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226 炊金饌玉

早いもので、2024年が始まり、早2週間が経ちました。
食レポではありませんが、今年経験した外食にまつわる話を記したいと思います。

まずは、日本橋三越本館2階にあるカフェウィーンです。

下戸の私は、甘いものが大好きです。
お気に入りのスイーツはたくさんありますが、その1つがカフェウィーンのザッハトルテです。
ウィーンを代表するチョコレートケーキ・ザッハトルテと、その脇に乗せられたちょっと堅めの生クリームが、ホットコーヒーと相性抜群なのです。

上の写真は、カフェウィーンの店内です(出典  HANAKO https://hanako.tokyo/food/52539/)。
三越の公式サイトでも「優美な内装は、まるでウィーンの伝統的なカフェハウスのよう」と紹介されています。

ケーキが美味しいのは勿論のこと、大理石のテーブルと赤いベルベットのソファ席が醸し出すレトロな雰囲気にも、非常に魅かれていました。
カミさんと日本橋へ買い物に行った際は、赤いソファで休もう、が合言葉になっていました。

「いました」と過去形で表現したのは、状況が変わってしまったからです・・。
1月7日午後、カミさんと行ってみると、ソファーが茶色に変わっていたのです。
あまりにショッキングで、写真を撮り忘れました。

昨年12月は、赤いソファーでした。
いろいろ調べてみると、仙台三越にあるカフェウィーンが茶色いソファーのようです。
つい最近、日本橋も同じ路線に変更したのでしょうか・・。

長い間、ケーキの陳列棚が故障していたり、首が折れそうな白鳥型の器が足りなくて「フィルシメルバ」が提供中止になったり、そんなことは気になりませんでしたが、赤いソファーがなくなってしまったことは、本当に残念でなりません。

X(旧 Twitter)やInstagramで検索しても投稿は見当たりません・・。
残念がっているのは、私だけではないはずですが・・。

 

次は、小学校の同級生との新年会@横浜の話題です。

20代の頃から、スキーに行ったり、バーベキューをしたり、コテージに泊まったり、このメンバーとはいろいろなイベントを企画し、遊んできました。
そして今も、隔年で京都旅行に出掛けたり、年に数回、食事会を催しています。

小学校の同級生と未だに深い交流があるということに驚かれるときがありますが、総勢9名という人数にもビックリされます。
ただ、先日の横浜での新年会は、3名欠席者がおり、6名(男女各3名)での開催でした。

場所は、山下公園近くの「スカンディア」。
このお店はデンマーク人のご主人を持つ女性が、本格的なスカンジナビア料理を出す店として、1963年にオープンした歴史あるお店です(人間ならば昨年還暦です)。
2ヶ月以上前に予約をし、重厚感あるシックな雰囲気の2階で、ランチコースをいただきました。

この店は、指揮者のカラヤンさんや美空ひばりさん、井上陽水さん、桑田佳祐さんなど、多くの有名人が訪れた店としても有名です。

しかし、最も有名なのは、ユーミンが松任谷正隆さんと婚約後、両家の顔合わせ場所としてこの2階を貸し切りで使ったこと、ではないかと思います。
ドルフィンと並ぶ、ユーミンゆかりのスポットなのです。

ユーミンは中央フリーウェイで知られるように八王子市の出身ですが、横浜山手教会で結婚式を行い、横浜ニューグランド・ホテルで披露宴を挙げたそうで、横浜を愛していたのでしょう。

横浜国大出身の私としては、横浜が第2の故郷であるはずなのですが、40年という年月が経ち、知らないスポットがあまりにも増えてしまいました。

横浜駅東口なんて何にもなかった、横浜市営地下鉄は走っていなかった、みなとみらいなんて地名はなかった、首都高速と横浜新道は繋がっていなかった・・・・、なんて言うと、老人の戯言になってしまいますね。

級友と語り合う時間はとても楽しく、リフレッシュできましたし、久しぶりに訪れた横浜は、非常に新鮮でした。
「羽沢横浜国大」という母校名が付いた新駅もできたことですし、横浜の魅力を大人目線で感じるために、近々、改めて遊びに行きたいと思っています。

学生時代、大学よりも足繁く通ったボーリング場が閉店した跡地も確認したいですね。

223 一六勝負

初めて勝った馬券は、高校2年か3年の天皇賞秋で、枠連1-8を1,000円購入。
結果は1着トウショウボーイ、2着グリーングラス。
見事的中し、配当は1,100円で、10,000円儲かった。

自分の馬券デビューについて、上記のように確信を抱いていました。
しかし、調べてみると該当するレースが見当たりません。
そもそも、トウショウボーイもグリーングラスも、天皇賞秋を制していないようなのです。

何が合っていて、何が誤っているのか、情報を整理してみました。
レースは天皇賞秋なのか、勝ち馬をテンポイントと勘違いしてはいないか、枠連1-8は本当なのか・・・・。
思案の末、最も信頼に値しそうなのは「ちょうど10,000円利益が出た」という点ではないかという結論に達しました。
初めて購入した馬券が的中して実入りがあった訳ですから、金額に関する記憶は正確なのではないかと目星を付けたのです。

そこから探っていくと、該当するレースがありました。
1978年11月に行われた第78回秋の天皇賞の枠連配当が、1,100円でした。
私が高校2年生のときですから時期も合っていますし、レース名も合致しています。

ただ、勝ったのはテンメイ、2着はプレストウコウ、枠連は6-8でしたので、ここは記憶と相反しています。
枠連ですから、同じ枠に同居していた馬を調べてみましたが、トウショウボーイもグリーングラスも出走していませんでした。

結局のところ、納得のいく結論は導き出せませんでした。
ただ、人間の記憶は当てにならないものなんだなと、改めて思い知らされました。

因みに、未成年は馬券を購入してはならないと法律で定められています。
まあ、45年も前のことですから時効でしょう。

元来、ギャンブルは嫌いな方ではないかな、と自認しています。
思い出深いのは、大学3年の夏に行ったラスベガスです。

ロサンゼルスでホームステイをしていた私は、週末を利用してラスベガスとグランドキャニオンへ遊びに行きました。
同じツアーに参加していた仲間の多くも一緒でした。

いつかは行ってみたいと憧れていたカジノの聖地は、まさにエキサイティングでした。
この日のために日本から持ってきた一張羅のスーツに身を包み、砂漠地帯でGolden Nuggetの看板を見たとき、これまで経験したことのない高揚感を感じました。

カジノにはスロットやポーカー、バカラ、ルーレットなど多様なゲームがありますが、私はブラックジャックの魅力に溺れました。

minimum bet 1$の最もハードルの低いテーブルとはいえ、ディーラーと対峙していると、自分がすっかり大人になったような気分になりました。

ディーラーが1枚目にエースを引いた時に聞かれる『insurance?』や、『stay』『hit』を手の仕草で表現するなど、現地で遊びながら学んだことも多く、時間を忘れて没入していました。

日付変更線を過ぎた頃、やや引きの弱い男性のディーラーがやってきました。
ここが勝負どきと判断し、賭け金も増やして巻き返しに成功しましたが、その後に現れたスレンダーでクールな女性ディーラーに屈し、結局一晩で270$の負けを喫しました(この記憶もあてにならないか・・・・)。

当時の為替レートは1$270円ですから、約7万円の損失です。
40年以上前に学生が一晩で7万円も失うとは、由々しき事態であることに間違いありません。

そろそろ退散しようかなと時計を見ると、深夜2時を過ぎていました。
10人ほどの仲間とカジノに来たのですが、周りを見渡すと、友人は誰もいません。
と思ったとき、ルーレットのテーブルにいた日本人と目が合いました。
京都大学文学部3年のNちゃんでした(女子です)。

『まだいたんだ』
『国立大学の学生って、ギャンブル好きなんかね?』

深夜のカジノで聞く関西弁はすこぶる印象的でした。

あれから40余年、現在の私は、一切ギャンブルをしません。
競馬、競輪、パチンコを始め、宝くじやロト、株も含めて全く興味が薄れてしまいました。
加えて、タバコをやめて約20年、酒は生まれつきの下戸。
なんだか味気ない男ですね・・。

ただ、ラスベガスは、もう一度訪ねてみたいです。
深夜までカジノに興じる体力は失われてしまいましたが、年齢なりの違った楽しみ方ができるかなと思っています。

初めて馬券を買ってから45年。
本日、15時40分、第168回天皇賞(秋)の発走です。

206 九夏三伏

先日、高尾山口へ撮影に行きました。

新宿から京王線に乗ると「ベストシーズンは、春夏秋冬です。高尾山」という広告が目に入りました。
コピーライターって才能あるなあ・・と思いながら、車中は読書を楽しみました。

到着したのは午前11時少し前。
好天の週末でしたから、かなりの人出かと予想しましたが、ご覧の通り、ほとんど混雑はありませんでした。

ネットで調べてみると、紅葉の時期やゴールデンウイークには、ケーブルカーが90分もの乗車待ちになるそうです。

2007年、高尾山はミシュランガイドで星3つを獲得し、世界中の観光客が訪れるハイキング・トレッキングの名所になりました。

そして、2010年には「山ガール」という言葉が流行語大賞の候補に上がり、2016年には山の日が制定され、登山人気に拍車がかかりました。

さらに、コロナ禍にあって、登山やキャンプは感染リスクが低いアウトドアレジャーとして脚光を浴びています。

ここまで条件が揃っているのに空いていたのは、コロナの感染者急増により外出を控えた方が多かったのでしょうか・・。
それともインバウンドがいない影響なのでしょうか・・。
そもそも真夏は、登山客が少ないのでしょうか・・。

登山、キャンプ、釣り、カヌー、ヨット、シュノーケリングなどなど、アウトドアスポーツに全く縁がない私には分かりません。

撮影を終え、「髙橋家」というお蕎麦屋さんに入りました。
天保年間(1830~1843)に創業した老舗で、店内には樹齢150年余の柿の木がありました。
冷たいとろろ蕎麦は、暑くてバテ気味の胃袋にもするすると入っていきました。

考えてみると、この付近に来るのは、40年以上前のあの日以来だと思います・・。

高校3年生だった私は、大学受験がひと通り終わり、中央大学への入学が決まっていました。
入学金に加えて授業料も振り込み、(記憶が正しければ)1年D組19番というクラス分けと出席番号も知らされていました。

そんな時、横浜国立大学から補欠合格の一報が届きました。

中央大学の入学試験要項を確認すると、授業料支払い後に入学を辞退する場合は、大学の事務に退学届を提出すること、とありました。

そこで向かったのは、中央大学多摩キャンパス。

今は「中央大学明星大学駅」という、大学に直結したモノレールの駅がありますが、当時は高幡不動駅で動物園線に乗り換え、終点(次の駅)の多摩動物公園駅から10分ほど歩きました。
通学路の途中には、「マムシに注意」みたいな看板があった記憶もあります。

キャンパスに着いて事務室を訪ねると、スタッフが忙しいそうにしていて、私になかなか気付いてくれません・・。

そこで、「退学届を出しに来ました!」と声高に言うと、奥から女性スタッフが小走りにやってきました。

「お待たせしてすみません・・」と対応してくださる様子から、退学届という意味の大きさを感じた気がしました。
腫れ物にさわるような感じも少し伝わってきて、気恥ずかしい思いがしました。

一旦は入学を決意した大学ですから、正門を出る時、一礼しました。

「任意の寄付金、300,000円は慌てて払わなくて良かったかも。」
「退学届を出したってことは、中央大学中退、横浜国立大学卒業がゆくゆく私の正しい学歴になるのかな。」

駅に戻りながら、そんなことを考えたのを40年経った今も覚えています。

考えてみると、多摩動物公園駅と高尾山口駅は、さほど近くはないですね・・。
まむし云々の看板はもう見られないでしょうし、残念ながら多摩テックはなくなってしまいましたが、40年ぶりに訪ねてみたい気がします。

200 恪勤精励

先日、セガレの受験が終わりました。
お陰様で第一志望の大学に合格することができました。

受験にあたり、この2年間はコロナという厄介な敵がいました。
実力不足で不合格になるのであれば諦めがつきますが、受験の土俵に上がれなくなることだけはなんとしても避けたいと思っていました。
そして、共通テスト当日には、本郷の東京大学近くで物騒な事件もありました。

親としては、勉強以外に気を配らなければならないことも多く、多難な日々でした。

合格発表は3月10日正午。
当然私は仕事でしたが、発表の10分くらい前から、そわそわして落ち着かなくなりました。
そして、カミさんから「合格!」とのLINEが届いたときは、年甲斐もなく興奮してしまいました。

セガレが合格しただけでも十分幸せな気持ちでしたが、その後、仲良くしている学校の仲間も揃って国公立大学に合格したと知り、喜びが2倍にも3倍にもなりました。

幸運なことに中学受験も大学受験もセガレは夢を叶えることができたわけですが、自分を思い返してみると挫折だらけの受験人生でした。

最初に蹴躓いたのは中学受験。
特に教育熱心な両親だった訳ではありませんが、なんとなく周りの流れにのるかように中学受験に挑みました。

受けたのは、明治大学付属明治中学校。
当時は男子校で、御茶ノ水駅近くにありました。

小学校の担任からは、合格の見込みがないから「やめなさい」と言われました。
塾の先生からは、合格しちゃうから「やめなさい」と言われました。

塾の先生の真意は、この先頑張れば東大だって狙えるかも知れないのに、小学校6年生で大学を決めてしまっていいのか、というものでした。

要するに、小学校の担任とは反りが合わず、一方、塾の先生は私を実力以上に評価してくれていました。

当の本人は、「あー、学校帰りはこのロッテリアでハンバーガーでも食うか・・」という程度の意識でした。

そして、結果は不合格。
学校の担任からは「でしょ」なんて顔をされました。
塾の先生からは「ショックかもしれないけど喜べ」と12歳には理解不能な言葉を掛けられました。

3年後の高校受験。
内申点が低いにもかかわらず、地域で最上位の都立高校を受けさせてくれ、と担任の先生に直談判しました。
先生は難色を示しましたが、私立高校はある程度の幅をもって複数受験することを条件に認めてくれました。

この時、かつて塾の先生に掛けられた言葉を思い出しました。
「努力すれば東大だって狙えるんだ・・」

若いというか純粋というか単細胞というか、大学の付属校は受けない! と決めました。
結果は予想通り都立高校は撃沈し、私立城北高等学校に進学しました。

そして迎えた大学受験。
塾の先生がちらつかせた東大には程遠い目標となりましたが、国立大学を第一志望としました。
私立も6校受験しましたが、合格をいただいたのは第6志望と第7志望の大学でした。
少なからず傷心の日々を過ごしていたところ、補欠入学打診の電話があり、紆余曲折の末に第一志望の横浜国立大学への入学を叶えることができました。

高校一年生から大学受験に向けて本格的な通塾を始めたセガレに比べると、私の受験勉強なぞ遊んでいたようなものだと思います。

セガレにとっては、中学受験の時に通っていた塾も、最近まで通っていた大学受験の塾も、先生に恵まれ、厳しくも楽しく過ごせたようで幸せな限りです。

下は、塾へ合格の報告に行った際にいただいたお祝いグッズの1つです。
さもないペットボトルではありますが、合格者だけがいただけるので、価値あるお茶ですね。
そういえば、塾の数学の先生が、合格したらサイゼリヤ食べ放題に招待するぜ、と言っていたようですが、実現する気配はないですね・・。

さてさて、親としては、お金の工面もしなくてはなりません。
入学金をはじめ、入学式に着用するスーツやネクタイ、ワイシャツ、革靴。
また、通学用の洋服、パソコン、iPad、パスケース・・・・。
結構出費はかさみます。

40を過ぎてから授かった子供ですから仕方ないのですが、退職して悠々自適な生活は、私にはまだまだ先のようです。

2000年に始めたブログが今回で200回目となりました。
暇にまかせてくだらぬこと良くも書いてきたものだと思いますが、節目の回に、喜ばしい記事が書けたことをとても嬉しく思います。

199 鐘鼓之楽

  • The Loco-Motion / Grand Funk Railroad
  • The Hustle / Van McCoy & the Soul City Symphony
  • That’s The Way (I Like It) / KC and The Sunshine Band

洋楽が好きになったきっかけは、上のどれかだったように思います。
これらディスコミュージックは、思春期の私の心を見事に抉りました。
The Loco-Motionの歌い出しは、何度聴いても鳥肌が立ちました。

それから、The RunawaysとBlondieは衝撃的でした。

The RunawaysのCherie Currieがガーターベルトで歌う姿はセンセーショナルでしたし、Joan Jettは怪しすぎて怖いくらいでした。

Blondieには、”Heart of Glass” ,  “Sunday Girl” ,  “Dreaming” ,  “Call Me” ,  “The Tide Is High” , “Denis”・・・・と、大好きな曲がいっぱいありました。
そして、何をおいても、高校生のワタシにとって、Deborah Harryはあまりにも妖艶であり、官能的で刺激的でした。
当時の写真を今見ても、ちょっぴり心臓がチクチクします。

そして、私のコンサート初体験は、1980年に日本武道館で行われたVillage Peopleです。
高校の同級生と連れだって行きました。
40年以上経っても、”Macho Man” , “In The Navy”, “Y.M.C.A.”に熱狂した夜は忘れられません。

しかし、何故か、摩訶不思議なことに、初めて「ひとりで」鑑賞したコンサートは、かなり路線の異なる、石黒ケイさんでした。
日仏会館だったか岩波ホールだったか記憶は定かではありませんが、小さな会場で客は50人ほどだったような気がします(そんなことはないか・・)。
途中で10分ほど休憩をはさんだのですが、「休憩の間に帰らないでね・・」と話した姿は「オレに向かって言ったんじゃないか!?」なんて胸にしみ入るような距離感でした。

そのコンサートで彼女が身にまとっていたのが、黒いレザーのジャケット。
正に、下のアルバムジャケットのような姿で、とてもステキに映りました。

石黒ケイさんはワタシより学年で4つ年上。
20歳前の年若な男子学生にとって、一番憧れちゃう年齢のド真ん中だったのかも知れません。

その数日後、アメ横に行きました。
あのジャケットを探しに行ったのです。
オレもあういうジャケットを着るぞ! とコンサート中に思いは決していました。

革ジャンは様々な商品が陳列されていましたが、ジャケットは品揃えが少なく、値段も安くありませんでした。
学生なんだから安くして! と店のおっちゃんと小競り合いの末に、買った覚えがあります。

その後の大学生活の大半は、革のジャケット・合皮のネクタイ・ジーンズ・ウエスタンブーツという出で立ちで過ごしました。
真面目でおカタいイメージだった我が母校では、「共通一次で入ってきた学生は程度が低い・・」という印象を与えた先鋒だった気がします。

 

また、初めて行ったライブハウスは、我々の年代ならば誰もが知っている新宿のルイードでした。
山下久美子さんやシャネルズ(ラッツ&スター)らが巣立った場所として有名なルイードで、何故か私が見に行ったのは麻生よう子さん。

下戸でしかも未成年だった私は、ひとりで行く勇気がなかったのですが、親友のI君が付き合ってくれました。
麻生よう子なの??なんて笑いながらも気持ちよく付き合ってくれた彼は、友達思いの優しい男でした。
なのに、コークハイがまずくて飲めなかったという記憶ばかりで、ライブの印象が何ら残っていません。
背伸びして少し飲んだコークハイで、頭痛を起こしていたのだと思います・・・・。

麻生よう子さんはデビュー曲の「逃避行」が大ヒットしたことで有名です。
「そーれがなーきゃ、いい人なのーに・・」と歌っていたのが18歳のときだったそうで、昔の人は大人びていたんだな、と改めて感じます。
1977年に発売されたシングル「102号室」もいい曲でした。
2007年発売Essential Bestの12曲目に収録されている「夕風」も情緒あふれる名曲です。
個人的には、演歌要素に舵を切らず、ポップス路線を歩んで欲しかったな・・、なんて思っています。

197 万能一心

人気動画サイトYouTubeが誕生したのは、2005年の2月だそうです。
最初の動画は、共同創設者のJawed Karim氏が、サンディエゴ動物園でゾウの檻の前に立っているわずか18秒のものだったとか。

今年8月に総務省情報通信政策研究所が発表した『令和2年情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書』によると、YouTubeの利用率は全年代で85.2%でした。
取りわけ、10代から40代で90%を超えているのは特筆すべき現象と思います。
50代は81.2%、60代でも58.9%と世代を超えて浸透しており、誕生からまだ17年に満たないにもかかわらず、その普及度は目を見張るものがあります。
(自分は60代のカテゴリーなのか!と、誕生日以降、こういう時に心理的抵抗感を感じます・・)

また、ソニー生命保険が7月に発表した「中高生が思い描く将来についての意識調査」によると、男子に関しては中学生も高校生も「YouTuberなどの動画投稿者」が、将来なりたい職業の第1位でした。
YouTuberの正確な年収は公表されていないようですが、Hikakinさんやはじめしゃちょーさんなど、1億以上と言われている方も珍しくなく、あまたの1,000万円超えがいるそうです。
私が子供の頃の人気職業は「プロ野球選手」が鉄板だった気がしますが、子供たちにとって夢がある職業も、時代と共に大きく変化しているようです。

さて、私も、そこそこYouTubeを視聴しています。
上記58.9%に属する訳です。

最近、はまっているのは、ロッド・スチュワートのYouTubeチャンネルです。
中でも、2004年10月にロンドンのRoyal Albert Hallにて行われたコンサート映像がお気に入りです。

最初に感動したのは、見慣れぬ女性とデュエットする「I don’t want to talk about it」。
その女性、若干素人のような佇まいですが、歌は上手だし、美人でスタイル抜群だし、ちょっと衣装がセクシーだし・・、というわけで調べてみたところ、スコットランド出身のエイミー・ベル(Amy Belle)という歌手でした。
当時22歳のエイミーはまだ無名でしたが、ロッド・スチュワートの一夜限りのライヴに招待されてデュエットしたのだそうです。

また、名曲「Sailing」は、ステージと会場が一体になって、鳥肌ものです。
エンドロールを迎える頃には泣きそうです。
終わり間近の投げキッスも、さりげなくて印象的です。

そして、私が最も好きなのは、ロン・ウッド(Ronnie Wood)と共演している「Maggie May」です。
とにかくHappyな映像です。
凹んでいるとき、疲れているとき、元気をもらえます。
因みに、この「Maggie May」、元々はシングル「Reason to believe」のB面だったそうです。
(A面、B面という話に、うちのセガレはきょとん顔でした。)

「Hot legs」など、舞台上をパワフルに駆け回っているシーンを数多く目にしますが、驚くことに、この時ロッド・スチュワートは59歳。
今の私とほぼ同年齢で、赤いシャツを羽織り、黄色いジャケットを鮮やかに着こなし、時にお茶目に、時にクールに、10曲以上をライブで披露しているわけです。

同じ男としてこんな風に歳を重ねられたら・・と憧れますが、顔もスタイルも足の長さも全く異次元なので、望むべくもありません。
ただ、端整な顔立ちや魅力的なハスキーボイスは生まれ持ったものかも知れませんが、ミュージシャンとして長く活動している裏側には、隠れた努力の積み重ねがあるのだと思います。
若い頃の画像よりもカッコイイぞ!と思える59歳のロッド・スチュワートは、加齢、衰退、枯凋に抗うためには相応の努力が必要だ、と教えてくれるようで、私には大きな刺激となっています。

そう言えば、大学の同級生でロッド・スチュワートが大好きな女性がいましたっけ。
コロナ禍で叶いませんが、昔の友人たちと還暦同窓会をしたいなあと思ったりします。

185 禍福倚伏

私の通勤手段は車です。
所要時間はおよそ30分ほどです。

行きの車中では、「飯田浩司のOK! Cozy up!」というラジオ番組をよく聴きます。
私が自宅を出る6時ちょうどに始まるので、タイミングがいいのです。

パーソナリティの飯田浩司さんはニッポン放送のアナウンサーですが、なんと、私の大学(横浜国大)の後輩にあたります。
しかも、同じ経営学部。
年齢は私の20コ下。

どんなお顔なのかと興味が湧き、ニッポン放送のサイトで拝顔いたしました。
ちょっと年齢より老けているかなと、感じました・・(失礼)。

この飯田アナは経済に造詣が深く、ズバズバ意見を述べる歯切れの良いアナウンサーです。

22日月曜日の朝もいつものようにラジオを聴いていると、今週は飯田アナウンサーが休暇とのこと。
内田雄基さんという新人アナウンサーが、ピンチヒッターを務めていました。

そして驚くことに、この内田アナも横浜国大の卒業生だというのです。
「学生時代、飯田先輩と同じ居酒屋に通っていたことが分かり、コロナが落ち着いたら一緒に飲みに行く約束をしたんです!」なんて地元ネタをラジオで披露していました。

相鉄線・和田町駅か、あるいは横浜駅周辺か・・。
私の時代にはなかった地下鉄だってあるか・・。

因みに内田アナ、年齢は私の36コ下です。
36歳差って、私が54歳の時に大学に入学したってことですね。
なんだか先輩後輩という域を超えているような感じがします・・。

うちの大学出身のアナウンサーを調べてみると、NHKをはじめ、中京テレビ、朝日放送、新潟放送、岩手放送、テレビ熊本など、そこそこいますね。

女性では阿部哲子や高樹千佳子さんが有名ですが、王様のブランチに出演しているTBSアナウンサーの山本匠晃さんもうちのOB。

それから、テレビ朝日の報道ステーションを担当していて、昨年新型コロナに罹患してちょっと騒ぎになった富川悠太アナもそう。

ひょっとするとアナウンサー率が高いのでは?と思い、調べてみると、アナウンサー出身大学ランキングというサイトがありました。
https://university-rank.com/ranking_announcer.htm

これによると、横浜国立大学は第27位でした。
小さな大学ですから、わりと上位だと言えるかも知れません。

さて、今、受験シーズン真っ只中です。
我が母校は、昨年夏頃、早々に2次試験を行わない旨、発表しました。
即ち、昨年までセンター試験と呼ばれていた「大学入学共通テスト」だけで合否を判定するのです(一部学部を除く)。
数千人という受験生に、安全な受験環境を提供することが困難であるとの苦渋の決断です。
https://www.ynu.ac.jp/exam/faculty/release/pdf/message.pdf

すると、今月中旬頃、志願者が激減しているというニュースが流れました。
https://www.asahi.com/edua/article/14180436

その背景として、共通テストだけで判定するため二次試験での逆転ができず、合格ラインが読めないので、出願しづらかったのではないかと指摘されています。

私が受験した当時、当時の共通一次試験で780点ほどが、経営学部の合格目標ラインだったと記憶しています。
ところが、私は自己採点で732点ほどしか点数が取れませんでした。
志望校変更も考えましたが、二次試験で逆転してやる!と意気込んで、予定通り願書を提出しました。

なるほど・・。
私が今年の受験生だったら、逆転のチャンスはないわけです。
当然、志望校を変えなければなりません・・。

なにはさておき、今年の受験生には、心からエールを送りたいと思います。
コロナのために、進路を変更せざるを得なかった若者が、どれだけいることでしょう。

1980年。
1月12〜13日、共通一次試験実施。
3月4日、二次試験実施。
3月14日、合格発表で不合格。
3月24日、大学から繰り上げ入学の電話。

40年以上前の出来事になりますが、今も24日の電話での会話は、耳の奥に残っています。

173 雪中送炭

「ヒマがあったら読むかい。」

父が日本経済新聞の切り抜きをくれました。
『1位北大、2位横国大」という大きな見出しが目に入りました。

うちの大学が記事になるのは珍しいなあと思いながら受け取ると、企業の人事担当者から見た、大学のイメージ調査に関する記事でした。

調査は各大学の学生イメージについて「行動力」「対人力」「知力・学力」「独創性」の4つの側面で評価したもの。
北大は、2026年の創基150周年に向け、国際社会で活躍できる人材育成に努めているそうで、その結果が数字として現れたと言えましょう。

総合2位に輝いた私の母校・横浜国立大学は、行動力と対人力で2位だったほか、4部門全てで高評価を得たそうです。

3位以下も名古屋大学、京都大学、東北大学が名を連ね、上位10校は全て国立大学。
因みに、早稲田は12位、慶應は15位だったそうです。

ランキングの対象となった大学は、有効回答数805社からの回答数が一定水準以上に達した156校。
156校中の2位ですから、誇らしいですね。

この記事が新聞に掲載されたのが6月3日木曜日。
そして、偶然にも同じ日に、大学からメールが届きました。

その内容は、新型コロナの影響でアルバイト先を失ったり、また、親が経済的に困窮して学業継続の危機に晒されている学生への支援をお願いしたいというものでした。

大学は、遠隔講義受講の環境整備の支援や、PCの貸与などを柱とした「横浜国立大学緊急学修支援事業」第一弾を既に実施したようです。
しかし、長期化が予想される新型コロナ対応に備え、学生支援の枠をさらに広げるため、「緊急学生支援寄附金」への協力を卒業生に依頼したのでした。

具体的には、一人10万円の緊急生活支援奨学金を200人以上に支給するとのこと。
即ち、2,000万円以上が必要です。

6月5日までに、既に1,600万円近くの支援が集まっているようですが、私もわずかばかり協力いたしました。
近々振り込まれるであろう国からの特別定額給付金の一部を充当しようと思っています。

横浜国大のサイトを見ていたら、学生への食料支援も行っており、6月2日には「米2キロ、カップ麺1つと缶詰」が事前予約した100名に配布されたようです。

ただ、心なしか、物量的に手薄な感じがします。
食品業界で活躍するOBにも協力を仰ぎ、より分厚い支援ができないのかなと思います。

食料支援といえば、松山市が今月から経済的に困窮している市内の学生を支援するためのプロジェクトを始めたそうです。
「学飯」と銘打ったこの取り組みは、多くの学生アルバイトの受け皿となっている飲食店がコロナ禍で大きな打撃を受け、学生の困窮が自助努力で解消できなくなっている状況を打破するため、学生に食事券を配布する活動です。

市民や民間企業が一体となって無償食事券を配布する試みは全国でも珍しく、関係者の努力に頭が下がります。
公式サイトによると、協賛金はまだまだ目標額には達していないようですが、今後支援の輪が広がることを期待したいと思います。

大学生の差し迫った困窮ぶりは、学生団体「高等教育無償化プロジェクトFREE」が行ったアンケート調査が如実に物語っています。

これは、全国の大学生や短大生、大学院生ら1,200人を対象に実施した調査で、「経済的理由で退学を考えている」と答えた学生が20.3%にも上ったそうです。

今年度、大学や専門学校などで学ぶ若者は、ミレニアムベイビー世代が中心のため、そもそも人数が多いそうですが、その中で5人に1人が退学を考えているとは、極めて深刻な事態です。

政府は、困窮する学生に対して、総額530億円規模の支援策を講じることを決めましたが、可能な限りの支援を時機を逸することなく、迅速に進めて欲しいと願います。
また、特別定額給付金の10万円を、優先的に配布することはできないものでしょうか。

学生の学びを支えることは、未来への大切な投資です。
コロナプアで世代ごと未来を奪われるようなことは、断じてあってはならぬと思います。

157 短慮軽率

昨日は久しぶりにフリーな1日でしたので、ほぼ終日、読書を楽しみました。
長らく「積ん読」だった本を2冊、自宅で、カフェで読み切りました。

私の好きなジャンルは、ノンフィクションです。
中でも、事件や犯罪、死刑に関する本をよく読みます。
家族からは、薄気味悪いとか、本棚を人様に見せられないなどと言われています。
今日読んだ2冊も同様の本ですから、電車の中など公衆の面前で読む際は、カバーが必須ですね・・。

興味を持つきっかけになった本は、「日本の黒い霧(松本清張 著)」です。
戦後まもなく発生した12の事件に、松本清張が独自の歴史観と大胆な推理で迫った作品です。

中学生だった私がなぜこの本を手に取ったのか、今となっては定かでありませんが、中でも「下山国鉄総裁謀殺論」と「帝銀事件の謎」の2つに魂を大きく揺さぶられました。

下山事件は、昭和24年7月、初代国鉄総裁下山定則氏が、常磐線の線路上で轢死体として発見された事件です。
しかし、ワイシャツや下着、靴にはほとんど血が付いていなかったり、靴下などに大量に付着していた油は、機関車に用いられている鉱物油ではなく植物性の油であったり、いつも身に付けていた眼鏡が現場付近から発見されなかったり、多くの謎に包まれています。

犯人は捕まっておらず、戦後最大の未解決事件と呼ばれることもあります。

一方、帝銀事件は、昭和23年1月、当時の帝国銀行椎名町支店に東京都防疫班を名乗る男が現れ、消毒薬と称した毒薬で行員12名を殺害し、現金や小切手を強奪した残虐な事件です。

・手本として、薬を自分が最初に飲んでみせたこと
・歯のエナメル質を痛めるから舌を出して飲むようにと確実に嚥下させたこと
・第一薬と第二薬の2回に分けて飲ませることで、行員を現場から散らないようにしたこと

などの巧みな手口から、薬物に詳しい者の犯行と思われていましたが、逮捕されたのは平沢貞通という画家でした。

1955年に平沢氏の死刑が確定しましたが、歴代法務大臣が誰も死刑執行命令に署名しなかったこともあり、死刑制度に興味を抱く誘因となりました。

大学に入ってもこの分野への関心は益々強まり、刑法を学んでみたくなりました。

しかし、私の所属する経営学部では刑法に関する授業は開講されていませんでした。
学内を探してみると、隣りの経済学部にあったため、わざわざ出張して授業を受けました。
当時、刑法を担当していたT先生は厳しいことで有名で、経済学部の学生でも履修者は決して多くはありませんでした。
そんな講座に、経営学部から乗り込んで行ったのです。

大学時代勉強はしなかった、と自信を持って言えますが、刑法だけは出席しました。
驚くことに、35年前の成績表が見つかりました。
「優」でした(笑)。

刑法への興味はこの程度に留めておけばよかったのですが、大学4年の時、勢い余った行動に出てしまいました。

「犯罪や事件などに非常に興味を持っています。刑法の単位も取りましたので、この関連テーマで卒論を書いてはいけませんでしょうか・・。」

海上保険学を専攻するゼミ生として、先生に失礼極まりない発言をしました。
正に、若気の至りです・・。

しかし、ゼミの教授は紳士でした。

「山田、キミの気持ちは分かった。しかし、刑法に関する論文を評価する専門家がうちの学部にはいないんだ。折衷案として、海上保険と刑法の両方に関係する資料を用意するが、どうだ?」

「ご理解いただき、感謝いたします!」
深々と頭を垂れ、お礼を申し上げました。

すると、半月後、私の元にB4版のコピーが大量に届きました。

船を故意に沈没させて保険金を詐取しようとした事件に関する、英語の資料でした。
なるほど、確かに海上保険学と刑法にまたがる内容でした。

しかし、専門用語が頻出する英文の翻訳は、困難を極めました。
1973年の秋は、辛く、長い、重苦しい日々となりました。
あんなことを言うべきではなかった・・と、 後悔の念が脳裏を去来しました。

因みに私の卒論のタイトルは、「海上保険学における船底穿孔事件に関する一考察」です。

136 共存共栄

昨年暮れ、相模鉄道とJR直通線の新駅の名称を「羽沢横浜国大駅」にする、という報道を目にしました。
横浜国立大学関係者の利用が多いことを想定し、当初の案「羽沢駅」から変更されたようてす。
母校の名前が駅名になるのは、非常に嬉しいことです。
欲を言えば、単に『横浜国大駅』だったら最高でしたが・・。

ところで、国立大学の名称は「都市名(または地域名)+大学」というパターンが定番です。
北海道大学、東北大学、京都大学、大阪大学、神戸大学、九州大学等々。

そんな中、我が母校だけは横浜大学ではなく、横浜国立大学です。
「☆☆国立大学」という名称は、ほかに例がありません。

横浜市立大学と区別するために横浜国立大学と命名されたのではないか、という説をよく耳にします。
しかし、大阪市立大学や名古屋市立大学、広島市立大学がある府県に、大阪大学、名古屋大学、広島大学がありますから、これは理由になりません。

実は、この名称の秘密は、かなり昔に遡ります。


1947(昭和22)年、学制改革が施行され、小学校6年と中学校3年の9年間が義務教育になり、高等学校は3年、そして、大学は4年と定められました。

この学制改革によって、師範学校などと呼ばれていた学校が、新制大学として生まれ変わることになったため、多くの学校が新しい大学名を付けなければならなくなり、混乱が生じました。

現在の横浜国立大学も、この学制改革により「神奈川師範学校」「神奈川青年師範学校」「横浜経済専門学校」「横浜工業専門学校」の4つの旧制官立学校を統合し、新制大学として1949(昭和24)年に設立されました。

が、時を同じくして「横浜市立経済専門学校」と「横浜専門学校」も、新制大学へ移行する事が決まっていました。
前者は現在の横浜市立大学で、後者は神奈川大学です。

そして、この2校に現・横浜国立大学を含めた3校が名称を申請した際、同じ「横浜大学」という名称を希望する事態になったのだそうです。
そうです、3校が同一の名称を希望してしまったのです。

そこで、3者間で協議が行われました。
その結果、各校とも「横浜大学」という名称を使用しないという約束が交わされたのだそうです。

かくして、旧制官立学校を統合した国立大学は「横浜国立大学」となり、市立経済専門学校は「横浜市立大学」、そして、横浜専門学校は「神奈川大学」を名乗ることと相成りました。

横浜国立大学のサイトによると、当時の文部省が間に入り・・、

「国立には『国立』、市立には『市立』を付け、そして、私学である学校には、もっと大きく神奈川にしてはどうか、というようなアドバイスがあったと伝わっています。」

時代が生んだ事件ですね。

因みに、地元では略して「コクダイ」と呼ばれることが多いのですが、「コクダイ」は国立大学の略であり、ヨコハマ全然関係ないじゃんと思ったりもするわけです。
「ヨココク」という呼称もありますが、「コ」が続いて発音しにくいせいか、地元では「コクダイ」が主流です。
なお、横浜市立大学は「ヨコイチ」と呼ばれているようです。

もしも横浜大学という名称だったら、どう略されていたのでしょう・・。
ヨコダイなら、まだハマダイの方がいいですかね・・。

ところで、昔から不思議に思っていたことがあります。
国立の大学で「県名+大学」がなく、「都市名+大学」が存在する県がいくつかあるのです(国立大学に限っての話です)。

一例として、青森県には国立弘前大学はありますが、国立青森大学はありません。
(私立青森大学はあります)

私が認識しているだけでも同様の事例が以下の通り存在します。

栃木県:×栃木大学 ○宇都宮大学
石川県:×石川大学 ○金沢大学
長野県:×長野大学 ○信州大学
兵庫県:×兵庫大学 ○神戸大学

都道府県名と県庁所在地の名称が異なるところが該当するのか!?と思ったのも束の間、北海道大学は存在しますね・・。

ここにも何か知られざる事情が潜んでいるのでしょうか・・。