157 短慮軽率

昨日は久しぶりにフリーな1日でしたので、ほぼ終日、読書を楽しみました。
長らく「積ん読」だった本を2冊、自宅で、カフェで読み切りました。

私の好きなジャンルは、ノンフィクションです。
中でも、事件や犯罪、死刑に関する本をよく読みます。
家族からは、薄気味悪いとか、本棚を人様に見せられないなどと言われています。
今日読んだ2冊も同様の本ですから、電車の中など公衆の面前で読む際は、カバーが必須ですね・・。

興味を持つきっかけになった本は、「日本の黒い霧(松本清張 著)」です。
戦後まもなく発生した12の事件に、松本清張が独自の歴史観と大胆な推理で迫った作品です。

中学生だった私がなぜこの本を手に取ったのか、今となっては定かでありませんが、中でも「下山国鉄総裁謀殺論」と「帝銀事件の謎」の2つに魂を大きく揺さぶられました。

下山事件は、昭和24年7月、初代国鉄総裁下山定則氏が、常磐線の線路上で轢死体として発見された事件です。
しかし、ワイシャツや下着、靴にはほとんど血が付いていなかったり、靴下などに大量に付着していた油は、機関車に用いられている鉱物油ではなく植物性の油であったり、いつも身に付けていた眼鏡が現場付近から発見されなかったり、多くの謎に包まれています。

犯人は捕まっておらず、戦後最大の未解決事件と呼ばれることもあります。

一方、帝銀事件は、昭和23年1月、当時の帝国銀行椎名町支店に東京都防疫班を名乗る男が現れ、消毒薬と称した毒薬で行員12名を殺害し、現金や小切手を強奪した残虐な事件です。

・手本として、薬を自分が最初に飲んでみせたこと
・歯のエナメル質を痛めるから舌を出して飲むようにと確実に嚥下させたこと
・第一薬と第二薬の2回に分けて飲ませることで、行員を現場から散らないようにしたこと

などの巧みな手口から、薬物に詳しい者の犯行と思われていましたが、逮捕されたのは平沢貞通という画家でした。

1955年に平沢氏の死刑が確定しましたが、歴代法務大臣が誰も死刑執行命令に署名しなかったこともあり、死刑制度に興味を抱く誘因となりました。

大学に入ってもこの分野への関心は益々強まり、刑法を学んでみたくなりました。

しかし、私の所属する経営学部では刑法に関する授業は開講されていませんでした。
学内を探してみると、隣りの経済学部にあったため、わざわざ出張して授業を受けました。
当時、刑法を担当していたT先生は厳しいことで有名で、経済学部の学生でも履修者は決して多くはありませんでした。
そんな講座に、経営学部から乗り込んで行ったのです。

大学時代勉強はしなかった、と自信を持って言えますが、刑法だけは出席しました。
驚くことに、35年前の成績表が見つかりました。
「優」でした(笑)。

刑法への興味はこの程度に留めておけばよかったのですが、大学4年の時、勢い余った行動に出てしまいました。

「犯罪や事件などに非常に興味を持っています。刑法の単位も取りましたので、この関連テーマで卒論を書いてはいけませんでしょうか・・。」

海上保険学を専攻するゼミ生として、先生に失礼極まりない発言をしました。
正に、若気の至りです・・。

しかし、ゼミの教授は紳士でした。

「山田、キミの気持ちは分かった。しかし、刑法に関する論文を評価する専門家がうちの学部にはいないんだ。折衷案として、海上保険と刑法の両方に関係する資料を用意するが、どうだ?」

「ご理解いただき、感謝いたします!」
深々と頭を垂れ、お礼を申し上げました。

すると、半月後、私の元にB4版のコピーが大量に届きました。

船を故意に沈没させて保険金を詐取しようとした事件に関する、英語の資料でした。
なるほど、確かに海上保険学と刑法にまたがる内容でした。

しかし、専門用語が頻出する英文の翻訳は、困難を極めました。
1973年の秋は、辛く、長い、重苦しい日々となりました。
あんなことを言うべきではなかった・・と、 後悔の念が脳裏を去来しました。

因みに私の卒論のタイトルは、「海上保険学における船底穿孔事件に関する一考察」です。

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