月別アーカイブ: 2019年5月

155 唖然失笑

少し前の話になります。

一昨年秋「仙台ひとり旅」に出ました。
仕事が立て込む日が続いたので、気分転換に東京を脱出したのです。

MacBookを持っていれば、かなりの仕事がこなせる現代は、便利になったとも言えますが、世知辛いと表現できるかも知れません。

いくら仕事がメインとは言え、せっかく仙台まで来たのですから、大好きな神社巡りもしました。
なかでも、陸奥国一之宮・鹽竈神社は、とても心に残る参拝となりました。

というのも、事前に公式サイトを見ていて、興味深い歴史的事実を知ったからです。

鹽竈神社の創建年代は明らかではありませんが、その起源は奈良時代以前になります。平安時代初期(820)に編纂された『弘仁式』主税帳逸文には「鹽竈神を祭る料壱萬束」とあり、これが文献に現れた初見とされています。当時陸奥国運営のための財源に充てられていた正税が六十萬三千束の時代ですから、地方税の60分の1という破格の祭祀料を受けていた事が伺われます。しかし全国の各社を記載した『延喜式』(927年完成)の神名帳にはその名が無く、鹽竈神社は「式外社」ではありましたが中世以降、東北鎮護・海上守護の陸奥國一宮として重んじられ、奥州藤原氏や中世武家領主より厚い信仰を寄せられてきました。特に江戸時代にはいると伊達家の尊崇殊の外厚く、伊達政宗以降歴代の藩主は全て大神主として奉仕してまいりました。よって江戸時代の鹽竈神社には歴代の宮司家が存在せず、実質祭祀を行っていた禰宜家がおりました。(中略)
歴史の謎
鹽竈神社は祭祀料として正税壱万束を受けていた事は前述しましたが、当時全国で祭祀料を寄せられていたのは、他に伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束の三社で共に『式内社』でありますが当社に比べ格段の差があり、国家的に篤い信仰を受けていたにも拘わらず『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというこの相反する処遇はどう解すべきなのでしょうか。

不思議な香り漂う神社です・・。
一之宮なのに式外社だなんて、これまで聞いたことがありません。

参拝当日。
はやる心を抑えて、まずは塩釜仲卸市場へ出向き、海鮮丼をいただきました。
なかなか豪勢な朝食となりました。

駐車場にはこんな車が停まっていました。
市場で早朝から働く皆さん、お疲れなんでしょうね・・。

そして、鹽竈神社の最寄り駅、本塩釜駅へ向かいました。
あいにくの曇り空でしたが、神社へ続く県道は、散策には心地よい道程でした。

徒歩7分ほどで東参道(裏坂)に到着しますが、敢えてここは通り過ぎます。
それから6〜7分ほどで、有名な表参道の石鳥居が見えてきました。

階段の数は、202段。
とりわけ騒ぐほどのことではないだろうと思っていましたが、登り切った時は、ほとんど虫の息で した・・。
自販機でお茶を買い、椅子に座ったまま、5分ほど動くことができませんでした。
神社巡りは、足腰が丈夫でないと続けられないことを痛感しました。

なお、公式サイトの「神社について」の終わりには、こんな文面もあります。

時代は前後しますが、忘れてはならないのは河原の左大臣と称された源朝臣融で、謡曲『融』の主人公にもなりましたが、その別荘の一つが後の宇治平等院、一つは洛北嵯峨の現棲霞寺となっています。融は陸奥出羽按察使に任ぜられています(『三代実録』)が実際に赴任したかどうかは不詳です。しかし塩竈の浦に深く心を寄せ鴨川の辺に六条河原院を建て、『伊勢物語』に庭に塩竈の景色を再現して毎日難波より海水を汲ませてこれを焼かせつつ生涯を楽しんだことが見えます。今もこの付近には塩竈の地名が名残として残っております。

ふーん、京の都に塩竈の風景を再現したんだ・・。
つい最近まではここまでの認識でした。

そして、先週末。
何の気なしに六条河原院について調べてみました。

すると、六条河原院は、融の死後は子の昇が相続し、その後、紆余曲折の末、結局は数度の火災で荒廃したとのこと。
そして、江戸時代になって、跡地の一部に渉成園が作られたそうです。

ん?
渉成園?
セガレを授けてくださった上徳寺さんの近くにある、あの渉成園?

あ!
その上徳寺さんの山号は「塩竈山(えんそうざん)」だ!

鹽竈神社と上徳寺に接点があったとは・・。
思わぬ偶然に、ちょっと鳥肌が立ちました。

急いで上徳寺さんのパンフレットを引っ張り出すと、その中面に、山号「塩竈山」の由来という見出しがありました。

また、塩竈山上徳寺という山号は、この五条の地は嵯峨天皇第二十一の皇子、従一位左大臣源融公が、河原に庵をつくり、池をほり、毎日、潮を三十石ばかり入れて、海底の魚介なども住まし、陸奥の塩竈、千賀の浦の景を模し、海士が塩屋のけむりをたて、趣を賞でたという史跡により、当山に塩竈明神を鎮守としてまつり、塩竈山上徳寺と号して、さきの本尊を安置した。

パンフレット、何にも読んでいなかったんですかね・・。
1年半後の大発見に、苦笑するしかありませんでした。

154 上下一心

先週末は、仕事にプライベートに充実した時間を過ごすことができました。

まず土曜日。

セガレの通う高校(中高一貫の男子校)で、体育祭が開催されました。
生徒たちは入学時に与えられた赤・白・黄・青の4色に分かれて、優勝目指して戦います。
この色は、卒業まで変わることはありません。

各色とも縦に4分割されるので、中1から高3までが団結しなければなりません。
その旗振り役を担うのは、「4役」と呼ばれる高3の幹部です。
団長・副団長・応援団長・副応援団長によって構成される4役は、その色の象徴的存在であり、その年の体育祭の顔でもあります。

4役はじめ高3の役員らは、年の離れた後輩たちに、競技ごとの秘策や心構えなどを熱血指導します。
「高3になったら4役になる」と心に秘めてきた役員たちですから、体育祭への思い入れは生半可なものではありません。
勝っても負けても、4役らの熱き思いは、下級生へ引き継がれていきます。

なお、高3だけは、体育祭当日に限り、髪を自分の所属する色に染めることが許されます。
そして、この「色」に対する意識は、卒業後も続きます。

私のお客様で、セガレの大先輩にあたる医師がいらっしゃいます。
その先生に入学の報告をしたところ、

「合格おめでとう!で、何色?」

と質問されました。

何組?とか、担任は誰?とか聞く前に、まず色を確認するのが通例であることは事前に抑えておいたので、「青です!」と即答できました。

以前、学校主催の講演会に参加した際、登壇した同校OBの演者がこう自己紹介していました。

「昭和☆年卒の☆☆☆☆です。あっ、色は赤です。これを言わないとダメですよね。」

これを聞いた途端、会場にいた赤組の現役学生から、大きな拍手が湧きました。
同窓が絆を深めるツールとしては、簡単明瞭でとてもいいなと思います。

さて、体育祭当日。
天気は晴れたり曇ったりの運動日和。

セガレの所属する青組は優勝から8年間遠ざかっており、入学後の成績は、4位、2位、4位。
チャンスは今年を入れて3回。
在学中に優勝を経験できなかった先輩たちの無念な思いも抱いて、ぜひとも今年は栄冠を勝ち取って欲しいものです。

果たして、結果は・・・・、

848点を獲得した、青組が優勝しました!!

ただ優勝だけを目指してきた青い髪の少年たちは嬉し涙を流し、最大5つも年の離れた後輩たちと勝利の喜びを分かち合う姿は、青春そのものでした。

一方、応援席では、運営のサポートに尽力した高3の母親たちも、抱き合って号泣していました。
たかが子供の体育祭、では片付けられないドラマを見た気がしました。

私とカミさんにとっても、初めて勝利の余韻に浸りながらの帰路になりました。
せっかくだからと、少し遅れて下校したセガレと渋谷で待ち合わせ、家族3人でささやかな祝勝会を開きました。

そして、翌日曜日。

6時30分に起床し、すぐに仕事に取り掛かりました。

例年、体育祭ではギラギラの太陽に体力を奪われ、その翌日はボロ雑巾のようになってしまうのですが、今年は曇りの時間帯もあったためか、元気に日曜日を迎えられました。

それでも、体育祭をただ座って見ていただけ、もっと言えば、一番気温の上がる時間帯には食堂へ避難して居眠りをしていたにも関わらず、太ももの筋肉痛を抱えながらの仕事となりました。

長椅子に座っていただけで、どうして筋肉痛になるのか理解不能ですが、朝から仕事に向き合えたので良しとします。

そして、午後は、東京国際フォーラムで「葉加瀬太郎・高嶋ちさ子・古澤 巌〜3大ヴァイオリニストコンサート 2019〜」を鑑賞しました。

素晴らしい演奏と、高嶋ちさ子さんの毒舌トークについては、またの機会に書きたいと思います。