過日、私の本棚に並ぶ本について書きました。
死刑や犯罪、重大事件に関する本が多いのは事実ですが、最近は神社に関する本も読んでいます。
中でも、先日読み終えた「なぜ日本人は神社にもお寺にも行くのか(島田裕巳著・双葉社発行)」は、とても有益で楽しい本でした。
その第五章で、ヘルマン・オームスというアメリカの日本学者が作成した図が紹介されていました。
「日本人の死生観図式」と題されたこの図は、ひとりの人生が円で表現されていて、上半分は「成長過程」、下半分は「祖霊化過程」と呼ばれています。
要するに、上半分は生まれてから死ぬまでの過程で、その間、日本人にはどういった「通過儀礼」があるのかが示されています。
通過儀礼とは、人生において大きな変化が起こるときに行われる儀式のことで、成人式・結婚式・葬式の3つが最も重要とされています。
もちろんそれ以外にも様々な機会が用意されていますが、特に、生まれてすぐと死んで間もない段階に集中しています。
生まれて7日目、命名をする「お七夜」をはじめ、初参り・お食い初め・七五三など、成長過程の通過儀礼では神社に行くことが多く、お寺が関わってくることはほとんどありません。
それが、死んだ後の祖霊化過程になると、一転してお寺と関わることになります。
葬式は仏式が大半ですし、その後の初七日・四十九日・百か日・一周忌以降の年忌法要は、お寺が司ることになります。
このように、神社とお寺の間で、役割分担が明確になっていることが、この図の重要な点です。
多くの日本人は、神社とお寺の役割分担に従って、通過儀礼を果たしていきます。
それによって、神社とお寺は「棲み分け」を果たすことで共存していると言えます。
共存しているということは、私たちにとって神社だけでは不十分ですし、お寺だけでもダメであり、これこそが、日本人の宗教生活の基本であるということになります。
年末年始の日本人の行動は、よく議論の対象になっています。
キリストの生誕を祝うクリスマスにはケーキを食べ、大晦日にはお寺の除夜の鐘を聞き、元日には神社に初詣に行くからです。
世界的には不思議とされるこれらの行動に違和感を感じないのは、キリスト教の神様ですら八百万の神々の中のひとつと考えて受け容れる、日本人の宗教的感覚に対する寛容さによるものでしょう。
神社とお寺について書かれたこの本は、多方面で勉強になりました。
そして、最後のページには、以下の文言がありました。
若い頃は刺激的なイベントにこころを奪われていた人でも、年を重ねるにつれて、こころを癒やしてくれるものにひかれていきます。そのときに、神社やお寺は、急に興味深いものに思えてきます。
私が神社に興味を抱いたのは、52~53歳の頃。
なるほど・・、典型的な中年なのか・・。