偏好」カテゴリーアーカイブ

223 一六勝負

初めて勝った馬券は、高校2年か3年の天皇賞秋で、枠連1-8を1,000円購入。
結果は1着トウショウボーイ、2着グリーングラス。
見事的中し、配当は1,100円で、10,000円儲かった。

自分の馬券デビューについて、上記のように確信を抱いていました。
しかし、調べてみると該当するレースが見当たりません。
そもそも、トウショウボーイもグリーングラスも、天皇賞秋を制していないようなのです。

何が合っていて、何が誤っているのか、情報を整理してみました。
レースは天皇賞秋なのか、勝ち馬をテンポイントと勘違いしてはいないか、枠連1-8は本当なのか・・・・。
思案の末、最も信頼に値しそうなのは「ちょうど10,000円利益が出た」という点ではないかという結論に達しました。
初めて購入した馬券が的中して実入りがあった訳ですから、金額に関する記憶は正確なのではないかと目星を付けたのです。

そこから探っていくと、該当するレースがありました。
1978年11月に行われた第78回秋の天皇賞の枠連配当が、1,100円でした。
私が高校2年生のときですから時期も合っていますし、レース名も合致しています。

ただ、勝ったのはテンメイ、2着はプレストウコウ、枠連は6-8でしたので、ここは記憶と相反しています。
枠連ですから、同じ枠に同居していた馬を調べてみましたが、トウショウボーイもグリーングラスも出走していませんでした。

結局のところ、納得のいく結論は導き出せませんでした。
ただ、人間の記憶は当てにならないものなんだなと、改めて思い知らされました。

因みに、未成年は馬券を購入してはならないと法律で定められています。
まあ、45年も前のことですから時効でしょう。

元来、ギャンブルは嫌いな方ではないかな、と自認しています。
思い出深いのは、大学3年の夏に行ったラスベガスです。

ロサンゼルスでホームステイをしていた私は、週末を利用してラスベガスとグランドキャニオンへ遊びに行きました。
同じツアーに参加していた仲間の多くも一緒でした。

いつかは行ってみたいと憧れていたカジノの聖地は、まさにエキサイティングでした。
この日のために日本から持ってきた一張羅のスーツに身を包み、砂漠地帯でGolden Nuggetの看板を見たとき、これまで経験したことのない高揚感を感じました。

カジノにはスロットやポーカー、バカラ、ルーレットなど多様なゲームがありますが、私はブラックジャックの魅力に溺れました。

minimum bet 1$の最もハードルの低いテーブルとはいえ、ディーラーと対峙していると、自分がすっかり大人になったような気分になりました。

ディーラーが1枚目にエースを引いた時に聞かれる『insurance?』や、『stay』『hit』を手の仕草で表現するなど、現地で遊びながら学んだことも多く、時間を忘れて没入していました。

日付変更線を過ぎた頃、やや引きの弱い男性のディーラーがやってきました。
ここが勝負どきと判断し、賭け金も増やして巻き返しに成功しましたが、その後に現れたスレンダーでクールな女性ディーラーに屈し、結局一晩で270$の負けを喫しました(この記憶もあてにならないか・・・・)。

当時の為替レートは1$270円ですから、約7万円の損失です。
40年以上前に学生が一晩で7万円も失うとは、由々しき事態であることに間違いありません。

そろそろ退散しようかなと時計を見ると、深夜2時を過ぎていました。
10人ほどの仲間とカジノに来たのですが、周りを見渡すと、友人は誰もいません。
と思ったとき、ルーレットのテーブルにいた日本人と目が合いました。
京都大学文学部3年のNちゃんでした(女子です)。

『まだいたんだ』
『国立大学の学生って、ギャンブル好きなんかね?』

深夜のカジノで聞く関西弁はすこぶる印象的でした。

あれから40余年、現在の私は、一切ギャンブルをしません。
競馬、競輪、パチンコを始め、宝くじやロト、株も含めて全く興味が薄れてしまいました。
加えて、タバコをやめて約20年、酒は生まれつきの下戸。
なんだか味気ない男ですね・・。

ただ、ラスベガスは、もう一度訪ねてみたいです。
深夜までカジノに興じる体力は失われてしまいましたが、年齢なりの違った楽しみ方ができるかなと思っています。

初めて馬券を買ってから45年。
本日、15時40分、第168回天皇賞(秋)の発走です。

212 読書三余

読書三余。

この四文字熟語の解説は、「福島みんなのNEWS」サイトにわかりやすく掲載されています。
(http://fukushima-net.com/sites/meigen/411)

読書・勉学をするのに好都合な三つの余暇(自由に使える時間)のことを表しています
一年のうちでは冬、一日のうちでは夜、気候では雨降りをいいます。

出典は『三国志』魏(ギ)志・王肅(オウシュク)伝の注です。

中国三国時代(A.D.220~280)、魏の大司農(ダイシノウ:今の財務大臣)董遇(トウグウ)が、その弟子に教えた勉強法です。

董遇は、弟子に最初から教えようとせず、まず自分で書物を熟読すべきことを説きました。
『読書百遍 義自(おの)ずから見(あら)わる』
まず書物を百回繰り返して読め。百回読めば自然に理解できるようになると弟子たちに教えました。

弟子の一人が「私には、書物を百回も読む暇がありません」と答えました。
すると董遇は「暇がないことはないでしょう。三余にしなさい」と言いました。

三余とは何ですかとの問いに、
冬は歳(とし)の余、夜は日の余、陰雨は時の余なり
1)冬は一年の余り、
2)夜は一日の余り、
3)雨降りは時の余りである
と答えました。

この話は「董遇三余」とも呼ばれています。
余は「余暇」の意味です。自由に使える時間と言う意味です。
「晴耕雨読」が生活の基本であった当時、
農作業の忙しくない季節である冬と、
一日のうちでは夜と、
雨降りの時が
余暇になります。

暇がないと騒ぐのは、今も昔も勉強したくない者の言い訳のようです。

この言葉の奥義は、最後の1行に集約されていますね。

私も、繁忙期になると本を読む時間がないと感じる「勉強しなくない者」の典型です。
思い返してみると、ここ数ヶ月、読書時間は著しく減っていますし、書店にもあまり行っていません。
この正月期間は、読書に時間を割きたいなと思っていました。

そんな中、昨夜、衝撃的なテレビ番組を見つけました。

「NHKスペシャル未解決事件・松本清張と帝銀事件 第1部ドラマ 事件と清張の闘い」です。

帝銀事件とは、1946年、銀行員らに液体を飲ませて12人を殺害し金銭を奪った、戦後最大のミステリーと呼ばれている事件です。

事件から約7ヶ月後、逮捕されたのは小樽在住の画家・平沢貞通氏。
彼は、裁判で終始無実を訴え続けながら、1987年に95歳にて獄中死しました。

作家の松本清張氏は、この帝銀事件をはじめ、下山事件や松川事件など、アメリカ軍占領下で発生した重大事件について独自の視点で真相に迫り、「日本の黒い霧」というノンフィクションを出版しました。

私がこの本に出会ったのは、高校生の時。
平沢貞通という男は、贖罪の念を全く持たない卑劣極まりない人間なのか、あるいは、無実の罪を着せられた極めて痛ましい人なのか・・。

高校生のどこかのスイッチが、オンになった瞬間でした。
その後、事件や事故、死刑制度などの本をたくさん読みました。

そんなちょっと変わった読書癖のきっかけになった本が、ドラマ化されたのです。
昨今、テレビドラマを見ることはほとんどありませんでしたが、昨夜は1時間半、テレビに釘付けになりました。

帝国銀行椎名町支店、松井蔚氏の名刺、青酸ニトリール、テンペラ画家・・。
45年も前に読んだ本が、アタマを巡りました。
青春時代に心揺さぶられたことは、長い時間を経ても忘れないものだな・・と感じました。

大沢たかおさんの鬼気迫る演技も秀逸でした。
今夜9時から放映される第2部が、今から楽しみでなりません。

208 遊戯三昧

「友達が麻雀を教えてくれたんだけど、用語がなかなか覚えられないや」

福岡旅行から戻ったセガレが突然言い出しました。
その友人は、中学高校の同級生で、学部は違いますが同じ大学に通っています。
聞けば、その友人のクラスでは、麻雀が静かなブームなのだそうです。

若者の麻雀離れが指摘されて、随分経つように思います。
1つの理由として、若者の行動体系が大きく変わったことが挙げられます。
彼女なんて要らないという、私が若い頃には(いや、このトシになっても)理解できない草食男子にとって、4人揃わないと始まらない麻雀は、敷居が高くなって当然と言えるでしょう。

2つめに、金品を賭ける、タバコを吸う、酒も飲む、徹夜もしちゃう麻雀は、イマドキの遊びではないのかも知れません。

私が麻雀を覚えたのは、高校2年生のときでした。
たちまちその奥深さにハマり、「世の中にはこんなに楽しい遊びがあるのか!」とさえ思いました。
多彩な役にも魅力を感じましたが、符の計算が算数のドリルのように楽しくて引き寄せられました。

高校生の時に通った池袋の「平和」という雀荘は、1時間80円でした。
お茶の1杯すら出ませんでしたが、麻雀ができればそれで良かった高校生にはうってつけの場所でした。

大学生になってからは、高田馬場の「西武」に本拠地を移しました。
刺激的な辛さのカレーライスが有名で、眠くなってきた頃に食べると、アタマの芯から汗が出て、覚醒したものでした。

私にとって麻雀は、間違いなく青春の1ページです。

さて、前回のバリカン丸坊主に続いて、高校生活ネタをもう1つ。

私の高校では、日直がクラス日誌を書くことになっていました。
といっても、その日の天気や欠席者など、他愛もないことを書けばよいのです。
そして、その日誌は、担任が手の空いたときに教室で読むことが習慣になっていました。

高校2年生の秋。
日直だった私は、来る日も来る日も同じような内容ばかりでつまらないな・・と思い、何を血迷ったか、日誌に麻雀ネタを書くことにしました。

南3局 西家 持ち点43,000点 トップ
5巡目にリャンソー自摸 何を切るか

こんな感じの「何切る問題」を書きました。

翌日、次の当番に日誌を渡すと、「山田がこんなこと書いてるぞ!」と暴かれました。
そして、私の書いた日誌の内容は、一気にクラス中に行き渡りました。

「このまま出すのか?」
「シャレじゃ済まないぞ」
「自爆だろ!?」

皆にそう言われましたが、せっかく書いた日誌を消すつもりは毛頭ありませんでした。

そして、ある日、本来予定されていた授業が何らかの事情で休講となりました。
こういう場合、担任の監督のもと、生徒は自習するというのが常でした。

各自目的を持って自習するように、と先生から指示が出ても、大半の生徒は上の空でした。
何故なら、教壇に鎮座した担任が、そこでクラス日誌を読むであろうことは、誰でも予想のつくことでした。
ほとんどの生徒は教科書を見ているふりをしながら、担任の動きを目で追っていました。

担任はサトウ先生。
気難しいことで名高い、中年の男性教師でした。

そんなとき、教師の表情が明らかに変わりました。
おそらく、私の書いたページに到達したのでしょう。

「山田、ちょっと来い」

ついにお呼びが掛かりました。
教室内が、急にざわつきました。
私も腹をくくってはいましたが、険しい表情で名指しされましたので、動揺は隠せませんでした。

「おい」
「な、なにか・・」

「お前な」
「あ、はい・・」

「これ、なに切るんだ?」
「え??」

「教えろ」
「はい。持ち点がトップなので平和ドラ1を闇聴で早上がりできるようにもっていくべきであり、であるならば、スーアン自摸による3面待ちを捨てても、油っこい中央付近のウーアン、ローアンを切るべきであると考えます」

「ふーん。なるほどな。戻れ」

昭和って、やっぱり良い時代だったんだなって思います。

203 大驚失色

携帯電話が日本で発売されたのは1985年、ショルダーホンという名称で、肩に掛けて持ち運ぶスタイルでした。
ウィキペディアによると、重量は900グラムもあったそうです。

私が社会人になったのはその1年前、1984年4月ですから、当時会社との連絡手段はポケットベルでした。
プッシュ回線から数字を送ることができたので、急ぎの時は「9」、大至急の時は「99」というルールを設けて、緊急度を伝えることにしていました。

しかし、いくら「99」と表示されても、公衆電話がなければ連絡ができません。
ポケットベルって便利だなあと当時は思っていましたが、公衆電話が町から消えた今となっては、過去の遺物ですね。

時は流れ、初めて携帯電話を所有したのは、32〜33歳頃だったと思います。
記念すべき1台目は、富士通製でした。

ドッチーモ、なんて機種も使用したことがあります。
1台で携帯電話とPHS双方の機能を持つNTTドコモの端末です。

その後、富士通のほか、NECやSONY など、国内メーカーの製品をずっと使用してきましたが、先日、カミさんと一緒にiPhoneに乗り換えました。

カミさんはiPhone 13 miniの青、私はiPhone 13の赤にしました。
男女逆な感じがしますが、私の赤は還暦にちなみました。

私は仕事ではずっとMacを使用していますし、個人でiPadも所有しているので、携帯電話だけAndroidだったこれまでがちぐはぐだったと言えるかも知れません。
ただ、なんとなくアメリカ製のiPhoneや韓国製のGalaxyではなく、日本製品頑張れという気持ちで主にSONYのXPERIAを愛用してきました。

実際iPhoneを使用してみると、カバーは多くの種類から選べますし、Macとの相性など、便利さを実感しています。

Macに関しては、初めて購入したのは1995〜1996年頃でした。
確かPerforma 5260とかいう機種だったと思います。
NECのPC9801を個人ユースで所有していましたが、Mac購入はDTPへ移行するための第一歩でした。

思い出すのは、漢字Talk7.5.1というOSが、変な名称だなと感じたこと。
プリインストールされていた「3Dアトラス」が面白かったこと。
DTPソフトの先駆けであるQuark Xpressが、1ライセンス248,000円で驚愕したこと。
QuarkもillustratorもPhotoshopも操作がわからず、デザイナーや製版屋の知人に、恥も外聞もなく聞きまくったこと・・。

メモリもハードディスクも、今では考えられないほど小さな容量だったことでしょうが、目の前で処理される様々な事象に驚嘆するばかりでした。

話はポケットベルに戻りますが、ある土曜日、ディスプレイに「999999」と表示されたことがありました。
「99」が大至急なのに、どんだけ急ぎなんだ・・。
下請けの製本屋さんにいたので電話を借りて会社に連絡すると・・、

「事務所の裏が火事です!!!」

急いで会社戻ると、おびただしい数の消防車が到着していました。
野次馬も大勢いて、周辺は騒然としていました。

「今後の状況によっては御社の建物の裏側からも放水します。窓ガラスが割れる可能性が高いですが、お許しください」とのこと・・。

印刷屋の事務所兼倉庫ですから、中は大量の紙で溢れています。
ガラスを突き破って水が入ってきたら、事務所内の製品は全部アウトだ・・と呆然としましたが、幸い放水には至らず、鎮火いたしました。

今でも数字の9がいくつか並んでいるのを見ると、あの喧騒を思い出します。

199 鐘鼓之楽

  • The Loco-Motion / Grand Funk Railroad
  • The Hustle / Van McCoy & the Soul City Symphony
  • That’s The Way (I Like It) / KC and The Sunshine Band

洋楽が好きになったきっかけは、上のどれかだったように思います。
これらディスコミュージックは、思春期の私の心を見事に抉りました。
The Loco-Motionの歌い出しは、何度聴いても鳥肌が立ちました。

それから、The RunawaysとBlondieは衝撃的でした。

The RunawaysのCherie Currieがガーターベルトで歌う姿はセンセーショナルでしたし、Joan Jettは怪しすぎて怖いくらいでした。

Blondieには、”Heart of Glass” ,  “Sunday Girl” ,  “Dreaming” ,  “Call Me” ,  “The Tide Is High” , “Denis”・・・・と、大好きな曲がいっぱいありました。
そして、何をおいても、高校生のワタシにとって、Deborah Harryはあまりにも妖艶であり、官能的で刺激的でした。
当時の写真を今見ても、ちょっぴり心臓がチクチクします。

そして、私のコンサート初体験は、1980年に日本武道館で行われたVillage Peopleです。
高校の同級生と連れだって行きました。
40年以上経っても、”Macho Man” , “In The Navy”, “Y.M.C.A.”に熱狂した夜は忘れられません。

しかし、何故か、摩訶不思議なことに、初めて「ひとりで」鑑賞したコンサートは、かなり路線の異なる、石黒ケイさんでした。
日仏会館だったか岩波ホールだったか記憶は定かではありませんが、小さな会場で客は50人ほどだったような気がします(そんなことはないか・・)。
途中で10分ほど休憩をはさんだのですが、「休憩の間に帰らないでね・・」と話した姿は「オレに向かって言ったんじゃないか!?」なんて胸にしみ入るような距離感でした。

そのコンサートで彼女が身にまとっていたのが、黒いレザーのジャケット。
正に、下のアルバムジャケットのような姿で、とてもステキに映りました。

石黒ケイさんはワタシより学年で4つ年上。
20歳前の年若な男子学生にとって、一番憧れちゃう年齢のド真ん中だったのかも知れません。

その数日後、アメ横に行きました。
あのジャケットを探しに行ったのです。
オレもあういうジャケットを着るぞ! とコンサート中に思いは決していました。

革ジャンは様々な商品が陳列されていましたが、ジャケットは品揃えが少なく、値段も安くありませんでした。
学生なんだから安くして! と店のおっちゃんと小競り合いの末に、買った覚えがあります。

その後の大学生活の大半は、革のジャケット・合皮のネクタイ・ジーンズ・ウエスタンブーツという出で立ちで過ごしました。
真面目でおカタいイメージだった我が母校では、「共通一次で入ってきた学生は程度が低い・・」という印象を与えた先鋒だった気がします。

 

また、初めて行ったライブハウスは、我々の年代ならば誰もが知っている新宿のルイードでした。
山下久美子さんやシャネルズ(ラッツ&スター)らが巣立った場所として有名なルイードで、何故か私が見に行ったのは麻生よう子さん。

下戸でしかも未成年だった私は、ひとりで行く勇気がなかったのですが、親友のI君が付き合ってくれました。
麻生よう子なの??なんて笑いながらも気持ちよく付き合ってくれた彼は、友達思いの優しい男でした。
なのに、コークハイがまずくて飲めなかったという記憶ばかりで、ライブの印象が何ら残っていません。
背伸びして少し飲んだコークハイで、頭痛を起こしていたのだと思います・・・・。

麻生よう子さんはデビュー曲の「逃避行」が大ヒットしたことで有名です。
「そーれがなーきゃ、いい人なのーに・・」と歌っていたのが18歳のときだったそうで、昔の人は大人びていたんだな、と改めて感じます。
1977年に発売されたシングル「102号室」もいい曲でした。
2007年発売Essential Bestの12曲目に収録されている「夕風」も情緒あふれる名曲です。
個人的には、演歌要素に舵を切らず、ポップス路線を歩んで欲しかったな・・、なんて思っています。

178 新涼灯火

今年は本を読む時間が多くなりました。
言わずもがな、新型コロナウイルスの影響で、自宅で過ごす時間が増えたからです。

元々ノンフィクションばかり読んでいましたが、ひょんなことから「おいしくて泣くとき(森沢明夫著)」という小説を読んで以来、ハートフルな小説に嵌ってしまいました。
コロナのせいで日々ギスギスし、知らず知らずに心が疲弊していたのでしょうか。
今年の夏は、小説を読み漁りました。
「流浪の月(凪良ゆう著)」と「ひこばえ(上下巻、重松清著)」が特に印象に残っています。

それから、本を探すにあたり、アプリを使い始めました。
「honto with」というアプリで、丸善、ジュンク堂、文教堂の店頭在庫を調べることができ、取り置きやお取り寄せも可能です。
新刊のチェックもできますし、幅広く本の検索ができるので重宝しています。

とはいえ、実際に書店を歩いて本を探す楽しみは捨てがたいので、アプリは上手に併用していきたいと思っています。

小説を読む日が続きましたが、じわじわと生来のノンフィクション好きが再び頭をもたげてきました。

早速アプリで検索してみると、ふむふむ・・。

森友事件の公文書改ざんの本、少女たちが見た長崎原爆の本、原発事故と闘った医師たちの本、新型コロナへの政府の初期対応を批判した本、未解決事件を扱った本などを早速購入しました。

さらに、読書をより楽しくするアイテムも用意しました。

ひとつは「読書灯」です。
夜、布団に入ったあと、手元を照らすために購入しました。
わずか2,000円程でしたが、LEDなので想像以上に明るくて驚きました。

もうひとつは、読書専用のメガネです。
目の老化が止まらないため、快適に本が読みたい一心で、少々度の強いシニアグラス(老眼鏡とは敢えて呼ばず・・)を作りました。
スポーティな外観が斬新でオシャレで、TPOをわきまえていない感じが気に入っています。

「新涼灯火」
秋の初めの涼しくなり始めたころは、明かりの下で読書をするのにふさわしい時期。

穏やかな気候の下、カフェのテラスでの読書は、下戸の私にとって至福の時です。
コロナ対策を十分講じたうえで、外で過ごす時間も少しずつ増やしていけたらと思っています。

162 紅灯緑酒

紅灯緑酒(こうとうりょくしゅ)
歓楽街・繁華街の華やかなことの形容。また、歓楽と飽食の享楽生活のたとえ。
「紅灯」はあかいともしび、繁華街などの華やかな明かりをいう。
「緑酒」は緑色に澄んだ酒、質のよい美酒をいう。

私は酒が飲めません。
弱いのではなく、全くカラダが受け付けない、パーフェクトな下戸です。
従って、歓楽街で質の良い美酒を味わうことなどあろう筈がないのです。

「下戸」とは、酒が飲めない人、酒が嫌いな人を指します。
逆の「上戸」もあるのか調べてみると、酒の好きな人、また、酒が好きでたくさん飲める人を「上戸」と言うのだそうです。

上戸というと笑い上戸のような使い方が浮かびますが、これも本来は酒に酔うと出る癖の状態を表すとのこと。

下戸の由来は、平安時代に遡ります。

当時の律令制では、家族の構成や資産によって階級分けがされており、働き手が多く納税額も多い家は「上戸」と呼ばれ、その下が「中戸」、もっとも納税額の少ない家が「下戸」と呼ばれていました。
そして、婚礼などで出せる酒の量もこの階級によって決められており、上戸の家では8かめ、下戸の家なら2かめとなっていたそうです。
このことから、酒をたくさん飲める人のことを「上戸」、飲めない人のことを「下戸」と呼ぶようになったのだとか。

ところで、先日、書店で「下戸の夜」(本の雑誌社)という本を見つけました。
「下戸の矜恃」「下戸と主張」「下戸とカルチャー」など楽しく読み進み、中でも、武田砂鉄さんの文章には、溜飲が下がる思いがしました。

「お酒を飲まない人」のことを、世の中は「お酒が飲めない人」と規定する。「コーラを飲まない人」のことを「コーラが飲めない人」とは言わない。この一点だけでも、お酒って、だいぶ偉そうである。酒でも飲まなきゃ言えない話、なんて言い方があるけれど、じゃあ言わなきゃいいのに、と思う。こっちは、日々、コーラやジンジャエールやコーヒーやピルクルをテーブルに置きながら、言いたいことを言っているのだ。

酒を飲んでもいい。同時に、酒を飲まなくてもいい。それだけならば平和なのに、「え、飲まないの?」とか「ちょっとくらい飲みなよ!」とか言うから平和が崩れる。平和を崩すのはそっちだ。〈中略〉自分は盆栽に興味がない。でも、盆栽が好きな人に「なんで盆栽なんかやってんの?」とは聞かない。あっちも「え?なんで盆栽好きじゃないの?」なんて返してこない。お酒はどうだ。聞いてくる。返してくる。揉める。そんなに偉くないんだぞ、お酒、とお伝えしたい。

いやいや、こんなにも下戸の立場を的確に言い表す文章があるのかと、シビれました。
出版物ですから、面白おかしく表現したり、やや卑屈感を醸し出している部分も感じましたが、下戸が日常、表出できない本音や奥底を高らかに言い放っていました。

50代後半にもなると、さすがに下戸である人生に慣れましたが、これまで飲めないが故の嫌な思いも経験しました。

日本では、親密度が増すと「今度飲みに行こう!」が常套句です。
その度に「すみません、私、飲めないんですよ。」と言わざるを得ません。

そもそも、飲めないことを相手に伝えるために、陳謝の接頭辞が付きます。
こちらとしては何故か卑下している心持ちなのです。

そこに「え?飲めないの?」と返された暁には、ぐっさり傷つきます。
発した側には、ひと欠片の悪意もないのかも知れませんが、失望感は間違いなく感じ取れます。

私が最も嫌いなセリフは、「お前だけは素面(しらふ)だからな」。
この場から去れ、と同義語ではないかと思います。

また、下戸という言葉に「下」という漢字が含まれることも、卑下しているようで、見下ろされているようでイヤですね。

以前、業者仲間の酒屋の社長にこう言われました。

「山田さん、酒飲まないんだよね・・。どうやって夜過ごしてるの?不思議だよなあ・・。」

天職とも言える酒屋を営む社長には、アルコール抜きの夜はあり得ないのでしょう。
どのような時間を過ごしているのか、本気で不思議に思ったのでしょう。

「ピザとジンジャエールだけでも、夜は更けていくんですよ!」
こんな私の答えに対しても、不思議だ不思議だ・・と繰り返していました。
蛇足ですが、この社長とはとても仲が良いので、不穏なことにはなっていません。

マイノリティである状況は認めざるを得ないのですが、不条理さを訴えれば訴えるほど、負け犬の遠吠えになってしまう雰囲気があるのも悔しいですね。

さて、書籍にはこんな一文も。

ただし、ひとつだけ、私には腑に落ちない言葉がある。「お酒は飲めないけれど、お酒を飲む場の雰囲気は好き」というヤツ。〈中略〉ギャンブルは大嫌いだが競艇場の雰囲気は好き、という人を、私は見たことがないからである。

ん、確かにそうですね。
私が下戸と知って引いている相手、しかも本音は帰りたいのだが、経緯上、どうしてもお供しなくてはならない相手に向かって、過去に何度か発したことがあります。
これは、下戸の沽券に関わる問題ですから、改めないといけませんね。

本当は、下戸であることを然許り悔しく人生を過ごしてきた訳ではないのですが、この本に接して、下戸であるが故に抱いてきた劣等感に声を上げたくなってしまいました。

しかし、こんな一文もありました。

「まったく飲めないという体質の方は、ちょっとした幸運をもって生まれてきた。」

酒気帯び運転の可能性が1%もないこの人生。
悪くはないかも知れませんね。

157 短慮軽率

昨日は久しぶりにフリーな1日でしたので、ほぼ終日、読書を楽しみました。
長らく「積ん読」だった本を2冊、自宅で、カフェで読み切りました。

私の好きなジャンルは、ノンフィクションです。
中でも、事件や犯罪、死刑に関する本をよく読みます。
家族からは、薄気味悪いとか、本棚を人様に見せられないなどと言われています。
今日読んだ2冊も同様の本ですから、電車の中など公衆の面前で読む際は、カバーが必須ですね・・。

興味を持つきっかけになった本は、「日本の黒い霧(松本清張 著)」です。
戦後まもなく発生した12の事件に、松本清張が独自の歴史観と大胆な推理で迫った作品です。

中学生だった私がなぜこの本を手に取ったのか、今となっては定かでありませんが、中でも「下山国鉄総裁謀殺論」と「帝銀事件の謎」の2つに魂を大きく揺さぶられました。

下山事件は、昭和24年7月、初代国鉄総裁下山定則氏が、常磐線の線路上で轢死体として発見された事件です。
しかし、ワイシャツや下着、靴にはほとんど血が付いていなかったり、靴下などに大量に付着していた油は、機関車に用いられている鉱物油ではなく植物性の油であったり、いつも身に付けていた眼鏡が現場付近から発見されなかったり、多くの謎に包まれています。

犯人は捕まっておらず、戦後最大の未解決事件と呼ばれることもあります。

一方、帝銀事件は、昭和23年1月、当時の帝国銀行椎名町支店に東京都防疫班を名乗る男が現れ、消毒薬と称した毒薬で行員12名を殺害し、現金や小切手を強奪した残虐な事件です。

・手本として、薬を自分が最初に飲んでみせたこと
・歯のエナメル質を痛めるから舌を出して飲むようにと確実に嚥下させたこと
・第一薬と第二薬の2回に分けて飲ませることで、行員を現場から散らないようにしたこと

などの巧みな手口から、薬物に詳しい者の犯行と思われていましたが、逮捕されたのは平沢貞通という画家でした。

1955年に平沢氏の死刑が確定しましたが、歴代法務大臣が誰も死刑執行命令に署名しなかったこともあり、死刑制度に興味を抱く誘因となりました。

大学に入ってもこの分野への関心は益々強まり、刑法を学んでみたくなりました。

しかし、私の所属する経営学部では刑法に関する授業は開講されていませんでした。
学内を探してみると、隣りの経済学部にあったため、わざわざ出張して授業を受けました。
当時、刑法を担当していたT先生は厳しいことで有名で、経済学部の学生でも履修者は決して多くはありませんでした。
そんな講座に、経営学部から乗り込んで行ったのです。

大学時代勉強はしなかった、と自信を持って言えますが、刑法だけは出席しました。
驚くことに、35年前の成績表が見つかりました。
「優」でした(笑)。

刑法への興味はこの程度に留めておけばよかったのですが、大学4年の時、勢い余った行動に出てしまいました。

「犯罪や事件などに非常に興味を持っています。刑法の単位も取りましたので、この関連テーマで卒論を書いてはいけませんでしょうか・・。」

海上保険学を専攻するゼミ生として、先生に失礼極まりない発言をしました。
正に、若気の至りです・・。

しかし、ゼミの教授は紳士でした。

「山田、キミの気持ちは分かった。しかし、刑法に関する論文を評価する専門家がうちの学部にはいないんだ。折衷案として、海上保険と刑法の両方に関係する資料を用意するが、どうだ?」

「ご理解いただき、感謝いたします!」
深々と頭を垂れ、お礼を申し上げました。

すると、半月後、私の元にB4版のコピーが大量に届きました。

船を故意に沈没させて保険金を詐取しようとした事件に関する、英語の資料でした。
なるほど、確かに海上保険学と刑法にまたがる内容でした。

しかし、専門用語が頻出する英文の翻訳は、困難を極めました。
1973年の秋は、辛く、長い、重苦しい日々となりました。
あんなことを言うべきではなかった・・と、 後悔の念が脳裏を去来しました。

因みに私の卒論のタイトルは、「海上保険学における船底穿孔事件に関する一考察」です。

146 残念至極

私の愛車は、トヨタのエスティマです。
現在乗っているのが通算4台目ですから、15年以上エスティマに乗っています。
故障はしませんし、外観も内装も気に入っています。

そのエスティマが、2019年12月をもってモデル廃止となるというニュースを目にしました。
かなり長い間モデルチェンジをしていないので、そのうち消滅するのではないかと囁かれていましたが、どうやら本当になくなってしまうようです。
残念です。

何となくなのですが、お気に入りだったものが消滅してしまうことが、人に比べて多いように感じます。
一旦気に入ると、同じメーカーを買い続ける傾向があるので、憂き目にあうことになるのでしょうか。

印象的なのは、愛煙していたタバコ「チェロキー」が消えたときです。
タバコの銘柄が生産中止になることは珍しくありませんが、当時は随分とショックだった記憶があります。
というのも、1990年の発売開始時は様々なキャンペーンを行い、大々的に売り出した印象があるのですが、わずか4年後の1994年に発売が中止されたのです。
パッケージも、なかなかオシャレだったんですが・・。

洋服のブランドもいくつかなくなりました。
20台後半にお気に入りだったメンズファッションブランド「TAKEZO」もそのひとつです。
ちょっと奇抜なデザインが好みだったのですが、ある日いつもの百貨店(上野のマルイだったか・・)に行くと、ショップが見当たりません。
近くの店員さんに尋ねると、「ブランドごと消滅した」と聞かされました。

一時期、ビジネススーツは「Mosccino」というブランドばかり購入していました。
ダブルが流行っていた頃ですから、かなり以前のことですね。
これまたいつもの百貨店(日本橋三越だったか・・)のスーツ売り場に行くと、このブランドだけが見当たらないため、店員さんに確認すると、メンズビジネス分野から撤退したとのことでした。

「Burberry Black Label」は50歳くらいから、私服としてよく買うようになりました。
クリアランスセールを行わないブランドなので、アウトレットで購入することも多くありました。
が、ご存じのように三陽商会とイギリス・バーバリー社とのライセンス契約が切れたため、2015年末に消滅しました。

最も残念だったのは、「JAZZINN」です。
あるサイトでは「最も有名な伝説のドリンク」と紹介されている幻の飲料です。
1990年に日本ペプシコーラから発売されたこの製品は、平たく言うと「炭酸入り紅茶飲料」。
コレ、絶品でした。
かなりの頻度で飲みました。
しかし、2〜3年でひっそりと市場から姿を消しました。

そういえば、スナック菓子「カール」が、昨年秋に中部地方以東での販売を終了しましたね。
これは、私、さほど積極的には食べておりませんでした。

119 雲外蒼天

近年、神社参拝が趣味となりましたが、きっかけは、京都をひとりで旅した際に、ひょんなことから書き置きの御朱印をいただいたことでした。
近年は、御朱印ガールに代表されるファンの増加により「趣味は神社巡りです」と公言しても、ニッチな趣味だとは捉えられなくなってきました。

スタンプラリー化している現状を嘆く声も多い反面、参拝客の増加や客層の変化を歓迎している神社も少なくありません。
その証拠に、オリジナル御朱印帳や御朱印帳袋を販売する神社が増えたり、キティちゃんとコラボした御朱印帳を発行するなど、神社サイドも実態に合わせた対応を見せています。

その一方で、御朱印の授与を取りやめた神社もあります。
虎ノ門にある西久保八幡神社は、「昨今の現状を鑑み、当面の間御朱印の授与を中止いたします」とホームページに掲載しています。
無礼な参拝者がいたのでしょうか・・。
非常に残念です。

私は、神社参拝を趣味としてから、知識を深めようと努めてきました。
一昨年受検した「神社検定試験」がその象徴ですが、取得したのは最も低い参級です。
さらに上を目指さなくてはならないのですが、ひとつ大きな障害があります。

それは「数学は好きだけど歴史が苦手な文系」という私の性癖です。
学生時代、解を導き出す数学には歯応えとやり甲斐を感じたのですが、歴史なんて暗記科目でつまらないと、生意気な考えを持っていました。
歴史の重要さ、奥深さを知ったものの、時既に遅し・・。
歴史嫌いが将来の趣味に陰を落とすとは、予想だにしませんでした。

しかし、ここを克服しないことには、知識の上積みも神社検定の弐級も付いてきません。
学ぶことは楽しいのですが、苦手ジャンルの知識を蓄えることは、加齢とともに、非常に困難を極めています。

老け込み防止のため、そして、自らを鼓舞するため、検定試験に挑戦する意気込みだけは持ち続けています。
が、今年6月の神社検定試験は、見送りました・・。
そして漢字検定は、準一級のテキストを見て、その難しさに尻込みし、諦めの境地です・・。

ただ、京都検定の試験が年内にまだ残っています。
試験日は、2017年12月10日です。

京都検定には以前から関心を持っており、公式テキストは既に持っています。
ここ3年の3級合格率は、50%前後。
そして、今年の3級の公開テーマは「京都駅界隈」。

ん・・、どうしようか・・。