恩義」カテゴリーアーカイブ

087 報本反始

今回は護国神社について書きたいと思います。

明治時代、国家のために殉難した英霊を奉祀した神社「招魂社」が各地に建立されました。
この「招魂社」が、昭和14年に改称して成立したのが「護国神社」です。

しかし、昭和20年8月のポツダム宣言受諾により、日本がGHQの占領統治下に置かれると、護国神社は軍国主義施設と見なされ、存続のために「護国」を名称から外すなど、改称を余儀なくされました。

その後、昭和27年にサンフランシスコ講和条約が発効し、主権を回復した後は、ほとんどが旧社名に戻しました。

例えば、千葉縣護国神社は、以下のような歴史を辿っています。
明治11年1月 千葉縣招魂社として創建
昭和14年4月 千葉縣護国神社と改称
昭和22年4月 頌徳神社と改称
昭和27年6月 旧称・千葉縣護国神社に復する
(千葉縣護国神社公式サイトより)

「国家のために殉難した英霊を奉祀した神社」として、最も有名なのは靖国神社でしょう。
靖国神社も、はじまりは東京招魂社という名称でしたが、明治12年に靖国神社と改称され、今日に至っています。

各護国神社の祭神は靖国神社の祭神と一部重なるものの、靖国神社から分祀された霊ではなく、独自で招魂し祭祀を執り行っているため、「靖国神社と護国神社とは本社分社の関係にはない」とされています。

しかし、共に英霊を祀る靖国神社と護国神社とは深い関わりがあり、各種交流もあります。
そもそも、靖国神社の公式サイトには、全国護国神社一覧が掲載されています。

私は、父の名付け親が靖国に眠っているため、初詣は決まって靖国神社に連れられました。
中門鳥居の手前左側には、戦地から兵隊さんが家族へ宛てた遺書や書簡が紹介されており、毎年正月に読むことが習慣になっていました。
そこには、氏名や年齢と共に、必ず「昭和◯◯年◯月◯日◯◯◯にて戦死」とありました。
こういう人々のうえに、今の生活が成り立っているんだなあと、子供ながらに感じました。

私は戦争を美化したり、軍国主義復権などと叫ぶつもりは毛頭ありません。
ただ、お国のために戦った先人達に、同じ民として、感恩の意をお伝えしたいと思うのです。

昭和14年4月1日の「護國神社指定」により、内務大臣が指定した護国神社は34社あります。
(靖国神社のある東京には、指定護国神社は存在しません。)
北海道から沖縄まで全国に鎮座していますので、すべてをお参りすることはできませんが、折に触れて参拝できれば、と思っています。

その第一歩として、先日靖国神社を訪れ、オリジナル御朱印帳を購入してまいりました。
靖国神社の御朱印から始まるこの御朱印帳に、全国護国神社の御朱印を集めたいと思っています。

靖国神社

080 報恩謝徳

昨年7月から、セガレの中学入試合格祈願のため、あちこち天神様を巡りました。
京都の北野天満宮をはじめ、東京近郊だけでも23ヵ所参りました。

その甲斐あって第一志望校に合格することができ、受験後、間もなく御礼参りを始め、先日、ようやく区切りを付けることができました。

拝殿で手を合わせていると、合格祈願のときは心の余裕がなかったな、と感じました。
御礼参りに出向いて、落ち着いた心境で新たに参拝できたことは収穫でした。

湯島天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(文京区)
久里浜天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・(横須賀市)
亀戸天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(江東区)
谷保天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(国立市)
平河天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(千代田区)
五條天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(台東区)
布多天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(調布市)
西向天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(新宿区)
成子天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(新宿区)
永谷天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(横浜市)
岡村天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(横浜市)
牛天神北野神社・・・・・・・・・・・・・・・・(文京区)
荏柄天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(鎌倉市)
千葉天神〈千葉神社摂社〉・・・・・・(千葉市)
新井天神北野神社・・・・・・・・・・・・・・(中野区)
大宮天満宮〈大宮八幡宮摂社〉・・(杉並区)
町田天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(町田市)
徳丸北野神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・(板橋区)
(参拝順)

御朱印をいただいたのは上記18ヵ所です。
櫻木神社(文京区)と北野神社(江戸川区)では、あいにく頂戴できませんでした。

一方、受験が終わってからお参りに伺った天神様もあります。
菅原神社・・・・・・・・・・・・(東京都町田市)
東蕗田天満社・・・・・・・・(茨城県結城郡)
大生郷天満宮・・・・・・・・(茨城県常総市)

これで合計23ヵ所になります。
こんなにもたくさんの天神様でご祈願させていただいたんだ、と感慨深い思いです。
「お主、また来たんか!」と道真公に煙ったがられたかも知れませんが……。

しかし、参拝に訪れたい天神様は、全国にまだまだあります。

やはり、日本三大天神は、ぜひとも制覇したいですね。
北野天満宮には参拝させていただいたので、あとは太宰府天満宮と防府天満宮です。

名古屋三大天神の上野天満宮、桜天神社、山田天満宮もいいですね。
それから、大阪の上宮天満宮と福島天満宮も魅力的です。

忘れてはならないのが、仙台市にある杜の都の天神様・榴岡天満宮です。
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花」
この有名なご詠歌が入った「見開き」の御朱印がいただけるのです。

宮城縣護国神社や大崎八幡宮・亀岡八幡宮も巡りながら、お昼は牛タン、食後は「ずんだ餅」。
そんな目論みを、家族には隠密に、そして、着々と進めています…。

074 千秋万歳

以前にも少し触れましたが、私には98歳になる伯父がいます。
大正6年10月15日生まれです。

折しも今日は終戦記念日ですが、伯父は太平洋戦争を経験しています。
一度ならず、何度も出征したそうです。
しかし、これまで、戦争について語ることは、ほとんどありませんでした。

「戦地でいろいろあったから、俺は、晩年幸せな人生は送れないかも知れない・・。」

いつぞや、周囲にそうこぼしたことがある、と聞いたことがあります。
この重い言葉に隠された伯父の胸奥を、私には推し量ることなどできません。

私の好きなノンフィクション作家・門田隆将さんの著「太平洋戦争最後の証言」によると、大正生まれの男子1,348万人のうち、およそ200万人が戦死したそうです。
7人にひとりです。
私もあと40〜50年早く生まれていたら、と考えると血の気が引きます。

伯父は子供が4人いますが、全員女の子でしたので、男の私を大層可愛がってくれました。
私に初めて自転車を買ってくれたのも伯父でした。
伯父の住む田舎の広い庭で毎日何十回も転び、寝る前に二人でスネのアザの数を数えました。
そして、ようやく乗れるようになった夏休みは、今も忘れることができません。

大学に合格した時も、たくさんお祝いをいただきました。
「行きたい学校に合格して良かったね。おめでとう。」と喜んでくれました。

家内を連れて遊びに行ったときは、寿司の出前をとってくれました。
カミさんに気遣いして、持てなしてくれたのだ、とすぐにわかりました。
オレは田舎者だから・・といつも謙抑で遠慮深い伯父でしたから。

また、伯父は手先が器用で、何でも作ってしまう人でした。
削いだ竹を編んで作った器は、職人顔負けの出来映えでした。
そして、腕相撲も強かったし、将棋も上手だった。
少年のボクには、何でもできるスーパーマンのような存在でした。

今秋には99歳を迎えますが、いくつになっても、伯父は私にとってスーパーマンです。
尊敬と感謝の念を込めて、白寿のお祝いを贈ろうと思っています。

057 一言芳恩

今日はセガレの入学式でした。
年度末の繁忙期を抜けたことと社員の協力もあって、私も参列できました。

受験戦争を勝ち抜いた240人の主役たちは、皆、輝いていました。
その中に、ピカピカでブカブカの制服に身を包んだセガレを見つけたとき、中学生になったんだなあ・・・・、と親としては感慨深いものがありました。

そして、いつものことながら、子供の式典への父親の出席率の高さに今日も驚きました。

私もはるか昔、中学受験をしましたが、「受験勉強」に励んだ記憶は皆無です・・・・。
週末は野球ばかりしていましたし・・・・。

一番の思い出と言えば、「私立中学を受験する」ことを周囲に伝えたところ、小学校の担任と、塾の先生から、正反対の言葉が返ってきたことでしょうか。

「受験はやめた方がいいです。受かる見込みはありません。」
こう言ったのは小学校の担任の先生です。
この先生は、4年生から3年間続けて担任だったのですが、とにかく私は反りが合いませんでした。
お前のような不真面目な生徒が合格出来るはずがない、受験料のムダだ、と一蹴されました。

「受験はやめた方がいいです。受かっちゃいますから・・・・。」
塾の先生からは真逆のことを言われました。
その言葉の本意は、受験しようとしたのが大学の付属中学だったからです。

『この学校に行ったら、大学までストレートだぞ。もう、大学を決めてしまうのか?』
『今後の努力によっては、東大に入れる可能性だってあるのに、その扉を閉めてしまうのか?』

この先生は、私を評価してくださり、大層期待を寄せてくださる先生でした。
東大は言い過ぎですが(笑)。

実は、中学1年生のとき、私はクラスで仲間外れにされた時期がありました。
両親も担任も気付かなかったその異変を、唯一、察してくれたのがこの先生でした。
そして、ある日の授業後、私は居残りを命じられました。

山田、お前、学校で何かあったんじゃないか?
最近明らかに元気がない。
そして、元気がなくなってから、成績も変だ。
言いたくなければ言わなくてもいい。
しかし、誰かに相談したいと思ったら、まず、オレのところに来い。

もう40年も前のことですが、この時の光景は鮮明に覚えています。
自分を見てくれている人がいるって、力が湧きますし、勇気が出ますね。
忘れもしません、お名前は松永先生です。
地元に根付いた小さな小さな塾でしたが、私にとっては大切な場所でした。

さて、肝心の中学受験の結果は、見事、不合格。
学校の担任からは「オレは間違ったことは言わない」みたいなことを言われました。
一方、松永先生からは「悔しいかも知れないが、喜べ。」と複雑なお言葉を頂戴しました。

そして、3年後。
高校受験に臨んだ私は、大学の付属校は受験しませんでした。
大学受験でもう一度勝負をしようと決めたからです。
その決意の源は、間違いなく松永先生の言葉でした。

これからの6年間で、恩師と呼べる先生にセガレが出会えることを、切に願っています。

018 風樹之嘆

先日、私の幼なじみのお母さんが亡くなりました。
小学校の同級生のお母さんですから、小さい頃からとてもお世話になった方です。

私が大学生の時。
デビューした頃の島田紳助さんのような髪型をした私は、友人と地元を歩いていました。

「あの子、ラーメン屋の出前持ちみたいな髪の毛してるけど、国立大学通っているのよ。」

私を見かけたそのお母さんは、近所のお友達にそう言ったそうです。
そうなんです、そんな遠慮の無い間柄なのです。
子供の頃から私を見知っているので、なんでもお見通しなのです。

大切な方の葬儀に参列するのは、時の流れとともに不可避なこととはいえ、悲しいです。

その同級生はお父さんを15年前に亡くしています。
不運にも、53歳にして、両親とお別れをしたわけです。

私は幸いにも両親が健在です。
父親は81歳にして、まだ現役です。
毎日仕事をしています。
車の運転が少し心配ですが・・。

母は料理が上手で、たまにご馳走になっています。
カミさんには申し訳ないけれど、やはり母の料理は絶品です。

「親孝行したいときに親はなし」

同級生を見回しても、両親が揃っている方が少なくなっているようです。
他人に迷惑を掛けずに生きていくこと。仕事をきちんとすること。
これが一番の親孝行なのかも知れませんが、今できることを再考したいと思います。