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239 邂逅相遇

1995年11月5日。
私が結婚式を挙げた日です。

この年は、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件という、大きな災害と事件が起こりましたが、早くも29年が経ちました。
来年は結婚30周年になるわけですが、この節目は「真珠婚式」と呼ばれているそうです。
記念に何か残そうかとカミさんと相談し、結婚指輪を買い換えることにしました。

どんな指輪にしようかと考えていたところ、あるブランドでは、3年続けて計5回値上げされたと知りました。
そして、カミさんと2人で気に入った指輪も、年内にさらなる価格改定を予定しているとのこと・・。
そこで、1年前倒して購入することとしました。

29年もの間、薬指にはめ続けていた指輪は、よく見るとだいぶ劣化していました。
そして、新しい指輪をはめてみると、今度は自分たちの指が、29年の間にかなり草臥れていることに気づきました。

ピカピカの指輪と初老の指は極めてアンバランスではありますが、新婚当時の初々しさもちょっぴり思い出しつつ(そりゃ無理か)、穏やかな日々を過ごせたらと思っています。

ところで、以前、同い年で同じ苗字の山田という友人を紹介しましたが、彼とは20代後半で知り合い、その時点で彼は既婚者でした。
一方、私は34歳で結婚しましたので、彼には披露宴で友人代表としてスピーチをお願いしました。
因みに彼の結婚記念日は11月3日で、私とわずか2日違いでした。

その後、W山田が世話人を務めていたゴルフコンペを通じて、2歳年上の中島という男と出会いました。
中島・山田・山田の3人は、今ではかけがえのない友人関係を築いていますが、何気ない会話の中で「W山田は、結婚記念日が11月3日と11月5日で、2日違いなんだよ」と言うと、中島氏が驚きの発言をしました。

「オレの結婚記念日は11月4日だよ」

信じられないような奇遇に、唯々驚きました。

冒頭で述べたように私は結婚29年目ですが、山田氏は38年目、中島氏にいたっては45年目です。
中島氏は、金婚式まであと少し。
盛大なお祝いをして差し上げたい気持ちです。

因みに、前述のゴルフコンペは発足して35年。
まもなく、131回目の大会を迎えます。

238 音吐朗朗

かなり前のことになりますが、読売新聞の夕刊に、ミュージシャンの財津和夫さんが聴力に関するコラムを寄せていました。
内容を抜粋してご紹介します。

補聴器が欲しい。
ずいぶん前から取材を受けるときのインタビュアーの言葉がちゃんと聞き取れず困っている。

聴き取れなかったときは、まず、うなずきながら笑顔で「うーむ」と言うことにしている。
美味しいお茶のひと口めを味わうような表情をしなければならないが、この相鎚はどんな状況でも使えて便利だ。

しかし、カフェやレストランで店員とのやりとりにおいてはこうはいかない。
「コーヒーにミルクと砂糖は必要ですか?」の問いに笑顔で「うーむ」は少し変だ。

だから先日も「ごめんなさい、耳が遠いので‥‥」と言うと、店員は店中に届くような声で「ミルクと砂糖はどうされーか〜!」と言う。
店員が声を大にすべき箇所は、「まーすーか〜」ではなく、「ミルクと砂糖」のところやろ、と思ったが見るところ相手は二十歳前後、じじいの置かれた社会的弱者の立場なんて解るはずがない。いや、解ってもらう方が惨めな気分。店中の視線が私にそそがれているかもと恥ずかしかった。

著名人であるがゆえのエピソードや日常体験が、楽しく紹介されていました。

また、このコラムはお母さんの話で締められていました。
晩年、話しかけると何度も聴き返されたそうですが、夢の中に出てくるお母さんは、一度も聴き返したことがないそうです。
きっと若い頃のお母さんだけが、夢に登場しているのでしょう。

上皇様や上皇后様もずいぶん前から補聴器を装用されているようです。
井上順さん、梅沢富美男さん、宇崎竜童さん、加賀まりこさん等々、芸能界でも補聴器を使用している方がたくさんいらっしゃると聞きます。

以前にも紹介しましたが、私も補聴器ユーザーです。
左耳だけ、聴力がやや弱いのです。
ですから、財津和夫さんのコラムには、とても共感を覚えました。

50歳代半ば以降、「え?」と聞き直すことが非常に増えたな、と自覚しています。
この聞き返すという行為は、加齢を象徴する行動のようで、悲しい気分になります。
そして、聞き取りやすい右耳を相手に傾けながらの「え?」は、なお一層カッコ悪いなと思うのです。

私にとって補聴器は今や生活の相棒となり、装着することで聞き直す行為は若干軽減されましたが、最近、調子がよろしくありません。
購入した店で相談すると、レシーバーの故障とのことで一旦修理をしました。
ただ、補聴器の寿命は4〜5年だそうで、私の愛機はすでに7年以上経過しているとのこと・・。

カミさんとも相談した結果、仕事上、特にお客さんとの会話の中での「I beg your pardon?」をなるべく減らすことに重きを置き、ここで買い替えることにしました。

7年振りに購入した商品は、予想以上に進化していました。
スマホのアプリに接続して、様々な設定ができるのは驚きでした。
性能には十分満足できましたので、初老の必要経費と考えるしかないなと思っています。

ただ、補聴器を使用するにあたり、地声の大きな方との接触には、注意しなくてはなりません。
身近なところでは、私の父は非常に声が大きいので、電話の際は、最初の「もしもし」から注意が必要です。

また、たまにゴルフをご一緒する方で、声がとても大きな方がいます。
この方を助手席(私にとって補聴器側)にお乗せする時は、補聴器は外しておくことにしています。
耳栓をしても、充分聞き取れそうな声量をお持ちなので・・。

233 現状打破

小学校からの親友・Kくんは、学年で一番足が速く、運動神経が抜群でした。

中学生のとき、Kくんを含む7〜8人で、深夜に公園で集まっていたらお巡りさんに咎められました。
タバコは所持していませんでした(と思います)が、その場の流れで、蜘蛛の巣を散らすように一斉に逃げました。
運良く全員逃げ切れましたが、中でもKくんは息を切らすこともなく、何事も無かったように涼しい顔をしていました。

そんなKくんと私は、若い頃から同じ悩みを抱えていました。
お互いおでこが広く、髪の毛のボリュームが少ないタイプだったので、「オレたち若くしてツルッといっちゃうのかね・・」「50歳くらいまでは頑張りたいよね・・」と10代の頃からハゲましあってきました。

そんな中、20代後半のとき、私は仕事で化粧品会社の女性社長と親しくなりました。
若ハゲを気にしていた私に、その社長はストレートにこう言いました。

市販のシャンプーにはね、界面活性剤っていう水と油が混ざっちゃう成分が入ってるの。
天然成分で出来ている石けんシャンプーにしないと、40歳頃にはツルツルになっちゃうよ!

単純な私は、その日の夜から石けんシャンプーに切り替えました。
以来35年ほどが経ち、おでこは相変わらず広いままですが、薄毛という点では「どうにか持ちこたえた」のではないかと思います。
年齢相応を維持できたのは石けんシャンプーのお陰だと、あの日の社長の一言にすごーく感謝しています。

50歳代の半ば頃、Kくんと「勝利宣言」をしました。
「どうにか持ちこたえた」髪を見合って、「このトシでこのくらいなら十分だよね!」と喜び合ったのです。

因みにそのKくん、今は髪が真っ白です。
数年前に、白髪を染めないことに決めたのです。

Kくんは元々イケメンでしたので、今、正にハクハツのイケオジです。
真っ白なオールバック姿で、お孫ちゃんと遊んでいるようです。

勝利宣言をした頃から、私も白髪が徐々に増えてきました。
抜け落ちてしまうことを考えたら、白髪染めなんて苦じゃないや、と最初の頃は思っていましたが、風呂場で2日に1回程度染めなければならない現実が、そこそこ面倒になってきました。

今年の春頃、行きつけの美容院に行ったとき、「試しに前だけ染めてあげようか」とのお言葉に甘え、人生初の白髪染めを経験しました。
地肌が黒くならない特殊なクリームを塗って、耳にはビニールのキャップのようなものをはめ、白髪染めが始まりました。

短髪ですし、染めるのは生え際だけですから、さほど時間も掛かりませんでしたが、その出来栄えは感動モノでした。
自分で染めたときとは雲泥の差、生え際が隙間なく黒々となりました。

以来、美容院に行くたびに生え際を染めていただいていましたが、今回は生え際だけでなく、髪の毛全体を染めてくれました。

帰宅して鏡を見てびっくり。
白髪がまったくありません。

「見て見て、白髪が1本もなくなったよ!!」

「あら、ホントだ。ずいぶん印象が変わるね〜!」

カミさんもその変貌ぶりに驚いていました。

「こんなに黒々とした髪なら、まだまだオレもひと勝負できるな!(何の勝負だ)
どこ行くかな・・、銀座か? 六本木か?」

「巣鴨のとげぬき地蔵がいいんじゃない?」

おいおい・・。

232 力戦奮闘

小さい頃、朝になると読売新聞と報知新聞がセットで届きました。
何故スポーツ新聞を取っていたのか確認したことはありませんが、おそらく父が野球好きだったからではないかと思います。

野球のシーズン中は、夜は巨人戦をテレビ観戦し、翌日の朝刊でその試合の記事を読むのが日課でした。
物心ついた頃から毎日読んでしましたから、自分の名前の次に書いた漢字は「報知新聞」だったと記憶しています。

母もある程度は野球に興味がありましたが、姉は全く関心が無かったので、野球は一般的に女性には人気がないものと思っていました。
ところが、嫁にした女性は、巨人の大ファンでした。
いい意味で予想が外れ、夫婦で同じ趣味を持てたのは幸運でした。

そもそも野球の話題は巨人に関することが大半でしたが、近年、様相が変わってきました。
大谷翔平選手の影響で、メジャーリーグへの感心が急激に強くなってきたのです。

毎晩、YouTubeのSpotvでメジャーリーグの試合のダイジェストを観るのが習慣となりました。
リビングの一角にあるホワイトボードには、メジャーリーグ全30チームの一覧を手書きしました。
ドジャースの選手の名前と顔もずいぶん覚えました。

先日Spotvを観ながら「オレが行った球場もここなのかな・・」と独り言のように言うと「父さん、ドジャースタジアム行ったことあるのぉぉぉ!」と素っ頓狂な声でカミさんに驚かれました。

大学3年生の夏、ロサンゼルスで3週間のホームステイを経験しました。
その時お世話になっていたホストファミリーが、ドジャースタジアムへ野球観戦に連れていってくれたのです。

対戦チームは忘れてしまいましたが、ドジャースの先発投手は当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったバレンズエラでした。
残したメモによると、初回にソロホームランを喫して、そのまま1対0で試合は終わったようです。
1982年9月4日、今から42年近くも前のことになります。
(写真の左下で、落ち着かない表情をしているのが私です)

野球と言えば、先日、エスコンフィールドへ行く機会がありました。
日本ハムファイターズが、昨年から本拠地にしている新しい球場です。

北海道に行くことはずいぶん前から決まっていましたが、その期間中にエスコンでプロ野球交流戦が行われ、その相手が巨人であると知った幹事さんが、サプライズでチケットを確保してくれたのです。

球場に足を踏み入れた瞬間、「日本じゃないみたいだ!」と思いました。
左右非対称な構造はメジャーリーグでは珍しくないものの、東京ドームに慣れている私には、とても新鮮でした。
新しい施設に感動しただけでなく、試合も巨人が勝利を収め、幹事さんには感謝感謝です。

また、球場内には、これでもかと飲食店が入っています。
ラーメンだけでも8店舗、そのほか寿司、お好み焼き、餃子、焼き鳥、ホットドッグ等々、どこで何を買おうか、ゼッタイに迷うと思います。

ひとつ進言するならば、試合が始まってから買いに行くのが良いと思います。

試合開始1時間ほど前から、どの店も異常なほど行列ができます。
私はラーメンに15分、モツ煮に30分、並びました。

ところが、試合が始まると多くの人は座席に戻るので、このタイミングで買い物に向かうのが得策だと思います。

因みに、私はラーメンとモツ煮のほか、ホットドッグ、焼き鳥、冷やし汁粉などなど、しこたま食べましたが、1番のオススメは、このパン(コロネ)です。
甘党でパン好きの私には、どストライクでした。

231 兎走烏飛

私の母校・横浜国立大学では、文化祭が年に2度開催されます。
春に行われる文化祭は「清陵祭」、秋は「常盤祭」と呼ばれています。
今年の清陵祭は、5月18日・19日に開催されました。

大学を卒業して今春で丸40年。
だから、という訳ではないのですが、何故か母校の文化祭へ行ってみたくなりました。
しかし、どうしても予定がつかなかったため、昨日、土曜日のひっそりとしたキャンパスへ足を運びました。

新たな最寄り駅となった「羽沢横浜国大駅」で降りると、駅ナカにこんなディスプレイがありました。

大学が駅名になっているだけのことはあるな、と少し嬉しい気持ちになりました。
ディスプレイの左側、スマホのバッテリーレンタルマシンも、学生を意識して設置されたのでしょう。

駅から大学までは約15分。
GoogleMapの案内に従って歩いていると、こんな看板を見つけました。

「よここく」という略称を耳にすることがありますが、学生自身も地元の方も「こくだい」とか「こくだいせい」と呼んでいました。
この看板は、今もそう呼ばれていることの証拠ですね。
変わらないということに喜びを感じます。

なお、この新駅は大学の北西に位置していますので、駅から最も近い大学の入口は北門になります。
北門は、工学部(現在は理工学部という名称ですが私には馴染みがなく・・)の裏側にあり、現役のときは利用したことがありません。
ここから(私の所属していた)経営学部までは、歩いて10分近く掛かるはずだな・・と思いつつ、慣れない門から入った40年ぶりのキャンパスは、まるで異国のようでした。

監視カメラに不穏な動きが残ったなと思いながらウロウロしていると、野音の脇に出てきました。
文化祭でシーナ&ザ・ロケッツがコンサートを行ったあの野音です(知らんね・・)。
その瞬間、忽然と意識が40年前に戻りました。

思い起こすと、大学4年間は堪らなく楽しい時間でした。

当時の仲間とは、麻雀、パチンコ、ボウリングとよく遊びました。
ゼミの先生も、成績の悪い私の面倒をよく見てくださいました。
1か月という短期間でしたが、2度海外に行く機会に恵まれました。
はじめて彼女ができて、色気付いたりもしました。

まさに青春でした。

ただ、勉強はもっとしておくべきでした。
これだけは、悔やまれます・・。

はるか昔に思いを馳せながら、好天に恵まれ、心地よい時間を過ごしました。
新設された学部の校舎の存在に驚き、学内を路線バスが走っていることに面喰らい、ゲバ文字の立て看板がひとつもないことに些か寂しさを覚え、国道から正門へのウッドデッキには時代の流れを感じました。

第一食堂の裏の鬱蒼としたエリアでは、巣があったのか、予期せずカラスの攻撃に遭っておったまげました。

大学4年間で、50泊(ひょっとしたら100泊?)以上過ごした親友S君の下宿の今も確認したかったのですが、弱まる足腰が限界となり諦めました。

因みに「下宿生という言葉は完全に死語、ひとり暮らし!」とセガレに教えられました。
ああ、そうですか・・。

229 離朱之明

子供の頃から、視力の良さには自信がありました。
視力の測定検査では、確実に「1.5」を叩き出しました。
その下の「2.0」も読めるのになあ・・、といつも思っていました。

車の運転をしていると、「お前、あんな遠くの標識が見えるのか!?」と同乗者に驚かれることがよくありました。
ただ、ワタシは逆に「あの標識も見えずに運転してんのかい!」と感じていました。

この能力を建設的な方向に活かせば良かったのですが、大学生になると、受験勉強の反動か、完全にタガが外れてしまいました。

授業に出ている友はいない・・
頼りになる仲間はいない・・
先輩からの資料もない・・

こんな教科のテストがあると、にわかに私の出番となります。
要するに、周囲の答案用紙を謹んで拝見させていただくのです。

選択式の問題であれば、2列前の答案用紙まで、難なく判読できました。
そこで、鉛筆を持つ右手が邪魔にならない向かって右前の席と、そのもうひとつ前の席の解答を失敬し(そんな詳しい説明は要らないか)、自分の答案用紙に書き込んで、後ろに陣取る友人が見えるよう、ずらして机に置くのでした。
こうした不品行で得た単位数は、8〜12単位ほどあるでしょうか・・・・。
若気の至りでは済まされない、不届き千万な行為です。

そんな浅はかな行動から15年余。
30代後半に、老眼の兆しを感じはじめました。
40代半ばには、老眼鏡を買いました。

今や、老眼鏡は本を読んだりパソコンを打つ時のみならず、日常多くのシーンで欠かせなくなりました。
従って、仕事用のカバン、車の中、洗面所などなど、いたるところに老眼鏡が備えてあります。
数えてみたら、9つもありました。

そうこうしているうちに、遠くも見えづらくなってきました。
遠近両用メガネがうまく使いこなせない私は、車の運転やゴルフなど、遠くを見るためのメガネが別途必要になりました。

学生時代、あんなに憧れたメガネがこんなにも必要になるとは・・。
この不便さは、因果応報、自業自得といったところでしょう。

話が逸れますが、「タガが外れる」と書きましたが、調べてみると、言葉の由来が非常に興味深いことを知りました。

「タガが外れる」の「タガ」は、漢字で「箍」と書きます。
箍とは、桶や樽の周囲にはめる輪っかのことだそうです。
樽は、ウイスキーやビールなどのお酒を貯蔵する際に用いられることが多いですが、箍が外れると、中の液体物が一気に外に溢れてしまいますから、それはそれは大変なことになります。

この様子から、緊張が取れて締まりがなくなるという意味で、「タガが外れる」と使われるようになったのだそうです。

こういうところが日本語の楽しいところだと思います。
漢検準一級への挑戦は、ほぼ諦めの境地ですが、若い頃の反省も込め、何歳になっても学ぶ姿勢を持ち続けたいと、連休中に思うのでした。

227 禍福糾纆

先日、日光山輪王寺へ行ってまいりました。

昨年7月、東武鉄道の特急に新車両「スペーシアX」が導入されましたので、次回はぜひ新しい電車で! と思っていたのですが、計画を立てるのが遅く、すでにどの時間帯も満席・・。
残念ながら、往復とも従来の特急けごんを利用しました。

上は1年前に撮影した画像です(今年は写真を撮り忘れました・・)

コロナやセガレの大学受験のため、しばらくご無沙汰していましたが、昨年、3年ぶりに訪れたところ、大改修を終えた三仏堂が見違えるほどキレイになっていました。

日光山は、天平神護二年(766年)に勝道上人により開山されました。
その後、占星術の権威であった天海(慈眼大師)によって九星学がもたらされ、明治時代に気学と結びついて、現在の九星気学へと発展したと言われています。

古代中国で生まれた九星気学は、星の示す方位をもとに開運を図ったり、凶運を避けたりと、吉凶を知るための占術のひとつです。

我々は生年月日によって「本命星」を持っています。
そもそも星とは、文字通り空に輝く星のことで、私たち人間の運勢は決められた星の運行に影響を受けると考えられています。
「星回りが良い」「星回りが悪い」という言葉がありますが、この星回りとは私たちの運命を左右する星の巡り合わせのことを言います。
令和5年は三碧木星が暗剣殺に当たり、昭和36年生まれの私が該当しました。

日光山輪王寺大護摩堂では、1日5回の護摩祈願が毎日行われています。
大護摩堂内には、天海座像と開運三天(毘沙門天、大黒天、弁財天)像もお祀りされており、パワー溢れる場所で受ける護摩祈祷は、大変有難いものです。

毎年いただいている星守に加え、昨年は特別降魔札も頂戴いたしました。

大きな怪我や病気をすることなく1年間過ごすことができたことに感謝し、先日そのお札をお返ししてまいりました。

改めて「占術」について調べてみると・・、

自然的または人為的現象のある面を観察することで、将来の出来事や人間の運命を判断したり予知したりする方術。卜占(ぼくせん)。うらない。

とありました。

「占い」と聞いて、私が真っ先に思い浮かぶのは新宿の母です。
伊勢丹新宿本店横で毎日行列ができていた光景を思い出します。

実は私、占いがあまり好きではありません。

過去のことを言われるのであれば、「当たり〜」「ハズレ〜」という程度で済むのですが、将来のこととなると、どことなく抵抗がありました。

しかし、20代後半の頃、後にも先にも、たった一度だけ経験があります。
残念ながら新宿の母ではないのですが、年配の女性の方でした。
どこかテーマパークの片隅に占いのコーナーがあり、一緒にいた仲間の押しに屈して、鑑定していただくことになったのです。

私の掌を見た第一声が・・、

「あなた、サラリーマンではないわね」

「当たってます!」
「いつごろ結婚できますか?」
「はっきり言っちゃってください!!」

周囲を取り囲む友達のヤジだけは鮮明に覚えていますが、鑑定結果は全く記憶にありません・・。

226 炊金饌玉

早いもので、2024年が始まり、早2週間が経ちました。
食レポではありませんが、今年経験した外食にまつわる話を記したいと思います。

まずは、日本橋三越本館2階にあるカフェウィーンです。

下戸の私は、甘いものが大好きです。
お気に入りのスイーツはたくさんありますが、その1つがカフェウィーンのザッハトルテです。
ウィーンを代表するチョコレートケーキ・ザッハトルテと、その脇に乗せられたちょっと堅めの生クリームが、ホットコーヒーと相性抜群なのです。

上の写真は、カフェウィーンの店内です(出典  HANAKO https://hanako.tokyo/food/52539/)。
三越の公式サイトでも「優美な内装は、まるでウィーンの伝統的なカフェハウスのよう」と紹介されています。

ケーキが美味しいのは勿論のこと、大理石のテーブルと赤いベルベットのソファ席が醸し出すレトロな雰囲気にも、非常に魅かれていました。
カミさんと日本橋へ買い物に行った際は、赤いソファで休もう、が合言葉になっていました。

「いました」と過去形で表現したのは、状況が変わってしまったからです・・。
1月7日午後、カミさんと行ってみると、ソファーが茶色に変わっていたのです。
あまりにショッキングで、写真を撮り忘れました。

昨年12月は、赤いソファーでした。
いろいろ調べてみると、仙台三越にあるカフェウィーンが茶色いソファーのようです。
つい最近、日本橋も同じ路線に変更したのでしょうか・・。

長い間、ケーキの陳列棚が故障していたり、首が折れそうな白鳥型の器が足りなくて「フィルシメルバ」が提供中止になったり、そんなことは気になりませんでしたが、赤いソファーがなくなってしまったことは、本当に残念でなりません。

X(旧 Twitter)やInstagramで検索しても投稿は見当たりません・・。
残念がっているのは、私だけではないはずですが・・。

 

次は、小学校の同級生との新年会@横浜の話題です。

20代の頃から、スキーに行ったり、バーベキューをしたり、コテージに泊まったり、このメンバーとはいろいろなイベントを企画し、遊んできました。
そして今も、隔年で京都旅行に出掛けたり、年に数回、食事会を催しています。

小学校の同級生と未だに深い交流があるということに驚かれるときがありますが、総勢9名という人数にもビックリされます。
ただ、先日の横浜での新年会は、3名欠席者がおり、6名(男女各3名)での開催でした。

場所は、山下公園近くの「スカンディア」。
このお店はデンマーク人のご主人を持つ女性が、本格的なスカンジナビア料理を出す店として、1963年にオープンした歴史あるお店です(人間ならば昨年還暦です)。
2ヶ月以上前に予約をし、重厚感あるシックな雰囲気の2階で、ランチコースをいただきました。

この店は、指揮者のカラヤンさんや美空ひばりさん、井上陽水さん、桑田佳祐さんなど、多くの有名人が訪れた店としても有名です。

しかし、最も有名なのは、ユーミンが松任谷正隆さんと婚約後、両家の顔合わせ場所としてこの2階を貸し切りで使ったこと、ではないかと思います。
ドルフィンと並ぶ、ユーミンゆかりのスポットなのです。

ユーミンは中央フリーウェイで知られるように八王子市の出身ですが、横浜山手教会で結婚式を行い、横浜ニューグランド・ホテルで披露宴を挙げたそうで、横浜を愛していたのでしょう。

横浜国大出身の私としては、横浜が第2の故郷であるはずなのですが、40年という年月が経ち、知らないスポットがあまりにも増えてしまいました。

横浜駅東口なんて何にもなかった、横浜市営地下鉄は走っていなかった、みなとみらいなんて地名はなかった、首都高速と横浜新道は繋がっていなかった・・・・、なんて言うと、老人の戯言になってしまいますね。

級友と語り合う時間はとても楽しく、リフレッシュできましたし、久しぶりに訪れた横浜は、非常に新鮮でした。
「羽沢横浜国大」という母校名が付いた新駅もできたことですし、横浜の魅力を大人目線で感じるために、近々、改めて遊びに行きたいと思っています。

学生時代、大学よりも足繁く通ったボーリング場が閉店した跡地も確認したいですね。

225 一竜一猪

先日、Yahoo!ニュースで「第1志望に「3分の2が不合格」中学受験の現実」という記事を見つけました。
葵さん(仮名)が経験したことを元に構成されたこの記事の一部を、以下に紹介します。

C校に入学して間もない4月上旬。葵さんが驚いたことがあった。男性の担任教員が「この中で第1志望じゃなかった子は?」と聞くと、クラスの大半の生徒が手を挙げた。「じゃあ第1志望だった子は?」。手を挙げたのは数人だった。「そうだよね、第1志望の子もいれば、そうじゃない子もいるよね」と担任は言った。

「私だけじゃないんだ」。葵さんは自分と同じ境遇の子が多いことにほっとした。同級生と互いの受験をオープンに話すことで、気持ちがほぐれ、友達が増えていった。そして学校が好きになった。

この記事を読んで、昔の思い出がよみがえりました。

以前にも紹介した私の中学受験は、学校の担任からは「合格するわけないからやめなさい」、塾の先生からは「合格しちゃうからよしなさい」と相反するご意見をいただき、結果は不合格。

「ほらね」と言わんばかりの学校の担任。
「悔しいだろうが喜べ。12歳で大学を決める必要はない!」と難しいことをおっしゃる塾長。

受験失敗という挫折感はわずか数日で消え、小学校の仲間と一緒に通った地元の公立中学は、楽しい3年間でした。

そして、迎えた高校受験。
思うように成績が伸びなかった私は、大学の付属校を受験対象から排除することにしました。
小学校6年生のときに学習塾の先生からいただいた言葉を思い出し、3年後、大学受験でもう一度勝負しようと決めたのです。

東京都にまだ学校群制度が存在した当時、私の第1志望は「41群」でした。
しかし、あまりにも内申点が低く、あえなく撃沈。
自身の第2志望だった、私立城北高等学校へ進学しました。

当時の城北高校は、1学年に750人ほど在籍していたマンモス校でしたので、それはそれはバラエティに富んだ生徒がいました。

その1人が、1年生のとき同じクラスだったS君。
入学当初からどことなく元気がなく、ねじ曲がって、ひねくれたような雰囲気を醸し出していました。
どうやら、有名県立高校合格間違いなし! と言われていたにも関わらず、運悪く失敗したそうで、「オレはこんな学校に来るつもりじゃなかったんだ」という気持ちが、入学当初、顕著に表れていたのでしょう。
その後、卒業まで同じクラスになることはありませんでしたが、決していい噂は耳にしませんでした。

もう1人印象的だったのはW君。
当時、城北高校の文系コースには、早稲田大学への推薦枠が1つだけありました。
文武両道、品行方正な生徒が毎年選ばれていましたが、我々の代では、W君とK君の一騎打ちとなりました。

W君はサッカー部、K君は体操部に所属し、各々運動部で活躍していました。
肝心の成績も、5段階評価でW君は平均4.9、K君は4.95と、どちらも非の打ちどころがありません。
W君は私立文系、K君は国立文系に所属していましたので、ここも評価対象になるのではないかなど、一時期、来る日も来る日も学校はこの話題で持ちきりでした。

結局、この激しい争いを制したのは、K君でした。

戦いに敗れたW君は、決して不満を口にすることなく、粛々と受験勉強を続けました。
普通に受験してもお前なら早稲田くらい楽勝だよ、と仲間に勇気づけられて臨んだ大学受験。
残念ながら志望校への合格は叶わず、明治大学への進学を決めたようでした。

「1浪して早稲田に行くべきだ」
「投げやりになっちゃだめだ」

人気者だったW君を心配する多くの仲間の声には耳を貸さず、明治大学へ進学したW君は、大学3年生の時に公認会計士の資格を取得したと、風の噂で聞きました。

推薦入試で落胆を経験し、一般入試でも夢破れたものの、自ら選んだ大学で腐ることなく努力を重ねたのでしょう。
同級生でありながら、心から尊敬できるなと思ったものです。

私の大学受験はというと、不合格の通知を重ね、入学を決めたのは第6志望の学校でした。
そして、入学金に加えて1年次の授業料も支払ったあと、第1志望の大学から補欠合格の報せを受けました。

仮に私が第6志望の大学へ進んでいたなら、W君のように努力することができただろうか・・。
補欠合格の電話を受けた際の感動や高ぶりを、大学生活に反映できただろうか・・。
受験は決してゴールではないな、と今更ながら感じます。

一竜一猪。
努力して学ぶ人と、怠けて学ばない人との間には大きな賢愚の差ができるということ。

セガレよ、まだまだこれからが勝負なのだぞ。

223 一六勝負

初めて勝った馬券は、高校2年か3年の天皇賞秋で、枠連1-8を1,000円購入。
結果は1着トウショウボーイ、2着グリーングラス。
見事的中し、配当は1,100円で、10,000円儲かった。

自分の馬券デビューについて、上記のように確信を抱いていました。
しかし、調べてみると該当するレースが見当たりません。
そもそも、トウショウボーイもグリーングラスも、天皇賞秋を制していないようなのです。

何が合っていて、何が誤っているのか、情報を整理してみました。
レースは天皇賞秋なのか、勝ち馬をテンポイントと勘違いしてはいないか、枠連1-8は本当なのか・・・・。
思案の末、最も信頼に値しそうなのは「ちょうど10,000円利益が出た」という点ではないかという結論に達しました。
初めて購入した馬券が的中して実入りがあった訳ですから、金額に関する記憶は正確なのではないかと目星を付けたのです。

そこから探っていくと、該当するレースがありました。
1978年11月に行われた第78回秋の天皇賞の枠連配当が、1,100円でした。
私が高校2年生のときですから時期も合っていますし、レース名も合致しています。

ただ、勝ったのはテンメイ、2着はプレストウコウ、枠連は6-8でしたので、ここは記憶と相反しています。
枠連ですから、同じ枠に同居していた馬を調べてみましたが、トウショウボーイもグリーングラスも出走していませんでした。

結局のところ、納得のいく結論は導き出せませんでした。
ただ、人間の記憶は当てにならないものなんだなと、改めて思い知らされました。

因みに、未成年は馬券を購入してはならないと法律で定められています。
まあ、45年も前のことですから時効でしょう。

元来、ギャンブルは嫌いな方ではないかな、と自認しています。
思い出深いのは、大学3年の夏に行ったラスベガスです。

ロサンゼルスでホームステイをしていた私は、週末を利用してラスベガスとグランドキャニオンへ遊びに行きました。
同じツアーに参加していた仲間の多くも一緒でした。

いつかは行ってみたいと憧れていたカジノの聖地は、まさにエキサイティングでした。
この日のために日本から持ってきた一張羅のスーツに身を包み、砂漠地帯でGolden Nuggetの看板を見たとき、これまで経験したことのない高揚感を感じました。

カジノにはスロットやポーカー、バカラ、ルーレットなど多様なゲームがありますが、私はブラックジャックの魅力に溺れました。

minimum bet 1$の最もハードルの低いテーブルとはいえ、ディーラーと対峙していると、自分がすっかり大人になったような気分になりました。

ディーラーが1枚目にエースを引いた時に聞かれる『insurance?』や、『stay』『hit』を手の仕草で表現するなど、現地で遊びながら学んだことも多く、時間を忘れて没入していました。

日付変更線を過ぎた頃、やや引きの弱い男性のディーラーがやってきました。
ここが勝負どきと判断し、賭け金も増やして巻き返しに成功しましたが、その後に現れたスレンダーでクールな女性ディーラーに屈し、結局一晩で270$の負けを喫しました(この記憶もあてにならないか・・・・)。

当時の為替レートは1$270円ですから、約7万円の損失です。
40年以上前に学生が一晩で7万円も失うとは、由々しき事態であることに間違いありません。

そろそろ退散しようかなと時計を見ると、深夜2時を過ぎていました。
10人ほどの仲間とカジノに来たのですが、周りを見渡すと、友人は誰もいません。
と思ったとき、ルーレットのテーブルにいた日本人と目が合いました。
京都大学文学部3年のNちゃんでした(女子です)。

『まだいたんだ』
『国立大学の学生って、ギャンブル好きなんかね?』

深夜のカジノで聞く関西弁はすこぶる印象的でした。

あれから40余年、現在の私は、一切ギャンブルをしません。
競馬、競輪、パチンコを始め、宝くじやロト、株も含めて全く興味が薄れてしまいました。
加えて、タバコをやめて約20年、酒は生まれつきの下戸。
なんだか味気ない男ですね・・。

ただ、ラスベガスは、もう一度訪ねてみたいです。
深夜までカジノに興じる体力は失われてしまいましたが、年齢なりの違った楽しみ方ができるかなと思っています。

初めて馬券を買ってから45年。
本日、15時40分、第168回天皇賞(秋)の発走です。