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246 合縁奇縁

自分へのご褒美は「京橋千疋屋のマンゴーワッフル」と決めています。
よく働いたなーと思ったときは、カミさんを誘って食べに行きます。
ただ、マンゴーは4月から8月までのメニューなので、秋から冬は違うフルーツになります。

 

さて、先日、ゴルフ仲間の誕生日のお祝いとして銀座千疋屋から、ケーキをお取り寄せしました。
「ゴルフ仲間」などとカジュアルに書きましたが、その方はサラブレッドな家系で、そもそも私なんぞとは住む世界が異なります。
しかし、ご縁とは不思議なもので、近年頻繁にゴルフをご一緒させていただいています。

そして、この方、「マメ」というひと言では片付けられない懇篤な方なのです。

例えば、冬のゴルフ。
シナモンを加えたホットワインをサーモスの水筒に入れ、皆に振る舞ってくださいます。
そして「ヤマダさんは飲めないからこっちね」と、温かい紅茶の入ったスタバの保温ボトルも登場します。
しかも、宝石のような赤紫色をした芳醇なハーブティーが入っているのです。

例えば、早朝ゴルフ。
朝5時頃のスタートという半ば眠い状況を打破する「スタート前の缶ビール」が冷え冷えの状態でスタンバイしています。
そしてここでもヤマダさん用に、ノンアルコールビール、登場です。
「Budweiserのノンアル、珍しいでしょ」と、その銘柄もそこら辺の自販機で買ったモノとは訳違うのです。

毎々面倒をみていただくばかりなので、恩返しの機会はないか・・と狙っていました。
そんなとき、一泊二日でホテルを併設したゴルフ場に行くことになったため、お祝いのケーキを用意することにした、というわけです。

とはいえ、ご本人に見つかってはすべてが台無しです。
こっそり引き取るから協力して欲しい、と事前にゴルフ場へ電話を入れ、ミッションを実行しました。

朝、チェックインのためにゴルフ場のフロントに着くと・・、

「ヤマダ様、ヤマダ様、ケーキ、届いております。お渡しのタイミング、お申し付けください・・。」

フロントの女性スタッフが、アタリをキョロキョロしながら、消え入るような小さな声で話しかけてきたのには少々笑ってしまいました。

かくして、ゴルフ場の全面的な協力もあり、夕食後に晴れてお披露目ができました。

「なんか変な動きをしてるなーとは思ったよ」

と、少し怪しまれたものの、とても喜んでいただけました。

 

ところで、マンゴーワッフルは京橋千疋屋、お取り寄せしたケーキは銀座千疋屋。
千疋屋はデパ地下でもよく見かけますが、店によって扱っている商品が違うな、と思っていました。

すると、どちらも源流は千疋屋総本店で、京橋千疋屋と銀座千疋屋は、暖簾分けされたそうです。
その詳細は、ホームページに記載されていました。

1881年(明治14年)
中橋(京橋)千疋屋の誕生
千疋屋総本店三代目・代次郎の妹キヨは、二代目の当主 文蔵の時代に番頭としてふるった谷治郎吉に嫁ぎました。治郎吉は商才に長けており、文蔵から厚い信頼を勝ち得ていました。ある日「分家させてほしい」と切り出したキヨに文蔵は、夫の治郎吉のそれまでの千疋屋への貢献と人柄を見込んで暖簾分けを許し、1881年(明治14年)中橋広小路店(京橋千疋屋)が誕生しました。1914年(大正3年)には東京の玄関となる東京駅が開業し、通りには人々が絶えることなく往来。中橋広小路店は大いに繁盛しました。

1894年(明治27年)
新橋(銀座)千疋屋の誕生
千疋屋総本店の番頭であった齋藤義政は1894年(明治27年)、新橋(銀座)千疋屋を出店。
齋藤義政は福井県で生まれで、年頃になると働き口を求めて上京しました。三代目の当主 代次郎とひょんなことから知り合い、また話すうちに、少年の聡明で実直な人柄の良さが伝わり、千疋屋で雇われることになりました。生真面目で良く働き、頭の回転も良く、千疋屋にとって大きな戦力となっていた義政はその後、番頭として起用され、27歳の若さで暖簾分けを許されます。

そもそも千疋屋総本店の創業は1834年(天保5年)。
あと10年ほどで創業200年とは驚きです。

242 気魄一閃

大関・豊昇龍が、第74代横綱に昇進しました。
1月29日に行われた伝達式では、以下のように口上を述べました。

「謹んでお受けします。横綱の名を汚さぬよう気魄一閃の精神で精進します。本日は誠にありがとうございました」
(豊昇龍)

気魄一閃(きはくいっせん)とは、「愚直に真っ直ぐ、力強く立ち向かってゆく精神力のこと」。
力士最高峰の地位にある者が目指す姿勢としては、文句なしですね。

横綱昇進にあたって四字熟語を用いた口上が披露されるようになったのは、若貴兄弟がきっかけではないでしょうか。

「横綱として堅忍不抜の精神で精進していきます」
(三代目若乃花)

「今後も不撓不屈の精神で、力士として不惜身命を貫く所存でございます」
(貴乃花)

貴乃花にいたっては、「ふとうふくつ」「ふしゃくしんみょう」と短い口上に2つの四字熟語を込めました。

そして、この四字熟語を用いた口上スタイルは、モンゴル出身の横綱にも影響を与えました。

「横綱の地位を汚さぬよう、精神一到を貫き、相撲道に精進いたします」
(白鵬)

「横綱の自覚を持って全身全霊で相撲道に精進します」
(日馬富士)

第72代横綱・稀勢の里は、久しぶりの日本人横綱誕生とあって非常に話題を集めましたが、注目された口上はとてもシンプルでした。

「横綱の名に恥じぬよう精進します」
(稀勢の里)

無口な性格がそのまま出たような口上でしたが、「迷ったが、気持ちをそのまま込めた」と説明したそうです。
四字熟語は出るのか!? とちょっと期待していたファンにとっては、ガッカリするような、そして合点がいくような口上だったのではないでしょうか。
息子の晴れ姿を見守ったお父様でさえ「あまりにもシンプルだったね」と苦笑いしたと報道されています。

先日、日本相撲協会の公式サイトで歴代横綱について調べてみました。
初代横綱は「明石 志賀之助」と紹介されていますが、出身地も在位も優勝回数も掲載されていません。
在位が最初に掲載されているのは第4代の「谷風 梶之助」で、宮城県仙台市出身、在位は寛政元年11月 ~ 寛政6年11月とのことです。

寛政元年は、西暦でいうと1789年。
ときの天皇は光格天皇で、江戸幕府将軍は第11代徳川家斉というとてつもない昔です(Wikipediaより)。

第8代の「不知火  諾右衛門」や第10代「雲龍 久吉」らを目にし、 横綱土俵入りの「雲龍型」と「不知火型」のルーツはここにあるのか? と想像しました。
また、明治時代に「小錦八十吉」の名があり、私の知るあの「小錦」には先代がいるのか?? など、非常に興味深いサイトでした。
(ハワイ出身の小錦八十吉は、第6代なのだそうです・・)

私の記憶の中で、最も古い横綱は「柏戸」と「大鵬」です。

物心ついたのが「巨人・大鵬・卵焼き」の時代ですから、一番強いお相撲さんといえば大鵬でした。
プロ野球は、巨人が毎年日本一になるものだと思っていました。
真っ黄色の卵焼きが大好きで、葱や紅生姜などは入れないで欲しい、と母にお願いしたりしました。

ところで、ネットで「巨人・大鵬・卵焼き」と検索していると、「巨人・大鵬・卵焼き 反対語」と関連検索ワードが表示されました。
反対語ってないっしょ・・と思いながら先を進めると、「江川・ピーマン・北の湖」「おしん・家康・隆の里」「阪神・朝潮・ハンバーグ」等々あるようです。

因みに、大鵬関はアンチ巨人であったと伝えられています。
はたして、卵焼きは好きだったのでしょうか。

241 至恭至順

受験シーズンの到来を告げる大学入学共通テストが、来週末に迫りました。

私の大学受験は1980年。
共通一次試験が始まった翌年にあたります。

共通一次試験が導入される前の国立大学は、一期校、二期校に分かれていて、複数の大学を受験することが可能でした。
しかし、国公立大学の志願者全員が同じ5教科を受験し、国立大学の受験を1校に絞る制度が共通一次試験で、「空前の一斉入試」とも呼ばれた大改革でした。

私が受験した時代は、試験科目が国語・数学・理科・社会・英語の5教科7科目で、1,000点満点でした。
文系志望なのに、物理・化学・生物・地学のうち2科目を受けなければならないことに絶望感を覚えた一方、社会は倫理社会と政治経済を同時に選択できたのはラッキーでした。

受験地獄をさらに悪化させていると多くの批判が噴出し、また、マークシート方式を採用したことで「鉛筆をさいころのように転がせば解答が書ける」とも揶揄された入試改革でしたが、45年前、私は「東京大学」受験しました。
ネットで調べてみると、1980年の実施日は1月12日・13日のようですから、明日でちょうど45年が経つことになります。
半世紀近くの年月が流れたにもかかわらず、受験に関するほろ苦い思い出がいくつか鮮明に浮かびます。

高校3年生のとき、私は睡眠を2度に分けていました。
まず、学校から帰ってきてから数時間昼寝をします。
そして、両親の帰宅に合わせて起床し、夕食、入浴。
机に向かうのはその後ですから、勉強開始は22時頃になるのが常でした。

食べ盛りの高校生ゆえ、母親に夜食の支度もしてもらいました。
夜中に食べるお雑煮が、とびきり美味しかったことを覚えています。

夜中までずいぶん熱心に勉強していたように聞こえますが、実のところは勉強開始が24時頃になってしまったり、いきなり夜食を食べ始めたり、日付変更前に寝てしまったり、甚だ薄っぺらな受験生でした。

机の横にラジカセを置き、かすかなボリュームで音楽を聴きながら勉強することもありました。
メインに聴いていたのは山崎ハコさん。
なかなか微妙な選曲です・・。
大学生になったら弾けてやる! という意志の序奏だったのかと思います。

また、ドラマ「俺たちの旅」は、この頃の強烈な思い出です。
昼寝をする前に、夢中で観ていました。

「夜勉強するために、早く家に帰って寝なきゃいけないんだ」と吹聴し、高校の友人を振り切るように帰宅の途についていましたが、ドラマに間に合うよう早く帰りたいというのが本音でもありました。

調べてみると、初回放送は、1975年10月5日から1976年10月10日までの毎週日曜20時からだったようですから、私が夢中になっていたのは再放送だったことになります。
(全46話ですから、放送が1年がかりになるのもスゴイですね)

このドラマは、Wikipediaで以下のように紹介されています。

三流私学・修学院大学の学生カースケ、その同級生オメダと、同郷の先輩で早大OB・グズ六が中心に織りなす友情と青春群像を活写し、生きることの意味、悩み、喜びなどについて問いかける。

高校3年生だった山田少年にとって、このドラマの登場人物は、没入できる要素がふんだんにありました。

  • 主役の大学生・カースケ(中村雅俊さん)とオメダ(田中健さん)は、大学受験を控えた私にとっては憧憬であり幻滅でもある学生像でした。
  • 東大を目指す浪人生・ワカメ(森川正太さん)は、浪人への不安を増幅させる対象でした。
  • オメダの妹・真弓(岡田奈々さん)は、年齢=彼女いない歴だった山田少年に、日々、恋愛妄想を抱かせる存在でした。
  • バスケットボール部のマネージャー・洋子(金沢碧さん)は、キャンパスにはこんなステキな女性がいるのか! と、バラ色の大学生活を夢見るに十分すぎる魅力的女性でした。
  • グズ六の恋人で後に結婚する紀子(上村香子さん)は、将来の嫁さん像という身の程知らずな想像をかき立たせる大人の女性でした。

そして、エンディング曲の「ただお前がいい」に乗せて、番組終わりに表示される散文が印象的でした。

生きることの 本当の意味は 学校では 教えてくれない

友情なんて 大げさなものじゃない オレはただ お前が好きなだけだ

明日のために 今日を生きるのではない 今日を生きてこそ 明日が来るのだ

これらのフレーズは、青春ど真ん中だった山田少年の心を、毎回えぐりました。
海に沈む夕日に向かって「バカヤロー」と叫びたくなるような夕刻を、何度も過ごしました。

受験とテレビに関しては、もう一つ思い出があります。
高校の某先生が、冬休みに入る直前、受験生の我々に向かってこう言いました。

今年の大晦日の夜は紅白歌合戦を観るな!
放送時間帯は机にいろ。
例え勉強はしていなくても、テレビは観ずに机にいろ。
オレは紅白歌合戦も観ずに大学受験に備えていたんだ、という気持ちになれるぞ!

なにをアホなことを! と今は思います。
3行目なんて、全然意味ないじゃん! と・・。

しかし、
実は、
ワタクシ、
何故か、
この先生の教えを守ったのでした・・。

因みにこの年の紅白歌合戦の視聴率は77.0%。
こんな時代だから通用した戒めなのでした。

237 流金鑠石

9月初旬、猛暑の中、ゴルフに行きました。
暑い時期はアーリーバード(朝5時前にスタートするスループレイの早朝ゴルフ)以外はほとんど行かないのですが、久しぶりの日中ゴルフでした。

プレイしたのは、暑さで有名な埼玉県内のコースでした。
スタート前、氷嚢に氷をぎっしり詰め、水筒も満タンに。
プレイ中は、日焼け止めを顔に首に手に足に塗りまくり、止めどなく流れる汗を拭きつつ、どうにか完走できました。

その夜、足に違和感を感じて鏡を見たところ、ふくらはぎが真っ赤でした。
足に塗りまくったはずの日焼け止めは、前側、要するに脛に塗るばかりで、裏側には全く塗られていなかったのです。
いくつになっても、おっちょこちょいは直りません・・。

肝心のスコアは、47・48。
相変わらず上達しませんが、完走しただけで「天晴れ」がいただけるのではないかと思います。
いや、こんな暑い日のゴルフはカラダに悪いぞ!と「喝」ですかね。

それにしても近年の夏の暑さは度を超しています。
福岡県太宰府市では、昨日も気温が35.0℃まで上がり、今夏62日目の猛暑日となったそうです。
これまでの国内最多記録だった群馬県桐生市の46日を、劇的に更新しました。

また、先日ネットで京都市が50-50を達成という記事を見つけました。
年間の猛暑日と熱帯夜の観測数が両方50日を超えたのだそうです。
(なかなかうまい表現だなと思ったら、海の向こうで大谷選手が前人未踏の52-52を達成しました!)

東京も6月下旬に梅雨明けし、その後、記録的な猛暑が続きました。
9月18日には、統計開始後、最も遅い猛暑日を更新しました。
この長期間に亘る暑さに対して、私もいくつか対策をしました。

  • 水筒を持参し、デスクワーク中でも水分補給を心掛けました。
  • 設定温度は27.5℃とやや高めながら、夜はエアコンを朝方まで付けっぱなしにしました。
  • 下着は汗を吸いやすいものを選びました。

しかし、私にとってこの夏を代表するアイテムは、自家製マンゴーフローズンヨーグルトです。

冷たいものの摂り過ぎは、カラダに良くない、とアタマではわかっていても、家に帰るとどうしても冷たいものが食べたくなります。
あまつさえ私は下戸ですから、ビールがキンキンに冷えていても全く魅力を感じません。
この氷菓のお陰で、この夏の暑さを乗り越えたと言っても過言ではありません。

作り方は簡単です。
冷凍マンゴーをジップロックに入れてよくつぶし、生クリームとハチミツを大さじ2杯混ぜ、最後にプレーンヨーグルトを400g加えて冷凍庫で凍らせれば完成です。
この美味しさは、◇◇◇◇ダッツアイスクリームを遥かに凌ぐ、と私は思っています。

当初はミックスベリーを用いていましたが、一度マンゴーで作ってからは、マンゴー独り勝ちの様相となっています。
手軽に出来ますので、ぜひぜひ作ってみてくださいませ。

236 一張一弛

パリオリンピック・パラリンピックが閉幕しました。
多くの日本人選手の活躍の陰で、オリンピックの開幕前に体操界でちょっと残念なニュースがありました。
19歳の女子選手が、喫煙と飲酒行為により代表離脱となった件です。

この処分に対しては様々な意見があったようですが、私は、最近ちょっとギスギスしてるなあ、と感じています。

もちろん、ルールは守らなければなりません。
ただ、昔から、喫煙と飲酒はルール破りの入門編です。
未成年者だからダメなんだという厳罰主義で、画一的に、そして取り返し不能なほどの重い処分を課すのは、何か違う気がするのです。

人一倍頑張ってきた若者が犯したちょっとの失敗に対して、大袈裟に騒ぎ立てるのではなく、包容力のある対応も必要かなと・・。
いわゆる「若気の至り」という寛容さがあってもいいのかなと・・。

世間から注目されている立場なんだから、ストレス発散は、もう少し要領良くやってよ。
そういうことは自宅でやってさ、合宿先ではちょっと我慢するとかさ・・。
今回は私が責任をとるから、今後は人として成長できるように一緒に頑張ろうよ!

私だったら、まず本人にこう言うような気がします。
ダメですかね・・、甘いですかね・・。

若いときの恥ずかしい記憶なんて、誰にでもあるはずです。
日の丸を背負った若者がはっちゃけちゃうことだってあるっしょ、と思うのです。

日本の親は「人に迷惑をかけることはしてはいけない」と子供によく言います。
しかし、インドでは「お前は人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるのだそうです。

「周りへの配慮を欠かさないこと」が美徳という日本人の考え方は大好きです。
反面、許すという徳も大切だと思います。
自らも気に掛けていくべき点だと感じます。

ちょっと話は逸れますが、1983年に当時世界新記録の通算939盗塁を達成した、元・阪急ブレーブスの福本豊さんが、国民栄誉賞を辞退した際のコメントはとても有名です。

「立ちションベンができなくなるから」

その実は、マイクの前でそう名言した訳ではなく、コメントが一人歩きしている部分もあるようです。

酒は飲むし、当時はたばこも吸うし、マージャンもしていた。
とてもじゃないが、品行方正と呼べる人間じゃなかった。
酔っぱらったら立ちションベンもする。
だから、辞退させてもらった。

記者とのこんな会話の一部が切り取られてしまったのが真相のようですが、基本的に、なんかいいな、と思います。
世界の盗塁王だからといって、なにもかにも折り目正しいわけじゃないんだ。
オレは野球が得意で足が速い以外は、どこにでもいる普通の人間なんだ、と訴える姿勢が、とても自然で人間的で心地良く感じます。

余談ですが、ドラフト7位で阪急への入団が決まったとき、福本選手の奥様は「阪急電鉄の駅員になると思った」というエピソードも残されています。

232 力戦奮闘

小さい頃、朝になると読売新聞と報知新聞がセットで届きました。
何故スポーツ新聞を取っていたのか確認したことはありませんが、おそらく父が野球好きだったからではないかと思います。

野球のシーズン中は、夜は巨人戦をテレビ観戦し、翌日の朝刊でその試合の記事を読むのが日課でした。
物心ついた頃から毎日読んでしましたから、自分の名前の次に書いた漢字は「報知新聞」だったと記憶しています。

母もある程度は野球に興味がありましたが、姉は全く関心が無かったので、野球は一般的に女性には人気がないものと思っていました。
ところが、嫁にした女性は、巨人の大ファンでした。
いい意味で予想が外れ、夫婦で同じ趣味を持てたのは幸運でした。

そもそも野球の話題は巨人に関することが大半でしたが、近年、様相が変わってきました。
大谷翔平選手の影響で、メジャーリーグへの感心が急激に強くなってきたのです。

毎晩、YouTubeのSpotvでメジャーリーグの試合のダイジェストを観るのが習慣となりました。
リビングの一角にあるホワイトボードには、メジャーリーグ全30チームの一覧を手書きしました。
ドジャースの選手の名前と顔もずいぶん覚えました。

先日Spotvを観ながら「オレが行った球場もここなのかな・・」と独り言のように言うと「父さん、ドジャースタジアム行ったことあるのぉぉぉ!」と素っ頓狂な声でカミさんに驚かれました。

大学3年生の夏、ロサンゼルスで3週間のホームステイを経験しました。
その時お世話になっていたホストファミリーが、ドジャースタジアムへ野球観戦に連れていってくれたのです。

対戦チームは忘れてしまいましたが、ドジャースの先発投手は当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったバレンズエラでした。
残したメモによると、初回にソロホームランを喫して、そのまま1対0で試合は終わったようです。
1982年9月4日、今から42年近くも前のことになります。
(写真の左下で、落ち着かない表情をしているのが私です)

野球と言えば、先日、エスコンフィールドへ行く機会がありました。
日本ハムファイターズが、昨年から本拠地にしている新しい球場です。

北海道に行くことはずいぶん前から決まっていましたが、その期間中にエスコンでプロ野球交流戦が行われ、その相手が巨人であると知った幹事さんが、サプライズでチケットを確保してくれたのです。

球場に足を踏み入れた瞬間、「日本じゃないみたいだ!」と思いました。
左右非対称な構造はメジャーリーグでは珍しくないものの、東京ドームに慣れている私には、とても新鮮でした。
新しい施設に感動しただけでなく、試合も巨人が勝利を収め、幹事さんには感謝感謝です。

また、球場内には、これでもかと飲食店が入っています。
ラーメンだけでも8店舗、そのほか寿司、お好み焼き、餃子、焼き鳥、ホットドッグ等々、どこで何を買おうか、ゼッタイに迷うと思います。

ひとつ進言するならば、試合が始まってから買いに行くのが良いと思います。

試合開始1時間ほど前から、どの店も異常なほど行列ができます。
私はラーメンに15分、モツ煮に30分、並びました。

ところが、試合が始まると多くの人は座席に戻るので、このタイミングで買い物に向かうのが得策だと思います。

因みに、私はラーメンとモツ煮のほか、ホットドッグ、焼き鳥、冷やし汁粉などなど、しこたま食べましたが、1番のオススメは、このパン(コロネ)です。
甘党でパン好きの私には、どストライクでした。

229 離朱之明

子供の頃から、視力の良さには自信がありました。
視力の測定検査では、確実に「1.5」を叩き出しました。
その下の「2.0」も読めるのになあ・・、といつも思っていました。

車の運転をしていると、「お前、あんな遠くの標識が見えるのか!?」と同乗者に驚かれることがよくありました。
ただ、ワタシは逆に「あの標識も見えずに運転してんのかい!」と感じていました。

この能力を建設的な方向に活かせば良かったのですが、大学生になると、受験勉強の反動か、完全にタガが外れてしまいました。

授業に出ている友はいない・・
頼りになる仲間はいない・・
先輩からの資料もない・・

こんな教科のテストがあると、にわかに私の出番となります。
要するに、周囲の答案用紙を謹んで拝見させていただくのです。

選択式の問題であれば、2列前の答案用紙まで、難なく判読できました。
そこで、鉛筆を持つ右手が邪魔にならない向かって右前の席と、そのもうひとつ前の席の解答を失敬し(そんな詳しい説明は要らないか)、自分の答案用紙に書き込んで、後ろに陣取る友人が見えるよう、ずらして机に置くのでした。
こうした不品行で得た単位数は、8〜12単位ほどあるでしょうか・・・・。
若気の至りでは済まされない、不届き千万な行為です。

そんな浅はかな行動から15年余。
30代後半に、老眼の兆しを感じはじめました。
40代半ばには、老眼鏡を買いました。

今や、老眼鏡は本を読んだりパソコンを打つ時のみならず、日常多くのシーンで欠かせなくなりました。
従って、仕事用のカバン、車の中、洗面所などなど、いたるところに老眼鏡が備えてあります。
数えてみたら、9つもありました。

そうこうしているうちに、遠くも見えづらくなってきました。
遠近両用メガネがうまく使いこなせない私は、車の運転やゴルフなど、遠くを見るためのメガネが別途必要になりました。

学生時代、あんなに憧れたメガネがこんなにも必要になるとは・・。
この不便さは、因果応報、自業自得といったところでしょう。

話が逸れますが、「タガが外れる」と書きましたが、調べてみると、言葉の由来が非常に興味深いことを知りました。

「タガが外れる」の「タガ」は、漢字で「箍」と書きます。
箍とは、桶や樽の周囲にはめる輪っかのことだそうです。
樽は、ウイスキーやビールなどのお酒を貯蔵する際に用いられることが多いですが、箍が外れると、中の液体物が一気に外に溢れてしまいますから、それはそれは大変なことになります。

この様子から、緊張が取れて締まりがなくなるという意味で、「タガが外れる」と使われるようになったのだそうです。

こういうところが日本語の楽しいところだと思います。
漢検準一級への挑戦は、ほぼ諦めの境地ですが、若い頃の反省も込め、何歳になっても学ぶ姿勢を持ち続けたいと、連休中に思うのでした。

226 炊金饌玉

早いもので、2024年が始まり、早2週間が経ちました。
食レポではありませんが、今年経験した外食にまつわる話を記したいと思います。

まずは、日本橋三越本館2階にあるカフェウィーンです。

下戸の私は、甘いものが大好きです。
お気に入りのスイーツはたくさんありますが、その1つがカフェウィーンのザッハトルテです。
ウィーンを代表するチョコレートケーキ・ザッハトルテと、その脇に乗せられたちょっと堅めの生クリームが、ホットコーヒーと相性抜群なのです。

上の写真は、カフェウィーンの店内です(出典  HANAKO https://hanako.tokyo/food/52539/)。
三越の公式サイトでも「優美な内装は、まるでウィーンの伝統的なカフェハウスのよう」と紹介されています。

ケーキが美味しいのは勿論のこと、大理石のテーブルと赤いベルベットのソファ席が醸し出すレトロな雰囲気にも、非常に魅かれていました。
カミさんと日本橋へ買い物に行った際は、赤いソファで休もう、が合言葉になっていました。

「いました」と過去形で表現したのは、状況が変わってしまったからです・・。
1月7日午後、カミさんと行ってみると、ソファーが茶色に変わっていたのです。
あまりにショッキングで、写真を撮り忘れました。

昨年12月は、赤いソファーでした。
いろいろ調べてみると、仙台三越にあるカフェウィーンが茶色いソファーのようです。
つい最近、日本橋も同じ路線に変更したのでしょうか・・。

長い間、ケーキの陳列棚が故障していたり、首が折れそうな白鳥型の器が足りなくて「フィルシメルバ」が提供中止になったり、そんなことは気になりませんでしたが、赤いソファーがなくなってしまったことは、本当に残念でなりません。

X(旧 Twitter)やInstagramで検索しても投稿は見当たりません・・。
残念がっているのは、私だけではないはずですが・・。

 

次は、小学校の同級生との新年会@横浜の話題です。

20代の頃から、スキーに行ったり、バーベキューをしたり、コテージに泊まったり、このメンバーとはいろいろなイベントを企画し、遊んできました。
そして今も、隔年で京都旅行に出掛けたり、年に数回、食事会を催しています。

小学校の同級生と未だに深い交流があるということに驚かれるときがありますが、総勢9名という人数にもビックリされます。
ただ、先日の横浜での新年会は、3名欠席者がおり、6名(男女各3名)での開催でした。

場所は、山下公園近くの「スカンディア」。
このお店はデンマーク人のご主人を持つ女性が、本格的なスカンジナビア料理を出す店として、1963年にオープンした歴史あるお店です(人間ならば昨年還暦です)。
2ヶ月以上前に予約をし、重厚感あるシックな雰囲気の2階で、ランチコースをいただきました。

この店は、指揮者のカラヤンさんや美空ひばりさん、井上陽水さん、桑田佳祐さんなど、多くの有名人が訪れた店としても有名です。

しかし、最も有名なのは、ユーミンが松任谷正隆さんと婚約後、両家の顔合わせ場所としてこの2階を貸し切りで使ったこと、ではないかと思います。
ドルフィンと並ぶ、ユーミンゆかりのスポットなのです。

ユーミンは中央フリーウェイで知られるように八王子市の出身ですが、横浜山手教会で結婚式を行い、横浜ニューグランド・ホテルで披露宴を挙げたそうで、横浜を愛していたのでしょう。

横浜国大出身の私としては、横浜が第2の故郷であるはずなのですが、40年という年月が経ち、知らないスポットがあまりにも増えてしまいました。

横浜駅東口なんて何にもなかった、横浜市営地下鉄は走っていなかった、みなとみらいなんて地名はなかった、首都高速と横浜新道は繋がっていなかった・・・・、なんて言うと、老人の戯言になってしまいますね。

級友と語り合う時間はとても楽しく、リフレッシュできましたし、久しぶりに訪れた横浜は、非常に新鮮でした。
「羽沢横浜国大」という母校名が付いた新駅もできたことですし、横浜の魅力を大人目線で感じるために、近々、改めて遊びに行きたいと思っています。

学生時代、大学よりも足繁く通ったボーリング場が閉店した跡地も確認したいですね。

223 一六勝負

初めて勝った馬券は、高校2年か3年の天皇賞秋で、枠連1-8を1,000円購入。
結果は1着トウショウボーイ、2着グリーングラス。
見事的中し、配当は1,100円で、10,000円儲かった。

自分の馬券デビューについて、上記のように確信を抱いていました。
しかし、調べてみると該当するレースが見当たりません。
そもそも、トウショウボーイもグリーングラスも、天皇賞秋を制していないようなのです。

何が合っていて、何が誤っているのか、情報を整理してみました。
レースは天皇賞秋なのか、勝ち馬をテンポイントと勘違いしてはいないか、枠連1-8は本当なのか・・・・。
思案の末、最も信頼に値しそうなのは「ちょうど10,000円利益が出た」という点ではないかという結論に達しました。
初めて購入した馬券が的中して実入りがあった訳ですから、金額に関する記憶は正確なのではないかと目星を付けたのです。

そこから探っていくと、該当するレースがありました。
1978年11月に行われた第78回秋の天皇賞の枠連配当が、1,100円でした。
私が高校2年生のときですから時期も合っていますし、レース名も合致しています。

ただ、勝ったのはテンメイ、2着はプレストウコウ、枠連は6-8でしたので、ここは記憶と相反しています。
枠連ですから、同じ枠に同居していた馬を調べてみましたが、トウショウボーイもグリーングラスも出走していませんでした。

結局のところ、納得のいく結論は導き出せませんでした。
ただ、人間の記憶は当てにならないものなんだなと、改めて思い知らされました。

因みに、未成年は馬券を購入してはならないと法律で定められています。
まあ、45年も前のことですから時効でしょう。

元来、ギャンブルは嫌いな方ではないかな、と自認しています。
思い出深いのは、大学3年の夏に行ったラスベガスです。

ロサンゼルスでホームステイをしていた私は、週末を利用してラスベガスとグランドキャニオンへ遊びに行きました。
同じツアーに参加していた仲間の多くも一緒でした。

いつかは行ってみたいと憧れていたカジノの聖地は、まさにエキサイティングでした。
この日のために日本から持ってきた一張羅のスーツに身を包み、砂漠地帯でGolden Nuggetの看板を見たとき、これまで経験したことのない高揚感を感じました。

カジノにはスロットやポーカー、バカラ、ルーレットなど多様なゲームがありますが、私はブラックジャックの魅力に溺れました。

minimum bet 1$の最もハードルの低いテーブルとはいえ、ディーラーと対峙していると、自分がすっかり大人になったような気分になりました。

ディーラーが1枚目にエースを引いた時に聞かれる『insurance?』や、『stay』『hit』を手の仕草で表現するなど、現地で遊びながら学んだことも多く、時間を忘れて没入していました。

日付変更線を過ぎた頃、やや引きの弱い男性のディーラーがやってきました。
ここが勝負どきと判断し、賭け金も増やして巻き返しに成功しましたが、その後に現れたスレンダーでクールな女性ディーラーに屈し、結局一晩で270$の負けを喫しました(この記憶もあてにならないか・・・・)。

当時の為替レートは1$270円ですから、約7万円の損失です。
40年以上前に学生が一晩で7万円も失うとは、由々しき事態であることに間違いありません。

そろそろ退散しようかなと時計を見ると、深夜2時を過ぎていました。
10人ほどの仲間とカジノに来たのですが、周りを見渡すと、友人は誰もいません。
と思ったとき、ルーレットのテーブルにいた日本人と目が合いました。
京都大学文学部3年のNちゃんでした(女子です)。

『まだいたんだ』
『国立大学の学生って、ギャンブル好きなんかね?』

深夜のカジノで聞く関西弁はすこぶる印象的でした。

あれから40余年、現在の私は、一切ギャンブルをしません。
競馬、競輪、パチンコを始め、宝くじやロト、株も含めて全く興味が薄れてしまいました。
加えて、タバコをやめて約20年、酒は生まれつきの下戸。
なんだか味気ない男ですね・・。

ただ、ラスベガスは、もう一度訪ねてみたいです。
深夜までカジノに興じる体力は失われてしまいましたが、年齢なりの違った楽しみ方ができるかなと思っています。

初めて馬券を買ってから45年。
本日、15時40分、第168回天皇賞(秋)の発走です。

222 四衢八街

弊社のある清澄白河という地区は、古くはお寺だけが目立つ、陸の孤島のような存在でした。
お正月の深川七福神とお彼岸のお墓参り・・。
そんな時期だけ、ちょっぴり街が賑わう場所でした。

清澄白河駅が誕生したのは、都営地下鉄大江戸線が全線開通した2000年(平成12年)12月12日。
わずか、23年前のことです。
その後、2003年(平成15年)3月に半蔵門線が開通したことで乗換駅となり、利便性が抜群に上がりました。

弊社がこの地に移転したのは、その4年後の2007年(平成19年)2月。
その頃、弊社周辺にはコンビニもなく、まだまだ地味で不便な場所という印象でした。

2015年2月6日。
そんな雰囲気を一変させる出来事が起こりました。
カリフォルニア州オークランドのブルーボトルコーヒーが、日本1号店をこの地区に開店させたのです。

これがきっかけとなって、サードウェーブコーヒーの出店が相次ぎ、今ではカフェの街として、その名が知られるところになりました。

現在、ブルーボトルコーヒーは、青山、六本木、銀座、恵比寿、渋谷など、都内の一等地に多くの店舗を出店していますが、この清澄白河の店舗は「清澄白河フラッグシップカフェ」と公式サイトで紹介されています。
フラッグシップカフェ、即ち「旗艦店」ですから、企業の顔です。
我が街・清澄白河が、青山や六本木を見下ろしているようで、誇り高い気分になります。

弊社から徒歩数分の圏内には、ニュージーランド出身のカフェ「オールプレス・エスプレッソ 東京ロースタリー&カフェ」もあります。
ここには一時頻繁に通っていましたが、地元の英雄とも言えるブルーボトルコーヒーに、本日、初めて行きました・・。
この地で働く者としては、乗り遅れるのも甚だしいと反省しております・・。

開店まもない時間でしたので、店内はまだ空いていました。
カプチーノを注文すると、若い男性スタッフが丁寧に淹れてくれました。
持ち帰りで741円支払いましたので、スターバックスよりもだいぶ割高ですが、そこは単純比較してはいけないですね。

キレイなラテアートのカップに心を鬼にしてフタをし、ゆっくりと慎重に歩くこと2分。
会社に着くと、以下のような風貌となっていました・・。

今日は朝から、新しいオンデマンド機を設置する作業があったのですが、会社で過ごす週末の朝が、とても豊かな時間となりました。

初めて訪れてみて、店の外に自動販売機が設置されていることに気付きました。
コーヒーを売っているのはもちろんのことですが、私が心を奪われたのは「ブルーボトル羊羹 4本入り 1,870円」。
コーヒー味の羊羹なのでしょうか・・。

ネットで調べてみると『京都堀川三条で60年以上続くあんこ屋「都松庵」とコラボレートした、今までありそうでなかった、コーヒーに合う羊羹』だそうです。
帰りにもう一度寄らねばならなくなりました。