250 不可思議

私は子供の頃から蚊に刺されやすい体質でした。
そういう体質の存在が医学的に証明されているのかどうかの知見はありませんが、集団の中で真っ先に自分刺されることが多かったのは事実です。
その傾向は、年を重ねても一向に変わりません。

先日、テレビ番組で蚊の特集が組まれていて、蚊にさされやすい人の特徴が以下のように紹介されていました。

  1. 体温が高い人
  2. 汗をかいている人
  3. 濃い色の服を着ている人

蚊は、触覚と口吻という器官を使って温度を感じ取ることができるのだそうです。
どちらかというと、私は体温が高いので、蚊の標的になりやすいのかも知れません。

しかし、特に汗っかきではありませんし、濃い色の服ばかり着ている訳ではありませんので、なんとなく消化不良のような内容でした。

そこで、GoogleのAIモードに「蚊に刺されやすい人の特徴」と入力すると、以下のような回答を得ました。

体質・生理的な要因
・体温が高い人
・汗をかきやすい人
・特定のにおいを持つ人
・呼気に含まれる二酸化炭素が多い人
・血液型O型の人

行動・環境的な要因
・アルコールを摂取した人
・黒っぽい色の服を着ている人
・動きのある人

この時期に「蚊」を話題にした理由は、9月に入ってから、顔を3箇所、蚊に刺されたからです。

仕事から車で帰宅し、自宅マンションの1階でエレベーターを待っているときでした。
4階に停まっていたエレベーターが降りてくるまでのわずか数十秒の間に、こめかみ・あご・おでこ、とやられました。

エアコンの効いた車から降りたばかりですから汗はかいていませんし、当然運動直後ではないし、着ていたワイシャツは白でしたし、エレベーターを待っている間はじっとしていましたし(当たり前)、運転していたのですからお酒は飲んでいませんし(そもそも下戸)、血液型はA型ですし・・。

様々な研究が進んでいるのでしょうが、「蚊に刺されやすい」ことに関しては納得がいかないことだらけです。
これまで、あの小さな生物への敗北感を、何度となく感じてきました。

ところで、「蚊の博士」と呼ばれる方がいるのをご存じでしょうか。
害虫防除技術研究所所長で医学博士の白井良和さんで、蚊の話題になると、雑誌やテレビに頻繁に登場します。

巷でささやかれる「蚊にまつわるウワサの真相」について白井さんが答えている記事が面白かったのでご紹介します。
(https://news.yahoo.co.jp/articles/e3c592f616c8b286e0c26ae4dc1218b2345fc4c4?page=2)

【O型は刺されやすい】
⇒ 実際にO型>B型>AB型>A型の順で刺されやすい。

【太っていると刺されやすい】
⇒ 表面積の大きさや体温の高さ、水分と二酸化炭素の排出量で蚊に認識されやすい。

【赤ちゃんは刺されやすい】
⇒ 生まれたばかりの赤ちゃんは体温が高いので刺されやすいが、抗体がないので痒みはない。

【蚊は黒い服が好き】
⇒ 黒だけでなく、紺色など暗色は認識されやすい。白など明るいゆったりとした服を着ると刺されづらくなる。

【蚊は風に弱い】
⇒ 蚊の体重は2ミリグラム。風で飛ばせるので、うちわやハンディ扇風機をあてると寄ってこない。

【足の裏をアルコールで拭けば全身刺されない】
⇒ 足を拭いても刺されにくくなるのは足のみ。いちばん蚊を誘引するのは顔の皮脂。こまめな洗顔、タオルで拭うなどして。

【蚊は逃げるとき縦方向に飛ぶので、蚊をつぶす際は上下にはたく】
⇒ 考えるより先に、見た瞬間に、方向関係なく蚊をよく見て叩いてつぶすべし。

「蚊にまつわるウワサ」といえば、子どもの頃「蚊に刺されたら爪でバッテンを付けるべし」と言われていましたよね。
どうやらこれは、患部を傷つけて症状が悪化する可能性があるのでNGなのだそうです。
バッテンを付けるとどことなく気持ちいいので、しばらくは引っ掻かなくてもいられる、という意味においては効果があるんじゃないか、と思ったりもしますが・・。

249 過小評価

「パイナップルピザ」を好きだという人を見たことがありません。
どうして大手のピザのメニューには必ずと言って良いほど掲載されているのでしょうか?

ネット上でこんな意見を目にをしました。
しかし、私はパイナップルの入ったピザが大好きです。

ただ、「ピザを取ろう!」となったとき、パイナップル云々を主張して大反対に遭ったことが何度もあります。
「ピザにパイナップルを入れる理由が分からん!」と、アタマから否定されたこともあります。
パイナップル入りピザは、世間的には人気がないものだと、ずっと思っていました。

ところが、カミさんとはこの点で嗜好が合いました。
「ピザーラで一番美味しいのは、ハワイアンデライトだよね」なんて合意が出来たのは、人生初のことでした。
これが理由で結婚を決めたわけではありませんが(当たり前か)、意外な一致点であったことは間違いありません。

このパイナップルピザに関して、TBS系のサイトで興味深い記事を見つけました(2024年6月公開)。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1235781?page=2#:~:text=パイナップルピザ%20発祥は?,喜びし、レギュラーメニューに%E3%80%82

ピザにパイナップルはあり? なし? “総選挙” で7割が出した答えは【ひるおび】

こんなタイトルで、ドミノ・ピザが行った「パイナップル×ピザありなし総選挙2024」の結果を報じています。
SNS・WEB・LINE・一部の店舗などで投票が行われ、投票総数は実に16万1544票。
果たしてその結果は・・・・、

「あり」・・・68.1%
「なし」・・・31.9%

ダブルスコアで、「あり派」の勝利となりました(ファンファーレ)。

また、同サイトでは、大手宅配ピザチェーンでの人気度合いも紹介されていました。

前述のピザーラ『ハワイアンデライト』は、36品中15位。
真ん中よりは上位ですから大健闘です。
夏メニューのリニューアルでは、パイナップルが増量される予定、というニュースも紹介されていました。

そして、ドミノ・ピザでは、パイナップル入りの『トロピカル』が、単品ピザメニュー27品中8位でした。
1992年に登場し、一旦販売終了したものの、ヘビーユーザーからの強い希望で復活したという根強い人気商品とのこと。

結構人気あるじゃないか!
少数派じゃないじゃんか!

これからは、堂々とパイナップル入りピザのオーダーを主張したいと思います。

なお、パイナップルのピザの発祥は「ハワイ」かと思いきや、実は「カナダ」だそうです。
1960年代、カナダのあるレストランが面白半分でパイナップルのピザを試作したところ、お客さんが大喜びし、レギュラーメニューになりました。
その時に使われたパイナップルの缶詰の名前が「ハワイアン」だったことから、メニュー名がハワイアンピザとなり、世界中に広がっていったということです(諸説あります)。

因みに、酢豚にもパイナップルがよく入っていますね。
ワタクシ、酸っぱいものが少々苦手なので、これは遠慮させていただきたく存じます。

248 乱臣賊子

ちょっと前の出来事ですが、4月16日の衆院外務委員会で立憲民主党・小熊慎司衆院議員が以下のような発言をしました。

「アメリカの言っていることは無理難題だし、理論もめちゃくちゃだし、何の整合性もないわけですよ。不良少年のカツアゲに近いですからね」

と、トランプ関税を批判したのです。

おとなしい日本人がよくぞ言った!
彼は石破総理が言えないことを言った!

と、全体的には評価する声が多かったようですが、マスコミで大きく取り上げられることはありませんでした。
アメリカへの忖度があったのかも知れませんね。

さて、この「カツアゲ」。
自慢にもなんにもなりませんが、私、若い頃に、2度カツアゲの被害に遭っています。
ざっと申し上げると、最初は、高校2年生、学校からの帰り道。
わずかなお金と、持っていたEPレコード(BlondyのHeart of the Grassだったか?)を盗られました。
友人2〜3人と一緒に歩いていたのに、私だけが路地に引きづり込まれた理由は今も定かではありません。

2度目は、横浜のハマボール近く。
日暮れ時、大学の女友達と一緒に歩いていたところを3人の男に囲まれ、数千円巻き上げられました。

「あとで返すから、後日事務所まで来てくれ」

いやいや、行けないっすよ笑。
っていうか、無事に帰ってこれないっしょ・・。

まあ、2件ともケガを負うことなく済んだので、良かったとするしかないですね。

キーボードで「かつあげ」と叩くと「喝上げ」と変換されました。
「恐喝」の「喝」と「巻き上げる」の「上げ」から生まれた言葉のようです。

ちなみに、現在21歳のセガレに聞いてみると、言葉は知ってるけど、自分はもちろん、誰かがカツアゲされたという話を聞いたことがない、とのことでした。

時代が違うんですかね・・。
昔より平和になったんですかね・・。
「全国カツアゲ被害件数統計」なんてないでしょうから、調べようもありませんが・・。

否。
そうではないです。
私は高校時代、髪型はオールバックでした。
そして、大学時代はアフロヘアで、派手なシャツを好んで着ていました。
私とセガレは、青春時代の外見、態度、風貌、挙動、所作等々が全然違っていたと気付きました。

物騒な話はこのくらいにして、「かつ揚げ」の話をしたいと思います。

とんかつをはじめ、あじフライ、牡蠣フライなど、揚げ物は美味しいですね。
しかし、健康診断後の「脂っこい食事は控えめに」という医師からの忠告が、揚げ物の外食にブレーキを掛けています。
ですから、決して多くの店を知っている訳ではありませんが、印象に残っているとんかつ店が2軒あります。

まず、上野にある「ぽん多本家」さんです。
ホームページには「日本のカツレツの生みの親《島田信二郎》の技を受け継ぎ、現在4代目」と紹介されていて、低温から10分以上時間をかけてじっくりと揚げるのが特徴です。

衣の色がやや白っぽいとんかつの美味しさはもちろんのことですが、個人的には、入口に目立つ看板がないため、初めて入店するときに、かなり勇気が必要だったこともインプレッシブでした。

2軒目は、京都の「とんかつ一番」さん。
創業は1960年ですから、ほぼ私と同級生。
住宅街にポツンとある昭和レトロな店構え。
そして、カウンター5席とテーブル3席のこじんまりとした店内。

ところがミシュランガイドのビブグルマンにも選出され、毎日行列ができる人気店なのです。
サクサクとした衣に包まれたジューシーなとんかつは満足度100点満点です。
デミグラスソースも絶品でした。

さて、最後に、とんかつには欠かせないキャベツの千切りについて。

日本で最初に「とんかつ」を出した店は、銀座の老舗洋食店「煉瓦(れんが)亭」で、2代目店主の木田元次郎氏が考案したそうです。

しかし、付け合わせを担当していた若いコックが兵役に取られ、困っていたときに思いついたのがキャベツの千切りでした。

当時は野菜を生で食べる習慣があまりなかったそうですが、初めは驚いていた客も、揚げ物と生野菜の組み合わせは次第に評判になっていったそうです。

その後の研究で、キャベツには胃もたれを防ぐ効果のある「キャベジン」が含まれていることも判明しました。
「キャベジン」には胃腸の粘膜を正常に整え、消化を助け、胃もたれを防ぐ効果があると言われており、脂っこいとんかつを食べても胃もたれを抑えることができるそうです。

単に相性が良いだけでなく、理にかなっていたという訳ですね。
とんかつを食べる際は、健康診断の結果用紙を思い出しつつ、キャベツを多めにいただきたく存じます。

そして、ジャイアンツのキャベッジ選手の打撃成績がもっと上がるといいな・・とも思う今日この頃です(関係ないか)。

247 名題看板

中学3年生だったある日の夜、話があるから座れ、と父に言われました。
姉と2人、何が始まるのかと思っていると、会社を辞め、自分で商売を始めると聞かされました。

じゃ、オヤジが社長になるわけね。で会社名は決めたの?

私は無邪気な質問を投げかけました。

ああ、決めた。「大伊豆印刷(おおいずいんさつ)」。

自分の出身地に「大」を付けるという昭和的且つ著しく安直な発想に、ほかの候補も考えた方がいい、と姉と一緒に物言いをつけました。
その意見を父も受け止めてくれて、その後、紆余曲折の末に現在の社名になりました。

さて、名称を公募で決めるということはよくありますね。
「ネーミング 公募」で検索すると、駅名、マスコットキャラクター、動物の赤ちゃんなど、日々、様々な募集が行われています。

名称の公募で有名なのは、東京タワーではないでしょうか。
昭和33年に行われた公募には8万通を越す応募が寄せられ、20位までは以下のような結果でした(カッコ内は投票数)。

1位:昭和塔(1,832)、
2位:日本塔(1,328)、
3位:平和塔(1,054)
4位:富士塔(666)
5位:世紀の塔(646)
6位:富士見塔(615)
7位:エターナルタワー(420)
8位:日本電波塔(373)
9位:東京塔(345)
10位:マンモス塔(307)
11位:宇宙塔(281)
12位:エンゼルタワー(274)
13位:東京タワー(223)
14位:日の丸塔(219)
15位:きりん塔(206)
16位:ゴールデンタワー(193)
17位:希望塔(158)
18位:文化塔(152)
19位:オリエンタルタワー(135)
20位:プリンス塔(126)

東京タワーは223票で13位でしたが、審査会委員長・徳川夢声氏の推挙により決まったそうです(「きりん塔」を推さなくて良かったなと思ったりもします笑)。
委員長の鶴の一声で決まったのか? という疑問も残る反面、最多得票の名称をそのまま採用しなかったことは、ある種、評価に値すると思います。

一方、東京スカイツリーは、全国投票の結果、投票数が最も多かったものを新タワーの名称として採用しました。
因みに、2位以下は以下の通りでした。

2位:東京EDOタワー
3位:ライジングタワー
4位:みらいタワー
5位:ゆめみやぐら

話は変わりますが、2024年の漢字は「金」でした。
「今年の漢字」は、一般公募の中の最多得票が選ばれる仕組みです。
パリオリンピックでの金メダル、佐渡金山の世界遺産登録、自由民主党国会議員などによる裏金問題、金目当ての闇バイト、新紙幣の発行等々・・、妥当と言えば妥当です。

しかし、「金」が選ばれたのはこれで5回目。
3回ほど選ばれたら「殿堂入り」といったルールがあってもいい気がします。

2位以下にはどんな漢字があったのか調べてみると、3位に「翔」が入っていました。
個人的にはこれが良かったなと思います。

悲しい災害や事故、事件から目を逸らすことはできませんが、明るい方を向いた選択もありかなと思うのです。

さて、2025年は一体どんな漢字が選ばれるのでしょうか。

お米の価格が高騰している、米国・トランプ大統領が関税などで世間を揺るがしていることから「米」も候補の1つかも知れません。

私は「博」になればいいな、と思っています。
大阪万博も大きな理由の1つですが、秋には複数の日本人「博士」がノーベル賞を受賞し、ウクライナに平和が訪れて「博愛」・・。
そんな世の中になることを祈りたいと思います。

でも、オンラインカジノ絡みの「賭博」が選出理由になってはいけませんね。

(補足)
「大伊豆」に関連する称号に、疑義を唱える意図はありません。

246 合縁奇縁

自分へのご褒美は「京橋千疋屋のマンゴーワッフル」と決めています。
よく働いたなーと思ったときは、カミさんを誘って食べに行きます。
ただ、マンゴーは4月から8月までのメニューなので、秋から冬は違うフルーツになります。

 

さて、先日、ゴルフ仲間の誕生日のお祝いとして銀座千疋屋から、ケーキをお取り寄せしました。
「ゴルフ仲間」などとカジュアルに書きましたが、その方はサラブレッドな家系で、そもそも私なんぞとは住む世界が異なります。
しかし、ご縁とは不思議なもので、近年頻繁にゴルフをご一緒させていただいています。

そして、この方、「マメ」というひと言では片付けられない懇篤な方なのです。

例えば、冬のゴルフ。
シナモンを加えたホットワインをサーモスの水筒に入れ、皆に振る舞ってくださいます。
そして「ヤマダさんは飲めないからこっちね」と、温かい紅茶の入ったスタバの保温ボトルも登場します。
しかも、宝石のような赤紫色をした芳醇なハーブティーが入っているのです。

例えば、早朝ゴルフ。
朝5時頃のスタートという半ば眠い状況を打破する「スタート前の缶ビール」が冷え冷えの状態でスタンバイしています。
そしてここでもヤマダさん用に、ノンアルコールビール、登場です。
「Budweiserのノンアル、珍しいでしょ」と、その銘柄もそこら辺の自販機で買ったモノとは訳違うのです。

毎々面倒をみていただくばかりなので、恩返しの機会はないか・・と狙っていました。
そんなとき、一泊二日でホテルを併設したゴルフ場に行くことになったため、お祝いのケーキを用意することにした、というわけです。

とはいえ、ご本人に見つかってはすべてが台無しです。
こっそり引き取るから協力して欲しい、と事前にゴルフ場へ電話を入れ、ミッションを実行しました。

朝、チェックインのためにゴルフ場のフロントに着くと・・、

「ヤマダ様、ヤマダ様、ケーキ、届いております。お渡しのタイミング、お申し付けください・・。」

フロントの女性スタッフが、アタリをキョロキョロしながら、消え入るような小さな声で話しかけてきたのには少々笑ってしまいました。

かくして、ゴルフ場の全面的な協力もあり、夕食後に晴れてお披露目ができました。

「なんか変な動きをしてるなーとは思ったよ」

と、少し怪しまれたものの、とても喜んでいただけました。

 

ところで、マンゴーワッフルは京橋千疋屋、お取り寄せしたケーキは銀座千疋屋。
千疋屋はデパ地下でもよく見かけますが、店によって扱っている商品が違うな、と思っていました。

すると、どちらも源流は千疋屋総本店で、京橋千疋屋と銀座千疋屋は、暖簾分けされたそうです。
その詳細は、ホームページに記載されていました。

1881年(明治14年)
中橋(京橋)千疋屋の誕生
千疋屋総本店三代目・代次郎の妹キヨは、二代目の当主 文蔵の時代に番頭としてふるった谷治郎吉に嫁ぎました。治郎吉は商才に長けており、文蔵から厚い信頼を勝ち得ていました。ある日「分家させてほしい」と切り出したキヨに文蔵は、夫の治郎吉のそれまでの千疋屋への貢献と人柄を見込んで暖簾分けを許し、1881年(明治14年)中橋広小路店(京橋千疋屋)が誕生しました。1914年(大正3年)には東京の玄関となる東京駅が開業し、通りには人々が絶えることなく往来。中橋広小路店は大いに繁盛しました。

1894年(明治27年)
新橋(銀座)千疋屋の誕生
千疋屋総本店の番頭であった齋藤義政は1894年(明治27年)、新橋(銀座)千疋屋を出店。
齋藤義政は福井県で生まれで、年頃になると働き口を求めて上京しました。三代目の当主 代次郎とひょんなことから知り合い、また話すうちに、少年の聡明で実直な人柄の良さが伝わり、千疋屋で雇われることになりました。生真面目で良く働き、頭の回転も良く、千疋屋にとって大きな戦力となっていた義政はその後、番頭として起用され、27歳の若さで暖簾分けを許されます。

そもそも千疋屋総本店の創業は1834年(天保5年)。
あと10年ほどで創業200年とは驚きです。

245 管鮑之交

高校生までは自宅近くの「床屋のおばちゃん」に髪を切ってもらっていました。
しかし、大学に入って急に色気づき、「美容院」に行こうと決意しました。

東京生まれの東京育ちでありながら、入学したのは横浜市内の大学。
アタマの中は「横浜の美容院」でオシャレにカットされる姿で充ち満ちていました。

とはいえ、横浜に通うようになって日が浅く、どこを探せば良いのかも分からないまま、たどり着いたのは、横浜スカイビル。
当時、東口では唯一、人が集まっていた場所といっても過言ではないと思います。

美容院の1軒くらいあるんじゃないか・・と思いながら徘徊していると、ありました、憧れの「美容院」。
入口から中を覗くと、ロングヘアをなびかせたステキな女性スタッフさんが目に入り、入店を躊躇していると・・、

「いらっしゃいませ〜! 中へどうぞ〜!!」

全身から気後れ感を放出させている大学1年生の私を、そのスタッフさんは、それはそれは優しく迎えてくれました。

どんな話をしたか、いくら支払ったのか等々、大半の記憶は逸していますが、最後に鏡に映った自分の姿は、今も鮮明に覚えています。
もみあげがパッツンとカットされ、両サイドがキレイに刈り上げられていました。

ただでさえロングヘアのお姉さんを前に平常心を失いつつあるなか、「流しますね〜」と床屋のおばちゃんとは逆の方向に椅子を倒されたことで完全に取り乱し、その後は何を聞かれても「お任せします」と返答したので、どんな結果になろうとも受け入れねばなりません。

両耳付近の形貌は、読売新聞で連載されている4コマ漫画『コボちゃん』を思い浮かべていただければ良いかと思います。
1980年頃の横浜でコボちゃんヘアが流行していたか否かは不明ですが、耳の辺りが涼しいな〜と感じるときがしばらく続きました。

それ以来、美容師さんに髪型を一任するのはやめた、という展開が自然かと思いますが、その後、現在に至るまで、美容院でこうしてああしてと要望したことがただの一度もありません。

注文を出すことは男らしくないというか、煮え切らないというか、女々しいというか、そんな気がするのです。
明らかにおかしな思考回路なのですが、何故そう感じるのか、理由は分かりません。

髪のセットが終わって、鏡に写った姿を最後に見て、あちゃーと思ったことは1度や2度ではありません。
それでも、要望は出しません。

最近は、ツーブロックに仕上げていただいていますが、それとてワタシのリクエストではありません。
ともあれ、信頼している美容師さんに毎回お任せです。
さすがに丸刈りにする、と言われたら抵抗すると思いますが・・。

考えてみると、私にとって美容院は、大切な場所であるように思います。
これまで2人の美容師さんにお世話になってきましたが、どちらも尊敬できる方です。

1人目は、私より10年くらい先輩の「ちょい悪オヤジ」で、大学を卒業してから40歳くらいまでお世話になりました。
東京芸術大学在学中、学生運動に励んだ挙げ句に退学処分を頂戴し、その後は、資生堂美容学校(現在の資生堂美容技術専門学校)に進み、その世界ではちょっとした有名人でした。
バイクが大好きで、私とは違う方向性を持った方でしたので、いつも刺激を受けていました。

結婚式の朝も、お世話になりました。
生まれて初めて眉毛を整えていただいたのは衝撃的でしたし、うっすらとファンデーションを塗って、晴れの日にふさわしく仕上げてくださいました。

また、20代のころ、仮装大会のために女装したいとの無茶なお願いにも、快く応えてくれました。
メイクのグレードがあまりに高いので、参加した女子からは、何をどこにどのように塗っているのか質問攻めに遭いました。
集合場所だった東京プリンスホテル近くの歩道橋で外国人に追いかけられ、ガニ股で走って逃げたのもいい思い出です。

そして、現在お世話になっているのは、私より1つ年上の美容師さんです。
若くしてご結婚されたので、中学生のお孫さんがいますが、これぞ美魔女という女性です。

年齢も近いので、いつもいろいろな話をします。
先日は、セガレのことで相談を持ちかけると、とてもいい言葉をいただきました。

山田さん、子供は授かりものじゃないの、預かりものなの。
授かりものだと思うから、いろいろ注文を付けたくなるの。
今は預かっているだけ。
子供は、いつか、神様に、社会に、返すものなんだからね。

若くして結婚・出産し、30代で離婚。
子育てに悩みながら、離婚後まもなく美容院を起業され、苦労を重ねた同世代からの言葉は、心に染みました。

そして、鏡に映るツーブロックの姿を眺めて、今日は前髪がいい長さだな、と感じながら店を後にしました。

244 白髪童顔

昨日、年に2回発行している会報誌に関する委員会がありました。
訪問看護師さんを応援する内容ですので、委員会のメンバーは私以外全員看護師さんです。

委員会では、総会報告や委員会報告など次号のページ割りを決めていきますが、毎回1ページ割いている、看護と関係しない箸休め的なページのテーマについても議論されました。
これまで、「お薦めのショップ」「ペット自慢」「初めて◇◇しました」などを企画してきましたが、1人の委員さんから「推し」をテーマにしてはどうか、という提案がありました。
提案してくださった訪問看護ステーションの所長さんは、新人スタッフが入職する際、「自分の推し」について聞くそうです。
スポーツであったり、芸能人であったり、中にはお気に入りのタオルについて蕩々と語った新人さんもいたようで、コミュニケーションツールとして、とても役だっているとのことでした。

全員一致、今回のテーマは「推し」に決まりました。

その時、「今、ワタシの推しはなんだろうか?」と、ふと思いました。

辿り着いた答えは「美容」でした。
還暦過ぎの初老オヤジが薄気味悪い・・と言われればごもっともですが、最近「少しでも美しい老人になるためにはどうしたらいいか」が、私の人生で大切な要素の仲間入りを果たしました。

若い頃から何のケアもせずに野球やゴルフを楽しんできたツケが、近年、大波のように押し寄せてきました。
そこで、オミクロン株全盛の頃、初めて地元の皮膚科でシミ取りを経験しました。

あれから3年。
まだ、シミ取りを続けています。

私の通う皮膚科は、シミを1つ除去するといくら、という施術ではなく、GentleMax Proという機械を用いて、顔全体にレーザーを照射します。
テレビCMでもよく目にする湘南美容クリニックさんのホームページにも「ジェントルマックス プロ ついに湘南美容にも導入しました!」と謳われているので、まあまあイマドキのマシンなのではないでしょうか(素人にはよくわかりませんが)。

シミ取り以外では、日焼け止めクリームをせっせと塗っています。
ゴルフに行くと、朝自宅を出る前、前半のスタート前、後半のスタート前に加えて、ラウンド中も2〜3度塗り足します。
「また塗ってるよ」と、ゴルフ仲間からは冷やかされています。

風呂上がりの行動も変わりました。
まず、カミさんが買ってくれたパックをします。
その後、保湿クリームを塗ります。
最後に、皮膚科で購入しているハイドロキノンを顔全体に薄く塗ります。

ここまで読むと、莫大な熱量を感じるかも知れませんが、生来怠け者ですし、どこか抜けているので、きっちり遂行している訳ではありません。

ゴルフの日焼け対策でも、顔には塗ったが首に塗るのを忘れた、短パンを履いていたのに足には塗らなかった、肘から下は焼けていないが上腕部は真っ赤になった、なんてことは日常茶飯事です。
先日は、日焼け止めクリームを何度も何度も顔に塗りながら、もみあげの周辺だけ、何故か塗られていなかったなんてこともありました。

風呂上がりも、今日は寒いからな・・と最初は冷やっとするパックをやめたり、要冷蔵のハイドロキノンを洗面台のシェーバーの横に置きっぱなしにしてダメにしてしまったり、なまくらなものです。

話は変わりますが、先日、小学校の同級生と京都を旅してきました。
おとなの修学旅行と題したこの京都旅行も、今回で7回目になりました。

幹事を務める私に対し、友人たちは毎回お礼の品を贈ってくれます。
御朱印集めにはまり始めたころはコーチの小銭入れ、ひとり旅を楽しんでいると話したときは旅行用のポーチ、以前はゴルフ用のクラシカルな帽子をいただいたこともあります。
私が喜びそうなものをその都度選んでくれる同級生には感謝感謝です。

そして、今回の旅。
男子4名と女子3名が、時間差で合流したこともあり、男女別々にお礼の品をいただきました。
双方で相談はしていないとのことですが、男子からは「デコルテ」、女子からは「雪肌精」と、いずれも美容関連商品が揃う形となりました。

「隊長(私のこと)が今一番喜ぶのはこれだよね」という仲間の言葉は、友の有難さを改めて感じる機会になりました。
そして「美しい老人」を目指すモチベーションがさらにUPしました。

ブログのカテゴリーに「美容」という新たな項目を作成し、今日の投稿を締めたいと思います。

243 被害妄想

10年以上、海外旅行をしていません。
パスポートもとうに期限が切れてしまいました。

最後の海外は、家族で行ったハワイ旅行です。
30年前、新婚旅行に行ったのもハワイでした。

青い海、温暖な気候、豊かな自然、美しいゴルフ場など、ハワイは魅力に溢れた島ですね。
ハンバーガー、パンケーキ、ロコモコ、ガーリックシュリンプ、エッグベネディクトなど、食事も垂涎ものです。

先日、何故か突然ハワイ気分を味わいたくなり、ふっと横浜に行ってまいりました。

まずは、横浜ベイクォーターのアイランドヴィンテージコーヒーへ。
目当てはもちろん、アサイーボウルです。

表参道店や台場店よりも早い、朝9:00開店は早起きの私には有難いです。
9:30過ぎに到着すると、既に席の半分は埋まっていました。

久しぶりのアサイーボウルは、予感していたワクワクを越える美味しさでした。
真冬の朝にも拘わらず、温かい紅茶に守られて、冷たいアサイーは胃袋にスイスイ入っていきました。

 

その後、横浜ワールドポーターズのLeonard’sへ移動し、マラサダを2種類(プレーンとカスタード)いただきました。
出来たてはふわふわで、とても幸せなひとときとなりました。

また、家族へのお土産に、5個テイクアウトしました。
画像はありませんが、ピンク色の箱がキュートでした。

最後はクイーンズタワーのEggs’n Thingsでパンケーキを食べて完結! と目論んでいたのですが、胃袋に余裕がなく、断念しました。

話は戻りますが、先のLeonard’sで列に並んでいたとき、前にいたカップルの青年が、私の小銭入れから落ちた50円玉を拾ってくれました(どうもありがとう)。

落としたことに気付かぬ年寄りと、他人が落とした小銭を拾ってくれる若者・・。
(ついでに上の写真、左のドーナツは天地逆)

あー、横浜で遊んでいた頃は若者側の立場だったのに・・と、時の流れを憂いたりもしました。

「横浜で遊んでいた頃」とは、大学時代です。
横浜市内の大学に通学していた私は、青春ど真ん中の4年間を横浜で過ごしました。

当時の横浜駅は、西口だけが栄えていた、といっても過言ではないと思います。
高島屋や三越、相鉄ジョイナスなどがあって、とても賑わっていました。

一方、東口には、そごうもルミネもポルタもまだありませんでした。
ですから、大学生の一大イベント「合コン」も、西口で行うのが常でした。

マッチングアプリなんて影も形もない時代、楽しいはずの合コンで、私には非常に面倒な任務がありました。
ひとりで帰すのは危なそうな輩、即ち、酒でつぶれてしまった者を、唯一のシラフである下戸の私が車で送らねばならないのです。

まず、合コン終了予定時間の30分以上前に店を出ます(盛り上がる会場からひとりで退散するのです)。
その際、車を持っている仲間から、キーを預かります。
そして、電車で仲間の下宿へ行き、車を運転して西口へ戻り、酩酊した者を乗せるのです。

合コンの特性上、初めて会う人も多いわけで、運が悪いと深夜に長距離ドライブを強いられることもありました。

ある時、ちょっと気になっていた女性が「酩酊リスト入り」しました。
全部で3人の酔っ払いを乗せ、送りとどける順序を巧妙に企て、2人きりになった車内で「さーて、なんて言おうかな・・」とシラフのアタマをフル回転させていると、

「アタシ、酒の弱いオトコの人ってダメなのよね。面白くないもん。」

車で送ってもらったお礼を述べるところじゃないのかー! ちくしょー覚えてろよ! とひとり泣きながらアクセルを踏んで帰ったこともありました(ちょっと盛りすぎか)。

「ヤマダくん、この間は自宅まで送ってくれてありがとう!」

後日、その女性から、いけしゃあしゃあと言われました。
こんなバカにされるくらいなら、合コンなんか二度と参加するものか! と意を決したりするのですが、少しすると、またいつものように酒に呑まれた前後不覚の者たちを車で送るのでした。

へべれけ状態を経験したことのない私は、酔っ払いっていいよなあ・・と思います。
一度でいいから「酔っていたから覚えていない」と言い訳してみたいです。

そして、こういう辱めに遭うたび、下戸はちょっとずつ卑屈になるんだよなあと思ったりするのです。

242 気魄一閃

大関・豊昇龍が、第74代横綱に昇進しました。
1月29日に行われた伝達式では、以下のように口上を述べました。

「謹んでお受けします。横綱の名を汚さぬよう気魄一閃の精神で精進します。本日は誠にありがとうございました」
(豊昇龍)

気魄一閃(きはくいっせん)とは、「愚直に真っ直ぐ、力強く立ち向かってゆく精神力のこと」。
力士最高峰の地位にある者が目指す姿勢としては、文句なしですね。

横綱昇進にあたって四字熟語を用いた口上が披露されるようになったのは、若貴兄弟がきっかけではないでしょうか。

「横綱として堅忍不抜の精神で精進していきます」
(三代目若乃花)

「今後も不撓不屈の精神で、力士として不惜身命を貫く所存でございます」
(貴乃花)

貴乃花にいたっては、「ふとうふくつ」「ふしゃくしんみょう」と短い口上に2つの四字熟語を込めました。

そして、この四字熟語を用いた口上スタイルは、モンゴル出身の横綱にも影響を与えました。

「横綱の地位を汚さぬよう、精神一到を貫き、相撲道に精進いたします」
(白鵬)

「横綱の自覚を持って全身全霊で相撲道に精進します」
(日馬富士)

第72代横綱・稀勢の里は、久しぶりの日本人横綱誕生とあって非常に話題を集めましたが、注目された口上はとてもシンプルでした。

「横綱の名に恥じぬよう精進します」
(稀勢の里)

無口な性格がそのまま出たような口上でしたが、「迷ったが、気持ちをそのまま込めた」と説明したそうです。
四字熟語は出るのか!? とちょっと期待していたファンにとっては、ガッカリするような、そして合点がいくような口上だったのではないでしょうか。
息子の晴れ姿を見守ったお父様でさえ「あまりにもシンプルだったね」と苦笑いしたと報道されています。

先日、日本相撲協会の公式サイトで歴代横綱について調べてみました。
初代横綱は「明石 志賀之助」と紹介されていますが、出身地も在位も優勝回数も掲載されていません。
在位が最初に掲載されているのは第4代の「谷風 梶之助」で、宮城県仙台市出身、在位は寛政元年11月 ~ 寛政6年11月とのことです。

寛政元年は、西暦でいうと1789年。
ときの天皇は光格天皇で、江戸幕府将軍は第11代徳川家斉というとてつもない昔です(Wikipediaより)。

第8代の「不知火  諾右衛門」や第10代「雲龍 久吉」らを目にし、 横綱土俵入りの「雲龍型」と「不知火型」のルーツはここにあるのか? と想像しました。
また、明治時代に「小錦八十吉」の名があり、私の知るあの「小錦」には先代がいるのか?? など、非常に興味深いサイトでした。
(ハワイ出身の小錦八十吉は、第6代なのだそうです・・)

私の記憶の中で、最も古い横綱は「柏戸」と「大鵬」です。

物心ついたのが「巨人・大鵬・卵焼き」の時代ですから、一番強いお相撲さんといえば大鵬でした。
プロ野球は、巨人が毎年日本一になるものだと思っていました。
真っ黄色の卵焼きが大好きで、葱や紅生姜などは入れないで欲しい、と母にお願いしたりしました。

ところで、ネットで「巨人・大鵬・卵焼き」と検索していると、「巨人・大鵬・卵焼き 反対語」と関連検索ワードが表示されました。
反対語ってないっしょ・・と思いながら先を進めると、「江川・ピーマン・北の湖」「おしん・家康・隆の里」「阪神・朝潮・ハンバーグ」等々あるようです。

因みに、大鵬関はアンチ巨人であったと伝えられています。
はたして、卵焼きは好きだったのでしょうか。

241 至恭至順

受験シーズンの到来を告げる大学入学共通テストが、来週末に迫りました。

私の大学受験は1980年。
共通一次試験が始まった翌年にあたります。

共通一次試験が導入される前の国立大学は、一期校、二期校に分かれていて、複数の大学を受験することが可能でした。
しかし、国公立大学の志願者全員が同じ5教科を受験し、国立大学の受験を1校に絞る制度が共通一次試験で、「空前の一斉入試」とも呼ばれた大改革でした。

私が受験した時代は、試験科目が国語・数学・理科・社会・英語の5教科7科目で、1,000点満点でした。
文系志望なのに、物理・化学・生物・地学のうち2科目を受けなければならないことに絶望感を覚えた一方、社会は倫理社会と政治経済を同時に選択できたのはラッキーでした。

受験地獄をさらに悪化させていると多くの批判が噴出し、また、マークシート方式を採用したことで「鉛筆をさいころのように転がせば解答が書ける」とも揶揄された入試改革でしたが、45年前、私は「東京大学」受験しました。
ネットで調べてみると、1980年の実施日は1月12日・13日のようですから、明日でちょうど45年が経つことになります。
半世紀近くの年月が流れたにもかかわらず、受験に関するほろ苦い思い出がいくつか鮮明に浮かびます。

高校3年生のとき、私は睡眠を2度に分けていました。
まず、学校から帰ってきてから数時間昼寝をします。
そして、両親の帰宅に合わせて起床し、夕食、入浴。
机に向かうのはその後ですから、勉強開始は22時頃になるのが常でした。

食べ盛りの高校生ゆえ、母親に夜食の支度もしてもらいました。
夜中に食べるお雑煮が、とびきり美味しかったことを覚えています。

夜中までずいぶん熱心に勉強していたように聞こえますが、実のところは勉強開始が24時頃になってしまったり、いきなり夜食を食べ始めたり、日付変更前に寝てしまったり、甚だ薄っぺらな受験生でした。

机の横にラジカセを置き、かすかなボリュームで音楽を聴きながら勉強することもありました。
メインに聴いていたのは山崎ハコさん。
なかなか微妙な選曲です・・。
大学生になったら弾けてやる! という意志の序奏だったのかと思います。

また、ドラマ「俺たちの旅」は、この頃の強烈な思い出です。
昼寝をする前に、夢中で観ていました。

「夜勉強するために、早く家に帰って寝なきゃいけないんだ」と吹聴し、高校の友人を振り切るように帰宅の途についていましたが、ドラマに間に合うよう早く帰りたいというのが本音でもありました。

調べてみると、初回放送は、1975年10月5日から1976年10月10日までの毎週日曜20時からだったようですから、私が夢中になっていたのは再放送だったことになります。
(全46話ですから、放送が1年がかりになるのもスゴイですね)

このドラマは、Wikipediaで以下のように紹介されています。

三流私学・修学院大学の学生カースケ、その同級生オメダと、同郷の先輩で早大OB・グズ六が中心に織りなす友情と青春群像を活写し、生きることの意味、悩み、喜びなどについて問いかける。

高校3年生だった山田少年にとって、このドラマの登場人物は、没入できる要素がふんだんにありました。

  • 主役の大学生・カースケ(中村雅俊さん)とオメダ(田中健さん)は、大学受験を控えた私にとっては憧憬であり幻滅でもある学生像でした。
  • 東大を目指す浪人生・ワカメ(森川正太さん)は、浪人への不安を増幅させる対象でした。
  • オメダの妹・真弓(岡田奈々さん)は、年齢=彼女いない歴だった山田少年に、日々、恋愛妄想を抱かせる存在でした。
  • バスケットボール部のマネージャー・洋子(金沢碧さん)は、キャンパスにはこんなステキな女性がいるのか! と、バラ色の大学生活を夢見るに十分すぎる魅力的女性でした。
  • グズ六の恋人で後に結婚する紀子(上村香子さん)は、将来の嫁さん像という身の程知らずな想像をかき立たせる大人の女性でした。

そして、エンディング曲の「ただお前がいい」に乗せて、番組終わりに表示される散文が印象的でした。

生きることの 本当の意味は 学校では 教えてくれない

友情なんて 大げさなものじゃない オレはただ お前が好きなだけだ

明日のために 今日を生きるのではない 今日を生きてこそ 明日が来るのだ

これらのフレーズは、青春ど真ん中だった山田少年の心を、毎回えぐりました。
海に沈む夕日に向かって「バカヤロー」と叫びたくなるような夕刻を、何度も過ごしました。

受験とテレビに関しては、もう一つ思い出があります。
高校の某先生が、冬休みに入る直前、受験生の我々に向かってこう言いました。

今年の大晦日の夜は紅白歌合戦を観るな!
放送時間帯は机にいろ。
例え勉強はしていなくても、テレビは観ずに机にいろ。
オレは紅白歌合戦も観ずに大学受験に備えていたんだ、という気持ちになれるぞ!

なにをアホなことを! と今は思います。
3行目なんて、全然意味ないじゃん! と・・。

しかし、
実は、
ワタクシ、
何故か、
この先生の教えを守ったのでした・・。

因みにこの年の紅白歌合戦の視聴率は77.0%。
こんな時代だから通用した戒めなのでした。