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235 帰馬放牛

子どもの頃、初詣は決まって家族で靖國神社に行きました。
参拝に行くと、拝殿の手前の中門鳥居で一旦足を止め、「兵隊さんが戦地から家族へ宛てて書いた書簡を読みなさい」と父に言われました。

自らの命が残りわずかであることを悟るなかで、両親のからだを気遣い、弟や妹には立派な大人になって親孝行するように言い含める内容が多かった印象です。
二十歳前後の青年がしたためた文面が、悲しくて、崇高すぎて、こんな不幸な時代がほんの少し前にあったことの衝撃を、毎年正月に感じていました。

私は毎年拝読しましたが、母は、前途ある若者の最後の手紙が可哀想で可哀想で、あまり読みたくないんだとこぼしていました。

今月掲示されているのは、昭和20年4月、沖縄で命を落とした長野県出身の21歳男性が家族へ送った手紙です。
戦争とは本当に愚かな行いなんだと、改めて思い知らされる内容です。
(https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html)

正月に靖國神社に出向く理由は、父の名付け親が靖國に眠っているからだ、ということは漠然と聞かされていましたが、細かなことは知りませんでした。
そこで、先日詳しく話を聞いてみました。

その名付け親とは、父にとっては叔父にあたる方で、兄弟の末っ子でしたので、比較的歳が近い叔父でした。
幼い頃、一緒に遊んでくれた優しい叔父は、昭和20年、フィリピン沖で還らぬ人となりました。

当時、叔父には故郷に許嫁がいたそうです。
父もその女性の姿に、記憶があるそうです。
気立ての良い女性だと家族からも大変に評判の良い方で、皆が結婚することを待ち望んでいたそうです。
しかし、その望みが叶うことはありませんでした。

戦死の報せが届いた日、許嫁の女性と父の両親が、家の片隅で抱き合って泣いているのを見たそうです。
その光景は何年、何十年経っても忘れられないと、父は話していました。

月日は流れ、昭和24年。
父が上京し、住み込みで働くことになった際、母親からこう言われたそうです。

「伊豆の田舎から靖國神社へ出向くのは容易でない。お前がきちんと参拝するように。」

初詣にそんな背景があったとは、驚きでした。

私にとって最も身近な神社は靖國神社ということになりますが、現在の私の趣味である神社巡りの根っこがそこにあるかと言えば、そうではないように感じます。

ただ、靖國神社のホームページで、「護國神社」の存在を知りました。
護國神社とは、郷土の出身者またはゆかりのある方々で、戦場に赴かれ亡くなった軍人・軍属・勤労動員で亡くなられた一般市民の方々など、国家のために尊い命を捧げられた戦没者の御霊を御祭神としてお祀りする神社です。

基本的に道府県に1社(東京都と神奈川県にはありません)、全国に52社ありますので、地方に行くと必ず護國神社を参拝することが習慣となりました。
この習慣は、子供の頃から靖國で拝読していた書簡に起因していることは間違いないと思います。

これまでに参拝させていただいたのは、埼玉、千葉、廣島、栃木、京都、山梨、石川、茨城、宮城、静岡、福岡、愛知、群馬、新潟、奈良の16社(参拝順)。
52分の16ですから、まだ三分の一にも届きません。

私にとって靖國神社や全国の護國神社は、祖国を守り家族を守ろうと戦い続けた多くのご英霊に感謝を伝える場所であり、恒久平和を祈る場所です。
戦争を美化したり、責任追及する場ではありません。

作家でジャーナリストの門田隆将氏の著作で、大正生まれの男子は、7人に1人が戦死していると知りました。
私の敬愛する母方の伯父は、何度も出征しましたが、九死に一生を得て生還した大正生まれの1人です。
しかし、99歳で亡くなるまで、家族にも戦争の話はほとんどしなかったそうです。

ただ、「戦地でいろんなことがあったから、オレは晩年、幸せになれないと思う」とくぐもった声で言ったことがあると、母が教えてくれました。
伯父は、生きるか死ぬかの極限状態を何度も生き抜いてきたのでしょう。
その心中は、私には察することすらできません。

ところで、79回目の終戦記念日を迎えるにあたり、ネットで意外なニュースを目にしました。
パリ五輪を終えて帰国した卓球日本代表の早田ひな選手が、報道陣の質問に対してこんなコメントをしたそうです。

福岡・北九州市出身の早田には、パリ五輪が終わり同じ九州地方で行きたい場所があるという。「行きたいところの一つは(福岡の)アンパンマンミュージアム。あとは鹿児島の特攻資料館(知覧特攻平和会館)に行きたい。生きていること、卓球ができているのは当たり前じゃないのを感じたい」と意外な場所を口にした。

早田選手は弱冠24歳。
一流のアスリートであり、人間としても秀逸な早田選手には、唯々感心しました。

先述の門田隆将氏も、「故やなせたかし氏も、知覧の亡き特攻兵たちも、きっと驚き、そして喜んでいるだろう。有難う、早田さん」とSNSでつづりました。

明日は、私も現在の平和の礎について思量する機会にしたいと思っています。

230 拳拳服膺

先日、階段を踏み外し、お尻からダダッと2〜3段転げ落ちました。

お客さんとの打ち合わせのあと6階のエレベーターホールまで見送っていただき、エレベーターに乗ろうとしたところ、タイミング悪くドアが閉まってしまったので、「階段で帰ります!」と元気に答えた20秒後のことでした。

とっさに右手で支えようとしましたが、カバンを持っていたため肘しか使えず、体勢を立て直したときは、右肘の痛みに顔を歪めました。
とはいえ、お尻を強打した感覚はなく、右肘以外に痛みを感じる箇所はありませんでしたので、転げ落ちた割りには軽症で済んだなと感じていました。

ところが、夜になると、肩、首、右の脇腹が痛くなってきました。
転んだ瞬間、あちこちに妙な力が入ったのでしょうか。
しばらくは、寝る体勢を決めるのにも、痛みのために苦労しました。

その4日後、お客さんのゴルフコンペがありました。
プレイに影響がないか、前日素振りをしてみましたが、痛みは感じませんでしたので、安心してコンペに臨みました。

ところが、スタートホールのティーショットで、右脇腹に強烈な痛みが走りました。
コースに行くと力んでしまい、素振りのようにスイングが出来ない、素人ゴルファーの典型です。

どうにか完走できましたが、痛みでうずくまる時もありましたので、一緒にラウンドした方には大変ご迷惑をお掛けしてしまいました・・。
また、スコアがいつもと大して変わらないというのも不思議ではありました・・。

話は変わりますが、若い頃からお世話になっているドクターがいます。
救急医学を専門とする、とても著名な先生です。
元々は父が仕事でお世話になっていましたが、私が30代の頃から「もうオヤジの時代じゃない、セガレをよこせ」と私を使って下さる、ありがたい先生です。
80歳を超えた今も現役でご活躍されており、所属が変わっても報告書の仕事などを私にご用命くださいます。

「オヤジは元気か??」
お目に掛かると先生は必ずこうおっしゃいます。

「はい、90歳を過ぎましたが、電車でほぼ毎日会社に来ております」

「それはスゴイ、100までいくな。転ばないように気をつけてと、伝えてな」

先生から何度となく「転ばないように」という父へのアドバイスをいただきました。
救急医学の権威がおっしゃる「転ぶな」のお言葉は、説得力絶大です。

90過ぎの父が転ばぬようにご心配いただいたにもかかわらず、息子の私が転んでる場合ではありません。
先生のアドバイスを、今後は私も十分注意しなければいけません。

ところで、この先生にまつわる忘れられない思い出があります。

打ち合わせに来ていただきたいのですが・・、と秘書さんから電話があり、早速出向きました。
ひと通り説明を受けたところで、

「忙しいところ悪いが、金曜日の夕方に厚労省の担当者に渡したいんだ。間に合うか?」

金曜日って明後日か??
あちゃ〜・・・・
いくらなんでも無理だな・・・・

心の中でそうつぶやきながら、こう答えました。

「はい、頑張ります!!」

これまで先生からの依頼に首を横に振った記憶がありません。
どんなに無理な依頼であっても、お役に立ちたい! と思わせる不思議な力を持った先生なのです。

特急でデータを作って印刷し、製本所の協力もあおいで、指定の日時に納品に伺いました。

「先生、今回ばかりはなかなか厳しい納期でしたが頑張りました。ちょっとでいいので誉めていただきたいです!笑」

と申し上げると、先生は何かボソボソつぶやきながらお財布を取り出し・・・・、

「これ、お年玉だ」

と、やおら一万円札を机に置きました。

「いやいや、滅相もないことでございます(汗)。口幅ったいことを申し上げてお詫びいたします・・」

「違う違う、まだ1月だし、オレがお年玉をあげるってだめか??」

先生は笑いながらお札を差し出され、結局、私は深々と頭を下げて頂戴いたしました。

その光景をニコニコしながら見つめていた秘書さんにもお礼を申し上げて部屋をあとにすると、遠くから「ありがとう!」という先生の声が聞こえてきました。

社に戻って父に報告すると、「納品した業者がお小遣いをもらうなんて、聞いたことないな、嬉しい話だな」と喜んでいました。

その一万円札は、きちんと2つに折って、ずっと財布に入れています。
私にとって、かけがえのないお守りです。

215 大慈大悲

昨年11月頃、ネットで京都に関する情報を見つけました。

京都市と京都市観光協会(DMO KYOTO)は、JRグループ6社と連携したデスティネーションキャンペーン「京の冬の旅」を、2023年1月1日~3月27日に実施する。

第57回目となる今回は、1月8日から放送のNHK大河ドラマ「どうする家康」や「親鸞聖人御誕生850年」「弘法大師御誕生1250年」などにスポットをあて、普段は見られない15か所の貴重な文化財を特別公開する。

1年を通すと観光客が比較的少ない冬季の集客を狙って始まったイベントかと思いますが、57回目という回数に驚きました。

これまでも冬の特別公開には興味を抱いてきましたが、普段見ることができない文化財が鑑賞できる機会はとても魅力的です。

清水寺、仁和寺、醍醐寺、大徳寺・・・・。
今回も有名なお寺が並んでいるな・・と思ったその時、目を疑う記事を発見しました。

「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 上徳寺

~「世継地蔵」で知られる家康ゆかりの寺~

「大坂の陣」にも関わったという徳川家康の側室・阿茶局を開基として創建。通称ともなっている「世継地蔵」は「子授け祈願・安産祈願」の信仰を集める像高約2mの石像で、今回は地蔵堂の内部に入って間近で参拝することができる。本堂では、家康と二代将軍・秀忠、阿茶局の肖像画など寺宝も特別展示。また貴族の邸から移築されたと伝わる書院造の客殿は、紅葉や桜を描いた江戸後期の円山派の絵師による襖絵や枯山水庭園がみどころ。

以前何度か紹介させていただきましたが、上徳寺は我が家にセガレを授けてくださった有難いお寺です。
そのお地蔵さんが間近で見られるとは、信じられません。

数年前、毎年2月8日に行われる大祭に参加し、地蔵堂の中に1度だけ入ったことがあります。
しかし、お地蔵様は少し中に鎮座しているため間近で見られた訳ではありませんし、今回の特別公開では地蔵堂のみならず、本堂や客殿にも上がることができると知りました。

そのうえ、本邦初公開です。
こんな貴重なチャンスを逃すわけにはいきません。
1月上旬に、拝観に行ってまいりました。

拝観料800円を納め、本堂に上がらせていただきました。
これまで20回以上訪れているお寺さんですが、本堂内に入るのは初めてのことです。

堂内は荘厳で静謐。
また、堂々とした寺額は、存在感抜群でした。

中には説明をしてくれるスタッフさんがいて、上徳寺は1603年の建立と伺いました。
1603年?
2003年生まれのセガレは、建立400年の年に授かったわけです。
さらに深いご縁を感じ、興奮でちょっと体温が上がった感じがしました。

ただ、残念だったのは、ご本尊の阿弥陀如来様が、今、東京に行っており、3月上旬にお戻りになる予定とのこと・・。
残念ながら、拝顔の栄に浴することはできませんでした。

本堂を見学した後、客殿も拝見いたしました。
ネットでも紹介されていた襖絵は見応えがありましたし、枯山水庭園も見事でした。

そして、最大のイベント、世継地蔵様を間近でお参りする機会が巡ってきました。

結婚して8年、子宝に恵まれなかった我々夫婦が、新幹線内で読んだガイドブックでその存在を知り、初めてお参りしたのが2003年1月。
その年の10月にセガレを授けてくださったお地蔵様を、至近距離で拝むことができるのです。

若干緊張しながら靴を脱いで地蔵堂内にお邪魔し、向かって左側へ進むと、正に目の前、30cmほどの距離に石像が鎮座していました。

その瞬間、図らずもカラダが硬直しました。
どこかが震えているのを感じました。

他に参拝者がいなかったこともあり、しばらくの間、立ちすくんでいました。
写真撮影も許可されていましたが、スマホは握らず、心の中に深く、深く刻むことに決めました。

あれから2ヶ月。
せわしい年度末の日々を過ごしていましたが、ふと、お地蔵様のことを思い起こしました。
あんなに近くで拝顔させていただき、有難かったな・・。
そういえば・・、

ご本尊は東京から戻ってきたのかな・・。
手を合わせに行きたいなあ・・。

ひょっとしたらと思い、Twitterをチェックしてみると、無事、京都にお戻りになっていると知りました。

しかし、今年の冬のイベントは、3月19日まで。
週末はあと1回。
仕事もたくさん残っているな・・と迷いながらも、先日、弾丸で行ってまいりました。

ようやくお目にかかれたご本尊は、穏やかで慈愛に満ちた表情をされていました。

以前お邪魔した際、スタッフさんからご本尊の特徴について、以下のようにご説明を受けました。

  • 右手は胸の前、左手は下に垂すというポーズが多いと言われているが、手の位置が左右逆になっている。
  • 袈裟の右肩をはずして、左肩だけを覆う着方(偏袒右肩)が多いなか、両肩を袈裟で覆っている。

間違いなく、その通りのお姿でした。
感謝を込めて手を合わせてまいりました。

また、お寺の西側にある墓地には、側室でありながら家康公の懐刀として歴史に残る活躍をした阿茶局が眠っています。
この墓地にも、今回初めて入ることができました。

才知の局と紹介された墓碑を読み進めていくと、京都では上徳寺、江戸では雲光院が菩提寺となったと記されていました。

今度、東京の菩提寺も訪問してみようかなと、帰りしなスマホをいじってビックリ。
雲光院は、弊社から徒歩5分のところにあるお寺でした。

弾丸ツアーでしたので時間の余裕はさほどありませんでしたが、益々ご縁を感じる素晴らしい旅となりました。

211 終食之間

最近お気に入りのお弁当があります。
亀戸升本さんが作る「すみだ川あさり弁当」です。

ツイッターでも高評価を得ている亀戸升本さんは、明治38年に酒屋として創業。
その後、幻の江戸野菜「亀戸大根」を復活させ、割烹料理屋として復興したという、少し変わった経歴のお店です。

では、このお弁当のお薦めポイントを3つご紹介します。

お薦め①:亀辛麹(かめからこうじ)
写真中央の小さなカップに入った、米麹と青唐辛子と有機醤油を長期熟成させた秘伝のタレです。
ピリッとした辛さが特徴で、鶏つくね、里芋、ご飯等、何にでも合います。
思い出すと無性に食べたくなる、やみつきのタレです。

お薦め②:卵焼き
ちょっと隠れてしまって分かりづらいのですが、写真の一番下に、かなり分厚くてビッグサイズの卵焼きが入っています。
様々詰められたおかずの中で、ふんわり柔らかくてほんのり甘いこの卵焼きが私は一番好きです。
半分はそのまま、残り半分は亀辛麹と共に楽しむことにしています。

お薦め③:カラダに優しい
美味しいだけではなく、添加物が少ない点も大きな魅力です。
原材料表示は下記の通りです。

お弁当でよく見かける、増粘多糖類、pH調整剤、ソルビット、グリシン、酢酸Na、保存料(ソルビン酸K)などなど、定番の添加物が見当たりません。
私は小さい頃から食の安全について母から教えられてきましたので、このお弁当はとても嬉しいですね。

さてワタクシ、お弁当にまつわる忘れ得ぬ思い出が2つあります。

1つは、小学校高学年の頃。
ひとりで夏期講習か冬期講習に参加したときのことです。
確か、日暮里駅か鶯谷駅の近くにあった、当時としてはそこそこ大きな規模の学習塾だったと思います。

昼の休憩時間、持参したお弁当を席で食べていたら、前に座っていた見知らぬ2人の生徒が振り向きざまにこう言いました。

「お前のエビフライ、ちっちぇな」

そう言い放ったのは背の小さな方。
そして、その横でニヤニヤ笑う小太りの男が持つお箸には、私の2倍以上の大きさのエビフライが握られていました。
その存在感は、抵抗する気持ちを萎えさせるに十分なものでした。

私ひとりで見知らぬ塾生2人を相手に喧嘩をする度胸もなく、「テストの点数は負けねーからな」なんて密かに思うのがせいぜいでした。

「あなたの学習塾の費用が結構バカにならなくてね・・」と大人になってから母に聞かされましたので、あのエビフライのサイズは、当時の我が家の経済状況そのものだったのだと思います。

50年も前の出来事なのに鮮明に記憶しているということは、当時のショックは大きかったことの裏返しなのでしょうか。

今思えば、あの大きなエビフライは、お総菜コーナーで購入したのではないでしょうか。
かーちゃんが愛情込めて手作りしてくれたことに値打ちがあるんだ、なんてやり返すことは、当時無理だったなと思います。

もう1つは高校1年生のとき。
教室の席は氏名の五十音順に決められていましたので、私・ヤマダは最後から3番目の窓側の席でした。
そして、私の右に座っていたのは、お坊ちゃまの雰囲気漂う「前田」。
昼になれば隣の机に広げられる前田のお弁当は必然的に目に入りますが、これがとても印象的でした。

端的に言うと、美しいのです。
男子高校生が持参する弁当ですから、キャラ弁とかいう美しさではなく、まるで仕出し弁当屋さんが作ったように、色や盛り付けがキレイなのです。
しかも、来る日も来る日も期待を裏切らない、見目麗しいお弁当でしたので、前田の弁当をこっそりのぞき見するのが、日々の楽しみにもなっていました。

こう言っては叱られそうですが、私の母の弁当はとても美味しかったけれど、見栄えは普通でした。
高校1年生にして、料理は美を表現できるものなのだ、ということを前田のお弁当を通じて学びました。

我が家のセガレも中学高校の6年間、お弁当を持参しました。
たまには売店でパンを買うとか、食堂で名物の唐揚げ丼でも食べればいいのに・・、と思うことがありましたが、頑なに弁当を持っていきました。

日曜日以外毎日ですから、作る方は大変です。
ほとんど冷凍食品を使わずに、よく作ったものだと感心します。
少しはカミさんに感謝しているのかな、と思ったりします。

あ・・。
かく言う私も、見栄えがどうとか言う前に、母に感謝の言葉を伝えたことはあっただろうか・・。

209 椿萱並茂

私の父は、昭和8年生まれの89歳です。
16歳の時、荷物を1つ抱えて故郷の伊豆から上京しました。
90歳目前ですが、今も現役で働いています。

80歳を過ぎてから、心臓のバイパス手術を受けました。
入院中、「こんな歳だけど、まだやり残したことがあるので、元気になりたい」と看護師に話し、有言実行、仕事復帰しました。

また、昨年は肩に打った注射から感染症を起こし、入院生活を余儀なくされました。
3週間の入院生活は、88歳の老人の脚力を容赦なく奪いました。
それでも、母の協力もあってウォーキングで筋力を戻し、またまた社会復帰を果たしたのは天晴れでした。
44歳のとき弊社を興した本人とはいえ、 仕事への思いは並々ならぬものがあり、生涯現役を貫くつもりなのだと思います。

一方、母は昭和12年生まれで、誕生日は1月1日です。
本当は12月下旬に生まれたそうですが、役場が休みだったから元日生まれで届けを出した、と自身が子供のころ聞かされていたそうです。
元日の方が確実に役場はお休みだと思うので、理屈に合わないのですが・・。

85歳になっても変わらず料理が上手で、今もおかずを作って私に持たせてくれることがあります。
また、スマホでLINEができるのは、この歳にしてはスゴイことだと思います。

日本歯科医師会が80歳になっても20本以上自分の歯を保とうという「8020運動」を推進していますが、母は85歳にして歯の欠損がありません。
「子供の頃、貧しいものしか食べられなかったのが逆に良かったのかも」などと本人は言いますが、驚異的な口腔内健康の持ち主です。

父と同様に、母も若い頃からよく働く人でした。
狭いアパートでノンブルを打つ内職作業を、毎日のようにしていました。

「ノンブル」とは印刷業界用語ですが、ページ番号と表現すればわかりやすいでしょうか。
フランス語で「数」を意味する「nombre」に由来すると聞いたことがあります。

要するに、母の内職は、ナンバリングの機械で伝票に番号を打つ作業でした。
小さい卓袱台のような作業台の前に正座して、1枚1枚番号を打っていくのですが、これが思ったより難しい作業です。

まず、指定の位置に打たなければなりません。
多くの場合は、アンダーラインに沿って、その上側に打っていきます。
上下左右に位置が動いてしまうと、見栄えがよろしくありません。

また、ペラものであれば打つたびに番号を進めればよいのですが、2枚複写であれば2回に1回、3枚複写であれば3回に1回、機械の一番上にあるボタンを親指でノックして番号を進めなければなりません。

そして、機械を紙に強く押しつけると必要以上に紙が凹みますし、機械の番号部分も摩耗します。
なによりアパートでしたから近隣への騒音も気にしなければなりません。

母は、なるべく音を立てないように、でも、番号の印字が欠けないよう絶妙な力加減で作業する達人でした。

「実は、あなたの塾代が結構負担でねえ・・」
15年くらい前、母が打ち明けました。
1回打って1円に満たない内職代が私の通塾を支えてくれたんだなあ、とずいぶんいい歳になってから気付きました。

椿萱並茂。
両親がどちらも健在でいること。

私の年代になると、両親のどちらかを既に亡くされた友人が目立ちます。
中には、両親ともに他界された仲間もいます。

自身が還暦ですから、親は80代から90代。
悲しいことですが、致し方ありません。

両親とも健在、しかも元気で暮らしているのですから、私はとても恵まれています。
そんな両親に、先週の敬老の日には、お気に入りの京都の名店から、秋限定のご馳走膳を贈りました。

202 時代錯誤

フラワーショップに行くのが、少し苦手です。
どことなく照れくさい想いがあります。

花束をいただくのは、さらに苦手です(これまでの人生で花束をいただいた回数は、片手に余る程度ですが)。
初めていただいたのは、22歳の誕生日。
赤い薔薇の花束でした。
どう対処したら良いか、当惑した記憶があります。

究極は、いただいた花を抱えて電車に乗れとなったら、かなりよからぬ事態です。
浮いてる感で、車内での居心地は最悪だと思います。

これらは、典型的な時代遅れの男の姿、と言えそうです。
なぜなら、花を贈ることに恥ずかしさや照れくささを感じる男性は年々減っている、という調査結果があります。

また、バレンタインデーに花を贈る男性が増えているそうです。
バレンタインデーって男性が女性からチョコレートをもらう日でしょ! と思うのですが、これがまた昭和の男の発想のようです・・。

世界では、バレンタインデーは「男女がお互いに愛や感謝の気持ちを伝え合う日」として、主に男性から女性へ花を贈る風習が根付いているそうで、実はバレンタインデーは「世界でいちばん花を贈る日」なのだそうです。

そんな文化を日本にも広めようと、2010年に花業界が「フラワーバレンタイン」の啓発活動を始めました。

日本農業新聞によると、この推進活動によって、バレンタインデーに花を買う男性の割合が2020年には平均で7.5%となり、7年間で6倍に増えたとの調査結果を掲載しています。
特に20代の購入率が高く、若年層には既に浸透しているようです。

かくいう私も、以前に比べれば、花に対する抵抗感が少なくなってきたと自覚しています。
今年はカミさんの誕生日と母の日が重なったため、先日、2日続けてフラワーショップに立ち寄りました。
カミさんにはアレンジメントされたフラワーボックスを、そして、実母と義母にはカーネーションを購入しました。

因みに、2012年から「Mr.フラワーバレンタイン」に就任しているキングカズこと三浦知良さんは、年間で1,000本を超える赤いバラを女性に贈っているのだそうです。

スーツを颯爽と着こなし、花束が似合う男・・。
ちょっと自分には及びがたいですね。

195 犬馬之歯

先週木曜日、60歳(還暦)になりました。

還暦で思い出すのは、長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の「今日、初めての還暦を迎えまして・・」というユニークなコメントです。
自分はまだまだ先のことだと思っていましたが、あっという間でした。

平均寿命が長くなり、還暦を長寿の祝いとする習慣は薄れてきましたが「節目の特別な誕生日」という感覚はまだ根強いようで、周囲の方々からお祝いをいただくことが続きました。

以前このブログでも紹介しましたが、あるお客様からは大きな紅白まんじゅうをいただきました。
そして、古くからお付き合いのある紙問屋の営業さんからは蘭の花をいただきました。

また、私が10年以上幹事を務めているゴルフコンペのメンバーから、祝いの品を頂戴しました。
しかも、コンペ終了後のパーティーの席でのサプライズな演出に驚かされました。
いただいたのはポロシャツとカステラのセット。
ポロシャツは私がお気に入りのメーカーでしたし、カステラは私が甘党と知ってのチョイスです。
その心遣いが、二重に嬉しかったですね。

さらに、仕事つながりの4人でゴルフに行った際にも、お祝いをいただきました。
東京オリンピック、ゴルフ日本代表とお揃いのポロシャツを頂戴したことにもビックリしましたが、私の名前と蠟燭60本のイラストが印刷された真っ赤なオリジナルTシャツまでいただき、感動しました。

ハッピーバースデーハットを被り、本日誕生日のタスキをかけた朝イチのティーグラウンドでの写真もありますが、品位等の諸事情を鑑み、非公開とさせていただきます。

それから、兄弟と呼び合う一回り年下のお客さんは、2人だけの食事会を企画してくださいました。
そして、記念の品として、金沢の銘品「金かすてら」をいただきました。
デラックス感は写真でも十分伝わると思います。
リッチで幸せな気分に浸ることができました。

そして、義母からもお祝いの食事会をしよう、とお誘いいただき、叙々苑で高級ランチをご馳走になりました。
こちらが長寿のお祝いをしなければいけないのに、立場が逆転してしまいました。

最後に、小学校の同級生からも贈答品が届きました。
半世紀以上の付き合いになるこの仲間とは、2年に一度京都旅行をしており、なぜか私は「隊長」と呼ばれ、取り纏め役を仰せつかっています。
いただいたのは、私の大好物、京都からのお取り寄せ「権太呂なべ」です。
車海老、蛤、白焼き穴子、鶏肉、生麩などを、絶品の出汁でいただきます。
翌日はおじやにして、もう1日楽しむことができます。

破顔一笑、豪華絢爛、阿鼻叫喚、珍味佳肴、愉快適悦・・。

歳をとることは豊かで素敵なことなのだ、と皆さんから教えられたような気がします。
そして、家族や友人には本当に恵まれたと改めて感じました。

改めて60という年齢に思いを馳せたとき、ピンと来ないというのが正直な心境です。
息子として生まれ、結婚して夫となり、子を授かって父となり、会社の経営を引き継いで社長となり、様々な立場を経て、60歳になりました。

・親孝行な子であったろうか。
・家族思いの夫であったろうか。
・尊敬される父であったろうか。
・社員を守る経営者であったろうか。

顧みると、明らかに反省点が多いです・・。
無駄に歳を重ねてきた面も認めざるを得ません。

歳を重ねることが怖いと思ったことはありませんが、加齢を感じる事象に接するたびに、希望が少しずつ失われていくような想いを感じていました。
今後は、寄る年波を静かに受け入れつつ、時には少し抗い、自分に構うことを忘れず、残りの人生を全うしていきたいと思っています。

189 用和為貴

国内における新型コロナウイルスに対するワクチン接種が、ここにきてスピードを増してきました。
北海道の奥尻島では、島内の高校生を対象に今月末にもワクチンの接種を始める方針であるとか、東京都新宿区では7月上旬から20代や30代の若者を優先的に集団接種を始めるとか、医療従事者や高齢者以外にも接種対象が広がる傾向を見せています。

とはいえ、現在接種しているのは、海外製のワクチンです。
世界的にワクチンの需要が高まるなか、海外から期待通りに安定供給される保障はありません。

しかし、日本ではワクチン開発に巨額な予算が投じられていないことや、安全性や倫理性の確認に時間を要することなど、国産ワクチンの早期開発は、まだ現実性を帯びていないようです。

アメリカでのワクチン開発に関して、興味深い記事がありました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be0246c317e42e6e18630519523d3b964946af7f?page=1

昨年5月15日、トランプ大統領は「オペレーション・ワープ・スピード(OWS)」に着手しました。
その内容は、正規の手続きを踏むと73カ月要する工程を14カ月に短縮し、「安全で効果的なワクチン3億回分を2021年1月1日までに供給する」ことをミッションに定め、具体的には、以下のような工夫が盛り込まれています。

  • 「複数のプロジェクトを並行させ、有望なものは開発途中から治験を開始する」
  • 「事前に3万人のボランティアを集めて、早期承認のためのデータを収集する」
  • 「治験の最中から生産に踏み切る」
  • 「ワクチンが完成する前から、配布と接種の準備を始める」

このあと、上記サイトでは、次のように続けています。

特に製品ができる前から生産に踏み切る、というのは文字通りの「見切り発車」である。後で「ダメでした」となるかもしれず、その場合は投入した予算が無駄になる。とはいえ、アメリカの総人口は3億3000万人。たとえワクチンが完成しても、それだけの数量を用意できなかったら意味がない。事態はまさに「ワープスピード」を必要としていたのである。 そこで開発しながら治験をし、治験をしながら生産し、その間に配布から接種の計画を立てておく。そうでないと間に合わないから。いやもう「後手後手」批判が絶えない日本政府とはえらい違いである。もっともこれと同じようなことを日本でやろうとしたら、官僚は「法律にありません」と首を振り、野党は「失敗したら誰が責任を取るんだ!」といきり立ち、マスコミは「税金の無駄は許されない!」などとのたまうことだろう。

政府への批判は様々取り上げられています。
縦割り行政が悪い、デジタル化が遅れている、過去の教訓が生かされていない・・などなど。

私も企業経営者の端くれとして、政府に申し上げたいことはたくさんあります。
しかし、批判・攻撃・咎立は、心をギスギスさせます。
コロナ禍は、人の素を暴くことになったとも言われています。
足元を見つめ、やるべきことをやり、心が乾かぬように日々過ごしたいと思っています。

将来を思い煩うな。 現在為すべきことを為せ。その他は神の考えることだ。

高校の倫理社会で学んだ、アミエルの言葉を思い出しました。

そんな中、日本政府が提供したアストラゼネカのワクチン124万回分が、4日午後、台湾の空港に到着したというニュースを耳にしました。

台湾では5月中旬から感染が拡大している反面、ワクチンの調達が難航しているそうです。
蔡総統によると「海外の製薬会社からのワクチン調達が中国の妨害で難しくなっている」とのこと。

台湾といえば、東日本大震災のとき、真っ先に救いの手をさしのべてくれました。

いただいた義援金は総額200億円以上。
震災翌日から台湾各地で募金活動が展開され、日本の5分の1に満たない約2,350万人という人口を考えたとき、その額の大きさに驚きます。

支援は義援金だけではありません。

震災から5日後、3月16日。
白いズボンと白い帽子、背中に蓮のマークをつけた紺色のジャンパーに身を包んだ一団が、茨城県・大洗町に到着しました。
台湾の慈済基金会日本支部の人々で、トラックと自家用車を連ねて、被災地の人々に温かい料理を振る舞ったのだそうです。

また、2カ月後の2011年5月から半年間、台湾政府交通部観光局は「台湾希望の旅」として、岩手・宮城・福島県の被災者1,000人を無料で2週間台湾に招待する支援を行っています。
そして、震災復興が本格化すると東北に直行便を飛ばし、震災後最初に旅行客を送ったのも台湾だそうです。

これらの支援には、2,400人余りの犠牲者が出た1999年の台湾大地震の当日に、救助隊を派遣した日本への恩返しの気持ちが込められているとも言われています。

ワクチン提供の続報として、支援を受けた台湾市民から、台北の日本台湾交流協会台北事務所(大使館に相当)にたくさんの花が届いたと知りました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1319642b83dcaafdd27ff82d68784b4147a90421

こういった国境を越えての助け合いは、心温まる思いがします。

「用和為貴」。
和を用って貴しと為す。
人と人が仲良く協力しあうことが最も大切であるということ。
十七条憲法の第一条にある言葉です。

花といえば・・。
先日、古くから付き合いのある紙問屋の営業さんから、胡蝶蘭が届きました。
プレートには「還暦祝い」の文字。
過日ご紹介した紅白まんじゅうに続いて、お祝いをいただきました。
ありがたいことです。

生まれて初めて頂戴した胡蝶蘭ですが、ネットで調べてみると、大切に育てると長く楽しめるようです。

風通しが良く、エアコンの冷気が直接当たらない場所に置く。
ラッピングは外す(写真にはまだ写っていますが)。
水は控えめに。

日々喜びを感じながら、注意事項を頭に入れて育てていきたいと思います。

188 真剣勝負

セガレが通う学校は中高一貫の男子校です。
毎年5月中旬には体育祭が行われ、白、赤、青、黄の4つの組に分かれて競います。

この色は入学時に言い渡され、卒業まで、いや、極端な言い方をすれば、一生「自分の色」になります。

学校全体を縦割りにし、それぞれに色を割り振って体育祭を行う学校は多いと思いますが、クラス替えなどに関係なく、中1で与えられた色に6年間所属するのは珍しいかも知れません。

そして、この色は、卒業後も非常に大きな意味を持っていて、先輩や後輩に会うと「何色?」と確認し合い、同じ色だと分かると、瞬時に親密度が上がるのだそうです。

さて、体育祭でこの色集団を率いるのは、四役と呼ばれる高校3年生です。
団長、副団長、応援団長、副応援団長で構成され、この4人がヒエラルキーの頂上に君臨します。

また、その他の高3メンバーがその脇を固め、「学担(学年担当)」として下級生の競技指導に当たります。
因みに、セガレは高2の学担を務めています。

学年別に決められた競技種目は毎年変わることはなく、種目別攻略法の奥義が、色ごとに引き継がれています。

もちろん、ルールの変更などにも対応しながら、毎年臨機応変に戦術は練り直されます。
早く走ることより慌てて失格にならないことに重きを置こうとか、多少のリスクを冒してでもタイムを詰めることを第一の目的にしようとか、下級生に細かな戦術を指示するのが学担の任務です。
どうしたら他の組を圧倒できるか、どうやって順位を上げるか、来る日も来る日も議論し、分析し、探究し続けます。

ですから、何度も思慮を重ねた末の戦法が見事にかみ合い、自分の担当競技が好成績を収めると、学担は涙して喜びを分かち合います。

いわんや、優勝の栄に浴した四役は、カラダを震わせて歓喜に浸ります。

ん・・、青春っていいですね。

そして、体育祭当日。
高3だけは、所属する「色」に髪を染めることが許されます。
ここでも、高3の心意気が爆発することになります。

ということで、セガレもこのようになりました。
所属の色は、見ての通りです。

年間を通じて、非常に重要な行事と位置づけられている体育祭ですから、間違っても「運動会」と呼ぼうものならひどく叱られます。

ところが、昨年はコロナ禍で中止を余儀なくされました。
過去、雨天による中止が一度だけありましたが、予期せぬ感染症のために中止せざるを得なかった昨年の四役の無念さは、推し量ることができません・・。

そして、今年。
2日に分けての分割開催に加え、OBや保護者、入学志望の小学生などの見学は許されず、無観客での開催ではありますが、ともあれかくもあれ、中止は回避することができました。
しかも、当初の予定を延期し、先生と高3が協議を重ね、ほかの学校行事予定を動かすなどの苦労の末に、開催に漕ぎ着けました。

幸い天気予報は悪くないようです。
学生生活の貴重な1ページになるよう、親として祈るばかりです。

最後に、日曜日の午後、ほかのお客さんの予約を全て断り、まるで我がことのようにカラーリングをしてくださった美容院「FRAU」の渡瀬先生に、深く感謝したいと思います。

187 有頂天外

今日はとても嬉しいことが2つありました。

1つは、松山英樹選手がマスターズを制したこと。
日本人初、アジア人初の快挙です。

優勝を決めた直後、テレビ解説の中嶋常幸プロと宮里優作プロ、そして実況していたTBSのアナウンサーが号泣していて、思わず私ももらい泣きしてしまいました。

松山選手のプレイが圧巻だっただけでなく、キャディを務めた早藤さんの行動にもスポットライトが当たっています。

それは、松山選手がウイニングパットを決めたあとのこと。

早藤キャディが、18番のピンをカップに戻した直後、帽子を取ってコースへ向けて軽く一礼したのです。

この姿を、アメリカのスポーツ専門チャンネルESPNなどがツイッターで紹介すると、たちまち世界へ拡散され、多くのリプライがありました。
「日本人はとても威厳があり、敬意を表する人々だ」など早藤キャディを称賛するものが大半でしたが、中には、批判的なツイートも見受けられました。

今、アメリカ国内ではアジア人へのヘイトクライムが急増し、社会問題になっています。
このタイミングで、日本人がマスターズチャンピオンになったことは、とても意義深いのではないでしょうか。

礼に始まり礼に終わる精神や、サッカーW杯の試合後にサポーターが席の周囲を掃除する礼儀正しさなど、私も日本人としてのスピリットを、改めて心に刻みたいと思いました。

そして、もう1つ。

普段から仕事をたくさん発注してくださるお客さんが、私の還暦祝いとして、紅白饅頭を態々お届けに来てくださいました。

箱を開けてみると、まん丸で大きな紅白のお饅頭が箱に収められていて、おめでたい感がいっぱいに溢れていました。

あんこ大好きな私としては、一度目にしてしまったお饅頭をそのまま箱に戻すことはできず、午前11時過ぎというのに、早速いただくことにしました。

ぎっしり詰まったあんこは控えめな甘さで、
「こういう時は、やっぱ和菓子だよなあ・・」
と幸福感もしみじみ味わいながら、白い方を1個ぺろりと平らげました。。

ずっしりと重たいお饅頭を電車で届けていただいた高橋さん、本当にありがとうございました。

私個人へのお祝いとして、仕事上のお客さんからいただき物をするのは、嬉しいというか光栄というか、本当に幸せなことです。

4月になって、仕事がやや落ち着いてしまいましたが、コロナに負けず、業務に邁進したいと思っています。