学校」カテゴリーアーカイブ

228 呉下阿蒙

ずいぶん前のことですが、「夫・元木大介はカレーが食べられない」という記事をネットで見つけました。

元木さんといえば、上宮高校から読売ジャイアンツ入団し、あの長嶋さんから「くせ者」と呼ばれた、誰もが知る元プロ野球選手です。

カレーが食べられない人っているんだ・・・・と思いながら、奥さんの大神いずみさんが書いた記事を読み進めていくと、どうやらその原因は、野球の合宿にあるようです。

中学のころの夏の合宿で、暑い中いつもよりしんどい練習が何日か続き、水も自由に飲めなかった時代。 ある日の昼食にカレーが出て、制限時間内にかき込んで、また暑い中練習に戻った時…とうとう暑さとキツさで戻してしまったらしい。 それ以来、それまで大好きだったカレーが、全く食べられなくなってしまったのではないかというのだ。 もう35年以上むかしの話だが、これぞトラウマ、という話。 そして今も夫は、我が家のカレーが食べられない。勿体無い。そして、何だか気の毒でもある。

私は高校時代バドミントン部に所属していましたが、真夏でも窓を閉じ、カーテンも閉めた体育館内で激しい練習を行い、水は飲んではならぬという練習を繰り返していました。
今では禁じられている、うさぎ飛びやおんぶ走りも日常的トレーニングでした。
大きな事故なく過ごせましたので笑い話と化しましたが、私が若い頃は、今となっては信じられないような指導がたくさんありました。

中学生のときの出来事がきっかけで、カレーライスが嫌いになってしまった元木さんは不運としか言いようがありませんが、実は、私もカレーライスがあまり好きではなく、もう何年も食べていません。

決して味が苦手なわけではありません。
ナンカレーは、どちらかと言えば好きな食べ物の範疇です。

積極的に食べない理由は、カレーライスを食べるとお腹を下してしまうからです・・。

その原因は、はっきりしています。
早食いです。

基本的に早食いの私は、カレーライスを食べるとき、いつにも増してご飯を噛まずに飲み込んでしまいます。
すると、元々胃腸が丈夫な質ではないので、必然的に下痢をする、という図式です・・。

ナンはパンのようなものですから、ある程度噛まないと飲み込めませんのでセーフです。
カレーライスがアウトなのです。

とろろご飯は、さらにいけません・・。
噛んでも噛んでも細かくもならず、柔らかくもならないとろろは、いつの間にかご飯と一緒に胃袋へ流れていきます。
ですから、私はとろろとご飯を、別々に食べることにしています。

「噛めよ!」

以前知人に話したら、一喝されました。
その通りです。
良く噛めば済むことです。
しかし、若い頃からの早食いは、そう簡単には直りません・・。

早食いは、肥満の原因にもなりますので、改善しなければなりません。
ネットには様々な改善策が掲載されていましたが、「食事の途中で何度か箸を置く」のは、自分にも出来そうな気がします。
お箸を一旦手から離すことで、次から次へと口に食事を運ばなくなりますので、効果が期待できそうです。

先日、洋食屋でランチを食べたときのこと。
テーブルに着くと、「春の和風オムレツライス」というメニューが目に入りました。
普段「和風オムレツライス」として提供しているものに、菜の花やハマグリを加えて、春らしくした季節限定メニューだそうです。
ほかのメニューはさほど見ずに、注文いたしました。
春らしい見栄えで、美味しそうだとは思いませんか!

しかし、食事が運ばれてきた瞬間、「やってしまった・・」と悔やみました。
オムレツの上に、たっぷりと「餡」がかかっています。
これは、私にとって「よく噛めないパターン」です。

そして、スプーンですくってさらにがっくり・・。
消化が良くない(と言われている)五穀米ではありませんか・・。

意を決して(大げさですが)ゆっくり食べることに専念しました。
途中で、箸ならぬスプーンを何度も置きました。
行儀が悪いと知りつつ、途中でスマホを見たりしながら、時間をかけて食べました。

その結果は・・、
お腹を下すことはありませんでした。
そして、食後まもなく満腹感を感じました。

「よく噛んで食べる」
いい加減に実践しなくてはいけませんね。

225 一竜一猪

先日、Yahoo!ニュースで「第1志望に「3分の2が不合格」中学受験の現実」という記事を見つけました。
葵さん(仮名)が経験したことを元に構成されたこの記事の一部を、以下に紹介します。

C校に入学して間もない4月上旬。葵さんが驚いたことがあった。男性の担任教員が「この中で第1志望じゃなかった子は?」と聞くと、クラスの大半の生徒が手を挙げた。「じゃあ第1志望だった子は?」。手を挙げたのは数人だった。「そうだよね、第1志望の子もいれば、そうじゃない子もいるよね」と担任は言った。

「私だけじゃないんだ」。葵さんは自分と同じ境遇の子が多いことにほっとした。同級生と互いの受験をオープンに話すことで、気持ちがほぐれ、友達が増えていった。そして学校が好きになった。

この記事を読んで、昔の思い出がよみがえりました。

以前にも紹介した私の中学受験は、学校の担任からは「合格するわけないからやめなさい」、塾の先生からは「合格しちゃうからよしなさい」と相反するご意見をいただき、結果は不合格。

「ほらね」と言わんばかりの学校の担任。
「悔しいだろうが喜べ。12歳で大学を決める必要はない!」と難しいことをおっしゃる塾長。

受験失敗という挫折感はわずか数日で消え、小学校の仲間と一緒に通った地元の公立中学は、楽しい3年間でした。

そして、迎えた高校受験。
思うように成績が伸びなかった私は、大学の付属校を受験対象から排除することにしました。
小学校6年生のときに学習塾の先生からいただいた言葉を思い出し、3年後、大学受験でもう一度勝負しようと決めたのです。

東京都にまだ学校群制度が存在した当時、私の第1志望は「41群」でした。
しかし、あまりにも内申点が低く、あえなく撃沈。
自身の第2志望だった、私立城北高等学校へ進学しました。

当時の城北高校は、1学年に750人ほど在籍していたマンモス校でしたので、それはそれはバラエティに富んだ生徒がいました。

その1人が、1年生のとき同じクラスだったS君。
入学当初からどことなく元気がなく、ねじ曲がって、ひねくれたような雰囲気を醸し出していました。
どうやら、有名県立高校合格間違いなし! と言われていたにも関わらず、運悪く失敗したそうで、「オレはこんな学校に来るつもりじゃなかったんだ」という気持ちが、入学当初、顕著に表れていたのでしょう。
その後、卒業まで同じクラスになることはありませんでしたが、決していい噂は耳にしませんでした。

もう1人印象的だったのはW君。
当時、城北高校の文系コースには、早稲田大学への推薦枠が1つだけありました。
文武両道、品行方正な生徒が毎年選ばれていましたが、我々の代では、W君とK君の一騎打ちとなりました。

W君はサッカー部、K君は体操部に所属し、各々運動部で活躍していました。
肝心の成績も、5段階評価でW君は平均4.9、K君は4.95と、どちらも非の打ちどころがありません。
W君は私立文系、K君は国立文系に所属していましたので、ここも評価対象になるのではないかなど、一時期、来る日も来る日も学校はこの話題で持ちきりでした。

結局、この激しい争いを制したのは、K君でした。

戦いに敗れたW君は、決して不満を口にすることなく、粛々と受験勉強を続けました。
普通に受験してもお前なら早稲田くらい楽勝だよ、と仲間に勇気づけられて臨んだ大学受験。
残念ながら志望校への合格は叶わず、明治大学への進学を決めたようでした。

「1浪して早稲田に行くべきだ」
「投げやりになっちゃだめだ」

人気者だったW君を心配する多くの仲間の声には耳を貸さず、明治大学へ進学したW君は、大学3年生の時に公認会計士の資格を取得したと、風の噂で聞きました。

推薦入試で落胆を経験し、一般入試でも夢破れたものの、自ら選んだ大学で腐ることなく努力を重ねたのでしょう。
同級生でありながら、心から尊敬できるなと思ったものです。

私の大学受験はというと、不合格の通知を重ね、入学を決めたのは第6志望の学校でした。
そして、入学金に加えて1年次の授業料も支払ったあと、第1志望の大学から補欠合格の報せを受けました。

仮に私が第6志望の大学へ進んでいたなら、W君のように努力することができただろうか・・。
補欠合格の電話を受けた際の感動や高ぶりを、大学生活に反映できただろうか・・。
受験は決してゴールではないな、と今更ながら感じます。

一竜一猪。
努力して学ぶ人と、怠けて学ばない人との間には大きな賢愚の差ができるということ。

セガレよ、まだまだこれからが勝負なのだぞ。

213 総角之好

昨日、小学校時代の友人5人で集まりました。
転校生の私は2年短くなりますが、かれこれ55年近くの付き合いになります。

正に、総角之好(そうかくのよしみ)。
小さい子どもの時分からの長く親しい交際です。
こんなにも長い間、友であり続けることは奇跡とも言えますし、有難いことです。

これまでの会合は居酒屋を本拠地としてきましたが、今回はフランス料理店に舞台を移し、アラカルトをいただきました。
年齢とともに呑む量が減ってきており、飲み放題とは縁遠くなってきました。

ときに、ずいぶん昔のことですが「長い間、友人関係を継続できる要因」について特集した雑誌を読んだことがあります。
誤っている部分があるかも知れませんが、粗々以下のような内容であったと思います。

①自然体でいられる
②連絡を絶やさない
③干渉しすぎない
④馬が合う
⑤共通点がある

早速、我々に当て嵌めてみたいと思います。

まず、小学校時分からの知り合いですから、超自然体です。
親や兄弟のことなど細かいことまで周知の間柄ですから、今さら格好の付けようがありません。

連絡という点では、年賀状でずっとつながってきましたし、反面、干渉し過ぎることはこれまで全くありませんでした。

また、ちょっとお下品な話になると殊のほか盛り上がるところは、馬が合うと言えます。

ただ、共通点という要因には、課題が残ります・・。

小学校の同級生である我々は、中学受験に失敗した私を含め、地元の同じ区立中学に進学しましたが、その後の人生はバラエティに富んでいます。

女子なのに黒いランドセルを背負っていた☆☆江ちゃんは、美容師となり、20代前半に結婚。
早くもお孫ちゃんが4人います。
近年転ぶことが多く、整形外科外来の常連です。

☆☆子ちゃんは、バブル期を謳歌した典型的な元都会派OL。
コロナ前までは頻繁に海外を旅していましたが、近年、両足に人工股関節手術を受けました。
昨年会ったときに比べて回復が進んでいたので安心しましたが、5年以内に同様の手術をすると医師に宣告されている私にとっては、戦友のような思いです。

☆☆代ちゃんは、バッテンを2つ保持するかっこいい女性。
若い頃は実家に上がり込み、☆☆代ちゃんの妹と3人でタバコの煙とコーヒーの香りを絶やさず、朝までよくしゃべり倒したものです。
また、お互いの母同士も、とても仲が良い間柄です

男性チームの相方である☆☆☆っちゃんは、若い頃から寝る間を惜しんで働く男でした。
数年前の早朝、会社で脳梗塞を発症したものの、運良くほとんど後遺症もなく復活しました。
若くして結婚し、2人の子供に恵まれたので、上の子は既に38歳、下の子も33歳。
最近は2歳のお孫ちゃんにもてあそばれているんだ、と嬉しそうに嘆いていました。

かくいう私は、セガレがまだ19歳。
孫どころか、教育費を必死に払っている状況です。

共通点は見出せなくても、幼なじみという強い絆で結ばれているのでしょう。
55年前の偶然の出会いを、これからも大切にしていきたいと思います。

小学生だった我々も、あっという間に61歳になりました。
楽しい時間が過ぎると、最後はこう言って別れます。

「じゃあね、元気でね。」

208 遊戯三昧

「友達が麻雀を教えてくれたんだけど、用語がなかなか覚えられないや」

福岡旅行から戻ったセガレが突然言い出しました。
その友人は、中学高校の同級生で、学部は違いますが同じ大学に通っています。
聞けば、その友人のクラスでは、麻雀が静かなブームなのだそうです。

若者の麻雀離れが指摘されて、随分経つように思います。
1つの理由として、若者の行動体系が大きく変わったことが挙げられます。
彼女なんて要らないという、私が若い頃には(いや、このトシになっても)理解できない草食男子にとって、4人揃わないと始まらない麻雀は、敷居が高くなって当然と言えるでしょう。

2つめに、金品を賭ける、タバコを吸う、酒も飲む、徹夜もしちゃう麻雀は、イマドキの遊びではないのかも知れません。

私が麻雀を覚えたのは、高校2年生のときでした。
たちまちその奥深さにハマり、「世の中にはこんなに楽しい遊びがあるのか!」とさえ思いました。
多彩な役にも魅力を感じましたが、符の計算が算数のドリルのように楽しくて引き寄せられました。

高校生の時に通った池袋の「平和」という雀荘は、1時間80円でした。
お茶の1杯すら出ませんでしたが、麻雀ができればそれで良かった高校生にはうってつけの場所でした。

大学生になってからは、高田馬場の「西武」に本拠地を移しました。
刺激的な辛さのカレーライスが有名で、眠くなってきた頃に食べると、アタマの芯から汗が出て、覚醒したものでした。

私にとって麻雀は、間違いなく青春の1ページです。

さて、前回のバリカン丸坊主に続いて、高校生活ネタをもう1つ。

私の高校では、日直がクラス日誌を書くことになっていました。
といっても、その日の天気や欠席者など、他愛もないことを書けばよいのです。
そして、その日誌は、担任が手の空いたときに教室で読むことが習慣になっていました。

高校2年生の秋。
日直だった私は、来る日も来る日も同じような内容ばかりでつまらないな・・と思い、何を血迷ったか、日誌に麻雀ネタを書くことにしました。

南3局 西家 持ち点43,000点 トップ
5巡目にリャンソー自摸 何を切るか

こんな感じの「何切る問題」を書きました。

翌日、次の当番に日誌を渡すと、「山田がこんなこと書いてるぞ!」と暴かれました。
そして、私の書いた日誌の内容は、一気にクラス中に行き渡りました。

「このまま出すのか?」
「シャレじゃ済まないぞ」
「自爆だろ!?」

皆にそう言われましたが、せっかく書いた日誌を消すつもりは毛頭ありませんでした。

そして、ある日、本来予定されていた授業が何らかの事情で休講となりました。
こういう場合、担任の監督のもと、生徒は自習するというのが常でした。

各自目的を持って自習するように、と先生から指示が出ても、大半の生徒は上の空でした。
何故なら、教壇に鎮座した担任が、そこでクラス日誌を読むであろうことは、誰でも予想のつくことでした。
ほとんどの生徒は教科書を見ているふりをしながら、担任の動きを目で追っていました。

担任はサトウ先生。
気難しいことで名高い、中年の男性教師でした。

そんなとき、教師の表情が明らかに変わりました。
おそらく、私の書いたページに到達したのでしょう。

「山田、ちょっと来い」

ついにお呼びが掛かりました。
教室内が、急にざわつきました。
私も腹をくくってはいましたが、険しい表情で名指しされましたので、動揺は隠せませんでした。

「おい」
「な、なにか・・」

「お前な」
「あ、はい・・」

「これ、なに切るんだ?」
「え??」

「教えろ」
「はい。持ち点がトップなので平和ドラ1を闇聴で早上がりできるようにもっていくべきであり、であるならば、スーアン自摸による3面待ちを捨てても、油っこい中央付近のウーアン、ローアンを切るべきであると考えます」

「ふーん。なるほどな。戻れ」

昭和って、やっぱり良い時代だったんだなって思います。

207 一球入魂

第104回全国高校野球選手権が開幕しました。
3年ぶりに一般客がスタンドで観戦できることになりましたが、敗戦校が土を持ち帰ったり、勝者が大声で校歌を歌うことはNGだそうで、コロナの影響は未だ色濃く残っています。

大会初日の今日、甲子園地方の最高気温は32度でしたから、猛暑日にならなかったのは良かったと言えます。
ただ、近年の暑さは、昔とは別物と考えなければならないと思います。
ドーム球場で開催すれば、健康面での安全が確保されるのになあ、と思ったりします。
開会式でプラカードを持つ女子学生の親も、安心して送り出せるのではないでしょうか。

しかし、球児たちにとっては、夢の舞台が甲子園球場であることが、意義深いのかも知れません。
アメリカ横断ウルトラクイズ決勝の地がニューヨークでなくてはならないのと同じですね(違うか)。

そんな中、先月下旬、日本高野連は将来的に朝と夕の「2部制」での開催を含め、さまざまな観点から暑さ対策を検討すると発表しました。

これまでも専門の理学療法士を待機させたり、試合中に給水や休憩の時間を設けたりして対策を重ねてきたようですが、暑さ対策についてはより前向きに、そして迅速な対応が必要だと思います。

ところで、日本高校野球連盟の調査結果によると、2021年、同連盟に加盟する47都道府県の高校の硬式野球部の部員数は13万4,282人でした。
2001年は15万328人でしたから、10年間で1万5,000人以上減ったことになります。
また、中学軟式野球部は、もっと大幅に減少しているそうです。

子供たちの野球離れには、以下の複合的ファクターがあると考えられています。

  1. ボールの使用を禁止する公園が増えたこと
  2. YouTubeやeスポーツ市場の拡大によるゲーム人気の高まりなど、娯楽の選択肢が増えていること
  3. 経済的理由で子供の野球用具の購入費用が捻出できないこと

また、もう1つ、独特の要因があります。
「坊主頭」の文化です。

現在は、多くの学校が坊主頭を強制しているのではなく、「暗黙の了解」で坊主頭にしているのだそうです。
先輩が皆丸刈りならば、新入部員が坊主にするのは必然ですから、これを暗黙の了解というのでしょう。

しかし、最近は髪を伸ばした高校球児を見ることが増えたように思います。
中国新聞社が今年の広島県大会前に調べたところ、出場85校(83チーム)のうち、半数以上の46チームが髪形を選手個々の判断に委ねている一方、37チームが今でも全員丸刈りにしているとのこと。
徐々に変わりつつある、といった印象ですね。

2019年夏、45年ぶりに甲子園出場を果たした秋田中央高の佐藤監督(当時)の言葉が印象的でした。
この学校は2019年4月に、監督が坊主頭を見直すのはどうだろうと生徒に提案し、最終的に丸坊主をやめる決断を下しました。
その決断を受け、佐藤監督は部員たちにこう伝えたといいます。

「負けたら色々言われるよ。寝癖がついていればだらしないと思われる。自由というのは一番厳しいんだ。野球だけでなく、普段の身だしなみから自分で考えるべ。坊主頭のままでももちろんいい。でも髪型を考えることを放棄して坊主頭にするのはやめよう」

わがままに何をしてもいいのが自由ではなく、人に対して、そして、自分に責任を持つことが本来の自由であるという指導に感銘を受けました。

私は物心ついたときから野球が大好きでした。
しかし、私の通った東京都文京区の公立小学校にも中学校にも、野球部はありませんでした。
文京区は山手線の内側に位置していますから、野球ができるほどの広い校庭を望むのは所詮無理な話です。

一転、高校には広い土のグラウンドがありました。
もちろん野球部もありましたが、私は入部しませんでした。

坊主頭にするのがイヤだったからです・・。

ご多分に洩れず、我が母校の野球部員は全員丸坊主でした。
髪型が自由だったら、野球部に入部していたかも知れません。
坊主頭ルールが有能なプロ野球選手を1人失った、と言えるかも知れません(違うか)。

また、全く別の意味で、独特の丸刈りルールがありました。
それは、校則違反を犯した者は、懲罰として丸坊主にされるというものです。

丸刈り担当は、ごつくて強面の体教(体育教員の略)でした。

「この間、電動バリカン買ったからな。ガンガン坊主にするぞー!」
ある日の朝礼で、体教が不吉な笑いを浮かべていました。

昨日まで髪の毛フサフサだった友人が、ある朝突然、坊主頭になって登校してくるなんて姿を何度も見ました。
その理由は多様です。

「昼ドキに学校抜け出そうと思ったら捕まった・・」
「パーマ掛けて、直さなかったらやられた・・」
「タバコ持ってるのバレた・・」

根本的な原因は生徒にあるので、当時の学生は不満に思ってはいませんでしたし、今思い返しても、指導の行き過ぎだとは感じません。

ある日、友人のK君が正門前で体教に確保されました。
1978年4月4日の午後でした。

「おい、具合でも悪いのか?それともほかに理由があるのか?」

万事休す・・。
しかし、K君は正々堂々、体教と対峙しました。

「先生、今日はキャンディーズの解散コンサートがあるんだ。今日が最後なんだ。明日、朝イチで体育教官室に行って、どんな処分も受ける。だから今日は行かせて欲しい」

屈強な体教を前に、そして、学校をサボるという立場にありながら、K君は胸を張って言いました。

結果、彼は後楽園球場で解散コンサートを見ることができました。
そして、何故か、電動バリカンの餌食にもなりませんでした。
直球勝負の心意気が先生を動かしたのか、あるいは、その体教もキャンディーズのファンだったのか、真相は闇の中です。

言った生徒も生徒なら、対応した教師も教師です。
昭和の良き風景を感じます。

206 九夏三伏

先日、高尾山口へ撮影に行きました。

新宿から京王線に乗ると「ベストシーズンは、春夏秋冬です。高尾山」という広告が目に入りました。
コピーライターって才能あるなあ・・と思いながら、車中は読書を楽しみました。

到着したのは午前11時少し前。
好天の週末でしたから、かなりの人出かと予想しましたが、ご覧の通り、ほとんど混雑はありませんでした。

ネットで調べてみると、紅葉の時期やゴールデンウイークには、ケーブルカーが90分もの乗車待ちになるそうです。

2007年、高尾山はミシュランガイドで星3つを獲得し、世界中の観光客が訪れるハイキング・トレッキングの名所になりました。

そして、2010年には「山ガール」という言葉が流行語大賞の候補に上がり、2016年には山の日が制定され、登山人気に拍車がかかりました。

さらに、コロナ禍にあって、登山やキャンプは感染リスクが低いアウトドアレジャーとして脚光を浴びています。

ここまで条件が揃っているのに空いていたのは、コロナの感染者急増により外出を控えた方が多かったのでしょうか・・。
それともインバウンドがいない影響なのでしょうか・・。
そもそも真夏は、登山客が少ないのでしょうか・・。

登山、キャンプ、釣り、カヌー、ヨット、シュノーケリングなどなど、アウトドアスポーツに全く縁がない私には分かりません。

撮影を終え、「髙橋家」というお蕎麦屋さんに入りました。
天保年間(1830~1843)に創業した老舗で、店内には樹齢150年余の柿の木がありました。
冷たいとろろ蕎麦は、暑くてバテ気味の胃袋にもするすると入っていきました。

考えてみると、この付近に来るのは、40年以上前のあの日以来だと思います・・。

高校3年生だった私は、大学受験がひと通り終わり、中央大学への入学が決まっていました。
入学金に加えて授業料も振り込み、(記憶が正しければ)1年D組19番というクラス分けと出席番号も知らされていました。

そんな時、横浜国立大学から補欠合格の一報が届きました。

中央大学の入学試験要項を確認すると、授業料支払い後に入学を辞退する場合は、大学の事務に退学届を提出すること、とありました。

そこで向かったのは、中央大学多摩キャンパス。

今は「中央大学明星大学駅」という、大学に直結したモノレールの駅がありますが、当時は高幡不動駅で動物園線に乗り換え、終点(次の駅)の多摩動物公園駅から10分ほど歩きました。
通学路の途中には、「マムシに注意」みたいな看板があった記憶もあります。

キャンパスに着いて事務室を訪ねると、スタッフが忙しいそうにしていて、私になかなか気付いてくれません・・。

そこで、「退学届を出しに来ました!」と声高に言うと、奥から女性スタッフが小走りにやってきました。

「お待たせしてすみません・・」と対応してくださる様子から、退学届という意味の大きさを感じた気がしました。
腫れ物にさわるような感じも少し伝わってきて、気恥ずかしい思いがしました。

一旦は入学を決意した大学ですから、正門を出る時、一礼しました。

「任意の寄付金、300,000円は慌てて払わなくて良かったかも。」
「退学届を出したってことは、中央大学中退、横浜国立大学卒業がゆくゆく私の正しい学歴になるのかな。」

駅に戻りながら、そんなことを考えたのを40年経った今も覚えています。

考えてみると、多摩動物公園駅と高尾山口駅は、さほど近くはないですね・・。
まむし云々の看板はもう見られないでしょうし、残念ながら多摩テックはなくなってしまいましたが、40年ぶりに訪ねてみたい気がします。

200 恪勤精励

先日、セガレの受験が終わりました。
お陰様で第一志望の大学に合格することができました。

受験にあたり、この2年間はコロナという厄介な敵がいました。
実力不足で不合格になるのであれば諦めがつきますが、受験の土俵に上がれなくなることだけはなんとしても避けたいと思っていました。
そして、共通テスト当日には、本郷の東京大学近くで物騒な事件もありました。

親としては、勉強以外に気を配らなければならないことも多く、多難な日々でした。

合格発表は3月10日正午。
当然私は仕事でしたが、発表の10分くらい前から、そわそわして落ち着かなくなりました。
そして、カミさんから「合格!」とのLINEが届いたときは、年甲斐もなく興奮してしまいました。

セガレが合格しただけでも十分幸せな気持ちでしたが、その後、仲良くしている学校の仲間も揃って国公立大学に合格したと知り、喜びが2倍にも3倍にもなりました。

幸運なことに中学受験も大学受験もセガレは夢を叶えることができたわけですが、自分を思い返してみると挫折だらけの受験人生でした。

最初に蹴躓いたのは中学受験。
特に教育熱心な両親だった訳ではありませんが、なんとなく周りの流れにのるかように中学受験に挑みました。

受けたのは、明治大学付属明治中学校。
当時は男子校で、御茶ノ水駅近くにありました。

小学校の担任からは、合格の見込みがないから「やめなさい」と言われました。
塾の先生からは、合格しちゃうから「やめなさい」と言われました。

塾の先生の真意は、この先頑張れば東大だって狙えるかも知れないのに、小学校6年生で大学を決めてしまっていいのか、というものでした。

要するに、小学校の担任とは反りが合わず、一方、塾の先生は私を実力以上に評価してくれていました。

当の本人は、「あー、学校帰りはこのロッテリアでハンバーガーでも食うか・・」という程度の意識でした。

そして、結果は不合格。
学校の担任からは「でしょ」なんて顔をされました。
塾の先生からは「ショックかもしれないけど喜べ」と12歳には理解不能な言葉を掛けられました。

3年後の高校受験。
内申点が低いにもかかわらず、地域で最上位の都立高校を受けさせてくれ、と担任の先生に直談判しました。
先生は難色を示しましたが、私立高校はある程度の幅をもって複数受験することを条件に認めてくれました。

この時、かつて塾の先生に掛けられた言葉を思い出しました。
「努力すれば東大だって狙えるんだ・・」

若いというか純粋というか単細胞というか、大学の付属校は受けない! と決めました。
結果は予想通り都立高校は撃沈し、私立城北高等学校に進学しました。

そして迎えた大学受験。
塾の先生がちらつかせた東大は程遠い目標となりましたが、国立大学を第一志望としました。
私立も6校受験しましたが、合格をいただいたのは第6志望と第7志望の大学でした。
少なからず傷心の日々を過ごしていたところ、補欠入学打診の電話があり、紆余曲折の末に第一志望の横浜国立大学への入学を叶えることができました。

高校一年生から大学受験に向けて本格的な通塾を始めたセガレに比べると、私の受験勉強なぞ遊んでいたようなものだと思います。

セガレにとっては、中学受験の時に通っていた塾も、最近まで通っていた大学受験の塾も、先生に恵まれ、厳しくも楽しく過ごせたようで幸せな限りです。

下は、塾へ合格の報告に行った際にいただいたお祝いグッズの1つです。
さもないペットボトルではありますが、合格者だけがいただけるので、価値あるお茶ですね。
そういえば、塾の数学の先生が、合格したらサイゼリヤ食べ放題に招待するぜ、と言っていたようですが、実現する気配はないですね・・。

さてさて、親としては、お金の工面もしなくてはなりません。
入学金をはじめ、入学式に着用するスーツやネクタイ、ワイシャツ、革靴。
また、通学用の洋服、パソコン、iPad、パスケース・・・・。
結構出費はかさみます。

40を過ぎてから授かった子供ですから仕方ないのですが、退職して悠々自適な生活は、私にはまだまだ先のようです。

2000年に始めたブログが今回で200回目となりました。
暇にまかせてくだらぬことを良くも書いてきたものだと思いますが、節目の回に、喜ばしい記事が書けたことをとても嬉しく思います。

193 面目一新

1974年、テレビドラマ「寺内貫太郎一家」が大ヒットしました。
このドラマを見ないで翌日学校に行くと、友達との会話に参加できないくらい、私の学校では皆こぞって見ていました。
それもそのはず、平均視聴率は31.3%だったそうです。

主役を演じたのは、作曲家の小林亜星さん。
ほかに出演していた俳優さんも、今もって鮮明に覚えています。

寺内貫太郎の奥さん役は加藤治子さん、長女で足に障害を持つ役柄を演じたのが梶芽衣子さん、そしてその弟役が西城秀樹さん。
貫太郎の母親役は悠木千帆(樹木希林)さんで、お手伝いさん役が浅田美代子さん。
石屋の職人役は、伴淳三郎さんと左とん平さんという喜劇役者の2人。
それから、由利徹さんは花屋の主人役、篠ヒロコさんは居酒屋の女将さんで、その店の謎めいた常連客役が横尾忠則さん。
そして、梶芽衣子さんの恋人役が藤竜也さんで、このときの藤さんは、子供ながらにスゲーカッコイイ人だなあと感じていました。

47年前に放映されたドラマですから、残念ながら多くの出演者がお亡くなりになりました。
主役を演じた小林亜星さんは、今年5月、88歳でご逝去されました。

なお、余談ですが、当時中学生だった私は、主役を演じている太っちょなオジさんが、著名な作曲家であることを知りませんでした。

亜星さんのプロフィールをネットで見ることができました。

逓信省(現総務省)官僚の父と、小劇場の女優だった母の間に生まれ、父方の祖父が医師だったため、父から「将来は医師になれ」と言われて育つ。
一方、幼少期から音楽が大好きでバンド活動も行っていたが、猛勉強して慶大医学部に進学。
しかし、入学後、父に内緒で経済学部に転部したことが卒業時にバレて勘当。
大学卒業後は日本製紙に就職したものの、約1カ月で退社。
その後は紙問屋を立ち上げて営んでいたものの、大好きな音楽の道に進むことを決断し、作曲家・服部正さんに師事。

慶応の医学部に合格したにも関わらず、音楽の道を選んだと知り、驚きました。
また、日本製紙に就職したこと、そして、紙問屋を興したことにまたまた驚きました。
亜星さんが紙問屋のままでいたら、寺内貫太郎一家はどうなっていたことか・・。

現実の話、東京都の紙商(紙問屋)は、全盛期170社以上ありましたが、現在は70社ほどに減っており、その数はもう少し減るだろうと予想されています。

そもそも、紙の生産量は2000年をピークに減少しており、2020年には減少幅が4割近くに達しました。
ペーパーレスの進行に、新型コロナが追い打ちをかけた格好です。

また、近年の特徴として、衛生用紙の生産量が新聞用紙に迫っています。
要するに、高齢者向けオムツの需要が増えて、新聞離れが進んでいるということです。
現代社会を真っ正面から映し出していますね。

広告ひとつ取っても、オンラインが中心となり紙に代表されるオフライン広告は衰退の一途です。
しかし、保存がしやすい、記憶に残りやすい、質感を感じることができるといった、紙ならではのメリットを心に秘め、紙文化の継承に微力を尽くしていきたい思いです。

天国の亜星さんも、きっと、紙業界の行く末を心配されていることかと思います。

192 知己朋友

先日閉幕した東京オリンピックでは、柔道やスケートボードのようにメダルを量産した種目があった一方、期待通りの結果を残すことができなかった種目もありました。
その代表格がバドミントンでしょう。

最大の番狂わせは、世界ランキング1位・桃田選手の一次リーグ敗退です。

その翌日、女子ダブルス世界ランキング2位のナガマツペアこと永原・松本ペアが、最終ゲームを26対28で失い、準々決勝敗退。
その数時間後、同1位のフクヒロペアこと福島・廣田ペアも釣られるように敗れました。
ベスト4に進出していたら、日本人ペア同士の対決だったのですが、その前の試合で共に敗れるという皮肉な結果となりました。

女子シングルスの奥原選手(同3位)、山口選手(同5位)も揃って準々決勝で姿を消しましたが、混合ダブルスのワタガシペア(渡辺・東野ペア・同5位)が銅メダルを獲得し、一矢報いることができました。

勝負は時の運とも言います。
必ずしも強い者が勝ち、弱い者が負けるとは限りません。

数々のトラブルに見舞われながら、オリンピックの舞台で戦った桃田選手の姿は王者そのものでしたし、フクヒロペアの廣田選手は膝に大怪我を負ったにも関わらず、不屈の精神で試合に臨みました。

日の丸を背負い、勝って当たり前という重圧は、私には計り知ることすらできません。
まずは、ゆっくり休んでいただきたいと思います。

かくいう私も、高校ではバドミントン部に所属していました。
といっても全国大会などとは無縁の実力で、最高位は東京都男子ダブルス新人戦でのベスト8です。

コンビを組んでいたのは、同級生のコバヤシ君。
入部してまもなくペアを組み、高3の夏まで一緒にプレイしました。

私は試合になると闘志を前面に出すタイプでしたが、コバヤシ君は飄々とプレイするタイプ。
得意なパターンは、ワタクシが前衛、コバヤシ君が後衛に回っての攻撃。
キレのあるスマッシュを連続で打ちまくるコバヤシ君と、甘いレシーブを見逃すまいと前衛で動き回るワタクシのコンビネーションが自慢でした。

コバヤシ・ヤマダのコバヤマペアは(そう呼ばれてはいませんでしたが)、シード権を持っていたので、2回戦から出場することが常でした。
しかし、2年生のとき、危うい対戦がありました。

試合直前、お互いコートで軽く打ち合うのですが、相手チームの放つショットが、どうひいき目に見ても我々より上だな、と感じました。
最初の試合で負けてしまうと、次の大会からはシード権を失うことになります。

真っ直ぐなコバヤシ君は、普段通り試合前練習を続けていました。
一方、不埒な私は、何か策はないかと頭を巡らせていました。

弱ったな、とシャトルを打ち合う相手のユニフォームを何気に見遣ったそのとき、私の中で電球がピカッと点灯しました。

私は2Fの応援席を眺め、一番気の利く後輩のアオキに向かって、すぐにコートへ降りるよう合図を送りました。
そして、コバヤシ君にちょっと待ってと声をかけ、駆け降りてきたアオキに知恵を授けました。

そろそろ試合開始の時間。
トスをしてサーブ権を決めていたそのとき、相手チームの主将に向けて本部席へ来るよう館内放送が流れました。
対戦相手のペアは怪訝な表情をしていましたが、そんなことは意に介さず、「頼むぜ、コバヤシ!」と檄を飛ばし、気合い十分を装いました。
そして、試合が始まってまもなく、再び館内放送が流れました。

「第☆コートの☆☆高校の選手は、大会規定のゼッケンを着けていないため、失格といたします。」

憮然とした面持ちの相手チーム。
落胆する応援席の女子部員。

キョトン顔のコバヤシ君。
笑いを隠すのに精一杯のワタシ。
2階席でガッツポーズする後輩アオキ。

部活を引退するまで、シード権はなんとか死守することができました。

卒業式の日、大学に行ってもバドミントンを続けると言っていたコバヤシ君。
大学では、まず彼女探しだと、邪な道を歩む宣言をした私。
40年以上疎遠になっていますが、還暦を迎えるにあたり、ぜひ会ってみたい1人です。

バドミントン部に関して、忘れられない思い出がもう1つあります。

入部してまもなく、学校で実力試験(校内模試)が実施され、ワタクシ、学年8位の成績を取りました。
そのニュースを知った2年生のウエノ先輩から声を掛けられ、2学期の試験結果も報告するよう命じられました。

迎えた2学期の実力試験。
私は順位を1つ上げ、学年7位となりました。
それを知ったウエノ先輩は、3年生のアオキ部長(ガッツポーズのアオキとは別人です)にこう報告したそうです。

「1年生の山田が2回続けて実力試験で好成績を上げました。ひょっとするとワタナベさん以上かも知れません。」

ワタナベさんは私より5〜6つ上の先輩で、現役で一橋大学に合格した、バドミントン部史上最強の秀才です。

「山田、ワタナベさんのことは知ってるな。期待しているから頑張れ。」
アオキ部長直々に呼び出され、そう発破を掛けられました。

私の通っていた高校は男子校で、1クラスがおよそ55人。
A組からN組までありましたから、1学年750人以上の生徒がいたことになります。
その中での7位です。
なかなか立派だと思いませんか。

そうこうしているうちに3学期の実力試験。
その結果は・・・・
110位。

ウエノ先輩から、コテンパンにしごかれました。
「お前のせいでオレまでアオキ部長に叱られたんだぞ、バカヤロー!」
だからまぐれだって言ったじゃん・・と思いながら、ホントは優しいウエノ先輩のしごきに耐えました。

ウエノ先輩は昨年還暦を迎えたんだなあ。
アオキ部長はさらに1つ上か・・。
先輩たちにも会ってみたいなと、還暦オヤジはノスタルジックになるのでした。

188 真剣勝負

セガレが通う学校は中高一貫の男子校です。
毎年5月中旬には体育祭が行われ、白、赤、青、黄の4つの組に分かれて競います。

この色は入学時に言い渡され、卒業まで、いや、極端な言い方をすれば、一生「自分の色」になります。

学校全体を縦割りにし、それぞれに色を割り振って体育祭を行う学校は多いと思いますが、クラス替えなどに関係なく、中1で与えられた色に6年間所属するのは珍しいかも知れません。

そして、この色は、卒業後も非常に大きな意味を持っていて、先輩や後輩に会うと「何色?」と確認し合い、同じ色だと分かると、瞬時に親密度が上がるのだそうです。

さて、体育祭でこの色集団を率いるのは、四役と呼ばれる高校3年生です。
団長、副団長、応援団長、副応援団長で構成され、この4人がヒエラルキーの頂上に君臨します。

また、その他の高3メンバーがその脇を固め、「学担(学年担当)」として下級生の競技指導に当たります。
因みに、セガレは高2の学担を務めています。

学年別に決められた競技種目は毎年変わることはなく、種目別攻略法の奥義が、色ごとに引き継がれています。

もちろん、ルールの変更などにも対応しながら、毎年臨機応変に戦術は練り直されます。
早く走ることより慌てて失格にならないことに重きを置こうとか、多少のリスクを冒してでもタイムを詰めることを第一の目的にしようとか、下級生に細かな戦術を指示するのが学担の任務です。
どうしたら他の組を圧倒できるか、どうやって順位を上げるか、来る日も来る日も議論し、分析し、探究し続けます。

ですから、何度も思慮を重ねた末の戦法が見事にかみ合い、自分の担当競技が好成績を収めると、学担は涙して喜びを分かち合います。

いわんや、優勝の栄に浴した四役は、カラダを震わせて歓喜に浸ります。

ん・・、青春っていいですね。

そして、体育祭当日。
高3だけは、所属する「色」に髪を染めることが許されます。
ここでも、高3の心意気が爆発することになります。

ということで、セガレもこのようになりました。
所属の色は、見ての通りです。

年間を通じて、非常に重要な行事と位置づけられている体育祭ですから、間違っても「運動会」と呼ぼうものならひどく叱られます。

ところが、昨年はコロナ禍で中止を余儀なくされました。
過去、雨天による中止が一度だけありましたが、予期せぬ感染症のために中止せざるを得なかった昨年の四役の無念さは、推し量ることができません・・。

そして、今年。
2日に分けての分割開催に加え、OBや保護者、入学志望の小学生などの見学は許されず、無観客での開催ではありますが、ともあれかくもあれ、中止は回避することができました。
しかも、当初の予定を延期し、先生と高3が協議を重ね、ほかの学校行事予定を動かすなどの苦労の末に、開催に漕ぎ着けました。

幸い天気予報は悪くないようです。
学生生活の貴重な1ページになるよう、親として祈るばかりです。

最後に、日曜日の午後、ほかのお客さんの予約を全て断り、まるで我がことのようにカラーリングをしてくださった美容院「FRAU」の渡瀬先生に、深く感謝したいと思います。