家族」カテゴリーアーカイブ

087 報本反始

今回は護国神社について書きたいと思います。

明治時代、国家のために殉難した英霊を奉祀した神社「招魂社」が各地に建立されました。
この「招魂社」が、昭和14年に改称して成立したのが「護国神社」です。

しかし、昭和20年8月のポツダム宣言受諾により、日本がGHQの占領統治下に置かれると、護国神社は軍国主義施設と見なされ、存続のために「護国」を名称から外すなど、改称を余儀なくされました。

その後、昭和27年にサンフランシスコ講和条約が発効し、主権を回復した後は、ほとんどが旧社名に戻しました。

例えば、千葉縣護国神社は、以下のような歴史を辿っています。
明治11年1月 千葉縣招魂社として創建
昭和14年4月 千葉縣護国神社と改称
昭和22年4月 頌徳神社と改称
昭和27年6月 旧称・千葉縣護国神社に復する
(千葉縣護国神社公式サイトより)

「国家のために殉難した英霊を奉祀した神社」として、最も有名なのは靖国神社でしょう。
靖国神社も、はじまりは東京招魂社という名称でしたが、明治12年に靖国神社と改称され、今日に至っています。

各護国神社の祭神は靖国神社の祭神と一部重なるものの、靖国神社から分祀された霊ではなく、独自で招魂し祭祀を執り行っているため、「靖国神社と護国神社とは本社分社の関係にはない」とされています。

しかし、共に英霊を祀る靖国神社と護国神社とは深い関わりがあり、各種交流もあります。
そもそも、靖国神社の公式サイトには、全国護国神社一覧が掲載されています。

私は、父の名付け親が靖国に眠っているため、初詣は決まって靖国神社に連れられました。
中門鳥居の手前左側には、戦地から兵隊さんが家族へ宛てた遺書や書簡が紹介されており、毎年正月に読むことが習慣になっていました。
そこには、氏名や年齢と共に、必ず「昭和◯◯年◯月◯日◯◯◯にて戦死」とありました。
こういう人々のうえに、今の生活が成り立っているんだなあと、子供ながらに感じました。

私は戦争を美化したり、軍国主義復権などと叫ぶつもりは毛頭ありません。
ただ、お国のために戦った先人達に、同じ民として、感恩の意をお伝えしたいと思うのです。

昭和14年4月1日の「護國神社指定」により、内務大臣が指定した護国神社は34社あります。
(靖国神社のある東京には、指定護国神社は存在しません。)
北海道から沖縄まで全国に鎮座していますので、すべてをお参りすることはできませんが、折に触れて参拝できれば、と思っています。

その第一歩として、先日靖国神社を訪れ、オリジナル御朱印帳を購入してまいりました。
靖国神社の御朱印から始まるこの御朱印帳に、全国護国神社の御朱印を集めたいと思っています。

靖国神社

082 紫電清霜

20年以上前、カミさんと新婚旅行でハワイに行きました。
まずマウイ島に2泊したのですが、そのホテルに、何故か卓球台がありました。
滞在中、マリンスポーツもゴルフも全くせず、迷うことなくふたりで卓球に興じました。
足もとだけはハワイらしく、ビーチサンダルで。

カミさんは、中学で卓球部に所属。
私は、小学校の時、地元の児童館の代表に選出されたことがあります。
そんな血統のせいか、セガレは、中学入学後、卓球部に入部しました。

セガレはいわば卓球初心者ですから、最初は朝飯前にやっつけてやりました。
しかし、敵は上達の一途。
こちらは体力低下、反射神経鈍化、老眼と遠視の進行・・・・。
実力差が、徐々に危うい状況になってきました。

こうなれば、道具に頼るしかありません(この作戦はゴルフと一緒)。
本日、セガレのラケットのラバーを張り替えに行ったついでに、マイラケットを購入しました。
サイトを調べ、いろいろと模索した結果、選んだのは以下の通りです。

ラケットは、BUTTERFLYのKORBEL(コルベル)。
ラバーは、おもてがXION(エクシオン)のヴェガヨーロッパ1.8mm。
うらは、YasakaのマークV中厚。
サイドテープは、BUTTERFLYのRBプロテクター2。

どうですか、文句の付けようのないこのスペック。
まあ、ひとことで言えば、初心者向け(笑)。
しかも、セガレの学校の卓球部がお世話になっている卓球専門店のスタッフさんにすべてお任せ。
サイトを見ても、何を選べばよいのやら、あまりに種類が多くてさっぱり分かりませんでした。

My Racket

サイドテープの色が、ラバーの色と見事にマッチしていて、満足しています。
色なら素人でも選べますからね。

よし、ちょっと腹筋鍛えて、スクワットもやろう!
そして、このラケットでセガレをギャフンと言わせよう!!

【余談】
因みに、リオ五輪で大活躍した水谷隼選手のラケットは、ラバー込みで4万円以上。
しかも、ラバーは数日おきに張り替えるのだとか・・・・。

私のラケットは、税込み11,836円。
そして、ラバーが傷む頃、「オヤジじゃ相手にならない」なんて言われるんだろうなあ。

080 報恩謝徳

昨年7月から、セガレの中学入試合格祈願のため、あちこち天神様を巡りました。
京都の北野天満宮をはじめ、東京近郊だけでも23ヵ所参りました。

その甲斐あって第一志望校に合格することができ、受験後、間もなく御礼参りを始め、先日、ようやく区切りを付けることができました。

拝殿で手を合わせていると、合格祈願のときは心の余裕がなかったな、と感じました。
御礼参りに出向いて、落ち着いた心境で新たに参拝できたことは収穫でした。

湯島天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(文京区)
久里浜天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・(横須賀市)
亀戸天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(江東区)
谷保天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(国立市)
平河天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(千代田区)
五條天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(台東区)
布多天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(調布市)
西向天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(新宿区)
成子天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(新宿区)
永谷天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(横浜市)
岡村天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(横浜市)
牛天神北野神社・・・・・・・・・・・・・・・・(文京区)
荏柄天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(鎌倉市)
千葉天神〈千葉神社摂社〉・・・・・・(千葉市)
新井天神北野神社・・・・・・・・・・・・・・(中野区)
大宮天満宮〈大宮八幡宮摂社〉・・(杉並区)
町田天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(町田市)
徳丸北野神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・(板橋区)
(参拝順)

御朱印をいただいたのは上記18ヵ所です。
櫻木神社(文京区)と北野神社(江戸川区)では、あいにく頂戴できませんでした。

一方、受験が終わってからお参りに伺った天神様もあります。
菅原神社・・・・・・・・・・・・(東京都町田市)
東蕗田天満社・・・・・・・・(茨城県結城郡)
大生郷天満宮・・・・・・・・(茨城県常総市)

これで合計23ヵ所になります。
こんなにもたくさんの天神様でご祈願させていただいたんだ、と感慨深い思いです。
「お主、また来たんか!」と道真公に煙ったがられたかも知れませんが……。

しかし、参拝に訪れたい天神様は、全国にまだまだあります。

やはり、日本三大天神は、ぜひとも制覇したいですね。
北野天満宮には参拝させていただいたので、あとは太宰府天満宮と防府天満宮です。

名古屋三大天神の上野天満宮、桜天神社、山田天満宮もいいですね。
それから、大阪の上宮天満宮と福島天満宮も魅力的です。

忘れてはならないのが、仙台市にある杜の都の天神様・榴岡天満宮です。
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花」
この有名なご詠歌が入った「見開き」の御朱印がいただけるのです。

宮城縣護国神社や大崎八幡宮・亀岡八幡宮も巡りながら、お昼は牛タン、食後は「ずんだ餅」。
そんな目論みを、家族には隠密に、そして、着々と進めています…。

077 魯魚亥豕

魯魚亥豕(ろぎょがいし)。
字形が似ていて、書き誤りやすい文字のことを指します。

私の名前は「雅己」と書きますが、この「」は少ない画数の割に、厄介な漢字です。
」「」「」と似た字が3つあります。
三画目の書き始めが上だったり下だったり、挙げ句に真ん中もあるので面倒なのです。

因みにこの3つの漢字の読み方は、各々以下の通りです。(出典:http://kanji.jitenon.jp/)
(音読み)こ、き(訓読み)おのれ、つちのと
(音読み)い  (訓読み)すで(に)、や(む)、のみ、はなは(だ)
(音読み)し  (訓読み)

昔の人はこれらを区別して覚える工夫をしていたようです。
上記の読み方を念頭に置き、下の文を解釈してみて下さい。

こきの声、おのれつちのと下につき、いすでは半ば、しみは皆つく

おのれは下に、は上に、すでに・やむ・のみ中ほどにつく

先人たちはすこぶる風流ですね。

こうしてみると「み」と読ませるためには「」と書くべきなのかも知れません。
ひらがなの「こ」は、「」の草書体だそうですし・・。

ただ、私と同じパターンも結構見受けられます。
元読売ジャイアンツの投手・槙原寛さんは「ひろみ」。
タレントの松本伊代さんのご主人・ヒロミさんの本名は小園浩と書いて「ひろみ」。
元・光GENJIの諸星和さんは「かずみ」。

何故、こうしたことが起こったのでしょうか?
」は常用漢字ですが、「」は常用漢字でないことが要因なのでしょうか?

ネットには面白い意見もありました(投稿者不明)。

」には「自分」という意味があります。
「自ら」の語源は「身・づ・から」で、「実践躬行」の「躬」も「み」と読みます。
つまり「」は「自分自身」という意味で「み」と読めるのです。

ん・・、結局、理論的に説明はできません・・。

なお、私の父は克(かつみ)といいます。
ちょっとあり得ない気もするのですが「」です。
聞いたところでは、戸籍と住民票と保険証の字が全部異なっていたそうで、戸籍に記載されている漢字が正しいとの原則に則り、「」に統一したとか。
昔は全て手書きでしょうから、この類いの混乱は珍しくないと思います。

こんなにややこしい漢字ですから、私も、日常的に間違いに遭遇します。
「雅」と書かれることには、かなり慣れました。

しかし、友人の一人が、毎年年賀状の宛名を「雅美」と印字してきます。
それから以前、ゴルフコンペの出走表に「雅光」と書かれたことがあります。
この2件は、「」とか「」とかの問題ではないですからね。

特に小学校の友人のN君。
長い付き合いなんだから、いい加減「雅美」は直して欲しいですね(笑)。

076 百人百様

この週末、セガレの通う中学校では文化祭が催されました。
1年前は受験生の親という立場で見学した文化祭を、今年は生徒の親として参加する訳で、感慨深い思いとともに、月日の経過の早さを感じます。

しかし、親と子供のテンションには、ちょっと温度差があるな、と感じました。
というのも、セガレの所属する卓球部は、練習試合も企画も展示も特にないとのこと。
中学1年生としての企画には参加するようですが、本人はさしたる思い入れはない様子。
終いには、自分が担当として企画に携わる時間帯には来てくれるな、と。

友人といるところに自分の親が現れるのを恥ずかしいと感じる年頃、なのでしょう。
「明日は親が来るんだよ。いやだなあ」と友人のM君も言ってたとか。

まあ、分かる気がします。
振り返ってみれば、自分にも思い当たる節がありますので。
確か「お母さん」から「おふくろ」に呼び方が変わったのは13〜14歳だったと思います。
「お母さん」と呼ぶのはえらく恥ずかしいしカッコ悪い、と感じたのを覚えています。

ふたつ上の姉に対しては、「おねえちゃん」が「姉」になりました。
そうです、「あね」と呼ぶようになったのです。
アクセントは「あ」のところです。
「橋」ではなく「箸」と同じアクセントです。
どうでもいいことですね…。

さて、肝心の文化祭は、私の親友であり、セガレの大先輩にもあたるたけちゃんが来校してくれたお陰で、2倍楽しく過ごせました。
イベントや企画、展示などを様々見て回りましたが、往々にしてオタクと称されがちな部員たちの活躍が光っていました。

例えば生物部。
大量の生物の標本の前で、詳細に説明をしてくれたのは、とても頼もしい高校2年生でした。
蝶と蛾の違いを解説してくれたり、害虫ではないゴキブリの話を聞かせてくれたり。
将来はその道に進むと?と聞いたら、「これでは稼げないですから」と。
なかなか、しっかりした学生さんでした。

例えば天文部。
OBのたけちゃんによると、手作りプラネタリウムが昔から有名なのだそうです。
LEDを1500個使用した段ボール製のプラネタリウムは、なんと作成期間11ヶ月。
文化祭が終わったら解体し、すぐに来年の文化祭の準備に取り掛かるのだそうです。
大きさは直径5メートル、高さ3メートル。
東京ドームのおよそ7300分の1です、との説明は笑いを誘っていました。

例えば日本の城研究会。
天守閣のあるお城は現存12あって、関東以北では弘前城が唯一だと教えてくれました。
夏合宿での研究成果も掲示してありました。
走って、腹筋鍛えて、腕立てやって、だけが合宿じゃないんですね。

みんなちがって、みんないい。
金子みすゞさんの言葉を思い出しました。

075 籠鳥檻猿

セガレの通う学校では、本をたくさん読むようにと指導しています。
読破した本について諸々資料を残すための「読書生活の記録」という冊子が全員に配布され、中高一貫の6年間、時間を作って読書をするよう躾けられているようです。

そして、今夏、セガレは宮部みゆきさんの本に、はまっています。
先日「ソロモンの偽証」を読み終え、次に「模倣犯」を買ってきました。
前者は全6巻、後者は全5巻です。
「なるべく薄い本を選び、感想文を書く。」
そんな邪(よこしま)な考えの父とは違うようです・・。

ところで、私の好きなジャンルはノンフィクションです。
きっかけになったのは中学生のときに読んだ、松本清張の「日本の黒い霧」でした。
この本は、下山事件、松川事件、白鳥事件など戦後日本で起きた怪事件を取り上げていますが、中でも私が最も感興をそそられたのは、帝銀事件でした。

この事件は、終戦から約2年半後の昭和23年1月26日15時過ぎ、閉店後の事務処理をしていた帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店に、東京都防疫班の腕章を着用した中年男が訪れ、行員12名を毒殺したうえ、現金と小切手を強奪したという凶悪なものです。

当初、捜査の中心は、毒物の扱いを熟知した旧陸軍731部隊に向けられていました
犯行の内容から、青酸化合物の扱いに慣れた専門家の仕業だと推察されていたのです。
その理由は以下のとおりです。

  1. 第一薬を飲んだ後に、第二薬を飲んでもらうと示すことで、苦しむ行員が散らばることを防いでいること。
  2. 第一薬として飲ませた薬物は、歯のエナメル質を痛めるので舌を出して飲むようにと、最初に自ら飲み方を見せていること。
  3. 青酸カリのような速効性のある毒物ではなく、遅効性の青酸化合物が使用されたこと。

目の前で飲み方を実際に見せられた訳ですから、行員たちが信頼したのも無理はありません。
しかし、事件の7か月後に逮捕されたのは、毒物とは一見何の関係もない画家・平沢貞通氏でした。

GHQからの圧力が囁かれる中、捜査の中心だった731部隊への追及はいつしか打ち切られ、取り調べの中で自白したこともあって、昭和30年、最高裁で平沢氏の死刑が確定しました。

私がこの事件を初めて知ったのは中学生のときでしたから、平沢氏はまだ存命でした。
しかし、昭和62年5月10日、死刑囚という窮境のまま、八王子医療刑務所で亡くなりました。
逮捕から39年。
死刑確定から32年。
95歳の生涯でした。

私が興味を抱いた最大の理由は、平沢貞通という男の本性です。
即ち・・、
大量殺人を犯しておきながら、無実を訴え続ける人面獣心の男なのか、覚えのない罪を着せられて自由を奪われた不遇にして悲運な男なのか、必ずそのどちらかなのです。

籠鳥檻猿。
「ろうちょうかんえん」と読みます。
自由を奪われ自分の思い通りに生きることが出来ない境遇のたとえです。
平沢氏の人生は、籠の中の鳥、檻の中の猿だったのではないでしょうか。

30人以上の歴代法務大臣が死刑執行に踏み切らなかったのは何故でしょう。
ここに、答えが隠されているように思います。

この事件を知った後、下川事件、三億円事件、オウム真理教関連事件、光市母子殺人事件等、ノンフィクション作品を随分読みました。

その結果、私の本棚は、ちょっと見てくれが悪い状況を呈しています。
扉を開いて、目に飛び込んでくる本の背文字は、
「死刑」
「贖罪」
「死刑の基準」
「殺された側の論理」
「死刑のための殺人」
「殺人犯はそこにいる」
「心にナイフをしのばせて」
「それでも彼を死刑にしますか」
等々・・。
因みに今読んでいるのは、上野正彦先生の著「監察医が泣いた死体の再鑑定」です・・。

「父さんの本棚には、学校が推薦する類いの本は全然ないね。」
全くセガレの言う通りです・・。

誤解を招かないように申し添えますが、小説なんかも、私、普通に読みます。
重松清や東野圭吾、角田光代など、著名な作家の作品も本棚に並んでいます。
やや片隅に追いやられていますが・・。

074 千秋万歳

以前にも少し触れましたが、私には98歳になる伯父がいます。
大正6年10月15日生まれです。

折しも今日は終戦記念日ですが、伯父は太平洋戦争を経験しています。
一度ならず、何度も出征したそうです。
しかし、これまで、戦争について語ることは、ほとんどありませんでした。

「戦地でいろいろあったから、俺は、晩年幸せな人生は送れないかも知れない・・。」

いつぞや、周囲にそうこぼしたことがある、と聞いたことがあります。
この重い言葉に隠された伯父の胸奥を、私には推し量ることなどできません。

私の好きなノンフィクション作家・門田隆将さんの著「太平洋戦争最後の証言」によると、大正生まれの男子1,348万人のうち、およそ200万人が戦死したそうです。
7人にひとりです。
私もあと40〜50年早く生まれていたら、と考えると血の気が引きます。

伯父は子供が4人いますが、全員女の子でしたので、男の私を大層可愛がってくれました。
私に初めて自転車を買ってくれたのも伯父でした。
伯父の住む田舎の広い庭で毎日何十回も転び、寝る前に二人でスネのアザの数を数えました。
そして、ようやく乗れるようになった夏休みは、今も忘れることができません。

大学に合格した時も、たくさんお祝いをいただきました。
「行きたい学校に合格して良かったね。おめでとう。」と喜んでくれました。

家内を連れて遊びに行ったときは、寿司の出前をとってくれました。
カミさんに気遣いして、持てなしてくれたのだ、とすぐにわかりました。
オレは田舎者だから・・といつも謙抑で遠慮深い伯父でしたから。

また、伯父は手先が器用で、何でも作ってしまう人でした。
削いだ竹を編んで作った器は、職人顔負けの出来映えでした。
そして、腕相撲も強かったし、将棋も上手だった。
少年のボクには、何でもできるスーパーマンのような存在でした。

今秋には99歳を迎えますが、いくつになっても、伯父は私にとってスーパーマンです。
尊敬と感謝の念を込めて、白寿のお祝いを贈ろうと思っています。

071 嘉辰令月

今日は私がこの世に生を受けて、ちょうど20,000日目にあたります。
私にとって20,000回目の朝なんだなあと、今朝はどことなく感慨深い思いでした。
単純に20,000÷365=54.79ですから、なるほど、55歳の誕生日前にこの日は来るんですね。

20,000日目であることを知ったのは、思いがけないことがきっかけでした。

私には98歳になる伯父がいます。
10月が誕生日なので、来年秋には100歳になります。
100歳って日数にすると何日になるんだろう?
そんな疑問からでした。

振り返ってみると、私にとっての5,000日目は1975年6月30日(月)。
中学2年になって3ヶ月後。
スポーツに打ち込む訳でもなく、
一生懸命勉強する訳でもなく、
生意気盛りの中2には、彼女がいるはずもなく・・。
これといって特徴のある少年ではなかったですね。

10,000日目は1989年3月8日(水)。
27歳春。
どちらかといえば結婚願望のある方でしたが、全く叶いませんでした。
春が身近に感じられず、
将来の展望も開けず、
やや暗い青春時代を送っていました。

15,000日目は2002年11月15日(金)。
結婚して約7年。
40歳を過ぎても子宝に恵まれず、
友人たちの子は着々と成長し、
周囲から二世を期待する声も若干遠ざかりはじめ、
人生設計の修正が必要だな、と感じていました。
カミさんと二人の生活をどう楽しんでいこうかと・・。
まさか、翌年秋にセガレが生まれるなんて、想像もしていませんでした。

そして、20000日目、2016年7月24日(日)。
家庭は円満だし、
両親は元気だし、
今日のご飯に困ってはいないし・・。
人並みに仕事のストレスは抱えておりますが、幸せな節目の日だと思っています。

20000日だ、20000日だ、と騒ぐ私をよそに、家族の反応はいたって冷静でした。
しかし、しつこく訴え続けたらカミさんが晩飯に付き合ってくれました。
『20000円の料理を食べる資格が今日のオレにはあるんじゃないか!』との主張は、
あっさりと否定されてしまいましたが…。

因みに98歳になる伯父は、既に36,000日を超えています。
ん・・、先は長い・・。

070 切磋琢磨

今日、セガレの中学では1学期の終業式が行われました。
中学生になって、最初の通知表をいただいてまいりました。
私立中学でもありますので、どんな通知表なのか私も楽しみにしていましたが、A4コピー用紙に片面プリントしただけという、やや期待はずれの体裁でした・・。

成績の評点は一旦置いといて(笑)、それよりも、遅刻・早退・欠席がゼロだったことを評価してあげたいと思っています。
起床時間が大幅に早まり、片道1時間以上要する電車通学を親は最も懸念していましたが、そんな中での出席率100%です。元気が一番!と誉めてあげました。
子供の順応性は、親の心配を超えていた、ということでしょうか。

入学してから今日まで、様々な行事がありました。

晴れ晴れしい気持ちで迎えた入学式。
借り物のようなサイズの制服でした。

ちょっぴり怖くて、実は優しい先輩たちと一丸となって戦った体育祭。
結果は最下位でしたが、タテの繋がりを経験できました。
体育祭の翌日に渋谷で打ち上げがあると聞いたときは、ちょっと生意気だなあと感じました(笑)。 

7月には東京地方裁判所ではじめて裁判を傍聴しました。
人定質問、甲号証・乙号証など、専門用語をセガレに教えてもらいました。 

そして、週末からは、長野県での林間学校があります。
8月には、部活の合宿にも初参加します。
9月になると、文化祭もあります。

こうしてみると、学生生活は楽しそうだと、つくづく感じますね。
正直言うと「大人はテストがなくていいよなあ」と子供の頃はよく思ったものでしたが・・。

セガレの通う学校は「面倒見の良い学校」として知られています。
先輩に学び、後輩に伝える環境が醸成されている校風の中で、同級生や先輩、後輩から様々な刺激を受けて、個性を伸ばしていけたら何よりと思います。

未来に夢が広がる子供たちを、まぶしく思います。

068 覧古孝新

「どうして伊豆アートさんって名前なんですか?」

たまにこんな質問を受けることがあります。
所在地は東京ですし、私の名字は山田ですから、疑問に思うのは自然かと思います。

答えは、弊社の創業者である父が伊豆の生まれだから、という陳腐なものです。

静岡県田方郡で農家の三男坊として生まれた父は、昭和24年、荷物をひとつ抱えて上京しました。
印刷会社で働きはじめた少年の夢は、一人前の商人になって、将来自分の店を持つことでした。

そして、昭和52年4月、44歳にして夢を叶えました。

会社を辞めると聞かされた時も驚きましたが、もっと驚いたことがあります。
それは、会社名が「大伊豆印刷株式会社」だと知ったときです。
「えー、ほかにないのー?」
17歳と15歳の姉弟は、口を揃えて反対しました(笑)。
東京で開業するのになんで伊豆なの?と、子供の感性には合わなかったのでしょう。
そして、父の故郷愛に思いを寄せることも出来なかったのでしょう。

開業にあたっては、周囲の方々から多大なるご支援をいただいたそうです。
勤務していた会社の社長、お取り引き先のお客さま、下請けの皆さん、税理士の先生・・。
特に、○城様と西○様には、心強いご支援をいただいたと聞いています。
人とのご縁は、人生を変えるほど大切なのものだ、と改めて思います。

父は昭和8年生まれなので、現在83歳になります(平成28年7月時点)。
年齢なりにガタはきているようですが、お陰様で毎日仕事をしています。

昭和8年。
どんな時代だったのか、ちょっと調べてみました。

この年に生まれた著名人は・・、
誰はさておき、天皇陛下がお生まれになったのが、この年の12月23日です。
なるほど、父は陛下と同じ年齢だったんですね・・。

オノ・ヨーコさんは2月18日生まれ。父と誕生日が1日違いですね。
芸能人では、宍戸錠さん、若尾文子さん、草笛光子さん、黒柳徹子さん・・。
故人では、菅原文太さん、藤田まことさん、池内淳子さん、南田洋子さん・・。
なかなか大物揃いです。

注目すべきは、ビスコとトクホンがこの年に発売を開始したことです。

ビスコは、昭和8年2月、1箱10銭で発売されました。
馴染み深いのは赤い箱だと思いますが、緑の箱の小麦胚芽入りビスコが私は好きです。
また、我が家では、ビスコの保存缶(賞味期限5年間)を非常食として保管しています。

トクホンは、商品名でもありますが、現在は「株式会社トクホン」と社名にもなっています。
また、トクホンの名の由来は、室町後期から江戸初期にかけて活躍した医師・永田徳本です。
諸国を巡り、安価で医療活動を行ったといわれる放浪の医者だそうで、享年118歳とのこと。
何か謎めいた人物ですね・・。

どちらも80年以上愛され続けている裏には、多いなる企業努力があるはずです。
長年培ってきた信用、見習うべき点は多いですね。

補足
「大伊豆印刷」に関する表記については、他の企業名を中傷する意図はありません。