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249 過小評価

「パイナップルピザ」を好きだという人を見たことがありません。
どうして大手のピザのメニューには必ずと言って良いほど掲載されているのでしょうか?

ネット上でこんな意見を目にをしました。
しかし、私はパイナップルの入ったピザが大好きです。

ただ、「ピザを取ろう!」となったとき、パイナップル云々を主張して大反対に遭ったことが何度もあります。
「ピザにパイナップルを入れる理由が分からん!」と、アタマから否定されたこともあります。
パイナップル入りピザは、世間的には人気がないものだと、ずっと思っていました。

ところが、カミさんとはこの点で嗜好が合いました。
「ピザーラで一番美味しいのは、ハワイアンデライトだよね」なんて合意が出来たのは、人生初のことでした。
これが理由で結婚を決めたわけではありませんが(当たり前か)、意外な一致点であったことは間違いありません。

このパイナップルピザに関して、TBS系のサイトで興味深い記事を見つけました(2024年6月公開)。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1235781?page=2#:~:text=パイナップルピザ%20発祥は?,喜びし、レギュラーメニューに%E3%80%82

ピザにパイナップルはあり? なし? “総選挙” で7割が出した答えは【ひるおび】

こんなタイトルで、ドミノ・ピザが行った「パイナップル×ピザありなし総選挙2024」の結果を報じています。
SNS・WEB・LINE・一部の店舗などで投票が行われ、投票総数は実に16万1544票。
果たしてその結果は・・・・、

「あり」・・・68.1%
「なし」・・・31.9%

ダブルスコアで、「あり派」の勝利となりました(ファンファーレ)。

また、同サイトでは、大手宅配ピザチェーンでの人気度合いも紹介されていました。

前述のピザーラ『ハワイアンデライト』は、36品中15位。
真ん中よりは上位ですから大健闘です。
夏メニューのリニューアルでは、パイナップルが増量される予定、というニュースも紹介されていました。

そして、ドミノ・ピザでは、パイナップル入りの『トロピカル』が、単品ピザメニュー27品中8位でした。
1992年に登場し、一旦販売終了したものの、ヘビーユーザーからの強い希望で復活したという根強い人気商品とのこと。

結構人気あるじゃないか!
少数派じゃないじゃんか!

これからは、堂々とパイナップル入りピザのオーダーを主張したいと思います。

なお、パイナップルのピザの発祥は「ハワイ」かと思いきや、実は「カナダ」だそうです。
1960年代、カナダのあるレストランが面白半分でパイナップルのピザを試作したところ、お客さんが大喜びし、レギュラーメニューになりました。
その時に使われたパイナップルの缶詰の名前が「ハワイアン」だったことから、メニュー名がハワイアンピザとなり、世界中に広がっていったということです(諸説あります)。

因みに、酢豚にもパイナップルがよく入っていますね。
ワタクシ、酸っぱいものが少々苦手なので、これは遠慮させていただきたく存じます。

248 乱臣賊子

ちょっと前の出来事ですが、4月16日の衆院外務委員会で立憲民主党・小熊慎司衆院議員が以下のような発言をしました。

「アメリカの言っていることは無理難題だし、理論もめちゃくちゃだし、何の整合性もないわけですよ。不良少年のカツアゲに近いですからね」

と、トランプ関税を批判したのです。

おとなしい日本人がよくぞ言った!
彼は石破総理が言えないことを言った!

と、全体的には評価する声が多かったようですが、マスコミで大きく取り上げられることはありませんでした。
アメリカへの忖度があったのかも知れませんね。

さて、この「カツアゲ」。
自慢にもなんにもなりませんが、私、若い頃に、2度カツアゲの被害に遭っています。
ざっと申し上げると、最初は、高校2年生、学校からの帰り道。
わずかなお金と、持っていたEPレコード(BlondyのHeart of the Grassだったか?)を盗られました。
友人2〜3人と一緒に歩いていたのに、私だけが路地に引きづり込まれた理由は今も定かではありません。

2度目は、横浜のハマボール近く。
日暮れ時、大学の女友達と一緒に歩いていたところを3人の男に囲まれ、数千円巻き上げられました。

「あとで返すから、後日事務所まで来てくれ」

いやいや、行けないっすよ笑。
っていうか、無事に帰ってこれないっしょ・・。

まあ、2件ともケガを負うことなく済んだので、良かったとするしかないですね。

キーボードで「かつあげ」と叩くと「喝上げ」と変換されました。
「恐喝」の「喝」と「巻き上げる」の「上げ」から生まれた言葉のようです。

ちなみに、現在21歳のセガレに聞いてみると、言葉は知ってるけど、自分はもちろん、誰かがカツアゲされたという話を聞いたことがない、とのことでした。

時代が違うんですかね・・。
昔より平和になったんですかね・・。
「全国カツアゲ被害件数統計」なんてないでしょうから、調べようもありませんが・・。

否。
そうではないです。
私は高校時代、髪型はオールバックでした。
そして、大学時代はアフロヘアで、派手なシャツを好んで着ていました。
私とセガレは、青春時代の外見、態度、風貌、挙動、所作等々が全然違っていたと気付きました。

物騒な話はこのくらいにして、「かつ揚げ」の話をしたいと思います。

とんかつをはじめ、あじフライ、牡蠣フライなど、揚げ物は美味しいですね。
しかし、健康診断後の「脂っこい食事は控えめに」という医師からの忠告が、揚げ物の外食にブレーキを掛けています。
ですから、決して多くの店を知っている訳ではありませんが、印象に残っているとんかつ店が2軒あります。

まず、上野にある「ぽん多本家」さんです。
ホームページには「日本のカツレツの生みの親《島田信二郎》の技を受け継ぎ、現在4代目」と紹介されていて、低温から10分以上時間をかけてじっくりと揚げるのが特徴です。

衣の色がやや白っぽいとんかつの美味しさはもちろんのことですが、個人的には、入口に目立つ看板がないため、初めて入店するときに、かなり勇気が必要だったこともインプレッシブでした。

2軒目は、京都の「とんかつ一番」さん。
創業は1960年ですから、ほぼ私と同級生。
住宅街にポツンとある昭和レトロな店構え。
そして、カウンター5席とテーブル3席のこじんまりとした店内。

ところがミシュランガイドのビブグルマンにも選出され、毎日行列ができる人気店なのです。
サクサクとした衣に包まれたジューシーなとんかつは満足度100点満点です。
デミグラスソースも絶品でした。

さて、最後に、とんかつには欠かせないキャベツの千切りについて。

日本で最初に「とんかつ」を出した店は、銀座の老舗洋食店「煉瓦(れんが)亭」で、2代目店主の木田元次郎氏が考案したそうです。

しかし、付け合わせを担当していた若いコックが兵役に取られ、困っていたときに思いついたのがキャベツの千切りでした。

当時は野菜を生で食べる習慣があまりなかったそうですが、初めは驚いていた客も、揚げ物と生野菜の組み合わせは次第に評判になっていったそうです。

その後の研究で、キャベツには胃もたれを防ぐ効果のある「キャベジン」が含まれていることも判明しました。
「キャベジン」には胃腸の粘膜を正常に整え、消化を助け、胃もたれを防ぐ効果があると言われており、脂っこいとんかつを食べても胃もたれを抑えることができるそうです。

単に相性が良いだけでなく、理にかなっていたという訳ですね。
とんかつを食べる際は、健康診断の結果用紙を思い出しつつ、キャベツを多めにいただきたく存じます。

そして、ジャイアンツのキャベッジ選手の打撃成績がもっと上がるといいな・・とも思う今日この頃です(関係ないか)。

247 名題看板

中学3年生だったある日の夜、話があるから座れ、と父に言われました。
姉と2人、何が始まるのかと思っていると、会社を辞め、自分で商売を始めると聞かされました。

じゃ、オヤジが社長になるわけね。で会社名は決めたの?

私は無邪気な質問を投げかけました。

ああ、決めた。「大伊豆印刷(おおいずいんさつ)」。

自分の出身地に「大」を付けるという昭和的且つ著しく安直な発想に、ほかの候補も考えた方がいい、と姉と一緒に物言いをつけました。
その意見を父も受け止めてくれて、その後、紆余曲折の末に現在の社名になりました。

さて、名称を公募で決めるということはよくありますね。
「ネーミング 公募」で検索すると、駅名、マスコットキャラクター、動物の赤ちゃんなど、日々、様々な募集が行われています。

名称の公募で有名なのは、東京タワーではないでしょうか。
昭和33年に行われた公募には8万通を越す応募が寄せられ、20位までは以下のような結果でした(カッコ内は投票数)。

1位:昭和塔(1,832)、
2位:日本塔(1,328)、
3位:平和塔(1,054)
4位:富士塔(666)
5位:世紀の塔(646)
6位:富士見塔(615)
7位:エターナルタワー(420)
8位:日本電波塔(373)
9位:東京塔(345)
10位:マンモス塔(307)
11位:宇宙塔(281)
12位:エンゼルタワー(274)
13位:東京タワー(223)
14位:日の丸塔(219)
15位:きりん塔(206)
16位:ゴールデンタワー(193)
17位:希望塔(158)
18位:文化塔(152)
19位:オリエンタルタワー(135)
20位:プリンス塔(126)

東京タワーは223票で13位でしたが、審査会委員長・徳川夢声氏の推挙により決まったそうです(「きりん塔」を推さなくて良かったなと思ったりもします笑)。
委員長の鶴の一声で決まったのか? という疑問も残る反面、最多得票の名称をそのまま採用しなかったことは、ある種、評価に値すると思います。

一方、東京スカイツリーは、全国投票の結果、投票数が最も多かったものを新タワーの名称として採用しました。
因みに、2位以下は以下の通りでした。

2位:東京EDOタワー
3位:ライジングタワー
4位:みらいタワー
5位:ゆめみやぐら

話は変わりますが、2024年の漢字は「金」でした。
「今年の漢字」は、一般公募の中の最多得票が選ばれる仕組みです。
パリオリンピックでの金メダル、佐渡金山の世界遺産登録、自由民主党国会議員などによる裏金問題、金目当ての闇バイト、新紙幣の発行等々・・、妥当と言えば妥当です。

しかし、「金」が選ばれたのはこれで5回目。
3回ほど選ばれたら「殿堂入り」といったルールがあってもいい気がします。

2位以下にはどんな漢字があったのか調べてみると、3位に「翔」が入っていました。
個人的にはこれが良かったなと思います。

悲しい災害や事故、事件から目を逸らすことはできませんが、明るい方を向いた選択もありかなと思うのです。

さて、2025年は一体どんな漢字が選ばれるのでしょうか。

お米の価格が高騰している、米国・トランプ大統領が関税などで世間を揺るがしていることから「米」も候補の1つかも知れません。

私は「博」になればいいな、と思っています。
大阪万博も大きな理由の1つですが、秋には複数の日本人「博士」がノーベル賞を受賞し、ウクライナに平和が訪れて「博愛」・・。
そんな世の中になることを祈りたいと思います。

でも、オンラインカジノ絡みの「賭博」が選出理由になってはいけませんね。

(補足)
「大伊豆」に関連する称号に、疑義を唱える意図はありません。

245 管鮑之交

高校生までは自宅近くの「床屋のおばちゃん」に髪を切ってもらっていました。
しかし、大学に入って急に色気づき、「美容院」に行こうと決意しました。

東京生まれの東京育ちでありながら、入学したのは横浜市内の大学。
アタマの中は「横浜の美容院」でオシャレにカットされる姿で充ち満ちていました。

とはいえ、横浜に通うようになって日が浅く、どこを探せば良いのかも分からないまま、たどり着いたのは、横浜スカイビル。
当時、東口では唯一、人が集まっていた場所といっても過言ではないと思います。

美容院の1軒くらいあるんじゃないか・・と思いながら徘徊していると、ありました、憧れの「美容院」。
入口から中を覗くと、ロングヘアをなびかせたステキな女性スタッフさんが目に入り、入店を躊躇していると・・、

「いらっしゃいませ〜! 中へどうぞ〜!!」

全身から気後れ感を放出させている大学1年生の私を、そのスタッフさんは、それはそれは優しく迎えてくれました。

どんな話をしたか、いくら支払ったのか等々、大半の記憶は逸していますが、最後に鏡に映った自分の姿は、今も鮮明に覚えています。
もみあげがパッツンとカットされ、両サイドがキレイに刈り上げられていました。

ただでさえロングヘアのお姉さんを前に平常心を失いつつあるなか、「流しますね〜」と床屋のおばちゃんとは逆の方向に椅子を倒されたことで完全に取り乱し、その後は何を聞かれても「お任せします」と返答したので、どんな結果になろうとも受け入れねばなりません。

両耳付近の形貌は、読売新聞で連載されている4コマ漫画『コボちゃん』を思い浮かべていただければ良いかと思います。
1980年頃の横浜でコボちゃんヘアが流行していたか否かは不明ですが、耳の辺りが涼しいな〜と感じるときがしばらく続きました。

それ以来、美容師さんに髪型を一任するのはやめた、という展開が自然かと思いますが、その後、現在に至るまで、美容院でこうしてああしてと要望したことがただの一度もありません。

注文を出すことは男らしくないというか、煮え切らないというか、女々しいというか、そんな気がするのです。
明らかにおかしな思考回路なのですが、何故そう感じるのか、理由は分かりません。

髪のセットが終わって、鏡に写った姿を最後に見て、あちゃーと思ったことは1度や2度ではありません。
それでも、要望は出しません。

最近は、ツーブロックに仕上げていただいていますが、それとてワタシのリクエストではありません。
ともあれ、信頼している美容師さんに毎回お任せです。
さすがに丸刈りにする、と言われたら抵抗すると思いますが・・。

考えてみると、私にとって美容院は、大切な場所であるように思います。
これまで2人の美容師さんにお世話になってきましたが、どちらも尊敬できる方です。

1人目は、私より10年くらい先輩の「ちょい悪オヤジ」で、大学を卒業してから40歳くらいまでお世話になりました。
東京芸術大学在学中、学生運動に励んだ挙げ句に退学処分を頂戴し、その後は、資生堂美容学校(現在の資生堂美容技術専門学校)に進み、その世界ではちょっとした有名人でした。
バイクが大好きで、私とは違う方向性を持った方でしたので、いつも刺激を受けていました。

結婚式の朝も、お世話になりました。
生まれて初めて眉毛を整えていただいたのは衝撃的でしたし、うっすらとファンデーションを塗って、晴れの日にふさわしく仕上げてくださいました。

また、20代のころ、仮装大会のために女装したいとの無茶なお願いにも、快く応えてくれました。
メイクのグレードがあまりに高いので、参加した女子からは、何をどこにどのように塗っているのか質問攻めに遭いました。
集合場所だった東京プリンスホテル近くの歩道橋で外国人に追いかけられ、ガニ股で走って逃げたのもいい思い出です。

そして、現在お世話になっているのは、私より1つ年上の美容師さんです。
若くしてご結婚されたので、中学生のお孫さんがいますが、これぞ美魔女という女性です。

年齢も近いので、いつもいろいろな話をします。
先日は、セガレのことで相談を持ちかけると、とてもいい言葉をいただきました。

山田さん、子供は授かりものじゃないの、預かりものなの。
授かりものだと思うから、いろいろ注文を付けたくなるの。
今は預かっているだけ。
子供は、いつか、神様に、社会に、返すものなんだからね。

若くして結婚・出産し、30代で離婚。
子育てに悩みながら、離婚後まもなく美容院を起業され、苦労を重ねた同世代からの言葉は、心に染みました。

そして、鏡に映るツーブロックの姿を眺めて、今日は前髪がいい長さだな、と感じながら店を後にしました。

243 被害妄想

10年以上、海外旅行をしていません。
パスポートもとうに期限が切れてしまいました。

最後の海外は、家族で行ったハワイ旅行です。
30年前、新婚旅行に行ったのもハワイでした。

青い海、温暖な気候、豊かな自然、美しいゴルフ場など、ハワイは魅力に溢れた島ですね。
ハンバーガー、パンケーキ、ロコモコ、ガーリックシュリンプ、エッグベネディクトなど、食事も垂涎ものです。

先日、何故か突然ハワイ気分を味わいたくなり、ふっと横浜に行ってまいりました。

まずは、横浜ベイクォーターのアイランドヴィンテージコーヒーへ。
目当てはもちろん、アサイーボウルです。

表参道店や台場店よりも早い、朝9:00開店は早起きの私には有難いです。
9:30過ぎに到着すると、既に席の半分は埋まっていました。

久しぶりのアサイーボウルは、予感していたワクワクを越える美味しさでした。
真冬の朝にも拘わらず、温かい紅茶に守られて、冷たいアサイーは胃袋にスイスイ入っていきました。

 

その後、横浜ワールドポーターズのLeonard’sへ移動し、マラサダを2種類(プレーンとカスタード)いただきました。
出来たてはふわふわで、とても幸せなひとときとなりました。

また、家族へのお土産に、5個テイクアウトしました。
画像はありませんが、ピンク色の箱がキュートでした。

最後はクイーンズタワーのEggs’n Thingsでパンケーキを食べて完結! と目論んでいたのですが、胃袋に余裕がなく、断念しました。

話は戻りますが、先のLeonard’sで列に並んでいたとき、前にいたカップルの青年が、私の小銭入れから落ちた50円玉を拾ってくれました(どうもありがとう)。

落としたことに気付かぬ年寄りと、他人が落とした小銭を拾ってくれる若者・・。
(ついでに上の写真、左のドーナツは天地逆)

あー、横浜で遊んでいた頃は若者側の立場だったのに・・と、時の流れを憂いたりもしました。

「横浜で遊んでいた頃」とは、大学時代です。
横浜市内の大学に通学していた私は、青春ど真ん中の4年間を横浜で過ごしました。

当時の横浜駅は、西口だけが栄えていた、といっても過言ではないと思います。
高島屋や三越、相鉄ジョイナスなどがあって、とても賑わっていました。

一方、東口には、そごうもルミネもポルタもまだありませんでした。
ですから、大学生の一大イベント「合コン」も、西口で行うのが常でした。

マッチングアプリなんて影も形もない時代、楽しいはずの合コンで、私には非常に面倒な任務がありました。
ひとりで帰すのは危なそうな輩、即ち、酒でつぶれてしまった者を、唯一のシラフである下戸の私が車で送らねばならないのです。

まず、合コン終了予定時間の30分以上前に店を出ます(盛り上がる会場からひとりで退散するのです)。
その際、車を持っている仲間から、キーを預かります。
そして、電車で仲間の下宿へ行き、車を運転して西口へ戻り、酩酊した者を乗せるのです。

合コンの特性上、初めて会う人も多いわけで、運が悪いと深夜に長距離ドライブを強いられることもありました。

ある時、ちょっと気になっていた女性が「酩酊リスト入り」しました。
全部で3人の酔っ払いを乗せ、送りとどける順序を巧妙に企て、2人きりになった車内で「さーて、なんて言おうかな・・」とシラフのアタマをフル回転させていると、

「アタシ、酒の弱いオトコの人ってダメなのよね。面白くないもん。」

車で送ってもらったお礼を述べるところじゃないのかー! ちくしょー覚えてろよ! とひとり泣きながらアクセルを踏んで帰ったこともありました(ちょっと盛りすぎか)。

「ヤマダくん、この間は自宅まで送ってくれてありがとう!」

後日、その女性から、いけしゃあしゃあと言われました。
こんなバカにされるくらいなら、合コンなんか二度と参加するものか! と意を決したりするのですが、少しすると、またいつものように酒に呑まれた前後不覚の者たちを車で送るのでした。

へべれけ状態を経験したことのない私は、酔っ払いっていいよなあ・・と思います。
一度でいいから「酔っていたから覚えていない」と言い訳してみたいです。

そして、こういう辱めに遭うたび、下戸はちょっとずつ卑屈になるんだよなあと思ったりするのです。

242 気魄一閃

大関・豊昇龍が、第74代横綱に昇進しました。
1月29日に行われた伝達式では、以下のように口上を述べました。

「謹んでお受けします。横綱の名を汚さぬよう気魄一閃の精神で精進します。本日は誠にありがとうございました」
(豊昇龍)

気魄一閃(きはくいっせん)とは、「愚直に真っ直ぐ、力強く立ち向かってゆく精神力のこと」。
力士最高峰の地位にある者が目指す姿勢としては、文句なしですね。

横綱昇進にあたって四字熟語を用いた口上が披露されるようになったのは、若貴兄弟がきっかけではないでしょうか。

「横綱として堅忍不抜の精神で精進していきます」
(三代目若乃花)

「今後も不撓不屈の精神で、力士として不惜身命を貫く所存でございます」
(貴乃花)

貴乃花にいたっては、「ふとうふくつ」「ふしゃくしんみょう」と短い口上に2つの四字熟語を込めました。

そして、この四字熟語を用いた口上スタイルは、モンゴル出身の横綱にも影響を与えました。

「横綱の地位を汚さぬよう、精神一到を貫き、相撲道に精進いたします」
(白鵬)

「横綱の自覚を持って全身全霊で相撲道に精進します」
(日馬富士)

第72代横綱・稀勢の里は、久しぶりの日本人横綱誕生とあって非常に話題を集めましたが、注目された口上はとてもシンプルでした。

「横綱の名に恥じぬよう精進します」
(稀勢の里)

無口な性格がそのまま出たような口上でしたが、「迷ったが、気持ちをそのまま込めた」と説明したそうです。
四字熟語は出るのか!? とちょっと期待していたファンにとっては、ガッカリするような、そして合点がいくような口上だったのではないでしょうか。
息子の晴れ姿を見守ったお父様でさえ「あまりにもシンプルだったね」と苦笑いしたと報道されています。

先日、日本相撲協会の公式サイトで歴代横綱について調べてみました。
初代横綱は「明石 志賀之助」と紹介されていますが、出身地も在位も優勝回数も掲載されていません。
在位が最初に掲載されているのは第4代の「谷風 梶之助」で、宮城県仙台市出身、在位は寛政元年11月 ~ 寛政6年11月とのことです。

寛政元年は、西暦でいうと1789年。
ときの天皇は光格天皇で、江戸幕府将軍は第11代徳川家斉というとてつもない昔です(Wikipediaより)。

第8代の「不知火  諾右衛門」や第10代「雲龍 久吉」らを目にし、 横綱土俵入りの「雲龍型」と「不知火型」のルーツはここにあるのか? と想像しました。
また、明治時代に「小錦八十吉」の名があり、私の知るあの「小錦」には先代がいるのか?? など、非常に興味深いサイトでした。
(ハワイ出身の小錦八十吉は、第6代なのだそうです・・)

私の記憶の中で、最も古い横綱は「柏戸」と「大鵬」です。

物心ついたのが「巨人・大鵬・卵焼き」の時代ですから、一番強いお相撲さんといえば大鵬でした。
プロ野球は、巨人が毎年日本一になるものだと思っていました。
真っ黄色の卵焼きが大好きで、葱や紅生姜などは入れないで欲しい、と母にお願いしたりしました。

ところで、ネットで「巨人・大鵬・卵焼き」と検索していると、「巨人・大鵬・卵焼き 反対語」と関連検索ワードが表示されました。
反対語ってないっしょ・・と思いながら先を進めると、「江川・ピーマン・北の湖」「おしん・家康・隆の里」「阪神・朝潮・ハンバーグ」等々あるようです。

因みに、大鵬関はアンチ巨人であったと伝えられています。
はたして、卵焼きは好きだったのでしょうか。

240 迎春万歳

ここしばらく、テレビドラマを観なくなりました。
最近観たのは2017年に放映された「下克上受験」でしょうか(ちっとも最近ではありませんが)。
受験生のいた我が家にとっては、舞台設定に共感が持てました。
個人的には、お母さん役の深田恭子さんがステキでした。

その前となると、2005年放映の『電車男』かと思います。
伊藤淳史さん演じる山田剛司に対して、伊東美咲さんが画面いっぱいのアップで「やまださん・・」と呼びかけるシーンを観るたび、自分が呼ばれているような妄想に陥り、恍惚としていました。

そして今年、会社の女性陣からゼッタイに観た方がいいと薦められ、「不適切にもほどがある」を観ました。
ただ、早寝早起きの私にとって、22時から始まる番組をリアルタイムで観るのは不可能なので、U-NEXTで観賞しました。

話が逸れますが、私は毎年、不真面目な(不謹慎な)年賀状を作成しています。

ハズキルーペのCMでシャウトする渡辺謙さんや、ど派手なスーツで日本ハムファイターズの監督就任会見を行った新庄剛志さんに、自分の顔を嵌めたりするのです。

以前は、映画「君の名は。」のポスターの男子学生をセガレの写真に差し替えたりしたものですが、高校・大学と成長するにつれて、オヤジの悪趣味には全く付き合ってくれなくなりました。

セガレのみならず、近年はカミさんまで「私は干支のイラストが入った普通の年賀状を作る」と言い出す始末。

「『ALWAYS 続・三丁目の夕日』のポスターを使ったときは、小雪さんのところに入って喜んでいたじゃないか!」という怒りの感情を抑えつつ、最近は私1人で用が足りるハズキルーペや新庄監督の画像になってきたという経緯があります・・。

そして、年賀状作成時期の真っ只中、ついに我が家の新作不謹慎年賀状が完成しました。
今年は「不適切にもほどがある」をモチーフにしました。

私はムッチ先輩に、そして、純子役の河合優実さんのところにカミさんが久しぶりの参加となりました。
とはいえ、アラ還夫婦の現在の写真を掲載する訳にはいきませんので、私は大学の卒業式の写真を、カミさんは高校生時代の写真を用いました。
(若い頃の写真なら協力してくれるカミさんもいかがなものかと・・)

この場で年賀状を公開するのは控えさせていただきますが、90点くらいの出来映えかと自己満足に浸っています、

還暦を過ぎたとき、そろそろ真面目な年賀状を・・とも思いましたが、私の友人だけでなく、カミさん宛てに届く年賀状にも「毎年年賀状を楽しみにしています」なんてメッセージが書かれていたりするので、何となしにやめられなくなっています(ごく数人なのに?)。

年賀はがきが値上がりされた今年、年賀状じまいされる方が増えているようです。
しかし、そんなこととは関係なしに「年賀状ってなんなの? 意味分かんない」とセガレは言います。
この世代にとっては至って自然な感想なのでしょうが、「キミね、印刷屋のセガレの発言としては不適切にもほどがあるでしょ」と思う次第です。

239 邂逅相遇

1995年11月5日。
私が結婚式を挙げた日です。

この年は、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件という、大きな災害と事件が起こりましたが、早くも29年が経ちました。
来年は結婚30周年になるわけですが、この節目は「真珠婚式」と呼ばれているそうです。
記念に何か残そうかとカミさんと相談し、結婚指輪を買い換えることにしました。

どんな指輪にしようかと考えていたところ、あるブランドでは、3年続けて計5回値上げされたと知りました。
そして、カミさんと2人で気に入った指輪も、年内にさらなる価格改定を予定しているとのこと・・。
そこで、1年前倒して購入することとしました。

29年もの間、薬指にはめ続けていた指輪は、よく見るとだいぶ劣化していました。
そして、新しい指輪をはめてみると、今度は自分たちの指が、29年の間にかなり草臥れていることに気づきました。

ピカピカの指輪と初老の指は極めてアンバランスではありますが、新婚当時の初々しさもちょっぴり思い出しつつ(そりゃ無理か)、穏やかな日々を過ごせたらと思っています。

ところで、以前、同い年で同じ苗字の山田という友人を紹介しましたが、彼とは20代後半で知り合い、その時点で彼は既婚者でした。
一方、私は34歳で結婚しましたので、彼には披露宴で友人代表としてスピーチをお願いしました。
因みに彼の結婚記念日は11月3日で、私とわずか2日違いでした。

その後、W山田が世話人を務めていたゴルフコンペを通じて、2歳年上の中島という男と出会いました。
中島・山田・山田の3人は、今ではかけがえのない友人関係を築いていますが、何気ない会話の中で「W山田は、結婚記念日が11月3日と11月5日で、2日違いなんだよ」と言うと、中島氏が驚きの発言をしました。

「オレの結婚記念日は11月4日だよ」

信じられないような奇遇に、唯々驚きました。

冒頭で述べたように私は結婚29年目ですが、山田氏は38年目、中島氏にいたっては45年目です。
中島氏は、金婚式まであと少し。
盛大なお祝いをして差し上げたい気持ちです。

因みに、前述のゴルフコンペは発足して35年。
まもなく、131回目の大会を迎えます。

238 音吐朗朗

かなり前のことになりますが、読売新聞の夕刊に、ミュージシャンの財津和夫さんが聴力に関するコラムを寄せていました。
内容を抜粋してご紹介します。

補聴器が欲しい。
ずいぶん前から取材を受けるときのインタビュアーの言葉がちゃんと聞き取れず困っている。

聴き取れなかったときは、まず、うなずきながら笑顔で「うーむ」と言うことにしている。
美味しいお茶のひと口めを味わうような表情をしなければならないが、この相鎚はどんな状況でも使えて便利だ。

しかし、カフェやレストランで店員とのやりとりにおいてはこうはいかない。
「コーヒーにミルクと砂糖は必要ですか?」の問いに笑顔で「うーむ」は少し変だ。

だから先日も「ごめんなさい、耳が遠いので‥‥」と言うと、店員は店中に届くような声で「ミルクと砂糖はどうされーか〜!」と言う。
店員が声を大にすべき箇所は、「まーすーか〜」ではなく、「ミルクと砂糖」のところやろ、と思ったが見るところ相手は二十歳前後、じじいの置かれた社会的弱者の立場なんて解るはずがない。いや、解ってもらう方が惨めな気分。店中の視線が私にそそがれているかもと恥ずかしかった。

著名人であるがゆえのエピソードや日常体験が、楽しく紹介されていました。

また、このコラムはお母さんの話で締められていました。
晩年、話しかけると何度も聴き返されたそうですが、夢の中に出てくるお母さんは、一度も聴き返したことがないそうです。
きっと若い頃のお母さんだけが、夢に登場しているのでしょう。

上皇様や上皇后様もずいぶん前から補聴器を装用されているようです。
井上順さん、梅沢富美男さん、宇崎竜童さん、加賀まりこさん等々、芸能界でも補聴器を使用している方がたくさんいらっしゃると聞きます。

以前にも紹介しましたが、私も補聴器ユーザーです。
左耳だけ、聴力がやや弱いのです。
ですから、財津和夫さんのコラムには、とても共感を覚えました。

50歳代半ば以降、「え?」と聞き直すことが非常に増えたな、と自覚しています。
この聞き返すという行為は、加齢を象徴する行動のようで、悲しい気分になります。
そして、聞き取りやすい右耳を相手に傾けながらの「え?」は、なお一層カッコ悪いなと思うのです。

私にとって補聴器は今や生活の相棒となり、装着することで聞き直す行為は若干軽減されましたが、最近、調子がよろしくありません。
購入した店で相談すると、レシーバーの故障とのことで一旦修理をしました。
ただ、補聴器の寿命は4〜5年だそうで、私の愛機はすでに7年以上経過しているとのこと・・。

カミさんとも相談した結果、仕事上、特にお客さんとの会話の中での「I beg your pardon?」をなるべく減らすことに重きを置き、ここで買い替えることにしました。

7年振りに購入した商品は、予想以上に進化していました。
スマホのアプリに接続して、様々な設定ができるのは驚きでした。
性能には十分満足できましたので、初老の必要経費と考えるしかないなと思っています。

ただ、補聴器を使用するにあたり、地声の大きな方との接触には、注意しなくてはなりません。
身近なところでは、私の父は非常に声が大きいので、電話の際は、最初の「もしもし」から注意が必要です。

また、たまにゴルフをご一緒する方で、声がとても大きな方がいます。
この方を助手席(私にとって補聴器側)にお乗せする時は、補聴器は外しておくことにしています。
耳栓をしても、充分聞き取れそうな声量をお持ちなので・・。

235 帰馬放牛

子どもの頃、初詣は決まって家族で靖國神社に行きました。
参拝に行くと、拝殿の手前の中門鳥居で一旦足を止め、「兵隊さんが戦地から家族へ宛てて書いた書簡を読みなさい」と父に言われました。

自らの命が残りわずかであることを悟るなかで、両親のからだを気遣い、弟や妹には立派な大人になって親孝行するように言い含める内容が多かった印象です。
二十歳前後の青年がしたためた文面が、悲しくて、崇高すぎて、こんな不幸な時代がほんの少し前にあったことの衝撃を、毎年正月に感じていました。

私は毎年拝読しましたが、母は、前途ある若者の最後の手紙が可哀想で可哀想で、あまり読みたくないんだとこぼしていました。

今月掲示されているのは、昭和20年4月、沖縄で命を落とした長野県出身の21歳男性が家族へ送った手紙です。
戦争とは本当に愚かな行いなんだと、改めて思い知らされる内容です。
(https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html)

正月に靖國神社に出向く理由は、父の名付け親が靖國に眠っているからだ、ということは漠然と聞かされていましたが、細かなことは知りませんでした。
そこで、先日詳しく話を聞いてみました。

その名付け親とは、父にとっては叔父にあたる方で、兄弟の末っ子でしたので、比較的歳が近い叔父でした。
幼い頃、一緒に遊んでくれた優しい叔父は、昭和20年、フィリピン沖で還らぬ人となりました。

当時、叔父には故郷に許嫁がいたそうです。
父もその女性の姿に、記憶があるそうです。
気立ての良い女性だと家族からも大変に評判の良い方で、皆が結婚することを待ち望んでいたそうです。
しかし、その望みが叶うことはありませんでした。

戦死の報せが届いた日、許嫁の女性と父の両親が、家の片隅で抱き合って泣いているのを見たそうです。
その光景は何年、何十年経っても忘れられないと、父は話していました。

月日は流れ、昭和24年。
父が上京し、住み込みで働くことになった際、母親からこう言われたそうです。

「伊豆の田舎から靖國神社へ出向くのは容易でない。お前がきちんと参拝するように。」

初詣にそんな背景があったとは、驚きでした。

私にとって最も身近な神社は靖國神社ということになりますが、現在の私の趣味である神社巡りの根っこがそこにあるかと言えば、そうではないように感じます。

ただ、靖國神社のホームページで、「護國神社」の存在を知りました。
護國神社とは、郷土の出身者またはゆかりのある方々で、戦場に赴かれ亡くなった軍人・軍属・勤労動員で亡くなられた一般市民の方々など、国家のために尊い命を捧げられた戦没者の御霊を御祭神としてお祀りする神社です。

基本的に道府県に1社(東京都と神奈川県にはありません)、全国に52社ありますので、地方に行くと必ず護國神社を参拝することが習慣となりました。
この習慣は、子供の頃から靖國で拝読していた書簡に起因していることは間違いないと思います。

これまでに参拝させていただいたのは、埼玉、千葉、廣島、栃木、京都、山梨、石川、茨城、宮城、静岡、福岡、愛知、群馬、新潟、奈良の16社(参拝順)。
52分の16ですから、まだ三分の一にも届きません。

私にとって靖國神社や全国の護國神社は、祖国を守り家族を守ろうと戦い続けた多くのご英霊に感謝を伝える場所であり、恒久平和を祈る場所です。
戦争を美化したり、責任追及する場ではありません。

作家でジャーナリストの門田隆将氏の著作で、大正生まれの男子は、7人に1人が戦死していると知りました。
私の敬愛する母方の伯父は、何度も出征しましたが、九死に一生を得て生還した大正生まれの1人です。
しかし、99歳で亡くなるまで、家族にも戦争の話はほとんどしなかったそうです。

ただ、「戦地でいろんなことがあったから、オレは晩年、幸せになれないと思う」とくぐもった声で言ったことがあると、母が教えてくれました。
伯父は、生きるか死ぬかの極限状態を何度も生き抜いてきたのでしょう。
その心中は、私には察することすらできません。

ところで、79回目の終戦記念日を迎えるにあたり、ネットで意外なニュースを目にしました。
パリ五輪を終えて帰国した卓球日本代表の早田ひな選手が、報道陣の質問に対してこんなコメントをしたそうです。

福岡・北九州市出身の早田には、パリ五輪が終わり同じ九州地方で行きたい場所があるという。「行きたいところの一つは(福岡の)アンパンマンミュージアム。あとは鹿児島の特攻資料館(知覧特攻平和会館)に行きたい。生きていること、卓球ができているのは当たり前じゃないのを感じたい」と意外な場所を口にした。

早田選手は弱冠24歳。
一流のアスリートであり、人間としても秀逸な早田選手には、唯々感心しました。

先述の門田隆将氏も、「故やなせたかし氏も、知覧の亡き特攻兵たちも、きっと驚き、そして喜んでいるだろう。有難う、早田さん」とSNSでつづりました。

明日は、私も現在の平和の礎について思量する機会にしたいと思っています。