196 半知半解

ひょんなことから埼玉県に久伊豆神社という名の神社があることを知りました。
しかも、同名の神社が岩槻市内に9社、越谷市内に8社鎮座しているそうです。
埼玉に(久)伊豆?と、俄然好奇の念が湧きました。

参拝記録の前に、久伊豆神社について少々講釈を。

久伊豆神社という名称は私にとって非常に新鮮だったのですが、実はこの名称を持つ神社は、埼玉県神社庁に登録されているだけでも44社あります。
しかも、元荒川流域に集中して鎮座しています。
限られた地域にのみ数多く存在する社名というのは、さほど珍しくもないようですが、その所以は、そのエリアで勢力を誇った武家集団などから篤い崇敬を受け、共に深く根付いていったためと言われています。

ちょっと話が逸れますが、埼玉県には「大宮氷川神社」という有名な神社があります。
(正しくは「武蔵一宮 氷川神社」です。)
毎年、初詣人出客ベスト10にランクインする、氷川信仰系の総本社です。
「氷川」名の社は、埼玉と東京を中心に実に280社以上が鎮座しており、荒川流域に数多分布していますが、久伊豆神社が多く鎮座する元荒川流域には、ほとんどその姿は見られません。
互いの境界を侵すことなく祀られている様子は、昔の勢力分布を見るようで、興味深いですね。

話を戻します。
久伊豆神社へ行く前に、加須市にある玉敷神社へ向かいました。
ここは、江戸時代まで「勅願所玉敷神社、久伊豆大明神」と称されており、各地に分霊された久伊豆神社のご本社ではないかと言われています。

当社は第42代文武天皇の大宝3年(703)東国道巡察使多治比真人三宅麿により創建されたと伝えられ、平安時代の前期第60代醍醐天皇の延喜5年 (927)に公布された律令の施行細則「延喜式」にその名を記す千有余年の歴史をもつ古社である。(中略)
江戸時代に入って元和年間(1620前後)騎西城城主大久保加賀守の時現在の地に遷座し以来明治に至まで当神社は「勅願所玉敷神社 久伊豆大明神」と称され、埼玉郡(現南北埼玉郡)の総鎮守、騎西領48ヵ村の総氏神として崇められ・・・・・・。
(「全国神社祭祀祭礼総合調査  神社本庁  平成7年」より抜粋)

玉敷神社は、延喜式神名帳に「武蔵国埼玉郡 玉敷神社」と記載されている式内社で、社号碑にも「延喜式内 県社 玉敷神社」と書かれています(画像では上部が欠けていますが・・)。

社伝によると、玉敷神社がこの地に遷座される(寛永4年・1620年頃)迄、宮目(みやのめ)神社がこの地の地主神として鎮座していました。

この宮目神社は、延喜式にも記されている歴史のある古社ですが、何故か境内末社となりました。
即ち、ここには式内社が2つ存在することになります。

余談ですが、玉敷神社という名称の神社は、国内で唯一ここだけだそうです。

玉敷神社を後にして、さいたま市岩槻区にある久伊豆神社に行きました。
この神社は、1987年に『史上最大!第11回アメリカ横断ウルトラクイズ』の国内第二次予選会場になったことで、急に知名度が上がりました。
予選会場に選ばれた理由は、「久伊豆」が「クイズ」とも読めるから。
昔から、クイズ番組の制作者はこの神社を参拝するのが通例だったそうですが、テレビ放送をきっかけに、一般にもクイズ神社としても親しまれるようになったようです。

境内ではクジャクが飼われており、オリジナル御朱印帳にもクジャクのイラストがあしらわれています。

次に向かったのは越谷市にある久伊豆神社です。

長い参道の先、第三鳥居をくぐるとすぐに藤棚があります。
その奥には池もあり、ベンチで寛げるとともに、パワーをいただけそうです。

ところで、「久伊豆神社」の名称の由来は、結局分からずじまいですが、公式サイトに御由緒が紹介されていました。

ご祭神が大己貴命久伊豆神社は今から約千五百年前の欽明天皇の御代(539~571)、出雲族の土師氏が東国へ移住するにあたりこの地に出雲族の親神たる大已貴命(大国主命)を勧請したのが始まりとされています。。
出典:https://www.hisaizu.jp/infomation.html

久伊豆神社は久伊豆大明神と古来氏子・崇敬者から崇められてきた、国造りの大神・縁結びの神・福の神として知られる大国主命(大国さま)と、その御子神で父神と共に代表的な福の神である言代主命(恵美須さま)を主祭神とし、また配祀として大国主命の御女子神である高照姫命、言代主命の御妃である溝咋姫命、そして皇祖天照大御神の第二の御子であり、出雲国造いずものの祖先神である天穂日命の三柱を奉斎しています。
出典:https://www.hisaizujinja.jp/about.php

これを見る限り、伊豆(いず)の語源は、出雲(いずも)なのだろうと想像がつきます。
少なくとも、伊豆半島と無関係であることは、間違いなさそうです・・。

注)上記参拝記録は、2016年に訪問した内容をここで書き上げたものです。
従って、現状と異なる記述があるかも知れませんが、ご寛容願います。

195 犬馬之歯

先週木曜日、60歳(還暦)になりました。

還暦で思い出すのは、長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の「今日、初めての還暦を迎えまして・・」というユニークなコメントです。
自分はまだまだ先のことだと思っていましたが、あっという間でした。

平均寿命が長くなり、還暦を長寿の祝いとする習慣は薄れてきましたが「節目の特別な誕生日」という感覚はまだ根強いようで、周囲の方々からお祝いをいただくことが続きました。

以前このブログでも紹介しましたが、あるお客様からは大きな紅白まんじゅうをいただきました。
そして、古くからお付き合いのある紙問屋の営業さんからは蘭の花をいただきました。

また、私が10年以上幹事を務めているゴルフコンペのメンバーから、祝いの品を頂戴しました。
しかも、コンペ終了後のパーティーの席でのサプライズな演出に驚かされました。
いただいたのはポロシャツとカステラのセット。
ポロシャツは私がお気に入りのメーカーでしたし、カステラは私が甘党と知ってのチョイスです。
その心遣いが、二重に嬉しかったですね。

さらに、仕事つながりの4人でゴルフに行った際にも、お祝いをいただきました。
東京オリンピック、ゴルフ日本代表とお揃いのポロシャツを頂戴したことにもビックリしましたが、私の名前と蠟燭60本のイラストが印刷された真っ赤なオリジナルTシャツまでいただき、感動しました。

ハッピーバースデーハットを被り、本日誕生日のタスキをかけた朝イチのティーグラウンドでの写真もありますが、品位等の諸事情を鑑み、非公開とさせていただきます。

それから、兄弟と呼び合う一回り年下のお客さんは、2人だけの食事会を企画してくださいました。
そして、記念の品として、金沢の銘品「金かすてら」をいただきました。
デラックス感は写真でも十分伝わると思います。
リッチで幸せな気分に浸ることができました。

そして、義母からもお祝いの食事会をしよう、とお誘いいただき、叙々苑で高級ランチをご馳走になりました。
こちらが長寿のお祝いをしなければいけないのに、立場が逆転してしまいました。

最後に、小学校の同級生からも贈答品が届きました。
半世紀以上の付き合いになるこの仲間とは、2年に一度京都旅行をしており、なぜか私は「隊長」と呼ばれ、取り纏め役を仰せつかっています。
いただいたのは、私の大好物、京都からのお取り寄せ「権太呂なべ」です。
車海老、蛤、白焼き穴子、鶏肉、生麩などを、絶品の出汁でいただきます。
翌日はおじやにして、もう1日楽しむことができます。

破顔一笑、豪華絢爛、阿鼻叫喚、珍味佳肴、愉快適悦・・。

歳をとることは豊かで素敵なことなのだ、と皆さんから教えられたような気がします。
そして、家族や友人には本当に恵まれたと改めて感じました。

改めて60という年齢に思いを馳せたとき、ピンと来ないというのが正直な心境です。
息子として生まれ、結婚して夫となり、子を授かって父となり、会社の経営を引き継いで社長となり、様々な立場を経て、60歳になりました。

・親孝行な子であったろうか。
・家族思いの夫であったろうか。
・尊敬される父であったろうか。
・社員を守る経営者であったろうか。

顧みると、明らかに反省点が多いです・・。
無駄に歳を重ねてきた面も認めざるを得ません。

歳を重ねることが怖いと思ったことはありませんが、加齢を感じる事象に接するたびに、希望が少しずつ失われていくような想いを感じていました。
今後は、寄る年波を静かに受け入れつつ、時には少し抗い、自分に構うことを忘れず、残りの人生を全うしていきたいと思っています。

194 不将不迎

若い頃から股関節に違和感がありました。

初めて医師の診察を受けたのは40代の頃。
親しかった、大学病院の整形外科部長に診ていただきました。

ちょっと変だなと感じた時はこんなストレッチをしていました、と努力の一端を告げると「なんで余計なことするかなあ、そもそも先天的なものだから治らないよ」と叱られました。
治らないんですか?と確認すると「治らないどころか年齢とともに悪化するよ」と宣告されました。

そして、予言は的中しました。
痛みを感じる頻度が増し、数年前からは、遂に正座や胡座が出来なくなってしまいました。

そんなとき、仕事でお世話になっている80歳代の女性社長さんが、人工股関節手術を受けたと聞きました。
明日は我が身。
自分の症状を伝え、今後の道標となるはずのお話しをたくさん伺いました。

その社長さんは、最近では「調子はどう?痛い?」と仕事の話の前に、必ず私の体調を気遣ってくださいます。
早く専門医に診てもらいなさい、と親身な忠告を再三受け、また、お友達のご主人が同じ手術を受けた医師まで教えていただきました。

ずっとのらりくらり過ごしていましたが、昨今は痛みも増してきたため、そろそろ潮時かと観念し、今年6月、ご教示いただいた股関節の専門医を訪ねました。

レントゲンを撮ったあと医師の問診を受け、若い頃から違和感があったこと、そろそろ潮時だと観念し、意を決して受診に来たと告げました。

レントゲンの結果では特に異常が見当たらず、医師は私をベッドに寝かせ、足を様々な方向に曲げては「痛い?」と聞きました。
どこを押されても、どの方向に曲げられても痛みを感じないので「痛くないです」と返事を繰り返す私を椅子に座るよう促したあと・・、

「まあ、潮時ではないよね(笑)」
「え?入院や手術といった宣告を覚悟してきたんですが・・。」
「今はまだそういう段階ではないよ。」
「先生、こんなに痛いのに、そんなあっさり帰さないでくださいよ」
と冗談めかして言う私に半ば呆れた医師は、私をもう一度ベッドに寝かせ、「これは」「ここは」と曲げたり押したりを繰り返しました。

「大きな問題はないと思うけど、MRI検査で詳しく調べてみましょう。」とその日は一件落着となりました。

後日、MRI検査を受けた後、診察室で先日の医師が画像を見ながらマウスをスクロールしていると、先生の手が突然止まりました。
モニターには、真っ白な円が写し出されていました。

「これか」と言う医師。
「あちゃ、腫瘍だ」と思い、心がザワザワする私。
「これね、水。ガングリオンって聞いたことある?」

素人が勝手に腫瘍だと早とちりしたことを恥じるとともに、医師の説明を聞きました。
結局のところ「変形性関節症」との診断で、水を抜いても痛みの除去には結びつかず、残念ながら根本的な治療方法はないことでした。

「運動しないのはダメだけど、過度な運動もよくないです。治療方法もないので今後は経過観察ということになります。一番納得いかないかな?」

そんな診断から数ヶ月。
本日、改めて医師の診断を受けましたが、特に変化はありませんでした。

「先生、あと10年、 もちますか?」と尋ねると、
「今、59歳でしょ。うーん、多分ムリだね。5年後には手術だと思っていた方がいいと思います。」
「手術って、人工・・」
「そう、人工股関節。」

覚悟はしていましたが、少々ショッキングな宣告でした。
でも、とてもフランクで、信頼できる医師だと感じました。

将来、手術を受けることになった時、生活習慣病を持っていると厄介なことになるので、太らないように節制してください、とも言われました。

60目前にして、放縦な生き方を戒めるきっかけとなりました。
過ぎたことは悔やまず、そして、まだ見ぬ未来をアレコレ気に病むことなく、元気な老人を目指して、小さな努力を積み重ねていこうと思っています。

193 面目一新

1974年、テレビドラマ「寺内貫太郎一家」が大ヒットしました。
このドラマを見ないで翌日学校に行くと、友達との会話に参加できないくらい、私の学校では皆こぞって見ていました。
それもそのはず、平均視聴率は31.3%だったそうです。

主役を演じたのは、作曲家の小林亜星さん。
ほかに出演していた俳優さんも、今もって鮮明に覚えています。

寺内貫太郎の奥さん役は加藤治子さん、長女で足に障害を持つ役柄を演じたのが梶芽衣子さん、そしてその弟役が西城秀樹さん。
貫太郎の母親役は悠木千帆(樹木希林)さんで、お手伝いさん役が浅田美代子さん。
石屋の職人役は、伴淳三郎さんと左とん平さんという喜劇役者の2人。
それから、由利徹さんは花屋の主人役、篠ヒロコさんは居酒屋の女将さんで、その店の謎めいた常連客役が横尾忠則さん。
そして、梶芽衣子さんの恋人役が藤竜也さんで、このときの藤さんは、子供ながらにスゲーカッコイイ人だなあと感じていました。

47年前に放映されたドラマですから、残念ながら多くの出演者がお亡くなりになりました。
主役を演じた小林亜星さんは、今年5月、88歳でご逝去されました。

なお、余談ですが、当時中学生だった私は、主役を演じている太っちょなオジさんが、著名な作曲家であることを知りませんでした。

亜星さんのプロフィールをネットで見ることができました。

逓信省(現総務省)官僚の父と、小劇場の女優だった母の間に生まれ、父方の祖父が医師だったため、父から「将来は医師になれ」と言われて育つ。
一方、幼少期から音楽が大好きでバンド活動も行っていたが、猛勉強して慶大医学部に進学。
しかし、入学後、父に内緒で経済学部に転部したことが卒業時にバレて勘当。
大学卒業後は日本製紙に就職したものの、約1カ月で退社。
その後は紙問屋を立ち上げて営んでいたものの、大好きな音楽の道に進むことを決断し、作曲家・服部正さんに師事。

慶応の医学部に合格したにも関わらず、音楽の道を選んだと知り、驚きました。
また、日本製紙に就職したこと、そして、紙問屋を興したことにまたまた驚きました。
亜星さんが紙問屋のままでいたら、寺内貫太郎一家はどうなっていたことか・・。

現実の話、東京都の紙商(紙問屋)は、全盛期170社以上ありましたが、現在は70社ほどに減っており、その数はもう少し減るだろうと予想されています。

そもそも、紙の生産量は2000年をピークに減少しており、2020年には減少幅が4割近くに達しました。
ペーパーレスの進行に、新型コロナが追い打ちをかけた格好です。

また、近年の特徴として、衛生用紙の生産量が新聞用紙に迫っています。
要するに、高齢者向けオムツの需要が増えて、新聞離れが進んでいるということです。
現代社会を真っ正面から映し出していますね。

広告ひとつ取っても、オンラインが中心となり紙に代表されるオフライン広告は衰退の一途です。
しかし、保存がしやすい、記憶に残りやすい、質感を感じることができるといった、紙ならではのメリットを心に秘め、紙文化の継承に微力を尽くしていきたい思いです。

天国の亜星さんも、きっと、紙業界の行く末を心配されていることかと思います。

192 知己朋友

先日閉幕した東京オリンピックでは、柔道やスケートボードのようにメダルを量産した種目があった一方、期待通りの結果を残すことができなかった種目もありました。
その代表格がバドミントンでしょう。

最大の番狂わせは、世界ランキング1位・桃田選手の一次リーグ敗退です。

その翌日、女子ダブルス世界ランキング2位のナガマツペアこと永原・松本ペアが、最終ゲームを26対28で失い、準々決勝敗退。
その数時間後、同1位のフクヒロペアこと福島・廣田ペアも釣られるように敗れました。
ベスト4に進出していたら、日本人ペア同士の対決だったのですが、その前の試合で共に敗れるという皮肉な結果となりました。

女子シングルスの奥原選手(同3位)、山口選手(同5位)も揃って準々決勝で姿を消しましたが、混合ダブルスのワタガシペア(渡辺・東野ペア・同5位)が銅メダルを獲得し、一矢報いることができました。

勝負は時の運とも言います。
必ずしも強い者が勝ち、弱い者が負けるとは限りません。

数々のトラブルに見舞われながら、オリンピックの舞台で戦った桃田選手の姿は王者そのものでしたし、フクヒロペアの廣田選手は膝に大怪我を負ったにも関わらず、不屈の精神で試合に臨みました。

日の丸を背負い、勝って当たり前という重圧は、私には計り知ることすらできません。
まずは、ゆっくり休んでいただきたいと思います。

かくいう私も、高校ではバドミントン部に所属していました。
といっても全国大会などとは無縁の実力で、最高位は東京都男子ダブルス新人戦でのベスト8です。

コンビを組んでいたのは、同級生のコバヤシ君。
入部してまもなくペアを組み、高3の夏まで一緒にプレイしました。

私は試合になると闘志を前面に出すタイプでしたが、コバヤシ君は飄々とプレイするタイプ。
得意なパターンは、ワタクシが前衛、コバヤシ君が後衛に回っての攻撃。
キレのあるスマッシュを連続で打ちまくるコバヤシ君と、甘いレシーブを見逃すまいと前衛で動き回るワタクシのコンビネーションが自慢でした。

コバヤシ・ヤマダのコバヤマペアは(そう呼ばれてはいませんでしたが)、シード権を持っていたので、2回戦から出場することが常でした。
しかし、2年生のとき、危うい対戦がありました。

試合直前、お互いコートで軽く打ち合うのですが、相手チームの放つショットが、どうひいき目に見ても我々より上だな、と感じました。
最初の試合で負けてしまうと、次の大会からはシード権を失うことになります。

真っ直ぐなコバヤシ君は、普段通り試合前練習を続けていました。
一方、不埒な私は、何か策はないかと頭を巡らせていました。

弱ったな、とシャトルを打ち合う相手のユニフォームを何気に見遣ったそのとき、私の中で電球がピカッと点灯しました。

私は2Fの応援席を眺め、一番気の利く後輩のアオキに向かって、すぐにコートへ降りるよう合図を送りました。
そして、コバヤシ君にちょっと待ってと声をかけ、駆け降りてきたアオキに知恵を授けました。

そろそろ試合開始の時間。
トスをしてサーブ権を決めていたそのとき、相手チームの主将に向けて本部席へ来るよう館内放送が流れました。
対戦相手のペアは怪訝な表情をしていましたが、そんなことは意に介さず、「頼むぜ、コバヤシ!」と檄を飛ばし、気合い十分を装いました。
そして、試合が始まってまもなく、再び館内放送が流れました。

「第☆コートの☆☆高校の選手は、大会規定のゼッケンを着けていないため、失格といたします。」

憮然とした面持ちの相手チーム。
落胆する応援席の女子部員。

キョトン顔のコバヤシ君。
笑いを隠すのに精一杯のワタシ。
2階席でガッツポーズする後輩アオキ。

部活を引退するまで、シード権はなんとか死守することができました。

卒業式の日、大学に行ってもバドミントンを続けると言っていたコバヤシ君。
大学では、まず彼女探しだと、邪な道を歩む宣言をした私。
40年以上疎遠になっていますが、還暦を迎えるにあたり、ぜひ会ってみたい1人です。

バドミントン部に関して、忘れられない思い出がもう1つあります。

入部してまもなく、学校で実力試験(校内模試)が実施され、ワタクシ、学年8位の成績を取りました。
そのニュースを知った2年生のウエノ先輩から声を掛けられ、2学期の試験結果も報告するよう命じられました。

迎えた2学期の実力試験。
私は順位を1つ上げ、学年7位となりました。
それを知ったウエノ先輩は、3年生のアオキ部長(ガッツポーズのアオキとは別人です)にこう報告したそうです。

「1年生の山田が2回続けて実力試験で好成績を上げました。ひょっとするとワタナベさん以上かも知れません。」

ワタナベさんは私より5〜6つ上の先輩で、現役で一橋大学に合格した、バドミントン部史上最強の秀才です。

「山田、ワタナベさんのことは知ってるな。期待しているから頑張れ。」
アオキ部長直々に呼び出され、そう発破を掛けられました。

私の通っていた高校は男子校で、1クラスがおよそ55人。
A組からN組までありましたから、1学年750人以上の生徒がいたことになります。
その中での7位です。
なかなか立派だと思いませんか。

そうこうしているうちに3学期の実力試験。
その結果は・・・・
110位。

ウエノ先輩から、コテンパンにしごかれました。
「お前のせいでオレまでアオキ部長に叱られたんだぞ、バカヤロー!」
だからまぐれだって言ったじゃん・・と思いながら、ホントは優しいウエノ先輩のしごきに耐えました。

ウエノ先輩は昨年還暦を迎えたんだなあ。
アオキ部長はさらに1つ上か・・。
先輩たちにも会ってみたいなと、還暦オヤジはノスタルジックになるのでした。

191 理世撫民

昨日、東京オリンピックが閉幕しました。

ライバル都市のマドリードとイスタンブールを破って、開催都市に選出されたのが2013年9月。
IOC・ロゲ会長(当時)の「TOKYO!」から8年近くの歳月が流れたことに驚きました。

私にとっては、自分が生まれ育った町で2度目の開催となるオリンピック。
これはかなり幸運と言ってよいかと思います。

これまでに夏季オリンピックを複数回開催した都市は、パリ、ロンドン、ストックホルム、ロサンゼルス、アテネで、東京を含めても6都市しかありません。

3度行われたのはロンドンのみで、他は2度。
ただ、2024年パリ、2028年はロサンゼルスでの開催が予定されていますので、どちらも3度目となりますね。

前回の東京大会は、1964年10月。
私はまだ3歳でしたので、空に描かれた五輪マークも、東洋の魔女の活躍も、残念ながら記憶に残っていません。

そして、東京2020。
3歳の幼児は、還暦間近のオッさんになりました。
今回はぜひ生で観戦、と思っていましたが、新型コロナの影響で無観客になってしまったのは予想外でした。

自分が住み、働く町で開催されているにも関わらず、どことなく遠くに感じた東京五輪。
交通規制により車の移動が制限され、確かに自国で開催されていた東京五輪。
テレビの前で、今日はどの種目を応援しようかと、独特のワクワク感があった東京五輪。
「過去最多を更新」というニュースに、メダリストか感染者かと迷った東京五輪。

17日間にわたる戦いは、心に残る場面の連続でした。

・バドミントン女子ダブルスで、フクヒロペアを破った中国ペアが、試合後に廣田選手の患部を気に掛け、ハグしたシーン。
・最後の大技を失敗して泣いているスケートボードの岡本選手を、他国の選手が担ぎ上げたシーン。
・ソマリアの難民で若い頃に母国を離れた2人の選手がオランダとベルギーに国籍を移して臨んだ男子マラソンで、2人揃ってゴール前スパートし、銀メダルと銅メダルを獲得したシーン。

1年延期や無観客など、異例づくしのオリンピックだったことの裏返しなのか、国籍や人種、勝敗を超え、健闘を讃えあう場面をたくさん目にしました。
そして、全力で戦ったアスリートたちに、政治的な壁は存在しませんでした。

世界各国から集まった一流選手たちのパフォーマンスに多くの感動を覚えた一方で、国内の新型コロナウイルス感染者数は拡大の一途でした。
パラリンピックがまだ控えていますが、兎にも角にも対策をより強く進めないといけません。
まん延防止等重点措置の適用が、8県に追加されました。
政治家は、これから益々勝負の時を迎えるのだと思います。

そんな中、金メダルを噛んだ某市長には閉口しました。
人を非難するコメントはあまり気乗りがしませんが、「迷惑をかけているのであれば、ごめんなさい」という言いぐさで、許容範囲を超えました。
不快に思った人がいないなら謝る必要はないという論理は、心からお詫びするという言葉と大きく矛盾します。
きちんと謝罪ができない人間に、正しい政治判断ができるでしょうか。

苦しい環境にも屈することなく努力を重ね、金メダルを獲得した勇敢なアスリートの輝かしい功績を汚さぬため、この映像がネット上から早く消えて欲しいと思います。

地位にあぐらをかいた特権意識の消えない政治家。
ひょっとしたら、この改善がコロナ収束のカギを握っているのかも知れません。

190 古色蒼然

若い頃、多くの車はマニュアル車でした。
エンジンを止めるときは、決まってアクセルを踏んで回転数を上げてから、キーを抜きました。

これを「ブリッピング(空吹かし)」と呼ぶそうです。

その理由のひとつとしては、1960年代半ば頃まではキャブレターと呼ばれる機械式の燃料供給装置が主だったことです。

ブリッピングする理由は、次回のエンジンスタートの際に燃焼室にガソリン成分が残っていて始動しやすいようにするためという人もいます。
実際、高出力エンジン搭載車の場合には、大口径のキャブレターを装着されていた車種が多かったといいます。

そのため、クルマを止める直前に低回転で走行していると供給される燃料に対する燃焼のバランスが崩れ、「プラグがカブる(燃料やスラッジによってスパークプラグの着火が悪くなる)」ことを嫌っていたことがその始まりのようです。

・・・・なんて知ったかぶりをしましたが、上記はネット記事の受け売りです。
私は車のメカニックに関しては全くの無知で、若い頃、単車にもまるで興味がありませんでした。
私の世代としては、少数派かも知れません。

先述のブリッピングもそうですが、昔は常識で、一般的で、正論だったけれど、現代は変わってしまったことを思い浮かべてみました。

「いい国作ろう鎌倉幕府」

我々の年代では「鳴くよウグイス平安京」と双璧の、鉄板語呂合わせです。
ところが最近の研究で、鎌倉幕府は段階的に成立したとする見方が強くなり、1185年が鎌倉時代の始まりとする説が有力なのだそうです。
即ち「いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府」が新定番になります。
なんかしっくりこないですね。

また、子供の頃、一万円札は「聖徳太子」と呼ばれていました。
今となっては死語大賞候補です。
それもそのはず、聖徳太子から福沢諭吉になったのが1984年ですから、もう37年も前。
数年後、渋沢栄一に変更されたら、益々存在感が薄れてしまいますね。

この聖徳太子、最近の教科書では「厩戸王(うまやとおう)」と表現されることが増えたのだそうです。

古典で聖徳太子という呼称を確認できるのは、死後100年以上経った8世紀半ば。
「日本書紀」には「厩戸皇子」との記述があるものの、「皇子」という尊称は聖徳太子より後の7世紀後半に用いられました。
そこで、聖徳太子の時代に使われていた「王」を用いて厩戸王と呼ぶようになりました。

聖徳太子のころは皇太子や摂政といった制度もまだ確立されていなかったとみられ、「摂政として国を支えた」などの表現も使われなくなっているのだそうです。

また、一万円札を聖徳太子と呼んでいた頃、家の財布を握っている妻を、「大蔵省」と呼んでいましたっけ。
いまだに「財務省」という単語に詰まることはあっても、「大蔵省」はすんなり口を突いて出ます。

お金といえば、日本最古の貨幣は「和同開珎(わどうかいちん)」であると小学校で学びました(私は「わどうかいほう」という読みで習いました)。
ところが、1998年に奈良県の飛鳥池遺跡にある7世紀後半の地層から見つかった「富本銭(ふほんせん)」が、最も古い貨幣と認められました。

近年は、「鎖国」や「士農工商」も、その後の研究の結果、教科書に登場しない傾向だそうです。
日本史においては、新しい歴史的発見があったり、研究者の間で議論が進むと、教科書の内容は更新されるのですね。

昔の知識や記憶が通用しなくなるのは残念ですが、人間一生勉強だ、ということですね。

189 用和為貴

国内における新型コロナウイルスに対するワクチン接種が、ここにきてスピードを増してきました。
北海道の奥尻島では、島内の高校生を対象に今月末にもワクチンの接種を始める方針であるとか、東京都新宿区では7月上旬から20代や30代の若者を優先的に集団接種を始めるとか、医療従事者や高齢者以外にも接種対象が広がる傾向を見せています。

とはいえ、現在接種しているのは、海外製のワクチンです。
世界的にワクチンの需要が高まるなか、海外から期待通りに安定供給される保障はありません。

しかし、日本ではワクチン開発に巨額な予算が投じられていないことや、安全性や倫理性の確認に時間を要することなど、国産ワクチンの早期開発は、まだ現実性を帯びていないようです。

アメリカでのワクチン開発に関して、興味深い記事がありました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be0246c317e42e6e18630519523d3b964946af7f?page=1

昨年5月15日、トランプ大統領は「オペレーション・ワープ・スピード(OWS)」に着手しました。
その内容は、正規の手続きを踏むと73カ月要する工程を14カ月に短縮し、「安全で効果的なワクチン3億回分を2021年1月1日までに供給する」ことをミッションに定め、具体的には、以下のような工夫が盛り込まれています。

  • 「複数のプロジェクトを並行させ、有望なものは開発途中から治験を開始する」
  • 「事前に3万人のボランティアを集めて、早期承認のためのデータを収集する」
  • 「治験の最中から生産に踏み切る」
  • 「ワクチンが完成する前から、配布と接種の準備を始める」

このあと、上記サイトでは、次のように続けています。

特に製品ができる前から生産に踏み切る、というのは文字通りの「見切り発車」である。後で「ダメでした」となるかもしれず、その場合は投入した予算が無駄になる。とはいえ、アメリカの総人口は3億3000万人。たとえワクチンが完成しても、それだけの数量を用意できなかったら意味がない。事態はまさに「ワープスピード」を必要としていたのである。 そこで開発しながら治験をし、治験をしながら生産し、その間に配布から接種の計画を立てておく。そうでないと間に合わないから。いやもう「後手後手」批判が絶えない日本政府とはえらい違いである。もっともこれと同じようなことを日本でやろうとしたら、官僚は「法律にありません」と首を振り、野党は「失敗したら誰が責任を取るんだ!」といきり立ち、マスコミは「税金の無駄は許されない!」などとのたまうことだろう。

政府への批判は様々取り上げられています。
縦割り行政が悪い、デジタル化が遅れている、過去の教訓が生かされていない・・などなど。

私も企業経営者の端くれとして、政府に申し上げたいことはたくさんあります。
しかし、批判・攻撃・咎立は、心をギスギスさせます。
コロナ禍は、人の素を暴くことになったとも言われています。
足元を見つめ、やるべきことをやり、心が乾かぬように日々過ごしたいと思っています。

将来を思い煩うな。 現在為すべきことを為せ。その他は神の考えることだ。

高校の倫理社会で学んだ、アミエルの言葉を思い出しました。

そんな中、日本政府が提供したアストラゼネカのワクチン124万回分が、4日午後、台湾の空港に到着したというニュースを耳にしました。

台湾では5月中旬から感染が拡大している反面、ワクチンの調達が難航しているそうです。
蔡総統によると「海外の製薬会社からのワクチン調達が中国の妨害で難しくなっている」とのこと。

台湾といえば、東日本大震災のとき、真っ先に救いの手をさしのべてくれました。

いただいた義援金は総額200億円以上。
震災翌日から台湾各地で募金活動が展開され、日本の5分の1に満たない約2,350万人という人口を考えたとき、その額の大きさに驚きます。

支援は義援金だけではありません。

震災から5日後、3月16日。
白いズボンと白い帽子、背中に蓮のマークをつけた紺色のジャンパーに身を包んだ一団が、茨城県・大洗町に到着しました。
台湾の慈済基金会日本支部の人々で、トラックと自家用車を連ねて、被災地の人々に温かい料理を振る舞ったのだそうです。

また、2カ月後の2011年5月から半年間、台湾政府交通部観光局は「台湾希望の旅」として、岩手・宮城・福島県の被災者1,000人を無料で2週間台湾に招待する支援を行っています。
そして、震災復興が本格化すると東北に直行便を飛ばし、震災後最初に旅行客を送ったのも台湾だそうです。

これらの支援には、2,400人余りの犠牲者が出た1999年の台湾大地震の当日に、救助隊を派遣した日本への恩返しの気持ちが込められているとも言われています。

ワクチン提供の続報として、支援を受けた台湾市民から、台北の日本台湾交流協会台北事務所(大使館に相当)にたくさんの花が届いたと知りました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1319642b83dcaafdd27ff82d68784b4147a90421

こういった国境を越えての助け合いは、心温まる思いがします。

「用和為貴」。
和を用って貴しと為す。
人と人が仲良く協力しあうことが最も大切であるということ。
十七条憲法の第一条にある言葉です。

花といえば・・。
先日、古くから付き合いのある紙問屋の営業さんから、胡蝶蘭が届きました。
プレートには「還暦祝い」の文字。
過日ご紹介した紅白まんじゅうに続いて、お祝いをいただきました。
ありがたいことです。

生まれて初めて頂戴した胡蝶蘭ですが、ネットで調べてみると、大切に育てると長く楽しめるようです。

風通しが良く、エアコンの冷気が直接当たらない場所に置く。
ラッピングは外す(写真にはまだ写っていますが)。
水は控えめに。

日々喜びを感じながら、注意事項を頭に入れて育てていきたいと思います。

188 真剣勝負

セガレが通う学校は中高一貫の男子校です。
毎年5月中旬には体育祭が行われ、白、赤、青、黄の4つの組に分かれて競います。

この色は入学時に言い渡され、卒業まで、いや、極端な言い方をすれば、一生「自分の色」になります。

学校全体を縦割りにし、それぞれに色を割り振って体育祭を行う学校は多いと思いますが、クラス替えなどに関係なく、中1で与えられた色に6年間所属するのは珍しいかも知れません。

そして、この色は、卒業後も非常に大きな意味を持っていて、先輩や後輩に会うと「何色?」と確認し合い、同じ色だと分かると、瞬時に親密度が上がるのだそうです。

さて、体育祭でこの色集団を率いるのは、四役と呼ばれる高校3年生です。
団長、副団長、応援団長、副応援団長で構成され、この4人がヒエラルキーの頂上に君臨します。

また、その他の高3メンバーがその脇を固め、「学担(学年担当)」として下級生の競技指導に当たります。
因みに、セガレは高2の学担を務めています。

学年別に決められた競技種目は毎年変わることはなく、種目別攻略法の奥義が、色ごとに引き継がれています。

もちろん、ルールの変更などにも対応しながら、毎年臨機応変に戦術は練り直されます。
早く走ることより慌てて失格にならないことに重きを置こうとか、多少のリスクを冒してでもタイムを詰めることを第一の目的にしようとか、下級生に細かな戦術を指示するのが学担の任務です。
どうしたら他の組を圧倒できるか、どうやって順位を上げるか、来る日も来る日も議論し、分析し、探究し続けます。

ですから、何度も思慮を重ねた末の戦法が見事にかみ合い、自分の担当競技が好成績を収めると、学担は涙して喜びを分かち合います。

いわんや、優勝の栄に浴した四役は、カラダを震わせて歓喜に浸ります。

ん・・、青春っていいですね。

そして、体育祭当日。
高3だけは、所属する「色」に髪を染めることが許されます。
ここでも、高3の心意気が爆発することになります。

ということで、セガレもこのようになりました。
所属の色は、見ての通りです。

年間を通じて、非常に重要な行事と位置づけられている体育祭ですから、間違っても「運動会」と呼ぼうものならひどく叱られます。

ところが、昨年はコロナ禍で中止を余儀なくされました。
過去、雨天による中止が一度だけありましたが、予期せぬ感染症のために中止せざるを得なかった昨年の四役の無念さは、推し量ることができません・・。

そして、今年。
2日に分けての分割開催に加え、OBや保護者、入学志望の小学生などの見学は許されず、無観客での開催ではありますが、ともあれかくもあれ、中止は回避することができました。
しかも、当初の予定を延期し、先生と高3が協議を重ね、ほかの学校行事予定を動かすなどの苦労の末に、開催に漕ぎ着けました。

幸い天気予報は悪くないようです。
学生生活の貴重な1ページになるよう、親として祈るばかりです。

最後に、日曜日の午後、ほかのお客さんの予約を全て断り、まるで我がことのようにカラーリングをしてくださった美容院「FRAU」の渡瀬先生に、深く感謝したいと思います。

187 有頂天外

今日はとても嬉しいことが2つありました。

1つは、松山英樹選手がマスターズを制したこと。
日本人初、アジア人初の快挙です。

優勝を決めた直後、テレビ解説の中嶋常幸プロと宮里優作プロ、そして実況していたTBSのアナウンサーが号泣していて、思わず私ももらい泣きしてしまいました。

松山選手のプレイが圧巻だっただけでなく、キャディを務めた早藤さんの行動にもスポットライトが当たっています。

それは、松山選手がウイニングパットを決めたあとのこと。

早藤キャディが、18番のピンをカップに戻した直後、帽子を取ってコースへ向けて軽く一礼したのです。

この姿を、アメリカのスポーツ専門チャンネルESPNなどがツイッターで紹介すると、たちまち世界へ拡散され、多くのリプライがありました。
「日本人はとても威厳があり、敬意を表する人々だ」など早藤キャディを称賛するものが大半でしたが、中には、批判的なツイートも見受けられました。

今、アメリカ国内ではアジア人へのヘイトクライムが急増し、社会問題になっています。
このタイミングで、日本人がマスターズチャンピオンになったことは、とても意義深いのではないでしょうか。

礼に始まり礼に終わる精神や、サッカーW杯の試合後にサポーターが席の周囲を掃除する礼儀正しさなど、私も日本人としてのスピリットを、改めて心に刻みたいと思いました。

そして、もう1つ。

普段から仕事をたくさん発注してくださるお客さんが、私の還暦祝いとして、紅白饅頭を態々お届けに来てくださいました。

箱を開けてみると、まん丸で大きな紅白のお饅頭が箱に収められていて、おめでたい感がいっぱいに溢れていました。

あんこ大好きな私としては、一度目にしてしまったお饅頭をそのまま箱に戻すことはできず、午前11時過ぎというのに、早速いただくことにしました。

ぎっしり詰まったあんこは控えめな甘さで、
「こういう時は、やっぱ和菓子だよなあ・・」
と幸福感もしみじみ味わいながら、白い方を1個ぺろりと平らげました。。

ずっしりと重たいお饅頭を電車で届けていただいた高橋さん、本当にありがとうございました。

私個人へのお祝いとして、仕事上のお客さんからいただき物をするのは、嬉しいというか光栄というか、本当に幸せなことです。

4月になって、仕事がやや落ち着いてしまいましたが、コロナに負けず、業務に邁進したいと思っています。