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235 帰馬放牛

子どもの頃、初詣は決まって家族で靖國神社に行きました。
参拝に行くと、拝殿の手前の中門鳥居で一旦足を止め、「兵隊さんが戦地から家族へ宛てて書いた書簡を読みなさい」と父に言われました。

自らの命が残りわずかであることを悟るなかで、両親のからだを気遣い、弟や妹には立派な大人になって親孝行するように言い含める内容が多かった印象です。
二十歳前後の青年がしたためた文面が、悲しくて、崇高すぎて、こんな不幸な時代がほんの少し前にあったことの衝撃を、毎年正月に感じていました。

私は毎年拝読しましたが、母は、前途ある若者の最後の手紙が可哀想で可哀想で、あまり読みたくないんだとこぼしていました。

今月掲示されているのは、昭和20年4月、沖縄で命を落とした長野県出身の21歳男性が家族へ送った手紙です。
戦争とは本当に愚かな行いなんだと、改めて思い知らされる内容です。
(https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html)

正月に靖國神社に出向く理由は、父の名付け親が靖國に眠っているからだ、ということは漠然と聞かされていましたが、細かなことは知りませんでした。
そこで、先日詳しく話を聞いてみました。

その名付け親とは、父にとっては叔父にあたる方で、兄弟の末っ子でしたので、比較的歳が近い叔父でした。
幼い頃、一緒に遊んでくれた優しい叔父は、昭和20年、フィリピン沖で還らぬ人となりました。

当時、叔父には故郷に許嫁がいたそうです。
父もその女性の姿に、記憶があるそうです。
気立ての良い女性だと家族からも大変に評判の良い方で、皆が結婚することを待ち望んでいたそうです。
しかし、その望みが叶うことはありませんでした。

戦死の報せが届いた日、許嫁の女性と父の両親が、家の片隅で抱き合って泣いているのを見たそうです。
その光景は何年、何十年経っても忘れられないと、父は話していました。

月日は流れ、昭和24年。
父が上京し、住み込みで働くことになった際、母親からこう言われたそうです。

「伊豆の田舎から靖國神社へ出向くのは容易でない。お前がきちんと参拝するように。」

初詣にそんな背景があったとは、驚きでした。

私にとって最も身近な神社は靖國神社ということになりますが、現在の私の趣味である神社巡りの根っこがそこにあるかと言えば、そうではないように感じます。

ただ、靖國神社のホームページで、「護國神社」の存在を知りました。
護國神社とは、郷土の出身者またはゆかりのある方々で、戦場に赴かれ亡くなった軍人・軍属・勤労動員で亡くなられた一般市民の方々など、国家のために尊い命を捧げられた戦没者の御霊を御祭神としてお祀りする神社です。

基本的に道府県に1社(東京都と神奈川県にはありません)、全国に52社ありますので、地方に行くと必ず護國神社を参拝することが習慣となりました。
この習慣は、子供の頃から靖國で拝読していた書簡に起因していることは間違いないと思います。

これまでに参拝させていただいたのは、埼玉、千葉、廣島、栃木、京都、山梨、石川、茨城、宮城、静岡、福岡、愛知、群馬、新潟、奈良の16社(参拝順)。
52分の16ですから、まだ三分の一にも届きません。

私にとって靖國神社や全国の護國神社は、祖国を守り家族を守ろうと戦い続けた多くのご英霊に感謝を伝える場所であり、恒久平和を祈る場所です。
戦争を美化したり、責任追及する場ではありません。

作家でジャーナリストの門田隆将氏の著作で、大正生まれの男子は、7人に1人が戦死していると知りました。
私の敬愛する母方の伯父は、何度も出征しましたが、九死に一生を得て生還した大正生まれの1人です。
しかし、99歳で亡くなるまで、家族にも戦争の話はほとんどしなかったそうです。

ただ、「戦地でいろんなことがあったから、オレは晩年、幸せになれないと思う」とくぐもった声で言ったことがあると、母が教えてくれました。
伯父は、生きるか死ぬかの極限状態を何度も生き抜いてきたのでしょう。
その心中は、私には察することすらできません。

ところで、79回目の終戦記念日を迎えるにあたり、ネットで意外なニュースを目にしました。
パリ五輪を終えて帰国した卓球日本代表の早田ひな選手が、報道陣の質問に対してこんなコメントをしたそうです。

福岡・北九州市出身の早田には、パリ五輪が終わり同じ九州地方で行きたい場所があるという。「行きたいところの一つは(福岡の)アンパンマンミュージアム。あとは鹿児島の特攻資料館(知覧特攻平和会館)に行きたい。生きていること、卓球ができているのは当たり前じゃないのを感じたい」と意外な場所を口にした。

早田選手は弱冠24歳。
一流のアスリートであり、人間としても秀逸な早田選手には、唯々感心しました。

先述の門田隆将氏も、「故やなせたかし氏も、知覧の亡き特攻兵たちも、きっと驚き、そして喜んでいるだろう。有難う、早田さん」とSNSでつづりました。

明日は、私も現在の平和の礎について思量する機会にしたいと思っています。

180 無病息災

私の義母は満80歳になります。
若い頃から、風邪もほとんど引かない、元気印の老媼です。

具合が悪くてダラダラしている姿が嫌いで(これを本人は「クタクタしている」と表現します)、風邪気味で声が嗄れていても風邪なんか引いていない!と言い張り、肩こり、不眠症、便秘、冷え性などにも縁が無く、概ね元気に齢を重ねてきました。

しかし、ここ数年、医者通いを強いられています。

糖尿病の疑いで近所の医院へ行った際、「私は内科医になって☆☆年が経つけれど、こんな酷い血糖値は見たことがない!」と医師から叱られました。

また、ここ数年は血圧が高く、降圧剤を処方されています。

そして、ヘモグロビン値が低いので、めまいの検査を受けるようにと紹介された大学病院では、「この数値で、本当に自覚症状はないの?」と言われたそうです。
この病院へはその後も定期的に通院していますが、先日、予定の時間になってもなかなか帰宅しませんでした。
あとで話を聞くと、検査結果が更に悪化していたため、急遽輸血をすることになって時間を要したとのこと・・。

そこで、義母に携帯電話を持ってもらうことにしました。
そもそも、近くへ買い物に行ったきり長時間帰宅しないこともしばしばなので、今後は周囲の心配は軽減されそうです。
ピンク色のらくらくホンをプレゼントし、基本的な発信と着信方法だけをご教示しました。

そんな義母の最大の趣味は「食べること」。
そして、特徴は「ややずぼらなところ」。

糖尿病などどこ吹く風で、食べたいものを食べ、間食も楽しみ、一方、食事前のインスリン注射を怠ったり、薬の服用がちらほら抜けたり・・。
緊張感はさほど感じません。

ただ、そんな若干いい加減なところが、元気の秘訣なのかも知れません。
検査結果に一喜一憂したり、病気のことが始終頭から離れないよりも、少しあっけらかんとした思考が、ほどよく元気を保っているように思います。

コロナのために、会食をずっと控えてきましたが、先日、久しぶりに食事に誘いました。
義母の大好きなホテルのビュッフェ、とはいきませんでしたが、家の近所の和食屋でランチコースをいただました。

デザートを食べてそろそろお開き、というタイミングで、私たち夫婦の結婚25周年へのお祝いをいただくサプライズがありました。

そう、銀婚式です。

義母の傘寿のお祝いもできずにいたなか、逆にお祝いをいただきとても恐縮しました。

1995年11月5日、日曜日、先負。

目黒雅叙園で挙式を行ったあの日から早25年。
私は当時の父の年齢を超え、カミさんは母の年齢を超えました。

披露宴に出席していただいた方で、その後、鬼籍に入った方が少なからずいらっしゃいます。
特に、先日長姉が亡くなったことで、父はすべての兄弟を失いました。
母方も、体調の優れない弟が1人残るのみです。
時の流れの儚さを、しみじみと感じます。

家族元気で仲良く過ごしていることが最大の親孝行だ、と母は言います。

25年の間には、私が入退院を繰り返した時期や、カミさんのメンタルが不安定な時期がありましたが、セガレも含め、元気に日々生活が送れている今を、有難く思います。
コロナ禍にあって、健康の大切さを改めて考えさせられています。

133 斗酒隻鶏

社会人になって早34年。
仕事を通じて、多くの方とお目に掛かりました。

そんな中、最も印象的なひとりは、某化粧品会社の女性社長さんです。
私よりも2歳年下の、とても美形な女性でした。

初対面は、私がギリギリ20代だった頃と思います。
その数年後、彼女は結婚し、新宿で開催された二次会に私もお招きいただきました。
因みにこの時、「新郎新婦」は「新郎妊婦」でした。

妊婦、いや、新婦は私と一緒でお酒が飲めないのですが、一方、ご主人は大のお酒好き。
宴たけなわの頃には、ひな壇ですっかり出来上がっている様子でした。

そうこうしているうち会がお開きとなり、私が帰り支度をしていると、

「社長、一緒にタクシーで帰ろう!」

と彼女に声を掛けられました。
因みに、私は当時社長ではなかったのですが、いつもこう呼ばれていました。

「どうせあの人はこの後もどっかで飲むんだからいいの。先に帰ろう。」

結婚式の夜に別行動って、変な夫婦だなあと思いつつ、新婦の友人らとタクシーに相乗りしました。

ひとり、またひとりと下車し、結局タクシーに残ったのは我々2人。
旧知の仲とはいえ、昼間式を挙げたばかりの女性と2人だけ、というシチュエーションに、いささか違和感を感じはじめた矢先・・、

「社長、カラオケ行こう!!」

結局、私は、新婦で妊婦な人妻と2人だけで、深夜のカラオケボックスに行き、数時間大盛り上がりしたのでした。

今となっては、とてもいい思い出です。
出来ることなら、あの頃に戻りたいと思います。

何故なら・・、

42歳で彼女は亡くなってしまいました。
乳がんでした。

私にとって彼女の存在は「男友達」でした。
仕事を超え、性差を超え、とても親身な関係でした。

「社長、良かったね〜、これ持ってって!!」
私にようやく子供が出来たと知るや、我がことのように喜んでくれ、色々といただきものをしました。
亡くなる2年前のことでした。

「界面活性剤ってね、水と油を混ぜちゃうんだよ、社長はただでさえ危ういんだからシャンプー変えないと禿げちゃうよ」
そう言って、石けんシャンプーを勧めてくれたのは彼女でした。
今も年齢相応の頭髪量が維持できているのは、間違いなく彼女のお陰です。

「社長、タバコちょうだい!もう安定期に入ったから大丈夫!」
でも、大きなお腹の彼女にタバコを渡したのは、大失敗だったな・・。

「社長、B4の短辺って何センチ?えっ、257ミリ!?て~んさい~!」
天才でも何でもないです。そんなこと知らない印刷屋なんていませんから。

決して長いお付き合いではありませんでしたが、様々な思い出が蘇ります。

距離的な問題もあって、まだ、墓参が叶っていません・・。
彼岸の入りにあたり、亡き友へ思いをはせ、感謝のまことを捧げたいと思います。

071 嘉辰令月

今日は私がこの世に生を受けて、ちょうど20,000日目にあたります。
私にとって20,000回目の朝なんだなあと、今朝はどことなく感慨深い思いでした。
単純に20,000÷365=54.79ですから、なるほど、55歳の誕生日前にこの日は来るんですね。

20,000日目であることを知ったのは、思いがけないことがきっかけでした。

私には98歳になる伯父がいます。
10月が誕生日なので、来年秋には100歳になります。
100歳って日数にすると何日になるんだろう?
そんな疑問からでした。

振り返ってみると、私にとっての5,000日目は1975年6月30日(月)。
中学2年になって3ヶ月後。
スポーツに打ち込む訳でもなく、
一生懸命勉強する訳でもなく、
生意気盛りの中2には、彼女がいるはずもなく・・。
これといって特徴のある少年ではなかったですね。

10,000日目は1989年3月8日(水)。
27歳春。
どちらかといえば結婚願望のある方でしたが、全く叶いませんでした。
春が身近に感じられず、
将来の展望も開けず、
やや暗い青春時代を送っていました。

15,000日目は2002年11月15日(金)。
結婚して約7年。
40歳を過ぎても子宝に恵まれず、
友人たちの子は着々と成長し、
周囲から二世を期待する声も若干遠ざかりはじめ、
人生設計の修正が必要だな、と感じていました。
カミさんと二人の生活をどう楽しんでいこうかと・・。
まさか、翌年秋にセガレが生まれるなんて、想像もしていませんでした。

そして、20000日目、2016年7月24日(日)。
家庭は円満だし、
両親は元気だし、
今日のご飯に困ってはいないし・・。
人並みに仕事のストレスは抱えておりますが、幸せな節目の日だと思っています。

20000日だ、20000日だ、と騒ぐ私をよそに、家族の反応はいたって冷静でした。
しかし、しつこく訴え続けたらカミさんが晩飯に付き合ってくれました。
『20000円の料理を食べる資格が今日のオレにはあるんじゃないか!』との主張は、
あっさりと否定されてしまいましたが…。

因みに98歳になる伯父は、既に36,000日を超えています。
ん・・、先は長い・・。

044 覆水不返

平成7年11月5日、私は34歳の時に結婚しました。
即ち、明後日結婚20周年を迎える訳です。

こういう節目を大事にするのは主に女性で、男はズボラなことが多いですね。
かくいう私も、数ヶ月前には「今年で20年なんだ・・」と意識していたのですが、暑さが一段落した頃にはすっかり忘れていました。

改めて思い出したのは、先日横浜で親友のたけちゃん夫妻と4人で食事をした時。
デザートのプレートに「20years Anniversary」と書かれてあったのです。
たけちゃんは、我々の20周年を覚えていてくれて、サプライズを仕掛けてくれました。
それにしても、友人から気付かされたというのは、我ながら情けなかったですね。

後日、20年という大きな節目ですから、記念に何か欲しいものを買ってもいいよ、とカミさんに言いました。

ところで、結婚20年は「ナニ婚式」と呼ぶのでしょうか?
そこを知ることがまずは道理だと思い、早速ネットで調べてみました。

1年目 紙婚式
2年目 綿婚式
3年目 皮婚式

いろいろあるんだなあ・・。

5年目 木婚式
6年目 鉄婚式
7年目 銅婚式

なるほど・・。徐々に硬いもの・価値あるものに移っていくのか・・。

10年目 アルミニウム婚式
15年目 水晶婚式
20年目 磁器婚式

じきこんしき??
正直、もうちょっと格好いいネーミングなのかと思っていました。
例えば25年目の「銀婚式」のように。

ひょっとして・・、20年ってさしたる節目ではないのか??
ということは・・、カミさんへのプレゼントは5年後の銀婚式でいいか??
何はさておき・・、男に二言が許されるか??

009 華燭之典(3)

最近、披露宴を行わないカップルが多いようですね。
ちょっと前は、媒酌人を立てない披露宴が多いと聞いていたのですが、披露宴そのものが少なくなってきたようです。

私の場合は、大学時代の恩師に媒酌人をお願いして、披露宴を行いました。
披露宴をしない、という選択肢はなかったですね。

披露宴には110人以上の方にご参列いただきました。
司会は以前紹介した私の友人の「プロフェッショナル」にお願いしました。

友人からは、
「お前、みっともないから泣くんじゃないぞ。」
「カミさん、普段から泣き虫だから、絶対に泣くだろうな」
などと冷やかされていましたが、ふたを開けてみると、終始笑顔笑顔でした。

だって、100人以上の人達が、我々を祝福するために集まってくれて、何をするにも我々が主役なんですから、それはそれは至福の境地でした。
正に自分たちを中心に地球が回っていると勘違いしそうな一日でした。

余談ですが・・、
披露宴にお招きした人数は新郎側:新婦側=6.5:3.5くらいの比でしたが、私側は友人が多く、カミさんは親戚の方が多かったので、集まったご祝儀は、新婦側の圧勝でした(笑)。

さて、友人の披露宴で司会や余興を数多く担ったことは既にお話ししましたが、仲人はこれまでに一度だけ経験しました。

仲人といっても、ハワイで挙式を挙げた後輩夫婦に付き添ったというもので、昔ながらの厳密な仲人とはほど遠いですね。

オアフ島のちょっと小高いところにある小さなチャペルで挙式をしました。
参列者は、新郎側が我々夫婦2人、新婦側は新婦の女友達2名でした。
式の夜は、アランウォンズという有名なレストランで食事会をしました。
少人数でしたが、アットホームでとても思い出深い一日となりました。

 

それから、披露宴で乾杯の発声も、かつて一度だけ仰せつかりました。
当時、弊社に入社まもない男性社員の披露宴で、職場の上司という紹介でした。

上司といっても、まだ弱冠32歳。
乾杯って、もっと年配の方が似つかわしいですね。
自分にはちょっと場違いな感じがしました。

因みに、その時の仲人は私の両親でした。
そうです、父と母の前で、乾杯の発声をした訳です。
そういう意味でも、ちょっとこそばゆい乾杯でした。

最後に、
私がこれまで唯一の仲人を務めたそのカップル。
残念ながら、今、ふたりは他人になってしまいました・・。
我々夫婦は、仲人に関しては「持っていない」みたいです・・。

008 華燭之典(2)

先日の続きです。

「生ビールがあるじゃないか♪」
は小学校時代の友人の披露宴でした。
新郎側ではなく、新婦側の友人です。 

あ、正確には新郎新婦ではなく、新郎妊婦だったのですが(笑)。

そしてこの妊婦、じゃなくて新婦。
職業は司会者なのです。
披露宴やイベントなどでバリバリ活躍中のプロの司会者なのです。

当然、職場の方々も招かれています。

なのに、二次会の司会を、私にやって欲しいというのです。

「披露宴のスピーチはやるよ。でも司会はダメだよ、いくら二次会でも」

謹んでお断りしました。
当然です。
プロの司会者がたくさんいる前で、素人の私がどうして司会を務めることができましょう。

「披露宴の司会は、プロの仲間に交替でやってもらうの。でも、二次会はプロに頼みたくないの。お願いっ!」

新婦の押しに負けて、結局引き受けることにしました・・。

恥をかいてもいいや。
所詮素人なんだから。
プロのようにできるわけがないのだから。

文字通り開き直りました。

そして、二次会は始まりました。

その二次会でもうひとつ、私は大役を担っていました。

イメージビデオです。

なぜ私が制作することになったのか、正確な経緯は定かではありませんが、画像の編集が好きだったことが高じて、引き受けることになったのでは・・。

内容は、新婦の幼少時代から現在までの写真をつなげたスライドショーです。
しかし、当時はPCソフトでさくっと制作、という時代ではありませんでした。
ビデオデッキにまず音楽を録音し、それから音に合わせて静止画を取り込み、テロップはタイトラーいう専用マシンで入れる、という手間のかかる作業でした。

二次会の中で皆さんにご披露しました。
自分で作った映像を人前で紹介するのは初めてでしたから、非常に緊張しました。
上映中は、妙な汗が止まりませんでした。

上映が終わると、皆さんから暖かい拍手をいただき、ホッとしました。
すると、新婦のお父さんが、泣きながら私に握手を求めてきました。
「感動したよ!やるやるとは聞いていたけど、やるねえ、山田くん!」
新婦の父は、やや酔っぱらっているようでした(笑)。

そして、二次会のエンディング。司会の大役もそろそろ終わりです。
参加者みんなでアーチを作り、新郎新婦を祝福するという企画がありました。

「それでは皆さん、ここから2列に並んでいただけますか?」

と皆さんにお願いをしました。
列が長くなっていくと、ついに会場の反対側にぶつかってしまいました。

・・・反対側までいったら、こちらへ戻るように並んで下さい・・・

頭の中にそんなセリフが浮かびました。
でも、ダメです。禁句です。
「戻る」はNGワードです。

披露宴で使ってはならない言葉って結構あるんですよね。
別離を連想させる「別れる」「切る」「割る」「去る」「帰る」。
再婚を連想させる「戻る」「繰り返す」などなど。

「戻る」がダメなことは認識していました。
「お席にお戻り下さい」ではなく「お席にお着き下さい」と言うんだぞ、とシミュレーションもしていました。

しかし、今回は状況が違います。
向こう側からこちら側に戻ってこなければならないのです。
「こちら側へ戻る」以外になんて表現すればいいのか・・。
「こちら側へ帰ってきて・・」
あ〜、これもダメ。

頭の中、真っ白になりました。
私は適切なボキャブラリーを持ち備えていませんでした。

結局・・・、
「向こう側までいったら、こちら側へ戻るように並んで下さい」
マイクでしゃべってしまいました・・・。

そうしたら、私の近くにいた新婦の職場の同僚、即ちプロの司会者の方が・・・、

「今、司会の方がおっしゃったように、向こう側の壁まで到着したら、
 こちらへUターンして並んで下さい!」

まいりました・・。
脱帽、なんて表現では足りません。
その見事なタイミング、しかも、私に配慮した、優しい言い回し・・。
プロはやっぱりすごかったです・・。

お開きになってから、その方にお礼を申し上げに行きました。

・・口にしてはいけない言葉だとは知っていました。
でも私には適した表現が浮かびませんでした。
助けていただいて有難うございました・・。

すると、

「NGワードと知っているだけですごいことです。全体的にとても立派な司会ぶりでした。間の取り方が上手で、我々プロも勉強になりました。」

上手だったはずがありません・・。
立派な訳がありません・・。

上から目線という言葉がありますが、そんなかけらもありませんでした。
こういう所作ってステキだなあ、と感じました。

あれから、20数年。
まだまだ年齢相応の分別がない自分に、ハッとする思いです。
深く自省が必要です・・。

006 華燭之典(1)

6月になりました。
6月といえば、梅雨、夏至、株主総会、日本ダービー・・。

そういえば、June Brideなんて言葉もありますね。
皇太子様と雅子様とご結婚されたも、たしか6月だったと思います。

思い返してみると、私は友人の結婚式に25回ほどお招きいただきました。
回数として多いのか少ないのか、平均値はわかりませんが、大学を卒業してすぐにオヤジの会社(零細企業)に入社した私には、会社の同僚という存在がおりません。
従って、出席したほとんどは、仕事とは関係のない友人の披露宴です。

そして、特徴的なことがひとつあります。

何もしなかった披露宴が、「2回」しかないのです。

何もしないというのは、司会・祝辞・歌など何の役目も仰せつかることなく、食事を楽しみ、新郎新婦の門出を祝福していればよい、という意味です。

何かしら、お手伝いをしたことの方が圧倒的に多いのです。

これまでで最も印象的だったのは、小学校の友人の披露宴&二次会。
まず、披露宴では「余興」をリクエストされ、しかも真面目なのはNGだと。
楽しいものにして欲しいと。
格調高いものを求めるなら私にお鉢が回ってくることはありえないので、当然と言えば当然です。

いろいろ考えました。
年齢に関係なく、会場の皆さんが喜んで下さる一芸はないものかと・・。

思いついたのは、当時流行っていた、キリンビールのコマーシャル。
女優の鈴木保奈美さんが草野球のキャッチャーに扮して出演していて、バックに流れていたのは細川たかしさんの「応援歌、いきます」という曲。

「生ビールがあるじゃないか♪」

覚えていませんか?
あっ、1991年5月発売の曲だから、若い人はムリですね・・。

で、話は披露宴に戻ります。

司会者から紹介を受けて、マイクの前へ進み、まず、服装のお詫びをひとこと。
私は背広の襟を立てて片手で押さえ、シャツが見えないよう隠していたのです。
あとで理由が明らかになるので、もうしばらくこの状態でお許しを、と事情説明。

そして、祝辞をスタート。
仲間しか知らないエピソードを交えて、面白可笑しくお話ししたら少し笑いもとれて、
出だしは上々かと・・。

頃合いを見計って、カラオケをスタート。
そこで歌わせていただいたのが、前述の「応援歌、いきます」。

細川たかしさんの歌ですから、当然演歌です。
しかも、サビの部分はCMで有名でしたが、歌い出しはあまり知られていないようで
「このあんちゃん、なんで演歌を歌い始めたのやら」みたいな雰囲気が満ちあふれ・・。

そして、歌がだんだんサビに近づいてきました。

そう、襟を立てていたのは、このサビのためでした。
実は、出番の30分前にトイレに行き、礼服の下に、当時所属していた草野球チームのユニフォームを着ておき、見えないように隠していたのでした。

CMで有名な「生ビールが あるじゃないか♪」の歌詞の寸前、背広を脱ぎ、ユニフォーム姿を披露。
もちろん忍ばせておいた揃いの帽子も着用。

「あ〜、保奈美ちゃんがユニフォーム着ているビールのCMの曲だあ!」

会場のほとんどの方がわかってくれたようでした。

そして、2番のサビでは、ユニフォームを一枚脱ぎました。
そうなんです、夏用と冬用の2枚のユニフォームを重ね着していたのです。
もちろん、帽子も重ねてかぶっていましたよ。

自分で言うのも何ですが、会場は結構盛り上がってくれました。
結構時間を掛けてプランニングしたので、報われた感じがしました。
しかも、出番が来るまで、結構暑い思いをしていましたから。
背広の下に、ユニフォーム2枚ですから。
しかも、片手は押さえていたから使えないわけで、料理食べるのも不自由でしたから。

でも、皆を笑わせる、周囲を和ませるって、ステキなことですよね。
零細企業の社長として、会社の雰囲気を良くすることに努めないといけないと思いますね。

そうそう、例の「応援歌、いきます」の歌詞に「ぐっといこうよ 中村くんよォ」というフレーズがあります。

ここ、新郎の名字に歌詞を変更して歌ったのですが、ちょっと古典的でしたね(笑)。

そしてこの披露宴、二次会でもいろいろありました。
後日、書きたいと思います。