投稿者「izuart」のアーカイブ

199 鐘鼓之楽

  • The Loco-Motion / Grand Funk Railroad
  • The Hustle / Van McCoy & the Soul City Symphony
  • That’s The Way (I Like It) / KC and The Sunshine Band

洋楽が好きになったきっかけは、上のどれかだったように思います。
これらディスコミュージックは、思春期の私の心を見事に抉りました。
The Loco-Motionの歌い出しは、何度聴いても鳥肌が立ちました。

それから、The RunawaysとBlondieは衝撃的でした。

The RunawaysのCherie Currieがガーターベルトで歌う姿はセンセーショナルでしたし、Joan Jettは怪しすぎて怖いくらいでした。

Blondieには、”Heart of Glass” ,  “Sunday Girl” ,  “Dreaming” ,  “Call Me” ,  “The Tide Is High” , “Denis”・・・・と、大好きな曲がいっぱいありました。
そして、何をおいても、高校生のワタシにとって、Deborah Harryはあまりにも妖艶であり、官能的で刺激的でした。
当時の写真を今見ても、ちょっぴり心臓がチクチクします。

そして、私のコンサート初体験は、1980年に日本武道館で行われたVillage Peopleです。
高校の同級生と連れだって行きました。
40年以上経っても、”Macho Man” , “In The Navy”, “Y.M.C.A.”に熱狂した夜は忘れられません。

しかし、何故か、摩訶不思議なことに、初めて「ひとりで」鑑賞したコンサートは、かなり路線の異なる、石黒ケイさんでした。
日仏会館だったか岩波ホールだったか記憶は定かではありませんが、小さな会場で客は50人ほどだったような気がします(そんなことはないか・・)。
途中で10分ほど休憩をはさんだのですが、「休憩の間に帰らないでね・・」と話した姿は「オレに向かって言ったんじゃないか!?」なんて胸にしみ入るような距離感でした。

そのコンサートで彼女が身にまとっていたのが、黒いレザーのジャケット。
正に、下のアルバムジャケットのような姿で、とてもステキに映りました。

石黒ケイさんはワタシより学年で4つ年上。
20歳前の年若な男子学生にとって、一番憧れちゃう年齢のド真ん中だったのかも知れません。

その数日後、アメ横に行きました。
あのジャケットを探しに行ったのです。
オレもあういうジャケットを着るぞ! とコンサート中に思いは決していました。

革ジャンは様々な商品が陳列されていましたが、ジャケットは品揃えが少なく、値段も安くありませんでした。
学生なんだから安くして! と店のおっちゃんと小競り合いの末に、買った覚えがあります。

その後の大学生活の大半は、革のジャケット・合皮のネクタイ・ジーンズ・ウエスタンブーツという出で立ちで過ごしました。
真面目でおカタいイメージだった我が母校では、「共通一次で入ってきた学生は程度が低い・・」という印象を与えた先鋒だった気がします。

 

また、初めて行ったライブハウスは、我々の年代ならば誰もが知っている新宿のルイードでした。
山下久美子さんやシャネルズ(ラッツ&スター)らが巣立った場所として有名なルイードで、何故か私が見に行ったのは麻生よう子さん。

下戸でしかも未成年だった私は、ひとりで行く勇気がなかったのですが、親友のI君が付き合ってくれました。
麻生よう子なの??なんて笑いながらも気持ちよく付き合ってくれた彼は、友達思いの優しい男でした。
なのに、コークハイがまずくて飲めなかったという記憶ばかりで、ライブの印象が何ら残っていません。
背伸びして少し飲んだコークハイで、頭痛を起こしていたのだと思います・・・・。

麻生よう子さんはデビュー曲の「逃避行」が大ヒットしたことで有名です。
「そーれがなーきゃ、いい人なのーに・・」と歌っていたのが18歳のときだったそうで、昔の人は大人びていたんだな、と改めて感じます。
1977年に発売されたシングル「102号室」もいい曲でした。
2007年発売Essential Bestの12曲目に収録されている「夕風」も情緒あふれる名曲です。
個人的には、演歌要素に舵を切らず、ポップス路線を歩んで欲しかったな・・、なんて思っています。

198 好機到来

40年前、成人式の朝、母が「おめでとう」と声を掛けてくれました。
ご飯を食べながら、ちいさく頭を下げました。

すると、後日「あのとき、なんだか嬉しかったわあ」と母に言われました。
私にしてみれば、額ずいたわけでもなく、箸を動かしながら軽く会釈した程度だったのですが、20年育ててくれた母には、諸々去来するものがあったのでしょう。

あれから40年。
カミさんが「おめでとう」と言ってくれた還暦の誕生日。
胸中をかすめたのは、老人の入口に到達したなという思いでした。
区役所から届いた銭湯の割引入浴券も、そんな気持ちを増幅させたように思います。

60歳の異称としては「還暦」が最も一般的ですが、耳順、杖郷、杖者、丁年、下寿、華寿など様々あるようです。
5年以内に股関節の手術をする、と医師に宣言されている身にとっては、「杖」という漢字が妙に気になります。
往代の60歳は、多くが杖をついていたのでしょうか。

股関節痛のほかにも、腰痛、肩こり、首の痛みも抱え、胃腸も決して強くありません。
カラダの中もいろいろ経年劣化が起こっていますが、鏡を見れば、齢60の顔はかなり器量が悪くなっています。

世はオミクロン株の感染拡大で、日々感染者数の国内記録を更新中。
必然的に家にいることが多く、ましてやセガレの受験も控えているので不要不急の外出はしない、ゴルフもしばらく行かない・・・・。

今でしょ! とばかりに急遽向かったのは皮膚科。
意を決して、顔のシミを除去してまいりました。

お世話になったのは、駅前に昨年オープンしたクリニック。
白を基調とした真新しい施設で、スタッフは全員女性。
そして、週末の待合室は、4割ほどが若い女性。
アトピーやニキビなどの治療というより、美容的な訳合いで訪れている人が多いのでしょうか。

そもそもいい歳のオッサンが・・・・という気恥ずかしさで、なかなか皮膚科へ足を踏み入れられなかったのですが、案の定、居心地が悪くなってきました。

名前を呼ばれ、診察室に入ると、私のそんな気持ちなど知るよしもなく、医師はテキパキと説明を始めました。
動揺を隠せないオッサンは、正直話半分といった状況でしたが、結論的には、なんとかマックスという機器で、レーザーを照射することと相成りました。
しかも、初回はお試しコースで割安なんだとか・・。

20分ほど待ったあと、顔中にバチッバチッと数十発、銃撃されてまいりました。

女性スタッフの優しい語り口や物腰は、処置開始直後からくすぐったいような照れくさいような気分が拭えませんでしたが、「クリームは顔に塗るのではなく、優しく置くように心がけてくださいね」などと言われながら時間を過ごしていると、徐々に心地よくなっていく様に気付きました。
日数が経って顔のあちこちにあるシミが少し改善されるのを実感したら、ひょっとして癖になるかも知れない、なんて思いにも駆られました。

次はヒアルロン酸だ、次は白玉注射だ、脱毛もするか??
とエスカレートしないように気をつけたいと思います。

197 万能一心

人気動画サイトYouTubeが誕生したのは、2005年の2月だそうです。
最初の動画は、共同創設者のJawed Karim氏が、サンディエゴ動物園でゾウの檻の前に立っているわずか18秒のものだったとか。

今年8月に総務省情報通信政策研究所が発表した『令和2年情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書』によると、YouTubeの利用率は全年代で85.2%でした。
取りわけ、10代から40代で90%を超えているのは特筆すべき現象と思います。
50代は81.2%、60代でも58.9%と世代を超えて浸透しており、誕生からまだ17年に満たないにもかかわらず、その普及度は目を見張るものがあります。
(自分は60代のカテゴリーなのか!と、誕生日以降、こういう時に心理的抵抗感を感じます・・)

また、ソニー生命保険が7月に発表した「中高生が思い描く将来についての意識調査」によると、男子に関しては中学生も高校生も「YouTuberなどの動画投稿者」が、将来なりたい職業の第1位でした。
YouTuberの正確な年収は公表されていないようですが、Hikakinさんやはじめしゃちょーさんなど、1億以上と言われている方も珍しくなく、あまたの1,000万円超えがいるそうです。
私が子供の頃の人気職業は「プロ野球選手」が鉄板だった気がしますが、子供たちにとって夢がある職業も、時代と共に大きく変化しているようです。

さて、私も、そこそこYouTubeを視聴しています。
上記58.9%に属する訳です。

最近、はまっているのは、ロッド・スチュワートのYouTubeチャンネルです。
中でも、2004年10月にロンドンのRoyal Albert Hallにて行われたコンサート映像がお気に入りです。

最初に感動したのは、見慣れぬ女性とデュエットする「I don’t want to talk about it」。
その女性、若干素人のような佇まいですが、歌は上手だし、美人でスタイル抜群だし、ちょっと衣装がセクシーだし・・、というわけで調べてみたところ、スコットランド出身のエイミー・ベル(Amy Belle)という歌手でした。
当時22歳のエイミーはまだ無名でしたが、ロッド・スチュワートの一夜限りのライヴに招待されてデュエットしたのだそうです。

また、名曲「Sailing」は、ステージと会場が一体になって、鳥肌ものです。
エンドロールを迎える頃には泣きそうです。
終わり間近の投げキッスも、さりげなくて印象的です。

そして、私が最も好きなのは、ロン・ウッド(Ronnie Wood)と共演している「Maggie May」です。
とにかくHappyな映像です。
凹んでいるとき、疲れているとき、元気をもらえます。
因みに、この「Maggie May」、元々はシングル「Reason to believe」のB面だったそうです。
(A面、B面という話に、うちのセガレはきょとん顔でした。)

「Hot legs」など、舞台上をパワフルに駆け回っているシーンを数多く目にしますが、驚くことに、この時ロッド・スチュワートは59歳。
今の私とほぼ同年齢で、赤いシャツを羽織り、黄色いジャケットを鮮やかに着こなし、時にお茶目に、時にクールに、10曲以上をライブで披露しているわけです。

同じ男としてこんな風に歳を重ねられたら・・と憧れますが、顔もスタイルも足の長さも全く異次元なので、望むべくもありません。
ただ、端整な顔立ちや魅力的なハスキーボイスは生まれ持ったものかも知れませんが、ミュージシャンとして長く活動している裏側には、隠れた努力の積み重ねがあるのだと思います。
若い頃の画像よりもカッコイイぞ!と思える59歳のロッド・スチュワートは、加齢、衰退、枯凋に抗うためには相応の努力が必要だ、と教えてくれるようで、私には大きな刺激となっています。

そう言えば、大学の同級生でロッド・スチュワートが大好きな女性がいましたっけ。
コロナ禍で叶いませんが、昔の友人たちと還暦同窓会をしたいなあと思ったりします。

196 半知半解

ひょんなことから埼玉県に久伊豆神社という名の神社があることを知りました。
しかも、同名の神社が岩槻市内に9社、越谷市内に8社鎮座しているそうです。
埼玉に(久)伊豆?と、俄然好奇の念が湧きました。

参拝記録の前に、久伊豆神社について少々講釈を。

久伊豆神社という名称は私にとって非常に新鮮だったのですが、実はこの名称を持つ神社は、埼玉県神社庁に登録されているだけでも44社あります。
しかも、元荒川流域に集中して鎮座しています。
限られた地域にのみ数多く存在する社名というのは、さほど珍しくもないようですが、その所以は、そのエリアで勢力を誇った武家集団などから篤い崇敬を受け、共に深く根付いていったためと言われています。

ちょっと話が逸れますが、埼玉県には「大宮氷川神社」という有名な神社があります。
(正しくは「武蔵一宮 氷川神社」です。)
毎年、初詣人出客ベスト10にランクインする、氷川信仰系の総本社です。
「氷川」名の社は、埼玉と東京を中心に実に280社以上が鎮座しており、荒川流域に数多分布していますが、久伊豆神社が多く鎮座する元荒川流域には、ほとんどその姿は見られません。
互いの境界を侵すことなく祀られている様子は、昔の勢力分布を見るようで、興味深いですね。

話を戻します。
久伊豆神社へ行く前に、加須市にある玉敷神社へ向かいました。
ここは、江戸時代まで「勅願所玉敷神社、久伊豆大明神」と称されており、各地に分霊された久伊豆神社のご本社ではないかと言われています。

当社は第42代文武天皇の大宝3年(703)東国道巡察使多治比真人三宅麿により創建されたと伝えられ、平安時代の前期第60代醍醐天皇の延喜5年 (927)に公布された律令の施行細則「延喜式」にその名を記す千有余年の歴史をもつ古社である。(中略)
江戸時代に入って元和年間(1620前後)騎西城城主大久保加賀守の時現在の地に遷座し以来明治に至まで当神社は「勅願所玉敷神社 久伊豆大明神」と称され、埼玉郡(現南北埼玉郡)の総鎮守、騎西領48ヵ村の総氏神として崇められ・・・・・・。
(「全国神社祭祀祭礼総合調査  神社本庁  平成7年」より抜粋)

玉敷神社は、延喜式神名帳に「武蔵国埼玉郡 玉敷神社」と記載されている式内社で、社号碑にも「延喜式内 県社 玉敷神社」と書かれています(画像では上部が欠けていますが・・)。

社伝によると、玉敷神社がこの地に遷座される(寛永4年・1620年頃)迄、宮目(みやのめ)神社がこの地の地主神として鎮座していました。

この宮目神社は、延喜式にも記されている歴史のある古社ですが、何故か境内末社となりました。
即ち、ここには式内社が2つ存在することになります。

余談ですが、玉敷神社という名称の神社は、国内で唯一ここだけだそうです。

玉敷神社を後にして、さいたま市岩槻区にある久伊豆神社に行きました。
この神社は、1987年に『史上最大!第11回アメリカ横断ウルトラクイズ』の国内第二次予選会場になったことで、急に知名度が上がりました。
予選会場に選ばれた理由は、「久伊豆」が「クイズ」とも読めるから。
昔から、クイズ番組の制作者はこの神社を参拝するのが通例だったそうですが、テレビ放送をきっかけに、一般にもクイズ神社としても親しまれるようになったようです。

境内ではクジャクが飼われており、オリジナル御朱印帳にもクジャクのイラストがあしらわれています。

次に向かったのは越谷市にある久伊豆神社です。

長い参道の先、第三鳥居をくぐるとすぐに藤棚があります。
その奥には池もあり、ベンチで寛げるとともに、パワーをいただけそうです。

ところで、「久伊豆神社」の名称の由来は、結局分からずじまいですが、公式サイトに御由緒が紹介されていました。

ご祭神が大己貴命久伊豆神社は今から約千五百年前の欽明天皇の御代(539~571)、出雲族の土師氏が東国へ移住するにあたりこの地に出雲族の親神たる大已貴命(大国主命)を勧請したのが始まりとされています。。
出典:https://www.hisaizu.jp/infomation.html

久伊豆神社は久伊豆大明神と古来氏子・崇敬者から崇められてきた、国造りの大神・縁結びの神・福の神として知られる大国主命(大国さま)と、その御子神で父神と共に代表的な福の神である言代主命(恵美須さま)を主祭神とし、また配祀として大国主命の御女子神である高照姫命、言代主命の御妃である溝咋姫命、そして皇祖天照大御神の第二の御子であり、出雲国造いずものの祖先神である天穂日命の三柱を奉斎しています。
出典:https://www.hisaizujinja.jp/about.php

これを見る限り、伊豆(いず)の語源は、出雲(いずも)なのだろうと想像がつきます。
少なくとも、伊豆半島と無関係であることは、間違いなさそうです・・。

注)上記参拝記録は、2016年に訪問した内容をここで書き上げたものです。
従って、現状と異なる記述があるかも知れませんが、ご寛容願います。

195 犬馬之歯

先週木曜日、60歳(還暦)になりました。

還暦で思い出すのは、長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の「今日、初めての還暦を迎えまして・・」というユニークなコメントです。
自分はまだまだ先のことだと思っていましたが、あっという間でした。

平均寿命が長くなり、還暦を長寿の祝いとする習慣は薄れてきましたが「節目の特別な誕生日」という感覚はまだ根強いようで、周囲の方々からお祝いをいただくことが続きました。

以前このブログでも紹介しましたが、あるお客様からは大きな紅白まんじゅうをいただきました。
そして、古くからお付き合いのある紙問屋の営業さんからは蘭の花をいただきました。

また、私が10年以上幹事を務めているゴルフコンペのメンバーから、祝いの品を頂戴しました。
しかも、コンペ終了後のパーティーの席でのサプライズな演出に驚かされました。
いただいたのはポロシャツとカステラのセット。
ポロシャツは私がお気に入りのメーカーでしたし、カステラは私が甘党と知ってのチョイスです。
その心遣いが、二重に嬉しかったですね。

さらに、仕事つながりの4人でゴルフに行った際にも、お祝いをいただきました。
東京オリンピック、ゴルフ日本代表とお揃いのポロシャツを頂戴したことにもビックリしましたが、私の名前と蠟燭60本のイラストが印刷された真っ赤なオリジナルTシャツまでいただき、感動しました。

ハッピーバースデーハットを被り、本日誕生日のタスキをかけた朝イチのティーグラウンドでの写真もありますが、品位等の諸事情を鑑み、非公開とさせていただきます。

それから、兄弟と呼び合う一回り年下のお客さんは、2人だけの食事会を企画してくださいました。
そして、記念の品として、金沢の銘品「金かすてら」をいただきました。
デラックス感は写真でも十分伝わると思います。
リッチで幸せな気分に浸ることができました。

そして、義母からもお祝いの食事会をしよう、とお誘いいただき、叙々苑で高級ランチをご馳走になりました。
こちらが長寿のお祝いをしなければいけないのに、立場が逆転してしまいました。

最後に、小学校の同級生からも贈答品が届きました。
半世紀以上の付き合いになるこの仲間とは、2年に一度京都旅行をしており、なぜか私は「隊長」と呼ばれ、取り纏め役を仰せつかっています。
いただいたのは、私の大好物、京都からのお取り寄せ「権太呂なべ」です。
車海老、蛤、白焼き穴子、鶏肉、生麩などを、絶品の出汁でいただきます。
翌日はおじやにして、もう1日楽しむことができます。

破顔一笑、豪華絢爛、阿鼻叫喚、珍味佳肴、愉快適悦・・。

歳をとることは豊かで素敵なことなのだ、と皆さんから教えられたような気がします。
そして、家族や友人には本当に恵まれたと改めて感じました。

改めて60という年齢に思いを馳せたとき、ピンと来ないというのが正直な心境です。
息子として生まれ、結婚して夫となり、子を授かって父となり、会社の経営を引き継いで社長となり、様々な立場を経て、60歳になりました。

・親孝行な子であったろうか。
・家族思いの夫であったろうか。
・尊敬される父であったろうか。
・社員を守る経営者であったろうか。

顧みると、明らかに反省点が多いです・・。
無駄に歳を重ねてきた面も認めざるを得ません。

歳を重ねることが怖いと思ったことはありませんが、加齢を感じる事象に接するたびに、希望が少しずつ失われていくような想いを感じていました。
今後は、寄る年波を静かに受け入れつつ、時には少し抗い、自分に構うことを忘れず、残りの人生を全うしていきたいと思っています。

194 不将不迎

若い頃から股関節に違和感がありました。

初めて医師の診察を受けたのは40代の頃。
親しかった、大学病院の整形外科部長に診ていただきました。

ちょっと変だなと感じた時はこんなストレッチをしていました、と努力の一端を告げると「なんで余計なことするかなあ、そもそも先天的なものだから治らないよ」と叱られました。
治らないんですか?と確認すると「治らないどころか年齢とともに悪化するよ」と宣告されました。

そして、予言は的中しました。
痛みを感じる頻度が増し、数年前からは、遂に正座や胡座が出来なくなってしまいました。

そんなとき、仕事でお世話になっている80歳代の女性社長さんが、人工股関節手術を受けたと聞きました。
明日は我が身。
自分の症状を伝え、今後の道標となるはずのお話しをたくさん伺いました。

その社長さんは、最近では「調子はどう?痛い?」と仕事の話の前に、必ず私の体調を気遣ってくださいます。
早く専門医に診てもらいなさい、と親身な忠告を再三受け、また、お友達のご主人が同じ手術を受けた医師まで教えていただきました。

ずっとのらりくらり過ごしていましたが、昨今は痛みも増してきたため、そろそろ潮時かと観念し、今年6月、ご教示いただいた股関節の専門医を訪ねました。

レントゲンを撮ったあと医師の問診を受け、若い頃から違和感があったこと、そろそろ潮時だと観念し、意を決して受診に来たと告げました。

レントゲンの結果では特に異常が見当たらず、医師は私をベッドに寝かせ、足を様々な方向に曲げては「痛い?」と聞きました。
どこを押されても、どの方向に曲げられても痛みを感じないので「痛くないです」と返事を繰り返す私を椅子に座るよう促したあと・・、

「まあ、潮時ではないよね(笑)」
「え?入院や手術といった宣告を覚悟してきたんですが・・。」
「今はまだそういう段階ではないよ。」
「先生、こんなに痛いのに、そんなあっさり帰さないでくださいよ」
と冗談めかして言う私に半ば呆れた医師は、私をもう一度ベッドに寝かせ、「これは」「ここは」と曲げたり押したりを繰り返しました。

「大きな問題はないと思うけど、MRI検査で詳しく調べてみましょう。」とその日は一件落着となりました。

後日、MRI検査を受けた後、診察室で先日の医師が画像を見ながらマウスをスクロールしていると、先生の手が突然止まりました。
モニターには、真っ白な円が写し出されていました。

「これか」と言う医師。
「あちゃ、腫瘍だ」と思い、心がザワザワする私。
「これね、水。ガングリオンって聞いたことある?」

素人が勝手に腫瘍だと早とちりしたことを恥じるとともに、医師の説明を聞きました。
結局のところ「変形性関節症」との診断で、水を抜いても痛みの除去には結びつかず、残念ながら根本的な治療方法はないことでした。

「運動しないのはダメだけど、過度な運動もよくないです。治療方法もないので今後は経過観察ということになります。一番納得いかないかな?」

そんな診断から数ヶ月。
本日、改めて医師の診断を受けましたが、特に変化はありませんでした。

「先生、あと10年、 もちますか?」と尋ねると、
「今、59歳でしょ。うーん、多分ムリだね。5年後には手術だと思っていた方がいいと思います。」
「手術って、人工・・」
「そう、人工股関節。」

覚悟はしていましたが、少々ショッキングな宣告でした。
でも、とてもフランクで、信頼できる医師だと感じました。

将来、手術を受けることになった時、生活習慣病を持っていると厄介なことになるので、太らないように節制してください、とも言われました。

60目前にして、放縦な生き方を戒めるきっかけとなりました。
過ぎたことは悔やまず、そして、まだ見ぬ未来をアレコレ気に病むことなく、元気な老人を目指して、小さな努力を積み重ねていこうと思っています。

193 面目一新

1974年、テレビドラマ「寺内貫太郎一家」が大ヒットしました。
このドラマを見ないで翌日学校に行くと、友達との会話に参加できないくらい、私の学校では皆こぞって見ていました。
それもそのはず、平均視聴率は31.3%だったそうです。

主役を演じたのは、作曲家の小林亜星さん。
ほかに出演していた俳優さんも、今もって鮮明に覚えています。

寺内貫太郎の奥さん役は加藤治子さん、長女で足に障害を持つ役柄を演じたのが梶芽衣子さん、そしてその弟役が西城秀樹さん。
貫太郎の母親役は悠木千帆(樹木希林)さんで、お手伝いさん役が浅田美代子さん。
石屋の職人役は、伴淳三郎さんと左とん平さんという喜劇役者の2人。
それから、由利徹さんは花屋の主人役、篠ヒロコさんは居酒屋の女将さんで、その店の謎めいた常連客役が横尾忠則さん。
そして、梶芽衣子さんの恋人役が藤竜也さんで、このときの藤さんは、子供ながらにスゲーカッコイイ人だなあと感じていました。

47年前に放映されたドラマですから、残念ながら多くの出演者がお亡くなりになりました。
主役を演じた小林亜星さんは、今年5月、88歳でご逝去されました。

なお、余談ですが、当時中学生だった私は、主役を演じている太っちょなオジさんが、著名な作曲家であることを知りませんでした。

亜星さんのプロフィールをネットで見ることができました。

逓信省(現総務省)官僚の父と、小劇場の女優だった母の間に生まれ、父方の祖父が医師だったため、父から「将来は医師になれ」と言われて育つ。
一方、幼少期から音楽が大好きでバンド活動も行っていたが、猛勉強して慶大医学部に進学。
しかし、入学後、父に内緒で経済学部に転部したことが卒業時にバレて勘当。
大学卒業後は日本製紙に就職したものの、約1カ月で退社。
その後は紙問屋を立ち上げて営んでいたものの、大好きな音楽の道に進むことを決断し、作曲家・服部正さんに師事。

慶応の医学部に合格したにも関わらず、音楽の道を選んだと知り、驚きました。
また、日本製紙に就職したこと、そして、紙問屋を興したことにまたまた驚きました。
亜星さんが紙問屋のままでいたら、寺内貫太郎一家はどうなっていたことか・・。

現実の話、東京都の紙商(紙問屋)は、全盛期170社以上ありましたが、現在は70社ほどに減っており、その数はもう少し減るだろうと予想されています。

そもそも、紙の生産量は2000年をピークに減少しており、2020年には減少幅が4割近くに達しました。
ペーパーレスの進行に、新型コロナが追い打ちをかけた格好です。

また、近年の特徴として、衛生用紙の生産量が新聞用紙に迫っています。
要するに、高齢者向けオムツの需要が増えて、新聞離れが進んでいるということです。
現代社会を真っ正面から映し出していますね。

広告ひとつ取っても、オンラインが中心となり紙に代表されるオフライン広告は衰退の一途です。
しかし、保存がしやすい、記憶に残りやすい、質感を感じることができるといった、紙ならではのメリットを心に秘め、紙文化の継承に微力を尽くしていきたい思いです。

天国の亜星さんも、きっと、紙業界の行く末を心配されていることかと思います。

192 知己朋友

先日閉幕した東京オリンピックでは、柔道やスケートボードのようにメダルを量産した種目があった一方、期待通りの結果を残すことができなかった種目もありました。
その代表格がバドミントンでしょう。

最大の番狂わせは、世界ランキング1位・桃田選手の一次リーグ敗退です。

その翌日、女子ダブルス世界ランキング2位のナガマツペアこと永原・松本ペアが、最終ゲームを26対28で失い、準々決勝敗退。
その数時間後、同1位のフクヒロペアこと福島・廣田ペアも釣られるように敗れました。
ベスト4に進出していたら、日本人ペア同士の対決だったのですが、その前の試合で共に敗れるという皮肉な結果となりました。

女子シングルスの奥原選手(同3位)、山口選手(同5位)も揃って準々決勝で姿を消しましたが、混合ダブルスのワタガシペア(渡辺・東野ペア・同5位)が銅メダルを獲得し、一矢報いることができました。

勝負は時の運とも言います。
必ずしも強い者が勝ち、弱い者が負けるとは限りません。

数々のトラブルに見舞われながら、オリンピックの舞台で戦った桃田選手の姿は王者そのものでしたし、フクヒロペアの廣田選手は膝に大怪我を負ったにも関わらず、不屈の精神で試合に臨みました。

日の丸を背負い、勝って当たり前という重圧は、私には計り知ることすらできません。
まずは、ゆっくり休んでいただきたいと思います。

かくいう私も、高校ではバドミントン部に所属していました。
といっても全国大会などとは無縁の実力で、最高位は東京都男子ダブルス新人戦でのベスト8です。

コンビを組んでいたのは、同級生のコバヤシ君。
入部してまもなくペアを組み、高3の夏まで一緒にプレイしました。

私は試合になると闘志を前面に出すタイプでしたが、コバヤシ君は飄々とプレイするタイプ。
得意なパターンは、ワタクシが前衛、コバヤシ君が後衛に回っての攻撃。
キレのあるスマッシュを連続で打ちまくるコバヤシ君と、甘いレシーブを見逃すまいと前衛で動き回るワタクシのコンビネーションが自慢でした。

コバヤシ・ヤマダのコバヤマペアは(そう呼ばれてはいませんでしたが)、シード権を持っていたので、2回戦から出場することが常でした。
しかし、2年生のとき、危うい対戦がありました。

試合直前、お互いコートで軽く打ち合うのですが、相手チームの放つショットが、どうひいき目に見ても我々より上だな、と感じました。
最初の試合で負けてしまうと、次の大会からはシード権を失うことになります。

真っ直ぐなコバヤシ君は、普段通り試合前練習を続けていました。
一方、不埒な私は、何か策はないかと頭を巡らせていました。

弱ったな、とシャトルを打ち合う相手のユニフォームを何気に見遣ったそのとき、私の中で電球がピカッと点灯しました。

私は2Fの応援席を眺め、一番気の利く後輩のアオキに向かって、すぐにコートへ降りるよう合図を送りました。
そして、コバヤシ君にちょっと待ってと声をかけ、駆け降りてきたアオキに知恵を授けました。

そろそろ試合開始の時間。
トスをしてサーブ権を決めていたそのとき、相手チームの主将に向けて本部席へ来るよう館内放送が流れました。
対戦相手のペアは怪訝な表情をしていましたが、そんなことは意に介さず、「頼むぜ、コバヤシ!」と檄を飛ばし、気合い十分を装いました。
そして、試合が始まってまもなく、再び館内放送が流れました。

「第☆コートの☆☆高校の選手は、大会規定のゼッケンを着けていないため、失格といたします。」

憮然とした面持ちの相手チーム。
落胆する応援席の女子部員。

キョトン顔のコバヤシ君。
笑いを隠すのに精一杯のワタシ。
2階席でガッツポーズする後輩アオキ。

部活を引退するまで、シード権はなんとか死守することができました。

卒業式の日、大学に行ってもバドミントンを続けると言っていたコバヤシ君。
大学では、まず彼女探しだと、邪な道を歩む宣言をした私。
40年以上疎遠になっていますが、還暦を迎えるにあたり、ぜひ会ってみたい1人です。

バドミントン部に関して、忘れられない思い出がもう1つあります。

入部してまもなく、学校で実力試験(校内模試)が実施され、ワタクシ、学年8位の成績を取りました。
そのニュースを知った2年生のウエノ先輩から声を掛けられ、2学期の試験結果も報告するよう命じられました。

迎えた2学期の実力試験。
私は順位を1つ上げ、学年7位となりました。
それを知ったウエノ先輩は、3年生のアオキ部長(ガッツポーズのアオキとは別人です)にこう報告したそうです。

「1年生の山田が2回続けて実力試験で好成績を上げました。ひょっとするとワタナベさん以上かも知れません。」

ワタナベさんは私より5〜6つ上の先輩で、現役で一橋大学に合格した、バドミントン部史上最強の秀才です。

「山田、ワタナベさんのことは知ってるな。期待しているから頑張れ。」
アオキ部長直々に呼び出され、そう発破を掛けられました。

私の通っていた高校は男子校で、1クラスがおよそ55人。
A組からN組までありましたから、1学年750人以上の生徒がいたことになります。
その中での7位です。
なかなか立派だと思いませんか。

そうこうしているうちに3学期の実力試験。
その結果は・・・・
110位。

ウエノ先輩から、コテンパンにしごかれました。
「お前のせいでオレまでアオキ部長に叱られたんだぞ、バカヤロー!」
だからまぐれだって言ったじゃん・・と思いながら、ホントは優しいウエノ先輩のしごきに耐えました。

ウエノ先輩は昨年還暦を迎えたんだなあ。
アオキ部長はさらに1つ上か・・。
先輩たちにも会ってみたいなと、還暦オヤジはノスタルジックになるのでした。

191 理世撫民

昨日、東京オリンピックが閉幕しました。

ライバル都市のマドリードとイスタンブールを破って、開催都市に選出されたのが2013年9月。
IOC・ロゲ会長(当時)の「TOKYO!」から8年近くの歳月が流れたことに驚きました。

私にとっては、自分が生まれ育った町で2度目の開催となるオリンピック。
これはかなり幸運と言ってよいかと思います。

これまでに夏季オリンピックを複数回開催した都市は、パリ、ロンドン、ストックホルム、ロサンゼルス、アテネで、東京を含めても6都市しかありません。

3度行われたのはロンドンのみで、他は2度。
ただ、2024年パリ、2028年はロサンゼルスでの開催が予定されていますので、どちらも3度目となりますね。

前回の東京大会は、1964年10月。
私はまだ3歳でしたので、空に描かれた五輪マークも、東洋の魔女の活躍も、残念ながら記憶に残っていません。

そして、東京2020。
3歳の幼児は、還暦間近のオッさんになりました。
今回はぜひ生で観戦、と思っていましたが、新型コロナの影響で無観客になってしまったのは予想外でした。

自分が住み、働く町で開催されているにも関わらず、どことなく遠くに感じた東京五輪。
交通規制により車の移動が制限され、確かに自国で開催されていた東京五輪。
テレビの前で、今日はどの種目を応援しようかと、独特のワクワク感があった東京五輪。
「過去最多を更新」というニュースに、メダリストか感染者かと迷った東京五輪。

17日間にわたる戦いは、心に残る場面の連続でした。

・バドミントン女子ダブルスで、フクヒロペアを破った中国ペアが、試合後に廣田選手の患部を気に掛け、ハグしたシーン。
・最後の大技を失敗して泣いているスケートボードの岡本選手を、他国の選手が担ぎ上げたシーン。
・ソマリアの難民で若い頃に母国を離れた2人の選手がオランダとベルギーに国籍を移して臨んだ男子マラソンで、2人揃ってゴール前スパートし、銀メダルと銅メダルを獲得したシーン。

1年延期や無観客など、異例づくしのオリンピックだったことの裏返しなのか、国籍や人種、勝敗を超え、健闘を讃えあう場面をたくさん目にしました。
そして、全力で戦ったアスリートたちに、政治的な壁は存在しませんでした。

世界各国から集まった一流選手たちのパフォーマンスに多くの感動を覚えた一方で、国内の新型コロナウイルス感染者数は拡大の一途でした。
パラリンピックがまだ控えていますが、兎にも角にも対策をより強く進めないといけません。
まん延防止等重点措置の適用が、8県に追加されました。
政治家は、これから益々勝負の時を迎えるのだと思います。

そんな中、金メダルを噛んだ某市長には閉口しました。
人を非難するコメントはあまり気乗りがしませんが、「迷惑をかけているのであれば、ごめんなさい」という言いぐさで、許容範囲を超えました。
不快に思った人がいないなら謝る必要はないという論理は、心からお詫びするという言葉と大きく矛盾します。
きちんと謝罪ができない人間に、正しい政治判断ができるでしょうか。

苦しい環境にも屈することなく努力を重ね、金メダルを獲得した勇敢なアスリートの輝かしい功績を汚さぬため、この映像がネット上から早く消えて欲しいと思います。

地位にあぐらをかいた特権意識の消えない政治家。
ひょっとしたら、この改善がコロナ収束のカギを握っているのかも知れません。

190 古色蒼然

若い頃、多くの車はマニュアル車でした。
エンジンを止めるときは、決まってアクセルを踏んで回転数を上げてから、キーを抜きました。

これを「ブリッピング(空吹かし)」と呼ぶそうです。

その理由のひとつとしては、1960年代半ば頃まではキャブレターと呼ばれる機械式の燃料供給装置が主だったことです。

ブリッピングする理由は、次回のエンジンスタートの際に燃焼室にガソリン成分が残っていて始動しやすいようにするためという人もいます。
実際、高出力エンジン搭載車の場合には、大口径のキャブレターを装着されていた車種が多かったといいます。

そのため、クルマを止める直前に低回転で走行していると供給される燃料に対する燃焼のバランスが崩れ、「プラグがカブる(燃料やスラッジによってスパークプラグの着火が悪くなる)」ことを嫌っていたことがその始まりのようです。

・・・・なんて知ったかぶりをしましたが、上記はネット記事の受け売りです。
私は車のメカニックに関しては全くの無知で、若い頃、単車にもまるで興味がありませんでした。
私の世代としては、少数派かも知れません。

先述のブリッピングもそうですが、昔は常識で、一般的で、正論だったけれど、現代は変わってしまったことを思い浮かべてみました。

「いい国作ろう鎌倉幕府」

我々の年代では「鳴くよウグイス平安京」と双璧の、鉄板語呂合わせです。
ところが最近の研究で、鎌倉幕府は段階的に成立したとする見方が強くなり、1185年が鎌倉時代の始まりとする説が有力なのだそうです。
即ち「いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府」が新定番になります。
なんかしっくりこないですね。

また、子供の頃、一万円札は「聖徳太子」と呼ばれていました。
今となっては死語大賞候補です。
それもそのはず、聖徳太子から福沢諭吉になったのが1984年ですから、もう37年も前。
数年後、渋沢栄一に変更されたら、益々存在感が薄れてしまいますね。

この聖徳太子、最近の教科書では「厩戸王(うまやとおう)」と表現されることが増えたのだそうです。

古典で聖徳太子という呼称を確認できるのは、死後100年以上経った8世紀半ば。
「日本書紀」には「厩戸皇子」との記述があるものの、「皇子」という尊称は聖徳太子より後の7世紀後半に用いられました。
そこで、聖徳太子の時代に使われていた「王」を用いて厩戸王と呼ぶようになりました。

聖徳太子のころは皇太子や摂政といった制度もまだ確立されていなかったとみられ、「摂政として国を支えた」などの表現も使われなくなっているのだそうです。

また、一万円札を聖徳太子と呼んでいた頃、家の財布を握っている妻を、「大蔵省」と呼んでいましたっけ。
いまだに「財務省」という単語に詰まることはあっても、「大蔵省」はすんなり口を突いて出ます。

お金といえば、日本最古の貨幣は「和同開珎(わどうかいちん)」であると小学校で学びました(私は「わどうかいほう」という読みで習いました)。
ところが、1998年に奈良県の飛鳥池遺跡にある7世紀後半の地層から見つかった「富本銭(ふほんせん)」が、最も古い貨幣と認められました。

近年は、「鎖国」や「士農工商」も、その後の研究の結果、教科書に登場しない傾向だそうです。
日本史においては、新しい歴史的発見があったり、研究者の間で議論が進むと、教科書の内容は更新されるのですね。

昔の知識や記憶が通用しなくなるのは残念ですが、人間一生勉強だ、ということですね。