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152 寸草春暉

3月18日は、両親の結婚記念日です。
そして、今日、60回目の記念日を迎えました。

26歳と22歳だった新郎新婦は、86歳と82歳の老夫婦になりました。

しかし、父はまだ毎日仕事をしています。
母も元気ですし、料理の腕前は鈍っていません。

結婚60周年を、一般的に「ダイヤモンド婚式」と呼ぶのだそうですが、夫婦揃って、仲良く、そして元気にこの節目を迎えられるのは、とても幸せなことだと思います。

農家の三男坊として生まれた父は、旧制中学卒業とともに、商人になるという夢を抱いて上京しました。
「“こうりひとつ”で東京に出てきた」と昔から父に聞かされていましたが、「こうり」とは「竹や籐などを編んで作った籠の一種」で「行李」と書くようです。
要するに、荷物ひとつだけを抱え、伊豆の田舎町から東京に出て来た訳です。

一方、母も裕福ではない農家に生まれ、高校に進学することができませんでした。
藁だか何かを編む内職を手伝うから進学させて欲しい、と家族に懇願したそうですが、父を早くに亡くしたこともあり、少女の希望は通りませんでした。
上の学校に進学する級友たちを羨ましく見ていたという母の気持ちを、私には推し量ることなどできません。

そして、同じ印刷会社で偶然働くことになった2人は、昭和34年に夫婦となりました。

中央区月島の狭くて陽当たりの悪いアパートから始まった新婚生活は、まもなく2人の子どもが生まれたこともあり、金銭的には苦労したそうです。

私が社会人になってから、「学習塾の費用の捻出が大変だった」と聞かされました。
その事実を知った時、少なからずショックを受けました。

小学生の頃から、私が行きたいという塾には、自由に通わせてくれました。
中学受験もしましたし(失敗に終わりましたが)、高校も「都立はここしか受けない」と背伸びをした挙句に不合格となり、授業料の高い私立高校に進むことになっても、異議やお小言はありませんでした。
大学はかろうじて国立大学に合格しましたが、追加合格だったため、私立大学に入学金と授業料として70万円近くを出費しました。

進学に関して、私の選ぶ道に反対されたことは一度もありませんでしたが、お金の苦労を子供に悟られぬよう、親は陰で苦労していたのでしょう。
自分たちは進学が叶わなかったので、子供にはきちんと教育を受けさせたいという思いもあったのだと思います。

また、体調面でも、決して順風満帆ではありませんでした。

母は50代で、大腸癌を患いました。
その後、肝炎を起こしたり、腸閉塞で入退院を繰り返すなど、健康を害していた時期もありますが、我慢強い母は、病に負けず、元気を取り戻しました。

父は、一昨年、心臓の手術を受けました。
80歳を過ぎてからの心臓バイパス手術に際して、術前、看護師さんにこう言っていたそうです。

「老人のボクだが、まだやり残したことがある。だから、もう少し生かして欲しい・・。」

どうやら、その本意は「もう少し会社の役に立ちたい。セガレの一助になりたい。」ということだったようです。

自ら会社を興す、即ち、商人になるという夢を叶えたのが44歳の時でした。
学歴も資格もなく、親からの援助も全くなく、ただがむしゃらに家族のため働いてきた父は、80を過ぎてもなお仕事への情熱が衰えておらず、その意欲にはただただ敬慕の念を抱いています。

果たして自分は何歳まで仕事ができるか、そして、子供にどれだけの愛情を注ぎ続けられるか・・。
親のマネは出来ないな、と思っています。

歳を重ねてから、両親は勉強熱心になった気がします。
父は本をよく読みますし、母は四文字熟語の勉強をしているそうです。

人間死ぬまで勉強だと、背中で教えられているように思います。
私も昨年不合格に終わった漢字検定準一級試験を、今年もう一度チャレンジしたいと思っています。

ところで、天皇皇后両陛下にとって、今年は『結婚60年、即位30年』の年にあたります。
今上天皇は、昭和8年12月23日のお生まれで、ご結婚されたのは昭和34年4月10日。
偶然ですが、父と同年齢で、結婚した時期も1ヶ月と変わりません。

先日、陛下の即位30年と、天皇皇后両陛下の結婚60年を祝って、宮内庁職員による茶会が行われたそうです。
私も60回目の記念日当日に届くよう、京都・権太呂のうどんすきを贈りました。
後日、改めて、ささやかながら食事会を開きたいと考えています。

150 時世時節

政府は働き方改革を進めています。
その大きな課題のひとつに、長時間労働が挙げられています。
しかし、零細企業の経営者には、その是正はまるで縁のない話です。

今週末、土日ともに仕事をしました。

では、これがイヤかというと、そうでもありません。
むしろ仕事が手薄のときの方が、何倍も何十倍も重たいです。
零細企業とはそんなものだと、観念しています。

週末を仕事に費やすなら、楽しくやらない手はありません。
この時、抱えていた仕事は、すべてパソコン作業で、プリンターは不要。
ならば、今日だけ、ノマドワーカーになることにしました。

朝7時に自宅を出発して、まず向かったのは良く顔を出すカフェ。
ここで2時間以上、仕事をしました。
長居になりましたが、そこは顔なじみなので、許していただけるかなと・・。

その後、日比谷の帝国ホテルへ行きました。
「昼メシは、1階のパークサイドダイナーというレストランでステーキランチを食べる!」と、昨晩決めたのでした。
週末労働のご褒美といったところです。

帝劇で誰かを待ち受ける女性ファンの脇を抜けて、目的のレストランへ到着すると、ランチタイムを狙ったお客さんが、既に20〜30人並んでいました。

あちゃ・・と思ったものの、次から次へとお客さんが店内に案内されていきます。
結局、6〜7分後には、席に着くことができました。

メニューの「上高地フェア」に、若干気持ちが揺らぎましたが、初志貫徹でステーキをオーダー。
わさびとポン酢で、美味しくいただきました。
ライスの量を減らしてもらっても、十分お腹は満たされ、とても優雅な時間を過ごせました。

そして、最も関心したのが、スタッフのサービスです。

サラダを食べ終わり、器を下げると程なくして、
「ステーキランチ、ミディアムレアでご用意いたしました。」

ステーキを食べ終えると、間髪を入れず、
「紅茶をお持ちいたしました。お食事のお皿はお下げいたします。」

流石は一流ホテル。
このタイミングがまさに絶妙でした。
接客を通して、営業職の大切な基本を、改めて教えられた気がしました。

57歳・中年男のご褒美として、4,680円のステーキランチ。
たまには良しとしましょうか。

食後は、予約をした日比谷ミッドタウン内のワークスペースに行きました。
こういったスペースは都内のいたるところに存在するそうですが、私はここしか利用したことがありません。

私が借りたのは、1人用の「シングル」。
電源、wifi、コピー機、プリンター、スキャナーが設置されていて、もう少し人数の多いワークショップなどのために、プロジェクターやホワイトボードも用意されています。

それから、入店時にワンドリンク、いただけます。
追加の注文は、QRコードを読み取って、スマホから可能です。

隣席とは仕切りがあり、しかもカウンターにズラリと座るのではなく、1人用の席は2つ並んでいるだけなので、周囲はあまり気になりません。

仕事を始めて、ふと気付いた時は、入店から2時間15分が経過していました。
結局、夕方まで、4時間居座りました。
カフェに併設された場所なので、静寂の中という環境ではありませんが、仕事は順調に捗りました。

ここは、料金が安いのも魅力です。
この日、4時間で2,100円です。

ノートパソコンさえ持っていれば、様々なところで仕事ができるこの時代。
私がこの業界に入った活版印刷の時代は、遥か遠けき忘却の彼方ですね。

147 三拝九拝

私は、学会や研究会関連の仕事に携わることがよくあります。
しかし、これまで学会に参加したことはありませんでしたが、先週末、初めてその機会に恵まれました。

静岡県立大学で開催された、第8回日本在宅看護学会学術集会に参加させていただいたのです。
しかも、お邪魔させて欲しい、と申し出たところ、副理事長先生のご配慮により、ご招待(参加費免除)の扱いにしていただきました。
それでは、現地の先生方に差し入れをご用意いたします、とお約束しました。

というのも、準備期間中、静岡県立大学のご担当の先生が、2度にわたって、静岡名物のお菓子を宅配便の荷物に同梱してくださったのです。
そこで、今度は私が東京土産をお返ししよう、と思ったわけです。

購入したのは、CAFE OHZANの「クロワッサンラスク」。
今、一番人気といえば「N.Y.C.SAND」かと思ったのですが、金曜日夕方、待ち時間が1時間半以上でしたので、諦めました。
「ここが最後列」と書かれた看板には「お一人様10万円までにお願いします」とのメッセージもありました。
異常な人気に乗じて、横流しにする輩がいるのではないでしょうかね。

さて、当日は、気温こそ少し低めでしたが、朝から晴天となりました。
せっかく静岡まで行くのですから、少し早めに出発し、静岡天満宮と静岡縣護国神社を参拝しました。
好天に誘われ、駿府城公園も散策しました。
下は駿府城公園内の紅葉山庭園です。

引き出し状の大きな箱に入ったクロワッサンラスクを抱えつつ、楽しい時間を過ごすことができました。

さて、肝心の学会では、その大きなお菓子の箱を、静岡県立大学の先生に直接お渡しすることができましたし、10名近くの先生に、日頃の感謝をお伝えすることができました。

また、昨年私がご迷惑をお掛けした山梨県立大学の先生にも、お詫び申し上げることができました。
1年遅れになってしまいましたが、胸のつかえが取れた感じがしました。

ただ、数名お目に掛かれなかった先生がいらっしゃいます。
次回は、新宿での開催が決まっていますから、来年の課題にしたいと思います。

140 一水四見

今日は「奥付」について書いてみたいと思います。

以前、冊子の仕事を進めるなかで「奥付を作成しましたのでご確認願います」と担当の方にお願いしたところ、「奥付ってなんですか」と聞かれました。
一般的な用語ではないんだな、と改めて認識する機会となりました。

どの世界にもあるように、我々印刷業界にも独特の用語があります。

ノンブル、柱、トビラ、ドブ、断ち割り、小口、のど、咬え、化粧・・・・。

お客さんとコミュニケーションを図るため、専門の表現は極力使わないよう心がけていますが、「奥付」は、ほかの呼称が見当たらないので、そのまま使用していました。

改めて「奥付」とは・・・・、
書物の末尾にある、著者、編集者、発行者、発行日、印刷所、版数・刷数、定価など、出版発売に関することがらを記載した部分、をいいます。

奥付は日本独特のシステムです。
歴史的には11世紀末から始まったとも言われていますが、法的には、1722年(享保7年)、江戸幕府が公布した下記「新作書籍出板の儀に付触書」中の1条に由来しています。

何書物ニよらす、此以後新板之物、作者并板元之実名、奥書ニ為致可申候事。

その後もこの規則は受け継がれ、明治時代には出版法で記載形式が整えられましたが、1949年(昭和24年)5月、出版法の廃止とともに法的な規制は解除されました。

現在も掲載されているのは慣行として継承されているからであり、掲載の義務はありません。
しかし、大抵の出版物に今も奥付は残っています。

私は、本を見るとき、表紙の次に見るのは、決まって奥付です。
いつ発行されたのか、どこの印刷会社が担当したのかなどが、気になってしまいます。
一種の職業病ですね。

以前、内装工事会社の社長にそんな話をしたら、
「ボクはレストランやゴルフ場に行くと、まず天井を見ちゃうよ。」

なるほど。皆、それぞれですね。

128 心定理得

週末、会社のオンデマンド機を入れ替えました。
現在のマシンのリースがまだ残っていたのですが、機能が向上した上位機種を導入することにしました。

設置前に、200ボルトへの電源工事が必要でした。
業務に支障を来さないよう、金曜日夜7時から施工していただきました。
遅い時間や週末の作業依頼が多い電気工事の方は、大変ですね。
ついでに、という訳ではありませんが、トイレのコンセントがブラブラしていたので見ていただいたところ、気持ちよく修理してくれました。
すべての作業が終わったのは、午後9時半過ぎでした。

そして、土曜日。
いつもより少し遅めの7時過ぎに出勤すると、ゼロックスの担当者が9時過ぎに来社。
その後、10時頃から搬出と搬入が始まりました。

水平を測ったり、部品を取り付けたり、色調整をしたり、プリンタドライバをインストールしたり、以前のマシンからジョブを移行したり・・。
多くの作業を抱えるなか、一部円滑に運ばなかったところもあり、終了したのは予定の午後3時を大幅に超え、まさかの8時でした。

加えて、日中、私をひどく悩ませてくれる事件がまたもや舞い込み、土曜日帰宅後はヘナヘナでした。

夜の8時や9時・・と思われるかもしれませんが、毎朝6時半(今週は雪の影響もあって6時)に出勤している朝型人間の中年男には、降雪から始まったこの1週間は些かハードでした。

なおもってまずかったのは、その夜です。

夕飯もそこそこに風呂に入り、浴槽で「ふう・・」とため息をついたとき。
補聴器を付けたまま風呂に入ってしまったことに気づき、急いで外そうと左耳を触ったところ、肝心の補聴器がないのです。

あれ?今朝は久々に補聴器付けたよな・・」

先週末から風邪気味で毎日マスクを付けていたので、今週は補聴器を装着していませんでした。
というのも、補聴器とマスクを同時に付けることは可能なのですが、マスクを外すと補聴器も一緒に取れてしまうので、今週は補聴器を装着しなかったのです。

「でも今朝は間違いなく装着したはずだよなあ・・」
「帰宅する前に外した記憶はないしなあ・・」

その時点で、保管ケースを確認するなり、脱衣カゴ周辺を探すなりすれば良かったのですが、疲れていたことと、精神的にややイライラしていたこともあり、浴槽で疲れてぐったりしてしまいました。

そして、風呂でリフレッシュし、補聴器のことをすっかり忘れ、パソコンに向かって仕事をはじめてしばらく経った頃。

「おとーーさあーーん!!」

カミさんの声のテンションがいつもと違います。

「補聴器、洗濯機で洗っちゃった!脱水もかけちゃった!!どこに置いてあったのか、全然気付かなかった!!!」

シャツを脱いだとき、一緒に落下して、衣服に紛れたようです。

取り敢えず装着してみると・・、
やはり作動しません・・・・。

補聴器、22万円でした・・。

社員によく言う「確認」。
やっぱり「確認」はすぐやらねばダメですね。
風呂から上がってすぐなら、脱衣カゴで発見できたはずです。

「行動や道理を正しく、心を安定させよ」という神様のお告げですね。

110 皇統連綿

6月9日、天皇陛下の退位を認める特例法が、参院本会議で自由党を除く与野党の全会一致で可決、成立し、光格天皇以来約200年ぶりの退位に向けて第一歩を踏み出しました。
退位は陛下一代を対象としていますが、政府は、将来の先例となり得るとの見解を示しています。

昨年夏、陛下は、年齢と健康問題を理由に、在位30年を節目として譲位する意向を示されました。
しかし、天皇は憲法第4条で「国政に関する機能を有しない」と定められているため、陛下の「お言葉」を理由に法律を作ると憲法違反の疑いが生じることから、特例法の第1条には、以下の文言が含まれています。

・・・国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること、さらに、・・・

主権者である国民の理解に基づいた法律であることが強調されている訳です。

一方、昨年開かれた有識者による会合では、「天皇は祈るだけで他に何もしなくてよい」「存在するだけで有難い」という意見があったと知り、非常に違和感を覚えました。

話の本質としては、棟梁が「もう歳だから後進に道を譲る」と言っているのですから、下で働く職人たちはその道筋をつければよいと思うのです。
隠居すべき、隠居すべきでないと議論するのは、筋違いなのではないかと・・。

最終的には、世論に押されて成立の運びになったと言っても過言ではないかと思います。

また、女性宮家の創設も重要な課題となっています。
自民党内では慎重論が強いようですが、私は必要ではないかと思っています。
ただ、眞子さまがご結婚されて民間人になられた後に、佳子さまや愛子さまが皇族の地位にとどまられたりすることになると、これも問題だと思います。

また、陛下の孫の世代で、男性皇族は悠仁さまだけですから、いずれ、相当量の公務を悠仁さまが抱えることになるのではないでしょうか。
安定的皇位継承や皇族減少への対策は、いち早く検討すべきだと思います。

今後の日程は、2019年元日に「平成」を改元する案を軸に、進んでいくようです。
ただ、印刷業としては、事前に改元が決定していると「特需」が発生しないなと感じたりします。
突然元号が変わった方が、刷り直しによって印刷業界が少し潤うかと・・・・。
些か不謹慎ですね。発言撤回します・・。

200年ぶりに行われる儀式に立ち会えることを、素直に、楽しみにしたいと思います。

108 塞翁之馬

先日ネットでこんなニュースを見ました。

日本郵便は19日、6月1日の料金値上げに合わせて今月15日発売した新しい往復はがき1,400万枚に、印刷ミスがあったと発表した。本来は表裏両面の上部に入る「郵便往復はがき」の文言で「往復」が抜けていた。利用に支障はなく、販売は続ける。6月2日以降、在庫がなくなった郵便局から正しく印刷したはがきに切り替える。

印刷会社が内容を微調整した時に、通常のはがきのデータを流用したのが原因。刷り直しの費用は印刷会社が負担する。はがきの印刷ミスは民営化後初めてで、「これだけの規模は過去にも例が無いのでは」(広報)という。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170519-00000059-asahi-soci

思わず「あちゃー」と声が出てしまいました。
去年のデータを利用したら日付を直し損ねた、といった類いの、実にありがちなミスですね。
事態が発覚したのは、販売開始後の郵便局員による指摘だったそうで、ここが世間の非難を浴びている一因のようです。

ミスについて、若い頃、先輩に教わったことがあります。

分厚いページものを作っていて、本文は穴が開くほどチェックした、目次も大丈夫、紙も間違ってない、物流も確認済み、でも、出来てみたら、表紙の一番大きな文字が間違っていた…。
ミスが起こる時は、得てしてそんなものだ、と。

刷り直し費用を印刷会社が負担する、という点も気になりました。
誤った製品は使用可能であるにも関わらず、業者負担で刷り直しとは、なんとなく腑に落ちないですね。
契約上の理由でもあるのでしょうか。

この際、普通のはがきも往復はがきも、「郵便はがき」と印刷してはダメなのでしょうか。
こう言っては何ですが、利用者にとっては、全く気にならないはずです。
そうすればリスク回避になりますし、怪我の功名のような結末は、担当業者にとって少しは希望になるのではないか思います。

最後に、上記に関してひとつウンチクを。
はがきとして郵送するためには、「郵便はがき(またはPostcard)」と印刷されていなければなりません。
この印刷がない場合は、手紙(第一種郵便物)と扱われますので、はがきの体裁をしていても、82円切手を貼る必要があります。
念のため。

097 意気阻喪

弊社の営業マン・F君が、先日資料をくれました。
企業の名刺に対する問題点をまとめた資料でした。

その資料によると、名刺の作成を印刷業者に外注している企業は、全体の66.7%。
何らかの方法で内製しているのは33.3%とのことでした。

2年前、4年前は、外注している割合が、68.2%、74.9%でしたから、印刷会社への依頼が年々減っているのが分かります。

そして、今日の読売新聞の朝刊に、こんな記事を見つけました。

日野市職員の名刺デザインに、実践女子大日野キャンパスで学ぶ学生の作品が採用され、10日にお披露目会が行われた。
同市では、経費削減を理由に1997年から職員の名刺の外注を取りやめ、職員が独自に作っていた。ところが、名刺に統一感がなくなる結果になったため、再統一を図ろうと、包括的協力協定を結んでいる同大に学生によるデザインを依頼した。
(中略)
日野のイメージカラーの緑、同大を象徴する古代紫を配色し、市の鳥カワセミと市の花キクをあしらっている。
デザインデータは職員に配布され、それぞれの名前を入力して庁内の印刷機で出力できる。

デザインの再統一を図るためにデザインを学生に依頼し・・

「フンフン、いいね。」
「内製したら、フォントや文字組みがバラバラになってしまうのは当然!」
「デザインの再統一、いい取り組みだね。」
「印刷業者の名誉回復に一役買って欲しいなあ。」

データを職員に配布し、庁内の印刷機で出力??

「なんだ、結局、印刷業者には発注しないのか・・・・。」
「印刷業者にとってハッピーエンドだと思って読んでいたのに、残念・・・・。」

せっかくの優れたデザインも、時間の経過と共に、結局バラバラなレイアウトになっちゃうぞ、なんて言うと、負け犬の遠吠えになりそうですね。
マーケットが年々狭くなっていく印刷業界の未来は、なかなか厳しいです。

印刷会社の代表でありながら、本業に関することをほとんど書いてこなかったこのブログ。
どうせ書くなら、もっと明るい話題にすれば良かった・・。反省。

090 尊尚親愛

突然ですが「中村先生」について書きたいと思います。

中村先生とのお付き合いは、かれこれ15年以上になりますでしょうか。

ある仕事が発注元の周辺では処理しきれず、回り回って中村先生に頼らざるを得なくなりました。
それは、端的にいえば、通常業務を煩わせる以外の何物でもない、極めてご迷惑な案件でした。
そして、第三者が間に入るより、印刷担当だった私が直接お伺いした方が早かろうとのことで、
先生と初めてお目に掛かった次第です。

要するに、
私は、
面倒な仕事を舞い込ませた見知らぬ印刷屋、なのでした。

そんなどこの馬の骨かも分からぬ厄介者に対し、中村先生はご自身が担当される学問について噛み砕いて詳説してくださいました。
それは、浅学の私には思いもよらない内容で、まさに目から鱗でした。
そのとき受けた感銘は、今も鮮明に覚えています。

以来、先生は職場を移られても、名刺のご注文を私にくださいます。
しばらくご無沙汰をしても、私を信頼して仕事をご用命いただける・・・・。
そこに深い深い欣びを感じます。

さらに、近年は、仕事を越えた有難いお心遣いを頂戴しております。

先日は、先生の発表された論文のPDFを頂戴しました。
印刷する立場ではなく、読む側として論文と向き合ったのは、とても新鮮でした。
難解なところに出くわすたび、「先生!難しい!!」と心の中で小さく抗議しながら読破させていただきました(笑)。

そして、本日、りんごをご寄贈くださいました。
私のような一業者が贈り物をいただくとは、身に余る光栄という表現では事足りません。

しかも、先生と私は同い年であることを知りました。
こんな奇縁もあるのだなあと、感慨深く、そして、胸躍る思いに包まれました。

尊敬できる方に出会えるチャンスは、人生でもそう多くはありません。
その機会が仕事を通じて得られたことを、本当に有難く思います。

中村先生は私の尊敬の的であり、そのご活躍は、大きな刺激を与えてくださいます。
これからも末長くご高誼に与りたいと、切に願っています。

068 覧古孝新

「どうして伊豆アートさんって名前なんですか?」

たまにこんな質問を受けることがあります。
所在地は東京ですし、私の名字は山田ですから、疑問に思うのは自然かと思います。

答えは、弊社の創業者である父が伊豆の生まれだから、という陳腐なものです。

静岡県田方郡で農家の三男坊として生まれた父は、昭和24年、荷物をひとつ抱えて上京しました。
印刷会社で働きはじめた少年の夢は、一人前の商人になって、将来自分の店を持つことでした。

そして、昭和52年4月、44歳にして夢を叶えました。

会社を辞めると聞かされた時も驚きましたが、もっと驚いたことがあります。
それは、会社名が「大伊豆印刷株式会社」だと知ったときです。
「えー、ほかにないのー?」
17歳と15歳の姉弟は、口を揃えて反対しました(笑)。
東京で開業するのになんで伊豆なの?と、子供の感性には合わなかったのでしょう。
そして、父の故郷愛に思いを寄せることも出来なかったのでしょう。

開業にあたっては、周囲の方々から多大なるご支援をいただいたそうです。
勤務していた会社の社長、お取り引き先のお客さま、下請けの皆さん、税理士の先生・・。
特に、○城様と西○様には、心強いご支援をいただいたと聞いています。
人とのご縁は、人生を変えるほど大切なのものだ、と改めて思います。

父は昭和8年生まれなので、現在83歳になります(平成28年7月時点)。
年齢なりにガタはきているようですが、お陰様で毎日仕事をしています。

昭和8年。
どんな時代だったのか、ちょっと調べてみました。

この年に生まれた著名人は・・、
誰はさておき、天皇陛下がお生まれになったのが、この年の12月23日です。
なるほど、父は陛下と同じ年齢だったんですね・・。

オノ・ヨーコさんは2月18日生まれ。父と誕生日が1日違いですね。
芸能人では、宍戸錠さん、若尾文子さん、草笛光子さん、黒柳徹子さん・・。
故人では、菅原文太さん、藤田まことさん、池内淳子さん、南田洋子さん・・。
なかなか大物揃いです。

注目すべきは、ビスコとトクホンがこの年に発売を開始したことです。

ビスコは、昭和8年2月、1箱10銭で発売されました。
馴染み深いのは赤い箱だと思いますが、緑の箱の小麦胚芽入りビスコが私は好きです。
また、我が家では、ビスコの保存缶(賞味期限5年間)を非常食として保管しています。

トクホンは、商品名でもありますが、現在は「株式会社トクホン」と社名にもなっています。
また、トクホンの名の由来は、室町後期から江戸初期にかけて活躍した医師・永田徳本です。
諸国を巡り、安価で医療活動を行ったといわれる放浪の医者だそうで、享年118歳とのこと。
何か謎めいた人物ですね・・。

どちらも80年以上愛され続けている裏には、多いなる企業努力があるはずです。
長年培ってきた信用、見習うべき点は多いですね。

補足
「大伊豆印刷」に関する表記については、他の企業名を中傷する意図はありません。