくれました。
来年も訪れることができるよう、日々仕事に精進したいと思います。

221 天佑神助

私は令和初日を京都で迎えました。
そして、令和最初の神社参拝は、伏見稲荷大社でした。
ご存知の通り、全国に数多ある稲荷社の総本宮ですので、商売を営む端くれとして、京都を訪れた際はお参りさせていただいています。

京都は外国人観光客が多いことで有名ですが、中でも伏見稲荷大社の人気は別格です。
トリップアドバイザーが発表している「外国人に人気の日本の観光スポットランキング」によると、2014年から6年連続1位だったそうです。
延々と続く千本鳥居は、日本的かつ幻想的で魅力的に映るのでしょう。

先日、仕事がひと区切りついたタイミングで、半年ぶりに参拝に訪れました。
連日体温越えの気温が続き、危険な暑さと言われている最中でしたが、まもなく上半期を終えるタイミングでもありましたので、決死の覚悟で上洛しました。

伏見稲荷さんへ到着したのは、午前6時30分。
既に太陽がギラギラ照りつけていました。
そしてこの日、予想外な出来事が3つありました。

1つめの予想外は、早朝から参拝客がたくさん訪れているかと思いきや、上の通り、案外空いていました。
猛暑のせいかな? と思いましたが、本当のことは分かりません。

2つめの予想外は、授与所が7時になっても閉まったままだったことです。
以前は6時過ぎから開いていたんだけどな・・と思いながら公式サイトを調べてみると、昨年3月にコロナ対策の一環として、以下のような決定が下されていました。

お札・お守り・おみくじ・朱印(授与所)の取扱い時間について
8:00から~17:30まで

通常対応になった、と理解すればいいですね。
8月限定の御朱印に心動かされましたが、今回は授与所が開く前に失礼することにしました。

最後の予想外は、楼門手前の両側に鎮座している、狛犬ならぬ狛狐が工事中だったことです。
見えづらいのですが、下の画像の中央にある貼り紙には、以下のように記載されていました。

眷属像の塗り替え工事を行っております。
ご迷惑をおかけ致しますが、足元にご注意のうえ、ご参拝くださいますよう、お願い致します。

最初の3文字(眷属像)は、「けんぞくぞう」と読みます。
「眷属」とは神の使いという意味ですが、サラッと読めたりするとちょっとカッコイイかも知れません。

稲荷大神にとって狐は「神使(かみのつかい)」「眷属(けんぞく)」などと呼ばれています。
熊野神社の烏や八幡神社の鳩などと同じような扱いです。

ちょっと屁理屈を申し上げると、先の狛狐という表現は、正しくありません。
狛犬は、古代インドやエジプトで、守護獣として獅子(ライオン)の像を置いたのが起源といわれ、それが中国・朝鮮半島を経て日本に伝わったことから、「高麗(高句麗)の犬」が語源であることが定説となっています。
従って、狛狐という表現は、本来の意味から逸脱しています。

難しいことは置いといて、この半年、無事に商売を営むことができたお礼ができ、少し心が落ち着きました。

商売がうまくいくかどうかは、自分の努力だけではどうにもなりません。
自分と客の間には神仏が居られることを忘れずに。

真言宗の僧侶のお言葉も心に留め、今後も仕事に邁進したいと思います。

218 局面打開

大学生のとき、友人と車で伊豆半島一周旅行をしました。
途中、南西端の波勝崎苑猿園に立ち寄り、ニホンザルを見ました。
そして、おとなしく座っていた一匹の猿に近づき、並ぶようにして写真を撮りました。

「サル〜、ありがとね〜」と猿とは反対の方向を見ながら去り際に言うと、突然左のふくらはぎに痛みを感じました。
その猿が歯茎剥き出しで、私の足に噛み付いていたのです。

すぐに猿は逃げていきましたが、ズボン越しに噛まれたふくらはぎには、猿の歯型が残りました。

その夜のこと。
民宿の部屋で足を投げ出してくつろいでいた時、友人がボールペンの先で私の足に残った歯型の真ん中をつついていました。

気配を感じて振り向くと・・、

「感じないの?ヤバっ!」

確かに振り向いたのはつつかれた痛みからではなく、友人のクスクス笑う声に反応したのでした。

猿菌とかあるのかね?
何科に行くんだ?
カルテに「猿に噛まれて受診」って書かれちゃうのか?

茶化しまくる友人たちの言葉が、もはや冗談に聞こえなくなっていました。

東京に戻り、すぐにかかりつけの皮膚科医を訪ねました。

「山田さん、久しぶり。犬に噛まれたんだって?」
「あのー、犬じゃないんです・・」
「犬じゃないの??」
「はい、猿です・・」

いつも優しい斉藤先生は一瞬驚いた表情を見せ、隣りにいた看護師さんは、笑いを堪えているようでした。

結果的に大事には至りませんでしたが、それ以来、猿は私の中で怖い動物ランキングの上位になりました。
日光で猿が観光客から食べ物を奪うニュースが一時頻繁に報道されていましたが、とても私は直視できませんでした。

因みに、アクシデントの起こった波勝崎苑猿園は、昭和32年(1957)にオープンして以来、多くの観光客で賑わっていましたが、来園者が次第に減少し、2019年9月に休園となってしまいました。

https://www.asahi.com/articles/ASM9S5W09M9SUTPB01B.html

しかし、野生のサルの生命保護と近隣の農業被害の防ぐため、伊豆地域で動物園を運営する企業がクラウドファンディングを行うなど、事業の継承に努め、2020年5月7日に「波勝崎モンキーベイ」と名称を変更して復活したそうです。

ここで暮らすニホンザルたちは野生の猿です。
動物園のように檻はありません。
ただ、野生の猿ですが、食べものを人間から貰っているため、人に敵意は示さないと言われています。

私が足を噛まれたことには、何か原因があったのだと思います。
目を合わせてはいませんし、見えるところに食料は持っていませんでした。
でも、猿にとっては、私が善良な味方でなかったことは間違いありません。

私は子供のころからペットを飼ったことがないため、動物一般が比較的苦手です。
上手な扱い方や関わり方が分からないのです。
小学校低学年のころ中型犬に手を噛まれた経験のある私にとって、猿に噛まれたことで益々動物が苦手になってしまいました。

そんな私に、心を許してくれた犬が1匹だけいます。
仕事仲間の製本所で飼われていた真っ白なポメラニアンの「チャオくん」です。

チャオは私が工場に入ると、尻尾を振りながら駆け寄ってお腹を上にしてゴロンと寝転がり、「お腹をさすれ」と要求します。
そして、私がお腹をさすってあげると、極楽な表情を浮かべるのです。
それはそれは私にとって、堪らなく癒やされる時間でした。

子どもが成長して家を出たことで、ペットを飼い始めた友人が複数います。
今後を考えると、ペットに好かれるオッサンを目指すことも重要かも知れません。

217 故事来歴

先月、京都の貴船神社へ行きました。
交通の便があまり良くないこともあり、これまで参拝の機会がありませんでしたが、ようやく念願が叶いました。
朝8時前に到着すると、あの有名な撮影スポットに観光客は誰もおらず、思う存分写真を撮ることができました。

貴船神社について、公式サイトでは以下のように紹介されています。

貴船神社は万物の命の源である水の神を祀る、全国2,000社を数える水神の総本宮です。
創建年代は極めて古く、その始まりは不詳ですが約1300年前の白鳳六年にはすでに社殿造替の記録があることから、日本でも指折りの古社に数えられます。

白鳳六年をネットで調べてみると、「白鳳」は日本書紀には見られない「私年号」で、その解釈には諸説あるようです。
666年とか677年などと言われているようですが、いずれにせよ貴船神社は1350年以上前に創建されたことになります。

因みに、日本で最古の神社は、奈良県にある大神神社(おおみわじんじゃ)という説が有力です。
大神神社は、本殿を持たず、鳥居と拝殿だけで構成されているのが特徴です。
拝殿の奥にある聖山・三輪山そのものがご神体であり、原始神道の祈りのスタイルを今も受け継いでいると言えます。

私が今一番お参りに行きたい神社は、他ならぬこの大神神社です。
しかし、残念ながら、三輪山登拝は現在中止されており、「神様の鎮まるご神体山のご安泰とご参拝の皆様の健康と安全を考慮しての判断です」と発表されています。
5月8日には、新型コロナの感染症法上の位置付けが5類に移行しますので、再開の方向に舵を切るのではないかと期待しています。

話を戻します。
貴船神社は「絵馬」発祥の地としても知られています。
ただ、奈良県吉野郡に鎮座する「丹生川上神社下社」が発祥で、平城京から平安京に都が遷る際に、京都の『貴船神社』に受け継がれたという説もあるようです。
昔年のことですから、確たる文字記録がなく、正確なことはわかっていません。
解明されていないことが多いのも、神社巡りの楽しみの1つです。

なお、貴船神社には「水占みくじ」という独特なおみくじがあります。
一見ただの真っ白なおみくじですが、御神水に浮かべると、文字が浮かび上がってきます。
私は「末吉」でした。

最後におみくじに関する蘊蓄を。

最新のデータではありませんが、おみくじの6割以上は「女子道社(じょしどうしゃ)」が製造しており、全国5,000カ所以上に納めているのだそうです。

その歴史を紐解きますと、山口県周南市にある二所山田神社(にしょやまだじんじゃ)の宮本重胤宮司が、女性の社会進出を推進する機関誌『女子道』の発刊費用捻出のため、会社の印刷技術を生かしておみくじを考案し、製造のための会社として1906年に創設しました。

機関誌は戦争の時代に突入したこともあって、昭和19年頃に活動を休止しましたが、一方おみくじは順調に発展を続け、おみくじの自動販売機の設置から様々な種類のおみくじの考案をするなど「おみくじといえば女子道社」とまで言われるほど、シェアを拡大していきました。
因みに、日本初の自動販売機は「おみくじ販売機」と言われています。

おみくじが出版系に由来しているというのは、印刷業界に身を置く者として嬉しく思います。

日本には魅力あふれる神社が数多くあります。
ただ、神社参拝を楽しむためには、足腰が健康でなければなりません。
股関節に不安を抱える私ですが、少しでも長く趣味を続けられるよう、節制していきたいと思っています。

205 物見遊山

若い頃、ひとりで行動することが、あまり好きではありませんでした。
しかし、近年「ひとり旅」の楽しさを覚えました。

そもそもひとりで旅に出たきっかけは、気分転換でした。
パソコン持参で東京を脱出し、知らない土地で旅行気分を味わいながら仕事をしたのです。
近年ワーケーションという言葉を耳にしますが、ちょっぴり先取りしてたかな?なんて思ったりします。

元来、根を詰めて、がむしゃらに働き続けてもケロッとしているタチでした。
しかし、50代半ばを過ぎたころから、疲労が抜けづらくなってきました。

そもそも零細企業の経営者は、働き方改革とは対極に位置していますから、オンとオフをきっちり分けることは現実的ではありません。
そこで、場所を変えることで、心身をリフレッシュして仕事をこなしてみようと考えました。

すると、半ば旅行気分であることでいい気晴らしになり、明日の英気を養うことができました。
やるべきことをほったらかし、観光ばかりになってしまうかも・・と心配しましたが、仕事も予想以上に捗りました。

5年前は仙台、4年前は福岡、そして3年前には名古屋を訪れました。
名古屋の熱田神宮を参拝した件は既に紹介しましたが、蒲郡市にある「竹島」は大変印象的でした。

島といっても、船で渡るのではなく、橋を伝って行くことができます。
江ノ島をイメージしていただければ良いかと思います。

橋を渡った先には、八百富神社があります。
公式サイトから、一部抜粋します。

八百富神社は、安徳天皇の養和元年3月18日(1181)の創建と伝えられています。これは、1145年三河国司の三河守となった藤原俊成卿が、在任中に未開だったこの地の開拓に当たられた際、風光明媚で江州竹生島によく似ているこの島に竹生島弁才天を勧請せられたことから始まったとされています。常に清波に島脚を洗われ、自ずと禊ぎ、不浄を近づけないようで、真の霊境との名の通りであり、養和(1181)の頃俊成が当社奉斎の神境に定めました。
「江州竹生島弁財天を勧請した際、雑木林におおわれ竹がなかったこの島に、竹生島の竹を2本根こそぎ持ってきて、ご神体として植えた」との記述もあり、そのことから『竹島』と名付けられたとも伝えられています。

文中の江州竹生島は、琵琶湖の北部に浮かぶ島です。
次なる目的地はここだ、と決めました。

これまで、私にとって滋賀県は、京都へ行く際の通過地点でした。
ミルクボーイの漫才ネタで、「これといった特徴がないのが滋賀の特徴」といじられてもいますね。

しかし、調べてみると、魅力的な観光スポット(私にとってはイコール神社)が数多くありました。
嬉々として計画を立てていたさなか、コロナが襲来し、延期を余儀なくされました。
最近は感染対策に注意しながら社会活動も動かしていく方向に舵を切ってきましたので、そろそろ計画を今一度立て直そうかと考え始めています。

余談ですが、リオデジャネイロ五輪が終了した時点で金メダリストなしの都道府県は、岩手、福島、埼玉、福井、長野、滋賀、京都、鳥取、島根、香川、沖縄の1府10県だったそうです。
しかし、東京2020で彦根市出身の大橋悠依選手が、200m・400m個人メドレーで金メダルを獲得しましたので、県の歴史を塗り替えました。

また、滋賀県は糖尿病患者が一番少ないのだそうです。
毎日飲酒する人の割合は34位、毎日喫煙する人の割合は42位と、糖尿病のリスクを高めるライフスタイルとは距離があるようです。

さらに、総務省の「社会生活基本調査」でスポーツ行動者率(男女別や年齢別などの属性ごとの人口のうち、1年間の間に、スポーツを行った人の割合)をみていくと、滋賀県は全国5位。
これも糖尿病の予防につながっていると推測されますね。

164 三思後行

国内のチーズ消費量が、4年連続で過去最高を更新しているとニュースで知りました。

消費を支えているのは、中高年層だそうです。
「カマンベールに認知症予防効果」「ブルーチーズに血管年齢若返り効果」などの健康効果報道が売上げ増に寄与したと言われています。
原材料価格の上昇などにより乳業大手は値上げをしましたが、中高年層の購買意欲が勝ったと言えるでしょう。

かくいう私も、最近になって、チーズをよく食べるようになりました。
休みの日、おやつ時にカマンベールチーズをひと欠片、楽しんでいます。

きっかけは、糖質オフのお薦めおやつとして、チーズが取り上げられていたから・・。
「健康志向の中高年層」のベン図のド真ん中ですね。

ただ、チーズフォンデュはダメです。
熱せられた鍋から蒸発するワインが、下戸の私には我慢なりません。

グラタンやリゾットも、どちらかと言えば苦手です。
猫舌のくせに早食いの私には、厄介なメニューです。

子供の頃は、チーズがキライでした。
一方、父は、毎朝食べていました。

かまぼこのような形をしたチーズを、果物ナイフでスライスして食べるのですが、ネチネチした食感と、歯にまとわりつくのが苦手でした。
剰え、時間が経ち、周囲がカピカピになって若干透き通ってくると、耐え難い気分でした。

尤も、昭和40年代は、家庭で食べるチーズはせいぜいそんなものだったのかも知れません。
モッツアレラチーズやマスカルポーネチーズなんて、知るよしもありませんでした。

ところで、チーズといえば、写真撮影の決め言葉ですね。
「はい、チーズ」は時代を超えて、使われているのではないでしょうか。

はるか昔、何らかの学校行事で集合写真を撮った際、カメラマンが我々生徒の期待を裏切るセリフを発しました。

「じゃあ、皆さん、撮りますよ。せーの、1たす1は??」

はいチーズを予想していた生徒は不意を突かれましたが、一瞬考えた後、

「にー!!!」

理解できた生徒とできなかった生徒の顔は対照的でしたが、キョトン顔と笑顔が混在する、珠玉の1枚となりました。
カメラマンの技術に脱帽です。

ときに、家族でハワイに行った際、カメラのシャッターを押してくれと頼まれました。
中国からと思しき観光者でした。

「One, Two, Three, Push!!  All right?」

いちにのさん、でシャッターを押すぞ、と言いたかったのです。

「ワン・・、トゥー・・、スリー・・、フォー・・、ファイブ・・・・・・」

アレ、全然ウケない・・。

「マサミ、ファイブくらいまで数えれば全員笑うこと請け合いだ!!」
とロサンゼルスで仕込まれた撮影術なのですが、全員ポカン顔の1枚になってしまいました。
ギャグのセンスが国民性に合わなかったのか、私の英語力に問題があったのか・・。

ところ構わず、何でも言えばいいというものではありませんね。
カメラを返すときの気まずさは、今も覚えています。

158 雲水行脚

最近、ひとり旅がマイブームとなりました。
若い頃は、ひとりじゃ淋しいじゃん、と思っていましたが、歳を重ねて、ひとりの楽しさに目覚めてしまいました。

第一弾は仙台でした。
鹽竈神社表参道の石段には、体力不足を痛感させられました。
また、塩釜漁港の海鮮丼は、過去最高級の朝食となりました。

第二弾は福岡を旅しました。
念願だった太宰府天満宮参拝を叶えることができました。
また、映画の舞台にもなった宮地獄神社や、大分県まで足を伸ばして参拝した宇佐神宮は感動的でした。

そして、今春、第三弾に名古屋を選びました。
目的のひとつは「名古屋三大天神巡り」。
参拝方法は、櫻天神社、上野天満宮、山田天満宮のいずれかの神社で専用の絵馬を受け、参拝したらご朱印をいただきます。
そして、三社目の神社でご朱印を受けると、合格祈願の天神像守りが授与されるのです。
いただいた天神像守りは、絵馬と共にセガレの部屋に祀ってあります。

もうひとつの目的は熱田神宮です。
参拝したい神社は全国に数多ありますが、熱田神宮はそのひとつでした。

降りたのは名鉄の神宮前駅。
名古屋駅からわずか3駅という便利なロケーションでしたが、正門までは徒歩10分ほど要しました。

駅から近い東門から入り、帰りに正門(南門)から出ようかとも思いましたが、どうしても参道を歩いて本殿に向かいたかったので、わざわざ遠い正門を目指しました。

ただ、歩いた甲斐がありました。
広くて長い朝の参道は、清浄な空気に包まれ、心落ち着く空間でした。

本殿へ向かって歩み進めていくと、左側に大きな楠木が見えてきました。
この大楠は、弘法大師お手植えとの伝承があるそうです。
広角レンズを用いても、かなり離れないと全景を捉えられないほどの大きさでした。

そして、本殿に到着です。
ご覧の通り、まさに荘厳です。
参拝客が多く、静謐な感じを撮影するために、ちょっと時間を要しました。

ところで、熱田神宮は決して熱田神社とは称されません。
神宮とか神社などの名称は「社号」といいます。
「社号」について、神社本庁のホームページから引用します。

「神宮」「神社」の名称は、神社名に付される称号で社号といいます。

現在、単に「神宮」といえば、伊勢の神宮を示す正式名称として用いられています。
また、「○○神宮」の社号を付されている神社には、皇祖をお祀りしている霧島神宮や鹿児島神宮、また天皇をお祀りしている平安神宮や明治神宮などがあります。
このほか、石上神宮や鹿島神宮・香取神宮など特定の神社に限られています。

これに対して「神社は、その略称である「社」とともに一般の神社に対する社号として広く用いられています。
また、「宮」や「大社」などの社号もあり、「宮」は天皇や皇族をお祀りしている神社や由緒により古くから呼称として用いられている神社に使われます。
「大社」はもともと、天に国譲りをおこない、多大な功績をあげた大国主命を祀る出雲大社を示す社号として用いられてきました。しかし、現在「大社」は、広く崇敬を集める神社でも使われています。

このほか、社号と異なりますが、古くから神様の名前に「大神」や「大明神」、また神仏習合の影響による「権現」といった称号を付して、社号に類するものとして一般的に用いられ、信仰されている社もあります。

このように神社により社号は異なりますが、それぞれの神社に対する人々の篤い信仰にはいささかの変わりもありません。

難しい説明は一旦置いて、神宮号を名乗る神社は、現在24社あるそうです。

伊勢神宮、伊弉諾神宮、霧島神宮、鹿児島神宮、鵜戸神宮、橿原神宮、宮崎神宮、気比神宮、宇佐神宮、近江神宮、白峯神宮、平安神宮、新日吉神宮、赤間神宮、水無瀬神宮、吉野神宮、北海道神宮、明治神宮、熱田神宮、石上神宮、國懸神宮、日前神宮、鹿島神宮、香取神宮。

これまでに参拝したのはわずかに6社。
北海道神宮から鹿児島神宮まで、全てを参拝するのはちょっと難しそうです‥‥。

熱田神宮の参拝帰り、市営地下鉄の駅まで歩きました。
「伝馬町駅」という駅名を見て、熱田神宮にちなんでいないんだな・・と感じていたところ、今月10日、名古屋市が駅名の変更を検討している、というニュースを目にしました。

はじめて訪れた一観光者の感想は、まんざら間違いではなかったようです。

155 唖然失笑

少し前の話になります。

一昨年秋「仙台ひとり旅」に出ました。
仕事が立て込む日が続いたので、気分転換に東京を脱出したのです。

MacBookを持っていれば、かなりの仕事がこなせる現代は、便利になったとも言えますが、世知辛いと表現できるかも知れません。

いくら仕事がメインとは言え、せっかく仙台まで来たのですから、大好きな神社巡りもしました。
なかでも、陸奥国一之宮・鹽竈神社は、とても心に残る参拝となりました。

というのも、事前に公式サイトを見ていて、興味深い歴史的事実を知ったからです。

鹽竈神社の創建年代は明らかではありませんが、その起源は奈良時代以前になります。平安時代初期(820)に編纂された『弘仁式』主税帳逸文には「鹽竈神を祭る料壱萬束」とあり、これが文献に現れた初見とされています。当時陸奥国運営のための財源に充てられていた正税が六十萬三千束の時代ですから、地方税の60分の1という破格の祭祀料を受けていた事が伺われます。しかし全国の各社を記載した『延喜式』(927年完成)の神名帳にはその名が無く、鹽竈神社は「式外社」ではありましたが中世以降、東北鎮護・海上守護の陸奥國一宮として重んじられ、奥州藤原氏や中世武家領主より厚い信仰を寄せられてきました。特に江戸時代にはいると伊達家の尊崇殊の外厚く、伊達政宗以降歴代の藩主は全て大神主として奉仕してまいりました。よって江戸時代の鹽竈神社には歴代の宮司家が存在せず、実質祭祀を行っていた禰宜家がおりました。(中略)
歴史の謎
鹽竈神社は祭祀料として正税壱万束を受けていた事は前述しましたが、当時全国で祭祀料を寄せられていたのは、他に伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束の三社で共に『式内社』でありますが当社に比べ格段の差があり、国家的に篤い信仰を受けていたにも拘わらず『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというこの相反する処遇はどう解すべきなのでしょうか。

不思議な香り漂う神社です・・。
一之宮なのに式外社だなんて、これまで聞いたことがありません。

参拝当日。
はやる心を抑えて、まずは塩釜仲卸市場へ出向き、海鮮丼をいただきました。
なかなか豪勢な朝食となりました。

駐車場にはこんな車が停まっていました。
市場で早朝から働く皆さん、お疲れなんでしょうね・・。

そして、鹽竈神社の最寄り駅、本塩釜駅へ向かいました。
あいにくの曇り空でしたが、神社へ続く県道は、散策には心地よい道程でした。

徒歩7分ほどで東参道(裏坂)に到着しますが、敢えてここは通り過ぎます。
それから6〜7分ほどで、有名な表参道の石鳥居が見えてきました。

階段の数は、202段。
とりわけ騒ぐほどのことではないだろうと思っていましたが、登り切った時は、ほとんど虫の息で した・・。
自販機でお茶を買い、椅子に座ったまま、5分ほど動くことができませんでした。
神社巡りは、足腰が丈夫でないと続けられないことを痛感しました。

なお、公式サイトの「神社について」の終わりには、こんな文面もあります。

時代は前後しますが、忘れてはならないのは河原の左大臣と称された源朝臣融で、謡曲『融』の主人公にもなりましたが、その別荘の一つが後の宇治平等院、一つは洛北嵯峨の現棲霞寺となっています。融は陸奥出羽按察使に任ぜられています(『三代実録』)が実際に赴任したかどうかは不詳です。しかし塩竈の浦に深く心を寄せ鴨川の辺に六条河原院を建て、『伊勢物語』に庭に塩竈の景色を再現して毎日難波より海水を汲ませてこれを焼かせつつ生涯を楽しんだことが見えます。今もこの付近には塩竈の地名が名残として残っております。

ふーん、京の都に塩竈の風景を再現したんだ・・。
つい最近まではここまでの認識でした。

そして、先週末。
何の気なしに六条河原院について調べてみました。

すると、六条河原院は、融の死後は子の昇が相続し、その後、紆余曲折の末、結局は数度の火災で荒廃したとのこと。
そして、江戸時代になって、跡地の一部に渉成園が作られたそうです。

ん?
渉成園?
セガレを授けてくださった上徳寺さんの近くにある、あの渉成園?

あ!
その上徳寺さんの山号は「塩竈山(えんそうざん)」だ!

鹽竈神社と上徳寺に接点があったとは・・。
思わぬ偶然に、ちょっと鳥肌が立ちました。

急いで上徳寺さんのパンフレットを引っ張り出すと、その中面に、山号「塩竈山」の由来という見出しがありました。

また、塩竈山上徳寺という山号は、この五条の地は嵯峨天皇第二十一の皇子、従一位左大臣源融公が、河原に庵をつくり、池をほり、毎日、潮を三十石ばかり入れて、海底の魚介なども住まし、陸奥の塩竈、千賀の浦の景を模し、海士が塩屋のけむりをたて、趣を賞でたという史跡により、当山に塩竈明神を鎮守としてまつり、塩竈山上徳寺と号して、さきの本尊を安置した。

パンフレット、何にも読んでいなかったんですかね・・。
1年半後の大発見に、苦笑するしかありませんでした。

125 忙中有閑

10月末頃から、仕事が非常に多忙となりました。
暇な時期と足して割れるといいのですが、そう都合良くはいかないものです。

昼食を食べる時間もなく根を詰めて働きつづけ、週末すら休めない状況でも、若い頃は、さほどダメージを感じませんでした。
しかし、50歳半ばを過ぎた今、ダメージを自覚する前に、カラダを労ることも大切だと考えるようになりました。

そこで、週末に思い切って東京を抜け出すことにしました。
パソコンがあればこなせる仕事をたんまり抱え、向かったのは仙台です。

新幹線はやぶさで、東京駅から仙台駅までわずか1時間半。
やっぱり新幹線は偉大です。

土曜日の朝は、仙台駅東口のスターバックスで、食事を摂りました。
交差点の2階から見える宮城野通りは、電線が地中に埋められたとてもキレイな道路で、初冬の気配に包まれた朝の風景は、日常の喧噪を忘れさせてくれました。

食事をしながらかれこれ2時間半ほど仕事をし、ホテルに戻って続きの作業。
腹が減ったら、ホテルのとなりで牛タン定食。
おやつどきには、ずんだ餅。
そして、また、仕事。

土日2日間、こんな調子で過ごしました。
環境を変えると、気分が変わりますね。
今は、Wi-fiスポットが街中にありますので、メール送受信にも事欠きません。
早朝、深夜を厭わず、仕事ができました。

好きな神社巡りも、ちょっと叶いました。

下の写真は、榴岡天満宮です。
仙台駅から歩いても行けるこの神社は、ご詠歌の書かれた見開きの御朱印で有名です。

仕事をこなしながら、ストレス解消。
ちょっとクセになりそうな2日間でした。
次は、名古屋か新潟あたりを狙おうか・・と策を練っています。

115 冷汗三斗

私は、大学受験に際して、経営学部や商学部といった学部を選びました。
卒業後は家業を継くであろう、という至って漠然とした思いがあったからです。

いざ大学に入学すると、親しい友人が5人できました。
すると、偶然にもその中の3人が社長のセガレ、しかも「2代目」という立場でした。
身近な友人からの影響に加え、優良可の「可」が頻出する成績表を見るにつけ、徐々に家業を継ぐ道筋が鮮明になってきました。

そして、運転免許取得後、父の会社で配達などのアルバイトを始めると、ひとつの想いが頭をもたげてきました。

「零細企業は、長い休みをとることは不可能だ・・。」

若いときにしかできないことを、今、しておかないと、将来後悔するなと感じ、海外へ目を向けようと思いました。
そして、3年生の夏「ロサンゼルスホームステイとハワイの旅27日間」なるありがちなツアーに参加しました。
ひとりで海外へ・・と一念発起したわりには、大学生協(売店)の片隅に置かれていたツアーパンフから選ぶという、極めて安直というかお手軽なチョイスでした。

そのツアーの参加者は、早稲田、中央、青学、京大、同志社など全国から集まった男子12名、女子21名、合計33名の大学生たちでした。
英語が堪能な者は皆無でしたし、20歳そこそこの若者集団でしたから、なかなかの珍道中でした。

現地で困ったことのひとつは、レストランのメニューでした。
英語で書かれたメニューは、ChickenやBeef, Rootbeerなど、断片的にしか理解できません。
従って、注文は「Hotdog & Coke」「Hamburger & 7up」など、定番モノに偏ってしまいました。

ある週末、オプションのツアーでラスベガスへ行ったときのことです。
ホテルのレストランで、ひとつ年下の早大生・Naokiが聞き慣れないメニューをオーダーしました。
「オレ、フレンチディップにしました。」
「なにそれ?途轍もないものが出てきたらどうする??」
「まあ、いいっす。ハンバーガーもちょっと飽きてきたんで。」

しばらくすると、Naokiのテーブルに、スープが運ばれてきました。
味見をしたNaokiが、
「Masamiさん、これ、スープっすかね?ちょっと飲んでみます?」
「どれどれ・・・・。ああ、コンソメスープだね。先に飲んじゃった方がいいね。」
「そうっすよね。」
「ちょっと濃いめだけどね。」
「アメリカンは薄いばっかりじゃないんだぞって、日本に帰ったら友達に説明してやりますか!」

ガハハと笑って、Naokiはスープを飲み干し、浅はかな若者たちは、楽しく食事を済ませました。
因みに、フレンチディップとは、フランスパンにローストビーフが挟まれたサンドイッチでした。

会計をして店から出ると、Naokiが浮かない顔をしていました。

「Masamiさん、さっき入口近くで現地のオジサンが、オレと同じもん食べてたんすよ。それがね、スープにサンドイッチを浸して食べてるんです。そういうもんなんすかね・・・・。」
「歯が悪いんじゃないのか?日本にもいるじゃん。コーヒーにパン付けて食べる老人。」
「でも、あのサンドイッチ、堅いフランスパンだったじゃないですか。だから、スープに・・・・。」
「けど、あれはスープだったじゃないか、コンソメスープだっただろ?」
「濃かったじゃないですか、あれ、飲むんじゃなくて、浸すためのスープなんですよ!」
「まあいいじゃないか、先に飲んじゃったって特別変じゃないだろ。」
「変ですよ!天ぷら屋に入った外国人が、いきなり天つゆを飲んじゃったのと同じなんですよ!」

この出来事は「天つゆ事件」と呼ばれ、このツアーの伝説になりました。

さて、このフレンチディップ、私は、後にも先にもあの時にしかお目に掛かっていません。
ネットで検索してみると・・・・、

LA名物、ローストビーフやパストラミなどのサンドイッチを牛肉スープに浸して食べる「フレンチディップ・サンドイッチ」。フレンチとは言えフランスとは無関係。20世紀初頭、最初に食べた人の名がフレンチだったとも、フレンチロール(ソフトタイプのフランスパン)を使うからとも言われている。発祥も諸説あり。有名な一つが、調理場でうっかり肉汁に落ちたサンドイッチを客が食べ「こりゃ旨い」と評判になったというもの。どこかその味わいに通じる、大らかな都市伝説だ。(山崎製パン株式会社サイトより改変)

やはり、アレは飲んじゃいけないんですね(笑)。

ロサンゼルスに向かう機上の人となったのは、昭和57年8月20日。
あれから35年の時が流れました。