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239 邂逅相遇

1995年11月5日。
私が結婚式を挙げた日です。

この年は、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件という、大きな災害と事件が起こりましたが、早くも29年が経ちました。
来年は結婚30周年になるわけですが、この節目は「真珠婚式」と呼ばれているそうです。
記念に何か残そうかとカミさんと相談し、結婚指輪を買い換えることにしました。

どんな指輪にしようかと考えていたところ、あるブランドでは、3年続けて計5回値上げされたと知りました。
そして、カミさんと2人で気に入った指輪も、年内にさらなる価格改定を予定しているとのこと・・。
そこで、1年前倒して購入することとしました。

29年もの間、薬指にはめ続けていた指輪は、よく見るとだいぶ劣化していました。
そして、新しい指輪をはめてみると、今度は自分たちの指が、29年の間にかなり草臥れていることに気づきました。

ピカピカの指輪と初老の指は極めてアンバランスではありますが、新婚当時の初々しさもちょっぴり思い出しつつ(そりゃ無理か)、穏やかな日々を過ごせたらと思っています。

ところで、以前、同い年で同じ苗字の山田という友人を紹介しましたが、彼とは20代後半で知り合い、その時点で彼は既婚者でした。
一方、私は34歳で結婚しましたので、彼には披露宴で友人代表としてスピーチをお願いしました。
因みに彼の結婚記念日は11月3日で、私とわずか2日違いでした。

その後、W山田が世話人を務めていたゴルフコンペを通じて、2歳年上の中島という男と出会いました。
中島・山田・山田の3人は、今ではかけがえのない友人関係を築いていますが、何気ない会話の中で「W山田は、結婚記念日が11月3日と11月5日で、2日違いなんだよ」と言うと、中島氏が驚きの発言をしました。

「オレの結婚記念日は11月4日だよ」

信じられないような奇遇に、唯々驚きました。

冒頭で述べたように私は結婚29年目ですが、山田氏は38年目、中島氏にいたっては45年目です。
中島氏は、金婚式まであと少し。
盛大なお祝いをして差し上げたい気持ちです。

因みに、前述のゴルフコンペは発足して35年。
まもなく、131回目の大会を迎えます。

238 音吐朗朗

かなり前のことになりますが、読売新聞の夕刊に、ミュージシャンの財津和夫さんが聴力に関するコラムを寄せていました。
内容を抜粋してご紹介します。

補聴器が欲しい。
ずいぶん前から取材を受けるときのインタビュアーの言葉がちゃんと聞き取れず困っている。

聴き取れなかったときは、まず、うなずきながら笑顔で「うーむ」と言うことにしている。
美味しいお茶のひと口めを味わうような表情をしなければならないが、この相鎚はどんな状況でも使えて便利だ。

しかし、カフェやレストランで店員とのやりとりにおいてはこうはいかない。
「コーヒーにミルクと砂糖は必要ですか?」の問いに笑顔で「うーむ」は少し変だ。

だから先日も「ごめんなさい、耳が遠いので‥‥」と言うと、店員は店中に届くような声で「ミルクと砂糖はどうされーか〜!」と言う。
店員が声を大にすべき箇所は、「まーすーか〜」ではなく、「ミルクと砂糖」のところやろ、と思ったが見るところ相手は二十歳前後、じじいの置かれた社会的弱者の立場なんて解るはずがない。いや、解ってもらう方が惨めな気分。店中の視線が私にそそがれているかもと恥ずかしかった。

著名人であるがゆえのエピソードや日常体験が、楽しく紹介されていました。

また、このコラムはお母さんの話で締められていました。
晩年、話しかけると何度も聴き返されたそうですが、夢の中に出てくるお母さんは、一度も聴き返したことがないそうです。
きっと若い頃のお母さんだけが、夢に登場しているのでしょう。

上皇様や上皇后様もずいぶん前から補聴器を装用されているようです。
井上順さん、梅沢富美男さん、宇崎竜童さん、加賀まりこさん等々、芸能界でも補聴器を使用している方がたくさんいらっしゃると聞きます。

以前にも紹介しましたが、私も補聴器ユーザーです。
左耳だけ、聴力がやや弱いのです。
ですから、財津和夫さんのコラムには、とても共感を覚えました。

50歳代半ば以降、「え?」と聞き直すことが非常に増えたな、と自覚しています。
この聞き返すという行為は、加齢を象徴する行動のようで、悲しい気分になります。
そして、聞き取りやすい右耳を相手に傾けながらの「え?」は、なお一層カッコ悪いなと思うのです。

私にとって補聴器は今や生活の相棒となり、装着することで聞き直す行為は若干軽減されましたが、最近、調子がよろしくありません。
購入した店で相談すると、レシーバーの故障とのことで一旦修理をしました。
ただ、補聴器の寿命は4〜5年だそうで、私の愛機はすでに7年以上経過しているとのこと・・。

カミさんとも相談した結果、仕事上、特にお客さんとの会話の中での「I beg your pardon?」をなるべく減らすことに重きを置き、ここで買い替えることにしました。

7年振りに購入した商品は、予想以上に進化していました。
スマホのアプリに接続して、様々な設定ができるのは驚きでした。
性能には十分満足できましたので、初老の必要経費と考えるしかないなと思っています。

ただ、補聴器を使用するにあたり、地声の大きな方との接触には、注意しなくてはなりません。
身近なところでは、私の父は非常に声が大きいので、電話の際は、最初の「もしもし」から注意が必要です。

また、たまにゴルフをご一緒する方で、声がとても大きな方がいます。
この方を助手席(私にとって補聴器側)にお乗せする時は、補聴器は外しておくことにしています。
耳栓をしても、充分聞き取れそうな声量をお持ちなので・・。

235 帰馬放牛

子どもの頃、初詣は決まって家族で靖國神社に行きました。
参拝に行くと、拝殿の手前の中門鳥居で一旦足を止め、「兵隊さんが戦地から家族へ宛てて書いた書簡を読みなさい」と父に言われました。

自らの命が残りわずかであることを悟るなかで、両親のからだを気遣い、弟や妹には立派な大人になって親孝行するように言い含める内容が多かった印象です。
二十歳前後の青年がしたためた文面が、悲しくて、崇高すぎて、こんな不幸な時代がほんの少し前にあったことの衝撃を、毎年正月に感じていました。

私は毎年拝読しましたが、母は、前途ある若者の最後の手紙が可哀想で可哀想で、あまり読みたくないんだとこぼしていました。

今月掲示されているのは、昭和20年4月、沖縄で命を落とした長野県出身の21歳男性が家族へ送った手紙です。
戦争とは本当に愚かな行いなんだと、改めて思い知らされる内容です。
(https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html)

正月に靖國神社に出向く理由は、父の名付け親が靖國に眠っているからだ、ということは漠然と聞かされていましたが、細かなことは知りませんでした。
そこで、先日詳しく話を聞いてみました。

その名付け親とは、父にとっては叔父にあたる方で、兄弟の末っ子でしたので、比較的歳が近い叔父でした。
幼い頃、一緒に遊んでくれた優しい叔父は、昭和20年、フィリピン沖で還らぬ人となりました。

当時、叔父には故郷に許嫁がいたそうです。
父もその女性の姿に、記憶があるそうです。
気立ての良い女性だと家族からも大変に評判の良い方で、皆が結婚することを待ち望んでいたそうです。
しかし、その望みが叶うことはありませんでした。

戦死の報せが届いた日、許嫁の女性と父の両親が、家の片隅で抱き合って泣いているのを見たそうです。
その光景は何年、何十年経っても忘れられないと、父は話していました。

月日は流れ、昭和24年。
父が上京し、住み込みで働くことになった際、母親からこう言われたそうです。

「伊豆の田舎から靖國神社へ出向くのは容易でない。お前がきちんと参拝するように。」

初詣にそんな背景があったとは、驚きでした。

私にとって最も身近な神社は靖國神社ということになりますが、現在の私の趣味である神社巡りの根っこがそこにあるかと言えば、そうではないように感じます。

ただ、靖國神社のホームページで、「護國神社」の存在を知りました。
護國神社とは、郷土の出身者またはゆかりのある方々で、戦場に赴かれ亡くなった軍人・軍属・勤労動員で亡くなられた一般市民の方々など、国家のために尊い命を捧げられた戦没者の御霊を御祭神としてお祀りする神社です。

基本的に道府県に1社(東京都と神奈川県にはありません)、全国に52社ありますので、地方に行くと必ず護國神社を参拝することが習慣となりました。
この習慣は、子供の頃から靖國で拝読していた書簡に起因していることは間違いないと思います。

これまでに参拝させていただいたのは、埼玉、千葉、廣島、栃木、京都、山梨、石川、茨城、宮城、静岡、福岡、愛知、群馬、新潟、奈良の16社(参拝順)。
52分の16ですから、まだ三分の一にも届きません。

私にとって靖國神社や全国の護國神社は、祖国を守り家族を守ろうと戦い続けた多くのご英霊に感謝を伝える場所であり、恒久平和を祈る場所です。
戦争を美化したり、責任追及する場ではありません。

作家でジャーナリストの門田隆将氏の著作で、大正生まれの男子は、7人に1人が戦死していると知りました。
私の敬愛する母方の伯父は、何度も出征しましたが、九死に一生を得て生還した大正生まれの1人です。
しかし、99歳で亡くなるまで、家族にも戦争の話はほとんどしなかったそうです。

ただ、「戦地でいろんなことがあったから、オレは晩年、幸せになれないと思う」とくぐもった声で言ったことがあると、母が教えてくれました。
伯父は、生きるか死ぬかの極限状態を何度も生き抜いてきたのでしょう。
その心中は、私には察することすらできません。

ところで、79回目の終戦記念日を迎えるにあたり、ネットで意外なニュースを目にしました。
パリ五輪を終えて帰国した卓球日本代表の早田ひな選手が、報道陣の質問に対してこんなコメントをしたそうです。

福岡・北九州市出身の早田には、パリ五輪が終わり同じ九州地方で行きたい場所があるという。「行きたいところの一つは(福岡の)アンパンマンミュージアム。あとは鹿児島の特攻資料館(知覧特攻平和会館)に行きたい。生きていること、卓球ができているのは当たり前じゃないのを感じたい」と意外な場所を口にした。

早田選手は弱冠24歳。
一流のアスリートであり、人間としても秀逸な早田選手には、唯々感心しました。

先述の門田隆将氏も、「故やなせたかし氏も、知覧の亡き特攻兵たちも、きっと驚き、そして喜んでいるだろう。有難う、早田さん」とSNSでつづりました。

明日は、私も現在の平和の礎について思量する機会にしたいと思っています。

233 現状打破

小学校からの親友・Kくんは、学年で一番足が速く、運動神経が抜群でした。

中学生のとき、Kくんを含む7〜8人で、深夜に公園で集まっていたらお巡りさんに咎められました。
タバコは所持していませんでした(と思います)が、その場の流れで、蜘蛛の巣を散らすように一斉に逃げました。
運良く全員逃げ切れましたが、中でもKくんは息を切らすこともなく、何事も無かったように涼しい顔をしていました。

そんなKくんと私は、若い頃から同じ悩みを抱えていました。
お互いおでこが広く、髪の毛のボリュームが少ないタイプだったので、「オレたち若くしてツルッといっちゃうのかね・・」「50歳くらいまでは頑張りたいよね・・」と10代の頃からハゲましあってきました。

そんな中、20代後半のとき、私は仕事で化粧品会社の女性社長と親しくなりました。
若ハゲを気にしていた私に、その社長はストレートにこう言いました。

市販のシャンプーにはね、界面活性剤っていう水と油が混ざっちゃう成分が入ってるの。
天然成分で出来ている石けんシャンプーにしないと、40歳頃にはツルツルになっちゃうよ!

単純な私は、その日の夜から石けんシャンプーに切り替えました。
以来35年ほどが経ち、おでこは相変わらず広いままですが、薄毛という点では「どうにか持ちこたえた」のではないかと思います。
年齢相応を維持できたのは石けんシャンプーのお陰だと、あの日の社長の一言にすごーく感謝しています。

50歳代の半ば頃、Kくんと「勝利宣言」をしました。
「どうにか持ちこたえた」髪を見合って、「このトシでこのくらいなら十分だよね!」と喜び合ったのです。

因みにそのKくん、今は髪が真っ白です。
数年前に、白髪を染めないことに決めたのです。

Kくんは元々イケメンでしたので、今、正にハクハツのイケオジです。
真っ白なオールバック姿で、お孫ちゃんと遊んでいるようです。

勝利宣言をした頃から、私も白髪が徐々に増えてきました。
抜け落ちてしまうことを考えたら、白髪染めなんて苦じゃないや、と最初の頃は思っていましたが、風呂場で2日に1回程度染めなければならない現実が、そこそこ面倒になってきました。

今年の春頃、行きつけの美容院に行ったとき、「試しに前だけ染めてあげようか」とのお言葉に甘え、人生初の白髪染めを経験しました。
地肌が黒くならない特殊なクリームを塗って、耳にはビニールのキャップのようなものをはめ、白髪染めが始まりました。

短髪ですし、染めるのは生え際だけですから、さほど時間も掛かりませんでしたが、その出来栄えは感動モノでした。
自分で染めたときとは雲泥の差、生え際が隙間なく黒々となりました。

以来、美容院に行くたびに生え際を染めていただいていましたが、今回は生え際だけでなく、髪の毛全体を染めてくれました。

帰宅して鏡を見てびっくり。
白髪がまったくありません。

「見て見て、白髪が1本もなくなったよ!!」

「あら、ホントだ。ずいぶん印象が変わるね〜!」

カミさんもその変貌ぶりに驚いていました。

「こんなに黒々とした髪なら、まだまだオレもひと勝負できるな!(何の勝負だ)
どこ行くかな・・、銀座か? 六本木か?」

「巣鴨のとげぬき地蔵がいいんじゃない?」

おいおい・・。

232 力戦奮闘

小さい頃、朝になると読売新聞と報知新聞がセットで届きました。
何故スポーツ新聞を取っていたのか確認したことはありませんが、おそらく父が野球好きだったからではないかと思います。

野球のシーズン中は、夜は巨人戦をテレビ観戦し、翌日の朝刊でその試合の記事を読むのが日課でした。
物心ついた頃から毎日読んでしましたから、自分の名前の次に書いた漢字は「報知新聞」だったと記憶しています。

母もある程度は野球に興味がありましたが、姉は全く関心が無かったので、野球は一般的に女性には人気がないものと思っていました。
ところが、嫁にした女性は、巨人の大ファンでした。
いい意味で予想が外れ、夫婦で同じ趣味を持てたのは幸運でした。

そもそも野球の話題は巨人に関することが大半でしたが、近年、様相が変わってきました。
大谷翔平選手の影響で、メジャーリーグへの感心が急激に強くなってきたのです。

毎晩、YouTubeのSpotvでメジャーリーグの試合のダイジェストを観るのが習慣となりました。
リビングの一角にあるホワイトボードには、メジャーリーグ全30チームの一覧を手書きしました。
ドジャースの選手の名前と顔もずいぶん覚えました。

先日Spotvを観ながら「オレが行った球場もここなのかな・・」と独り言のように言うと「父さん、ドジャースタジアム行ったことあるのぉぉぉ!」と素っ頓狂な声でカミさんに驚かれました。

大学3年生の夏、ロサンゼルスで3週間のホームステイを経験しました。
その時お世話になっていたホストファミリーが、ドジャースタジアムへ野球観戦に連れていってくれたのです。

対戦チームは忘れてしまいましたが、ドジャースの先発投手は当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったバレンズエラでした。
残したメモによると、初回にソロホームランを喫して、そのまま1対0で試合は終わったようです。
1982年9月4日、今から42年近くも前のことになります。
(写真の左下で、落ち着かない表情をしているのが私です)

野球と言えば、先日、エスコンフィールドへ行く機会がありました。
日本ハムファイターズが、昨年から本拠地にしている新しい球場です。

北海道に行くことはずいぶん前から決まっていましたが、その期間中にエスコンでプロ野球交流戦が行われ、その相手が巨人であると知った幹事さんが、サプライズでチケットを確保してくれたのです。

球場に足を踏み入れた瞬間、「日本じゃないみたいだ!」と思いました。
左右非対称な構造はメジャーリーグでは珍しくないものの、東京ドームに慣れている私には、とても新鮮でした。
新しい施設に感動しただけでなく、試合も巨人が勝利を収め、幹事さんには感謝感謝です。

また、球場内には、これでもかと飲食店が入っています。
ラーメンだけでも8店舗、そのほか寿司、お好み焼き、餃子、焼き鳥、ホットドッグ等々、どこで何を買おうか、ゼッタイに迷うと思います。

ひとつ進言するならば、試合が始まってから買いに行くのが良いと思います。

試合開始1時間ほど前から、どの店も異常なほど行列ができます。
私はラーメンに15分、モツ煮に30分、並びました。

ところが、試合が始まると多くの人は座席に戻るので、このタイミングで買い物に向かうのが得策だと思います。

因みに、私はラーメンとモツ煮のほか、ホットドッグ、焼き鳥、冷やし汁粉などなど、しこたま食べましたが、1番のオススメは、このパン(コロネ)です。
甘党でパン好きの私には、どストライクでした。

225 一竜一猪

先日、Yahoo!ニュースで「第1志望に「3分の2が不合格」中学受験の現実」という記事を見つけました。
葵さん(仮名)が経験したことを元に構成されたこの記事の一部を、以下に紹介します。

C校に入学して間もない4月上旬。葵さんが驚いたことがあった。男性の担任教員が「この中で第1志望じゃなかった子は?」と聞くと、クラスの大半の生徒が手を挙げた。「じゃあ第1志望だった子は?」。手を挙げたのは数人だった。「そうだよね、第1志望の子もいれば、そうじゃない子もいるよね」と担任は言った。

「私だけじゃないんだ」。葵さんは自分と同じ境遇の子が多いことにほっとした。同級生と互いの受験をオープンに話すことで、気持ちがほぐれ、友達が増えていった。そして学校が好きになった。

この記事を読んで、昔の思い出がよみがえりました。

以前にも紹介した私の中学受験は、学校の担任からは「合格するわけないからやめなさい」、塾の先生からは「合格しちゃうからよしなさい」と相反するご意見をいただき、結果は不合格。

「ほらね」と言わんばかりの学校の担任。
「悔しいだろうが喜べ。12歳で大学を決める必要はない!」と難しいことをおっしゃる塾長。

受験失敗という挫折感はわずか数日で消え、小学校の仲間と一緒に通った地元の公立中学は、楽しい3年間でした。

そして、迎えた高校受験。
思うように成績が伸びなかった私は、大学の付属校を受験対象から排除することにしました。
小学校6年生のときに学習塾の先生からいただいた言葉を思い出し、3年後、大学受験でもう一度勝負しようと決めたのです。

東京都にまだ学校群制度が存在した当時、私の第1志望は「41群」でした。
しかし、あまりにも内申点が低く、あえなく撃沈。
自身の第2志望だった、私立城北高等学校へ進学しました。

当時の城北高校は、1学年に750人ほど在籍していたマンモス校でしたので、それはそれはバラエティに富んだ生徒がいました。

その1人が、1年生のとき同じクラスだったS君。
入学当初からどことなく元気がなく、ねじ曲がって、ひねくれたような雰囲気を醸し出していました。
どうやら、有名県立高校合格間違いなし! と言われていたにも関わらず、運悪く失敗したそうで、「オレはこんな学校に来るつもりじゃなかったんだ」という気持ちが、入学当初、顕著に表れていたのでしょう。
その後、卒業まで同じクラスになることはありませんでしたが、決していい噂は耳にしませんでした。

もう1人印象的だったのはW君。
当時、城北高校の文系コースには、早稲田大学への推薦枠が1つだけありました。
文武両道、品行方正な生徒が毎年選ばれていましたが、我々の代では、W君とK君の一騎打ちとなりました。

W君はサッカー部、K君は体操部に所属し、各々運動部で活躍していました。
肝心の成績も、5段階評価でW君は平均4.9、K君は4.95と、どちらも非の打ちどころがありません。
W君は私立文系、K君は国立文系に所属していましたので、ここも評価対象になるのではないかなど、一時期、来る日も来る日も学校はこの話題で持ちきりでした。

結局、この激しい争いを制したのは、K君でした。

戦いに敗れたW君は、決して不満を口にすることなく、粛々と受験勉強を続けました。
普通に受験してもお前なら早稲田くらい楽勝だよ、と仲間に勇気づけられて臨んだ大学受験。
残念ながら志望校への合格は叶わず、明治大学への進学を決めたようでした。

「1浪して早稲田に行くべきだ」
「投げやりになっちゃだめだ」

人気者だったW君を心配する多くの仲間の声には耳を貸さず、明治大学へ進学したW君は、大学3年生の時に公認会計士の資格を取得したと、風の噂で聞きました。

推薦入試で落胆を経験し、一般入試でも夢破れたものの、自ら選んだ大学で腐ることなく努力を重ねたのでしょう。
同級生でありながら、心から尊敬できるなと思ったものです。

私の大学受験はというと、不合格の通知を重ね、入学を決めたのは第6志望の学校でした。
そして、入学金に加えて1年次の授業料も支払ったあと、第1志望の大学から補欠合格の報せを受けました。

仮に私が第6志望の大学へ進んでいたなら、W君のように努力することができただろうか・・。
補欠合格の電話を受けた際の感動や高ぶりを、大学生活に反映できただろうか・・。
受験は決してゴールではないな、と今更ながら感じます。

一竜一猪。
努力して学ぶ人と、怠けて学ばない人との間には大きな賢愚の差ができるということ。

セガレよ、まだまだこれからが勝負なのだぞ。

224 刻露清秀

有難いことに、ここ1ヶ月、とても忙しい日々を過ごしています。
勤労感謝の日も終日出勤し、その後の土日も処理しなければならない仕事をかなり抱えていました。
しかし、この週末はカミさんと京都へ紅葉見物に行く計画を、半年前から立てていたのでした。

ところが、カミさんはカミさんで、母親が先々週突然入院する事態となり、そのお世話に追われることとなりました。
ドタキャンか強行か、直前まで迷いましたが、「無理せず、欲張らず」を掲げて、予定通り上洛いたしました。

初日は、お気に入りのお蕎麦屋さんで昼食をとったあと、毘沙門堂と安祥寺へ出向きました。
どちらも山科駅から徒歩圏内にありますが、清水寺や嵐山と違って穴場的存在なので、さほどの人混みではありませんでした。

毘沙門堂では、ポスターにもたびたび起用される「勅使門」につながる石段の参道や弁天堂周辺、晩翠園が、キレイに色づいていました。
参道は散り紅葉で真っ赤に染まる写真で有名ですが、その時期にはまだ早かったようです。

参考までに、この毘沙門堂は、ウオーカープラスの京都府の紅葉名所人気ランキングでは第6位に選ばれています。
https://koyo.walkerplus.com/ranking/ar0726/

安祥寺は普段は公開されていないお寺ですが、10月から11月にかけて、期間限定で特別拝観が行われています。

御朱印をいただく際に小銭を持ち合わせていなかったので、千円札をお渡しし、そのままお納めくださいとお願いしたところ・・・・、

「ささやかですが、絵はがきをお持ちください。明日は日曜日なのですが、ほかのお寺のイベントに参加するため、今日が最後の拝観日なんですよ。この時間ですから、お二人が今年最後の参拝者かも知れませんね。」

なんだかご縁を感じた参拝となりました。

2日目は、ホテルでゆっくりしたあと、穴場中の穴場、京田辺市の「一休寺」を訪れました。

正しくは酬恩庵(しゅうおんあん)といい、とんちで知られるあの一休さんが、63歳頃から88歳で亡くなられるまでの約25年間を過ごしたお寺です。

正応年間(1288〜1293年)に南浦紹明が開いた妙勝寺が前身で、その後、戦火にかかり荒廃していたものを一休和尚が再興し、師恩に報いる意味で「酬恩庵」と命名されたそうです。

京都駅から近鉄線で南へ30分ほどの新田辺駅から徒歩25分というアクセスで、近くに観光地もないことから、紅葉の見頃であっても、混雑はしていませんでした。
(我々が帰るころ、団体客がバスで訪れ、若干様相が変わっていましたが・・)

ここには一休和尚の墓所があり(下)、宮内庁が御陵墓として管理をしています。

初日の午前中は、少し不安定な空模様でしたが、総じて天候には恵まれました。
ただ、行きの新幹線はみっちり仕事、初日夜は23時過ぎまでホテルで仕事、翌朝は4時に起床してカミさんの睡眠の邪魔にならぬよう洗面所で仕事・・・・と、カミさんにはやや申し訳ない旅になってしまいました。
帰りの新幹線でもやるぞ! と張り切っていたのですが、弁当を食べ終え、PCをオンにしてまもなく、寝落ちしてしまいました。
体力がほとんどエンプティだったようです。

それでも京都の紅葉ツアーは、大いに私に鋭気を与えてくれました。
来年も訪れることができるよう、日々仕事に精進したいと思います。

216 紅顔可憐

ゴールデンウィークに突入しました。
カミさんと買い物に出掛ける程度で、我が家は毎年大した予定がありません。

今日は残った仕事を片付けるため、朝から近所のカフェに来ています。
カフェやレンタルスペースなど、耳障りでない程度のノイズを背景に、自分が誰であるか周囲が知らない場所は、仕事をする環境として嫌いではありません。

ただ、「耳障りでない程度のノイズ」、要するに「いい感じの騒音」が難しいところです。
ガハハと笑いながら同時に数人がしゃべりまくるおばさま集団の存在は仕事の効率を低下させそうですし、一方、ちょっぴり好みのタイプの女性が近くにいたら、注意力散漫になりそうです。

因みに、今、私の前の席では、外国人男性と日本人女性のカップルが、朝から情熱的に肩を寄せ合っていますが、この程度は仕事に影響なさそうです。

私が普段利用している1つは、東京ミッドタウン日比谷のBASE Q内にあるワークスペースです。
1人席は、3時間1,500円、6時間2,000円と、都会のど真ん中にしては良心的な価格です。
ネットで予約ができますので、席を確実に抑えることができます。

個室ではありませんし、隣にカフェが併設されているため、騒音をシャットアウトすることはできませんが、個室型ワークブースの閉塞感が苦手な私にとっては、そこそこ快適な空間です。

会社にいると、電話、来客、その他諸々により、思うように仕事が捗らないことがありますが、外に出ればやりたい仕事に集中できます。
ノートPCのモニターがもう少し大きいと、老眼に優しいのですが・・。

朝、そろそろカフェに行こうか・・と思っていたところ、玄関でガチャという音がしました。
玄関を覗くと、徹夜明けとは思えない、元気溌剌な姿のセガレがいました。
昨日は夕方からサークルの新歓イベント→打ち上げ→カラオケ→朝帰り、と相成ったようです。

私にとって徹夜とは、ほぼほぼイコール徹マンです。
(「徹マン」は令和にあって死語でしょうか・・)

高校から大学にかけて、何回夜通し麻雀に興じたか、数え切れません。
夜も更けて朝が近づいてくると、「自摸って!」なんて声で起こされる寝落ちする輩が出現したり、こいつは半分寝ているだろう思っていたらでっかい手をテンパっていたり、睡魔による感覚マヒで突然強気になる奴が出現したり、予期せぬ事態が多発して楽しいものでした。

特に思い出深いのは、スキー旅行です。
上野から夜行電車に乗り、越後湯沢駅のダルマストーブの前で数時間過ごした後、朝イチのバスで民宿へ。
そして、朝イチからナイターまでゲレンデで過ごし、宿に帰れば深夜まで麻雀という、底なしの体力で遊んだものでした。

ただ、ダルマストーブの前で卓上麻雀に興じていたら、いつの間にか始発のバスが行ってしまったことが一度ありました。
4人もいながら、誰ひとり気付かないほど麻雀に熱中していたのかと呆れました。

ただ、徹マンは話し声はもちろんのこと、牌を手積みする音が響きますので、周囲へずいぶんと迷惑を掛けたことと思います。
また、灰皿は山のように積み上がりますので、健康上もあまりよろしくないですね。

60を過ぎた今は、日付変更線を過ぎるまで起きていることが、年に数回しかありません。
ましてや徹夜などしようものなら、1週間は抜け殻のようになってしまうと思います。

さて、朝からの仕事も一段落しましたので、昼メシの弁当を家族分買って帰ることとします。

214 千秋万歳

令和になって4度目の天皇誕生日を迎えました。
今年は、コロナ禍の影響で中止されてきた一般参賀が即位後初めて行われましたので、いっそう喜ばしい日になりました。

「誕生日に、初めてこのように皆さんからお祝いいただくことを、誠にうれしく思います。(中略)皆さん一人ひとりにとって、穏やかな春となるよう願っています。皆さんの健康と幸せを祈ります。」

国民に向かってお言葉を述べられた陛下。
好天のもと、声を発することなく、日の丸を振って祝意を示す参賀者。
日本人としての麗しさを感じました。

来年は、陛下も参賀者も、マスクなしで開催できたらなお嬉しく思います。

天皇誕生日というと、直感的に12月23日を思い浮かべてしまうことがあります。
平成の時代を30年以上過ごしましたので、致し方ないと思いますが、きっと数年すると解消するのだと思います。

上皇さまは昭和8年12月23日のお生まれですが、同じ年の父が、先日誕生日を迎えました。
90歳、卒寿です。

昭和8年の出来事を調べてみると・・、
01月01日 ラジオの時報が手動から自動式になる
01月30日 ヒトラーが独首相に就任
03月04日 フランクリン・ルーズベルトが第32代米大統領に就任、ニューディール政策始動
03月27日 日本政府が国際連盟脱退の詔書を発布
07月25日 山形市で気温40.8度を記録
10月19日 ドイツが国際連盟から脱退

まるで歴史の教科書を読んでいるようですね・・。

注目すべきは、7月25日の「山形市で気温40.8度を記録」です。
2007年8月16日に岐阜県多治見市と埼玉県熊谷市で40.9度を記録するまで、国内最高気温が昭和8年の記録だったとは驚きです。

伊豆の農家の三男坊だった父が上京したのは昭和24年、16歳のときでした。
東京都中央区の印刷会社に住み込みで働き始めました。

東京に行ったらうまくなるぞ!と思っていたことがが3つあったそうです。
ビリヤード、ボウリング、社交ダンスです。
(女性にもてたかったのでしょうか・・)

ビリヤードとボウリングに夢中になっていた姿は、私の記憶にもありますが、社交ダンスは全く知りません。
聞くと、銀座にあった社交ダンスの店へ恐る恐る行くと、スラリとした華やかで美しい女性に「いらっしゃいませ」と出迎えられ、恥ずかしくて逃げてきたそうです。
「でもな、やっぱり習っておけば良かったな」と悔いるように言うときがたまにあります。

90にして今もなお、ほぼ毎日出社しています
運転免許証は返上してしまいましたので、電車通勤です。

本人を目の前にしては言葉にしませんが、生涯現役を貫く姿勢には敬服です。
もちろん、出来ることは年々少なくなってきていますので、温かく協力してくれる社員の皆さんには感謝しなければなりません。
ときに、卒寿の祝いの品を社員からいただいたそうで、本人は心から喜んでいました。

誕生日当日、セガレとカミさんと連れだって、久しぶりに実家へ行きました。
我々の到着よりも早く、事前にオーダーしておいた花が届いていました。
数日後には、名前入りの夫婦茶碗が届く予定です。

セガレは大学に入ってから始めたクラシックギターを演奏するため、ギターを持参しました。
ひょっとすると、花よりも夫婦茶碗よりも、初心者ながら孫のギター演奏が一番心に残ったのかも知れません。

211 終食之間

最近お気に入りのお弁当があります。
亀戸升本さんが作る「すみだ川あさり弁当」です。

ツイッターでも高評価を得ている亀戸升本さんは、明治38年に酒屋として創業。
その後、幻の江戸野菜「亀戸大根」を復活させ、割烹料理屋として復興したという、少し変わった経歴のお店です。

では、このお弁当のお薦めポイントを3つご紹介します。

お薦め①:亀辛麹(かめからこうじ)
写真中央の小さなカップに入った、米麹と青唐辛子と有機醤油を長期熟成させた秘伝のタレです。
ピリッとした辛さが特徴で、鶏つくね、里芋、ご飯等、何にでも合います。
思い出すと無性に食べたくなる、やみつきのタレです。

お薦め②:卵焼き
ちょっと隠れてしまって分かりづらいのですが、写真の一番下に、かなり分厚くてビッグサイズの卵焼きが入っています。
様々詰められたおかずの中で、ふんわり柔らかくてほんのり甘いこの卵焼きが私は一番好きです。
半分はそのまま、残り半分は亀辛麹と共に楽しむことにしています。

お薦め③:カラダに優しい
美味しいだけではなく、添加物が少ない点も大きな魅力です。
原材料表示は下記の通りです。

お弁当でよく見かける、増粘多糖類、pH調整剤、ソルビット、グリシン、酢酸Na、保存料(ソルビン酸K)などなど、定番の添加物が見当たりません。
私は小さい頃から食の安全について母から教えられてきましたので、このお弁当はとても嬉しいですね。

さてワタクシ、お弁当にまつわる忘れ得ぬ思い出が2つあります。

1つは、小学校高学年の頃。
ひとりで夏期講習か冬期講習に参加したときのことです。
確か、日暮里駅か鶯谷駅の近くにあった、当時としてはそこそこ大きな規模の学習塾だったと思います。

昼の休憩時間、持参したお弁当を席で食べていたら、前に座っていた見知らぬ2人の生徒が振り向きざまにこう言いました。

「お前のエビフライ、ちっちぇな」

そう言い放ったのは背の小さな方。
そして、その横でニヤニヤ笑う小太りの男が持つお箸には、私の2倍以上の大きさのエビフライが握られていました。
その存在感は、抵抗する気持ちを萎えさせるに十分なものでした。

私ひとりで見知らぬ塾生2人を相手に喧嘩をする度胸もなく、「テストの点数は負けねーからな」なんて密かに思うのがせいぜいでした。

「あなたの学習塾の費用が結構バカにならなくてね・・」と大人になってから母に聞かされましたので、あのエビフライのサイズは、当時の我が家の経済状況そのものだったのだと思います。

50年も前の出来事なのに鮮明に記憶しているということは、当時のショックは大きかったことの裏返しなのでしょうか。

今思えば、あの大きなエビフライは、お総菜コーナーで購入したのではないでしょうか。
かーちゃんが愛情込めて手作りしてくれたことに値打ちがあるんだ、なんてやり返すことは、当時無理だったなと思います。

もう1つは高校1年生のとき。
教室の席は氏名の五十音順に決められていましたので、私・ヤマダは最後から3番目の窓側の席でした。
そして、私の右に座っていたのは、お坊ちゃまの雰囲気漂う「前田」。
昼になれば隣の机に広げられる前田のお弁当は必然的に目に入りますが、これがとても印象的でした。

端的に言うと、美しいのです。
男子高校生が持参する弁当ですから、キャラ弁とかいう美しさではなく、まるで仕出し弁当屋さんが作ったように、色や盛り付けがキレイなのです。
しかも、来る日も来る日も期待を裏切らない、見目麗しいお弁当でしたので、前田の弁当をこっそりのぞき見するのが、日々の楽しみにもなっていました。

こう言っては叱られそうですが、私の母の弁当はとても美味しかったけれど、見栄えは普通でした。
高校1年生にして、料理は美を表現できるものなのだ、ということを前田のお弁当を通じて学びました。

我が家のセガレも中学高校の6年間、お弁当を持参しました。
たまには売店でパンを買うとか、食堂で名物の唐揚げ丼でも食べればいいのに・・、と思うことがありましたが、頑なに弁当を持っていきました。

日曜日以外毎日ですから、作る方は大変です。
ほとんど冷凍食品を使わずに、よく作ったものだと感心します。
少しはカミさんに感謝しているのかな、と思ったりします。

あ・・。
かく言う私も、見栄えがどうとか言う前に、母に感謝の言葉を伝えたことはあっただろうか・・。