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122 奇々怪々

私は幼い頃、体があまり丈夫ではなく、幼稚園や小学校を一年間休みなく通うことはできませんでした。
それは、「自家中毒」という持病を抱えていたためでした。

腹痛や嘔吐を繰り返すので、症状は「食中毒」と似ていますが、全く関係はありません。
周期性嘔吐症と呼んだり、血液の中にアセトン(ケトン体)が増えるので、アセトン血性嘔吐症と呼んだり、現在では、その病態をさしてケトン血性低血糖症とも言われています。
(出展:https://www.ishamachi.com/?p=35551)

自家中毒の特徴についても、ネットで調べてみました。

①2~10歳くらいの間で見られ、5・6歳が発症のピーク。
②思春期になると治る。
③やせ型で繊細な子供に多く発症する。
④心配性で「失敗したどうしよう」などと先回りして考えてくよくよしてしまう性格の子供や、逆に楽しいことを想像してワクワクが止まらなくなってしまうなど、感情が盛り上がりすぎてしまう子供などにも見受けられる。

見事なまでに、私の子供時代を言い当てています。
因みに④は後者です。
人一倍楽しみにしていた運動会や、夏休みの家族旅行直前になると体調を崩すという、すこぶる残念なタイプの少年でした。

自家中毒を発症すると、母親におんぶされ、かかりつけ医に連れて行かれました。
母にしてみれば、可哀想半分、情けない半分といった心境だったことでしょう。
一方、私は、繰り返す嘔吐で体力が落ちている中、「またかよ」と気持ちも凹んでいたわけで、母の背中に癒され、勇気づけられたのを覚えています。

症状が落ち着いて、徐々に食欲が戻ってくると、母は消化の良い食事を用意してくれました。
決まって登場したのは、リンゴとはんぺんでした。

おでんの具人気ランキングの上位に必ず登場するこの「はんぺん」。
大人になってからは、好んで食べなくなりました。
美味しい美味しくないではなく、私にとっては「体調を崩したとき食べるもの」という印象が定着してしまったのです。
今でも、はんぺんを見ると、狭いアパートの一室で嘔吐していた、切なくて心細い気持ちを思い出します。

思い出すといえば、自家中毒を発症した時だけ会える「おじさん」がいました。
会えると言っても、四畳半の一室の決まった壁に「像」が浮かび上がるのです。
その像が見えるのは、自家中毒で布団に伏しているとき、という限られた条件下だけで、元気なときに現れることは決してありませんでした。
その「おじさん」はいつも同じ表情をしており、恫喝したり恐怖を与えたりすることは決してありませんでしたが、「あの場所におじさんが見える=今オレは病気なんだ」と確認させられる存在でした。

あれは、一体どういう現象だったのでしょうか?

不思議の国のアリス症候群という病気があるそうです。
その症状は、目の前にある物の遠近感覚が狂ってしまったり、時間の感覚がおかしくなってしまったり、壁に顔が浮かんで見えたりするそうです。
う〜ん、ちょっと違うような気がします。

実は、大人になってから、たった一度だけあのおじさんに会ったことがあります。
昼寝をしていたとき、夢に現れたのです。
しかも、体調不良ではなく、元気なときに。
ほろ苦い思いと、ちょっと嬉しい思いが交錯した記憶があります。

今日は私の56回目の誕生日です。
母へ感謝の意を表しつつ、子供の頃の不思議な話をしたためてみました。

118 機略縦横

私の義母はとても信心深い人で、毎年決まって参拝する寺社が複数あります。
その一つが寒川神社で、もう20年も前から毎年訪れているようです。
寒川さんですから、目的は他でも無い、八方除け祈願です。

そして、義母は自分だけでなく、私個人と会社の分も御祈願してきてくれますので、有難いことに、我が家には毎年寒川神社のお札があります。
かねてより人任せではなく自ら出向かなければと思いつつ、これまで機会を逸していましたが、遅まきながら、この度カミさんと参拝してまいりました。

寒川神社三之鳥居

最寄り駅のJR相模線宮山駅から、長閑な風景の中を歩くこと6〜7分。
左側に立派な鳥居が見えてきたので、てっきり一之鳥居かと思ったら、神池橋の奥にあるこの鳥居は三之鳥居だそうで、一之鳥居は、境内の南、およそ1kmの地点にあるとか・・。
流石は延喜式にも載る東国有数の古社だけあって、敷地は広大です。
一礼して、この三之鳥居から神域へ入り、手順に則ってひと通り参拝を済ませました。

もちろん、御朱印もいただきました。
併せて御朱印帳も購入しようと思ったところ、社務所ではなく売店で扱っていると知り、行ってみると、その種類の多さに驚きました。
そして、かなり迷った末に、表紙が杉の木製の御朱印帳(写真一番手前)と、紫色の御朱印帳袋を購入しました。

寒川神社売店(許可を得て撮影しています)

参拝をしていると、隅々まで清掃され、とても手入れが行き届いた神社であることに気付きます。
そこが歴史ある相模國一之宮の品格なのでしょう。
天気に恵まれたこともあって、清々しく厳かな境内は、穏やかで心地よい時間を与えてくれました。

ただ、ご本殿の奥にある神獄山神苑を見ることはできませんでした。
というのも、ここに入苑できるのは、各種御祈願・大祓祈願申込をされた方だけ。
「難波の小池」を中心としたこの神苑は、池泉回遊式の日本庭園が広がり、茶屋や資料館が併設されているとか・・。

歩くのが徐々にしんどくなってきている義母を連れて、来年は車で来ようかと思っています。
そして、私も八方除御祈願をし、神苑を拝見したいと思っています。

ところで・・。
方位によって生じる災いを取り除く方除け(ほうよけ)は、多くの神社で行っていますが、あらゆる災いを取り除く「八方除け」となると、その守護神は全国広しと言えど、ここ寒川神社だけです。
八方除の御祈願については、公式サイトに掲載されています。
(引用:http://samukawajinjya.jp/kigan/ki01.html)

地相・家相・方位・日柄等から起こるあらゆる災いを除く御祈願が八方除です。
例えば、人の住居というものは、古くから南向きの陽当たりの良い場所に建てられるなど、先人の知恵によって快適な営みの方法が試みられました。しかし、現代社会では、経済的にも、家相学上あるいは地理的条件の上からも必ずしも種々の条件にかなった建築は容易でありません。まして既設の住宅、また移転上の地相家相などにいちいちこだわっていられないのが現実です。
こうした事情から方位などによる祟り、障りなどを避けられないことがあります。また月によるもの、日によるものがあると考えられ、これら普請造作、移転、旅行などによって知らず知らずに、また知りながらも方位を犯しつつ日常生活の中で事に当らねばならぬことが多くあります。
こうした折に、寒川大明神の、広大無辺にあらたかなる八方除の御神徳を頂いて、一切の災厄を祓い除きいただき、皆様が明朗快活な日々を送り、家内安全、福徳円満、商売繁盛を招かれますよう御祈願するのが、八方除の御祈願です。

なるほど、シンプルでわかりやすい説明です。
「広大無辺にあらたかなる御神徳」という表現が、琴線に触れますね。
大難は小難、小難は無難に過ごすために、来たる年は、自ら八方除の御祈願を受けたい思いが、さらに強まりました。

また、同サイトには、数の神秘「八」というタイトルのページもあります。
これもなかなか興味深い内容でした。
(引用:http://samukawajinjya.jp/houi/houi07.html)

「八」は日本人が好む数字であり、最高位を占める数です。
八を「末広がり」といって喜ぶのは、裾が開いた形からくるイメージです。八を数字「8」で表し、8を横にすると∞となり、西洋では宇宙にすえひろがりに広がる、無限という意味にもなります。
八という数字は、中国では古くより非常に重大な意味をもっていました。紀元前十世紀ごろまとめられた易経における八卦に関係していて、宇宙のすべては、陰と陽を八卦で組み合わせることによって生まれるとされています。
わが国最初の書物「古事記」、また「日本書紀」には、八へのこだわりが多く見られます。大八島、八尋殿、八咫烏、八十建,八衢、八重雲・・・、三種の神器は、八咫鏡・八十握剣、八坂瓊勾玉と、鏡、剣、玉にみな八の形容詞を冠らせています。八は多大の意の日本における聖数であり、呪力のある数といえるのです。
“八方除”という言葉は、八方位を基本として吉凶を判断することから八という数字が用いられています。
しかしそれだけではなく、八方除のご祈願が私たちを目に見えない力でお守りくださるという神秘的で崇高なものであるという意味も込められていると考えることができるでしょう。

これを読んだとき、昭和52年の弊社創立の際、父が会社の電話番号について話していたのを思い出しました。

「電話番号の下4桁を、8088か7077で迷ったが、末広がりの8を選んだ。」

末広がり?
ナニソレ?
選ぶならラッキーセブンでしょ、普通。

当時15歳の私は、そう感じました。
しかし・・、日本人にとって「8」は聖なる数字なのですね。
父の判断は、正しかったようです。

その後、東京03局内の番号が8桁になり、弊社は中央区から江東区へ移転し、現在、弊社の電話番号には「8」が5つ含まれています。

多ければいいというものではありませんが、寒川大明神のご加護に与りながら、頭動けば尾も動くの如く、日々仕事に励んでいきたいと思います。

117 愉快適悦

都内で一番大きな本屋さんはどこだろう・・。

先日、家族とそんな話になり、ネットで検索したところ、池袋のジュンク堂だと知りました。
売場面積は、なんと2,000坪!
私は神保町の三省堂書店が好きなのですが、調べてみるとここは1,000坪。
さすが東京一となると桁外れの広さですね。

池袋といえば高校時代によく遊んだ場所ですが、40年前にジュンク堂は存在しませんでした。
とはいえ、池袋にジュンク堂が出来てこの夏で丸20年、2,000坪に増床したのも2001年のことですから、何を今更という感は否めません。
しかし、他店舗も含め、私はこれまでジュンク堂という書店に一度も足を運んだことがありませんでしたので、セガレを誘って今日行ってみることにしました。

久しぶりに池袋駅に降り立ち、東口から外へ出ると、高校時代が懐かしく思い出されました。

あの路地の奥にある喫茶店が、みんなとの溜まり場だったなあ…。
十条の某高校の学生に絡まれたのは、あの辺りだなあ…。
遅刻常習犯のK君を駅前で待っていたら、自衛隊に入隊しないかとスカウトされたっけなあ…。

少しノスタルジックな思いを抱きつつ、目的地に着くと、まもなく開店の10時になりました。
既に開店を待っていた20人ほどと一緒に店内に入り、セガレはミステリーの文庫本コーナーへ、私はノンフィクションを探しに行きました。

初めて来店した私にとって、広い店内を把握するのは一苦労でしたが、「ノンフィクション」が「社会評論」と表記されていたので、なおさら時間を要しました。
そして、ようやく目的地にたどり着くと、その書籍の多さは驚きを超えて、感動的光景でした。

肩から提げていたバッグを床に置き、棚の上から下まで隈無くチェックしました。
30分以上夢中になっていたでしょうか。
ふと我に返って携帯を見ると、精算を済ませたセガレから、5回も着信がありました・・。

一旦書店を後にし、インド料理店でお腹を満たしてから、再びジュンク堂へ戻りました。
結局、午前と午後、セガレと2人合わせて15冊、17,000円ほど買い込みました。

私が購入したのは・・、
☆絞首刑
☆日本殺人巡礼
☆免田栄獄中ノート
☆闇サイト殺人事件の遺言
☆女性死刑囚 十四人の黒い履歴書
☆罠 埼玉愛犬家殺人事件は日本犯罪史上最大級の大量殺人だった!等々・・。

「父さんの買う本は相変わらず不気味だなあ・・」と、セガレに痛いところを突かれました。
神社の本や語彙力を伸ばす本も買ったんですけどね・・。

大きな書店でお互い好みの本を買い、昼には大好きなサグチキンカレーを食べ、買い物が済んだ後はスターバックスで新商品のフラペチーノを飲み・・。
気温も落ち着いた好天の日曜日、親子で楽しい時間を過ごすことができました。

✳︎開店20周年記念カバーだそうです。

109 前途洋々

ドイツのデュッセルドルフで開催されていた世界卓球が幕を閉じました。
私が、最も印象に残ったのは、弱冠13歳、中学2年生の張本智和くんです。

史上最年少でベスト8に進出し、最後は世界ランク3位の中国選手に負けはしましたが、1ゲームを奪う健闘を見せました。
この試合は、日本時間の早朝4:45から放映されたのですが、我が家は全員でテレビ観戦しました。
私にとっては、いつもより15分だけの早起きでしたので、特別なことでもありませんでしたが・・。

今大会、張本くんの快進撃のきっかけとなったのは、日本のエース・水谷隼選手を破った2回戦ではないでしょうか。
大番狂わせ、下剋上と報じられましたが、破れた水谷選手も『純粋に強かった』と述べていたように、決してまぐれではないでしょう。

しかし、とても残念なことに、この試合は地上波では放映されませんでした。

日本時間の6月1日夜、『さあ、このあとは水谷さんと張本くんの日本人対決だぞ!』と思ったその時、世界卓球から全仏オープンの錦織選手の試合へ、中継が切り替わってしまいました。
二元中継であることは知っていましたが、世界の大舞台での日本人選手の対決を放送しないことに、ひどく失望しました。

ネット上でも、『卓球やれー』『今日はテニスじゃないでしょ』などという声がかなり上がっていましたし、危うく錦織選手がキライになるところでした。

タイムアウトの際に監督の助言をまっすぐに聞く姿勢や、4回戦で対戦したヨーロッパの選手に嫌がらせとも思える仕打ちを受けても自分を乱すことなく正々堂々を戦う姿には、感動を受けました。
東京オリンピックを17歳で迎える張本くんの成長を、陰ながら応援したいと思います。

 

それから、もうひとり中学生の怪物にも触れておきたいと思います。
そもそも非凡な人たちの集団である将棋界にあって、「天才」と呼ばれる藤井聡太四段です。

藤井くんは平成14年生まれの中学3年生で、21世紀生まれ初のプロ棋士なのだそうです。
ご両親は将棋界とは関係がないようで、初めはおばあちゃんに手ほどきを受けたとか…。

彼が現在通学しているのは、名古屋大学教育学部附属中学校。
愛知県内有数の名門校で、辻元清美衆議院議員も同附属高校の卒業生とのこと。
勉学も優れた少年のようです。

一方、相当のおっちょこちょいだそうで、お母さんは「生活能力が低い」とコメントしています。中学に入学してまもなくの頃、大阪の関西将棋会館に1人で泊まりがけで行かせたところ、「服と傘を全部(将棋会館に)忘れて帰ってきた」という逸話の持ち主だとか。
将棋も勉強も私生活も完璧、なんていうより、とても魅力的な少年だと私は思います。

2017年6月6日現在、プロデビューから公式戦20連勝中ですが、記録はどこまで伸びるのでしょう。
将棋界は、対局中にスマホで将棋ソフトを使用した云々騒動がありましたから、藤井くんは正に救世主のような存在かも知れませんね。

張本くんも藤井くんも、それぞれの世界でひときわ輝きを放っています。
正に、前途洋々。
明るい未来へ突き進んで欲しいと思います。

107 開巻有益

高校生のとき、ノンフィクションに目覚めました。
松本清張の「日本の黒い霧」を読んで、帝銀事件と下山事件を知ったことがきっかけです。
GHQの支配下という特殊な環境下で起こった、凶悪かつ不可思議な事件に、心を奪われました。

その後、凶悪犯罪や事故、死刑問題に興味を抱いた私は、今も関連の本を読み続けています。
それ故、自宅の書庫は、家宅捜索が入ったら疑いの要素には事欠かないラインナップです。

ただ、こういったジャンルの本は、小説のように数多く発行される訳ではありません。
従って、書店のノンフィクションコーナーに興味を惹く本がないと、「仕方なく」小説を買うことも少なくありません。

その仕方なく購入した小説が、気が付くと、数冊「積ん読」になっていました。
そのうち・・と思っているうちに、ズルズルと月日が経過してしまったのです。

しかし、連休前に意を決し、「ゴールデンウイーク積ん読ゼロ化」を人知れず宣言しました。
日中自宅で、就寝前に布団の上で、移動中の電車の中で、休憩中のカフェで・・。
様々なシチュエーションで読書を心掛け、本日、目標を達成しました。

読破後「読書は楽しいなあ」と改めて感じました。
元々書店に行くのは好きなので、来週末、新たな本を探しに行こうと思います。

余談ですが、私、電子書籍はダメです。
紙にインキで刷られた「本」が好きだからです。
しかし、電子書籍は印刷業界の敵ではないかという思いも、正直、心の隅っこにあります。
デジタル化の波に抗おうとする、商業印刷に携わる者としての譲れない何かが、思考回路の一角にこびり付いて離れないのだと思います。

ところで、セガレが小さいとき、私は意識して、自宅で本を読むように努めました。
「オヤジはよく本を読んでるだろ?」「読書は楽しいぞ!」とセガレに擦り込むためでした。
極端言えば、虚像でも構わないので、オヤジが日常的に読書している姿を印象付けることで、セガレに読書の習慣が付けば・・と願ってのことでした。

作戦が奏功したのかどうかは不明ですが、セガレは現在、通学の電車で読書をしているようです。
最近では、風呂場に本を持ち込み、浴槽につかりながら読書しています。
湿気で本がヨレヨレになるのは些か問題ですが、本を読む習慣は続けて欲しいと思っています。

ただ、読むのはミステリーが多いので、夏目漱石や川端康成も・・と願うのは欲張りでしょうか。
「じゃ、オヤジは今、なんの殺人事件の本、読んでんの?」
なんてツッコミに遭わぬよう、余計なことは言わずにおこうと思います。

105 雨過天晴

♪探しものは何ですか?
見つけにくいものですか?カバンの中も机の中も
探したけれどみつからないのに♫

昭和48年にリリースされた、井上陽水さんの「夢の中へ」の歌詞です。
子供心に、独創的でユニークな歌詞だなあと思っていました。

ところで、先日、御朱印帳が1冊、見当たらないことに気付きました。
普段保管している場所は、押し入れというかクローゼットのカラーボックスの一番上。
白い紙を敷いたその上に置いています。
ところが、1冊、どうしても見当たりません。

その1冊は、諏訪大社で購入したお気に入りの黒い御朱印帳です。
その後、二荒山神社や上賀茂神社、下鴨神社などで御朱印をいただき、最後に頂戴したのは、3月20日、静岡県の三嶋大社でした。

忘失に気付いた当初は、そのうちどこかから見つかるだろうと高をくくっていました。
さしずめ「探しものは何ですかぁ〜〜」と鼻歌まじりで探していた感じです。

しかし、何の手がかりもなく一週間が経過し、徐々に焦ってまいりました。

「御朱印帳をなくすなんて、神様に失礼だよね〜。」
「三島からの帰り、新幹線の車内に置いてきちゃったんじゃない?」

凹んでいるところに家族から非難の声を浴び、踏んだり蹴ったりでした。
しかし、片付けに関してはカミさんの方が何倍も上手ですから、反撃の余地はありません。
大切な御朱印帳を新幹線に忘れてくるほどアホじゃないわい!と言いたいところでしたが・・・・。

そこで、昨日夜、クローゼットの大捜索を敢行しました。
手前にある荷物を全て取り出し、定位置をつぶさに眺めてみました。

すると、御朱印帳を置いてあった場所の後方に、3cmほどの隙間を発見しました。
一縷の望みをかけて裏側を覗くと、暗闇の中に、何か物体が見えるではありませんか!

こうして、無事に探し出すことができました。
モヤモヤが一気に失せ、正に晴れ晴れしい気持ちとなりました。

よし、気分も新たに神社巡りだ!と張り切っていたのも束の間、絶好の神社日和の日曜日は、家族サービスであっという間に過ぎていったのでした。

096 羽化登仙

人間誰しもウィークポイントがありますが、私にとっては「お酒」でしょうか。

私は、まったく酒が飲めません。
「まったく」です。

「ちょっとなら平気だろ?」
よくそう聞かれるのですが、「ちょっと」もダメです。

以前、お客さんとゴルフに行ったとき、午前のハーフを38で回ったことがありました。
お祝いだから少しだけと、昼食時に瓶のキャップに半分くらい、日本酒を飲みました。
言ってみれば、文鳥が水を飲んだ程度でしょうか。
しかして、午後のスコアは、58。
すんでの所で、100叩きになるところでした。

下戸の原因は明白です。
父型の家系が、バリバリの下戸遺伝子を持っているのです。
当然、私の父も下戸。
祖父も下戸。
私の披露宴で、父方の親族の乾杯用シャンパングラスは、そのほとんどが飲まれることなく、注がれたままの状態で残っていました。

下戸であることで、得をした覚えはほとんどありません。
中でも最も面倒だったのは、大学時分の合コンです。

宴もたけなわの頃、決まって仲間の下宿へ車を取りに行くのです。
酔いつぶれたメンバーを、自宅へ送り届けるためです。
唯一のシラフ・私にしかできない、毎度の任務です。

しかも、自宅へ送り届ける女性に何かちょっかいでも出したら、後が大変です。
「ゴメン、酔ってて覚えていない・・・・」という言い訳は、ゼッタイに通用しませんから。

アルコールが飲めるようになりたい!という夢は、20代前半の頃に諦めました。
努力しても、こればっかりはダメだと・・・・。

ただ、著名人にもお酒を飲まない(飲めない)方が、結構いるようです。

大御所では、北島三郎さん。
若い衆を集め、先頭になって飲んでいるようなイメージがありますが、違うんですね。

的場浩司さんと、漫才のサンドイッチマンのおふたりも飲まないそうです。
ちょっと強面な方だと、ギャップに笑えますね。
その顔で飲めないのか?と私も若い頃しばしば言われましたが、そもそも「飲めそうな顔」の概念がわかりませんし、面構えとアルコール摂取量に相関関係がある訳ないですよね。

舘ひろしさんも意外です。
ブランデーグラスが似合う風貌と相反して、実は下戸なのだそうです。

泉谷しげるさんにいたっては、下戸だとはどうしても信じ難いです。
破天荒なキャラクターイメージとは、かけ離れていますね。

水谷豊さんも飲まないようです。
「下戸でもある」と、wikipediaで人物紹介されています。

B’zの稲葉浩志さんは酒は飲まない、タバコも吸わないとのこと。
学部は違いますが、彼は私の大学の後輩ですからね、親近感が湧きます。

羽化登仙。
羽が生えて天に昇っていくように、酒に酔って良い気持ちになること。
一生に一度でいいからこんな気分を味わってみたい・・・・、と切に思います。

095 白面書生

先週末、センター試験が行われました。
志願者数は、約576,000人だったそうです。

私が受験したのは、もう37年も前のこと。
当時は共通一次試験と呼ばれていました。
この試験が導入されるまで、国公立大学は一期校・二期校の中から各1校受験できましたが、共通一次試験によって、1校だけしか受験できないことになりました。
しかも、試験は「5教科7科目、1,000点満点」という、なかなか過酷なものでした。

昭和55年1月12日、試験初日の朝、忘れもしない出来事がありました。
寝ていた2階から階下へ行き、居間のドアを閉めながら「おはよう!」と挨拶した瞬間、入口に提げてあったカレンダーがストーンと落ちたのです。
「おはよう!」「ストーン!」の見事なタイミングは、まるで吉本新喜劇のようでした。
絵に描いたような縁起の悪さに、思わず笑うしかなかったですね。

受験会場は東京大学でした。
東京大学受験しているのであって、東京大学受験している訳ではなかったのですが、構内に入ると「よし、大学生になるぞ!」と気分が高揚した覚えがあります。

ただ、自己採点の結果は、目標の780点には遥かに及ばない、732点でした。
二次試験の出願校判断のため、某予備校に結果を提出したら、化学の偏差値が32でした。
順位は、およそ119,000人中、109,000位。
今年に当てはめれば、576,000人中、527,600位ですか・・・・。
理科は苦手でしたので好成績は望んでいませんでしたが、さすがにこれはショックでしたね。

私は、共通一次試験導入後、2年目の世代です。
従って、大学1年生のとき、1,2年生は共通一次試験組、3,4年生は一期校・二期校組でした。
一期校の東大を目指していたのに、何かの間違いで二期校の横浜国大に入ってしまった上級生と、マークシート方式で答案用紙を適当に塗りつぶす共通一次試験を経て入学した下級生。
出来の違いは、極めて明白でした。

ある講座では、担当教員から真顔でこう言われたこともあります。
「今年の生徒は共通一次試験組ですね・・・・。じゃ、試験問題は易しくしてあげますか。」

「ゆとりですがなにか」の昭和版ってところですかね。

おつむの出来は素晴らしい上級生たちですが、反面、ルックスの悪さも特筆ものでした。
薄汚れたジーンズ、何日も着続けているTシャツ、すり減ったサンダル、黒縁メガネ・・・・。
大変に優秀な先輩たちでしたが、まったく憧れの対象にはなりませんでした(笑)。

そういえば、今年のセンター試験は、今季最強寒波の襲来に見舞われましたね。
私も受験の時、寒さ対策にと、股引を履かされました。
ところが、普段履き慣れないために、下半身の暑さが妙な違和感となりました。

股引は、今や冬の必須アイテムとなったワタシ。
時代の趨勢を感じます・・・・。

094 合縁奇縁

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

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上の写真は、昨年も紹介した弊社近くの深川資料館通り商店街に毎年出現する正月飾りです。
どんなイラストが飾られるのか、私の年末の楽しみになっています。
今年は、大きなニワトリのバックに雪をかぶった富士山。そして、松竹梅が描かれています。
江戸時代に貯木場として栄えた地に相応しい、新年に打って付けの目出度い装飾ですね。
お正月を彩ってくれる、地元商店街の皆様に感謝したいと思います。

話は変わりますが・・、
去る1月3日、セガレが1年前まで通っていた学習塾へ、久しぶりに顔を出しました。
目的は、中学受験がすぐ間近に迫った現役生を励ますためです。

自分が生徒の時にも、折に触れて先輩方が激励に来てくれたそうです。
合格の秘訣や失敗談を話してくれたり、入学後の中学生活について聞かせてくれたり、帰り際には、お菓子を配ってくれたのだそうです。

この時期、世間がお正月モード全開なのに対して、「正月特訓」真っ只中の現役生は、お正月気分に浸ることも許されず、塾の休みは元旦だけ。
セガレが受験生の前で有益な話ができるとは思っていませんが、受けたご恩をお返しし、人のために時間を使うことの大切さを教えるには絶好のタイミングと思い、差し入れ用に合格祈願の定番お菓子「キットカット」を買って、塾に向かわせました。

塾が指定した時間は、午前最後の授業がそろそろ終わりに近づく頃でした。
セガレの出番は、生徒たちがお弁当を食べ終わり、午後の授業が始まるまでの時間帯です。
時間が来るまで事務室で待機し、その後、教室で15人ほどの後輩の前で話をしたそうです。

自宅に戻ってから話を聞くと、事務室で待っている間、塾長をはじめ、多くの先生方がセガレを覚えていてくれて、様々お話しが出来たのだそうです。
11ヶ月ぶりに顔を出した卒業生を快く迎えてくれ、先生と生徒という関係でなくなった今もご縁を繋げてくださったことを、とても有難く思いました。

また、偶然にも塾長はセガレの学校の先輩にあたりますので、塾長が通っていた頃の学校と現在との違いなどについて、具体的にお話し出来たことも楽しかったようです。

かつて、遊びたい盛りの小学生を塾に通わせることの是非について迷ったこともありますが、我が家にとっては間違っていなかったのかな、と思いました。

「ご縁」という言葉が私は好きです。
英語にすると「meeting」とか「chance」などが該当するのでしょうか。
でも、微妙なニュアンスが伝わらないですね・・。
やっぱり、日本人に生まれて良かったな、と思います。

089 幽明異境

平成28年12月8日。
敬愛する伯父が他界いたしました。
享年99歳でした。

以前にも少し触れましたが、この母方の伯父には随分と目を掛けていただきました。

初めて自転車を買ってくれたのは伯父でした。
将棋で勝つコツも伝授してくれました。
お米ができる過程を解説してくれたりもしました。

田んぼに行った帰り、小学生の私にトラクターのハンドルを握らせてくれました。
激しい振動で思うように操作できず、農道から転落しそうになったのも楽しい思い出です。

大正生まれで何度も戦地へ召集された伯父は、身内にはすこぶる厳格な人でしたが、私には優しい印象ばかりが残っています。

晩年、デイサービス等へお世話になることを嫌がっていた時期があったそうです。
プライドが許さなかったのではないか、と聞いています。

しかし、施設に入所してからは、外泊許可をいただいて自宅へ帰ってきても、
「施設での自分の席がなくなると困る」といって早々に戻っていったそうです。

自宅の方が居心地が良いはずなのに・・。
現在の自分の状況を賢察し、家族に配慮しての行動だったのでしょう。

今年の夏、伯父の住む田舎町では、満足な介護用品が揃わないと聞きました。
そこで、少し早めの白寿のお祝いも兼ねて、介護パジャマを2着贈りました。
日本橋の百貨店で購入し、手紙を添えて送ると、周囲がこう説明してくれたそうです。

「東京のマサミくんからのプレゼントだよ。日本橋のデパートで売ってる一流品だよ。」

すると、伯父は思いも寄らぬことを口にしたそうです。

「マサミくんのお嫁さんが以前働いていたデパートで買ったんだろうね。」

うちのカミさんが、結婚当時に日本橋三越で働いていたことを、いつ話したのか、当の私は全く記憶にありません。
それを、当時98歳の伯父は、ちゃんと覚えてくれていたのです。

お通夜の席でその話を聞き、涙が止まりませんでした。
私は、いくつ歳を重ねても、伯父のような賢人にはなれそうもありません。

子供の頃、私にとって伯父は正にスーパーマンでした。
そして、スーパーマンは、今日、私が贈ったパジャマと共に、天国へ旅立ちました。