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113 馬歯徒増

過日、私の本棚に並ぶ本について書きました。
死刑や犯罪、重大事件に関する本が多いのは事実ですが、最近は神社に関する本も読んでいます。

中でも、先日読み終えた「なぜ日本人は神社にもお寺にも行くのか(島田裕巳著・双葉社発行)」は、とても有益で楽しい本でした。

その第五章で、ヘルマン・オームスというアメリカの日本学者が作成した図が紹介されていました。

「日本人の死生観図式」と題されたこの図は、ひとりの人生が円で表現されていて、上半分は「成長過程」、下半分は「祖霊化過程」と呼ばれています。
要するに、上半分は生まれてから死ぬまでの過程で、その間、日本人にはどういった「通過儀礼」があるのかが示されています。

通過儀礼とは、人生において大きな変化が起こるときに行われる儀式のことで、成人式・結婚式・葬式の3つが最も重要とされています。
もちろんそれ以外にも様々な機会が用意されていますが、特に、生まれてすぐと死んで間もない段階に集中しています。

生まれて7日目、命名をする「お七夜」をはじめ、初参り・お食い初め・七五三など、成長過程の通過儀礼では神社に行くことが多く、お寺が関わってくることはほとんどありません。

それが、死んだ後の祖霊化過程になると、一転してお寺と関わることになります。
葬式は仏式が大半ですし、その後の初七日・四十九日・百か日・一周忌以降の年忌法要は、お寺が司ることになります。

このように、神社とお寺の間で、役割分担が明確になっていることが、この図の重要な点です。
多くの日本人は、神社とお寺の役割分担に従って、通過儀礼を果たしていきます。
それによって、神社とお寺は「棲み分け」を果たすことで共存していると言えます。
共存しているということは、私たちにとって神社だけでは不十分ですし、お寺だけでもダメであり、これこそが、日本人の宗教生活の基本であるということになります。

年末年始の日本人の行動は、よく議論の対象になっています。
キリストの生誕を祝うクリスマスにはケーキを食べ、大晦日にはお寺の除夜の鐘を聞き、元日には神社に初詣に行くからです。

世界的には不思議とされるこれらの行動に違和感を感じないのは、キリスト教の神様ですら八百万の神々の中のひとつと考えて受け容れる、日本人の宗教的感覚に対する寛容さによるものでしょう。

神社とお寺について書かれたこの本は、多方面で勉強になりました。
そして、最後のページには、以下の文言がありました。

若い頃は刺激的なイベントにこころを奪われていた人でも、年を重ねるにつれて、こころを癒やしてくれるものにひかれていきます。そのときに、神社やお寺は、急に興味深いものに思えてきます。

私が神社に興味を抱いたのは、52~53歳の頃。
なるほど・・、典型的な中年なのか・・。

102 春風駘蕩

連休最終日、午後からカミさん方の墓参を予定していました。
が、その前に、早起きしてユミに会いに行くことにしました。

ユミと私の関係は「大学時代の同級生の元・嫁さん」とやや複雑です。
今、彼女は、静岡県三島市のお寺で眠っています。

7時前の新幹線に乗り、到着したのは8時過ぎ。
お寺は、春風がのどかに吹いて、正に春風駘蕩たる穏やかな朝でした。

聡明で努力家だったユミは、多様な資格を数多く持っていました。
「オレは運転免許しか持っていない」と言うと「ダメじゃん」と笑われたことがあります。
私が、50歳以降、一念発起、漢検二級や神社検定三級を受験したのは、ユミの影響とも言えます。

まあ、わずか2つくらいでは、ユミの足元にも及びません。
草葉の陰から誉めてもらえるよう、もっともっと努力しなければなりません。

墓参後、近くの三嶋大社を参拝しました。
三嶋大社は、伊豆国一宮と称され、延喜式内名神大社で旧官幣大社です。
「社格」は聞き慣れないと思いますが、要するに「歴史ある由緒正しき神社」な訳です。

ここは天然記念物の金木犀が有名です。
公式サイトには、
「樹齢は1200年を越えると推定される巨木で、現在もっとも古く、かつ大きなモクセイ」
と紹介されています。

一方、桜の名所としても知られています。
境内には、15種・200本の桜があるそうです。
残念ながら、この日はまだつぼみでしたが、境内が桜の花で彩られる日は近そうです。

突然ですが「桜開花の600度の法則」をご存じでしょうか。
「2月1日以降の毎日の最高気温を足し上げ、その累計値が600度を超えた日に桜が開花する」
というものです。

私は今年知りました。
結構当たる法則なんだそうです。

東京の最高気温を足し算してみると、私の計算では今日で591度(くらい・・)です。
明日開花宣言、ということになるのでしょうか。

101 七珍万宝

御朱印を集めはじめて、早2年以上が経ちました。
最近は、御朱印帳を様々なカテゴリー別に分けています。

☆天満宮用(vol.1〜3)
☆八幡様用
☆護國神社用
☆全国一の宮用
☆東京十社用
☆京都の神社用
☆京都のお寺用・・・・ etc

分けているがために、持っていく御朱印帳が増え、ややこしくしているきらいがあります。
先日京都に行った際にも、5冊の御朱印帳を持参しました

ところで、御朱印ブームの影響か、オリジナル御朱印帳を扱う神社が増えている気がします。
また、御朱印帳に比べればわずかですが、「御朱印帳袋」を販売しているところも見受けます。

私の使用している御朱印帳袋は、母のお手製です。
以前紹介しましたが、2種類持っています。
ほかに、京都の石清水八幡宮と、広島の厳島神社で購入したものを所有しています。

そして、先日梅花祭の見学に訪れた北野天満宮でも、御朱印帳袋を販売していました。
これが4〜5回目の参拝になりますが、かつて御朱印帳袋が販売されていた記憶がありません。
ネットで調べてみても、特にヒットしないし・・・・。
ひょっとしたら、発売されたばかり??!!

☆右は以前購入した御朱印帳です。

100 雪裏清香

週末、また、京都へ行ってまいりました。
毎年2月25日に行われている、北野天満宮の梅花祭の見学が主たる目的でした。
梅花祭とは、菅原道真公の祥月命日に行われる祭典で、約900年の歴史があります。

この日は、三光門前広場で「梅花祭野点大茶湯」も催されます。
お茶を振る舞ってくれるのは、上七軒の現役の舞妓さんたち。
これが(特に男性からの)人気を集めている要因のひとつです。
野点に参加するには、1,500円の野点拝服券を購入しなければなりません。
このチケットは当日の購入も可能ですが、1ヶ月前も前から販売されています。

また、この時期、梅苑が公開されています。
開苑期間は梅の開花状況にもよりますが、例年2月初旬から3月下旬です。
様々な種類の梅の間を縫うように散策路が延び、お茶とお菓子を供する茶屋も開かれます。

しかして、私が北野さんに到着したのは午前9時10分頃。
既に、野点に参加する人たちがかなりの行列を作っていました。
この時点で野点への参加は断念し、梅苑の見学をメインに行動することに決めました。

拝殿で手を合わせ、古いお札やお守りを返納し、新しいお札を買い、御朱印もいただきました。
9時40分。
梅苑の公開は10時からですが、開苑を待つ30人ほどの列の最後尾に並びました。

そして、10時。入場料700円を納め、中へ通されました。
入園チケットには、茶菓引換券が付いていて、苑内の茶屋でいただくことができます。
まずは梅を愛でてから・・・・とも思いましたが、花より団子とばかり、休憩所へ向かいました。

椅子に腰掛け、梅茶とお菓子をいただきながら、数分携帯でLINEに興じ、顔を上げると・・・・、
茶屋はほぼ満席となっていました。
この時、10時7分でした。

この日は土曜日と好天とが重なったことで、混雑にさらなる拍車がかかったのでしょう。
しかし、広い梅苑内のベンチで梅に囲まれていると、まさに癒やされる思いでした。
暖かな初春の陽射しのもと、穏やかな時間を過ごすことができました。

「桜切る馬鹿、切らぬ馬鹿」という故事があります。
桜は幹や枝を切るとその部分が腐りやすいが、梅は余計な枝を切らないと翌年花が咲かなくなる。
そんな剪定方法の違いを教える言葉ですが、梅の剪定には、大層手間が掛かるのでしょう。
天満宮の梅を支える関係者の方々に、感謝の意を表したいと思います。

099 桑原桑原

セガレの中学受験に際して、全国の天満宮を巡りましたが、菅原道真公と天満宮について、少し書き留めたいと思います。
(外山晴彦氏監修、成美堂出版発行「神社辞典」改変)

幼少より文武両面に才能を発揮した道真は、899年、右大臣にまで昇り詰めました。
しかし、宇多天皇を追い落とそうとする藤原時平と醍醐天皇の陰謀に巻き込まれた道真は、左遷された太宰府で、無実を訴えたまま生涯を終えます。

道真が亡くなった頃、京都では時平の早死にや御所への落雷など不吉な事件が相次ぎます。
更に疫病の流行や天候不順から来る飢饉など、様々な災害にも見舞われます。
これを無実の罪で道真を太宰府に左遷した天罰ではないかという声が出てきました。

結局、醍醐天皇の勅命が下され、919年、道真の墓所に創建された安楽寺が後の太宰府天満宮の始まりです。

太宰府天満宮は当初、無実の罪で左遷された道真の生前の功績を讃え、菩提を弔うためでしたが、年月が経つにつれ、藤原氏の陰謀による左遷という事実は忘れられがちになり、道真は才能溢れる学者にして政治家として記憶されるようになっていきました。
このため、太宰府天満宮の性格も、道真の御霊を鎮める神社としての性格は薄れ、道真の才能にあやかろうとする参拝者が多くなり、太宰府天満宮は学問の神様・菅原道真を祀る神社として崇敬されるようになっていきました。

一方、道真の死後、京都を襲った異変について、もっと詳しく記したいと思います。
(Wikipedia「菅原道真」改変)

菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。
まず、道真の政敵・藤原時平が延喜寿9年(909年)に39歳の若さで病死すると、続いて延喜13年(913年)には道真失脚の首謀者の一人とされる右大臣・源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死し、更に醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)が延喜23年(923年)に病死、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)が延長3年(925年)に相次いで病死。
さらには延長8年(930年)、朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言・藤原清貴をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)うえに、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。

恐るべし、道真公の怨念(笑)。
よくもこんなに悲惨な事件が頻発したものです。

ところで、道真公が怨霊となって、京の都中に雷を落とした折り、菅原家所領の地・桑原には何故か一度も落雷がなかったと伝えられています。
落雷よけの呪文「くわばらくわばら」は、この故事に由来しているのだそうです(諸説あり)。

菅原道真公は承和12年6月25日の生まれで、延喜3年2月25日に亡くなっています。
また、太宰府に左遷されたのが、昌泰4年1月25日とも言われています。
これらにちなんで、毎月25日を「天神さんの日」とし、全国の天満宮で縁日が行われています。
そして、1月25日、その年初めての縁日を「初天神」と呼びます。

そんな訳で、今日のブログは、落語の「初天神」で締めたいと思います。
(Wikipedia「初天神」)

良く晴れた1月25日、男が天満宮に参拝に出掛けようとした。すると、女房が息子も連れて行ってくれと頼む。男は、息子が物を買ってくれとうるさくせがむのが分かっており、乗り気ではなかった。しかし、折悪しく、外から息子が帰ってくる。
男は、どうしても付いて行きたいと懇願する息子をつっぱねる。
すると、ヘソを曲げた息子は、隣の親父の家へ出かけて行く。

『面白い話聞きたくな~い?あのね、昨日の夜の、うちのおとっつぁんとおっかさんの、おはなし』
男は、そんなことを外で話されてはたまらないと、大慌てで息子を連れ戻し、しぶしぶ初天神に連れて行くのだった。

天満宮への道を歩きながら、父は息子に買い物をねだるなと念を押す。
しかし、息子は
「ね、おとっつぁん、今日はおいらあれ買ってくれーこれ買ってくれーっておねだりしないでいい子でしょ」
「ああ、いい子だよ」
「ねっ。いい子でしょ。ごほうびに何か買っておくれよ!」
これでは、いつもと同じである。
息子がさまざまな果物を買えと催促するが、父は「体に毒だから」と無理な理屈で拒否する。
しかし、息子が余りにうるさいので口塞ぎのために、やむを得ず飴玉を買うことにした。
店先で売り物の飴を散々ねぶり回して吟味する父に、飴屋の親父もあきれ顔。
飴を買ってもらって御機嫌の息子は、飴を舐めながら歌を歌う。

二人は天満宮の参拝を終えた。息子は、凧を買ってくれるよう催促する。
「あの1番大きいのがいい」
「馬鹿だな、ありゃあ店の看板だい」
「売り物ですよ。坊ちゃん、買ってくんなきゃあすこの水溜りに飛び込んで着物汚しちまうってお言いなさい」
「変な入れ知恵すんねえ!」
父は、しぶしぶ凧を買い、天満宮の隣にある空き地に息子を連れて行く。

男は、凧揚げは子供時代に腕に覚えがあったことを息子に自慢し、まず自分がと凧を揚げる。
そのうち、男は、すっかり夢中になってしまい、息子が「凧を揚げさせてくれ」と脇から催促するのに対して、「うるせえっ!こんなもなァ、子供がするもんじゃねえんだい!」
と一喝して凧を渡そうとしない。
息子は、無邪気に遊ぶ父の姿を見て、
「こんなことなら、親父なんか連れてくるんじゃなかった」とぼやくのだった。

お後がよろしいようで。

098 堅忍果決

21日、神田明神で、新春の風物詩「寒中禊(みそぎ)がまん会」が行われました。
新成人が冷水を浴び、身を清める行事ですが、一般の方も参加できるようです。

私が到着したのは9時半頃でしたが、すでに多くの人がカメラを持ち、集まっていました。

並んで待っていると、10時の開始直前「参加者が走ってくるので一旦下がって下さい」と。
カメラを構えて、30分以上前から並んでいた人にとっては不満だったでしょう。
中には自分のポジションを守るために、その場から動かない年配の男性もいました。

すると・・・・、
「はいはい、どいて!下がれ下がれ!邪魔、ジャマ!!」
法被が似合うお腹デップリの下町のオジさんは、なかなかの迫力でした。

そうこうするうち、ふんどし姿の男性と、白装束をまとった女性が走ってきました。
そして、2周目、禊の場所に参加者が入ると、下がっていた見物人が一斉に動きました。
元々2列目にいた私は、要領よく最前列を陣取りました。
ま、周囲の平均年齢は明らかに私より上でしたから、当然と言えば当然の結果です(°▽°)

寒中禊を間近で見たのは初めてでしたが、これは真似できませんね。
水を頭から浴びるたび、気合のこもった声を上げる参加者の迫力に押されっぱなしでした。

粉雪が舞った一昨日に比べれば、昨日は幾分気温も上がりましたが、時折強風が吹き荒び、見ているだけでも足先が冷えてきました。
そんな中、もちろん参加者は裸足。
しかも、冷水は一度浴びれば終わりではなく、ローテーションして何度も浴びるのです。

私も少しは見習って、午後から気合いを入れて、残った仕事を片付けたいと思います。

寒中禊02

寒中禊01

092 千変万化

初詣に関して、ちょっと衝撃的な報道を目にしました。
東京都港区の愛宕神社が、1月4日限定で、初詣の賽銭を電子マネーで受け入れるのだそうです。
以下、ニュースの抜粋です。

電子マネーの導入は、「楽天エディ」を展開する楽天側が提案した。
当日は楽天が無償で読み取り端末1台をレンタルする。
通常、決済ごとに加盟店からもらう決済手数料もとらない。
午前8時から日没ごろまで、本殿前に常設されている、さい銭箱の横に端末を置く。
参拝者は好きな金額を1円単位で入力。自身のカードや携帯をかざすと決済される。

愛宕神社は虎ノ門ヒルズの近く、都会のど真ん中にあります。
また、自然の地形としては東京23区でもっとも標高が高い愛宕山の山頂に鎮座しています。
総本社は京都の愛宕神社で、防火・防災に霊験のある神社として知られています。

愛宕神社01

偶然ですが、一ヶ月ほど前に、私もはじめて参拝しました。
参道には急な石段があって、「出世の石段」として知られていますが、噂に違わぬ急階段でした。

愛宕神社02

それにしても、お賽銭が電子マネーですか・・・・。
スゴイ時代になったものです。
賽銭泥棒が、成り立たなくなる訳ですね。

そのうち、拝殿で手を合わせている横から「ワオン!」なんて音がしたりするのでしょうか。
御朱印がプリンター出力、なんてことにはならないで欲しいなあと思ったりします。

愛宕神社03

091 忙裡偸閑

ちょっとハードだった週末が終わりました。

一昨日の金曜日夜・・・・、
19時から定期刊行物の編集会議があり、終わったのは22時ちょっと前。
土曜日は早朝3時50分に起床し、館山で行われたお客さんのゴルフコンペに参加。
プレイ後は、毎年お借りしている某企業の研修所へ全員で宿泊。夜は表彰式&宴会。
日曜朝、大半のメンバーが疲労と酒の影響で爆睡中の午前5時、館山を出発して会社へ・・・・。

充実感たっぷりの週末でした。
正直疲労感もありましたが、気合いを入れて取り組むと、予定よりも早く仕事が片付きました。
そこで、念のため用意していたカメラを手に、浅草へ出向くことにしました。

目的は羽子板市です。
浅草寺の境内で、毎年この時期に開催されているようですが、私は初めて訪れました。

予想はしていたものの、仲見世通りは思うように歩けないほどの混雑でした。
やはり、外国人の姿が目立っていました。

人波に飲まれながら仲見世通りから宝蔵門を過ぎると、羽子板を扱う露天が見えてきました。
たくさんの露天の前は、どこも人であふれていました。

あちこち見て回るうち、多くの店で、正札が表示されていないことに気付きました。
私のように不慣れな者が買うには、ややハードルが高いかな・・とも思ったのですが、どのお店の人たちも、とても親切に接客していました。
日本の年末らしい、風情ある光景に、すっかり疲れも忘れてしまいました。
こういった風物詩は、いつまでも続いて欲しいものです。

羽子板市

087 報本反始

今回は護国神社について書きたいと思います。

明治時代、国家のために殉難した英霊を奉祀した神社「招魂社」が各地に建立されました。
この「招魂社」が、昭和14年に改称して成立したのが「護国神社」です。

しかし、昭和20年8月のポツダム宣言受諾により、日本がGHQの占領統治下に置かれると、護国神社は軍国主義施設と見なされ、存続のために「護国」を名称から外すなど、改称を余儀なくされました。

その後、昭和27年にサンフランシスコ講和条約が発効し、主権を回復した後は、ほとんどが旧社名に戻しました。

例えば、千葉縣護国神社は、以下のような歴史を辿っています。
明治11年1月 千葉縣招魂社として創建
昭和14年4月 千葉縣護国神社と改称
昭和22年4月 頌徳神社と改称
昭和27年6月 旧称・千葉縣護国神社に復する
(千葉縣護国神社公式サイトより)

「国家のために殉難した英霊を奉祀した神社」として、最も有名なのは靖国神社でしょう。
靖国神社も、はじまりは東京招魂社という名称でしたが、明治12年に靖国神社と改称され、今日に至っています。

各護国神社の祭神は靖国神社の祭神と一部重なるものの、靖国神社から分祀された霊ではなく、独自で招魂し祭祀を執り行っているため、「靖国神社と護国神社とは本社分社の関係にはない」とされています。

しかし、共に英霊を祀る靖国神社と護国神社とは深い関わりがあり、各種交流もあります。
そもそも、靖国神社の公式サイトには、全国護国神社一覧が掲載されています。

私は、父の名付け親が靖国に眠っているため、初詣は決まって靖国神社に連れられました。
中門鳥居の手前左側には、戦地から兵隊さんが家族へ宛てた遺書や書簡が紹介されており、毎年正月に読むことが習慣になっていました。
そこには、氏名や年齢と共に、必ず「昭和◯◯年◯月◯日◯◯◯にて戦死」とありました。
こういう人々のうえに、今の生活が成り立っているんだなあと、子供ながらに感じました。

私は戦争を美化したり、軍国主義復権などと叫ぶつもりは毛頭ありません。
ただ、お国のために戦った先人達に、同じ民として、感恩の意をお伝えしたいと思うのです。

昭和14年4月1日の「護國神社指定」により、内務大臣が指定した護国神社は34社あります。
(靖国神社のある東京には、指定護国神社は存在しません。)
北海道から沖縄まで全国に鎮座していますので、すべてをお参りすることはできませんが、折に触れて参拝できれば、と思っています。

その第一歩として、先日靖国神社を訪れ、オリジナル御朱印帳を購入してまいりました。
靖国神社の御朱印から始まるこの御朱印帳に、全国護国神社の御朱印を集めたいと思っています。

靖国神社

081 六根清浄

数多くの天神様を参拝させていただいた話の続きです。

天神様巡りは、セガレの入試合格祈願という、非常に明確な目的がありました。
従って、拝殿で手を合わせてご祈願することは、どこに行っても同じでした。

逆に言えば、東京近郊だけでも23ヵ所で同じ祈願をさせていただいた訳です。
ところ変わっても、神々が鎮まるその場所は、私をいつも落ち着かせてくれました。
参拝させていただいた天満宮は、すべて忘れ得ぬ存在になっています。

西新宿の成子天神社は、拝殿のすぐ左側に立派な高層マンションが建っています。
買い物帰りの主婦が、拝殿に一礼してから、マンションのエントランスに消えていきました。
天神様のお膝元で健やかに日々を過ごす・・・・。
将来、こんな環境で生活してみたいなあと、羨ましく思いました。
因みに、ここは御朱印も特徴的。
力強い墨が、隣のページや裏面を汚すこと必至です(笑)。

成子天神社御朱印

横浜の岡村天満宮は、人気デュオ・ゆずの出身地・横浜市磯子区岡村町に鎮座しています。
この神社は、ゆずが路上ライブをしている様子を描いた大きな壁画があることで有名です。
タテ2.7m、ヨコ5.4mのこの巨大壁画は、元々伊勢佐木町の松坂屋に設置されていましたが、店舗の閉鎖に伴い、ファンの存続の声に応える形で、ふたりの地元に移設されました。
正直、あまり本人たちには似ていませんが・・・・。

岡村天満宮

鎌倉の荏柄天神社は、鎌倉駅から徒歩20分ほどの住宅地にあります。
鶴岡八幡宮からは徒歩10分ほどですが、観光客の姿はさほど多くありません。
ここでは、前日までに申し込むと、受験当日、早朝祈祷をしていただけます。
受験当日の早朝・・・・。なんて有難いことでしょう。
「大神様のご祈願を受けているのだ」と感じて迎える試験の朝は、正に勇気百倍ですね。

荏柄天神社

調布の布多天神社では、参拝の記念にえんぴつを購入しました。
学業成就、進学祈願、祈合格と書かれたケースに入っている鉛筆には、こう刻まれています。
「朝に希望 昼に努力 夕に感謝」
・・・・心に染みます。

合格えんぴつは、ほかでも購入しました。
セガレの机の引き出しには、今もたくさん残っています。
北野天満宮、太宰府天満宮、湯島天満宮、荏柄天神社、布多天神社。
シャープペンしか使わなくなったセガレに代わり、私が譲り受けようと思っています。

合格えんぴつ

【余談】
某神社の一之鳥居脇の民家で、「菅原」という表札を見かけたことがあります。
天神様のとなりに住んでいる菅原さん。
神職の方なのか・・・・、ちょっとお目に掛かってみたい気がします。