242 気魄一閃

大関・豊昇龍が、第74代横綱に昇進しました。
1月29日に行われた伝達式では、以下のように口上を述べました。

「謹んでお受けします。横綱の名を汚さぬよう気魄一閃の精神で精進します。本日は誠にありがとうございました」
(豊昇龍)

気魄一閃(きはくいっせん)とは、「愚直に真っ直ぐ、力強く立ち向かってゆく精神力のこと」。
力士最高峰の地位にある者が目指す姿勢としては、文句なしですね。

横綱昇進にあたって四字熟語を用いた口上が披露されるようになったのは、若貴兄弟がきっかけではないでしょうか。

「横綱として堅忍不抜の精神で精進していきます」
(三代目若乃花)

「今後も不撓不屈の精神で、力士として不惜身命を貫く所存でございます」
(貴乃花)

貴乃花にいたっては、「ふとうふくつ」「ふしゃくしんみょう」と短い口上に2つの四字熟語を込めました。

そして、この四字熟語を用いた口上スタイルは、モンゴル出身の横綱にも影響を与えました。

「横綱の地位を汚さぬよう、精神一到を貫き、相撲道に精進いたします」
(白鵬)

「横綱の自覚を持って全身全霊で相撲道に精進します」
(日馬富士)

第72代横綱・稀勢の里は、久しぶりの日本人横綱誕生とあって非常に話題を集めましたが、注目された口上はとてもシンプルでした。

「横綱の名に恥じぬよう精進します」
(稀勢の里)

無口な性格がそのまま出たような口上でしたが、「迷ったが、気持ちをそのまま込めた」と説明したそうです。
四字熟語は出るのか!? とちょっと期待していたファンにとっては、ガッカリするような、そして合点がいくような口上だったのではないでしょうか。
息子の晴れ姿を見守ったお父様でさえ「あまりにもシンプルだったね」と苦笑いしたと報道されています。

先日、日本相撲協会の公式サイトで歴代横綱について調べてみました。
初代横綱は「明石 志賀之助」と紹介されていますが、出身地も在位も優勝回数も掲載されていません。
在位が最初に掲載されているのは第4代の「谷風 梶之助」で、宮城県仙台市出身、在位は寛政元年11月 ~ 寛政6年11月とのことです。

寛政元年は、西暦でいうと1789年。
ときの天皇は光格天皇で、江戸幕府将軍は第11代徳川家斉というとてつもない昔です(Wikipediaより)。

第8代の「不知火  諾右衛門」や第10代「雲龍 久吉」らを目にし、 横綱土俵入りの「雲龍型」と「不知火型」のルーツはここにあるのか? と想像しました。
また、明治時代に「小錦八十吉」の名があり、私の知るあの「小錦」には先代がいるのか?? など、非常に興味深いサイトでした。
(ハワイ出身の小錦八十吉は、第6代なのだそうです・・)

私の記憶の中で、最も古い横綱は「柏戸」と「大鵬」です。

物心ついたのが「巨人・大鵬・卵焼き」の時代ですから、一番強いお相撲さんといえば大鵬でした。
プロ野球は、巨人が毎年日本一になるものだと思っていました。
真っ黄色の卵焼きが大好きで、葱や紅生姜などは入れないで欲しい、と母にお願いしたりしました。

ところで、ネットで「巨人・大鵬・卵焼き」と検索していると、「巨人・大鵬・卵焼き 反対語」と関連検索ワードが表示されました。
反対語ってないっしょ・・と思いながら先を進めると、「江川・ピーマン・北の湖」「おしん・家康・隆の里」「阪神・朝潮・ハンバーグ」等々あるようです。

因みに、大鵬関はアンチ巨人であったと伝えられています。
はたして、卵焼きは好きだったのでしょうか。

241 至恭至順

受験シーズンの到来を告げる大学入学共通テストが、来週末に迫りました。

私の大学受験は1980年。
共通一次試験が始まった翌年にあたります。

共通一次試験が導入される前の国立大学は、一期校、二期校に分かれていて、複数の大学を受験することが可能でした。
しかし、国公立大学の志願者全員が同じ5教科を受験し、国立大学の受験を1校に絞る制度が共通一次試験で、「空前の一斉入試」とも呼ばれた大改革でした。

私が受験した時代は、試験科目が国語・数学・理科・社会・英語の5教科7科目で、1,000点満点でした。
文系志望なのに、物理・化学・生物・地学のうち2科目を受けなければならないことに絶望感を覚えた一方、社会は倫理社会と政治経済を同時に選択できたのはラッキーでした。

受験地獄をさらに悪化させていると多くの批判が噴出し、また、マークシート方式を採用したことで「鉛筆をさいころのように転がせば解答が書ける」とも揶揄された入試改革でしたが、45年前、私は「東京大学」受験しました。
ネットで調べてみると、1980年の実施日は1月12日・13日のようですから、明日でちょうど45年が経つことになります。
半世紀近くの年月が流れたにもかかわらず、受験に関するほろ苦い思い出がいくつか鮮明に浮かびます。

高校3年生のとき、私は睡眠を2度に分けていました。
まず、学校から帰ってきてから数時間昼寝をします。
そして、両親の帰宅に合わせて起床し、夕食、入浴。
机に向かうのはその後ですから、勉強開始は22時頃になるのが常でした。

食べ盛りの高校生ゆえ、母親に夜食の支度もしてもらいました。
夜中に食べるお雑煮が、とびきり美味しかったことを覚えています。

夜中までずいぶん熱心に勉強していたように聞こえますが、実のところは勉強開始が24時頃になってしまったり、いきなり夜食を食べ始めたり、日付変更前に寝てしまったり、甚だ薄っぺらな受験生でした。

机の横にラジカセを置き、かすかなボリュームで音楽を聴きながら勉強することもありました。
メインに聴いていたのは山崎ハコさん。
なかなか微妙な選曲です・・。
大学生になったら弾けてやる! という意志の序奏だったのかと思います。

また、ドラマ「俺たちの旅」は、この頃の強烈な思い出です。
昼寝をする前に、夢中で観ていました。

「夜勉強するために、早く家に帰って寝なきゃいけないんだ」と吹聴し、高校の友人を振り切るように帰宅の途についていましたが、ドラマに間に合うよう早く帰りたいというのが本音でもありました。

調べてみると、初回放送は、1975年10月5日から1976年10月10日までの毎週日曜20時からだったようですから、私が夢中になっていたのは再放送だったことになります。
(全46話ですから、放送が1年がかりになるのもスゴイですね)

このドラマは、Wikipediaで以下のように紹介されています。

三流私学・修学院大学の学生カースケ、その同級生オメダと、同郷の先輩で早大OB・グズ六が中心に織りなす友情と青春群像を活写し、生きることの意味、悩み、喜びなどについて問いかける。

高校3年生だった山田少年にとって、このドラマの登場人物は、没入できる要素がふんだんにありました。

  • 主役の大学生・カースケ(中村雅俊さん)とオメダ(田中健さん)は、大学受験を控えた私にとっては憧憬であり幻滅でもある学生像でした。
  • 東大を目指す浪人生・ワカメ(森川正太さん)は、浪人への不安を増幅させる対象でした。
  • オメダの妹・真弓(岡田奈々さん)は、年齢=彼女いない歴だった山田少年に、日々、恋愛妄想を抱かせる存在でした。
  • バスケットボール部のマネージャー・洋子(金沢碧さん)は、キャンパスにはこんなステキな女性がいるのか! と、バラ色の大学生活を夢見るに十分すぎる魅力的女性でした。
  • グズ六の恋人で後に結婚する紀子(上村香子さん)は、将来の嫁さん像という身の程知らずな想像をかき立たせる大人の女性でした。

そして、エンディング曲の「ただお前がいい」に乗せて、番組終わりに表示される散文が印象的でした。

生きることの 本当の意味は 学校では 教えてくれない

友情なんて 大げさなものじゃない オレはただ お前が好きなだけだ

明日のために 今日を生きるのではない 今日を生きてこそ 明日が来るのだ

これらのフレーズは、青春ど真ん中だった山田少年の心を、毎回えぐりました。
海に沈む夕日に向かって「バカヤロー」と叫びたくなるような夕刻を、何度も過ごしました。

受験とテレビに関しては、もう一つ思い出があります。
高校の某先生が、冬休みに入る直前、受験生の我々に向かってこう言いました。

今年の大晦日の夜は紅白歌合戦を観るな!
放送時間帯は机にいろ。
例え勉強はしていなくても、テレビは観ずに机にいろ。
オレは紅白歌合戦も観ずに大学受験に備えていたんだ、という気持ちになれるぞ!

なにをアホなことを! と今は思います。
3行目なんて、全然意味ないじゃん! と・・。

しかし、
実は、
ワタクシ、
何故か、
この先生の教えを守ったのでした・・。

因みにこの年の紅白歌合戦の視聴率は77.0%。
こんな時代だから通用した戒めなのでした。

240 迎春万歳

ここしばらく、テレビドラマを観なくなりました。
最近観たのは2017年に放映された「下克上受験」でしょうか(ちっとも最近ではありませんが)。
受験生のいた我が家にとっては、舞台設定に共感が持てました。
個人的には、お母さん役の深田恭子さんがステキでした。

その前となると、2005年放映の『電車男』かと思います。
伊藤淳史さん演じる山田剛司に対して、伊東美咲さんが画面いっぱいのアップで「やまださん・・」と呼びかけるシーンを観るたび、自分が呼ばれているような妄想に陥り、恍惚としていました。

そして今年、会社の女性陣からゼッタイに観た方がいいと薦められ、「不適切にもほどがある」を観ました。
ただ、早寝早起きの私にとって、22時から始まる番組をリアルタイムで観るのは不可能なので、U-NEXTで観賞しました。

話が逸れますが、私は毎年、不真面目な(不謹慎な)年賀状を作成しています。

ハズキルーペのCMでシャウトする渡辺謙さんや、ど派手なスーツで日本ハムファイターズの監督就任会見を行った新庄剛志さんに、自分の顔を嵌めたりするのです。

以前は、映画「君の名は。」のポスターの男子学生をセガレの写真に差し替えたりしたものですが、高校・大学と成長するにつれて、オヤジの悪趣味には全く付き合ってくれなくなりました。

セガレのみならず、近年はカミさんまで「私は干支のイラストが入った普通の年賀状を作る」と言い出す始末。

「『ALWAYS 続・三丁目の夕日』のポスターを使ったときは、小雪さんのところに入って喜んでいたじゃないか!」という怒りの感情を抑えつつ、最近は私1人で用が足りるハズキルーペや新庄監督の画像になってきたという経緯があります・・。

そして、年賀状作成時期の真っ只中、ついに我が家の新作不謹慎年賀状が完成しました。
今年は「不適切にもほどがある」をモチーフにしました。

私はムッチ先輩に、そして、純子役の河合優実さんのところにカミさんが久しぶりの参加となりました。
とはいえ、アラ還夫婦の現在の写真を掲載する訳にはいきませんので、私は大学の卒業式の写真を、カミさんは高校生時代の写真を用いました。
(若い頃の写真なら協力してくれるカミさんもいかがなものかと・・)

この場で年賀状を公開するのは控えさせていただきますが、90点くらいの出来映えかと自己満足に浸っています、

還暦を過ぎたとき、そろそろ真面目な年賀状を・・とも思いましたが、私の友人だけでなく、カミさん宛てに届く年賀状にも「毎年年賀状を楽しみにしています」なんてメッセージが書かれていたりするので、何となしにやめられなくなっています(ごく数人なのに?)。

年賀はがきが値上がりされた今年、年賀状じまいされる方が増えているようです。
しかし、そんなこととは関係なしに「年賀状ってなんなの? 意味分かんない」とセガレは言います。
この世代にとっては至って自然な感想なのでしょうが、「キミね、印刷屋のセガレの発言としては不適切にもほどがあるでしょ」と思う次第です。

239 邂逅相遇

1995年11月5日。
私が結婚式を挙げた日です。

この年は、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件という、大きな災害と事件が起こりましたが、早くも29年が経ちました。
来年は結婚30周年になるわけですが、この節目は「真珠婚式」と呼ばれているそうです。
記念に何か残そうかとカミさんと相談し、結婚指輪を買い換えることにしました。

どんな指輪にしようかと考えていたところ、あるブランドでは、3年続けて計5回値上げされたと知りました。
そして、カミさんと2人で気に入った指輪も、年内にさらなる価格改定を予定しているとのこと・・。
そこで、1年前倒して購入することとしました。

29年もの間、薬指にはめ続けていた指輪は、よく見るとだいぶ劣化していました。
そして、新しい指輪をはめてみると、今度は自分たちの指が、29年の間にかなり草臥れていることに気づきました。

ピカピカの指輪と初老の指は極めてアンバランスではありますが、新婚当時の初々しさもちょっぴり思い出しつつ(そりゃ無理か)、穏やかな日々を過ごせたらと思っています。

ところで、以前、同い年で同じ苗字の山田という友人を紹介しましたが、彼とは20代後半で知り合い、その時点で彼は既婚者でした。
一方、私は34歳で結婚しましたので、彼には披露宴で友人代表としてスピーチをお願いしました。
因みに彼の結婚記念日は11月3日で、私とわずか2日違いでした。

その後、W山田が世話人を務めていたゴルフコンペを通じて、2歳年上の中島という男と出会いました。
中島・山田・山田の3人は、今ではかけがえのない友人関係を築いていますが、何気ない会話の中で「W山田は、結婚記念日が11月3日と11月5日で、2日違いなんだよ」と言うと、中島氏が驚きの発言をしました。

「オレの結婚記念日は11月4日だよ」

信じられないような奇遇に、唯々驚きました。

冒頭で述べたように私は結婚29年目ですが、山田氏は38年目、中島氏にいたっては45年目です。
中島氏は、金婚式まであと少し。
盛大なお祝いをして差し上げたい気持ちです。

因みに、前述のゴルフコンペは発足して35年。
まもなく、131回目の大会を迎えます。

238 音吐朗朗

かなり前のことになりますが、読売新聞の夕刊に、ミュージシャンの財津和夫さんが聴力に関するコラムを寄せていました。
内容を抜粋してご紹介します。

補聴器が欲しい。
ずいぶん前から取材を受けるときのインタビュアーの言葉がちゃんと聞き取れず困っている。

聴き取れなかったときは、まず、うなずきながら笑顔で「うーむ」と言うことにしている。
美味しいお茶のひと口めを味わうような表情をしなければならないが、この相鎚はどんな状況でも使えて便利だ。

しかし、カフェやレストランで店員とのやりとりにおいてはこうはいかない。
「コーヒーにミルクと砂糖は必要ですか?」の問いに笑顔で「うーむ」は少し変だ。

だから先日も「ごめんなさい、耳が遠いので‥‥」と言うと、店員は店中に届くような声で「ミルクと砂糖はどうされーか〜!」と言う。
店員が声を大にすべき箇所は、「まーすーか〜」ではなく、「ミルクと砂糖」のところやろ、と思ったが見るところ相手は二十歳前後、じじいの置かれた社会的弱者の立場なんて解るはずがない。いや、解ってもらう方が惨めな気分。店中の視線が私にそそがれているかもと恥ずかしかった。

著名人であるがゆえのエピソードや日常体験が、楽しく紹介されていました。

また、このコラムはお母さんの話で締められていました。
晩年、話しかけると何度も聴き返されたそうですが、夢の中に出てくるお母さんは、一度も聴き返したことがないそうです。
きっと若い頃のお母さんだけが、夢に登場しているのでしょう。

上皇様や上皇后様もずいぶん前から補聴器を装用されているようです。
井上順さん、梅沢富美男さん、宇崎竜童さん、加賀まりこさん等々、芸能界でも補聴器を使用している方がたくさんいらっしゃると聞きます。

以前にも紹介しましたが、私も補聴器ユーザーです。
左耳だけ、聴力がやや弱いのです。
ですから、財津和夫さんのコラムには、とても共感を覚えました。

50歳代半ば以降、「え?」と聞き直すことが非常に増えたな、と自覚しています。
この聞き返すという行為は、加齢を象徴する行動のようで、悲しい気分になります。
そして、聞き取りやすい右耳を相手に傾けながらの「え?」は、なお一層カッコ悪いなと思うのです。

私にとって補聴器は今や生活の相棒となり、装着することで聞き直す行為は若干軽減されましたが、最近、調子がよろしくありません。
購入した店で相談すると、レシーバーの故障とのことで一旦修理をしました。
ただ、補聴器の寿命は4〜5年だそうで、私の愛機はすでに7年以上経過しているとのこと・・。

カミさんとも相談した結果、仕事上、特にお客さんとの会話の中での「I beg your pardon?」をなるべく減らすことに重きを置き、ここで買い替えることにしました。

7年振りに購入した商品は、予想以上に進化していました。
スマホのアプリに接続して、様々な設定ができるのは驚きでした。
性能には十分満足できましたので、初老の必要経費と考えるしかないなと思っています。

ただ、補聴器を使用するにあたり、地声の大きな方との接触には、注意しなくてはなりません。
身近なところでは、私の父は非常に声が大きいので、電話の際は、最初の「もしもし」から注意が必要です。

また、たまにゴルフをご一緒する方で、声がとても大きな方がいます。
この方を助手席(私にとって補聴器側)にお乗せする時は、補聴器は外しておくことにしています。
耳栓をしても、充分聞き取れそうな声量をお持ちなので・・。

237 流金鑠石

9月初旬、猛暑の中、ゴルフに行きました。
暑い時期はアーリーバード(朝5時前にスタートするスループレイの早朝ゴルフ)以外はほとんど行かないのですが、久しぶりの日中ゴルフでした。

プレイしたのは、暑さで有名な埼玉県内のコースでした。
スタート前、氷嚢に氷をぎっしり詰め、水筒も満タンに。
プレイ中は、日焼け止めを顔に首に手に足に塗りまくり、止めどなく流れる汗を拭きつつ、どうにか完走できました。

その夜、足に違和感を感じて鏡を見たところ、ふくらはぎが真っ赤でした。
足に塗りまくったはずの日焼け止めは、前側、要するに脛に塗るばかりで、裏側には全く塗られていなかったのです。
いくつになっても、おっちょこちょいは直りません・・。

肝心のスコアは、47・48。
相変わらず上達しませんが、完走しただけで「天晴れ」がいただけるのではないかと思います。
いや、こんな暑い日のゴルフはカラダに悪いぞ!と「喝」ですかね。

それにしても近年の夏の暑さは度を超しています。
福岡県太宰府市では、昨日も気温が35.0℃まで上がり、今夏62日目の猛暑日となったそうです。
これまでの国内最多記録だった群馬県桐生市の46日を、劇的に更新しました。

また、先日ネットで京都市が50-50を達成という記事を見つけました。
年間の猛暑日と熱帯夜の観測数が両方50日を超えたのだそうです。
(なかなかうまい表現だなと思ったら、海の向こうで大谷選手が前人未踏の52-52を達成しました!)

東京も6月下旬に梅雨明けし、その後、記録的な猛暑が続きました。
9月18日には、統計開始後、最も遅い猛暑日を更新しました。
この長期間に亘る暑さに対して、私もいくつか対策をしました。

  • 水筒を持参し、デスクワーク中でも水分補給を心掛けました。
  • 設定温度は27.5℃とやや高めながら、夜はエアコンを朝方まで付けっぱなしにしました。
  • 下着は汗を吸いやすいものを選びました。

しかし、私にとってこの夏を代表するアイテムは、自家製マンゴーフローズンヨーグルトです。

冷たいものの摂り過ぎは、カラダに良くない、とアタマではわかっていても、家に帰るとどうしても冷たいものが食べたくなります。
あまつさえ私は下戸ですから、ビールがキンキンに冷えていても全く魅力を感じません。
この氷菓のお陰で、この夏の暑さを乗り越えたと言っても過言ではありません。

作り方は簡単です。
冷凍マンゴーをジップロックに入れてよくつぶし、生クリームとハチミツを大さじ2杯混ぜ、最後にプレーンヨーグルトを400g加えて冷凍庫で凍らせれば完成です。
この美味しさは、◇◇◇◇ダッツアイスクリームを遥かに凌ぐ、と私は思っています。

当初はミックスベリーを用いていましたが、一度マンゴーで作ってからは、マンゴー独り勝ちの様相となっています。
手軽に出来ますので、ぜひぜひ作ってみてくださいませ。

236 一張一弛

パリオリンピック・パラリンピックが閉幕しました。
多くの日本人選手の活躍の陰で、オリンピックの開幕前に体操界でちょっと残念なニュースがありました。
19歳の女子選手が、喫煙と飲酒行為により代表離脱となった件です。

この処分に対しては様々な意見があったようですが、私は、最近ちょっとギスギスしてるなあ、と感じています。

もちろん、ルールは守らなければなりません。
ただ、昔から、喫煙と飲酒はルール破りの入門編です。
未成年者だからダメなんだという厳罰主義で、画一的に、そして取り返し不能なほどの重い処分を課すのは、何か違う気がするのです。

人一倍頑張ってきた若者が犯したちょっとの失敗に対して、大袈裟に騒ぎ立てるのではなく、包容力のある対応も必要かなと・・。
いわゆる「若気の至り」という寛容さがあってもいいのかなと・・。

世間から注目されている立場なんだから、ストレス発散は、もう少し要領良くやってよ。
そういうことは自宅でやってさ、合宿先ではちょっと我慢するとかさ・・。
今回は私が責任をとるから、今後は人として成長できるように一緒に頑張ろうよ!

私だったら、まず本人にこう言うような気がします。
ダメですかね・・、甘いですかね・・。

若いときの恥ずかしい記憶なんて、誰にでもあるはずです。
日の丸を背負った若者がはっちゃけちゃうことだってあるっしょ、と思うのです。

日本の親は「人に迷惑をかけることはしてはいけない」と子供によく言います。
しかし、インドでは「お前は人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるのだそうです。

「周りへの配慮を欠かさないこと」が美徳という日本人の考え方は大好きです。
反面、許すという徳も大切だと思います。
自らも気に掛けていくべき点だと感じます。

ちょっと話は逸れますが、1983年に当時世界新記録の通算939盗塁を達成した、元・阪急ブレーブスの福本豊さんが、国民栄誉賞を辞退した際のコメントはとても有名です。

「立ちションベンができなくなるから」

その実は、マイクの前でそう名言した訳ではなく、コメントが一人歩きしている部分もあるようです。

酒は飲むし、当時はたばこも吸うし、マージャンもしていた。
とてもじゃないが、品行方正と呼べる人間じゃなかった。
酔っぱらったら立ちションベンもする。
だから、辞退させてもらった。

記者とのこんな会話の一部が切り取られてしまったのが真相のようですが、基本的に、なんかいいな、と思います。
世界の盗塁王だからといって、なにもかにも折り目正しいわけじゃないんだ。
オレは野球が得意で足が速い以外は、どこにでもいる普通の人間なんだ、と訴える姿勢が、とても自然で人間的で心地良く感じます。

余談ですが、ドラフト7位で阪急への入団が決まったとき、福本選手の奥様は「阪急電鉄の駅員になると思った」というエピソードも残されています。

235 帰馬放牛

子どもの頃、初詣は決まって家族で靖國神社に行きました。
参拝に行くと、拝殿の手前の中門鳥居で一旦足を止め、「兵隊さんが戦地から家族へ宛てて書いた書簡を読みなさい」と父に言われました。

自らの命が残りわずかであることを悟るなかで、両親のからだを気遣い、弟や妹には立派な大人になって親孝行するように言い含める内容が多かった印象です。
二十歳前後の青年がしたためた文面が、悲しくて、崇高すぎて、こんな不幸な時代がほんの少し前にあったことの衝撃を、毎年正月に感じていました。

私は毎年拝読しましたが、母は、前途ある若者の最後の手紙が可哀想で可哀想で、あまり読みたくないんだとこぼしていました。

今月掲示されているのは、昭和20年4月、沖縄で命を落とした長野県出身の21歳男性が家族へ送った手紙です。
戦争とは本当に愚かな行いなんだと、改めて思い知らされる内容です。
(https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html)

正月に靖國神社に出向く理由は、父の名付け親が靖國に眠っているからだ、ということは漠然と聞かされていましたが、細かなことは知りませんでした。
そこで、先日詳しく話を聞いてみました。

その名付け親とは、父にとっては叔父にあたる方で、兄弟の末っ子でしたので、比較的歳が近い叔父でした。
幼い頃、一緒に遊んでくれた優しい叔父は、昭和20年、フィリピン沖で還らぬ人となりました。

当時、叔父には故郷に許嫁がいたそうです。
父もその女性の姿に、記憶があるそうです。
気立ての良い女性だと家族からも大変に評判の良い方で、皆が結婚することを待ち望んでいたそうです。
しかし、その望みが叶うことはありませんでした。

戦死の報せが届いた日、許嫁の女性と父の両親が、家の片隅で抱き合って泣いているのを見たそうです。
その光景は何年、何十年経っても忘れられないと、父は話していました。

月日は流れ、昭和24年。
父が上京し、住み込みで働くことになった際、母親からこう言われたそうです。

「伊豆の田舎から靖國神社へ出向くのは容易でない。お前がきちんと参拝するように。」

初詣にそんな背景があったとは、驚きでした。

私にとって最も身近な神社は靖國神社ということになりますが、現在の私の趣味である神社巡りの根っこがそこにあるかと言えば、そうではないように感じます。

ただ、靖國神社のホームページで、「護國神社」の存在を知りました。
護國神社とは、郷土の出身者またはゆかりのある方々で、戦場に赴かれ亡くなった軍人・軍属・勤労動員で亡くなられた一般市民の方々など、国家のために尊い命を捧げられた戦没者の御霊を御祭神としてお祀りする神社です。

基本的に道府県に1社(東京都と神奈川県にはありません)、全国に52社ありますので、地方に行くと必ず護國神社を参拝することが習慣となりました。
この習慣は、子供の頃から靖國で拝読していた書簡に起因していることは間違いないと思います。

これまでに参拝させていただいたのは、埼玉、千葉、廣島、栃木、京都、山梨、石川、茨城、宮城、静岡、福岡、愛知、群馬、新潟、奈良の16社(参拝順)。
52分の16ですから、まだ三分の一にも届きません。

私にとって靖國神社や全国の護國神社は、祖国を守り家族を守ろうと戦い続けた多くのご英霊に感謝を伝える場所であり、恒久平和を祈る場所です。
戦争を美化したり、責任追及する場ではありません。

作家でジャーナリストの門田隆将氏の著作で、大正生まれの男子は、7人に1人が戦死していると知りました。
私の敬愛する母方の伯父は、何度も出征しましたが、九死に一生を得て生還した大正生まれの1人です。
しかし、99歳で亡くなるまで、家族にも戦争の話はほとんどしなかったそうです。

ただ、「戦地でいろんなことがあったから、オレは晩年、幸せになれないと思う」とくぐもった声で言ったことがあると、母が教えてくれました。
伯父は、生きるか死ぬかの極限状態を何度も生き抜いてきたのでしょう。
その心中は、私には察することすらできません。

ところで、79回目の終戦記念日を迎えるにあたり、ネットで意外なニュースを目にしました。
パリ五輪を終えて帰国した卓球日本代表の早田ひな選手が、報道陣の質問に対してこんなコメントをしたそうです。

福岡・北九州市出身の早田には、パリ五輪が終わり同じ九州地方で行きたい場所があるという。「行きたいところの一つは(福岡の)アンパンマンミュージアム。あとは鹿児島の特攻資料館(知覧特攻平和会館)に行きたい。生きていること、卓球ができているのは当たり前じゃないのを感じたい」と意外な場所を口にした。

早田選手は弱冠24歳。
一流のアスリートであり、人間としても秀逸な早田選手には、唯々感心しました。

先述の門田隆将氏も、「故やなせたかし氏も、知覧の亡き特攻兵たちも、きっと驚き、そして喜んでいるだろう。有難う、早田さん」とSNSでつづりました。

明日は、私も現在の平和の礎について思量する機会にしたいと思っています。

234 一天四海

先週は、水曜日から金曜日までの3日間、ほぼ終日撮影の立ち合いでした。
初日のお昼頃に屋外で撮った集合写真は、撮影時間は10分ほどでしたが、準備のために1時間以上炎天下にいたので、終わったあと少しフラっしました。
立ち位置を決めたり、試し撮りのためのモデルになったり、カメラマンの助手を務めただけでフラフラするのですから、この暑さは異常としか言いようがありません。

特に、真夏のスポーツは危険と言わざるを得ません。

象徴的なのが、甲子園球場で行われる高校野球でしょうか。
生徒たちの健康面を心配する声が上がってから久しいですが、今年の大会は、暑さ対策の一環として、8月7日から9日の3日間の日程で「午前の部」と「夕方の部」の2部制が導入されるそうです。

大会第1日の8月7日は、午前8時半からの開会式後、午前10時から第1試合を開始。
夕方の部として、第2試合を午後4時、第3試合を午後6時半から行い、8月8日と9日の第1試合は午前8時、第2試合は午前10時35分、第3試合は午後5時に試合開始予定とのことです。

ナイトゲームになる可能性もありそうなスケジュールですが、学生の健康を一番に考えて改革を進めて欲しいと切に思います。

また、今、オリンピックが開催されているフランスの気温を日本気象協会のホームページで調べてみると、日本時間7月28日のパリの最高気温は23℃、最低気温は14℃。
向こう1週間の予報を見ても、パリの最高気温は最も高い日で29℃でしたから、東京に比べれば暑さの面では好条件かも知れません。

ただ、サッカーが行われるボルドーでは、29日の予想最高気温が42℃、30日は39℃とのことですので、油断なりませんね・・。

さて、撮影の話に戻ります。
7月27日(土)に、東京大学の生態調和農学機構(東大農場)で観蓮会が開催されると、1ヶ月ほど前にセガレが教えてくれました。
一般公開されるのは、この1日だけ。
撮影続きだった流れそのままに、カメラを持参し、早起きして行ってまいりました。

開園時間は朝7時。
田無駅から10分ほど歩いただけで汗びっしょりになりながら、7時15分頃到着しましたが、すでに大勢の人が観賞に訪れていました。

300種類以上の花ハスが栽培されている中で、私が注目していたのは「大賀蓮(おおがはす)」。
ハス見本園のホームページでは以下のように紹介されています。

大賀蓮は1951(昭和26)年に大賀一郎博士を中心に、千葉市旧検見川町にあった東京大学厚生農場(現 検見川総合運動場)の地下の青泥層より発掘したハスの果実(種子)を発芽・開花させて得られた系統です。発掘された果実は、2000年以上も地下にあったと推定され、古代蓮と称されています。また、植物の生命力の象徴ともみなされて、発掘から半世紀以上を経た今日においてもなお人気を博し、全国各地で栽培されています。ちなみに、発掘されたハスの果実は3粒、最初の1粒を見つけたのは発掘に協力していた千葉市立第七中学校(現 花園中学校)の女子生徒、うち発芽したのは1粒だけだったようです。

2,000年以上地中にあった種子を発芽させたなんてロマンがありますね。
実物はピンク色のかわいらしい花でした。

大賀蓮

また、ピンクが印象的だった「紅万々」も魅力的でした。
ややハスの概念を覆すようなキレイなピンクでした。

紅万々

ここ、東京大学大学院農学生命科学研究科附属生態調和農学機構ハス見本園(正式名称はこんなに長いのです)では、実に多くの品種が観賞できます。
事前にネットで調べていた品種を見ようにも、どこにあるのか探すのが大変かと思いきや、入口でいただいたパンフレットに植栽図が印刷されていました。
これはとても有益でした(現地でポケットに入れていたため、しわくちゃですが・・)。

なお、今回のタイトル「一天四海」は、この日、私が一番キレイだなと思った品種です。
四文字熟語ではありません、あしからず。

一天四海:花弁はやや幅広で大きく、花色は白の地色に薄紅色が斑状に現れる。斑の位置は不規則で花弁の表裏で異なる。葉面はざらつく。花経は25〜28cm。花弁は15〜19枚の一重咲き。花期は7月上旬〜9月上旬。(東京大学大学院農学生命科学研究科附属生態調和農学機構ハス見本園 2024年パンフレットより転載)

233 現状打破

小学校からの親友・Kくんは、学年で一番足が速く、運動神経が抜群でした。

中学生のとき、Kくんを含む7〜8人で、深夜に公園で集まっていたらお巡りさんに咎められました。
タバコは所持していませんでした(と思います)が、その場の流れで、蜘蛛の巣を散らすように一斉に逃げました。
運良く全員逃げ切れましたが、中でもKくんは息を切らすこともなく、何事も無かったように涼しい顔をしていました。

そんなKくんと私は、若い頃から同じ悩みを抱えていました。
お互いおでこが広く、髪の毛のボリュームが少ないタイプだったので、「オレたち若くしてツルッといっちゃうのかね・・」「50歳くらいまでは頑張りたいよね・・」と10代の頃からハゲましあってきました。

そんな中、20代後半のとき、私は仕事で化粧品会社の女性社長と親しくなりました。
若ハゲを気にしていた私に、その社長はストレートにこう言いました。

市販のシャンプーにはね、界面活性剤っていう水と油が混ざっちゃう成分が入ってるの。
天然成分で出来ている石けんシャンプーにしないと、40歳頃にはツルツルになっちゃうよ!

単純な私は、その日の夜から石けんシャンプーに切り替えました。
以来35年ほどが経ち、おでこは相変わらず広いままですが、薄毛という点では「どうにか持ちこたえた」のではないかと思います。
年齢相応を維持できたのは石けんシャンプーのお陰だと、あの日の社長の一言にすごーく感謝しています。

50歳代の半ば頃、Kくんと「勝利宣言」をしました。
「どうにか持ちこたえた」髪を見合って、「このトシでこのくらいなら十分だよね!」と喜び合ったのです。

因みにそのKくん、今は髪が真っ白です。
数年前に、白髪を染めないことに決めたのです。

Kくんは元々イケメンでしたので、今、正にハクハツのイケオジです。
真っ白なオールバック姿で、お孫ちゃんと遊んでいるようです。

勝利宣言をした頃から、私も白髪が徐々に増えてきました。
抜け落ちてしまうことを考えたら、白髪染めなんて苦じゃないや、と最初の頃は思っていましたが、風呂場で2日に1回程度染めなければならない現実が、そこそこ面倒になってきました。

今年の春頃、行きつけの美容院に行ったとき、「試しに前だけ染めてあげようか」とのお言葉に甘え、人生初の白髪染めを経験しました。
地肌が黒くならない特殊なクリームを塗って、耳にはビニールのキャップのようなものをはめ、白髪染めが始まりました。

短髪ですし、染めるのは生え際だけですから、さほど時間も掛かりませんでしたが、その出来栄えは感動モノでした。
自分で染めたときとは雲泥の差、生え際が隙間なく黒々となりました。

以来、美容院に行くたびに生え際を染めていただいていましたが、今回は生え際だけでなく、髪の毛全体を染めてくれました。

帰宅して鏡を見てびっくり。
白髪がまったくありません。

「見て見て、白髪が1本もなくなったよ!!」

「あら、ホントだ。ずいぶん印象が変わるね〜!」

カミさんもその変貌ぶりに驚いていました。

「こんなに黒々とした髪なら、まだまだオレもひと勝負できるな!(何の勝負だ)
どこ行くかな・・、銀座か? 六本木か?」

「巣鴨のとげぬき地蔵がいいんじゃない?」

おいおい・・。