229 離朱之明

子供の頃から、視力の良さには自信がありました。
視力の測定検査では、確実に「1.5」を叩き出しました。
その下の「2.0」も読めるのになあ・・、といつも思っていました。

車の運転をしていると、「お前、あんな遠くの標識が見えるのか!?」と同乗者に驚かれることがよくありました。
ただ、ワタシは逆に「あの標識も見えずに運転してんのかい!」と感じていました。

この能力を建設的な方向に活かせば良かったのですが、大学生になると、受験勉強の反動か、完全にタガが外れてしまいました。

授業に出ている友はいない・・
頼りになる仲間はいない・・
先輩からの資料もない・・

こんな教科のテストがあると、にわかに私の出番となります。
要するに、周囲の答案用紙を謹んで拝見させていただくのです。

選択式の問題であれば、2列前の答案用紙まで、難なく判読できました。
そこで、鉛筆を持つ右手が邪魔にならない向かって右前の席と、そのもうひとつ前の席の解答を失敬し(そんな詳しい説明は要らないか)、自分の答案用紙に書き込んで、後ろに陣取る友人が見えるよう、ずらして机に置くのでした。
こうした不品行で得た単位数は、8〜12単位ほどあるでしょうか・・・・。
若気の至りでは済まされない、不届き千万な行為です。

そんな浅はかな行動から15年余。
30代後半に、老眼の兆しを感じはじめました。
40代半ばには、老眼鏡を買いました。

今や、老眼鏡は本を読んだりパソコンを打つ時のみならず、日常多くのシーンで欠かせなくなりました。
従って、仕事用のカバン、車の中、洗面所などなど、いたるところに老眼鏡が備えてあります。
数えてみたら、9つもありました。

そうこうしているうちに、遠くも見えづらくなってきました。
遠近両用メガネがうまく使いこなせない私は、車の運転やゴルフなど、遠くを見るためのメガネが別途必要になりました。

学生時代、あんなに憧れたメガネがこんなにも必要になるとは・・。
この不便さは、因果応報、自業自得といったところでしょう。

話が逸れますが、「タガが外れる」と書きましたが、調べてみると、言葉の由来が非常に興味深いことを知りました。

「タガが外れる」の「タガ」は、漢字で「箍」と書きます。
箍とは、桶や樽の周囲にはめる輪っかのことだそうです。
樽は、ウイスキーやビールなどのお酒を貯蔵する際に用いられることが多いですが、箍が外れると、中の液体物が一気に外に溢れてしまいますから、それはそれは大変なことになります。

この様子から、緊張が取れて締まりがなくなるという意味で、「タガが外れる」と使われるようになったのだそうです。

こういうところが日本語の楽しいところだと思います。
漢検準一級への挑戦は、ほぼ諦めの境地ですが、若い頃の反省も込め、何歳になっても学ぶ姿勢を持ち続けたいと、連休中に思うのでした。

228 呉下阿蒙

ずいぶん前のことですが、「夫・元木大介はカレーが食べられない」という記事をネットで見つけました。

元木さんといえば、上宮高校から読売ジャイアンツ入団し、あの長嶋さんから「くせ者」と呼ばれた、誰もが知る元プロ野球選手です。

カレーが食べられない人っているんだ・・・・と思いながら、奥さんの大神いずみさんが書いた記事を読み進めていくと、どうやらその原因は、野球の合宿にあるようです。

中学のころの夏の合宿で、暑い中いつもよりしんどい練習が何日か続き、水も自由に飲めなかった時代。 ある日の昼食にカレーが出て、制限時間内にかき込んで、また暑い中練習に戻った時…とうとう暑さとキツさで戻してしまったらしい。 それ以来、それまで大好きだったカレーが、全く食べられなくなってしまったのではないかというのだ。 もう35年以上むかしの話だが、これぞトラウマ、という話。 そして今も夫は、我が家のカレーが食べられない。勿体無い。そして、何だか気の毒でもある。

私は高校時代バドミントン部に所属していましたが、真夏でも窓を閉じ、カーテンも閉めた体育館内で激しい練習を行い、水は飲んではならぬという練習を繰り返していました。
今では禁じられている、うさぎ飛びやおんぶ走りも日常的トレーニングでした。
大きな事故なく過ごせましたので笑い話と化しましたが、私が若い頃は、今となっては信じられないような指導がたくさんありました。

中学生のときの出来事がきっかけで、カレーライスが嫌いになってしまった元木さんは不運としか言いようがありませんが、実は、私もカレーライスがあまり好きではなく、もう何年も食べていません。

決して味が苦手なわけではありません。
ナンカレーは、どちらかと言えば好きな食べ物の範疇です。

積極的に食べない理由は、カレーライスを食べるとお腹を下してしまうからです・・。

その原因は、はっきりしています。
早食いです。

基本的に早食いの私は、カレーライスを食べるとき、いつにも増してご飯を噛まずに飲み込んでしまいます。
すると、元々胃腸が丈夫な質ではないので、必然的に下痢をする、という図式です・・。

ナンはパンのようなものですから、ある程度噛まないと飲み込めませんのでセーフです。
カレーライスがアウトなのです。

とろろご飯は、さらにいけません・・。
噛んでも噛んでも細かくもならず、柔らかくもならないとろろは、いつの間にかご飯と一緒に胃袋へ流れていきます。
ですから、私はとろろとご飯を、別々に食べることにしています。

「噛めよ!」

以前知人に話したら、一喝されました。
その通りです。
良く噛めば済むことです。
しかし、若い頃からの早食いは、そう簡単には直りません・・。

早食いは、肥満の原因にもなりますので、改善しなければなりません。
ネットには様々な改善策が掲載されていましたが、「食事の途中で何度か箸を置く」のは、自分にも出来そうな気がします。
お箸を一旦手から離すことで、次から次へと口に食事を運ばなくなりますので、効果が期待できそうです。

先日、洋食屋でランチを食べたときのこと。
テーブルに着くと、「春の和風オムレツライス」というメニューが目に入りました。
普段「和風オムレツライス」として提供しているものに、菜の花やハマグリを加えて、春らしくした季節限定メニューだそうです。
ほかのメニューはさほど見ずに、注文いたしました。
春らしい見栄えで、美味しそうだとは思いませんか!

しかし、食事が運ばれてきた瞬間、「やってしまった・・」と悔やみました。
オムレツの上に、たっぷりと「餡」がかかっています。
これは、私にとって「よく噛めないパターン」です。

そして、スプーンですくってさらにがっくり・・。
消化が良くない(と言われている)五穀米ではありませんか・・。

意を決して(大げさですが)ゆっくり食べることに専念しました。
途中で、箸ならぬスプーンを何度も置きました。
行儀が悪いと知りつつ、途中でスマホを見たりしながら、時間をかけて食べました。

その結果は・・、
お腹を下すことはありませんでした。
そして、食後まもなく満腹感を感じました。

「よく噛んで食べる」
いい加減に実践しなくてはいけませんね。

227 禍福糾纆

先日、日光山輪王寺へ行ってまいりました。

昨年7月、東武鉄道の特急に新車両「スペーシアX」が導入されましたので、次回はぜひ新しい電車で! と思っていたのですが、計画を立てるのが遅く、すでにどの時間帯も満席・・。
残念ながら、往復とも従来の特急けごんを利用しました。

上は1年前に撮影した画像です(今年は写真を撮り忘れました・・)

コロナやセガレの大学受験のため、しばらくご無沙汰していましたが、昨年、3年ぶりに訪れたところ、大改修を終えた三仏堂が見違えるほどキレイになっていました。

日光山は、天平神護二年(766年)に勝道上人により開山されました。
その後、占星術の権威であった天海(慈眼大師)によって九星学がもたらされ、明治時代に気学と結びついて、現在の九星気学へと発展したと言われています。

古代中国で生まれた九星気学は、星の示す方位をもとに開運を図ったり、凶運を避けたりと、吉凶を知るための占術のひとつです。

我々は生年月日によって「本命星」を持っています。
そもそも星とは、文字通り空に輝く星のことで、私たち人間の運勢は決められた星の運行に影響を受けると考えられています。
「星回りが良い」「星回りが悪い」という言葉がありますが、この星回りとは私たちの運命を左右する星の巡り合わせのことを言います。
令和5年は三碧木星が暗剣殺に当たり、昭和36年生まれの私が該当しました。

日光山輪王寺大護摩堂では、1日5回の護摩祈願が毎日行われています。
大護摩堂内には、天海座像と開運三天(毘沙門天、大黒天、弁財天)像もお祀りされており、パワー溢れる場所で受ける護摩祈祷は、大変有難いものです。

毎年いただいている星守に加え、昨年は特別降魔札も頂戴いたしました。

大きな怪我や病気をすることなく1年間過ごすことができたことに感謝し、先日そのお札をお返ししてまいりました。

改めて「占術」について調べてみると・・、

自然的または人為的現象のある面を観察することで、将来の出来事や人間の運命を判断したり予知したりする方術。卜占(ぼくせん)。うらない。

とありました。

「占い」と聞いて、私が真っ先に思い浮かぶのは新宿の母です。
伊勢丹新宿本店横で毎日行列ができていた光景を思い出します。

実は私、占いがあまり好きではありません。

過去のことを言われるのであれば、「当たり〜」「ハズレ〜」という程度で済むのですが、将来のこととなると、どことなく抵抗がありました。

しかし、20代後半の頃、後にも先にも、たった一度だけ経験があります。
残念ながら新宿の母ではないのですが、年配の女性の方でした。
どこかテーマパークの片隅に占いのコーナーがあり、一緒にいた仲間の押しに屈して、鑑定していただくことになったのです。

私の掌を見た第一声が・・、

「あなた、サラリーマンではないわね」

「当たってます!」
「いつごろ結婚できますか?」
「はっきり言っちゃってください!!」

周囲を取り囲む友達のヤジだけは鮮明に覚えていますが、鑑定結果は全く記憶にありません・・。

226 炊金饌玉

早いもので、2024年が始まり、早2週間が経ちました。
食レポではありませんが、今年経験した外食にまつわる話を記したいと思います。

まずは、日本橋三越本館2階にあるカフェウィーンです。

下戸の私は、甘いものが大好きです。
お気に入りのスイーツはたくさんありますが、その1つがカフェウィーンのザッハトルテです。
ウィーンを代表するチョコレートケーキ・ザッハトルテと、その脇に乗せられたちょっと堅めの生クリームが、ホットコーヒーと相性抜群なのです。

上の写真は、カフェウィーンの店内です(出典  HANAKO https://hanako.tokyo/food/52539/)。
三越の公式サイトでも「優美な内装は、まるでウィーンの伝統的なカフェハウスのよう」と紹介されています。

ケーキが美味しいのは勿論のこと、大理石のテーブルと赤いベルベットのソファ席が醸し出すレトロな雰囲気にも、非常に魅かれていました。
カミさんと日本橋へ買い物に行った際は、赤いソファで休もう、が合言葉になっていました。

「いました」と過去形で表現したのは、状況が変わってしまったからです・・。
1月7日午後、カミさんと行ってみると、ソファーが茶色に変わっていたのです。
あまりにショッキングで、写真を撮り忘れました。

昨年12月は、赤いソファーでした。
いろいろ調べてみると、仙台三越にあるカフェウィーンが茶色いソファーのようです。
つい最近、日本橋も同じ路線に変更したのでしょうか・・。

長い間、ケーキの陳列棚が故障していたり、首が折れそうな白鳥型の器が足りなくて「フィルシメルバ」が提供中止になったり、そんなことは気になりませんでしたが、赤いソファーがなくなってしまったことは、本当に残念でなりません。

X(旧 Twitter)やInstagramで検索しても投稿は見当たりません・・。
残念がっているのは、私だけではないはずですが・・。

 

次は、小学校の同級生との新年会@横浜の話題です。

20代の頃から、スキーに行ったり、バーベキューをしたり、コテージに泊まったり、このメンバーとはいろいろなイベントを企画し、遊んできました。
そして今も、隔年で京都旅行に出掛けたり、年に数回、食事会を催しています。

小学校の同級生と未だに深い交流があるということに驚かれるときがありますが、総勢9名という人数にもビックリされます。
ただ、先日の横浜での新年会は、3名欠席者がおり、6名(男女各3名)での開催でした。

場所は、山下公園近くの「スカンディア」。
このお店はデンマーク人のご主人を持つ女性が、本格的なスカンジナビア料理を出す店として、1963年にオープンした歴史あるお店です(人間ならば昨年還暦です)。
2ヶ月以上前に予約をし、重厚感あるシックな雰囲気の2階で、ランチコースをいただきました。

この店は、指揮者のカラヤンさんや美空ひばりさん、井上陽水さん、桑田佳祐さんなど、多くの有名人が訪れた店としても有名です。

しかし、最も有名なのは、ユーミンが松任谷正隆さんと婚約後、両家の顔合わせ場所としてこの2階を貸し切りで使ったこと、ではないかと思います。
ドルフィンと並ぶ、ユーミンゆかりのスポットなのです。

ユーミンは中央フリーウェイで知られるように八王子市の出身ですが、横浜山手教会で結婚式を行い、横浜ニューグランド・ホテルで披露宴を挙げたそうで、横浜を愛していたのでしょう。

横浜国大出身の私としては、横浜が第2の故郷であるはずなのですが、40年という年月が経ち、知らないスポットがあまりにも増えてしまいました。

横浜駅東口なんて何にもなかった、横浜市営地下鉄は走っていなかった、みなとみらいなんて地名はなかった、首都高速と横浜新道は繋がっていなかった・・・・、なんて言うと、老人の戯言になってしまいますね。

級友と語り合う時間はとても楽しく、リフレッシュできましたし、久しぶりに訪れた横浜は、非常に新鮮でした。
「羽沢横浜国大」という母校名が付いた新駅もできたことですし、横浜の魅力を大人目線で感じるために、近々、改めて遊びに行きたいと思っています。

学生時代、大学よりも足繁く通ったボーリング場が閉店した跡地も確認したいですね。

225 一竜一猪

先日、Yahoo!ニュースで「第1志望に「3分の2が不合格」中学受験の現実」という記事を見つけました。
葵さん(仮名)が経験したことを元に構成されたこの記事の一部を、以下に紹介します。

C校に入学して間もない4月上旬。葵さんが驚いたことがあった。男性の担任教員が「この中で第1志望じゃなかった子は?」と聞くと、クラスの大半の生徒が手を挙げた。「じゃあ第1志望だった子は?」。手を挙げたのは数人だった。「そうだよね、第1志望の子もいれば、そうじゃない子もいるよね」と担任は言った。

「私だけじゃないんだ」。葵さんは自分と同じ境遇の子が多いことにほっとした。同級生と互いの受験をオープンに話すことで、気持ちがほぐれ、友達が増えていった。そして学校が好きになった。

この記事を読んで、昔の思い出がよみがえりました。

以前にも紹介した私の中学受験は、学校の担任からは「合格するわけないからやめなさい」、塾の先生からは「合格しちゃうからよしなさい」と相反するご意見をいただき、結果は不合格。

「ほらね」と言わんばかりの学校の担任。
「悔しいだろうが喜べ。12歳で大学を決める必要はない!」と難しいことをおっしゃる塾長。

受験失敗という挫折感はわずか数日で消え、小学校の仲間と一緒に通った地元の公立中学は、楽しい3年間でした。

そして、迎えた高校受験。
思うように成績が伸びなかった私は、大学の付属校を受験対象から排除することにしました。
小学校6年生のときに学習塾の先生からいただいた言葉を思い出し、3年後、大学受験でもう一度勝負しようと決めたのです。

東京都にまだ学校群制度が存在した当時、私の第1志望は「41群」でした。
しかし、あまりにも内申点が低く、あえなく撃沈。
自身の第2志望だった、私立城北高等学校へ進学しました。

当時の城北高校は、1学年に750人ほど在籍していたマンモス校でしたので、それはそれはバラエティに富んだ生徒がいました。

その1人が、1年生のとき同じクラスだったS君。
入学当初からどことなく元気がなく、ねじ曲がって、ひねくれたような雰囲気を醸し出していました。
どうやら、有名県立高校合格間違いなし! と言われていたにも関わらず、運悪く失敗したそうで、「オレはこんな学校に来るつもりじゃなかったんだ」という気持ちが、入学当初、顕著に表れていたのでしょう。
その後、卒業まで同じクラスになることはありませんでしたが、決していい噂は耳にしませんでした。

もう1人印象的だったのはW君。
当時、城北高校の文系コースには、早稲田大学への推薦枠が1つだけありました。
文武両道、品行方正な生徒が毎年選ばれていましたが、我々の代では、W君とK君の一騎打ちとなりました。

W君はサッカー部、K君は体操部に所属し、各々運動部で活躍していました。
肝心の成績も、5段階評価でW君は平均4.9、K君は4.95と、どちらも非の打ちどころがありません。
W君は私立文系、K君は国立文系に所属していましたので、ここも評価対象になるのではないかなど、一時期、来る日も来る日も学校はこの話題で持ちきりでした。

結局、この激しい争いを制したのは、K君でした。

戦いに敗れたW君は、決して不満を口にすることなく、粛々と受験勉強を続けました。
普通に受験してもお前なら早稲田くらい楽勝だよ、と仲間に勇気づけられて臨んだ大学受験。
残念ながら志望校への合格は叶わず、明治大学への進学を決めたようでした。

「1浪して早稲田に行くべきだ」
「投げやりになっちゃだめだ」

人気者だったW君を心配する多くの仲間の声には耳を貸さず、明治大学へ進学したW君は、大学3年生の時に公認会計士の資格を取得したと、風の噂で聞きました。

推薦入試で落胆を経験し、一般入試でも夢破れたものの、自ら選んだ大学で腐ることなく努力を重ねたのでしょう。
同級生でありながら、心から尊敬できるなと思ったものです。

私の大学受験はというと、不合格の通知を重ね、入学を決めたのは第6志望の学校でした。
そして、入学金に加えて1年次の授業料も支払ったあと、第1志望の大学から補欠合格の報せを受けました。

仮に私が第6志望の大学へ進んでいたなら、W君のように努力することができただろうか・・。
補欠合格の電話を受けた際の感動や高ぶりを、大学生活に反映できただろうか・・。
受験は決してゴールではないな、と今更ながら感じます。

一竜一猪。
努力して学ぶ人と、怠けて学ばない人との間には大きな賢愚の差ができるということ。

セガレよ、まだまだこれからが勝負なのだぞ。

224 刻露清秀

有難いことに、ここ1ヶ月、とても忙しい日々を過ごしています。
勤労感謝の日も終日出勤し、その後の土日も処理しなければならない仕事をかなり抱えていました。
しかし、この週末はカミさんと京都へ紅葉見物に行く計画を、半年前から立てていたのでした。

ところが、カミさんはカミさんで、母親が先々週突然入院する事態となり、そのお世話に追われることとなりました。
ドタキャンか強行か、直前まで迷いましたが、「無理せず、欲張らず」を掲げて、予定通り上洛いたしました。

初日は、お気に入りのお蕎麦屋さんで昼食をとったあと、毘沙門堂と安祥寺へ出向きました。
どちらも山科駅から徒歩圏内にありますが、清水寺や嵐山と違って穴場的存在なので、さほどの人混みではありませんでした。

毘沙門堂では、ポスターにもたびたび起用される「勅使門」につながる石段の参道や弁天堂周辺、晩翠園が、キレイに色づいていました。
参道は散り紅葉で真っ赤に染まる写真で有名ですが、その時期にはまだ早かったようです。

参考までに、この毘沙門堂は、ウオーカープラスの京都府の紅葉名所人気ランキングでは第6位に選ばれています。
https://koyo.walkerplus.com/ranking/ar0726/

安祥寺は普段は公開されていないお寺ですが、10月から11月にかけて、期間限定で特別拝観が行われています。

御朱印をいただく際に小銭を持ち合わせていなかったので、千円札をお渡しし、そのままお納めくださいとお願いしたところ・・・・、

「ささやかですが、絵はがきをお持ちください。明日は日曜日なのですが、ほかのお寺のイベントに参加するため、今日が最後の拝観日なんですよ。この時間ですから、お二人が今年最後の参拝者かも知れませんね。」

なんだかご縁を感じた参拝となりました。

2日目は、ホテルでゆっくりしたあと、穴場中の穴場、京田辺市の「一休寺」を訪れました。

正しくは酬恩庵(しゅうおんあん)といい、とんちで知られるあの一休さんが、63歳頃から88歳で亡くなられるまでの約25年間を過ごしたお寺です。

正応年間(1288〜1293年)に南浦紹明が開いた妙勝寺が前身で、その後、戦火にかかり荒廃していたものを一休和尚が再興し、師恩に報いる意味で「酬恩庵」と命名されたそうです。

京都駅から近鉄線で南へ30分ほどの新田辺駅から徒歩25分というアクセスで、近くに観光地もないことから、紅葉の見頃であっても、混雑はしていませんでした。
(我々が帰るころ、団体客がバスで訪れ、若干様相が変わっていましたが・・)

ここには一休和尚の墓所があり(下)、宮内庁が御陵墓として管理をしています。

初日の午前中は、少し不安定な空模様でしたが、総じて天候には恵まれました。
ただ、行きの新幹線はみっちり仕事、初日夜は23時過ぎまでホテルで仕事、翌朝は4時に起床してカミさんの睡眠の邪魔にならぬよう洗面所で仕事・・・・と、カミさんにはやや申し訳ない旅になってしまいました。
帰りの新幹線でもやるぞ! と張り切っていたのですが、弁当を食べ終え、PCをオンにしてまもなく、寝落ちしてしまいました。
体力がほとんどエンプティだったようです。

それでも京都の紅葉ツアーは、大いに私に鋭気を与えてくれました。
来年も訪れることができるよう、日々仕事に精進したいと思います。

223 一六勝負

初めて勝った馬券は、高校2年か3年の天皇賞秋で、枠連1-8を1,000円購入。
結果は1着トウショウボーイ、2着グリーングラス。
見事的中し、配当は1,100円で、10,000円儲かった。

自分の馬券デビューについて、上記のように確信を抱いていました。
しかし、調べてみると該当するレースが見当たりません。
そもそも、トウショウボーイもグリーングラスも、天皇賞秋を制していないようなのです。

何が合っていて、何が誤っているのか、情報を整理してみました。
レースは天皇賞秋なのか、勝ち馬をテンポイントと勘違いしてはいないか、枠連1-8は本当なのか・・・・。
思案の末、最も信頼に値しそうなのは「ちょうど10,000円利益が出た」という点ではないかという結論に達しました。
初めて購入した馬券が的中して実入りがあった訳ですから、金額に関する記憶は正確なのではないかと目星を付けたのです。

そこから探っていくと、該当するレースがありました。
1978年11月に行われた第78回秋の天皇賞の枠連配当が、1,100円でした。
私が高校2年生のときですから時期も合っていますし、レース名も合致しています。

ただ、勝ったのはテンメイ、2着はプレストウコウ、枠連は6-8でしたので、ここは記憶と相反しています。
枠連ですから、同じ枠に同居していた馬を調べてみましたが、トウショウボーイもグリーングラスも出走していませんでした。

結局のところ、納得のいく結論は導き出せませんでした。
ただ、人間の記憶は当てにならないものなんだなと、改めて思い知らされました。

因みに、未成年は馬券を購入してはならないと法律で定められています。
まあ、45年も前のことですから時効でしょう。

元来、ギャンブルは嫌いな方ではないかな、と自認しています。
思い出深いのは、大学3年の夏に行ったラスベガスです。

ロサンゼルスでホームステイをしていた私は、週末を利用してラスベガスとグランドキャニオンへ遊びに行きました。
同じツアーに参加していた仲間の多くも一緒でした。

いつかは行ってみたいと憧れていたカジノの聖地は、まさにエキサイティングでした。
この日のために日本から持ってきた一張羅のスーツに身を包み、砂漠地帯でGolden Nuggetの看板を見たとき、これまで経験したことのない高揚感を感じました。

カジノにはスロットやポーカー、バカラ、ルーレットなど多様なゲームがありますが、私はブラックジャックの魅力に溺れました。

minimum bet 1$の最もハードルの低いテーブルとはいえ、ディーラーと対峙していると、自分がすっかり大人になったような気分になりました。

ディーラーが1枚目にエースを引いた時に聞かれる『insurance?』や、『stay』『hit』を手の仕草で表現するなど、現地で遊びながら学んだことも多く、時間を忘れて没入していました。

日付変更線を過ぎた頃、やや引きの弱い男性のディーラーがやってきました。
ここが勝負どきと判断し、賭け金も増やして巻き返しに成功しましたが、その後に現れたスレンダーでクールな女性ディーラーに屈し、結局一晩で270$の負けを喫しました(この記憶もあてにならないか・・・・)。

当時の為替レートは1$270円ですから、約7万円の損失です。
40年以上前に学生が一晩で7万円も失うとは、由々しき事態であることに間違いありません。

そろそろ退散しようかなと時計を見ると、深夜2時を過ぎていました。
10人ほどの仲間とカジノに来たのですが、周りを見渡すと、友人は誰もいません。
と思ったとき、ルーレットのテーブルにいた日本人と目が合いました。
京都大学文学部3年のNちゃんでした(女子です)。

『まだいたんだ』
『国立大学の学生って、ギャンブル好きなんかね?』

深夜のカジノで聞く関西弁はすこぶる印象的でした。

あれから40余年、現在の私は、一切ギャンブルをしません。
競馬、競輪、パチンコを始め、宝くじやロト、株も含めて全く興味が薄れてしまいました。
加えて、タバコをやめて約20年、酒は生まれつきの下戸。
なんだか味気ない男ですね・・。

ただ、ラスベガスは、もう一度訪ねてみたいです。
深夜までカジノに興じる体力は失われてしまいましたが、年齢なりの違った楽しみ方ができるかなと思っています。

初めて馬券を買ってから45年。
本日、15時40分、第168回天皇賞(秋)の発走です。

222 四衢八街

弊社のある清澄白河という地区は、古くはお寺だけが目立つ、陸の孤島のような存在でした。
お正月の深川七福神とお彼岸のお墓参り・・。
そんな時期だけ、ちょっぴり街が賑わう場所でした。

清澄白河駅が誕生したのは、都営地下鉄大江戸線が全線開通した2000年(平成12年)12月12日。
わずか、23年前のことです。
その後、2003年(平成15年)3月に半蔵門線が開通したことで乗換駅となり、利便性が抜群に上がりました。

弊社がこの地に移転したのは、その4年後の2007年(平成19年)2月。
その頃、弊社周辺にはコンビニもなく、まだまだ地味で不便な場所という印象でした。

2015年2月6日。
そんな雰囲気を一変させる出来事が起こりました。
カリフォルニア州オークランドのブルーボトルコーヒーが、日本1号店をこの地区に開店させたのです。

これがきっかけとなって、サードウェーブコーヒーの出店が相次ぎ、今ではカフェの街として、その名が知られるところになりました。

現在、ブルーボトルコーヒーは、青山、六本木、銀座、恵比寿、渋谷など、都内の一等地に多くの店舗を出店していますが、この清澄白河の店舗は「清澄白河フラッグシップカフェ」と公式サイトで紹介されています。
フラッグシップカフェ、即ち「旗艦店」ですから、企業の顔です。
我が街・清澄白河が、青山や六本木を見下ろしているようで、誇り高い気分になります。

弊社から徒歩数分の圏内には、ニュージーランド出身のカフェ「オールプレス・エスプレッソ 東京ロースタリー&カフェ」もあります。
ここには一時頻繁に通っていましたが、地元の英雄とも言えるブルーボトルコーヒーに、本日、初めて行きました・・。
この地で働く者としては、乗り遅れるのも甚だしいと反省しております・・。

開店まもない時間でしたので、店内はまだ空いていました。
カプチーノを注文すると、若い男性スタッフが丁寧に淹れてくれました。
持ち帰りで741円支払いましたので、スターバックスよりもだいぶ割高ですが、そこは単純比較してはいけないですね。

キレイなラテアートのカップに心を鬼にしてフタをし、ゆっくりと慎重に歩くこと2分。
会社に着くと、以下のような風貌となっていました・・。

今日は朝から、新しいオンデマンド機を設置する作業があったのですが、会社で過ごす週末の朝が、とても豊かな時間となりました。

初めて訪れてみて、店の外に自動販売機が設置されていることに気付きました。
コーヒーを売っているのはもちろんのことですが、私が心を奪われたのは「ブルーボトル羊羹 4本入り 1,870円」。
コーヒー味の羊羹なのでしょうか・・。

ネットで調べてみると『京都堀川三条で60年以上続くあんこ屋「都松庵」とコラボレートした、今までありそうでなかった、コーヒーに合う羊羹』だそうです。
帰りにもう一度寄らねばならなくなりました。

221 天佑神助

私は令和初日を京都で迎えました。
そして、令和最初の神社参拝は、伏見稲荷大社でした。
ご存知の通り、全国に数多ある稲荷社の総本宮ですので、商売を営む端くれとして、京都を訪れた際はお参りさせていただいています。

京都は外国人観光客が多いことで有名ですが、中でも伏見稲荷大社の人気は別格です。
トリップアドバイザーが発表している「外国人に人気の日本の観光スポットランキング」によると、2014年から6年連続1位だったそうです。
延々と続く千本鳥居は、日本的かつ幻想的で魅力的に映るのでしょう。

先日、仕事がひと区切りついたタイミングで、半年ぶりに参拝に訪れました。
連日体温越えの気温が続き、危険な暑さと言われている最中でしたが、まもなく上半期を終えるタイミングでもありましたので、決死の覚悟で上洛しました。

伏見稲荷さんへ到着したのは、午前6時30分。
既に太陽がギラギラ照りつけていました。
そしてこの日、予想外な出来事が3つありました。

1つめの予想外は、早朝から参拝客がたくさん訪れているかと思いきや、上の通り、案外空いていました。
猛暑のせいかな? と思いましたが、本当のことは分かりません。

2つめの予想外は、授与所が7時になっても閉まったままだったことです。
以前は6時過ぎから開いていたんだけどな・・と思いながら公式サイトを調べてみると、昨年3月にコロナ対策の一環として、以下のような決定が下されていました。

お札・お守り・おみくじ・朱印(授与所)の取扱い時間について
8:00から~17:30まで

通常対応になった、と理解すればいいですね。
8月限定の御朱印に心動かされましたが、今回は授与所が開く前に失礼することにしました。

最後の予想外は、楼門手前の両側に鎮座している、狛犬ならぬ狛狐が工事中だったことです。
見えづらいのですが、下の画像の中央にある貼り紙には、以下のように記載されていました。

眷属像の塗り替え工事を行っております。
ご迷惑をおかけ致しますが、足元にご注意のうえ、ご参拝くださいますよう、お願い致します。

最初の3文字(眷属像)は、「けんぞくぞう」と読みます。
「眷属」とは神の使いという意味ですが、サラッと読めたりするとちょっとカッコイイかも知れません。

稲荷大神にとって狐は「神使(かみのつかい)」「眷属(けんぞく)」などと呼ばれています。
熊野神社の烏や八幡神社の鳩などと同じような扱いです。

ちょっと屁理屈を申し上げると、先の狛狐という表現は、正しくありません。
狛犬は、古代インドやエジプトで、守護獣として獅子(ライオン)の像を置いたのが起源といわれ、それが中国・朝鮮半島を経て日本に伝わったことから、「高麗(高句麗)の犬」が語源であることが定説となっています。
従って、狛狐という表現は、本来の意味から逸脱しています。

難しいことは置いといて、この半年、無事に商売を営むことができたお礼ができ、少し心が落ち着きました。

商売がうまくいくかどうかは、自分の努力だけではどうにもなりません。
自分と客の間には神仏が居られることを忘れずに。

真言宗の僧侶のお言葉も心に留め、今後も仕事に邁進したいと思います。

220 敲氷求火

「日米首脳会談」のように、国名を漢字一文字で表すことがあります。
「米」=アメリカ、「英」=イギリス、「仏」=フランス、等々。
小学校高学年頃、なんて面白いんだろうと興味を抱きました。

「比」=フィリピン
「印」=インド
「加」=カナダ

なるほどなるほど。

「越」=ベトナム
「馬」=マレーシア
「蘭」=オランダ

すごいすごい。

「墨」=メキシコ
「秘」=ペルー
「丹」=デンマーク

このあたりで、なんで?? とやや興醒めした記憶があります。

今、外国人の名前に漢字をあてて作るハンコが人気になっていると、先日、テレビのニュースが報じていました。
ビアンカさんなら「美安佳」、オリバーさんなら「雄理場」といった具合です。
(その昔、暴走族やヤンキーの間で流行した「夜露死苦」とか「愛羅武勇」を思い出してしまいます)

テレワークによって電子印鑑の必要性が増し、ハンコ離れが進む世の中にあって、インバウンドに狙いを絞って売り出したところ、人気を集めているようです。

この企画を考案したお店は、外国人に漢字の意味が記載された紙を見せながら、どの漢字を当て嵌めるか注文主と一緒に決めていき、出来上がったハンコと一緒に、漢字の意味に関する資料も渡すそうです。
これなら、お土産として国に持ち帰っても、どうしてこの漢字にしたのかキチンと説明ができますね。

私には、漢字にまつわる苦い思い出があります。

大学4年の夏、フロリダの英語学校に1ヶ月だけ在籍していた時のこと。
そこは、英語以外を母国語とする国の人が英語を学ぶ場所で、私のクラスには、フランス、サウジアラビア、イラン、ペルー、韓国など、様々な国の若者が在籍していました。

週に一度、自分の国の紹介をする時間がありました。
もちろん、英語での発表です。
私は「漢字」をクラスの仲間に教えてあげようと決め、周到に準備をしました。

日本語で原稿を作るのも大変ですが、すべてを英語で伝える訳ですから、一大事です。
ましてやインターネットのない時代。
辞書を片手に多くの時間を掛けて、英訳しました。

そして、当日。
「今日は、MASAMIが日本について発表してくれます」と紹介され、十数人を前にスピーチを始めました。

アメリカ人は、わずか26文字しか使わないけれど、アタマのいい日本人は何万個と存在する漢字を使いこなしています。

さんずい、きへん、くさかんむり、くにがまえ・・・・、多くの「部首」があります。
さんずいは「海」「湖」「涙」など水に関する漢字が多く、くさかんむりは「草」「苗」「蓮」など草花に関する漢字の集まりです。

因みに私の名前は漢字で「山田雅己」と書きます。
この漢字を1文字ずつ英語に訳すと、「Mountain Rice field Brilliant Me」となります。
今、日本では「Small Fountain Today Child」って名前の歌手が人気です。

漢字の誕生にもいろいろと意味があります。
木がたくさん集まると「森」になり、田んぼで力仕事をしているのは「男」、おんなが古くなると「姑(しゅうとめ」で、波のようにシワができると「婆(ばばあ)」になるんだぞー。

どうだい、面白いだろ、なんてひとり悦に入ってしゃべっていたら、一番後ろに座っていたいつも寡黙なペルー人が、普段は見せたことのない興奮した表情で声を上げました。

「そんな話よりさ、日本にはNINJAがいるんだろ。塀を一気に跳び越えられるって、ホントなのかい??!!」

「マジか! おい、日本人はそんなにジャンプできるのか?」(by Iranian)

「スゲー! 今すぐ外でやって見せてくれ!」(by Saudi Arabian)

おいおい、ペルーの友よ・・。
キミのおかげで、渾身の原稿は半分以上が紙くずとなりました。