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226 炊金饌玉

早いもので、2024年が始まり、早2週間が経ちました。
食レポではありませんが、今年経験した外食にまつわる話を記したいと思います。

まずは、日本橋三越本館2階にあるカフェウィーンです。

下戸の私は、甘いものが大好きです。
お気に入りのスイーツはたくさんありますが、その1つがカフェウィーンのザッハトルテです。
ウィーンを代表するチョコレートケーキ・ザッハトルテと、その脇に乗せられたちょっと堅めの生クリームが、ホットコーヒーと相性抜群なのです。

上の写真は、カフェウィーンの店内です(出典  HANAKO https://hanako.tokyo/food/52539/)。
三越の公式サイトでも「優美な内装は、まるでウィーンの伝統的なカフェハウスのよう」と紹介されています。

ケーキが美味しいのは勿論のこと、大理石のテーブルと赤いベルベットのソファ席が醸し出すレトロな雰囲気にも、非常に魅かれていました。
カミさんと日本橋へ買い物に行った際は、赤いソファで休もう、が合言葉になっていました。

「いました」と過去形で表現したのは、状況が変わってしまったからです・・。
1月7日午後、カミさんと行ってみると、ソファーが茶色に変わっていたのです。
あまりにショッキングで、写真を撮り忘れました。

昨年12月は、赤いソファーでした。
いろいろ調べてみると、仙台三越にあるカフェウィーンが茶色いソファーのようです。
つい最近、日本橋も同じ路線に変更したのでしょうか・・。

長い間、ケーキの陳列棚が故障していたり、首が折れそうな白鳥型の器が足りなくて「フィルシメルバ」が提供中止になったり、そんなことは気になりませんでしたが、赤いソファーがなくなってしまったことは、本当に残念でなりません。

X(旧 Twitter)やInstagramで検索しても投稿は見当たりません・・。
残念がっているのは、私だけではないはずですが・・。

 

次は、小学校の同級生との新年会@横浜の話題です。

20代の頃から、スキーに行ったり、バーベキューをしたり、コテージに泊まったり、このメンバーとはいろいろなイベントを企画し、遊んできました。
そして今も、隔年で京都旅行に出掛けたり、年に数回、食事会を催しています。

小学校の同級生と未だに深い交流があるということに驚かれるときがありますが、総勢9名という人数にもビックリされます。
ただ、先日の横浜での新年会は、3名欠席者がおり、6名(男女各3名)での開催でした。

場所は、山下公園近くの「スカンディア」。
このお店はデンマーク人のご主人を持つ女性が、本格的なスカンジナビア料理を出す店として、1963年にオープンした歴史あるお店です(人間ならば昨年還暦です)。
2ヶ月以上前に予約をし、重厚感あるシックな雰囲気の2階で、ランチコースをいただきました。

この店は、指揮者のカラヤンさんや美空ひばりさん、井上陽水さん、桑田佳祐さんなど、多くの有名人が訪れた店としても有名です。

しかし、最も有名なのは、ユーミンが松任谷正隆さんと婚約後、両家の顔合わせ場所としてこの2階を貸し切りで使ったこと、ではないかと思います。
ドルフィンと並ぶ、ユーミンゆかりのスポットなのです。

ユーミンは中央フリーウェイで知られるように八王子市の出身ですが、横浜山手教会で結婚式を行い、横浜ニューグランド・ホテルで披露宴を挙げたそうで、横浜を愛していたのでしょう。

横浜国大出身の私としては、横浜が第2の故郷であるはずなのですが、40年という年月が経ち、知らないスポットがあまりにも増えてしまいました。

横浜駅東口なんて何にもなかった、横浜市営地下鉄は走っていなかった、みなとみらいなんて地名はなかった、首都高速と横浜新道は繋がっていなかった・・・・、なんて言うと、老人の戯言になってしまいますね。

級友と語り合う時間はとても楽しく、リフレッシュできましたし、久しぶりに訪れた横浜は、非常に新鮮でした。
「羽沢横浜国大」という母校名が付いた新駅もできたことですし、横浜の魅力を大人目線で感じるために、近々、改めて遊びに行きたいと思っています。

学生時代、大学よりも足繁く通ったボーリング場が閉店した跡地も確認したいですね。

212 読書三余

読書三余。

この四文字熟語の解説は、「福島みんなのNEWS」サイトにわかりやすく掲載されています。
(http://fukushima-net.com/sites/meigen/411)

読書・勉学をするのに好都合な三つの余暇(自由に使える時間)のことを表しています
一年のうちでは冬、一日のうちでは夜、気候では雨降りをいいます。

出典は『三国志』魏(ギ)志・王肅(オウシュク)伝の注です。

中国三国時代(A.D.220~280)、魏の大司農(ダイシノウ:今の財務大臣)董遇(トウグウ)が、その弟子に教えた勉強法です。

董遇は、弟子に最初から教えようとせず、まず自分で書物を熟読すべきことを説きました。
『読書百遍 義自(おの)ずから見(あら)わる』
まず書物を百回繰り返して読め。百回読めば自然に理解できるようになると弟子たちに教えました。

弟子の一人が「私には、書物を百回も読む暇がありません」と答えました。
すると董遇は「暇がないことはないでしょう。三余にしなさい」と言いました。

三余とは何ですかとの問いに、
冬は歳(とし)の余、夜は日の余、陰雨は時の余なり
1)冬は一年の余り、
2)夜は一日の余り、
3)雨降りは時の余りである
と答えました。

この話は「董遇三余」とも呼ばれています。
余は「余暇」の意味です。自由に使える時間と言う意味です。
「晴耕雨読」が生活の基本であった当時、
農作業の忙しくない季節である冬と、
一日のうちでは夜と、
雨降りの時が
余暇になります。

暇がないと騒ぐのは、今も昔も勉強したくない者の言い訳のようです。

この言葉の奥義は、最後の1行に集約されていますね。

私も、繁忙期になると本を読む時間がないと感じる「勉強しなくない者」の典型です。
思い返してみると、ここ数ヶ月、読書時間は著しく減っていますし、書店にもあまり行っていません。
この正月期間は、読書に時間を割きたいなと思っていました。

そんな中、昨夜、衝撃的なテレビ番組を見つけました。

「NHKスペシャル未解決事件・松本清張と帝銀事件 第1部ドラマ 事件と清張の闘い」です。

帝銀事件とは、1946年、銀行員らに液体を飲ませて12人を殺害し金銭を奪った、戦後最大のミステリーと呼ばれている事件です。

事件から約7ヶ月後、逮捕されたのは小樽在住の画家・平沢貞通氏。
彼は、裁判で終始無実を訴え続けながら、1987年に95歳にて獄中死しました。

作家の松本清張氏は、この帝銀事件をはじめ、下山事件や松川事件など、アメリカ軍占領下で発生した重大事件について独自の視点で真相に迫り、「日本の黒い霧」というノンフィクションを出版しました。

私がこの本に出会ったのは、高校生の時。
平沢貞通という男は、贖罪の念を全く持たない卑劣極まりない人間なのか、あるいは、無実の罪を着せられた極めて痛ましい人なのか・・。

高校生のどこかのスイッチが、オンになった瞬間でした。
その後、事件や事故、死刑制度などの本をたくさん読みました。

そんなちょっと変わった読書癖のきっかけになった本が、ドラマ化されたのです。
昨今、テレビドラマを見ることはほとんどありませんでしたが、昨夜は1時間半、テレビに釘付けになりました。

帝国銀行椎名町支店、松井蔚氏の名刺、青酸ニトリール、テンペラ画家・・。
45年も前に読んだ本が、アタマを巡りました。
青春時代に心揺さぶられたことは、長い時間を経ても忘れないものだな・・と感じました。

大沢たかおさんの鬼気迫る演技も秀逸でした。
今夜9時から放映される第2部が、今から楽しみでなりません。

204 鸞翔鳳集

6月6日、桑田佳祐さんの新曲「時代遅れのRock’n’Roll Band」のミュージックビデオがYouTubeで公開されました。

佐野元春さん、野口五郎さん、世良公則さん、Charさんとの豪華共演で、しかもこの5名は同級生なのだそうです。

桑田さんが、4人それぞれに手紙を送り、所属事務所にデモ音源とともに自ら足を運んで説得したという時代遅れな方法で実現したと知りました。
桑田さんの人柄が感じとれるエピソードですね。

しかし、こんな大物がこぞって同級生だなんてホントかな?
厳密には1人はちょっと年上ですが、なんてエクスキューズがあるんじゃないかな?

ちょっと怪しい匂いを感じ、調べて見ました。

  • 桑田佳祐さん:1956年2月26日生 神奈川県出身
  • 佐野元春さん:1956年3月13日生 東京都出身
  • 野口五郎さん:1956年2月23日生 岐阜県出身
  • 世良公則さん:1955年12月14日生 広島県出身
  • Charさん       :1955年6月16日生 東京都出身

あっぱれです。
文句なしの同級生でした・・。

 

このMVは、現時点で既に320万回以上再生されており、その数字は日に日に伸びています。
私も20回以上鑑賞させていただきました。
スペシャルな面々が各々の持ち味を出していて、聞き応え、見応え満点です。

歌詞のそこかしこにも、桑田さんの才能を感じます。
「力の弱い者が 夢見ることさえ 拒むというのか」
このフレーズはあの人に向けてのメッセージなんだと思います。

また、このMVには2名の特別出演がいます。
原由子さんとハマ・オカモトさんです。

それから、もう1人。
重要な役どころを演じている「特別友情出演」の大友康平さんも忘れてはなりません。

  • 大友康平さん:1956年1月1日 宮城県出身

なんと、先の5名と同級生で、またまた驚きました。

特別友情出演になった理由は「ギターが弾けないから」だそうで、大友さんのオフィシャルブログには、以下のような逸話が紹介されています。

桑田から「大友にも声をかけなかったら、あとで何を言われるかわからないからなあ」の一言には笑えたなあ。

近年の大友さんしか知らない若い世代の方は、ロックンローラーというより、CM「いすゞのトラック」のイメージの方が強いかも知れませんね。
私は、ミュージシャンでありながらコメディアンのようにトークも面白い大友さんの大ファンで、ある事件以来、親近感すら感じています。

その事件とは・・、

年に数回、ゴルフコンペで顔を合わせるRさんという方がいます。
以前、同じお客様に出入りしていた業者仲間という立場で知り合った間柄です。

4〜5年ほど前にコンペでお目に掛かった際、こう声を掛けられました。

「前から思ってたんだけどさ、山田さん、大友康平にチョー似てるよね。」

「え?言われたことないっすよ・・」

過去に似ていると言われたのは、金山一彦さん、辰吉丈一郎さん、西山浩二さんなど・・。
大友康平さんはこの時が初めてでした。

周囲で聞いていた方も「似てる似てる」と笑いながら反応していましたが、本人としては少なからず不服でした。

そんなことがあった1ヶ月ほど後、某大学病院のエレベーターでのこと。
点滴スタンドを転がしながら70歳くらいの男性患者さんが、看護師さんに付き添われて乗ってきました。

「何階に行かれますか?」

と声を掛けたところ、

「あんた、大友康平に似てるって言われるだろ?」

と、出し抜けに言われました。

「ん?2度目だな・・」と思った私は「はい、たまに・・」と申し上げると、

「だよな!そっくりだよなあ!」

狭いエレベーター内でご満悦な点滴オジサン。
同意を求められ、必死に笑いをこらえる看護師さん。

1ヶ月ほど前に納得いかないなあと思ったことを、初対面の方から指摘された訳です。
しかも、コロナ前のマスクをしていない時期のことですから、これは受け入れるしかありません。
私のプロフィールに追加させていただくことといたしました。

MVで演じている三枚目の役柄は、確かに私と共通点が見い出せます。
それにしても、病院内でいきなり声を掛けられるほど、似ているのかなあ・・。
入院生活に少し飽きていて、からかう相手を探していたのかなあ・・。

点滴オジサンが、今日を元気で過ごされていることを祈りたいと思います。

199 鐘鼓之楽

  • The Loco-Motion / Grand Funk Railroad
  • The Hustle / Van McCoy & the Soul City Symphony
  • That’s The Way (I Like It) / KC and The Sunshine Band

洋楽が好きになったきっかけは、上のどれかだったように思います。
これらディスコミュージックは、思春期の私の心を見事に抉りました。
The Loco-Motionの歌い出しは、何度聴いても鳥肌が立ちました。

それから、The RunawaysとBlondieは衝撃的でした。

The RunawaysのCherie Currieがガーターベルトで歌う姿はセンセーショナルでしたし、Joan Jettは怪しすぎて怖いくらいでした。

Blondieには、”Heart of Glass” ,  “Sunday Girl” ,  “Dreaming” ,  “Call Me” ,  “The Tide Is High” , “Denis”・・・・と、大好きな曲がいっぱいありました。
そして、何をおいても、高校生のワタシにとって、Deborah Harryはあまりにも妖艶であり、官能的で刺激的でした。
当時の写真を今見ても、ちょっぴり心臓がチクチクします。

そして、私のコンサート初体験は、1980年に日本武道館で行われたVillage Peopleです。
高校の同級生と連れだって行きました。
40年以上経っても、”Macho Man” , “In The Navy”, “Y.M.C.A.”に熱狂した夜は忘れられません。

しかし、何故か、摩訶不思議なことに、初めて「ひとりで」鑑賞したコンサートは、かなり路線の異なる、石黒ケイさんでした。
日仏会館だったか岩波ホールだったか記憶は定かではありませんが、小さな会場で客は50人ほどだったような気がします(そんなことはないか・・)。
途中で10分ほど休憩をはさんだのですが、「休憩の間に帰らないでね・・」と話した姿は「オレに向かって言ったんじゃないか!?」なんて胸にしみ入るような距離感でした。

そのコンサートで彼女が身にまとっていたのが、黒いレザーのジャケット。
正に、下のアルバムジャケットのような姿で、とてもステキに映りました。

石黒ケイさんはワタシより学年で4つ年上。
20歳前の年若な男子学生にとって、一番憧れちゃう年齢のド真ん中だったのかも知れません。

その数日後、アメ横に行きました。
あのジャケットを探しに行ったのです。
オレもあういうジャケットを着るぞ! とコンサート中に思いは決していました。

革ジャンは様々な商品が陳列されていましたが、ジャケットは品揃えが少なく、値段も安くありませんでした。
学生なんだから安くして! と店のおっちゃんと小競り合いの末に、買った覚えがあります。

その後の大学生活の大半は、革のジャケット・合皮のネクタイ・ジーンズ・ウエスタンブーツという出で立ちで過ごしました。
真面目でおカタいイメージだった我が母校では、「共通一次で入ってきた学生は程度が低い・・」という印象を与えた先鋒だった気がします。

 

また、初めて行ったライブハウスは、我々の年代ならば誰もが知っている新宿のルイードでした。
山下久美子さんやシャネルズ(ラッツ&スター)らが巣立った場所として有名なルイードで、何故か私が見に行ったのは麻生よう子さん。

下戸でしかも未成年だった私は、ひとりで行く勇気がなかったのですが、親友のI君が付き合ってくれました。
麻生よう子なの??なんて笑いながらも気持ちよく付き合ってくれた彼は、友達思いの優しい男でした。
なのに、コークハイがまずくて飲めなかったという記憶ばかりで、ライブの印象が何ら残っていません。
背伸びして少し飲んだコークハイで、頭痛を起こしていたのだと思います・・・・。

麻生よう子さんはデビュー曲の「逃避行」が大ヒットしたことで有名です。
「そーれがなーきゃ、いい人なのーに・・」と歌っていたのが18歳のときだったそうで、昔の人は大人びていたんだな、と改めて感じます。
1977年に発売されたシングル「102号室」もいい曲でした。
2007年発売Essential Bestの12曲目に収録されている「夕風」も情緒あふれる名曲です。
個人的には、演歌要素に舵を切らず、ポップス路線を歩んで欲しかったな・・、なんて思っています。

197 万能一心

人気動画サイトYouTubeが誕生したのは、2005年の2月だそうです。
最初の動画は、共同創設者のJawed Karim氏が、サンディエゴ動物園でゾウの檻の前に立っているわずか18秒のものだったとか。

今年8月に総務省情報通信政策研究所が発表した『令和2年情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書』によると、YouTubeの利用率は全年代で85.2%でした。
取りわけ、10代から40代で90%を超えているのは特筆すべき現象と思います。
50代は81.2%、60代でも58.9%と世代を超えて浸透しており、誕生からまだ17年に満たないにもかかわらず、その普及度は目を見張るものがあります。
(自分は60代のカテゴリーなのか!と、誕生日以降、こういう時に心理的抵抗感を感じます・・)

また、ソニー生命保険が7月に発表した「中高生が思い描く将来についての意識調査」によると、男子に関しては中学生も高校生も「YouTuberなどの動画投稿者」が、将来なりたい職業の第1位でした。
YouTuberの正確な年収は公表されていないようですが、Hikakinさんやはじめしゃちょーさんなど、1億以上と言われている方も珍しくなく、あまたの1,000万円超えがいるそうです。
私が子供の頃の人気職業は「プロ野球選手」が鉄板だった気がしますが、子供たちにとって夢がある職業も、時代と共に大きく変化しているようです。

さて、私も、そこそこYouTubeを視聴しています。
上記58.9%に属する訳です。

最近、はまっているのは、ロッド・スチュワートのYouTubeチャンネルです。
中でも、2004年10月にロンドンのRoyal Albert Hallにて行われたコンサート映像がお気に入りです。

最初に感動したのは、見慣れぬ女性とデュエットする「I don’t want to talk about it」。
その女性、若干素人のような佇まいですが、歌は上手だし、美人でスタイル抜群だし、ちょっと衣装がセクシーだし・・、というわけで調べてみたところ、スコットランド出身のエイミー・ベル(Amy Belle)という歌手でした。
当時22歳のエイミーはまだ無名でしたが、ロッド・スチュワートの一夜限りのライヴに招待されてデュエットしたのだそうです。

また、名曲「Sailing」は、ステージと会場が一体になって、鳥肌ものです。
エンドロールを迎える頃には泣きそうです。
終わり間近の投げキッスも、さりげなくて印象的です。

そして、私が最も好きなのは、ロン・ウッド(Ronnie Wood)と共演している「Maggie May」です。
とにかくHappyな映像です。
凹んでいるとき、疲れているとき、元気をもらえます。
因みに、この「Maggie May」、元々はシングル「Reason to believe」のB面だったそうです。
(A面、B面という話に、うちのセガレはきょとん顔でした。)

「Hot legs」など、舞台上をパワフルに駆け回っているシーンを数多く目にしますが、驚くことに、この時ロッド・スチュワートは59歳。
今の私とほぼ同年齢で、赤いシャツを羽織り、黄色いジャケットを鮮やかに着こなし、時にお茶目に、時にクールに、10曲以上をライブで披露しているわけです。

同じ男としてこんな風に歳を重ねられたら・・と憧れますが、顔もスタイルも足の長さも全く異次元なので、望むべくもありません。
ただ、端整な顔立ちや魅力的なハスキーボイスは生まれ持ったものかも知れませんが、ミュージシャンとして長く活動している裏側には、隠れた努力の積み重ねがあるのだと思います。
若い頃の画像よりもカッコイイぞ!と思える59歳のロッド・スチュワートは、加齢、衰退、枯凋に抗うためには相応の努力が必要だ、と教えてくれるようで、私には大きな刺激となっています。

そう言えば、大学の同級生でロッド・スチュワートが大好きな女性がいましたっけ。
コロナ禍で叶いませんが、昔の友人たちと還暦同窓会をしたいなあと思ったりします。

193 面目一新

1974年、テレビドラマ「寺内貫太郎一家」が大ヒットしました。
このドラマを見ないで翌日学校に行くと、友達との会話に参加できないくらい、私の学校では皆こぞって見ていました。
それもそのはず、平均視聴率は31.3%だったそうです。

主役を演じたのは、作曲家の小林亜星さん。
ほかに出演していた俳優さんも、今もって鮮明に覚えています。

寺内貫太郎の奥さん役は加藤治子さん、長女で足に障害を持つ役柄を演じたのが梶芽衣子さん、そしてその弟役が西城秀樹さん。
貫太郎の母親役は悠木千帆(樹木希林)さんで、お手伝いさん役が浅田美代子さん。
石屋の職人役は、伴淳三郎さんと左とん平さんという喜劇役者の2人。
それから、由利徹さんは花屋の主人役、篠ヒロコさんは居酒屋の女将さんで、その店の謎めいた常連客役が横尾忠則さん。
そして、梶芽衣子さんの恋人役が藤竜也さんで、このときの藤さんは、子供ながらにスゲーカッコイイ人だなあと感じていました。

47年前に放映されたドラマですから、残念ながら多くの出演者がお亡くなりになりました。
主役を演じた小林亜星さんは、今年5月、88歳でご逝去されました。

なお、余談ですが、当時中学生だった私は、主役を演じている太っちょなオジさんが、著名な作曲家であることを知りませんでした。

亜星さんのプロフィールをネットで見ることができました。

逓信省(現総務省)官僚の父と、小劇場の女優だった母の間に生まれ、父方の祖父が医師だったため、父から「将来は医師になれ」と言われて育つ。
一方、幼少期から音楽が大好きでバンド活動も行っていたが、猛勉強して慶大医学部に進学。
しかし、入学後、父に内緒で経済学部に転部したことが卒業時にバレて勘当。
大学卒業後は日本製紙に就職したものの、約1カ月で退社。
その後は紙問屋を立ち上げて営んでいたものの、大好きな音楽の道に進むことを決断し、作曲家・服部正さんに師事。

慶応の医学部に合格したにも関わらず、音楽の道を選んだと知り、驚きました。
また、日本製紙に就職したこと、そして、紙問屋を興したことにまたまた驚きました。
亜星さんが紙問屋のままでいたら、寺内貫太郎一家はどうなっていたことか・・。

現実の話、東京都の紙商(紙問屋)は、全盛期170社以上ありましたが、現在は70社ほどに減っており、その数はもう少し減るだろうと予想されています。

そもそも、紙の生産量は2000年をピークに減少しており、2020年には減少幅が4割近くに達しました。
ペーパーレスの進行に、新型コロナが追い打ちをかけた格好です。

また、近年の特徴として、衛生用紙の生産量が新聞用紙に迫っています。
要するに、高齢者向けオムツの需要が増えて、新聞離れが進んでいるということです。
現代社会を真っ正面から映し出していますね。

広告ひとつ取っても、オンラインが中心となり紙に代表されるオフライン広告は衰退の一途です。
しかし、保存がしやすい、記憶に残りやすい、質感を感じることができるといった、紙ならではのメリットを心に秘め、紙文化の継承に微力を尽くしていきたい思いです。

天国の亜星さんも、きっと、紙業界の行く末を心配されていることかと思います。

177 三密瑜伽

まもなく8月が終わります。
少し気の早い話題ですが、今年の流行語大賞は新型コロナウイルス関連が、大半を占めることになるでしょう。

濃厚接触、クラスター、オーバーシュート、ソーシャルディスタンス、ステイホーム、テレワーク、フェイスシールド、不要不急、オンライン飲み会、東京アラート、大阪モデル、8割おじさん、アベノマスク・・。

思いつくだけでも多々ありますが、私の中では「三密」が大賞候補です。
言うまでもなく、密閉・密集・密接です。

また、新たな三密という記事をどこかで読みました。
新聞だったか、ネットだったか忘れましたが、およそ以下のような内容で、感心しました。
  • 今後の人生や生活を綿密に考え直す
  • ソーシャルディスタンスを維持しつつ濃密な関係を築く
  • 人や場所とのつながりを親密に感じながら日々を楽しむ

以前のような生活がすぐに戻ることはないでしょうから、新たな生活様式を頭で理解し、実践していかなければならないでしょう。
それは詰まるところ「簡素」な方向へに舵を切ることになるのでしょうが、過度にならないようにしたいと思っています。

カミさんが早起きして作ってくれるお弁当は、美味しくて抜群に安全ですが、行きつけのお店で食べるランチは、仕事の気分転換に有効です。
デパ地下は、見ているだけで幸せな気分になります。
また、健啖家の義母を、大好きなホテルのビュッフェに連れていってあげたいなあ、とも思います。

様々な感染症を克服してきた歴史からも、この困難を賢く乗り越えられる日が来ると信じたいと思います。

ところで、そもそも三密には「空海がひらいた真言宗をはじめとする密教の教え」という意味があるそうです
そういえば、高尾山に「三密の道」と記された門があるという報道を思い出しました。
ネットを調べてみると、東京新聞6月16日WEB版に関連記事を見つけました。(https://www.tokyo-np.co.jp/article/35764)

「『三密』は、真言宗の教えにある言葉です」。
高尾山薬王院の法務部長、堀江承豊さん(61)が解説してくれた。「三つの密」とは、真言宗(密教)では「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」のことで、それぞれ正しい行い(身)、正しい言葉(口)、正しい心(意)を心掛けるための修行を指すのだという。
(中略)
堀江さんは「宗教的な意味と異なる『三密』が広まってしまった」と苦笑しながら、「本来の教えを今の生活に生かすこともできる」とも語る。「感染する恐れがある行為は行わない」(身密)「感染者や医療従事者らへの誹謗(ひぼう)中傷を行わない」(口密)「周囲の人にいたわりの心を持つ」(意密)−。気持ちがすさみがちな今だからこそ、「三密を意識することが大切なのではないでしょうか」と訴える。

悲しいニュースに心がざわつくこともありますが、自分の心と向き合いながら、真心を込めた行動や発言を心がけたいと改めて思いました。

終わりに・・、

世の男性たちの多くは、初めて「三密」と聞いたとき、壇蜜さんを思い浮かべたことと思います。
ワタシもその1人です。

『テレビから三密と聞こえると「呼ばれたかな」と反応してしまうんです』と語っていた壇蜜さんのコメントに、ほっこりした記憶があります。

また、「断密、ワタシからもお願い」という文言と壇蜜さんの写真をSNSで公開したファンがいましたが、写真の使用許可を得ておらず、法的問題が指摘されたそうです。

ところが、壇蜜さんの所属事務所は「こんな時代だからパロディで和んでくだされば」と寛容な姿勢を示したとのこと。

ギスギスした時代にあって、まさに、和みますね。

なお、「三密瑜伽」の「瑜伽」は、修行者の三密と仏の三密が互いに交じり、溶け合うこと、なのだそうです。

171 茫然自失

新型コロナウイルス感染拡大により、我々の生活は一変しました。
GWが「我慢のウィーク」と呼ばれたように、多くの忍耐を強いられています。

パチンコ店やカラオケ店、スポーツジムの休業は、個人的には影響ありませんでした。
博物館や美術館も、さほど不自由を感じませんでした。
また、多くの人に支障をきたした、居酒屋やパブの類いも、下戸の私には何ら問題ありません。
酒が飲めない体質も、このご時世、案外悪くないかも知れません。

ただ、ドトールやスターバックスをはじめ、弊社近隣のブルーボトルコーヒーやオールプレスなど、コーヒー店の休業は痛かったですね。
仕事中、美味しいコーヒーが飲みたい欲求を叶えられなかったことが、最も不便を感じた点かも知れません。

また、生活面での大きな変化は、弁当を持参するようになったことでしょうか。
既に1ヶ月半ほど続いていますが、私の時間に合わせて朝5時半起床のカミさんには感謝です。

行きつけの蕎麦屋さんやラーメン屋さんに行けないのはちょっと寂しいけれど、カミさん手作りの弁当は、食の安全という面ではピカイチです。

弁当は高校生の時以来ですが、当時との大きな違いは、今は温かいご飯が食べられること。
ご飯が冷たいか温かいかは、雲泥の差がありますね。
THERMOS社製の弁当箱は、優れものです。

それから、我慢していたのは美容院でしょうか。
通常は4〜5週間に1度のペースで髪を切りに行くのですが、昨日、7週ぶりに行ってきました。

美容院へ入ると、まず手洗いを促されました。
そして、入口のドアは開けっ放し。
15年近く通っている美容院ですが、これまでとは状況が一変していました。

「やまださん、お久しぶり。今日、窪田正孝みたいにしてもいい?」
美容院の先生にそう言われたものの、窪田正孝さんの髪型が頭に浮かびません。

そもそも私は、美容院でああしてこうしてと注文するのが苦手です。
信頼している美容師の先生に、いつもお任せしています。
この日も先生に全て委ねました。

「奥さんと息子さん、窪田正孝のこと知ってるでしょ。家に帰ったら、誰の髪型にしたか、家族の皆んなに聞いてみて。ゼッタイ当たると思うよ!」

美容院を出てから「窪田正孝」とググってみると、ん、なるほど、ちょっと似ている気がします。
「先生、やるじゃん」と思いながら、帰路につきました。

帰宅後、早速カミさんとセガレに尋ねてみました。
するとカミさんが・・、

「分かった!コボちゃん!!」

NHKの朝ドラの主人公になりきって帰宅したのですが、読売新聞の4コマ漫画との評価でした・・。
2回り以上も年下の人気俳優さんですから、所詮ムリがありました・・。

154 上下一心

先週末は、仕事にプライベートに充実した時間を過ごすことができました。

まず土曜日。

セガレの通う高校(中高一貫の男子校)で、体育祭が開催されました。
生徒たちは入学時に与えられた赤・白・黄・青の4色に分かれて、優勝目指して戦います。
この色は、卒業まで変わることはありません。

各色とも縦に4分割されるので、中1から高3までが団結しなければなりません。
その旗振り役を担うのは、「4役」と呼ばれる高3の幹部です。
団長・副団長・応援団長・副応援団長によって構成される4役は、その色の象徴的存在であり、その年の体育祭の顔でもあります。

4役はじめ高3の役員らは、年の離れた後輩たちに、競技ごとの秘策や心構えなどを熱血指導します。
「高3になったら4役になる」と心に秘めてきた役員たちですから、体育祭への思い入れは生半可なものではありません。
勝っても負けても、4役らの熱き思いは、下級生へ引き継がれていきます。

なお、高3だけは、体育祭当日に限り、髪を自分の所属する色に染めることが許されます。
そして、この「色」に対する意識は、卒業後も続きます。

私のお客様で、セガレの大先輩にあたる医師がいらっしゃいます。
その先生に入学の報告をしたところ、

「合格おめでとう!で、何色?」

と質問されました。

何組?とか、担任は誰?とか聞く前に、まず色を確認するのが通例であることは事前に抑えておいたので、「青です!」と即答できました。

以前、学校主催の講演会に参加した際、登壇した同校OBの演者がこう自己紹介していました。

「昭和☆年卒の☆☆☆☆です。あっ、色は赤です。これを言わないとダメですよね。」

これを聞いた途端、会場にいた赤組の現役学生から、大きな拍手が湧きました。
同窓が絆を深めるツールとしては、簡単明瞭でとてもいいなと思います。

さて、体育祭当日。
天気は晴れたり曇ったりの運動日和。

セガレの所属する青組は優勝から8年間遠ざかっており、入学後の成績は、4位、2位、4位。
チャンスは今年を入れて3回。
在学中に優勝を経験できなかった先輩たちの無念な思いも抱いて、ぜひとも今年は栄冠を勝ち取って欲しいものです。

果たして、結果は・・・・、

848点を獲得した、青組が優勝しました!!

ただ優勝だけを目指してきた青い髪の少年たちは嬉し涙を流し、最大5つも年の離れた後輩たちと勝利の喜びを分かち合う姿は、青春そのものでした。

一方、応援席では、運営のサポートに尽力した高3の母親たちも、抱き合って号泣していました。
たかが子供の体育祭、では片付けられないドラマを見た気がしました。

私とカミさんにとっても、初めて勝利の余韻に浸りながらの帰路になりました。
せっかくだからと、少し遅れて下校したセガレと渋谷で待ち合わせ、家族3人でささやかな祝勝会を開きました。

そして、翌日曜日。

6時30分に起床し、すぐに仕事に取り掛かりました。

例年、体育祭ではギラギラの太陽に体力を奪われ、その翌日はボロ雑巾のようになってしまうのですが、今年は曇りの時間帯もあったためか、元気に日曜日を迎えられました。

それでも、体育祭をただ座って見ていただけ、もっと言えば、一番気温の上がる時間帯には食堂へ避難して居眠りをしていたにも関わらず、太ももの筋肉痛を抱えながらの仕事となりました。

長椅子に座っていただけで、どうして筋肉痛になるのか理解不能ですが、朝から仕事に向き合えたので良しとします。

そして、午後は、東京国際フォーラムで「葉加瀬太郎・高嶋ちさ子・古澤 巌〜3大ヴァイオリニストコンサート 2019〜」を鑑賞しました。

素晴らしい演奏と、高嶋ちさ子さんの毒舌トークについては、またの機会に書きたいと思います。

096 羽化登仙

人間誰しもウィークポイントがありますが、私にとっては「お酒」でしょうか。

私は、まったく酒が飲めません。
「まったく」です。

「ちょっとなら平気だろ?」
よくそう聞かれるのですが、「ちょっと」もダメです。

以前、お客さんとゴルフに行ったとき、午前のハーフを38で回ったことがありました。
お祝いだから少しだけと、昼食時に瓶のキャップに半分くらい、日本酒を飲みました。
言ってみれば、文鳥が水を飲んだ程度でしょうか。
しかして、午後のスコアは、58。
すんでの所で、100叩きになるところでした。

下戸の原因は明白です。
父型の家系が、バリバリの下戸遺伝子を持っているのです。
当然、私の父も下戸。
祖父も下戸。
私の披露宴で、父方の親族の乾杯用シャンパングラスは、そのほとんどが飲まれることなく、注がれたままの状態で残っていました。

下戸であることで、得をした覚えはほとんどありません。
中でも最も面倒だったのは、大学時分の合コンです。

宴もたけなわの頃、決まって仲間の下宿へ車を取りに行くのです。
酔いつぶれたメンバーを、自宅へ送り届けるためです。
唯一のシラフ・私にしかできない、毎度の任務です。

しかも、自宅へ送り届ける女性に何かちょっかいでも出したら、後が大変です。
「ゴメン、酔ってて覚えていない・・・・」という言い訳は、ゼッタイに通用しませんから。

アルコールが飲めるようになりたい!という夢は、20代前半の頃に諦めました。
努力しても、こればっかりはダメだと・・・・。

ただ、著名人にもお酒を飲まない(飲めない)方が、結構いるようです。

大御所では、北島三郎さん。
若い衆を集め、先頭になって飲んでいるようなイメージがありますが、違うんですね。

的場浩司さんと、漫才のサンドイッチマンのおふたりも飲まないそうです。
ちょっと強面な方だと、ギャップに笑えますね。
その顔で飲めないのか?と私も若い頃しばしば言われましたが、そもそも「飲めそうな顔」の概念がわかりませんし、面構えとアルコール摂取量に相関関係がある訳ないですよね。

舘ひろしさんも意外です。
ブランデーグラスが似合う風貌と相反して、実は下戸なのだそうです。

泉谷しげるさんにいたっては、下戸だとはどうしても信じ難いです。
破天荒なキャラクターイメージとは、かけ離れていますね。

水谷豊さんも飲まないようです。
「下戸でもある」と、wikipediaで人物紹介されています。

B’zの稲葉浩志さんは酒は飲まない、タバコも吸わないとのこと。
学部は違いますが、彼は私の大学の後輩ですからね、親近感が湧きます。

羽化登仙。
羽が生えて天に昇っていくように、酒に酔って良い気持ちになること。
一生に一度でいいからこんな気分を味わってみたい・・・・、と切に思います。