投稿者「izuart」のアーカイブ

239 邂逅相遇

1995年11月5日。
私が結婚式を挙げた日です。

この年は、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件という、大きな災害と事件が起こりましたが、早くも29年が経ちました。
来年は結婚30周年になるわけですが、この節目は「真珠婚式」と呼ばれているそうです。
記念に何か残そうかとカミさんと相談し、結婚指輪を買い換えることにしました。

どんな指輪にしようかと考えていたところ、あるブランドでは、3年続けて計5回値上げされたと知りました。
そして、カミさんと2人で気に入った指輪も、年内にさらなる価格改定を予定しているとのこと・・。
そこで、1年前倒して購入することとしました。

29年もの間、薬指にはめ続けていた指輪は、よく見るとだいぶ劣化していました。
そして、新しい指輪をはめてみると、今度は自分たちの指が、29年の間にかなり草臥れていることに気づきました。

ピカピカの指輪と初老の指は極めてアンバランスではありますが、新婚当時の初々しさもちょっぴり思い出しつつ(そりゃ無理か)、穏やかな日々を過ごせたらと思っています。

ところで、以前、同い年で同じ苗字の山田という友人を紹介しましたが、彼とは20代後半で知り合い、その時点で彼は既婚者でした。
一方、私は34歳で結婚しましたので、彼には披露宴で友人代表としてスピーチをお願いしました。
因みに彼の結婚記念日は11月3日で、私とわずか2日違いでした。

その後、W山田が世話人を務めていたゴルフコンペを通じて、2歳年上の中島という男と出会いました。
中島・山田・山田の3人は、今ではかけがえのない友人関係を築いていますが、何気ない会話の中で「W山田は、結婚記念日が11月3日と11月5日で、2日違いなんだよ」と言うと、中島氏が驚きの発言をしました。

「オレの結婚記念日は11月4日だよ」

信じられないような奇遇に、唯々驚きました。

冒頭で述べたように私は結婚29年目ですが、山田氏は38年目、中島氏にいたっては45年目です。
中島氏は、金婚式まであと少し。
盛大なお祝いをして差し上げたい気持ちです。

因みに、前述のゴルフコンペは発足して35年。
まもなく、131回目の大会を迎えます。

238 音吐朗朗

かなり前のことになりますが、読売新聞の夕刊に、ミュージシャンの財津和夫さんが聴力に関するコラムを寄せていました。
内容を抜粋してご紹介します。

補聴器が欲しい。
ずいぶん前から取材を受けるときのインタビュアーの言葉がちゃんと聞き取れず困っている。

聴き取れなかったときは、まず、うなずきながら笑顔で「うーむ」と言うことにしている。
美味しいお茶のひと口めを味わうような表情をしなければならないが、この相鎚はどんな状況でも使えて便利だ。

しかし、カフェやレストランで店員とのやりとりにおいてはこうはいかない。
「コーヒーにミルクと砂糖は必要ですか?」の問いに笑顔で「うーむ」は少し変だ。

だから先日も「ごめんなさい、耳が遠いので‥‥」と言うと、店員は店中に届くような声で「ミルクと砂糖はどうされーか〜!」と言う。
店員が声を大にすべき箇所は、「まーすーか〜」ではなく、「ミルクと砂糖」のところやろ、と思ったが見るところ相手は二十歳前後、じじいの置かれた社会的弱者の立場なんて解るはずがない。いや、解ってもらう方が惨めな気分。店中の視線が私にそそがれているかもと恥ずかしかった。

著名人であるがゆえのエピソードや日常体験が、楽しく紹介されていました。

また、このコラムはお母さんの話で締められていました。
晩年、話しかけると何度も聴き返されたそうですが、夢の中に出てくるお母さんは、一度も聴き返したことがないそうです。
きっと若い頃のお母さんだけが、夢に登場しているのでしょう。

上皇様や上皇后様もずいぶん前から補聴器を装用されているようです。
井上順さん、梅沢富美男さん、宇崎竜童さん、加賀まりこさん等々、芸能界でも補聴器を使用している方がたくさんいらっしゃると聞きます。

以前にも紹介しましたが、私も補聴器ユーザーです。
左耳だけ、聴力がやや弱いのです。
ですから、財津和夫さんのコラムには、とても共感を覚えました。

50歳代半ば以降、「え?」と聞き直すことが非常に増えたな、と自覚しています。
この聞き返すという行為は、加齢を象徴する行動のようで、悲しい気分になります。
そして、聞き取りやすい右耳を相手に傾けながらの「え?」は、なお一層カッコ悪いなと思うのです。

私にとって補聴器は今や生活の相棒となり、装着することで聞き直す行為は若干軽減されましたが、最近、調子がよろしくありません。
購入した店で相談すると、レシーバーの故障とのことで一旦修理をしました。
ただ、補聴器の寿命は4〜5年だそうで、私の愛機はすでに7年以上経過しているとのこと・・。

カミさんとも相談した結果、仕事上、特にお客さんとの会話の中での「I beg your pardon?」をなるべく減らすことに重きを置き、ここで買い替えることにしました。

7年振りに購入した商品は、予想以上に進化していました。
スマホのアプリに接続して、様々な設定ができるのは驚きでした。
性能には十分満足できましたので、初老の必要経費と考えるしかないなと思っています。

ただ、補聴器を使用するにあたり、地声の大きな方との接触には、注意しなくてはなりません。
身近なところでは、私の父は非常に声が大きいので、電話の際は、最初の「もしもし」から注意が必要です。

また、たまにゴルフをご一緒する方で、声がとても大きな方がいます。
この方を助手席(私にとって補聴器側)にお乗せする時は、補聴器は外しておくことにしています。
耳栓をしても、充分聞き取れそうな声量をお持ちなので・・。

237 流金鑠石

9月初旬、猛暑の中、ゴルフに行きました。
暑い時期はアーリーバード(朝5時前にスタートするスループレイの早朝ゴルフ)以外はほとんど行かないのですが、久しぶりの日中ゴルフでした。

プレイしたのは、暑さで有名な埼玉県内のコースでした。
スタート前、氷嚢に氷をぎっしり詰め、水筒も満タンに。
プレイ中は、日焼け止めを顔に首に手に足に塗りまくり、止めどなく流れる汗を拭きつつ、どうにか完走できました。

その夜、足に違和感を感じて鏡を見たところ、ふくらはぎが真っ赤でした。
足に塗りまくったはずの日焼け止めは、前側、要するに脛に塗るばかりで、裏側には全く塗られていなかったのです。
いくつになっても、おっちょこちょいは直りません・・。

肝心のスコアは、47・48。
相変わらず上達しませんが、完走しただけで「天晴れ」がいただけるのではないかと思います。
いや、こんな暑い日のゴルフはカラダに悪いぞ!と「喝」ですかね。

それにしても近年の夏の暑さは度を超しています。
福岡県太宰府市では、昨日も気温が35.0℃まで上がり、今夏62日目の猛暑日となったそうです。
これまでの国内最多記録だった群馬県桐生市の46日を、劇的に更新しました。

また、先日ネットで京都市が50-50を達成という記事を見つけました。
年間の猛暑日と熱帯夜の観測数が両方50日を超えたのだそうです。
(なかなかうまい表現だなと思ったら、海の向こうで大谷選手が前人未踏の52-52を達成しました!)

東京も6月下旬に梅雨明けし、その後、記録的な猛暑が続きました。
9月18日には、統計開始後、最も遅い猛暑日を更新しました。
この長期間に亘る暑さに対して、私もいくつか対策をしました。

  • 水筒を持参し、デスクワーク中でも水分補給を心掛けました。
  • 設定温度は27.5℃とやや高めながら、夜はエアコンを朝方まで付けっぱなしにしました。
  • 下着は汗を吸いやすいものを選びました。

しかし、私にとってこの夏を代表するアイテムは、自家製マンゴーフローズンヨーグルトです。

冷たいものの摂り過ぎは、カラダに良くない、とアタマではわかっていても、家に帰るとどうしても冷たいものが食べたくなります。
あまつさえ私は下戸ですから、ビールがキンキンに冷えていても全く魅力を感じません。
この氷菓のお陰で、この夏の暑さを乗り越えたと言っても過言ではありません。

作り方は簡単です。
冷凍マンゴーをジップロックに入れてよくつぶし、生クリームとハチミツを大さじ2杯混ぜ、最後にプレーンヨーグルトを400g加えて冷凍庫で凍らせれば完成です。
この美味しさは、◇◇◇◇ダッツアイスクリームを遥かに凌ぐ、と私は思っています。

当初はミックスベリーを用いていましたが、一度マンゴーで作ってからは、マンゴー独り勝ちの様相となっています。
手軽に出来ますので、ぜひぜひ作ってみてくださいませ。

236 一張一弛

パリオリンピック・パラリンピックが閉幕しました。
多くの日本人選手の活躍の陰で、オリンピックの開幕前に体操界でちょっと残念なニュースがありました。
19歳の女子選手が、喫煙と飲酒行為により代表離脱となった件です。

この処分に対しては様々な意見があったようですが、私は、最近ちょっとギスギスしてるなあ、と感じています。

もちろん、ルールは守らなければなりません。
ただ、昔から、喫煙と飲酒はルール破りの入門編です。
未成年者だからダメなんだという厳罰主義で、画一的に、そして取り返し不能なほどの重い処分を課すのは、何か違う気がするのです。

人一倍頑張ってきた若者が犯したちょっとの失敗に対して、大袈裟に騒ぎ立てるのではなく、包容力のある対応も必要かなと・・。
いわゆる「若気の至り」という寛容さがあってもいいのかなと・・。

世間から注目されている立場なんだから、ストレス発散は、もう少し要領良くやってよ。
そういうことは自宅でやってさ、合宿先ではちょっと我慢するとかさ・・。
今回は私が責任をとるから、今後は人として成長できるように一緒に頑張ろうよ!

私だったら、まず本人にこう言うような気がします。
ダメですかね・・、甘いですかね・・。

若いときの恥ずかしい記憶なんて、誰にでもあるはずです。
日の丸を背負った若者がはっちゃけちゃうことだってあるっしょ、と思うのです。

日本の親は「人に迷惑をかけることはしてはいけない」と子供によく言います。
しかし、インドでは「お前は人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるのだそうです。

「周りへの配慮を欠かさないこと」が美徳という日本人の考え方は大好きです。
反面、許すという徳も大切だと思います。
自らも気に掛けていくべき点だと感じます。

ちょっと話は逸れますが、1983年に当時世界新記録の通算939盗塁を達成した、元・阪急ブレーブスの福本豊さんが、国民栄誉賞を辞退した際のコメントはとても有名です。

「立ちションベンができなくなるから」

その実は、マイクの前でそう名言した訳ではなく、コメントが一人歩きしている部分もあるようです。

酒は飲むし、当時はたばこも吸うし、マージャンもしていた。
とてもじゃないが、品行方正と呼べる人間じゃなかった。
酔っぱらったら立ちションベンもする。
だから、辞退させてもらった。

記者とのこんな会話の一部が切り取られてしまったのが真相のようですが、基本的に、なんかいいな、と思います。
世界の盗塁王だからといって、なにもかにも折り目正しいわけじゃないんだ。
オレは野球が得意で足が速い以外は、どこにでもいる普通の人間なんだ、と訴える姿勢が、とても自然で人間的で心地良く感じます。

余談ですが、ドラフト7位で阪急への入団が決まったとき、福本選手の奥様は「阪急電鉄の駅員になると思った」というエピソードも残されています。

235 帰馬放牛

子どもの頃、初詣は決まって家族で靖國神社に行きました。
参拝に行くと、拝殿の手前の中門鳥居で一旦足を止め、「兵隊さんが戦地から家族へ宛てて書いた書簡を読みなさい」と父に言われました。

自らの命が残りわずかであることを悟るなかで、両親のからだを気遣い、弟や妹には立派な大人になって親孝行するように言い含める内容が多かった印象です。
二十歳前後の青年がしたためた文面が、悲しくて、崇高すぎて、こんな不幸な時代がほんの少し前にあったことの衝撃を、毎年正月に感じていました。

私は毎年拝読しましたが、母は、前途ある若者の最後の手紙が可哀想で可哀想で、あまり読みたくないんだとこぼしていました。

今月掲示されているのは、昭和20年4月、沖縄で命を落とした長野県出身の21歳男性が家族へ送った手紙です。
戦争とは本当に愚かな行いなんだと、改めて思い知らされる内容です。
(https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html)

正月に靖國神社に出向く理由は、父の名付け親が靖國に眠っているからだ、ということは漠然と聞かされていましたが、細かなことは知りませんでした。
そこで、先日詳しく話を聞いてみました。

その名付け親とは、父にとっては叔父にあたる方で、兄弟の末っ子でしたので、比較的歳が近い叔父でした。
幼い頃、一緒に遊んでくれた優しい叔父は、昭和20年、フィリピン沖で還らぬ人となりました。

当時、叔父には故郷に許嫁がいたそうです。
父もその女性の姿に、記憶があるそうです。
気立ての良い女性だと家族からも大変に評判の良い方で、皆が結婚することを待ち望んでいたそうです。
しかし、その望みが叶うことはありませんでした。

戦死の報せが届いた日、許嫁の女性と父の両親が、家の片隅で抱き合って泣いているのを見たそうです。
その光景は何年、何十年経っても忘れられないと、父は話していました。

月日は流れ、昭和24年。
父が上京し、住み込みで働くことになった際、母親からこう言われたそうです。

「伊豆の田舎から靖國神社へ出向くのは容易でない。お前がきちんと参拝するように。」

初詣にそんな背景があったとは、驚きでした。

私にとって最も身近な神社は靖國神社ということになりますが、現在の私の趣味である神社巡りの根っこがそこにあるかと言えば、そうではないように感じます。

ただ、靖國神社のホームページで、「護國神社」の存在を知りました。
護國神社とは、郷土の出身者またはゆかりのある方々で、戦場に赴かれ亡くなった軍人・軍属・勤労動員で亡くなられた一般市民の方々など、国家のために尊い命を捧げられた戦没者の御霊を御祭神としてお祀りする神社です。

基本的に道府県に1社(東京都と神奈川県にはありません)、全国に52社ありますので、地方に行くと必ず護國神社を参拝することが習慣となりました。
この習慣は、子供の頃から靖國で拝読していた書簡に起因していることは間違いないと思います。

これまでに参拝させていただいたのは、埼玉、千葉、廣島、栃木、京都、山梨、石川、茨城、宮城、静岡、福岡、愛知、群馬、新潟、奈良の16社(参拝順)。
52分の16ですから、まだ三分の一にも届きません。

私にとって靖國神社や全国の護國神社は、祖国を守り家族を守ろうと戦い続けた多くのご英霊に感謝を伝える場所であり、恒久平和を祈る場所です。
戦争を美化したり、責任追及する場ではありません。

作家でジャーナリストの門田隆将氏の著作で、大正生まれの男子は、7人に1人が戦死していると知りました。
私の敬愛する母方の伯父は、何度も出征しましたが、九死に一生を得て生還した大正生まれの1人です。
しかし、99歳で亡くなるまで、家族にも戦争の話はほとんどしなかったそうです。

ただ、「戦地でいろんなことがあったから、オレは晩年、幸せになれないと思う」とくぐもった声で言ったことがあると、母が教えてくれました。
伯父は、生きるか死ぬかの極限状態を何度も生き抜いてきたのでしょう。
その心中は、私には察することすらできません。

ところで、79回目の終戦記念日を迎えるにあたり、ネットで意外なニュースを目にしました。
パリ五輪を終えて帰国した卓球日本代表の早田ひな選手が、報道陣の質問に対してこんなコメントをしたそうです。

福岡・北九州市出身の早田には、パリ五輪が終わり同じ九州地方で行きたい場所があるという。「行きたいところの一つは(福岡の)アンパンマンミュージアム。あとは鹿児島の特攻資料館(知覧特攻平和会館)に行きたい。生きていること、卓球ができているのは当たり前じゃないのを感じたい」と意外な場所を口にした。

早田選手は弱冠24歳。
一流のアスリートであり、人間としても秀逸な早田選手には、唯々感心しました。

先述の門田隆将氏も、「故やなせたかし氏も、知覧の亡き特攻兵たちも、きっと驚き、そして喜んでいるだろう。有難う、早田さん」とSNSでつづりました。

明日は、私も現在の平和の礎について思量する機会にしたいと思っています。

234 一天四海

先週は、水曜日から金曜日までの3日間、ほぼ終日撮影の立ち合いでした。
初日のお昼頃に屋外で撮った集合写真は、撮影時間は10分ほどでしたが、準備のために1時間以上炎天下にいたので、終わったあと少しフラっしました。
立ち位置を決めたり、試し撮りのためのモデルになったり、カメラマンの助手を務めただけでフラフラするのですから、この暑さは異常としか言いようがありません。

特に、真夏のスポーツは危険と言わざるを得ません。

象徴的なのが、甲子園球場で行われる高校野球でしょうか。
生徒たちの健康面を心配する声が上がってから久しいですが、今年の大会は、暑さ対策の一環として、8月7日から9日の3日間の日程で「午前の部」と「夕方の部」の2部制が導入されるそうです。

大会第1日の8月7日は、午前8時半からの開会式後、午前10時から第1試合を開始。
夕方の部として、第2試合を午後4時、第3試合を午後6時半から行い、8月8日と9日の第1試合は午前8時、第2試合は午前10時35分、第3試合は午後5時に試合開始予定とのことです。

ナイトゲームになる可能性もありそうなスケジュールですが、学生の健康を一番に考えて改革を進めて欲しいと切に思います。

また、今、オリンピックが開催されているフランスの気温を日本気象協会のホームページで調べてみると、日本時間7月28日のパリの最高気温は23℃、最低気温は14℃。
向こう1週間の予報を見ても、パリの最高気温は最も高い日で29℃でしたから、東京に比べれば暑さの面では好条件かも知れません。

ただ、サッカーが行われるボルドーでは、29日の予想最高気温が42℃、30日は39℃とのことですので、油断なりませんね・・。

さて、撮影の話に戻ります。
7月27日(土)に、東京大学の生態調和農学機構(東大農場)で観蓮会が開催されると、1ヶ月ほど前にセガレが教えてくれました。
一般公開されるのは、この1日だけ。
撮影続きだった流れそのままに、カメラを持参し、早起きして行ってまいりました。

開園時間は朝7時。
田無駅から10分ほど歩いただけで汗びっしょりになりながら、7時15分頃到着しましたが、すでに大勢の人が観賞に訪れていました。

300種類以上の花ハスが栽培されている中で、私が注目していたのは「大賀蓮(おおがはす)」。
ハス見本園のホームページでは以下のように紹介されています。

大賀蓮は1951(昭和26)年に大賀一郎博士を中心に、千葉市旧検見川町にあった東京大学厚生農場(現 検見川総合運動場)の地下の青泥層より発掘したハスの果実(種子)を発芽・開花させて得られた系統です。発掘された果実は、2000年以上も地下にあったと推定され、古代蓮と称されています。また、植物の生命力の象徴ともみなされて、発掘から半世紀以上を経た今日においてもなお人気を博し、全国各地で栽培されています。ちなみに、発掘されたハスの果実は3粒、最初の1粒を見つけたのは発掘に協力していた千葉市立第七中学校(現 花園中学校)の女子生徒、うち発芽したのは1粒だけだったようです。

2,000年以上地中にあった種子を発芽させたなんてロマンがありますね。
実物はピンク色のかわいらしい花でした。

大賀蓮

また、ピンクが印象的だった「紅万々」も魅力的でした。
ややハスの概念を覆すようなキレイなピンクでした。

紅万々

ここ、東京大学大学院農学生命科学研究科附属生態調和農学機構ハス見本園(正式名称はこんなに長いのです)では、実に多くの品種が観賞できます。
事前にネットで調べていた品種を見ようにも、どこにあるのか探すのが大変かと思いきや、入口でいただいたパンフレットに植栽図が印刷されていました。
これはとても有益でした(現地でポケットに入れていたため、しわくちゃですが・・)。

なお、今回のタイトル「一天四海」は、この日、私が一番キレイだなと思った品種です。
四文字熟語ではありません、あしからず。

一天四海:花弁はやや幅広で大きく、花色は白の地色に薄紅色が斑状に現れる。斑の位置は不規則で花弁の表裏で異なる。葉面はざらつく。花経は25〜28cm。花弁は15〜19枚の一重咲き。花期は7月上旬〜9月上旬。(東京大学大学院農学生命科学研究科附属生態調和農学機構ハス見本園 2024年パンフレットより転載)

233 現状打破

小学校からの親友・Kくんは、学年で一番足が速く、運動神経が抜群でした。

中学生のとき、Kくんを含む7〜8人で、深夜に公園で集まっていたらお巡りさんに咎められました。
タバコは所持していませんでした(と思います)が、その場の流れで、蜘蛛の巣を散らすように一斉に逃げました。
運良く全員逃げ切れましたが、中でもKくんは息を切らすこともなく、何事も無かったように涼しい顔をしていました。

そんなKくんと私は、若い頃から同じ悩みを抱えていました。
お互いおでこが広く、髪の毛のボリュームが少ないタイプだったので、「オレたち若くしてツルッといっちゃうのかね・・」「50歳くらいまでは頑張りたいよね・・」と10代の頃からハゲましあってきました。

そんな中、20代後半のとき、私は仕事で化粧品会社の女性社長と親しくなりました。
若ハゲを気にしていた私に、その社長はストレートにこう言いました。

市販のシャンプーにはね、界面活性剤っていう水と油が混ざっちゃう成分が入ってるの。
天然成分で出来ている石けんシャンプーにしないと、40歳頃にはツルツルになっちゃうよ!

単純な私は、その日の夜から石けんシャンプーに切り替えました。
以来35年ほどが経ち、おでこは相変わらず広いままですが、薄毛という点では「どうにか持ちこたえた」のではないかと思います。
年齢相応を維持できたのは石けんシャンプーのお陰だと、あの日の社長の一言にすごーく感謝しています。

50歳代の半ば頃、Kくんと「勝利宣言」をしました。
「どうにか持ちこたえた」髪を見合って、「このトシでこのくらいなら十分だよね!」と喜び合ったのです。

因みにそのKくん、今は髪が真っ白です。
数年前に、白髪を染めないことに決めたのです。

Kくんは元々イケメンでしたので、今、正にハクハツのイケオジです。
真っ白なオールバック姿で、お孫ちゃんと遊んでいるようです。

勝利宣言をした頃から、私も白髪が徐々に増えてきました。
抜け落ちてしまうことを考えたら、白髪染めなんて苦じゃないや、と最初の頃は思っていましたが、風呂場で2日に1回程度染めなければならない現実が、そこそこ面倒になってきました。

今年の春頃、行きつけの美容院に行ったとき、「試しに前だけ染めてあげようか」とのお言葉に甘え、人生初の白髪染めを経験しました。
地肌が黒くならない特殊なクリームを塗って、耳にはビニールのキャップのようなものをはめ、白髪染めが始まりました。

短髪ですし、染めるのは生え際だけですから、さほど時間も掛かりませんでしたが、その出来栄えは感動モノでした。
自分で染めたときとは雲泥の差、生え際が隙間なく黒々となりました。

以来、美容院に行くたびに生え際を染めていただいていましたが、今回は生え際だけでなく、髪の毛全体を染めてくれました。

帰宅して鏡を見てびっくり。
白髪がまったくありません。

「見て見て、白髪が1本もなくなったよ!!」

「あら、ホントだ。ずいぶん印象が変わるね〜!」

カミさんもその変貌ぶりに驚いていました。

「こんなに黒々とした髪なら、まだまだオレもひと勝負できるな!(何の勝負だ)
どこ行くかな・・、銀座か? 六本木か?」

「巣鴨のとげぬき地蔵がいいんじゃない?」

おいおい・・。

232 力戦奮闘

小さい頃、朝になると読売新聞と報知新聞がセットで届きました。
何故スポーツ新聞を取っていたのか確認したことはありませんが、おそらく父が野球好きだったからではないかと思います。

野球のシーズン中は、夜は巨人戦をテレビ観戦し、翌日の朝刊でその試合の記事を読むのが日課でした。
物心ついた頃から毎日読んでしましたから、自分の名前の次に書いた漢字は「報知新聞」だったと記憶しています。

母もある程度は野球に興味がありましたが、姉は全く関心が無かったので、野球は一般的に女性には人気がないものと思っていました。
ところが、嫁にした女性は、巨人の大ファンでした。
いい意味で予想が外れ、夫婦で同じ趣味を持てたのは幸運でした。

そもそも野球の話題は巨人に関することが大半でしたが、近年、様相が変わってきました。
大谷翔平選手の影響で、メジャーリーグへの感心が急激に強くなってきたのです。

毎晩、YouTubeのSpotvでメジャーリーグの試合のダイジェストを観るのが習慣となりました。
リビングの一角にあるホワイトボードには、メジャーリーグ全30チームの一覧を手書きしました。
ドジャースの選手の名前と顔もずいぶん覚えました。

先日Spotvを観ながら「オレが行った球場もここなのかな・・」と独り言のように言うと「父さん、ドジャースタジアム行ったことあるのぉぉぉ!」と素っ頓狂な声でカミさんに驚かれました。

大学3年生の夏、ロサンゼルスで3週間のホームステイを経験しました。
その時お世話になっていたホストファミリーが、ドジャースタジアムへ野球観戦に連れていってくれたのです。

対戦チームは忘れてしまいましたが、ドジャースの先発投手は当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったバレンズエラでした。
残したメモによると、初回にソロホームランを喫して、そのまま1対0で試合は終わったようです。
1982年9月4日、今から42年近くも前のことになります。
(写真の左下で、落ち着かない表情をしているのが私です)

野球と言えば、先日、エスコンフィールドへ行く機会がありました。
日本ハムファイターズが、昨年から本拠地にしている新しい球場です。

北海道に行くことはずいぶん前から決まっていましたが、その期間中にエスコンでプロ野球交流戦が行われ、その相手が巨人であると知った幹事さんが、サプライズでチケットを確保してくれたのです。

球場に足を踏み入れた瞬間、「日本じゃないみたいだ!」と思いました。
左右非対称な構造はメジャーリーグでは珍しくないものの、東京ドームに慣れている私には、とても新鮮でした。
新しい施設に感動しただけでなく、試合も巨人が勝利を収め、幹事さんには感謝感謝です。

また、球場内には、これでもかと飲食店が入っています。
ラーメンだけでも8店舗、そのほか寿司、お好み焼き、餃子、焼き鳥、ホットドッグ等々、どこで何を買おうか、ゼッタイに迷うと思います。

ひとつ進言するならば、試合が始まってから買いに行くのが良いと思います。

試合開始1時間ほど前から、どの店も異常なほど行列ができます。
私はラーメンに15分、モツ煮に30分、並びました。

ところが、試合が始まると多くの人は座席に戻るので、このタイミングで買い物に向かうのが得策だと思います。

因みに、私はラーメンとモツ煮のほか、ホットドッグ、焼き鳥、冷やし汁粉などなど、しこたま食べましたが、1番のオススメは、このパン(コロネ)です。
甘党でパン好きの私には、どストライクでした。

231 兎走烏飛

私の母校・横浜国立大学では、文化祭が年に2度開催されます。
春に行われる文化祭は「清陵祭」、秋は「常盤祭」と呼ばれています。
今年の清陵祭は、5月18日・19日に開催されました。

大学を卒業して今春で丸40年。
だから、という訳ではないのですが、何故か母校の文化祭へ行ってみたくなりました。
しかし、どうしても予定がつかなかったため、昨日、土曜日のひっそりとしたキャンパスへ足を運びました。

新たな最寄り駅となった「羽沢横浜国大駅」で降りると、駅ナカにこんなディスプレイがありました。

大学が駅名になっているだけのことはあるな、と少し嬉しい気持ちになりました。
ディスプレイの左側、スマホのバッテリーレンタルマシンも、学生を意識して設置されたのでしょう。

駅から大学までは約15分。
GoogleMapの案内に従って歩いていると、こんな看板を見つけました。

「よここく」という略称を耳にすることがありますが、学生自身も地元の方も「こくだい」とか「こくだいせい」と呼んでいました。
この看板は、今もそう呼ばれていることの証拠ですね。
変わらないということに喜びを感じます。

なお、この新駅は大学の北西に位置していますので、駅から最も近い大学の入口は北門になります。
北門は、工学部(現在は理工学部という名称ですが私には馴染みがなく・・)の裏側にあり、現役のときは利用したことがありません。
ここから(私の所属していた)経営学部までは、歩いて10分近く掛かるはずだな・・と思いつつ、慣れない門から入った40年ぶりのキャンパスは、まるで異国のようでした。

監視カメラに不穏な動きが残ったなと思いながらウロウロしていると、野音の脇に出てきました。
文化祭でシーナ&ザ・ロケッツがコンサートを行ったあの野音です(知らんね・・)。
その瞬間、忽然と意識が40年前に戻りました。

思い起こすと、大学4年間は堪らなく楽しい時間でした。

当時の仲間とは、麻雀、パチンコ、ボウリングとよく遊びました。
ゼミの先生も、成績の悪い私の面倒をよく見てくださいました。
1か月という短期間でしたが、2度海外に行く機会に恵まれました。
はじめて彼女ができて、色気付いたりもしました。

まさに青春でした。

ただ、勉強はもっとしておくべきでした。
これだけは、悔やまれます・・。

はるか昔に思いを馳せながら、好天に恵まれ、心地よい時間を過ごしました。
新設された学部の校舎の存在に驚き、学内を路線バスが走っていることに面喰らい、ゲバ文字の立て看板がひとつもないことに些か寂しさを覚え、国道から正門へのウッドデッキには時代の流れを感じました。

第一食堂の裏の鬱蒼としたエリアでは、巣があったのか、予期せずカラスの攻撃に遭っておったまげました。

大学4年間で、50泊(ひょっとしたら100泊?)以上過ごした親友S君の下宿の今も確認したかったのですが、弱まる足腰が限界となり諦めました。

因みに「下宿生という言葉は完全に死語、ひとり暮らし!」とセガレに教えられました。
ああ、そうですか・・。

230 拳拳服膺

先日、階段を踏み外し、お尻からダダッと2〜3段転げ落ちました。

お客さんとの打ち合わせのあと6階のエレベーターホールまで見送っていただき、エレベーターに乗ろうとしたところ、タイミング悪くドアが閉まってしまったので、「階段で帰ります!」と元気に答えた20秒後のことでした。

とっさに右手で支えようとしましたが、カバンを持っていたため肘しか使えず、体勢を立て直したときは、右肘の痛みに顔を歪めました。
とはいえ、お尻を強打した感覚はなく、右肘以外に痛みを感じる箇所はありませんでしたので、転げ落ちた割りには軽症で済んだなと感じていました。

ところが、夜になると、肩、首、右の脇腹が痛くなってきました。
転んだ瞬間、あちこちに妙な力が入ったのでしょうか。
しばらくは、寝る体勢を決めるのにも、痛みのために苦労しました。

その4日後、お客さんのゴルフコンペがありました。
プレイに影響がないか、前日素振りをしてみましたが、痛みは感じませんでしたので、安心してコンペに臨みました。

ところが、スタートホールのティーショットで、右脇腹に強烈な痛みが走りました。
コースに行くと力んでしまい、素振りのようにスイングが出来ない、素人ゴルファーの典型です。

どうにか完走できましたが、痛みでうずくまる時もありましたので、一緒にラウンドした方には大変ご迷惑をお掛けしてしまいました・・。
また、スコアがいつもと大して変わらないというのも不思議ではありました・・。

話は変わりますが、若い頃からお世話になっているドクターがいます。
救急医学を専門とする、とても著名な先生です。
元々は父が仕事でお世話になっていましたが、私が30代の頃から「もうオヤジの時代じゃない、セガレをよこせ」と私を使って下さる、ありがたい先生です。
80歳を超えた今も現役でご活躍されており、所属が変わっても報告書の仕事などを私にご用命くださいます。

「オヤジは元気か??」
お目に掛かると先生は必ずこうおっしゃいます。

「はい、90歳を過ぎましたが、電車でほぼ毎日会社に来ております」

「それはスゴイ、100までいくな。転ばないように気をつけてと、伝えてな」

先生から何度となく「転ばないように」という父へのアドバイスをいただきました。
救急医学の権威がおっしゃる「転ぶな」のお言葉は、説得力絶大です。

90過ぎの父が転ばぬようにご心配いただいたにもかかわらず、息子の私が転んでる場合ではありません。
先生のアドバイスを、今後は私も十分注意しなければいけません。

ところで、この先生にまつわる忘れられない思い出があります。

打ち合わせに来ていただきたいのですが・・、と秘書さんから電話があり、早速出向きました。
ひと通り説明を受けたところで、

「忙しいところ悪いが、金曜日の夕方に厚労省の担当者に渡したいんだ。間に合うか?」

金曜日って明後日か??
あちゃ〜・・・・
いくらなんでも無理だな・・・・

心の中でそうつぶやきながら、こう答えました。

「はい、頑張ります!!」

これまで先生からの依頼に首を横に振った記憶がありません。
どんなに無理な依頼であっても、お役に立ちたい! と思わせる不思議な力を持った先生なのです。

特急でデータを作って印刷し、製本所の協力もあおいで、指定の日時に納品に伺いました。

「先生、今回ばかりはなかなか厳しい納期でしたが頑張りました。ちょっとでいいので誉めていただきたいです!笑」

と申し上げると、先生は何かボソボソつぶやきながらお財布を取り出し・・・・、

「これ、お年玉だ」

と、やおら一万円札を机に置きました。

「いやいや、滅相もないことでございます(汗)。口幅ったいことを申し上げてお詫びいたします・・」

「違う違う、まだ1月だし、オレがお年玉をあげるってだめか??」

先生は笑いながらお札を差し出され、結局、私は深々と頭を下げて頂戴いたしました。

その光景をニコニコしながら見つめていた秘書さんにもお礼を申し上げて部屋をあとにすると、遠くから「ありがとう!」という先生の声が聞こえてきました。

社に戻って父に報告すると、「納品した業者がお小遣いをもらうなんて、聞いたことないな、嬉しい話だな」と喜んでいました。

その一万円札は、きちんと2つに折って、ずっと財布に入れています。
私にとって、かけがえのないお守りです。