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228 呉下阿蒙

ずいぶん前のことですが、「夫・元木大介はカレーが食べられない」という記事をネットで見つけました。

元木さんといえば、上宮高校から読売ジャイアンツ入団し、あの長嶋さんから「くせ者」と呼ばれた、誰もが知る元プロ野球選手です。

カレーが食べられない人っているんだ・・・・と思いながら、奥さんの大神いずみさんが書いた記事を読み進めていくと、どうやらその原因は、野球の合宿にあるようです。

中学のころの夏の合宿で、暑い中いつもよりしんどい練習が何日か続き、水も自由に飲めなかった時代。 ある日の昼食にカレーが出て、制限時間内にかき込んで、また暑い中練習に戻った時…とうとう暑さとキツさで戻してしまったらしい。 それ以来、それまで大好きだったカレーが、全く食べられなくなってしまったのではないかというのだ。 もう35年以上むかしの話だが、これぞトラウマ、という話。 そして今も夫は、我が家のカレーが食べられない。勿体無い。そして、何だか気の毒でもある。

私は高校時代バドミントン部に所属していましたが、真夏でも窓を閉じ、カーテンも閉めた体育館内で激しい練習を行い、水は飲んではならぬという練習を繰り返していました。
今では禁じられている、うさぎ飛びやおんぶ走りも日常的トレーニングでした。
大きな事故なく過ごせましたので笑い話と化しましたが、私が若い頃は、今となっては信じられないような指導がたくさんありました。

中学生のときの出来事がきっかけで、カレーライスが嫌いになってしまった元木さんは不運としか言いようがありませんが、実は、私もカレーライスがあまり好きではなく、もう何年も食べていません。

決して味が苦手なわけではありません。
ナンカレーは、どちらかと言えば好きな食べ物の範疇です。

積極的に食べない理由は、カレーライスを食べるとお腹を下してしまうからです・・。

その原因は、はっきりしています。
早食いです。

基本的に早食いの私は、カレーライスを食べるとき、いつにも増してご飯を噛まずに飲み込んでしまいます。
すると、元々胃腸が丈夫な質ではないので、必然的に下痢をする、という図式です・・。

ナンはパンのようなものですから、ある程度噛まないと飲み込めませんのでセーフです。
カレーライスがアウトなのです。

とろろご飯は、さらにいけません・・。
噛んでも噛んでも細かくもならず、柔らかくもならないとろろは、いつの間にかご飯と一緒に胃袋へ流れていきます。
ですから、私はとろろとご飯を、別々に食べることにしています。

「噛めよ!」

以前知人に話したら、一喝されました。
その通りです。
良く噛めば済むことです。
しかし、若い頃からの早食いは、そう簡単には直りません・・。

早食いは、肥満の原因にもなりますので、改善しなければなりません。
ネットには様々な改善策が掲載されていましたが、「食事の途中で何度か箸を置く」のは、自分にも出来そうな気がします。
お箸を一旦手から離すことで、次から次へと口に食事を運ばなくなりますので、効果が期待できそうです。

先日、洋食屋でランチを食べたときのこと。
テーブルに着くと、「春の和風オムレツライス」というメニューが目に入りました。
普段「和風オムレツライス」として提供しているものに、菜の花やハマグリを加えて、春らしくした季節限定メニューだそうです。
ほかのメニューはさほど見ずに、注文いたしました。
春らしい見栄えで、美味しそうだとは思いませんか!

しかし、食事が運ばれてきた瞬間、「やってしまった・・」と悔やみました。
オムレツの上に、たっぷりと「餡」がかかっています。
これは、私にとって「よく噛めないパターン」です。

そして、スプーンですくってさらにがっくり・・。
消化が良くない(と言われている)五穀米ではありませんか・・。

意を決して(大げさですが)ゆっくり食べることに専念しました。
途中で、箸ならぬスプーンを何度も置きました。
行儀が悪いと知りつつ、途中でスマホを見たりしながら、時間をかけて食べました。

その結果は・・、
お腹を下すことはありませんでした。
そして、食後まもなく満腹感を感じました。

「よく噛んで食べる」
いい加減に実践しなくてはいけませんね。

227 禍福糾纆

先日、日光山輪王寺へ行ってまいりました。

昨年7月、東武鉄道の特急に新車両「スペーシアX」が導入されましたので、次回はぜひ新しい電車で! と思っていたのですが、計画を立てるのが遅く、すでにどの時間帯も満席・・。
残念ながら、往復とも従来の特急けごんを利用しました。

上は1年前に撮影した画像です(今年は写真を撮り忘れました・・)

コロナやセガレの大学受験のため、しばらくご無沙汰していましたが、昨年、3年ぶりに訪れたところ、大改修を終えた三仏堂が見違えるほどキレイになっていました。

日光山は、天平神護二年(766年)に勝道上人により開山されました。
その後、占星術の権威であった天海(慈眼大師)によって九星学がもたらされ、明治時代に気学と結びついて、現在の九星気学へと発展したと言われています。

古代中国で生まれた九星気学は、星の示す方位をもとに開運を図ったり、凶運を避けたりと、吉凶を知るための占術のひとつです。

我々は生年月日によって「本命星」を持っています。
そもそも星とは、文字通り空に輝く星のことで、私たち人間の運勢は決められた星の運行に影響を受けると考えられています。
「星回りが良い」「星回りが悪い」という言葉がありますが、この星回りとは私たちの運命を左右する星の巡り合わせのことを言います。
令和5年は三碧木星が暗剣殺に当たり、昭和36年生まれの私が該当しました。

日光山輪王寺大護摩堂では、1日5回の護摩祈願が毎日行われています。
大護摩堂内には、天海座像と開運三天(毘沙門天、大黒天、弁財天)像もお祀りされており、パワー溢れる場所で受ける護摩祈祷は、大変有難いものです。

毎年いただいている星守に加え、昨年は特別降魔札も頂戴いたしました。

大きな怪我や病気をすることなく1年間過ごすことができたことに感謝し、先日そのお札をお返ししてまいりました。

改めて「占術」について調べてみると・・、

自然的または人為的現象のある面を観察することで、将来の出来事や人間の運命を判断したり予知したりする方術。卜占(ぼくせん)。うらない。

とありました。

「占い」と聞いて、私が真っ先に思い浮かぶのは新宿の母です。
伊勢丹新宿本店横で毎日行列ができていた光景を思い出します。

実は私、占いがあまり好きではありません。

過去のことを言われるのであれば、「当たり〜」「ハズレ〜」という程度で済むのですが、将来のこととなると、どことなく抵抗がありました。

しかし、20代後半の頃、後にも先にも、たった一度だけ経験があります。
残念ながら新宿の母ではないのですが、年配の女性の方でした。
どこかテーマパークの片隅に占いのコーナーがあり、一緒にいた仲間の押しに屈して、鑑定していただくことになったのです。

私の掌を見た第一声が・・、

「あなた、サラリーマンではないわね」

「当たってます!」
「いつごろ結婚できますか?」
「はっきり言っちゃってください!!」

周囲を取り囲む友達のヤジだけは鮮明に覚えていますが、鑑定結果は全く記憶にありません・・。

223 一六勝負

初めて勝った馬券は、高校2年か3年の天皇賞秋で、枠連1-8を1,000円購入。
結果は1着トウショウボーイ、2着グリーングラス。
見事的中し、配当は1,100円で、10,000円儲かった。

自分の馬券デビューについて、上記のように確信を抱いていました。
しかし、調べてみると該当するレースが見当たりません。
そもそも、トウショウボーイもグリーングラスも、天皇賞秋を制していないようなのです。

何が合っていて、何が誤っているのか、情報を整理してみました。
レースは天皇賞秋なのか、勝ち馬をテンポイントと勘違いしてはいないか、枠連1-8は本当なのか・・・・。
思案の末、最も信頼に値しそうなのは「ちょうど10,000円利益が出た」という点ではないかという結論に達しました。
初めて購入した馬券が的中して実入りがあった訳ですから、金額に関する記憶は正確なのではないかと目星を付けたのです。

そこから探っていくと、該当するレースがありました。
1978年11月に行われた第78回秋の天皇賞の枠連配当が、1,100円でした。
私が高校2年生のときですから時期も合っていますし、レース名も合致しています。

ただ、勝ったのはテンメイ、2着はプレストウコウ、枠連は6-8でしたので、ここは記憶と相反しています。
枠連ですから、同じ枠に同居していた馬を調べてみましたが、トウショウボーイもグリーングラスも出走していませんでした。

結局のところ、納得のいく結論は導き出せませんでした。
ただ、人間の記憶は当てにならないものなんだなと、改めて思い知らされました。

因みに、未成年は馬券を購入してはならないと法律で定められています。
まあ、45年も前のことですから時効でしょう。

元来、ギャンブルは嫌いな方ではないかな、と自認しています。
思い出深いのは、大学3年の夏に行ったラスベガスです。

ロサンゼルスでホームステイをしていた私は、週末を利用してラスベガスとグランドキャニオンへ遊びに行きました。
同じツアーに参加していた仲間の多くも一緒でした。

いつかは行ってみたいと憧れていたカジノの聖地は、まさにエキサイティングでした。
この日のために日本から持ってきた一張羅のスーツに身を包み、砂漠地帯でGolden Nuggetの看板を見たとき、これまで経験したことのない高揚感を感じました。

カジノにはスロットやポーカー、バカラ、ルーレットなど多様なゲームがありますが、私はブラックジャックの魅力に溺れました。

minimum bet 1$の最もハードルの低いテーブルとはいえ、ディーラーと対峙していると、自分がすっかり大人になったような気分になりました。

ディーラーが1枚目にエースを引いた時に聞かれる『insurance?』や、『stay』『hit』を手の仕草で表現するなど、現地で遊びながら学んだことも多く、時間を忘れて没入していました。

日付変更線を過ぎた頃、やや引きの弱い男性のディーラーがやってきました。
ここが勝負どきと判断し、賭け金も増やして巻き返しに成功しましたが、その後に現れたスレンダーでクールな女性ディーラーに屈し、結局一晩で270$の負けを喫しました(この記憶もあてにならないか・・・・)。

当時の為替レートは1$270円ですから、約7万円の損失です。
40年以上前に学生が一晩で7万円も失うとは、由々しき事態であることに間違いありません。

そろそろ退散しようかなと時計を見ると、深夜2時を過ぎていました。
10人ほどの仲間とカジノに来たのですが、周りを見渡すと、友人は誰もいません。
と思ったとき、ルーレットのテーブルにいた日本人と目が合いました。
京都大学文学部3年のNちゃんでした(女子です)。

『まだいたんだ』
『国立大学の学生って、ギャンブル好きなんかね?』

深夜のカジノで聞く関西弁はすこぶる印象的でした。

あれから40余年、現在の私は、一切ギャンブルをしません。
競馬、競輪、パチンコを始め、宝くじやロト、株も含めて全く興味が薄れてしまいました。
加えて、タバコをやめて約20年、酒は生まれつきの下戸。
なんだか味気ない男ですね・・。

ただ、ラスベガスは、もう一度訪ねてみたいです。
深夜までカジノに興じる体力は失われてしまいましたが、年齢なりの違った楽しみ方ができるかなと思っています。

初めて馬券を買ってから45年。
本日、15時40分、第168回天皇賞(秋)の発走です。

218 局面打開

大学生のとき、友人と車で伊豆半島一周旅行をしました。
途中、南西端の波勝崎苑猿園に立ち寄り、ニホンザルを見ました。
そして、おとなしく座っていた一匹の猿に近づき、並ぶようにして写真を撮りました。

「サル〜、ありがとね〜」と猿とは反対の方向を見ながら去り際に言うと、突然左のふくらはぎに痛みを感じました。
その猿が歯茎剥き出しで、私の足に噛み付いていたのです。

すぐに猿は逃げていきましたが、ズボン越しに噛まれたふくらはぎには、猿の歯型が残りました。

その夜のこと。
民宿の部屋で足を投げ出してくつろいでいた時、友人がボールペンの先で私の足に残った歯型の真ん中をつついていました。

気配を感じて振り向くと・・、

「感じないの?ヤバっ!」

確かに振り向いたのはつつかれた痛みからではなく、友人のクスクス笑う声に反応したのでした。

猿菌とかあるのかね?
何科に行くんだ?
カルテに「猿に噛まれて受診」って書かれちゃうのか?

茶化しまくる友人たちの言葉が、もはや冗談に聞こえなくなっていました。

東京に戻り、すぐにかかりつけの皮膚科医を訪ねました。

「山田さん、久しぶり。犬に噛まれたんだって?」
「あのー、犬じゃないんです・・」
「犬じゃないの??」
「はい、猿です・・」

いつも優しい斉藤先生は一瞬驚いた表情を見せ、隣りにいた看護師さんは、笑いを堪えているようでした。

結果的に大事には至りませんでしたが、それ以来、猿は私の中で怖い動物ランキングの上位になりました。
日光で猿が観光客から食べ物を奪うニュースが一時頻繁に報道されていましたが、とても私は直視できませんでした。

因みに、アクシデントの起こった波勝崎苑猿園は、昭和32年(1957)にオープンして以来、多くの観光客で賑わっていましたが、来園者が次第に減少し、2019年9月に休園となってしまいました。

https://www.asahi.com/articles/ASM9S5W09M9SUTPB01B.html

しかし、野生のサルの生命保護と近隣の農業被害の防ぐため、伊豆地域で動物園を運営する企業がクラウドファンディングを行うなど、事業の継承に努め、2020年5月7日に「波勝崎モンキーベイ」と名称を変更して復活したそうです。

ここで暮らすニホンザルたちは野生の猿です。
動物園のように檻はありません。
ただ、野生の猿ですが、食べものを人間から貰っているため、人に敵意は示さないと言われています。

私が足を噛まれたことには、何か原因があったのだと思います。
目を合わせてはいませんし、見えるところに食料は持っていませんでした。
でも、猿にとっては、私が善良な味方でなかったことは間違いありません。

私は子供のころからペットを飼ったことがないため、動物一般が比較的苦手です。
上手な扱い方や関わり方が分からないのです。
小学校低学年のころ中型犬に手を噛まれた経験のある私にとって、猿に噛まれたことで益々動物が苦手になってしまいました。

そんな私に、心を許してくれた犬が1匹だけいます。
仕事仲間の製本所で飼われていた真っ白なポメラニアンの「チャオくん」です。

チャオは私が工場に入ると、尻尾を振りながら駆け寄ってお腹を上にしてゴロンと寝転がり、「お腹をさすれ」と要求します。
そして、私がお腹をさすってあげると、極楽な表情を浮かべるのです。
それはそれは私にとって、堪らなく癒やされる時間でした。

子どもが成長して家を出たことで、ペットを飼い始めた友人が複数います。
今後を考えると、ペットに好かれるオッサンを目指すことも重要かも知れません。

215 大慈大悲

昨年11月頃、ネットで京都に関する情報を見つけました。

京都市と京都市観光協会(DMO KYOTO)は、JRグループ6社と連携したデスティネーションキャンペーン「京の冬の旅」を、2023年1月1日~3月27日に実施する。

第57回目となる今回は、1月8日から放送のNHK大河ドラマ「どうする家康」や「親鸞聖人御誕生850年」「弘法大師御誕生1250年」などにスポットをあて、普段は見られない15か所の貴重な文化財を特別公開する。

1年を通すと観光客が比較的少ない冬季の集客を狙って始まったイベントかと思いますが、57回目という回数に驚きました。

これまでも冬の特別公開には興味を抱いてきましたが、普段見ることができない文化財が鑑賞できる機会はとても魅力的です。

清水寺、仁和寺、醍醐寺、大徳寺・・・・。
今回も有名なお寺が並んでいるな・・と思ったその時、目を疑う記事を発見しました。

「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 上徳寺

~「世継地蔵」で知られる家康ゆかりの寺~

「大坂の陣」にも関わったという徳川家康の側室・阿茶局を開基として創建。通称ともなっている「世継地蔵」は「子授け祈願・安産祈願」の信仰を集める像高約2mの石像で、今回は地蔵堂の内部に入って間近で参拝することができる。本堂では、家康と二代将軍・秀忠、阿茶局の肖像画など寺宝も特別展示。また貴族の邸から移築されたと伝わる書院造の客殿は、紅葉や桜を描いた江戸後期の円山派の絵師による襖絵や枯山水庭園がみどころ。

以前何度か紹介させていただきましたが、上徳寺は我が家にセガレを授けてくださった有難いお寺です。
そのお地蔵さんが間近で見られるとは、信じられません。

数年前、毎年2月8日に行われる大祭に参加し、地蔵堂の中に1度だけ入ったことがあります。
しかし、お地蔵様は少し中に鎮座しているため間近で見られた訳ではありませんし、今回の特別公開では地蔵堂のみならず、本堂や客殿にも上がることができると知りました。

そのうえ、本邦初公開です。
こんな貴重なチャンスを逃すわけにはいきません。
1月上旬に、拝観に行ってまいりました。

拝観料800円を納め、本堂に上がらせていただきました。
これまで20回以上訪れているお寺さんですが、本堂内に入るのは初めてのことです。

堂内は荘厳で静謐。
また、堂々とした寺額は、存在感抜群でした。

中には説明をしてくれるスタッフさんがいて、上徳寺は1603年の建立と伺いました。
1603年?
2003年生まれのセガレは、建立400年の年に授かったわけです。
さらに深いご縁を感じ、興奮でちょっと体温が上がった感じがしました。

ただ、残念だったのは、ご本尊の阿弥陀如来様が、今、東京に行っており、3月上旬にお戻りになる予定とのこと・・。
残念ながら、拝顔の栄に浴することはできませんでした。

本堂を見学した後、客殿も拝見いたしました。
ネットでも紹介されていた襖絵は見応えがありましたし、枯山水庭園も見事でした。

そして、最大のイベント、世継地蔵様を間近でお参りする機会が巡ってきました。

結婚して8年、子宝に恵まれなかった我々夫婦が、新幹線内で読んだガイドブックでその存在を知り、初めてお参りしたのが2003年1月。
その年の10月にセガレを授けてくださったお地蔵様を、至近距離で拝むことができるのです。

若干緊張しながら靴を脱いで地蔵堂内にお邪魔し、向かって左側へ進むと、正に目の前、30cmほどの距離に石像が鎮座していました。

その瞬間、図らずもカラダが硬直しました。
どこかが震えているのを感じました。

他に参拝者がいなかったこともあり、しばらくの間、立ちすくんでいました。
写真撮影も許可されていましたが、スマホは握らず、心の中に深く、深く刻むことに決めました。

あれから2ヶ月。
せわしい年度末の日々を過ごしていましたが、ふと、お地蔵様のことを思い起こしました。
あんなに近くで拝顔させていただき、有難かったな・・。
そういえば・・、

ご本尊は東京から戻ってきたのかな・・。
手を合わせに行きたいなあ・・。

ひょっとしたらと思い、Twitterをチェックしてみると、無事、京都にお戻りになっていると知りました。

しかし、今年の冬のイベントは、3月19日まで。
週末はあと1回。
仕事もたくさん残っているな・・と迷いながらも、先日、弾丸で行ってまいりました。

ようやくお目にかかれたご本尊は、穏やかで慈愛に満ちた表情をされていました。

以前お邪魔した際、スタッフさんからご本尊の特徴について、以下のようにご説明を受けました。

  • 右手は胸の前、左手は下に垂すというポーズが多いと言われているが、手の位置が左右逆になっている。
  • 袈裟の右肩をはずして、左肩だけを覆う着方(偏袒右肩)が多いなか、両肩を袈裟で覆っている。

間違いなく、その通りのお姿でした。
感謝を込めて手を合わせてまいりました。

また、お寺の西側にある墓地には、側室でありながら家康公の懐刀として歴史に残る活躍をした阿茶局が眠っています。
この墓地にも、今回初めて入ることができました。

才知の局と紹介された墓碑を読み進めていくと、京都では上徳寺、江戸では雲光院が菩提寺となったと記されていました。

今度、東京の菩提寺も訪問してみようかなと、帰りしなスマホをいじってビックリ。
雲光院は、弊社から徒歩5分のところにあるお寺でした。

弾丸ツアーでしたので時間の余裕はさほどありませんでしたが、益々ご縁を感じる素晴らしい旅となりました。

210 投桃報李

同じ名字の山田という親友がいます。
外見は、ほぼ「その筋の人」です。
青果市場で早朝から働き、午後は別の仕事に就くという、超人的に働くタフな男です。

私は年に数回、ゴルフコンペの商品手配を彼に依頼します。
順位に応じた予算を提示すると、その時の旬なフルーツや野菜を準備してくれます。
それだけでなく、一つひとつに説明書きを添えてくれるのです。

つい先日依頼した時の優勝賞品は、高級ぶどうの詰め合わせでした。
その内訳は、シャインマスカット、ナガノパープル、マイハート、土佐太郎、コトピー、高妻、ゴルビーの7種類。
今回もこれら全てに、事細かな解説が書き添えられていました。

市場というところには、我々が日常スーパーでは見かけることのない品種が数多く並んでいます
また、夏場にミカンがあったり、冬なのにスイカが売っていたり、驚きの光景が広がっています。

さて、上は我が家のダイニングテーブルで撮った写真です。
誤解のないように申し上げておくと、件のコンペで優勝した訳ではありません。
コンペの賞品を引き取りに行った際に、彼がプレゼントしてくれたものです。

彼と私は、折に触れて、モノを贈り合う仲です。
盆暮れに関係なく、彼は旬のフルーツを、私はラーメンやうどんなどを、挨拶代わりに贈り合っています。

写真について、簡潔に解説します。
写真左上、濃紺色のぶとうは「ナガノパープル」という品種です。
あまり聞かない名前ですが、品種登録されたのは2004年ですから、18年も前のことです。
黒系のブドウなので、皮にはポリフェノールがたっぷり含まれており、1房食べると赤ワイン1本分と同程度のレスベラトロール(ポリフェノールの一種)が摂取できると言われています。

その右下、ちょっと粒がばらけてしまっているのが「コトピー」。
シャインマスカットと甲斐乙女を交配した、果皮が赤いぶどうです。
シャインの味がほのかに感じられ、上品な美味しさでした。

その右上は、ご存じシャインマスカット。
「まだ早いから追熟させてから食べてよ」と言われたにも関わらず、我慢できずに少し食べてしまいましたが、十分美味しかったですね。

一番右上のぶどうは「マイハート」です。
その名の通り、ハート型をしています。
生産量が非常に少なく、市場にもごくわずかしか出回らない希少な品種です。
半分に切って並べると、ハートがとても可愛らしいですね。
お弁当に入っていたら、テンションが上がりそうです。

それから、左下に桃が1つあります。
これは「CX(シーエックス)」という山形県産の超レアな品種です。
梨のような食感が特徴の桃ですが、やや固めの食感に反して、実に甘い!
桃の糖度は通常の11〜14度くらいとされていますが、19度という飛び抜けた糖度の品種です。

その桃の上下にキウイがあります。
私がコンペでゲットしたのはこれです。
福岡県産の「レインボーレッドキウイ」という品種で、サイズはやや小ぶりですが、2つに切ると中が赤くてビックリします。

  • 低温でも熟してしまうため貯蔵性が無い
  • 生産量が非常に少ない
  • 出回る時期も限られている

という貴重な品種ですので、当然、お値段も高めです・・。

ワタクシ、第9位という成績で、この商品を獲得しました。
まさか・・と思って確認すると、やはりそうでした。

「9位だからキウイにしたよ」

コンペの表彰式を盛り上げるためのオヤジギャグも仕込んでくれる市場の彼に、謝意を表したいと思います。

【参考】
今回紹介したのは千住の足立市場内にある関水青果さんです。
一般の人でも購入が可能です。
産地の話、食べ方など、いろいろ教えてくれますので、ぜひ足をお運びください。

208 遊戯三昧

「友達が麻雀を教えてくれたんだけど、用語がなかなか覚えられないや」

福岡旅行から戻ったセガレが突然言い出しました。
その友人は、中学高校の同級生で、学部は違いますが同じ大学に通っています。
聞けば、その友人のクラスでは、麻雀が静かなブームなのだそうです。

若者の麻雀離れが指摘されて、随分経つように思います。
1つの理由として、若者の行動体系が大きく変わったことが挙げられます。
彼女なんて要らないという、私が若い頃には(いや、このトシになっても)理解できない草食男子にとって、4人揃わないと始まらない麻雀は、敷居が高くなって当然と言えるでしょう。

2つめに、金品を賭ける、タバコを吸う、酒も飲む、徹夜もしちゃう麻雀は、イマドキの遊びではないのかも知れません。

私が麻雀を覚えたのは、高校2年生のときでした。
たちまちその奥深さにハマり、「世の中にはこんなに楽しい遊びがあるのか!」とさえ思いました。
多彩な役にも魅力を感じましたが、符の計算が算数のドリルのように楽しくて引き寄せられました。

高校生の時に通った池袋の「平和」という雀荘は、1時間80円でした。
お茶の1杯すら出ませんでしたが、麻雀ができればそれで良かった高校生にはうってつけの場所でした。

大学生になってからは、高田馬場の「西武」に本拠地を移しました。
刺激的な辛さのカレーライスが有名で、眠くなってきた頃に食べると、アタマの芯から汗が出て、覚醒したものでした。

私にとって麻雀は、間違いなく青春の1ページです。

さて、前回のバリカン丸坊主に続いて、高校生活ネタをもう1つ。

私の高校では、日直がクラス日誌を書くことになっていました。
といっても、その日の天気や欠席者など、他愛もないことを書けばよいのです。
そして、その日誌は、担任が手の空いたときに教室で読むことが習慣になっていました。

高校2年生の秋。
日直だった私は、来る日も来る日も同じような内容ばかりでつまらないな・・と思い、何を血迷ったか、日誌に麻雀ネタを書くことにしました。

南3局 西家 持ち点43,000点 トップ
5巡目にリャンソー自摸 何を切るか

こんな感じの「何切る問題」を書きました。

翌日、次の当番に日誌を渡すと、「山田がこんなこと書いてるぞ!」と暴かれました。
そして、私の書いた日誌の内容は、一気にクラス中に行き渡りました。

「このまま出すのか?」
「シャレじゃ済まないぞ」
「自爆だろ!?」

皆にそう言われましたが、せっかく書いた日誌を消すつもりは毛頭ありませんでした。

そして、ある日、本来予定されていた授業が何らかの事情で休講となりました。
こういう場合、担任の監督のもと、生徒は自習するというのが常でした。

各自目的を持って自習するように、と先生から指示が出ても、大半の生徒は上の空でした。
何故なら、教壇に鎮座した担任が、そこでクラス日誌を読むであろうことは、誰でも予想のつくことでした。
ほとんどの生徒は教科書を見ているふりをしながら、担任の動きを目で追っていました。

担任はサトウ先生。
気難しいことで名高い、中年の男性教師でした。

そんなとき、教師の表情が明らかに変わりました。
おそらく、私の書いたページに到達したのでしょう。

「山田、ちょっと来い」

ついにお呼びが掛かりました。
教室内が、急にざわつきました。
私も腹をくくってはいましたが、険しい表情で名指しされましたので、動揺は隠せませんでした。

「おい」
「な、なにか・・」

「お前な」
「あ、はい・・」

「これ、なに切るんだ?」
「え??」

「教えろ」
「はい。持ち点がトップなので平和ドラ1を闇聴で早上がりできるようにもっていくべきであり、であるならば、スーアン自摸による3面待ちを捨てても、油っこい中央付近のウーアン、ローアンを切るべきであると考えます」

「ふーん。なるほどな。戻れ」

昭和って、やっぱり良い時代だったんだなって思います。

207 一球入魂

第104回全国高校野球選手権が開幕しました。
3年ぶりに一般客がスタンドで観戦できることになりましたが、敗戦校が土を持ち帰ったり、勝者が大声で校歌を歌うことはNGだそうで、コロナの影響は未だ色濃く残っています。

大会初日の今日、甲子園地方の最高気温は32度でしたから、猛暑日にならなかったのは良かったと言えます。
ただ、近年の暑さは、昔とは別物と考えなければならないと思います。
ドーム球場で開催すれば、健康面での安全が確保されるのになあ、と思ったりします。
開会式でプラカードを持つ女子学生の親も、安心して送り出せるのではないでしょうか。

しかし、球児たちにとっては、夢の舞台が甲子園球場であることが、意義深いのかも知れません。
アメリカ横断ウルトラクイズ決勝の地がニューヨークでなくてはならないのと同じですね(違うか)。

そんな中、先月下旬、日本高野連は将来的に朝と夕の「2部制」での開催を含め、さまざまな観点から暑さ対策を検討すると発表しました。

これまでも専門の理学療法士を待機させたり、試合中に給水や休憩の時間を設けたりして対策を重ねてきたようですが、暑さ対策についてはより前向きに、そして迅速な対応が必要だと思います。

ところで、日本高校野球連盟の調査結果によると、2021年、同連盟に加盟する47都道府県の高校の硬式野球部の部員数は13万4,282人でした。
2001年は15万328人でしたから、10年間で1万5,000人以上減ったことになります。
また、中学軟式野球部は、もっと大幅に減少しているそうです。

子供たちの野球離れには、以下の複合的ファクターがあると考えられています。

  1. ボールの使用を禁止する公園が増えたこと
  2. YouTubeやeスポーツ市場の拡大によるゲーム人気の高まりなど、娯楽の選択肢が増えていること
  3. 経済的理由で子供の野球用具の購入費用が捻出できないこと

また、もう1つ、独特の要因があります。
「坊主頭」の文化です。

現在は、多くの学校が坊主頭を強制しているのではなく、「暗黙の了解」で坊主頭にしているのだそうです。
先輩が皆丸刈りならば、新入部員が坊主にするのは必然ですから、これを暗黙の了解というのでしょう。

しかし、最近は髪を伸ばした高校球児を見ることが増えたように思います。
中国新聞社が今年の広島県大会前に調べたところ、出場85校(83チーム)のうち、半数以上の46チームが髪形を選手個々の判断に委ねている一方、37チームが今でも全員丸刈りにしているとのこと。
徐々に変わりつつある、といった印象ですね。

2019年夏、45年ぶりに甲子園出場を果たした秋田中央高の佐藤監督(当時)の言葉が印象的でした。
この学校は2019年4月に、監督が坊主頭を見直すのはどうだろうと生徒に提案し、最終的に丸坊主をやめる決断を下しました。
その決断を受け、佐藤監督は部員たちにこう伝えたといいます。

「負けたら色々言われるよ。寝癖がついていればだらしないと思われる。自由というのは一番厳しいんだ。野球だけでなく、普段の身だしなみから自分で考えるべ。坊主頭のままでももちろんいい。でも髪型を考えることを放棄して坊主頭にするのはやめよう」

わがままに何をしてもいいのが自由ではなく、人に対して、そして、自分に責任を持つことが本来の自由であるという指導に感銘を受けました。

私は物心ついたときから野球が大好きでした。
しかし、私の通った東京都文京区の公立小学校にも中学校にも、野球部はありませんでした。
文京区は山手線の内側に位置していますから、野球ができるほどの広い校庭を望むのは所詮無理な話です。

一転、高校には広い土のグラウンドがありました。
もちろん野球部もありましたが、私は入部しませんでした。

坊主頭にするのがイヤだったからです・・。

ご多分に洩れず、我が母校の野球部員は全員丸坊主でした。
髪型が自由だったら、野球部に入部していたかも知れません。
坊主頭ルールが有能なプロ野球選手を1人失った、と言えるかも知れません(違うか)。

また、全く別の意味で、独特の丸刈りルールがありました。
それは、校則違反を犯した者は、懲罰として丸坊主にされるというものです。

丸刈り担当は、ごつくて強面の体教(体育教員の略)でした。

「この間、電動バリカン買ったからな。ガンガン坊主にするぞー!」
ある日の朝礼で、体教が不吉な笑いを浮かべていました。

昨日まで髪の毛フサフサだった友人が、ある朝突然、坊主頭になって登校してくるなんて姿を何度も見ました。
その理由は多様です。

「昼ドキに学校抜け出そうと思ったら捕まった・・」
「パーマ掛けて、直さなかったらやられた・・」
「タバコ持ってるのバレた・・」

根本的な原因は生徒にあるので、当時の学生は不満に思ってはいませんでしたし、今思い返しても、指導の行き過ぎだとは感じません。

ある日、友人のK君が正門前で体教に確保されました。
1978年4月4日の午後でした。

「おい、具合でも悪いのか?それともほかに理由があるのか?」

万事休す・・。
しかし、K君は正々堂々、体教と対峙しました。

「先生、今日はキャンディーズの解散コンサートがあるんだ。今日が最後なんだ。明日、朝イチで体育教官室に行って、どんな処分も受ける。だから今日は行かせて欲しい」

屈強な体教を前に、そして、学校をサボるという立場にありながら、K君は胸を張って言いました。

結果、彼は後楽園球場で解散コンサートを見ることができました。
そして、何故か、電動バリカンの餌食にもなりませんでした。
直球勝負の心意気が先生を動かしたのか、あるいは、その体教もキャンディーズのファンだったのか、真相は闇の中です。

言った生徒も生徒なら、対応した教師も教師です。
昭和の良き風景を感じます。

204 鸞翔鳳集

6月6日、桑田佳祐さんの新曲「時代遅れのRock’n’Roll Band」のミュージックビデオがYouTubeで公開されました。

佐野元春さん、野口五郎さん、世良公則さん、Charさんとの豪華共演で、しかもこの5名は同級生なのだそうです。

桑田さんが、4人それぞれに手紙を送り、所属事務所にデモ音源とともに自ら足を運んで説得したという時代遅れな方法で実現したと知りました。
桑田さんの人柄が感じとれるエピソードですね。

しかし、こんな大物がこぞって同級生だなんてホントかな?
厳密には1人はちょっと年上ですが、なんてエクスキューズがあるんじゃないかな?

ちょっと怪しい匂いを感じ、調べて見ました。

  • 桑田佳祐さん:1956年2月26日生 神奈川県出身
  • 佐野元春さん:1956年3月13日生 東京都出身
  • 野口五郎さん:1956年2月23日生 岐阜県出身
  • 世良公則さん:1955年12月14日生 広島県出身
  • Charさん       :1955年6月16日生 東京都出身

あっぱれです。
文句なしの同級生でした・・。

 

このMVは、現時点で既に320万回以上再生されており、その数字は日に日に伸びています。
私も20回以上鑑賞させていただきました。
スペシャルな面々が各々の持ち味を出していて、聞き応え、見応え満点です。

歌詞のそこかしこにも、桑田さんの才能を感じます。
「力の弱い者が 夢見ることさえ 拒むというのか」
このフレーズはあの人に向けてのメッセージなんだと思います。

また、このMVには2名の特別出演がいます。
原由子さんとハマ・オカモトさんです。

それから、もう1人。
重要な役どころを演じている「特別友情出演」の大友康平さんも忘れてはなりません。

  • 大友康平さん:1956年1月1日 宮城県出身

なんと、先の5名と同級生で、またまた驚きました。

特別友情出演になった理由は「ギターが弾けないから」だそうで、大友さんのオフィシャルブログには、以下のような逸話が紹介されています。

桑田から「大友にも声をかけなかったら、あとで何を言われるかわからないからなあ」の一言には笑えたなあ。

近年の大友さんしか知らない若い世代の方は、ロックンローラーというより、CM「いすゞのトラック」のイメージの方が強いかも知れませんね。
私は、ミュージシャンでありながらコメディアンのようにトークも面白い大友さんの大ファンで、ある事件以来、親近感すら感じています。

その事件とは・・、

年に数回、ゴルフコンペで顔を合わせるRさんという方がいます。
以前、同じお客様に出入りしていた業者仲間という立場で知り合った間柄です。

4〜5年ほど前にコンペでお目に掛かった際、こう声を掛けられました。

「前から思ってたんだけどさ、山田さん、大友康平にチョー似てるよね。」

「え?言われたことないっすよ・・」

過去に似ていると言われたのは、金山一彦さん、辰吉丈一郎さん、西山浩二さんなど・・。
大友康平さんはこの時が初めてでした。

周囲で聞いていた方も「似てる似てる」と笑いながら反応していましたが、本人としては少なからず不服でした。

そんなことがあった1ヶ月ほど後、某大学病院のエレベーターでのこと。
点滴スタンドを転がしながら70歳くらいの男性患者さんが、看護師さんに付き添われて乗ってきました。

「何階に行かれますか?」

と声を掛けたところ、

「あんた、大友康平に似てるって言われるだろ?」

と、出し抜けに言われました。

「ん?2度目だな・・」と思った私は「はい、たまに・・」と申し上げると、

「だよな!そっくりだよなあ!」

狭いエレベーター内でご満悦な点滴オジサン。
同意を求められ、必死に笑いをこらえる看護師さん。

1ヶ月ほど前に納得いかないなあと思ったことを、初対面の方から指摘された訳です。
しかも、コロナ前のマスクをしていない時期のことですから、これは受け入れるしかありません。
私のプロフィールに追加させていただくことといたしました。

MVで演じている三枚目の役柄は、確かに私と共通点が見い出せます。
それにしても、病院内でいきなり声を掛けられるほど、似ているのかなあ・・。
入院生活に少し飽きていて、からかう相手を探していたのかなあ・・。

点滴オジサンが、今日を元気で過ごされていることを祈りたいと思います。

203 大驚失色

携帯電話が日本で発売されたのは1985年、ショルダーホンという名称で、肩に掛けて持ち運ぶスタイルでした。
ウィキペディアによると、重量は900グラムもあったそうです。

私が社会人になったのはその1年前、1984年4月ですから、当時会社との連絡手段はポケットベルでした。
プッシュ回線から数字を送ることができたので、急ぎの時は「9」、大至急の時は「99」というルールを設けて、緊急度を伝えることにしていました。

しかし、いくら「99」と表示されても、公衆電話がなければ連絡ができません。
ポケットベルって便利だなあと当時は思っていましたが、公衆電話が町から消えた今となっては、過去の遺物ですね。

時は流れ、初めて携帯電話を所有したのは、32〜33歳頃だったと思います。
記念すべき1台目は、富士通製でした。

ドッチーモ、なんて機種も使用したことがあります。
1台で携帯電話とPHS双方の機能を持つNTTドコモの端末です。

その後、富士通のほか、NECやSONY など、国内メーカーの製品をずっと使用してきましたが、先日、カミさんと一緒にiPhoneに乗り換えました。

カミさんはiPhone 13 miniの青、私はiPhone 13の赤にしました。
男女逆な感じがしますが、私の赤は還暦にちなみました。

私は仕事ではずっとMacを使用していますし、個人でiPadも所有しているので、携帯電話だけAndroidだったこれまでがちぐはぐだったと言えるかも知れません。
ただ、なんとなくアメリカ製のiPhoneや韓国製のGalaxyではなく、日本製品頑張れという気持ちで主にSONYのXPERIAを愛用してきました。

実際iPhoneを使用してみると、カバーは多くの種類から選べますし、Macとの相性など、便利さを実感しています。

Macに関しては、初めて購入したのは1995〜1996年頃でした。
確かPerforma 5260とかいう機種だったと思います。
NECのPC9801を個人ユースで所有していましたが、Mac購入はDTPへ移行するための第一歩でした。

思い出すのは、漢字Talk7.5.1というOSが、変な名称だなと感じたこと。
プリインストールされていた「3Dアトラス」が面白かったこと。
DTPソフトの先駆けであるQuark Xpressが、1ライセンス248,000円で驚愕したこと。
QuarkもillustratorもPhotoshopも操作がわからず、デザイナーや製版屋の知人に、恥も外聞もなく聞きまくったこと・・。

メモリもハードディスクも、今では考えられないほど小さな容量だったことでしょうが、目の前で処理される様々な事象に驚嘆するばかりでした。

話はポケットベルに戻りますが、ある土曜日、ディスプレイに「999999」と表示されたことがありました。
「99」が大至急なのに、どんだけ急ぎなんだ・・。
下請けの製本屋さんにいたので電話を借りて会社に連絡すると・・、

「事務所の裏が火事です!!!」

急いで会社戻ると、おびただしい数の消防車が到着していました。
野次馬も大勢いて、周辺は騒然としていました。

「今後の状況によっては御社の建物の裏側からも放水します。窓ガラスが割れる可能性が高いですが、お許しください」とのこと・・。

印刷屋の事務所兼倉庫ですから、中は大量の紙で溢れています。
ガラスを突き破って水が入ってきたら、事務所内の製品は全部アウトだ・・と呆然としましたが、幸い放水には至らず、鎮火いたしました。

今でも数字の9がいくつか並んでいるのを見ると、あの喧騒を思い出します。