月別アーカイブ: 2016年8月

075 籠鳥檻猿

セガレの通う学校では、本をたくさん読むようにと指導しています。
読破した本について諸々資料を残すための「読書生活の記録」という冊子が全員に配布され、中高一貫の6年間、時間を作って読書をするよう躾けられているようです。

そして、今夏、セガレは宮部みゆきさんの本に、はまっています。
先日「ソロモンの偽証」を読み終え、次に「模倣犯」を買ってきました。
前者は全6巻、後者は全5巻です。
「なるべく薄い本を選び、感想文を書く。」
そんな邪(よこしま)な考えの父とは違うようです・・。

ところで、私の好きなジャンルはノンフィクションです。
きっかけになったのは中学生のときに読んだ、松本清張の「日本の黒い霧」でした。
この本は、下山事件、松川事件、白鳥事件など戦後日本で起きた怪事件を取り上げていますが、中でも私が最も感興をそそられたのは、帝銀事件でした。

この事件は、終戦から約2年半後の昭和23年1月26日15時過ぎ、閉店後の事務処理をしていた帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店に、東京都防疫班の腕章を着用した中年男が訪れ、行員12名を毒殺したうえ、現金と小切手を強奪したという凶悪なものです。

当初、捜査の中心は、毒物の扱いを熟知した旧陸軍731部隊に向けられていました
犯行の内容から、青酸化合物の扱いに慣れた専門家の仕業だと推察されていたのです。
その理由は以下のとおりです。

  1. 第一薬を飲んだ後に、第二薬を飲んでもらうと示すことで、苦しむ行員が散らばることを防いでいること。
  2. 第一薬として飲ませた薬物は、歯のエナメル質を痛めるので舌を出して飲むようにと、最初に自ら飲み方を見せていること。
  3. 青酸カリのような速効性のある毒物ではなく、遅効性の青酸化合物が使用されたこと。

目の前で飲み方を実際に見せられた訳ですから、行員たちが信頼したのも無理はありません。
しかし、事件の7か月後に逮捕されたのは、毒物とは一見何の関係もない画家・平沢貞通氏でした。

GHQからの圧力が囁かれる中、捜査の中心だった731部隊への追及はいつしか打ち切られ、取り調べの中で自白したこともあって、昭和30年、最高裁で平沢氏の死刑が確定しました。

私がこの事件を初めて知ったのは中学生のときでしたから、平沢氏はまだ存命でした。
しかし、昭和62年5月10日、死刑囚という窮境のまま、八王子医療刑務所で亡くなりました。
逮捕から39年。
死刑確定から32年。
95歳の生涯でした。

私が興味を抱いた最大の理由は、平沢貞通という男の本性です。
即ち・・、
大量殺人を犯しておきながら、無実を訴え続ける人面獣心の男なのか、覚えのない罪を着せられて自由を奪われた不遇にして悲運な男なのか、必ずそのどちらかなのです。

籠鳥檻猿。
「ろうちょうかんえん」と読みます。
自由を奪われ自分の思い通りに生きることが出来ない境遇のたとえです。
平沢氏の人生は、籠の中の鳥、檻の中の猿だったのではないでしょうか。

30人以上の歴代法務大臣が死刑執行に踏み切らなかったのは何故でしょう。
ここに、答えが隠されているように思います。

この事件を知った後、下川事件、三億円事件、オウム真理教関連事件、光市母子殺人事件等、ノンフィクション作品を随分読みました。

その結果、私の本棚は、ちょっと見てくれが悪い状況を呈しています。
扉を開いて、目に飛び込んでくる本の背文字は、
「死刑」
「贖罪」
「死刑の基準」
「殺された側の論理」
「死刑のための殺人」
「殺人犯はそこにいる」
「心にナイフをしのばせて」
「それでも彼を死刑にしますか」
等々・・。
因みに今読んでいるのは、上野正彦先生の著「監察医が泣いた死体の再鑑定」です・・。

「父さんの本棚には、学校が推薦する類いの本は全然ないね。」
全くセガレの言う通りです・・。

誤解を招かないように申し添えますが、小説なんかも、私、普通に読みます。
重松清や東野圭吾、角田光代など、著名な作家の作品も本棚に並んでいます。
やや片隅に追いやられていますが・・。

074 千秋万歳

以前にも少し触れましたが、私には98歳になる伯父がいます。
大正6年10月15日生まれです。

折しも今日は終戦記念日ですが、伯父は太平洋戦争を経験しています。
一度ならず、何度も出征したそうです。
しかし、これまで、戦争について語ることは、ほとんどありませんでした。

「戦地でいろいろあったから、俺は、晩年幸せな人生は送れないかも知れない・・。」

いつぞや、周囲にそうこぼしたことがある、と聞いたことがあります。
この重い言葉に隠された伯父の胸奥を、私には推し量ることなどできません。

私の好きなノンフィクション作家・門田隆将さんの著「太平洋戦争最後の証言」によると、大正生まれの男子1,348万人のうち、およそ200万人が戦死したそうです。
7人にひとりです。
私もあと40〜50年早く生まれていたら、と考えると血の気が引きます。

伯父は子供が4人いますが、全員女の子でしたので、男の私を大層可愛がってくれました。
私に初めて自転車を買ってくれたのも伯父でした。
伯父の住む田舎の広い庭で毎日何十回も転び、寝る前に二人でスネのアザの数を数えました。
そして、ようやく乗れるようになった夏休みは、今も忘れることができません。

大学に合格した時も、たくさんお祝いをいただきました。
「行きたい学校に合格して良かったね。おめでとう。」と喜んでくれました。

家内を連れて遊びに行ったときは、寿司の出前をとってくれました。
カミさんに気遣いして、持てなしてくれたのだ、とすぐにわかりました。
オレは田舎者だから・・といつも謙抑で遠慮深い伯父でしたから。

また、伯父は手先が器用で、何でも作ってしまう人でした。
削いだ竹を編んで作った器は、職人顔負けの出来映えでした。
そして、腕相撲も強かったし、将棋も上手だった。
少年のボクには、何でもできるスーパーマンのような存在でした。

今秋には99歳を迎えますが、いくつになっても、伯父は私にとってスーパーマンです。
尊敬と感謝の念を込めて、白寿のお祝いを贈ろうと思っています。

073 一子相伝

先日、突然夜景が撮りたくなって、レインボーブリッジに行きました。
車は、お台場海浜公園中央駐車場に停めました。

まず目指したのは、アクアシティお台場3Fのスターバックスです。
広い店内に、椅子が独特に配置されており、とても寛げるスペースでした。
また、場所柄なのか、お客さんの平均年齢が非常に若かったですね。
ワタクシ、間違いなく最高齢でした。
カプチーノ(ホット)なんかオーダーしている人、私以外には見当たらなかったです。
2人に1人は、フラペチーノ、飲んでました。
3人に1人は、ポケモンGO、やってました。

ここに寄ったのは、コーヒーが飲みたかったという理由だけではありません。
ここのテラスからの眺望を確認したかったのです。
予想通り、目の前がレインボーブリッジで、少し高い位置から撮影できました。

スタバのテラスから

その後、テラスを歩いていると、若い女性に声を掛けられました。

写真を撮って欲しい、というリクエストでした。
快く応じると、20台前半の男女5人グループで、スマホを渡されました。

スマホか…。苦手だな…。老眼鏡持ち合わせてないし…。

本音は隠し、努めて明るく『撮りますよ〜』と言いながらスマホを構えました。
すると、カメラ越しの若者たちが、意外にカタい表情なのです。

ありゃ、テンション低いな。
ちょっとシャイな若者集団?

それとも、撮影を頼んだこのおっさん、苦手なタイプだった?

よし、アレをやろうと決めました。

じゃあ、もう1枚、撮りますね。
イチ・ニ・サンで撮りますよ。

イ〜チ・ニ〜・サ〜ン・シ〜・ゴ〜・ロ〜ク……。

え?みたいな反応でしたが、クスっと笑ってくれた「ロク」あたりでシャッターを切りました。

これ、アメリカ仕込みの『笑顔を撮る方法』なんです。

ワタクシ、大学時代にアメリカ西海岸でホームステイを経験しました。
そこでお世話になったホストファミリーのご主人・フランクは、大のカメラ好きで、
『これはとっておきの方法だ。必ず笑顔が撮れるぞ。Masamiにだけ特別教えよう。』
ニコンの愛機を手に、自信たっぷりに、伝授されました。

しかし、この必殺技、過去何度か大きく外したことがあります。
そういえば、日米の国民性の違いについては、フランクは言及してなかったか…。