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152 寸草春暉

3月18日は、両親の結婚記念日です。
そして、今日、60回目の記念日を迎えました。

26歳と22歳だった新郎新婦は、86歳と82歳の老夫婦になりました。

しかし、父はまだ毎日仕事をしています。
母も元気ですし、料理の腕前は鈍っていません。

結婚60周年を、一般的に「ダイヤモンド婚式」と呼ぶのだそうですが、夫婦揃って、仲良く、そして元気にこの節目を迎えられるのは、とても幸せなことだと思います。

農家の三男坊として生まれた父は、旧制中学卒業とともに、商人になるという夢を抱いて上京しました。
「“こうりひとつ”で東京に出てきた」と昔から父に聞かされていましたが、「こうり」とは「竹や籐などを編んで作った籠の一種」で「行李」と書くようです。
要するに、荷物ひとつだけを抱え、伊豆の田舎町から東京に出て来た訳です。

一方、母も裕福ではない農家に生まれ、高校に進学することができませんでした。
藁だか何かを編む内職を手伝うから進学させて欲しい、と家族に懇願したそうですが、父を早くに亡くしたこともあり、少女の希望は通りませんでした。
上の学校に進学する級友たちを羨ましく見ていたという母の気持ちを、私には推し量ることなどできません。

そして、同じ印刷会社で偶然働くことになった2人は、昭和34年に夫婦となりました。

中央区月島の狭くて陽当たりの悪いアパートから始まった新婚生活は、まもなく2人の子どもが生まれたこともあり、金銭的には苦労したそうです。

私が社会人になってから、「学習塾の費用の捻出が大変だった」と聞かされました。
その事実を知った時、少なからずショックを受けました。

小学生の頃から、私が行きたいという塾には、自由に通わせてくれました。
中学受験もしましたし(失敗に終わりましたが)、高校も「都立はここしか受けない」と背伸びをした挙句に不合格となり、授業料の高い私立高校に進むことになっても、異議やお小言はありませんでした。
大学はかろうじて国立大学に合格しましたが、追加合格だったため、私立大学に入学金と授業料として70万円近くを出費しました。

進学に関して、私の選ぶ道に反対されたことは一度もありませんでしたが、お金の苦労を子供に悟られぬよう、親は陰で苦労していたのでしょう。
自分たちは進学が叶わなかったので、子供にはきちんと教育を受けさせたいという思いもあったのだと思います。

また、体調面でも、決して順風満帆ではありませんでした。

母は50代で、大腸癌を患いました。
その後、肝炎を起こしたり、腸閉塞で入退院を繰り返すなど、健康を害していた時期もありますが、我慢強い母は、病に負けず、元気を取り戻しました。

父は、一昨年、心臓の手術を受けました。
80歳を過ぎてからの心臓バイパス手術に際して、術前、看護師さんにこう言っていたそうです。

「老人のボクだが、まだやり残したことがある。だから、もう少し生かして欲しい・・。」

どうやら、その本意は「もう少し会社の役に立ちたい。セガレの一助になりたい。」ということだったようです。

自ら会社を興す、即ち、商人になるという夢を叶えたのが44歳の時でした。
学歴も資格もなく、親からの援助も全くなく、ただがむしゃらに家族のため働いてきた父は、80を過ぎてもなお仕事への情熱が衰えておらず、その意欲にはただただ敬慕の念を抱いています。

果たして自分は何歳まで仕事ができるか、そして、子供にどれだけの愛情を注ぎ続けられるか・・。
親のマネは出来ないな、と思っています。

歳を重ねてから、両親は勉強熱心になった気がします。
父は本をよく読みますし、母は四文字熟語の勉強をしているそうです。

人間死ぬまで勉強だと、背中で教えられているように思います。
私も昨年不合格に終わった漢字検定準一級試験を、今年もう一度チャレンジしたいと思っています。

ところで、天皇皇后両陛下にとって、今年は『結婚60年、即位30年』の年にあたります。
今上天皇は、昭和8年12月23日のお生まれで、ご結婚されたのは昭和34年4月10日。
偶然ですが、父と同年齢で、結婚した時期も1ヶ月と変わりません。

先日、陛下の即位30年と、天皇皇后両陛下の結婚60年を祝って、宮内庁職員による茶会が行われたそうです。
私も60回目の記念日当日に届くよう、京都・権太呂のうどんすきを贈りました。
後日、改めて、ささやかながら食事会を開きたいと考えています。

130 嫣然一笑

先日、お客様3人と食事会をしました。
しかも、私以外はすべて女性。
私もまだまだ捨てたものではないなと・・。

仕事で知り合った方と、こういう集いをもてることは本当に有難いことです。
食事もゴルフも「接待」という冠が付いた途端、純粋に楽しむことは難しくなりますが、先の会合は完全なるプライベート。
一緒に食事をするのは初めての機会でしたし、価値観の合う皆さんでしたので、心から楽しい時間を過ごすことができました。

帰り際には、LINEのグループを組みました。
グループ名は「Habitationの会」。
命名の理由は我々だけの秘密です。

また、嬉しいことに、洋菓子のプレゼントをいただきました。
バレンタインデーが近かったからかも知れません。

ひとつは、キースマンハッタンのローストナッツブラウニー。
チョコとナッツの組み合わせが美味しくて、帰ったその夜、寝る直前だというのに、2個食べてしまいました。
このお菓子は、取扱う店舗が限られているため、なかなか入手が困難なようです。
お取り寄せ専門サイトでも紹介されていました。

もうひとつは、焼き菓子専門店・ビスキュイテリエ ブルトンヌのウィークエンドという名のパウンドケーキ。
レモンの香りとシャリシャリの糖衣が、たまりませんでした。
私、元々パウンドケーキに目がないのですが、これまでに食べたものより、抜群の高級感でした。

この連休、甘い物には事欠かずに済みそうです。

この方々からは、以前、私が入院した際に、病室にお花を届けていただいたこともあります。
仕事を超えて、人としてお付き合いができることは無上の喜びです。

これからも「ご縁」は大切にしていきたいと思っています。

125 忙中有閑

10月末頃から、仕事が非常に多忙となりました。
暇な時期と足して割れるといいのですが、そう都合良くはいかないものです。

昼食を食べる時間もなく根を詰めて働きつづけ、週末すら休めない状況でも、若い頃は、さほどダメージを感じませんでした。
しかし、50歳半ばを過ぎた今、ダメージを自覚する前に、カラダを労ることも大切だと考えるようになりました。

そこで、週末に思い切って東京を抜け出すことにしました。
パソコンがあればこなせる仕事をたんまり抱え、向かったのは仙台です。

新幹線はやぶさで、東京駅から仙台駅までわずか1時間半。
やっぱり新幹線は偉大です。

土曜日の朝は、仙台駅東口のスターバックスで、食事を摂りました。
交差点の2階から見える宮城野通りは、電線が地中に埋められたとてもキレイな道路で、初冬の気配に包まれた朝の風景は、日常の喧噪を忘れさせてくれました。

食事をしながらかれこれ2時間半ほど仕事をし、ホテルに戻って続きの作業。
腹が減ったら、ホテルのとなりで牛タン定食。
おやつどきには、ずんだ餅。
そして、また、仕事。

土日2日間、こんな調子で過ごしました。
環境を変えると、気分が変わりますね。
今は、Wi-fiスポットが街中にありますので、メール送受信にも事欠きません。
早朝、深夜を厭わず、仕事ができました。

好きな神社巡りも、ちょっと叶いました。

下の写真は、榴岡天満宮です。
仙台駅から歩いても行けるこの神社は、ご詠歌の書かれた見開きの御朱印で有名です。

仕事をこなしながら、ストレス解消。
ちょっとクセになりそうな2日間でした。
次は、名古屋か新潟あたりを狙おうか・・と策を練っています。

124 一挙両得

弊社は、社員全員にインフルエンザの予防接種をするよう伝えています。
少ない人数ですから、費用は会社が負担しています。

今年は、ワクチンが不足しているというニュースをよく耳にします。
6月にワクチン製造につかうウイルス株を変更したため、生産が遅れているからだそうです。

先日、大学病院で長くお世話になった先生が開業されたと知り、ご挨拶旁々お電話したところ、運良く在庫があり、私はすぐに接種していただくことができました。

ところで・・、
インフルエンザの時期になると、思い出すことがあります。

30代のころ、小学校からの親友が「おたふく風邪」で入院騒ぎになりました。
仲間とふたりで見舞いにいくと、既に回復に向かっていたものの、一時はかなり深刻な症状だったそうです。

「39度の高熱が出てさ、アソコが3倍くらいに腫れちゃってさ。まいったよ。」

アソコが3倍ってどんなんだよ!と、不謹慎にも友人と大笑いしつつ、大人が罹患すると重症化するのは間違いなさそうなので、その日のうちに母親に確認してみました。

「あ〜、ごめんね〜。ハシカとミズボーソーは間違いなくやったけど、オタフクだけ覚えてないのよ。」

それから10年以上が経ち、セガレが幼稚園に通っていたある冬。
複数の園児がおたふく風邪に罹ったと連絡がありました。
母親から心許ない情報をもらっていたので、まずは予防接種だ、と近くのクリニックへ行きました。

担当してくれたのは40歳前後のハキハキした男性医師。
やや話し好きな医師は、たわいもない話を私に投げかけ、中年男2人の診察室は、和気藹々とした雰囲気でした。
「じゃあ利き手じゃない方の左腕に注射しますね。」
カミさんが事前に予約してくれたので、すべてスムーズに進みました。

「空き箱、持って帰られますか?」

服装を整えていた私に、医師は意外なことを言いました。

アンプルの入っていた箱?
要らないよなあ、普通・・、と思いつつ、

「有難うございます。記念に持って帰ります。」

愛想笑いしながら空き箱を受け取り、診察室から出ようとすると「インフルエンザ」という文字が目に入りました。

「あの〜、先生、ワタシ、おたふく風邪の件で来たのですが・・。」

「あっ・・」

あれ?今「あっ」って言った気がするなあ・・、と思っていると、先生は慌てて部屋の奥へ行き、小走りで戻ってきました。

「あの、山田さんですよね、あの、ごめんなさい、あの、インフルエンザの予防接種をしてしまいました。朝からインフルの患者さんばかりだったので・・、えーと、あります。おたふく風邪は生ワクチンなので、冷蔵庫でちゃんと・・。えーと、ご予約いただいてますからね、お名前もちゃんと・・。」

完全にしどろもどろでした。

「すぐ射ちますから・・、ゴメンなさい・・。」

「いっぺんに2つもですか?大丈夫なんですか?」

「それは大丈夫です。問題ありません。アメリカでは、同時に接種するのが通常ですから。」

いやいや、オレ、バリバリの日本人なんだけどなあ、いやだなあと思う間も無く、右腕に注射針が刺されました。
結局、左腕にインフルエンザ、右腕におたふく風邪と、両腕に予防接種を受ける不測の事態となりました。

最後に、会計窓口での支払いの際、やや年配の女性スタッフがやや控えめの笑顔を浮かべながらこう言いました。

「インフルエンザの方は、サービスさせていただきます(^^)」

得をした、と喜ぶべき出来事なのでしょうか・・。

123 才子多病

幼い頃悩まされた自家中毒という病が一段落すると、次は、起立性調節障害という病気をいただきました。
学校の朝礼などでずっと立っていると、貧血のような状態に陥り、頭がフラフラして立っていられなくなるのです。

バタンと倒れてしまうことはありませんでしたが、近くの友達に「ゴメン、ダメ」とサインを出すのが常でした。

この起立性調節障害、Orthostatic Dysregulationを略してODと呼ばれています。
思春期に起こりやすい自律神経機能失調と考えられていて、急激な身体発育のために自律神経の働きがアンバランスになった状態、と説明されています。
主たる症状は以下のとおりです。(引用:http://inphs-od.com)

  1. 朝に起きられない
  2. 立ちくらみ
  3. 全身倦怠感
  4. 食欲不振
  5. 立っていると気分が悪くなる
  6. 失神発作
  7. 動悸
  8. 頭痛
  9. 夜になかなか寝つけない
  10. イライラ感・集中力低下

私の症状は、4と5でした・・。

検査をしても異常がなく、医学的に説明がつかない症状を「不定愁訴」というのだそうです。
起立性調節障害は、血液検査など一般的な検査では異常がみつからないため、不定愁訴と同じように扱われることがよくあるとのことです。

この病気に小児科医が注目を寄せ始めたのは1960年代だそうですから、1961年生まれの私が、単に「ひ弱な子供」として処理されずに起立性調節障害と診断されたことは、運が良かったと言えるかも知れません。

また、ODの子供たちの約3割は不登校を合併しているそうですから、私よりもっともっと深刻なケースも多いでしょう。
不定愁訴が疑われる子どもに対して、医師は起立性調節障害かどうかしっかりと診断して欲しいと切に思います。

そういえば、印象的な出来事がひとつあります。
小学校5年生頃、体育館で校長先生の話を聞いていた時のことです。

「おい、山田、大丈夫か?」
「え???何のことですか???」
「何言ってるんだ、お前、いつも具合が悪くなるじゃないか。」
「はあ、今日は全然平気です・・。」

担任の先生に声を掛けられるまで、その日は何の異常もなく、至って元気でした。
ところが、声を掛けられたことで「思い出してしまった」のです。
そりゃそうだ、オレってこういう時にちょいちょい具合悪くなるよなあ、と。

それから10分もしないうちに、前にいた友達の背中をつつきました。
「わりー、具合悪いわ。」

ワタクシ、わりと繊細な少年でありました。
そして、健康面では両親にずいぶんと心配を掛けた少年でした。

加えて・・、
才知に優れた人はとかく病気がちであるというけれど、才知と病気のバランスが取れていないなあと、自らの子供時代を嘆くのでした。

122 奇々怪々

私は幼い頃、体があまり丈夫ではなく、幼稚園や小学校を一年間休みなく通うことはできませんでした。
それは、「自家中毒」という持病を抱えていたためでした。

腹痛や嘔吐を繰り返すので、症状は「食中毒」と似ていますが、全く関係はありません。
周期性嘔吐症と呼んだり、血液の中にアセトン(ケトン体)が増えるので、アセトン血性嘔吐症と呼んだり、現在では、その病態をさしてケトン血性低血糖症とも言われています。
(出展:https://www.ishamachi.com/?p=35551)

自家中毒の特徴についても、ネットで調べてみました。

①2~10歳くらいの間で見られ、5・6歳が発症のピーク。
②思春期になると治る。
③やせ型で繊細な子供に多く発症する。
④心配性で「失敗したどうしよう」などと先回りして考えてくよくよしてしまう性格の子供や、逆に楽しいことを想像してワクワクが止まらなくなってしまうなど、感情が盛り上がりすぎてしまう子供などにも見受けられる。

見事なまでに、私の子供時代を言い当てています。
因みに④は後者です。
人一倍楽しみにしていた運動会や、夏休みの家族旅行直前になると体調を崩すという、すこぶる残念なタイプの少年でした。

自家中毒を発症すると、母親におんぶされ、かかりつけ医に連れて行かれました。
母にしてみれば、可哀想半分、情けない半分といった心境だったことでしょう。
一方、私は、繰り返す嘔吐で体力が落ちている中、「またかよ」と気持ちも凹んでいたわけで、母の背中に癒され、勇気づけられたのを覚えています。

症状が落ち着いて、徐々に食欲が戻ってくると、母は消化の良い食事を用意してくれました。
決まって登場したのは、リンゴとはんぺんでした。

おでんの具人気ランキングの上位に必ず登場するこの「はんぺん」。
大人になってからは、好んで食べなくなりました。
美味しい美味しくないではなく、私にとっては「体調を崩したとき食べるもの」という印象が定着してしまったのです。
今でも、はんぺんを見ると、狭いアパートの一室で嘔吐していた、切なくて心細い気持ちを思い出します。

思い出すといえば、自家中毒を発症した時だけ会える「おじさん」がいました。
会えると言っても、四畳半の一室の決まった壁に「像」が浮かび上がるのです。
その像が見えるのは、自家中毒で布団に伏しているとき、という限られた条件下だけで、元気なときに現れることは決してありませんでした。
その「おじさん」はいつも同じ表情をしており、恫喝したり恐怖を与えたりすることは決してありませんでしたが、「あの場所におじさんが見える=今オレは病気なんだ」と確認させられる存在でした。

あれは、一体どういう現象だったのでしょうか?

不思議の国のアリス症候群という病気があるそうです。
その症状は、目の前にある物の遠近感覚が狂ってしまったり、時間の感覚がおかしくなってしまったり、壁に顔が浮かんで見えたりするそうです。
う〜ん、ちょっと違うような気がします。

実は、大人になってから、たった一度だけあのおじさんに会ったことがあります。
昼寝をしていたとき、夢に現れたのです。
しかも、体調不良ではなく、元気なときに。
ほろ苦い思いと、ちょっと嬉しい思いが交錯した記憶があります。

今日は私の56回目の誕生日です。
母へ感謝の意を表しつつ、子供の頃の不思議な話をしたためてみました。

116 聚散十春

ロサンゼルスでホームステイしたのは、大学3年生だった昭和57年(1982年)のこと。
35年も前の出来事ですが、今もなお、一部のメンバーと交流が続いています。
わずか27日間の夏を共有しただけで、これほど長く繋がっていられるのは有難いことです。

また、ホストファミリーのFrank&Norma夫妻とも、長い間クリスマスカード等を通じて連絡を取り合っていました。
しかし、私が英語で手紙を書くエネルギーを失ったため、交流が途絶えてしまいました。

ところが、数年前、Facebookで再び繋がることができました。

Oh my gosh, of course I remember you. And in the photos…. you look the same…. What a nice family. You may come to California anytime and visit me with them…. Have a Happy Day.

家族写真を添付し、友達リクエストを送信したところ、こんな嬉しいメッセージが届きました。
ネット上とはいえ、再会できたことに感泣しました。
ただ、Frankが既に亡くなったという大変悲しいニュースも知りました・・。
私が手紙を送り続けていれば、もっと早くに知ることができたのにと、心底悔やみました。

 

話は変わりますが、今年の6月、大学時代の同級生女子と会う機会に恵まれました。
大学卒業以来、実に33年ぶりの再会でした。
と言っても同じ大学ではなく、彼女は横浜のお嬢様学校として有名なフェリス女学院大学の学生で、同じサークルに所属する仲間でした。

富山県出身の彼女は、会話の中に方言がちらほら顔を出す愛嬌のある女子大生でした。
卒業後は地元に戻り、28歳で結婚し、翌年にお嬢さんが誕生。
その後、ご主人の仕事の都合で何度か転居し、今春、千葉県内に移転してきたとのはがきを受け取ったので、会おう!と私から声を掛けました。

33年ぶりの第一声は、「お互い元気で良かったね。」

なんだか年寄りじみていますが 、自然とこういう言葉が口を衝いて出ました。
私も大切な友人を既に亡くしていますが、彼女も学生寮で同室だった友を亡くしているそうです。
すっかり中年になってしまったけれど、元気で再会できたことを素直に喜び合いました。

残念ながら怪しげな不倫のオーラを全く発せられない中年カップルは、年甲斐もなく人気のパンケーキ店でランチし、学生当時に彼女が住んでいた港区内のマンションがそのままだったことに感動し、そして最後は、カフェで33年分のよもやま話に花を咲かせました。
ただ、カフェで注文しようと並んでいたらそこはオーダーをピックアップする列だったり、LINEで友達登録するのに四苦八苦したあたりは、オジサンオバサン感、丸出しでした。

愛らしい女子大生から品格ある淑女へ変貌した彼女と再会できたのは、年賀状をお互い出し続けていたから。
そして、彼女が転居通知を送ってくれたから。

年を重ねるごとに、ご縁や友達の大切さを痛いほど感じます。

義理を欠かさないこと。
改めて、心に刻み込みたいと思います。

106 耳聡目明

耳聡目明。
目と耳の感覚のどちらもすぐれていることです。
若い頃は、そんな自負がありました。

ところが、40歳を目前にして、まず、近くが見えなくなってきました。
現在は、老眼鏡がないと仕事になりませんし、食事も摂りにくいほど進んでしまいました。

そうこうしているうち、遠くも見づらくなってきました。
ついには、近く用と遠く用、両方のメガネを持つようになりました。

また、30歳代後半頃から、健康診断で左耳の聴力異常を指摘されていました。
とはいえ、自覚症状が全くないため、ずっと放置していました。

しかし、5年ほど前、左耳に違和感を覚え、耳鼻科を受診したところ、難聴と診断されました。
それでも意に介さず、聞き流していたある日、テレビを見ながら良好な耳をふさいでみたら、テレビの音量が半分ほどになってしまいました。

流石にこれはショックでした。

その後、経過観察を続けていましたが、最近、会話の中で「えっ?」と聞き直すことが増えたように思い、改めて検査したところ、補聴器を試してみてはどうか、と医師から勧められました。

「私の聴力は、補聴器を使用するほどのレベルなのでしょうか?」と尋ねると、
「そうですね」と医師にあっさり答えられ、これまたショックを受けました。
「将来のために、一度体験しておけば?」程度の話かと思ったら、そうではありませんでした。

そして、今・・・・、
私の左耳には補聴器が装着されています。
医師の紹介状と検査検査を持参して専門店へ出向き、2週間の約束でレンタルしてきたのです。

難聴の診断が下って以来、補聴器の存在は、どこかで意識していました。
いつか使用する時が来るのだろうと・・。
しかし、こんなにも早く、その時が来るとは思いませんでした。

補聴器を借りた後、スターバックスでお茶して、小一時間散歩をし、電車で帰路に着きました。

スターバックスの店員さんが椅子をズリズリっと動かす音、なんかうるさいなあ・・。
電車のホーム、ちょっと賑やかに感じるなあ・・。
装着感はほとんど感じないなあ・・。

そんなことを感じながら家に戻り、トイレに入りました。
すると、用を足す音の大きさに、ひどく驚きました。
また、水が流れる音も、とても新鮮でした。

明日、出社すると、ほかにも新たな発見があるのでしょう。
オンデマンド機の音に、驚いたりするのかなあ・・。

74 千秋万歳

以前にも少し触れましたが、私には98歳になる伯父がいます。
大正6年10月15日生まれです。

折しも今日は終戦記念日ですが、伯父は太平洋戦争を経験しています。
一度ならず、何度も出征したそうです。
しかし、これまで、戦争について語ることは、ほとんどありませんでした。

「戦地でいろいろあったから、俺は、晩年幸せな人生は送れないかも知れない・・。」

いつぞや、周囲にそうこぼしたことがある、と聞いたことがあります。
この重い言葉に隠された伯父の胸奥を、私には推し量ることなどできません。

私の好きなノンフィクション作家・門田隆将さんの著「太平洋戦争最後の証言」によると、大正生まれの男子1,348万人のうち、およそ200万人が戦死したそうです。
7人にひとりです。
私もあと40〜50年早く生まれていたら、と考えると血の気が引きます。

伯父は子供が4人いますが、全員女の子でしたので、男の私を大層可愛がってくれました。
私に初めて自転車を買ってくれたのも伯父でした。
伯父の住む田舎の広い庭で毎日何十回も転び、寝る前に二人でスネのアザの数を数えました。
そして、ようやく乗れるようになった夏休みは、今も忘れることができません。

大学に合格した時も、たくさんお祝いをいただきました。
「行きたい学校に合格して良かったね。おめでとう。」と喜んでくれました。

家内を連れて遊びに行ったときは、寿司の出前をとってくれました。
カミさんに気遣いして、持てなしてくれたのだ、とすぐにわかりました。
オレは田舎者だから・・といつも謙抑で遠慮深い伯父でしたから。

また、伯父は手先が器用で、何でも作ってしまう人でした。
削いだ竹を編んで作った器は、職人顔負けの出来映えでした。
そして、腕相撲も強かったし、将棋も上手だった。
少年のボクには、何でもできるスーパーマンのような存在でした。

今秋には99歳を迎えますが、いくつになっても、伯父は私にとってスーパーマンです。
尊敬と感謝の念を込めて、白寿のお祝いを贈ろうと思っています。

71 嘉辰令月

今日は私がこの世に生を受けて、ちょうど20,000日目にあたります。
私にとって20,000回目の朝なんだなあと、今朝はどことなく感慨深い思いでした。
単純に20,000÷365=54.79ですから、なるほど、55歳の誕生日前にこの日は来るんですね。

20,000日目であることを知ったのは、思いがけないことがきっかけでした。

私には98歳になる伯父がいます。
10月が誕生日なので、来年秋には100歳になります。
100歳って日数にすると何日になるんだろう?
そんな疑問からでした。

振り返ってみると、私にとっての5,000日目は1975年6月30日(月)。
中学2年になって3ヶ月後。
スポーツに打ち込む訳でもなく、
一生懸命勉強する訳でもなく、
生意気盛りの中2には、彼女がいるはずもなく・・。
これといって特徴のある少年ではなかったですね。

10,000日目は1989年3月8日(水)。
27歳春。
どちらかといえば結婚願望のある方でしたが、全く叶いませんでした。
春が身近に感じられず、
将来の展望も開けず、
やや暗い青春時代を送っていました。

15,000日目は2002年11月15日(金)。
結婚して約7年。
40歳を過ぎても子宝に恵まれず、
友人たちの子は着々と成長し、
周囲から二世を期待する声も若干遠ざかりはじめ、
人生設計の修正が必要だな、と感じていました。
カミさんと二人の生活をどう楽しんでいこうかと・・。
まさか、翌年秋にセガレが生まれるなんて、想像もしていませんでした。

そして、20000日目、2016年7月24日(日)。
家庭は円満だし、
両親は元気だし、
今日のご飯に困ってはいないし・・。
人並みに仕事のストレスは抱えておりますが、幸せな節目の日だと思っています。

20000日だ、20000日だ、と騒ぐ私をよそに、家族の反応はいたって冷静でした。
しかし、しつこく訴え続けたらカミさんが晩飯に付き合ってくれました。
『20000円の料理を食べる資格が今日のオレにはあるんじゃないか!』との主張は、
あっさりと否定されてしまいましたが…。

因みに98歳になる伯父は、既に36,000日を超えています。
ん・・、先は長い・・。