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196 半知半解

ひょんなことから埼玉県に久伊豆神社という名の神社があることを知りました。
しかも、同名の神社が岩槻市内に9社、越谷市内に8社鎮座しているそうです。
埼玉に(久)伊豆?と、俄然好奇の念が湧きました。

参拝記録の前に、久伊豆神社について少々講釈を。

久伊豆神社という名称は私にとって非常に新鮮だったのですが、実はこの名称を持つ神社は、埼玉県神社庁に登録されているだけでも44社あります。
しかも、元荒川流域に集中して鎮座しています。
限られた地域にのみ数多く存在する社名というのは、さほど珍しくもないようですが、その所以は、そのエリアで勢力を誇った武家集団などから篤い崇敬を受け、共に深く根付いていったためと言われています。

ちょっと話が逸れますが、埼玉県には「大宮氷川神社」という有名な神社があります。
(正しくは「武蔵一宮 氷川神社」です。)
毎年、初詣人出客ベスト10にランクインする、氷川信仰系の総本社です。
「氷川」名の社は、埼玉と東京を中心に実に280社以上が鎮座しており、荒川流域に数多分布していますが、久伊豆神社が多く鎮座する元荒川流域には、ほとんどその姿は見られません。
互いの境界を侵すことなく祀られている様子は、昔の勢力分布を見るようで、興味深いですね。

話を戻します。
久伊豆神社へ行く前に、加須市にある玉敷神社へ向かいました。
ここは、江戸時代まで「勅願所玉敷神社、久伊豆大明神」と称されており、各地に分霊された久伊豆神社のご本社ではないかと言われています。

当社は第42代文武天皇の大宝3年(703)東国道巡察使多治比真人三宅麿により創建されたと伝えられ、平安時代の前期第60代醍醐天皇の延喜5年 (927)に公布された律令の施行細則「延喜式」にその名を記す千有余年の歴史をもつ古社である。(中略)
江戸時代に入って元和年間(1620前後)騎西城城主大久保加賀守の時現在の地に遷座し以来明治に至まで当神社は「勅願所玉敷神社 久伊豆大明神」と称され、埼玉郡(現南北埼玉郡)の総鎮守、騎西領48ヵ村の総氏神として崇められ・・・・・・。
(「全国神社祭祀祭礼総合調査  神社本庁  平成7年」より抜粋)

玉敷神社は、延喜式神名帳に「武蔵国埼玉郡 玉敷神社」と記載されている式内社で、社号碑にも「延喜式内 県社 玉敷神社」と書かれています(画像では上部が欠けていますが・・)。

社伝によると、玉敷神社がこの地に遷座される(寛永4年・1620年頃)迄、宮目(みやのめ)神社がこの地の地主神として鎮座していました。

この宮目神社は、延喜式にも記されている歴史のある古社ですが、何故か境内末社となりました。
即ち、ここには式内社が2つ存在することになります。

余談ですが、玉敷神社という名称の神社は、国内で唯一ここだけだそうです。

玉敷神社を後にして、さいたま市岩槻区にある久伊豆神社に行きました。
この神社は、1987年に『史上最大!第11回アメリカ横断ウルトラクイズ』の国内第二次予選会場になったことで、急に知名度が上がりました。
予選会場に選ばれた理由は、「久伊豆」が「クイズ」とも読めるから。
昔から、クイズ番組の制作者はこの神社を参拝するのが通例だったそうですが、テレビ放送をきっかけに、一般にもクイズ神社としても親しまれるようになったようです。

境内ではクジャクが飼われており、オリジナル御朱印帳にもクジャクのイラストがあしらわれています。

次に向かったのは越谷市にある久伊豆神社です。

長い参道の先、第三鳥居をくぐるとすぐに藤棚があります。
その奥には池もあり、ベンチで寛げるとともに、パワーをいただけそうです。

ところで、「久伊豆神社」の名称の由来は、結局分からずじまいですが、公式サイトに御由緒が紹介されていました。

ご祭神が大己貴命久伊豆神社は今から約千五百年前の欽明天皇の御代(539~571)、出雲族の土師氏が東国へ移住するにあたりこの地に出雲族の親神たる大已貴命(大国主命)を勧請したのが始まりとされています。。
出典:https://www.hisaizu.jp/infomation.html

久伊豆神社は久伊豆大明神と古来氏子・崇敬者から崇められてきた、国造りの大神・縁結びの神・福の神として知られる大国主命(大国さま)と、その御子神で父神と共に代表的な福の神である言代主命(恵美須さま)を主祭神とし、また配祀として大国主命の御女子神である高照姫命、言代主命の御妃である溝咋姫命、そして皇祖天照大御神の第二の御子であり、出雲国造いずものの祖先神である天穂日命の三柱を奉斎しています。
出典:https://www.hisaizujinja.jp/about.php

これを見る限り、伊豆(いず)の語源は、出雲(いずも)なのだろうと想像がつきます。
少なくとも、伊豆半島と無関係であることは、間違いなさそうです・・。

注)上記参拝記録は、2016年に訪問した内容をここで書き上げたものです。
従って、現状と異なる記述があるかも知れませんが、ご寛容願います。

193 面目一新

1974年、テレビドラマ「寺内貫太郎一家」が大ヒットしました。
このドラマを見ないで翌日学校に行くと、友達との会話に参加できないくらい、私の学校では皆こぞって見ていました。
それもそのはず、平均視聴率は31.3%だったそうです。

主役を演じたのは、作曲家の小林亜星さん。
ほかに出演していた俳優さんも、今もって鮮明に覚えています。

寺内貫太郎の奥さん役は加藤治子さん、長女で足に障害を持つ役柄を演じたのが梶芽衣子さん、そしてその弟役が西城秀樹さん。
貫太郎の母親役は悠木千帆(樹木希林)さんで、お手伝いさん役が浅田美代子さん。
石屋の職人役は、伴淳三郎さんと左とん平さんという喜劇役者の2人。
それから、由利徹さんは花屋の主人役、篠ヒロコさんは居酒屋の女将さんで、その店の謎めいた常連客役が横尾忠則さん。
そして、梶芽衣子さんの恋人役が藤竜也さんで、このときの藤さんは、子供ながらにスゲーカッコイイ人だなあと感じていました。

47年前に放映されたドラマですから、残念ながら多くの出演者がお亡くなりになりました。
主役を演じた小林亜星さんは、今年5月、88歳でご逝去されました。

なお、余談ですが、当時中学生だった私は、主役を演じている太っちょなオジさんが、著名な作曲家であることを知りませんでした。

亜星さんのプロフィールをネットで見ることができました。

逓信省(現総務省)官僚の父と、小劇場の女優だった母の間に生まれ、父方の祖父が医師だったため、父から「将来は医師になれ」と言われて育つ。
一方、幼少期から音楽が大好きでバンド活動も行っていたが、猛勉強して慶大医学部に進学。
しかし、入学後、父に内緒で経済学部に転部したことが卒業時にバレて勘当。
大学卒業後は日本製紙に就職したものの、約1カ月で退社。
その後は紙問屋を立ち上げて営んでいたものの、大好きな音楽の道に進むことを決断し、作曲家・服部正さんに師事。

慶応の医学部に合格したにも関わらず、音楽の道を選んだと知り、驚きました。
また、日本製紙に就職したこと、そして、紙問屋を興したことにまたまた驚きました。
亜星さんが紙問屋のままでいたら、寺内貫太郎一家はどうなっていたことか・・。

現実の話、東京都の紙商(紙問屋)は、全盛期170社以上ありましたが、現在は70社ほどに減っており、その数はもう少し減るだろうと予想されています。

そもそも、紙の生産量は2000年をピークに減少しており、2020年には減少幅が4割近くに達しました。
ペーパーレスの進行に、新型コロナが追い打ちをかけた格好です。

また、近年の特徴として、衛生用紙の生産量が新聞用紙に迫っています。
要するに、高齢者向けオムツの需要が増えて、新聞離れが進んでいるということです。
現代社会を真っ正面から映し出していますね。

広告ひとつ取っても、オンラインが中心となり紙に代表されるオフライン広告は衰退の一途です。
しかし、保存がしやすい、記憶に残りやすい、質感を感じることができるといった、紙ならではのメリットを心に秘め、紙文化の継承に微力を尽くしていきたい思いです。

天国の亜星さんも、きっと、紙業界の行く末を心配されていることかと思います。

191 理世撫民

昨日、東京オリンピックが閉幕しました。

ライバル都市のマドリードとイスタンブールを破って、開催都市に選出されたのが2013年9月。
IOC・ロゲ会長(当時)の「TOKYO!」から8年近くの歳月が流れたことに驚きました。

私にとっては、自分が生まれ育った町で2度目の開催となるオリンピック。
これはかなり幸運と言ってよいかと思います。

これまでに夏季オリンピックを複数回開催した都市は、パリ、ロンドン、ストックホルム、ロサンゼルス、アテネで、東京を含めても6都市しかありません。

3度行われたのはロンドンのみで、他は2度。
ただ、2024年パリ、2028年はロサンゼルスでの開催が予定されていますので、どちらも3度目となりますね。

前回の東京大会は、1964年10月。
私はまだ3歳でしたので、空に描かれた五輪マークも、東洋の魔女の活躍も、残念ながら記憶に残っていません。

そして、東京2020。
3歳の幼児は、還暦間近のオッさんになりました。
今回はぜひ生で観戦、と思っていましたが、新型コロナの影響で無観客になってしまったのは予想外でした。

自分が住み、働く町で開催されているにも関わらず、どことなく遠くに感じた東京五輪。
交通規制により車の移動が制限され、確かに自国で開催されていた東京五輪。
テレビの前で、今日はどの種目を応援しようかと、独特のワクワク感があった東京五輪。
「過去最多を更新」というニュースに、メダリストか感染者かと迷った東京五輪。

17日間にわたる戦いは、心に残る場面の連続でした。

・バドミントン女子ダブルスで、フクヒロペアを破った中国ペアが、試合後に廣田選手の患部を気に掛け、ハグしたシーン。
・最後の大技を失敗して泣いているスケートボードの岡本選手を、他国の選手が担ぎ上げたシーン。
・ソマリアの難民で若い頃に母国を離れた2人の選手がオランダとベルギーに国籍を移して臨んだ男子マラソンで、2人揃ってゴール前スパートし、銀メダルと銅メダルを獲得したシーン。

1年延期や無観客など、異例づくしのオリンピックだったことの裏返しなのか、国籍や人種、勝敗を超え、健闘を讃えあう場面をたくさん目にしました。
そして、全力で戦ったアスリートたちに、政治的な壁は存在しませんでした。

世界各国から集まった一流選手たちのパフォーマンスに多くの感動を覚えた一方で、国内の新型コロナウイルス感染者数は拡大の一途でした。
パラリンピックがまだ控えていますが、兎にも角にも対策をより強く進めないといけません。
まん延防止等重点措置の適用が、8県に追加されました。
政治家は、これから益々勝負の時を迎えるのだと思います。

そんな中、金メダルを噛んだ某市長には閉口しました。
人を非難するコメントはあまり気乗りがしませんが、「迷惑をかけているのであれば、ごめんなさい」という言いぐさで、許容範囲を超えました。
不快に思った人がいないなら謝る必要はないという論理は、心からお詫びするという言葉と大きく矛盾します。
きちんと謝罪ができない人間に、正しい政治判断ができるでしょうか。

苦しい環境にも屈することなく努力を重ね、金メダルを獲得した勇敢なアスリートの輝かしい功績を汚さぬため、この映像がネット上から早く消えて欲しいと思います。

地位にあぐらをかいた特権意識の消えない政治家。
ひょっとしたら、この改善がコロナ収束のカギを握っているのかも知れません。

190 古色蒼然

若い頃、多くの車はマニュアル車でした。
エンジンを止めるときは、決まってアクセルを踏んで回転数を上げてから、キーを抜きました。

これを「ブリッピング(空吹かし)」と呼ぶそうです。

その理由のひとつとしては、1960年代半ば頃まではキャブレターと呼ばれる機械式の燃料供給装置が主だったことです。

ブリッピングする理由は、次回のエンジンスタートの際に燃焼室にガソリン成分が残っていて始動しやすいようにするためという人もいます。
実際、高出力エンジン搭載車の場合には、大口径のキャブレターを装着されていた車種が多かったといいます。

そのため、クルマを止める直前に低回転で走行していると供給される燃料に対する燃焼のバランスが崩れ、「プラグがカブる(燃料やスラッジによってスパークプラグの着火が悪くなる)」ことを嫌っていたことがその始まりのようです。

・・・・なんて知ったかぶりをしましたが、上記はネット記事の受け売りです。
私は車のメカニックに関しては全くの無知で、若い頃、単車にもまるで興味がありませんでした。
私の世代としては、少数派かも知れません。

先述のブリッピングもそうですが、昔は常識で、一般的で、正論だったけれど、現代は変わってしまったことを思い浮かべてみました。

「いい国作ろう鎌倉幕府」

我々の年代では「鳴くよウグイス平安京」と双璧の、鉄板語呂合わせです。
ところが最近の研究で、鎌倉幕府は段階的に成立したとする見方が強くなり、1185年が鎌倉時代の始まりとする説が有力なのだそうです。
即ち「いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府」が新定番になります。
なんかしっくりこないですね。

また、子供の頃、一万円札は「聖徳太子」と呼ばれていました。
今となっては死語大賞候補です。
それもそのはず、聖徳太子から福沢諭吉になったのが1984年ですから、もう37年も前。
数年後、渋沢栄一に変更されたら、益々存在感が薄れてしまいますね。

この聖徳太子、最近の教科書では「厩戸王(うまやとおう)」と表現されることが増えたのだそうです。

古典で聖徳太子という呼称を確認できるのは、死後100年以上経った8世紀半ば。
「日本書紀」には「厩戸皇子」との記述があるものの、「皇子」という尊称は聖徳太子より後の7世紀後半に用いられました。
そこで、聖徳太子の時代に使われていた「王」を用いて厩戸王と呼ぶようになりました。

聖徳太子のころは皇太子や摂政といった制度もまだ確立されていなかったとみられ、「摂政として国を支えた」などの表現も使われなくなっているのだそうです。

また、一万円札を聖徳太子と呼んでいた頃、家の財布を握っている妻を、「大蔵省」と呼んでいましたっけ。
いまだに「財務省」という単語に詰まることはあっても、「大蔵省」はすんなり口を突いて出ます。

お金といえば、日本最古の貨幣は「和同開珎(わどうかいちん)」であると小学校で学びました(私は「わどうかいほう」という読みで習いました)。
ところが、1998年に奈良県の飛鳥池遺跡にある7世紀後半の地層から見つかった「富本銭(ふほんせん)」が、最も古い貨幣と認められました。

近年は、「鎖国」や「士農工商」も、その後の研究の結果、教科書に登場しない傾向だそうです。
日本史においては、新しい歴史的発見があったり、研究者の間で議論が進むと、教科書の内容は更新されるのですね。

昔の知識や記憶が通用しなくなるのは残念ですが、人間一生勉強だ、ということですね。

189 用和為貴

国内における新型コロナウイルスに対するワクチン接種が、ここにきてスピードを増してきました。
北海道の奥尻島では、島内の高校生を対象に今月末にもワクチンの接種を始める方針であるとか、東京都新宿区では7月上旬から20代や30代の若者を優先的に集団接種を始めるとか、医療従事者や高齢者以外にも接種対象が広がる傾向を見せています。

とはいえ、現在接種しているのは、海外製のワクチンです。
世界的にワクチンの需要が高まるなか、海外から期待通りに安定供給される保障はありません。

しかし、日本ではワクチン開発に巨額な予算が投じられていないことや、安全性や倫理性の確認に時間を要することなど、国産ワクチンの早期開発は、まだ現実性を帯びていないようです。

アメリカでのワクチン開発に関して、興味深い記事がありました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be0246c317e42e6e18630519523d3b964946af7f?page=1

昨年5月15日、トランプ大統領は「オペレーション・ワープ・スピード(OWS)」に着手しました。
その内容は、正規の手続きを踏むと73カ月要する工程を14カ月に短縮し、「安全で効果的なワクチン3億回分を2021年1月1日までに供給する」ことをミッションに定め、具体的には、以下のような工夫が盛り込まれています。

  • 「複数のプロジェクトを並行させ、有望なものは開発途中から治験を開始する」
  • 「事前に3万人のボランティアを集めて、早期承認のためのデータを収集する」
  • 「治験の最中から生産に踏み切る」
  • 「ワクチンが完成する前から、配布と接種の準備を始める」

このあと、上記サイトでは、次のように続けています。

特に製品ができる前から生産に踏み切る、というのは文字通りの「見切り発車」である。後で「ダメでした」となるかもしれず、その場合は投入した予算が無駄になる。とはいえ、アメリカの総人口は3億3000万人。たとえワクチンが完成しても、それだけの数量を用意できなかったら意味がない。事態はまさに「ワープスピード」を必要としていたのである。 そこで開発しながら治験をし、治験をしながら生産し、その間に配布から接種の計画を立てておく。そうでないと間に合わないから。いやもう「後手後手」批判が絶えない日本政府とはえらい違いである。もっともこれと同じようなことを日本でやろうとしたら、官僚は「法律にありません」と首を振り、野党は「失敗したら誰が責任を取るんだ!」といきり立ち、マスコミは「税金の無駄は許されない!」などとのたまうことだろう。

政府への批判は様々取り上げられています。
縦割り行政が悪い、デジタル化が遅れている、過去の教訓が生かされていない・・などなど。

私も企業経営者の端くれとして、政府に申し上げたいことはたくさんあります。
しかし、批判・攻撃・咎立は、心をギスギスさせます。
コロナ禍は、人の素を暴くことになったとも言われています。
足元を見つめ、やるべきことをやり、心が乾かぬように日々過ごしたいと思っています。

将来を思い煩うな。 現在為すべきことを為せ。その他は神の考えることだ。

高校の倫理社会で学んだ、アミエルの言葉を思い出しました。

そんな中、日本政府が提供したアストラゼネカのワクチン124万回分が、4日午後、台湾の空港に到着したというニュースを耳にしました。

台湾では5月中旬から感染が拡大している反面、ワクチンの調達が難航しているそうです。
蔡総統によると「海外の製薬会社からのワクチン調達が中国の妨害で難しくなっている」とのこと。

台湾といえば、東日本大震災のとき、真っ先に救いの手をさしのべてくれました。

いただいた義援金は総額200億円以上。
震災翌日から台湾各地で募金活動が展開され、日本の5分の1に満たない約2,350万人という人口を考えたとき、その額の大きさに驚きます。

支援は義援金だけではありません。

震災から5日後、3月16日。
白いズボンと白い帽子、背中に蓮のマークをつけた紺色のジャンパーに身を包んだ一団が、茨城県・大洗町に到着しました。
台湾の慈済基金会日本支部の人々で、トラックと自家用車を連ねて、被災地の人々に温かい料理を振る舞ったのだそうです。

また、2カ月後の2011年5月から半年間、台湾政府交通部観光局は「台湾希望の旅」として、岩手・宮城・福島県の被災者1,000人を無料で2週間台湾に招待する支援を行っています。
そして、震災復興が本格化すると東北に直行便を飛ばし、震災後最初に旅行客を送ったのも台湾だそうです。

これらの支援には、2,400人余りの犠牲者が出た1999年の台湾大地震の当日に、救助隊を派遣した日本への恩返しの気持ちが込められているとも言われています。

ワクチン提供の続報として、支援を受けた台湾市民から、台北の日本台湾交流協会台北事務所(大使館に相当)にたくさんの花が届いたと知りました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1319642b83dcaafdd27ff82d68784b4147a90421

こういった国境を越えての助け合いは、心温まる思いがします。

「用和為貴」。
和を用って貴しと為す。
人と人が仲良く協力しあうことが最も大切であるということ。
十七条憲法の第一条にある言葉です。

花といえば・・。
先日、古くから付き合いのある紙問屋の営業さんから、胡蝶蘭が届きました。
プレートには「還暦祝い」の文字。
過日ご紹介した紅白まんじゅうに続いて、お祝いをいただきました。
ありがたいことです。

生まれて初めて頂戴した胡蝶蘭ですが、ネットで調べてみると、大切に育てると長く楽しめるようです。

風通しが良く、エアコンの冷気が直接当たらない場所に置く。
ラッピングは外す(写真にはまだ写っていますが)。
水は控えめに。

日々喜びを感じながら、注意事項を頭に入れて育てていきたいと思います。

182 道険笑歩

2020年のプロ野球は、新型コロナウィルスの影響で、変則的な開催を強いられました。
そんな中、私が応援する読売ジャイアンツは、リーグ連覇を果たしました。

8月下旬、広島戦で今季初の同一カード3連敗を喫しましたが、原辰徳監督はミーティングである言葉をナインに贈ったそうです。

道険笑歩。

道険しくとも笑って歩こう、という意味。

実はこの言葉、ボクシング元スーパー・フライ級チャンピオンの徳山昌守選手が作った言葉です。
以下は、紀伊國屋書店のサイトに掲載されている、徳山氏の著書「道険笑歩ー道険しくとも笑って歩こう」の著書紹介です。
出典:https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784072344200

道険笑歩ー道険しくとも笑って歩こう

・徳山昌守【著】
・主婦の友社(2002/09発売)

著者等紹介
徳山昌守[とくやままさもり]
本名・洪昌守。1974年9月17日生まれ。在日朝鮮人3世のプロボクサー。現WBC世界スーパー・フライ級チャンピオン。4度の防衛に成功。足を使ったフットワークと左右のストレートが持ち味の右ボクサーファイター。在日朝鮮人を公言したはじめてのボクサーとして注目を集める。「2001年ボクシング年間表彰選手」の最優秀選手賞、「2001毎日スポーツ人賞」感動賞など受賞

出版社内容情報
自作の詩を盛り込んだ、書き下ろし自叙伝。世界チャンピオンいう重圧、在日朝鮮人として生きることを一身に受け入れた壮絶なドラマである。

「在日やからエライんか? チャンピオンやからスゴイんか?」―。自ら在日朝鮮人であることを公言したボクサーが背負った、あまりにも大きい重圧と反発。本書は徳山昌守の生きざまをたどる、壮絶なドラマである。数々の苦難を乗り越えて、ついにボクシングの世界で頂点に立った男。しかし、王者である限り、彼に安住の地はない。常に、終わりなきトーナメントを続けてゆくのだ。家族の支えと偉大な父への反骨精神、在日であることへの誇りと戸惑い。そんな心の葛藤を鮮やかに描き出した自作の詩50篇を掲載。タイトルにもなっている「道険笑歩」は彼の作った四字熟語。どんなに道が険しくても笑って歩こう―。チャンピオンとして、また「在日の星」として生きていくことを貫こうとする徳山昌守流哲学を象徴する言葉だ。夢を追いかける人、夢を失ってしまった人すべてに送る、渾身のメッセージ。

諦めない姿勢。
最善の準備。
そんなプロとしての厳しさ、過密日程を乗り切るタフさが要求される中でも、笑える余裕をどこかに併せ持とうと、監督は選手に伝えたかったのでしょう。
その言葉の通り、ナインは日々、円陣で笑い合い、喜びを分かち合い、優勝を勝ち取りました。

今年は、小さなウイルスに翻弄された激動の1年でした。
弊社も、オペレーターはテレワークにし、他の社員は時短勤務としました。
売上が落ちるなかで、雇用と給与を維持することに腐心しました。

東日本大震災以上の惨禍は、自分が生きているうちには起こらないと思っていました。
しかし、新元号「令和」の門出を祝ったその翌年、歴史的困難に陥るとは想像の余地もありませんでした。

そんな険しい年であるからこそ、笑うことが重要なのかも知れません。
免疫力を上げ、記憶力や判断力が活性化し、プラス思考を高めてくれるなど、笑いの効果は、様々指摘されています。

ある免疫学の医師は、ストレスを克服する最も簡単な方法は「笑うことだ」と述べています。
また、あるメンタルヘルスの専門家は、「ユーモアを大切にする」「意識的に笑う」といったポジティブな態度がコロナ禍でのメンタル維持に有効だと言い、ある産業医は、声を出して笑うことで、自分の中に溜っているものが解放され、少し楽になる感覚があると述べています。

笑う門には福来たる。

相手に笑顔をもたらすユーモアのある言葉は、業務が円滑に遂行するためのスパイスだと思います。
明日の仕事納めを前に、2021年はこんなキーワードも念頭に置いてみようか、などと考えています。

181 鳶目兎耳

若い頃、視力には絶対の自信がありました。

車を運転していると、同乗者が驚くほど遠くの標識が識別できました。
また、大学時代は試験中に周囲の答案を拝覧し、単位取得にずいぶんと役立ちました。
視力検査で1.5以外を計測した記憶はありません。

一方、聴力にも長けていたと思います。
目を瞑って集中した時は、人並み以上の知覚能力があったと自負しています。

ところが、30代後半で老眼の症状が現れ、今は食事の際も老眼鏡が手放せません。

そして、数年前から、補聴器も使用するようになりました。
補聴器無しでは生活できない、というレベルではありませんが、左耳が軽度の難聴です。

補聴器は大きく分けて「耳かけ式」と「耳あな式」がありますが、私は耳かけ式を使用しています。
下は、私が使用している補聴器のメーカー・Widex社の公式サイトに掲載されているイラストです。

出典:https://www.widexjp.co.jp/ha_choice/about/features.html

①のマイクで音を拾い、ベージュ色で表示された本体部分にアンプの機能が内蔵されていて、⑤のレシーバーから音が出る仕組みです。

私の補聴器の本体部分の長さはおよそ2.5cmですから、小豆大のサイズといったところでしょうか。
非常にコンパクトなサイズです。

小さいだけではなく、色も10種類以上ラインナップがあります。
赤やグリーンといった女性を意識した色もあり、肌に同化したベージュ一辺倒だったひと昔前とは全くの別物、と言えるかと思います。
因みに、私の補聴器はグレイです。

装着方法は、本体部分を耳の後ろにセットし、釣り糸のような細いチューブで繋がったレシーバーは耳の穴に入れます。
本体は耳の裏側ですから、顔の正前からは見えませんし、髪が長い人なら完全に隠れてしまいます。
私も本体が隠れるように髪を少し伸ばしたこともありますが、某オフィスの庶務課長さんから「変な髪型してるね、鏡見た?」とイジられて以来、要らぬ抵抗は止めました。

ところで、今年は私のような耳かけ式補聴器のユーザーは、すこぶる困った事態に陥っています。
マスクを外す際に、補聴器が耳から外れてしまうため、私は8ヶ月以上補聴器が使用できずにいます。
慎重にマスクを外せば済むことですが、補聴器は使用感がさほどないので、外すたびに補聴器に注意を向けるのは現実的ではありません。
ましてや補聴器は高価なので、落下したら一大事です。

耳あな式補聴器ならば、マスクとの相性も悪くないと思います。
しかし、マスクのゴムを耳に掛ける以上、耳かけ式補聴器は大問題です。

これまでは、マスクが必要になるインフルエンザの時期だけ補聴器なしで生活していましたが、常時マスクが手放せない時代になり、非常に困っています。

そこで、補聴器の代役として、「オリーブ スマートイヤー」という集音器とも言えぬ商品を購入してみました。
耳の穴にスポッと入れて使用し、スマホで様々な設定ができる先端的な製品です。
https://www.olive.store

正直言って、難聴の補助役としては、補聴器の方に軍配が上がります。
補聴器は個々の症状に合わせた設定をしますので既製品の範疇ではありませんし、管理医療機器です。
そもそも価格にかなりの差があります。

ただ、オリーブスマートイヤーは、Bluetoothでスマホと繋ぐので、ワイヤレスで通話ができたり、音楽を再生できたりする点は非常に便利です。

色は白と黒があって(私は白を購入しました)、若者のワイヤレスイヤホンと見まがうような今ドキの形状をしています。

先週末、オリーブを装着して会社へ向かおうとする私を見て、カミさんがクスクス笑っています。
「R-1のキャップを耳にはめているのかと思った(笑)」。

ファッショナブルな中年を目指しましたが、遥けき夢だったようです。

出典:https://www.meiji.co.jp/dairies/yogurt/meiji-r1/product/

177 三密瑜伽

まもなく8月が終わります。
少し気の早い話題ですが、今年の流行語大賞は新型コロナウイルス関連が、大半を占めることになるでしょう。

濃厚接触、クラスター、オーバーシュート、ソーシャルディスタンス、ステイホーム、テレワーク、フェイスシールド、不要不急、オンライン飲み会、東京アラート、大阪モデル、8割おじさん、アベノマスク・・。

思いつくだけでも多々ありますが、私の中では「三密」が大賞候補です。
言うまでもなく、密閉・密集・密接です。

また、新たな三密という記事をどこかで読みました。
新聞だったか、ネットだったか忘れましたが、およそ以下のような内容で、感心しました。
  • 今後の人生や生活を綿密に考え直す
  • ソーシャルディスタンスを維持しつつ濃密な関係を築く
  • 人や場所とのつながりを親密に感じながら日々を楽しむ

以前のような生活がすぐに戻ることはないでしょうから、新たな生活様式を頭で理解し、実践していかなければならないでしょう。
それは詰まるところ「簡素」な方向へに舵を切ることになるのでしょうが、過度にならないようにしたいと思っています。

カミさんが早起きして作ってくれるお弁当は、美味しくて抜群に安全ですが、行きつけのお店で食べるランチは、仕事の気分転換に有効です。
デパ地下は、見ているだけで幸せな気分になります。
また、健啖家の義母を、大好きなホテルのビュッフェに連れていってあげたいなあ、とも思います。

様々な感染症を克服してきた歴史からも、この困難を賢く乗り越えられる日が来ると信じたいと思います。

ところで、そもそも三密には「空海がひらいた真言宗をはじめとする密教の教え」という意味があるそうです
そういえば、高尾山に「三密の道」と記された門があるという報道を思い出しました。
ネットを調べてみると、東京新聞6月16日WEB版に関連記事を見つけました。(https://www.tokyo-np.co.jp/article/35764)

「『三密』は、真言宗の教えにある言葉です」。
高尾山薬王院の法務部長、堀江承豊さん(61)が解説してくれた。「三つの密」とは、真言宗(密教)では「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」のことで、それぞれ正しい行い(身)、正しい言葉(口)、正しい心(意)を心掛けるための修行を指すのだという。
(中略)
堀江さんは「宗教的な意味と異なる『三密』が広まってしまった」と苦笑しながら、「本来の教えを今の生活に生かすこともできる」とも語る。「感染する恐れがある行為は行わない」(身密)「感染者や医療従事者らへの誹謗(ひぼう)中傷を行わない」(口密)「周囲の人にいたわりの心を持つ」(意密)−。気持ちがすさみがちな今だからこそ、「三密を意識することが大切なのではないでしょうか」と訴える。

悲しいニュースに心がざわつくこともありますが、自分の心と向き合いながら、真心を込めた行動や発言を心がけたいと改めて思いました。

終わりに・・、

世の男性たちの多くは、初めて「三密」と聞いたとき、壇蜜さんを思い浮かべたことと思います。
ワタシもその1人です。

『テレビから三密と聞こえると「呼ばれたかな」と反応してしまうんです』と語っていた壇蜜さんのコメントに、ほっこりした記憶があります。

また、「断密、ワタシからもお願い」という文言と壇蜜さんの写真をSNSで公開したファンがいましたが、写真の使用許可を得ておらず、法的問題が指摘されたそうです。

ところが、壇蜜さんの所属事務所は「こんな時代だからパロディで和んでくだされば」と寛容な姿勢を示したとのこと。

ギスギスした時代にあって、まさに、和みますね。

なお、「三密瑜伽」の「瑜伽」は、修行者の三密と仏の三密が互いに交じり、溶け合うこと、なのだそうです。

176 偏旁冠脚

そろそろ7月が終わろうとしていますが、東京では雨の日が続いています。

最も遅い梅雨明けはいつだったのだろうと調べてみると、気象庁のサイト内に「昭和26年(1951年)以降の梅雨入りと梅雨明け」というページがありました。(https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/kako_baiu09.html)

それによると、昭和57年(1982年)の「8月4日」が最も遅かったようです。

38年前の夏ですね。
私は、大学3年生でした。
ひとりでロサンゼルスへ旅立ったのは、梅雨明けの数日後だったんだなと、学生時代に想いを馳せながらサイトを見ていると、1993年だけ日付が未掲載になっていることに気づきました。

注釈によると「梅雨入り梅雨明けの時期がはっきりしなかったため、特定しなかった場合」とのこと。
こんな年もあったんですね。

今朝、テレビの天気予報を見ていると、今日の雨のポイントは「疎雨」と紹介されていました。
「そう」と読み、「疎らに降る雨」という意味だそうです。
いい言葉だなあと感じながら、雨がつく熟語を書き出してみたくなりました。

梅雨、大雨、長雨、雷雨、風雨、雨季、雨傘、雨靴、雨具、雨天、雨音、雨粒、雨男、雨女、穀雨、雨水、雨樋、時雨・・。

最後の4つは、我ながら良く浮かんだものだと悦に入りながら漢和辞典を開くと、まだまだ数え切れないほど掲載されていました。

驟雨、膏雨1)、陰雨2)、白雨、法雨、喜雨3)、雨意、雨花、雨脚、雨矢、雨施、雨集、雨師、雨飛、雨潦4)、雨涙・・。

1)膏雨:農作物をうるおし、生育を助ける雨。
2)陰雨:しとしとと降りつづく陰気な雨。
3)喜雨:夏の土用の頃、日照りが長く続いて旱ばつ状態となっている時にようやく降る恵みの雨のこと
4)雨潦:雨が降ってできた水たまり。

こういう語彙力を身に付けることは、文字を生業にする者にとって、表現力が向上しますね。

「雨」を調べたついでに、「あめかんむり」のページも読み進めると、大変興味深く、夢中になってしまいました。

雪、雫、雰、電、雷、零、需、震、霊、霞、霜、霧、露・・。
上記の見慣れたもの以外に、興味深い漢字を見つけたのです。

  • 霖:【りん】ながあめ。3日以上降り続く雨。
  • 霪:【いん】ながあめ。10日以上降り続く雨。「霖霪(りんいん)」も長雨の意味。
  • 霤:【りゅう】あまだれ。屋根から落ちる雨水。
  • 雩:【う】あまごい。雨を天に祈る祭り。また、あまごいをする。
  • 霰:【さん、せん】あられ。空中の水蒸気や雨滴が凍って降ってくる粒状の氷。
  • 雹:【ひょう】ひょう。雷雨などに伴って降る氷のかたまり。あられの大きなものをひょうという。
  • 霙:【えい、よう】みぞれ。雨混じりの雪
  • 霏:【ひ】雪や雨の、音もなく降りしきる様子。
  • 霑:【てん】うるおう。うるおす。
  • 靄:【あい】もや、かすみ。地表近くの大気中に霧や水蒸気の立ちこめる現象。靄然はかすみのたなびく様子。
  • 霓:【げい】にじ(虹)。雨上がりの空にかかるにじ。古代には、にじにも雄雌があると考え、雄(鮮明なもの)を虹(コウ)、雌(薄い光のもの)を霓(ゲイ)といった。

漢字は奥が深く、勉強するほど楽しいですね。
漢検準一級にもう一度トライしたいのですが、60手前のアタマは、知識が留まることなくサラサラと流れ落ちるので、厳しい戦いになりそうです。

163 聖人君子

令和になって初のお正月が近づいてきました。

最初の元号「大化」が制定されたのは西暦645年。
令和は、248番目の元号に当たります。

これまで、最も期間が長い元号は「昭和」で64年。
次が「明治」で45年、「平成」は4位です。

3位は、1394年から1428年まで35年続いた「応永」だそうです。
金閣寺ができたのもこの時代。
平和な時代だったと言われ、「応永の平和」なんて言葉もあるのだそうです。

しかし、今年2月、日本経済新聞に歴史学者・呉座勇一氏が興味深い記事を寄せています(以下抜粋)。

中世で「応永の平和」と呼ばれる時期がある。戦乱が比較的少なく、社会が安定した。その応永(1394~1428年)は約35年間続き、明治以前では最も長い。

「ほぼ平成と同じ期間だが、応永の平和は問題を先送りして、もめ事が起きないようにして保たれた。その矛盾が噴出したのが応仁の乱だとも言える」

新しい年号の時代が5月に始まる。少子化問題や国と地方に積み上がる借金。次の時代に引き継がれる負の遺産も多い。今まで目をつぶってきた問題がどんな結末になるのか。悲観論者なので、少し心配している。

今の政治に当てはまる部分も大いにあるのではないでしょうか。
令和の時代に、応仁の乱が勃発するようなことがあってはなりません。

ところで・・、
私は、天皇皇后両陛下の大ファンです。
まさに才色兼備な皇后陛下は、ご婚約されたときからファンでした。
一方、天皇陛下を尊崇するきっかけになったのは、2004年5月、皇太子様時代のご発言です。

「雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です。」

陛下の勇気に感動しました。
多くの取り巻き(宮内庁と断言してもいいかも知れません)を敵に回しても妻を守る、という強い意志を感じました。
「僕が一生全力でお守りします」とのプロポーズのお言葉を貫き通す陛下を、同じ男としてただただかっこよく感じました。

そもそも皇后陛下は、魅力ある働く女性の象徴だったと思います。
元外交官で、語学も堪能な皇后陛下は、開かれた皇室と海外の架け橋を担うはずだと信じて疑いませんでした。

しかし、「雅子妃(当時)は外国に行きたがってばかりで、世継ぎについて真剣に考えていない」との歪んだ見方が蔓延っていたのではないでしょうか。
約20年前、子どもができるのは当たり前、できないのは女性が悪い、という時代錯誤な考えがあったと思います。

ご結婚から8年ののち、ようやく愛子様が誕生されました。
しかし、喜びも束の間、すぐに男子の第二子を期待され、おびただしい重圧が雅子様にのし掛かったと、容易に想像がつきます。

しかし、今年、皇后様をお姿をテレビで拝見していると、心身共に健康を取り戻されたようで本当に嬉しく思います。
中でも、11月10日に行われた祝賀御列の儀(パレード)で、オープンカーから手を振られる皇后様は、本当にキレイでした。
多くの国民からの祝福を目の当たりし、孤独と重圧から解放された真の笑顔だったのでしょうか。

そして、去る12月4日、両陛下は皇居・賢所で「御神楽の儀」にのぞみ、即位に伴う一連の全儀式を終えられたとのことです。
年号が変わって早7ヶ月以上が経ちますが、ようやくその務めを終えられたと知り、いささか驚きました。

実は、我が家が子宝に恵まれたのも結婚8年後でした。
天皇陛下は私の2学年上、皇后陛下はカミさんの2学年上、そして愛子様はセガレの2学年上。
共通点を勝手に見出したりもして、親近感を感じています。

この正月、新年一般参賀に初めて行ってみたいな、と思っています。