印刷」カテゴリーアーカイブ

217 故事来歴

先月、京都の貴船神社へ行きました。
交通の便があまり良くないこともあり、これまで参拝の機会がありませんでしたが、ようやく念願が叶いました。
朝8時前に到着すると、あの有名な撮影スポットに観光客は誰もおらず、思う存分写真を撮ることができました。

貴船神社について、公式サイトでは以下のように紹介されています。

貴船神社は万物の命の源である水の神を祀る、全国2,000社を数える水神の総本宮です。
創建年代は極めて古く、その始まりは不詳ですが約1300年前の白鳳六年にはすでに社殿造替の記録があることから、日本でも指折りの古社に数えられます。

白鳳六年をネットで調べてみると、「白鳳」は日本書紀には見られない「私年号」で、その解釈には諸説あるようです。
666年とか677年などと言われているようですが、いずれにせよ貴船神社は1350年以上前に創建されたことになります。

因みに、日本で最古の神社は、奈良県にある大神神社(おおみわじんじゃ)という説が有力です。
大神神社は、本殿を持たず、鳥居と拝殿だけで構成されているのが特徴です。
拝殿の奥にある聖山・三輪山そのものがご神体であり、原始神道の祈りのスタイルを今も受け継いでいると言えます。

私が今一番お参りに行きたい神社は、他ならぬこの大神神社です。
しかし、残念ながら、三輪山登拝は現在中止されており、「神様の鎮まるご神体山のご安泰とご参拝の皆様の健康と安全を考慮しての判断です」と発表されています。
5月8日には、新型コロナの感染症法上の位置付けが5類に移行しますので、再開の方向に舵を切るのではないかと期待しています。

話を戻します。
貴船神社は「絵馬」発祥の地としても知られています。
ただ、奈良県吉野郡に鎮座する「丹生川上神社下社」が発祥で、平城京から平安京に都が遷る際に、京都の『貴船神社』に受け継がれたという説もあるようです。
昔年のことですから、確たる文字記録がなく、正確なことはわかっていません。
解明されていないことが多いのも、神社巡りの楽しみの1つです。

なお、貴船神社には「水占みくじ」という独特なおみくじがあります。
一見ただの真っ白なおみくじですが、御神水に浮かべると、文字が浮かび上がってきます。
私は「末吉」でした。

最後におみくじに関する蘊蓄を。

最新のデータではありませんが、おみくじの6割以上は「女子道社(じょしどうしゃ)」が製造しており、全国5,000カ所以上に納めているのだそうです。

その歴史を紐解きますと、山口県周南市にある二所山田神社(にしょやまだじんじゃ)の宮本重胤宮司が、女性の社会進出を推進する機関誌『女子道』の発刊費用捻出のため、会社の印刷技術を生かしておみくじを考案し、製造のための会社として1906年に創設しました。

機関誌は戦争の時代に突入したこともあって、昭和19年頃に活動を休止しましたが、一方おみくじは順調に発展を続け、おみくじの自動販売機の設置から様々な種類のおみくじの考案をするなど「おみくじといえば女子道社」とまで言われるほど、シェアを拡大していきました。
因みに、日本初の自動販売機は「おみくじ販売機」と言われています。

おみくじが出版系に由来しているというのは、印刷業界に身を置く者として嬉しく思います。

日本には魅力あふれる神社が数多くあります。
ただ、神社参拝を楽しむためには、足腰が健康でなければなりません。
股関節に不安を抱える私ですが、少しでも長く趣味を続けられるよう、節制していきたいと思っています。

209 椿萱並茂

私の父は、昭和8年生まれの89歳です。
16歳の時、荷物を1つ抱えて故郷の伊豆から上京しました。
90歳目前ですが、今も現役で働いています。

80歳を過ぎてから、心臓のバイパス手術を受けました。
入院中、「こんな歳だけど、まだやり残したことがあるので、元気になりたい」と看護師に話し、有言実行、仕事復帰しました。

また、昨年は肩に打った注射から感染症を起こし、入院生活を余儀なくされました。
3週間の入院生活は、88歳の老人の脚力を容赦なく奪いました。
それでも、母の協力もあってウォーキングで筋力を戻し、またまた社会復帰を果たしたのは天晴れでした。
44歳のとき弊社を興した本人とはいえ、 仕事への思いは並々ならぬものがあり、生涯現役を貫くつもりなのだと思います。

一方、母は昭和12年生まれで、誕生日は1月1日です。
本当は12月下旬に生まれたそうですが、役場が休みだったから元日生まれで届けを出した、と自身が子供のころ聞かされていたそうです。
元日の方が確実に役場はお休みだと思うので、理屈に合わないのですが・・。

85歳になっても変わらず料理が上手で、今もおかずを作って私に持たせてくれることがあります。
また、スマホでLINEができるのは、この歳にしてはスゴイことだと思います。

日本歯科医師会が80歳になっても20本以上自分の歯を保とうという「8020運動」を推進していますが、母は85歳にして歯の欠損がありません。
「子供の頃、貧しいものしか食べられなかったのが逆に良かったのかも」などと本人は言いますが、驚異的な口腔内健康の持ち主です。

父と同様に、母も若い頃からよく働く人でした。
狭いアパートでノンブルを打つ内職作業を、毎日のようにしていました。

「ノンブル」とは印刷業界用語ですが、ページ番号と表現すればわかりやすいでしょうか。
フランス語で「数」を意味する「nombre」に由来すると聞いたことがあります。

要するに、母の内職は、ナンバリングの機械で伝票に番号を打つ作業でした。
小さい卓袱台のような作業台の前に正座して、1枚1枚番号を打っていくのですが、これが思ったより難しい作業です。

まず、指定の位置に打たなければなりません。
多くの場合は、アンダーラインに沿って、その上側に打っていきます。
上下左右に位置が動いてしまうと、見栄えがよろしくありません。

また、ペラものであれば打つたびに番号を進めればよいのですが、2枚複写であれば2回に1回、3枚複写であれば3回に1回、機械の一番上にあるボタンを親指でノックして番号を進めなければなりません。

そして、機械を紙に強く押しつけると必要以上に紙が凹みますし、機械の番号部分も摩耗します。
なによりアパートでしたから近隣への騒音も気にしなければなりません。

母は、なるべく音を立てないように、でも、番号の印字が欠けないよう絶妙な力加減で作業する達人でした。

「実は、あなたの塾代が結構負担でねえ・・」
15年くらい前、母が打ち明けました。
1回打って1円に満たない内職代が私の通塾を支えてくれたんだなあ、とずいぶんいい歳になってから気付きました。

椿萱並茂。
両親がどちらも健在でいること。

私の年代になると、両親のどちらかを既に亡くされた友人が目立ちます。
中には、両親ともに他界された仲間もいます。

自身が還暦ですから、親は80代から90代。
悲しいことですが、致し方ありません。

両親とも健在、しかも元気で暮らしているのですから、私はとても恵まれています。
そんな両親に、先週の敬老の日には、お気に入りの京都の名店から、秋限定のご馳走膳を贈りました。

203 大驚失色

携帯電話が日本で発売されたのは1985年、ショルダーホンという名称で、肩に掛けて持ち運ぶスタイルでした。
ウィキペディアによると、重量は900グラムもあったそうです。

私が社会人になったのはその1年前、1984年4月ですから、当時会社との連絡手段はポケットベルでした。
プッシュ回線から数字を送ることができたので、急ぎの時は「9」、大至急の時は「99」というルールを設けて、緊急度を伝えることにしていました。

しかし、いくら「99」と表示されても、公衆電話がなければ連絡ができません。
ポケットベルって便利だなあと当時は思っていましたが、公衆電話が町から消えた今となっては、過去の遺物ですね。

時は流れ、初めて携帯電話を所有したのは、32〜33歳頃だったと思います。
記念すべき1台目は、富士通製でした。

ドッチーモ、なんて機種も使用したことがあります。
1台で携帯電話とPHS双方の機能を持つNTTドコモの端末です。

その後、富士通のほか、NECやSONY など、国内メーカーの製品をずっと使用してきましたが、先日、カミさんと一緒にiPhoneに乗り換えました。

カミさんはiPhone 13 miniの青、私はiPhone 13の赤にしました。
男女逆な感じがしますが、私の赤は還暦にちなみました。

私は仕事ではずっとMacを使用していますし、個人でiPadも所有しているので、携帯電話だけAndroidだったこれまでがちぐはぐだったと言えるかも知れません。
ただ、なんとなくアメリカ製のiPhoneや韓国製のGalaxyではなく、日本製品頑張れという気持ちで主にSONYのXPERIAを愛用してきました。

実際iPhoneを使用してみると、カバーは多くの種類から選べますし、Macとの相性など、便利さを実感しています。

Macに関しては、初めて購入したのは1995〜1996年頃でした。
確かPerforma 5260とかいう機種だったと思います。
NECのPC9801を個人ユースで所有していましたが、Mac購入はDTPへ移行するための第一歩でした。

思い出すのは、漢字Talk7.5.1というOSが、変な名称だなと感じたこと。
プリインストールされていた「3Dアトラス」が面白かったこと。
DTPソフトの先駆けであるQuark Xpressが、1ライセンス248,000円で驚愕したこと。
QuarkもillustratorもPhotoshopも操作がわからず、デザイナーや製版屋の知人に、恥も外聞もなく聞きまくったこと・・。

メモリもハードディスクも、今では考えられないほど小さな容量だったことでしょうが、目の前で処理される様々な事象に驚嘆するばかりでした。

話はポケットベルに戻りますが、ある土曜日、ディスプレイに「999999」と表示されたことがありました。
「99」が大至急なのに、どんだけ急ぎなんだ・・。
下請けの製本屋さんにいたので電話を借りて会社に連絡すると・・、

「事務所の裏が火事です!!!」

急いで会社戻ると、おびただしい数の消防車が到着していました。
野次馬も大勢いて、周辺は騒然としていました。

「今後の状況によっては御社の建物の裏側からも放水します。窓ガラスが割れる可能性が高いですが、お許しください」とのこと・・。

印刷屋の事務所兼倉庫ですから、中は大量の紙で溢れています。
ガラスを突き破って水が入ってきたら、事務所内の製品は全部アウトだ・・と呆然としましたが、幸い放水には至らず、鎮火いたしました。

今でも数字の9がいくつか並んでいるのを見ると、あの喧騒を思い出します。

195 犬馬之歯

先週木曜日、60歳(還暦)になりました。

還暦で思い出すのは、長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の「今日、初めての還暦を迎えまして・・」というユニークなコメントです。
自分はまだまだ先のことだと思っていましたが、あっという間でした。

平均寿命が長くなり、還暦を長寿の祝いとする習慣は薄れてきましたが「節目の特別な誕生日」という感覚はまだ根強いようで、周囲の方々からお祝いをいただくことが続きました。

以前このブログでも紹介しましたが、あるお客様からは大きな紅白まんじゅうをいただきました。
そして、古くからお付き合いのある紙問屋の営業さんからは蘭の花をいただきました。

また、私が10年以上幹事を務めているゴルフコンペのメンバーから、祝いの品を頂戴しました。
しかも、コンペ終了後のパーティーの席でのサプライズな演出に驚かされました。
いただいたのはポロシャツとカステラのセット。
ポロシャツは私がお気に入りのメーカーでしたし、カステラは私が甘党と知ってのチョイスです。
その心遣いが、二重に嬉しかったですね。

さらに、仕事つながりの4人でゴルフに行った際にも、お祝いをいただきました。
東京オリンピック、ゴルフ日本代表とお揃いのポロシャツを頂戴したことにもビックリしましたが、私の名前と蠟燭60本のイラストが印刷された真っ赤なオリジナルTシャツまでいただき、感動しました。

ハッピーバースデーハットを被り、本日誕生日のタスキをかけた朝イチのティーグラウンドでの写真もありますが、品位等の諸事情を鑑み、非公開とさせていただきます。

それから、兄弟と呼び合う一回り年下のお客さんは、2人だけの食事会を企画してくださいました。
そして、記念の品として、金沢の銘品「金かすてら」をいただきました。
デラックス感は写真でも十分伝わると思います。
リッチで幸せな気分に浸ることができました。

そして、義母からもお祝いの食事会をしよう、とお誘いいただき、叙々苑で高級ランチをご馳走になりました。
こちらが長寿のお祝いをしなければいけないのに、立場が逆転してしまいました。

最後に、小学校の同級生からも贈答品が届きました。
半世紀以上の付き合いになるこの仲間とは、2年に一度京都旅行をしており、なぜか私は「隊長」と呼ばれ、取り纏め役を仰せつかっています。
いただいたのは、私の大好物、京都からのお取り寄せ「権太呂なべ」です。
車海老、蛤、白焼き穴子、鶏肉、生麩などを、絶品の出汁でいただきます。
翌日はおじやにして、もう1日楽しむことができます。

破顔一笑、豪華絢爛、阿鼻叫喚、珍味佳肴、愉快適悦・・。

歳をとることは豊かで素敵なことなのだ、と皆さんから教えられたような気がします。
そして、家族や友人には本当に恵まれたと改めて感じました。

改めて60という年齢に思いを馳せたとき、ピンと来ないというのが正直な心境です。
息子として生まれ、結婚して夫となり、子を授かって父となり、会社の経営を引き継いで社長となり、様々な立場を経て、60歳になりました。

・親孝行な子であったろうか。
・家族思いの夫であったろうか。
・尊敬される父であったろうか。
・社員を守る経営者であったろうか。

顧みると、明らかに反省点が多いです・・。
無駄に歳を重ねてきた面も認めざるを得ません。

歳を重ねることが怖いと思ったことはありませんが、加齢を感じる事象に接するたびに、希望が少しずつ失われていくような想いを感じていました。
今後は、寄る年波を静かに受け入れつつ、時には少し抗い、自分に構うことを忘れず、残りの人生を全うしていきたいと思っています。

193 面目一新

1974年、テレビドラマ「寺内貫太郎一家」が大ヒットしました。
このドラマを見ないで翌日学校に行くと、友達との会話に参加できないくらい、私の学校では皆こぞって見ていました。
それもそのはず、平均視聴率は31.3%だったそうです。

主役を演じたのは、作曲家の小林亜星さん。
ほかに出演していた俳優さんも、今もって鮮明に覚えています。

寺内貫太郎の奥さん役は加藤治子さん、長女で足に障害を持つ役柄を演じたのが梶芽衣子さん、そしてその弟役が西城秀樹さん。
貫太郎の母親役は悠木千帆(樹木希林)さんで、お手伝いさん役が浅田美代子さん。
石屋の職人役は、伴淳三郎さんと左とん平さんという喜劇役者の2人。
それから、由利徹さんは花屋の主人役、篠ヒロコさんは居酒屋の女将さんで、その店の謎めいた常連客役が横尾忠則さん。
そして、梶芽衣子さんの恋人役が藤竜也さんで、このときの藤さんは、子供ながらにスゲーカッコイイ人だなあと感じていました。

47年前に放映されたドラマですから、残念ながら多くの出演者がお亡くなりになりました。
主役を演じた小林亜星さんは、今年5月、88歳でご逝去されました。

なお、余談ですが、当時中学生だった私は、主役を演じている太っちょなオジさんが、著名な作曲家であることを知りませんでした。

亜星さんのプロフィールをネットで見ることができました。

逓信省(現総務省)官僚の父と、小劇場の女優だった母の間に生まれ、父方の祖父が医師だったため、父から「将来は医師になれ」と言われて育つ。
一方、幼少期から音楽が大好きでバンド活動も行っていたが、猛勉強して慶大医学部に進学。
しかし、入学後、父に内緒で経済学部に転部したことが卒業時にバレて勘当。
大学卒業後は日本製紙に就職したものの、約1カ月で退社。
その後は紙問屋を立ち上げて営んでいたものの、大好きな音楽の道に進むことを決断し、作曲家・服部正さんに師事。

慶応の医学部に合格したにも関わらず、音楽の道を選んだと知り、驚きました。
また、日本製紙に就職したこと、そして、紙問屋を興したことにまたまた驚きました。
亜星さんが紙問屋のままでいたら、寺内貫太郎一家はどうなっていたことか・・。

現実の話、東京都の紙商(紙問屋)は、全盛期170社以上ありましたが、現在は70社ほどに減っており、その数はもう少し減るだろうと予想されています。

そもそも、紙の生産量は2000年をピークに減少しており、2020年には減少幅が4割近くに達しました。
ペーパーレスの進行に、新型コロナが追い打ちをかけた格好です。

また、近年の特徴として、衛生用紙の生産量が新聞用紙に迫っています。
要するに、高齢者向けオムツの需要が増えて、新聞離れが進んでいるということです。
現代社会を真っ正面から映し出していますね。

広告ひとつ取っても、オンラインが中心となり紙に代表されるオフライン広告は衰退の一途です。
しかし、保存がしやすい、記憶に残りやすい、質感を感じることができるといった、紙ならではのメリットを心に秘め、紙文化の継承に微力を尽くしていきたい思いです。

天国の亜星さんも、きっと、紙業界の行く末を心配されていることかと思います。

174 枕経藉書

今日の読売新聞朝刊の社会面に、「先月 本が大売れ」という見出しを見つけました。
5月の紙の出版物の売り上げが前年比111.2%を記録し、2008年7月の調査開始以来、最高の伸び率だったそうです。

小中学校などの一斉休校により、児童書や学習参考書が大幅増加となったほか、「鬼滅の刃」など人気のマンガが、コミックの売り上げを前年比1.5倍以上に押し上げたそうです。

巣ごもり需要の高さがうかがえる結果だと思いますが、印刷業界に身を置く者として、このニュースを非常に嬉しく思います。
私の本業は商業印刷ですから、出版業界とは異なりますが、紙の本の需要が増えたという知らせは朗報です。

先月は新型コロナの影響で休業していた店舗も多く、営業を継続した約1,500店に限ると、134.2%の伸びだったとか。
都市部の大型書店はほぼ休業していましたから、街中の書店が売り上げを伸ばしたのでしょう。

私は書店、特に大型書店が好きなので、営業を再開を心待ちにしていました。
それ故、先日神保町の三省堂書店と丸善丸の内店を久しぶりに訪れて、ひときわ楽しい時間を過ごすことができました。

大好きなノンフィクションをはじめ、新刊の小説などを結構買い込んだのですが、あっという間に読み終えてしまったので、今日は有隣堂へ出向きました。
レジでズッシリと商品を受け取った時、ちょっと買いすぎたか・・とも思いましたが、全国民へ支給される10万円の使い途としてはまあいいか、と思ったりしています。

ところで、新聞には、専修大学の植村教授(出版学)のコメントも掲載されていました

多くの人は子どもの頃から、教科書をはじめ紙の本に親しんだ経験がある。「ステイホーム」と言われる中で、「読書回帰現象」が起きた。一過性の現象に終わらせず、紙の本の良さを見直す機会にしたい。

紙をめくる。
しおりを挟む。
表紙には書店のカバーが付いている。

これが、私にとっての読書です。
紙の良さをぜひ見直していただきたいと思います。

172 解衣推食

新型コロナウイルスの感染拡大により、世界中が甚大な被害を被っています。
我々の業界も、もちろん例外ではありません。

全日本印刷工業組合連合会が行ったアンケートによると、4月時点の売上への影響は「前年同月と比べて大幅に減少した」と回答した組合員企業は60%で、「僅かに減少した」の31%を合わせると9割以上が影響を受けました。

また、日本製紙連合会の紙・板紙需給速報によると、4月の印刷・情報用紙の国内出荷は前年同月比19.7%のマイナスでした。
とりわけ大幅な減少だったのは、カタログやチラシに使われる塗工紙で、25.9%減となりました。

4月上旬には、日本印刷産業連合会会長が新型コロナウイルス感染症の陽性が判明したとのニュースもありました。

一方、海外では、アメリカのビジネスや技術ニュースの専門ウェブサイト「Business insider社」が今年2月、「今後10年で雇用が大きく減少する20の産業」を発表しました。

上位はアパレル関連が多くを占めますが、印刷業界は堂々の14位。
印刷機のオペレーターは2028年までに11.8%雇用が減少、製本関連では労働者が15.2%縮小する可能性が高いと予想されています。

そもそも衰退産業の印刷業界は、新たなウイルスとの戦いでさらに厳しい状況に追い込まれています。

しかし・・、
負の要因ばかり考えていては、先に進めません。

とにもかくにも、弊社は社員が誰ひとり感染せずにここまで来られました。
元気ならば、頑張れます。

非常事態宣言は解除されました。
今日から月も変わりました。
積極的な営業活動はまだ憚られますが、気持ちを新たに明日に向けて歩みを進めていきたいと思っています。

この新型コロナウイルスとの戦いは、ある程度長期戦になることでしょう。
しかし、ポストコロナの時代が必ず到来します。
そして、その姿は従来とは大きく転変することでしょう。

「我々は今、歴史的岐路にいる」という表現は満更大げさではないかも知れません。

在宅勤務やビデオ会議の習慣化、大都市への一極集中の緩和などの労働環境における変化のみならず、人々の価値観にも大きな変化が生じているようです。

即ち、ステイホームを通して、これまでの無駄な消費や生活習慣が浮き彫りになり、簡素な方向へ舵を切る人が増えると言われています。

私も緊急事態宣言下にあって、思うことはありました。
飲食に耽溺していたかな・・。
不要な買い物をしていたな・・。

そして、何よりも強く感じたのは「人との関わりや繋がりの大切さ」です。

料理はテイクアウト、買い物は通販で置き配。
こればかりでは飽きてしまうし、充実感や満足感が足りません。
皆で楽しみ、繋がりが実感できることを求めるのは、いたって自然な流れでしょう。

今後は、個々人が自主的な管理のもと価値観を創造していく時代になるのだと思います。

169 率先垂範

新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、史上初めて緊急事態宣言が発令されました。
人と人との接触を8割減らすことが求められています。

多くの企業がテレワークを導入し、働き方が大きく変わりました。
そんな中、アドビシステムズが発表したテレワークに関する調査結果に目が留まりました。
最も興味深かったのは、「テレワーク実施に伴う業務上の課題は」という問いへの回答です。

第6位 「稟議や書類処理が遅れる」(23.3%)
第5位 「会議が非効率になる」(24.0%)
第4位 「データや情報管理にセキュリティが心配」(24.4%)
第3位 「自分以外の仕事の進捗が把握しづらい」(35.0%)
第2位 「勤務場所にプリンタやスキャナーがない」(36.2%)

と続き、栄えある第1位は・・、
「会社にある紙の書類を確認できない」(39.6%)でした。

ここでも紙が悪者になっていることに、苦い思いがしました・・。

弊社は製造業ですから、100%テレワーク化は不可能ですが、オペレーターには自宅勤務を命じ、他の社員も時差出勤や交替勤務としています。
そもそも少人数なので、勤務体制変更の弊害は小さくありません。
しかし、今は接触を減らすことを最重要課題とし、人と社会を守る努力を重ねていきたいと思っています。

さて、新型コロナウィルスに関する政府の対応について、批判の声が日に日に強くなっているようです。

国民への給付金支給ではその方法で迷走し・・、
多くの国民がマスクの手作りを始めた頃、多額の費用を投じて布マスクを配布し・・、
医師会や東京都に比べ、緊急事態宣言発出の決断が遅いと指摘され・・、
そんな中、首相は自宅でくつろぐ画像をミュージシャンのSNSとコラボし・・、
剰え、首相夫人は大分の神社を集団で参拝し・・・・。

国難ともいえる現在の状況をリードしていく政治家は、それはそれは大変だと思います。
ただ批判するだけのコメンテーターに比べたら、その苦労は説明するまでもないでしょう。

ただ、敢えてひとつ申し上げるなら、政治家の金銭感覚には不満を覚えます。

先日、国会議員の給与を2割削減すると発表がありました。
しかし、調べてみると、給与にあたる議員歳費約1,550万円が1,240万円へと2割カットされただけで、ボーナスや立法事務費などは何ら変わらず、結果として4,170万円の年収が3,860万円になるのだそうです。

自粛を要請する側は経済的に大した影響は受けず、自粛要請を受ける側は存続の危機に直面していることに、不公平感を禁じ得ません。

この難局を脱するために、朝から晩まで、日曜祝日返上で対応策を考えている‼
そして、オレたちは給料もボーナスも返上する‼
そのお金は、生活に苦慮している方や医療従事者への支援に充当する‼
だから皆も頑張って欲しい‼

と与野党の垣根を超えて政治家がメッセージを出したなら、国民の受け止め方は変わるのではないかと思うのです。

世界を見渡すと、台湾やニュージーランドなど、政府の対応が国民から大きな支持を得ている国もあるようです。

国内でも、大阪や北海道の知事には、地元から絶大な信頼が寄せられています。
最近頻繁に発表される大都市における人出の減少数において、大阪・梅田がトップなのは吉村府知事の力によるところも大きいのかも知れません。

リーダーの資質について、嵩高に物を言うつもりは毛頭ありませんが、痛みを共有する心は大切にしたいと思っています。

168 安居楽業

2年前、京都へ紅葉見物に行きました。
時間に限りがありましたので、嵯峨野地域に限定して散策しました。
その際、二尊院を参拝し、3枚の色紙を拝領いたしました。

その1枚が上の「人生五訓」です。
短い5つの戒めの言葉に、いたく感動しました。
焦るな、怒るな、威張るな、腐るな、怠るな、と漢字で書いていないところもちょっといいですね。

近年、仕事が多忙になった時、ふと立ち止まってこの「人生五訓」を思い返すようにしています。今は年度末ですから、年間で最も忙しい時期です。
今朝も仕事の前に、自らに言い聞かせました。

年度末といえば、近年、3月になると製本所が異常なほど繁忙を極めます。
平日の残業はもとより、土・日も祝日も出勤しないと仕事が消化できません。

ペーパーレスによる印刷業界の低迷で、製本所の数は年々減少しています。
仕事量が全体に減っていますから、平時はどうということはありません。

しかし、年度内納めが極端に集中するこの時期だけは、業者数が減ったことで、現存の工場が一気にパンクするのです。

ところが、怒濤の3月が終わり、カレンダーを1枚めくると、潮が引くように仕事がなくなります。
これでは、3月の頑張りが報われず、空しい限りです。

話を二尊院の色紙に戻します…。
もう1枚の色紙には「心の糧七ヵ條」が書かれています。

一、此の世の中で一番楽しく立派なことは生涯貫く仕事をもつことである

一、此の世の中で一番さみしいことは自分のする仕事がないことである

一、此の世の中で一番尊いことは人の為に奉仕して決して恩に着せないことである

一、此の世の中で一番みにくいことは他人の生活をうらやむことである

一、此の世の中で一番みじめなことは教養のないことである

一、此の世の中で一番恥であり悲しいことはうそをつくことである

一、此の世の中で一番素晴らしいことは常に感謝の念を忘れずに報恩の道を歩むことである

生涯貫く仕事といえば、私の父が正に実践中です。
87歳にして毎日出社しています。
私には87歳の景色は想像もできませんが、日々自らを鼓舞し、社会の一員であり続けているのだと思います。

つい先日、ある病院の教授から、なぜ会社名が“伊豆”なのか、と質問を受けました。
丁稚奉公として上京したときから、いつか故郷の名を配した会社を興したかったという父の夢をお話ししたところ、「それは素晴らしい」とお誉めいただきました。

弊社は、この3月で45年目を迎えました。
印刷業界は逆風にさらされていますが、そんな中、仕事をいただけるのは有難いことです。
色紙の最後の1行にもある通り、感謝の念を忘れてはなりません。

そして、零細企業とて、守るべき社員とその家族がいます。
社員が安居楽業できるようにすることも、社長の重要な務めです。
安易なことではありませんが・・。

「安居楽業」:
今いる環境や状況に心安らかに満足し、自分の仕事を楽しんですること。自分の分をわきまえて不満をもたず、心安らかに自分のなすべき仕事をすることをいう。(goo辞書より)

152 寸草春暉

3月18日は、両親の結婚記念日です。
そして、今日、60回目の記念日を迎えました。

26歳と22歳だった新郎新婦は、86歳と82歳の老夫婦になりました。

しかし、父はまだ毎日仕事をしています。
母も元気ですし、料理の腕前は鈍っていません。

結婚60周年を、一般的に「ダイヤモンド婚式」と呼ぶのだそうですが、夫婦揃って、仲良く、そして元気にこの節目を迎えられるのは、とても幸せなことだと思います。

農家の三男坊として生まれた父は、旧制中学卒業とともに、商人になるという夢を抱いて上京しました。
「“こうりひとつ”で東京に出てきた」と昔から父に聞かされていましたが、「こうり」とは「竹や籐などを編んで作った籠の一種」で「行李」と書くようです。
要するに、荷物ひとつだけを抱え、伊豆の田舎町から東京に出て来た訳です。

一方、母も裕福ではない農家に生まれ、高校に進学することができませんでした。
藁だか何かを編む内職を手伝うから進学させて欲しい、と家族に懇願したそうですが、父を早くに亡くしたこともあり、少女の希望は通りませんでした。
上の学校に進学する級友たちを羨ましく見ていたという母の気持ちを、私には推し量ることなどできません。

そして、同じ印刷会社で偶然働くことになった2人は、昭和34年に夫婦となりました。

中央区月島の狭くて陽当たりの悪いアパートから始まった新婚生活は、まもなく2人の子どもが生まれたこともあり、金銭的には苦労したそうです。

私が社会人になってから、「学習塾の費用の捻出が大変だった」と聞かされました。
その事実を知った時、少なからずショックを受けました。

小学生の頃から、私が行きたいという塾には、自由に通わせてくれました。
中学受験もしましたし(失敗に終わりましたが)、高校も「都立はここしか受けない」と背伸びをした挙句に不合格となり、授業料の高い私立高校に進むことになっても、異議やお小言はありませんでした。
大学はかろうじて国立大学に合格しましたが、追加合格だったため、私立大学に入学金と授業料として70万円近くを出費しました。

進学に関して、私の選ぶ道に反対されたことは一度もありませんでしたが、お金の苦労を子供に悟られぬよう、親は陰で苦労していたのでしょう。
自分たちは進学が叶わなかったので、子供にはきちんと教育を受けさせたいという思いもあったのだと思います。

また、体調面でも、決して順風満帆ではありませんでした。

母は50代で、大腸癌を患いました。
その後、肝炎を起こしたり、腸閉塞で入退院を繰り返すなど、健康を害していた時期もありますが、我慢強い母は、病に負けず、元気を取り戻しました。

父は、一昨年、心臓の手術を受けました。
80歳を過ぎてからの心臓バイパス手術に際して、術前、看護師さんにこう言っていたそうです。

「老人のボクだが、まだやり残したことがある。だから、もう少し生かして欲しい・・。」

どうやら、その本意は「もう少し会社の役に立ちたい。セガレの一助になりたい。」ということだったようです。

自ら会社を興す、即ち、商人になるという夢を叶えたのが44歳の時でした。
学歴も資格もなく、親からの援助も全くなく、ただがむしゃらに家族のため働いてきた父は、80を過ぎてもなお仕事への情熱が衰えておらず、その意欲にはただただ敬慕の念を抱いています。

果たして自分は何歳まで仕事ができるか、そして、子供にどれだけの愛情を注ぎ続けられるか・・。
親のマネは出来ないな、と思っています。

歳を重ねてから、両親は勉強熱心になった気がします。
父は本をよく読みますし、母は四文字熟語の勉強をしているそうです。

人間死ぬまで勉強だと、背中で教えられているように思います。
私も昨年不合格に終わった漢字検定準一級試験を、今年もう一度チャレンジしたいと思っています。

ところで、天皇皇后両陛下にとって、今年は『結婚60年、即位30年』の年にあたります。
今上天皇は、昭和8年12月23日のお生まれで、ご結婚されたのは昭和34年4月10日。
偶然ですが、父と同年齢で、結婚した時期も1ヶ月と変わりません。

先日、陛下の即位30年と、天皇皇后両陛下の結婚60年を祝って、宮内庁職員による茶会が行われたそうです。
私も60回目の記念日当日に届くよう、京都・権太呂のうどんすきを贈りました。
後日、改めて、ささやかながら食事会を開きたいと考えています。