月別アーカイブ: 2026年3月

256 叩頭三拝

子供の頃から、正月には必ず靖國神社をお詣りしました。
父の名付け親が眠っているからだと、親から聞かされていました。

そして、中門鳥居手前の掲示板で、戦地から家族に送られた手紙を毎年拝読しました。
現在の平和や繁栄は戦没者の尊い犠牲の上に築かれたものである、との思いは、子供ながら必然的に抱いていました。
その思いは、国に命を捧げた先人への感謝の心として培われました。

そんな私が、今どうしても訪問したいのが、鹿児島の知覧特攻平和会館です。
ご存じのように、第二次世界大戦末期に「特攻」という人類史上類のない作戦で、敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料が展示されています。

広島の原爆ドームを初めて訪れたのは、50歳を過ぎてからでした。
あの時も、もっと早くに来るべきだったと強く思いました。
知覧は、日本人として見ておかなければならない場所の1つだと思っています。

 

話は変わりますが、私は地方へ行くと、必ず護國神社を参拝します。
護國神社とは、明治時代、各地に設立された招魂社が、1939(明治14年)に公布・施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」により、改称されて成立した神社で、国事殉難者・戦没者の霊を祀っています。

そして先日、富山縣護國神社を参拝する機会に恵まれました。
私にとって18箇所目の護國神社です。

参拝後、御朱印をお願いすると、男性の神職の方が快く引き受けてくださいました。
冬の富山にしては穏やかな気候でしたので、社務所の外でお待ちすることにしました。

夕飯は名物の白えびでも食べようか、などと考えながらお待ちしていましたが、そこそこの時間が過ぎました。

「御朱印をお願いしているのは私ひとりだったけれど‥、急用でも入ったのかな‥」と思っていると、まもなく神職さんが現れました。
500円玉と100円玉を握りながら有難く受け取ると、意外なことをおっしゃりました。

「お待たせいたしました。どうぞこのままお納めください。お代は特に頂戴しておりません。」

そんなわけにはいかないと申し上げましたが、頑なに拒まれるので、お代はお賽銭箱に入れさせていただく旨お伝えし、有難く頂戴することにしました。

これがその時の御朱印です。
時間が掛かった理由が分かった気がしました。

夢にだに 忘れぬ母の 涙をば いだきて三途の 橋を渡らむ

そこには、心揺さぶられる歌が認められていました。
こみ上げるものをおさえきれず、視界がぼやけてきました。

調べてみると、戰地から送られた便りや、最後の気持を綴られた遺書が神社境内にある遺芳館に展示してあるとのこと。
いただいた御朱印を大切にカバンにしまい、急いで向かいました。

高田豊志 命

昭和二十年五月十三日
沖縄本島西海岸沖にて特攻戦死
陸運少年飛行兵第十三期生
福光町才川七出身
数へ二十一歳

大正14年6月1日生まれの高田豊志さんは、幼少の頃から優秀で、役場勤務を経て昭和16年10月に東京陸軍少年飛行学校入校後、昭和19年3月、第13期陸軍少年飛行兵となり戦地に赴かれました。

やがて南方の戰局が次第に苛烈を極めると、台湾第一八九六八部隊に配属され、「陸軍特別攻撃隊員」となられました。

そして、昭和20年5月13日、飛行第二十戰隊陸軍伍長として台湾宜蘭基地より出撃し、帰らぬ人となりました。

戦死後、父・豊次郎さんは厚生省から白木の箱を受け取りましたが、開くことなく、ずっと仏壇にしまっておられました。

しかし80歳を過ぎ、余命幾許もないと感じ、箱を開ける決意をされました。
そこから出て来たのが、この遺書として残された『うたにつき』―歌集―でした。

実に、和歌783首、俳句17、詩文9編が収められていました。
御朱印にあった歌は、特攻戦死されるおよそ1ヶ月前の4月21日に母へ宛てられたものでした。

決して特別な人ではなく、ごく普通の若者がどんな思いで筆を進めていたのかと思うと心が震えました。
様々な思いが交錯し、しばし動けずにいました。
神社でこんなにも長い時間を過ごしたのは初めてでした。

帰宅後、「高田豊志少尉」と検索してみると、知覧特攻平和会館のサイトがヒットしました。
2023年6月18日付けの「今日の平和会館」に、以下の記載がありました(抜粋)。

本日は高田豊志少尉の遺書をご紹介します。

「お父様今愈々お別れの時が来ました。(中略)今お別れの歌が不味いけど出来ましたのでお別れのしるしに残して置きます 海山に劣らぬ親の厚恩に今ぞ報ひむ國のため散れ」

この遺書は、遺品室6コーナーにて展示しています

やはり知覧へ行かなばならない、との思いを強くした参拝となりました。