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099 桑原桑原

セガレの中学受験に際して、全国の天満宮を巡りましたが、菅原道真公と天満宮について、少し書き留めたいと思います。
(外山晴彦氏監修、成美堂出版発行「神社辞典」改変)

幼少より文武両面に才能を発揮した道真は、899年、右大臣にまで昇り詰めました。
しかし、宇多天皇を追い落とそうとする藤原時平と醍醐天皇の陰謀に巻き込まれた道真は、左遷された太宰府で、無実を訴えたまま生涯を終えます。

道真が亡くなった頃、京都では時平の早死にや御所への落雷など不吉な事件が相次ぎます。
更に疫病の流行や天候不順から来る飢饉など、様々な災害にも見舞われます。
これを無実の罪で道真を太宰府に左遷した天罰ではないかという声が出てきました。

結局、醍醐天皇の勅命が下され、919年、道真の墓所に創建された安楽寺が後の太宰府天満宮の始まりです。

太宰府天満宮は当初、無実の罪で左遷された道真の生前の功績を讃え、菩提を弔うためでしたが、年月が経つにつれ、藤原氏の陰謀による左遷という事実は忘れられがちになり、道真は才能溢れる学者にして政治家として記憶されるようになっていきました。
このため、太宰府天満宮の性格も、道真の御霊を鎮める神社としての性格は薄れ、道真の才能にあやかろうとする参拝者が多くなり、太宰府天満宮は学問の神様・菅原道真を祀る神社として崇敬されるようになっていきました。

一方、道真の死後、京都を襲った異変について、もっと詳しく記したいと思います。
(Wikipedia「菅原道真」改変)

菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。
まず、道真の政敵・藤原時平が延喜寿9年(909年)に39歳の若さで病死すると、続いて延喜13年(913年)には道真失脚の首謀者の一人とされる右大臣・源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死し、更に醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)が延喜23年(923年)に病死、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)が延長3年(925年)に相次いで病死。
さらには延長8年(930年)、朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言・藤原清貴をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)うえに、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。

恐るべし、道真公の怨念(笑)。
よくもこんなに悲惨な事件が頻発したものです。

ところで、道真公が怨霊となって、京の都中に雷を落とした折り、菅原家所領の地・桑原には何故か一度も落雷がなかったと伝えられています。
落雷よけの呪文「くわばらくわばら」は、この故事に由来しているのだそうです(諸説あり)。

菅原道真公は承和12年6月25日の生まれで、延喜3年2月25日に亡くなっています。
また、太宰府に左遷されたのが、昌泰4年1月25日とも言われています。
これらにちなんで、毎月25日を「天神さんの日」とし、全国の天満宮で縁日が行われています。
そして、1月25日、その年初めての縁日を「初天神」と呼びます。

そんな訳で、今日のブログは、落語の「初天神」で締めたいと思います。
(Wikipedia「初天神」)

良く晴れた1月25日、男が天満宮に参拝に出掛けようとした。すると、女房が息子も連れて行ってくれと頼む。男は、息子が物を買ってくれとうるさくせがむのが分かっており、乗り気ではなかった。しかし、折悪しく、外から息子が帰ってくる。
男は、どうしても付いて行きたいと懇願する息子をつっぱねる。
すると、ヘソを曲げた息子は、隣の親父の家へ出かけて行く。

『面白い話聞きたくな~い?あのね、昨日の夜の、うちのおとっつぁんとおっかさんの、おはなし』
男は、そんなことを外で話されてはたまらないと、大慌てで息子を連れ戻し、しぶしぶ初天神に連れて行くのだった。

天満宮への道を歩きながら、父は息子に買い物をねだるなと念を押す。
しかし、息子は
「ね、おとっつぁん、今日はおいらあれ買ってくれーこれ買ってくれーっておねだりしないでいい子でしょ」
「ああ、いい子だよ」
「ねっ。いい子でしょ。ごほうびに何か買っておくれよ!」
これでは、いつもと同じである。
息子がさまざまな果物を買えと催促するが、父は「体に毒だから」と無理な理屈で拒否する。
しかし、息子が余りにうるさいので口塞ぎのために、やむを得ず飴玉を買うことにした。
店先で売り物の飴を散々ねぶり回して吟味する父に、飴屋の親父もあきれ顔。
飴を買ってもらって御機嫌の息子は、飴を舐めながら歌を歌う。

二人は天満宮の参拝を終えた。息子は、凧を買ってくれるよう催促する。
「あの1番大きいのがいい」
「馬鹿だな、ありゃあ店の看板だい」
「売り物ですよ。坊ちゃん、買ってくんなきゃあすこの水溜りに飛び込んで着物汚しちまうってお言いなさい」
「変な入れ知恵すんねえ!」
父は、しぶしぶ凧を買い、天満宮の隣にある空き地に息子を連れて行く。

男は、凧揚げは子供時代に腕に覚えがあったことを息子に自慢し、まず自分がと凧を揚げる。
そのうち、男は、すっかり夢中になってしまい、息子が「凧を揚げさせてくれ」と脇から催促するのに対して、「うるせえっ!こんなもなァ、子供がするもんじゃねえんだい!」
と一喝して凧を渡そうとしない。
息子は、無邪気に遊ぶ父の姿を見て、
「こんなことなら、親父なんか連れてくるんじゃなかった」とぼやくのだった。

お後がよろしいようで。

098 堅忍果決

21日、神田明神で、新春の風物詩「寒中禊(みそぎ)がまん会」が行われました。
新成人が冷水を浴び、身を清める行事ですが、一般の方も参加できるようです。

私が到着したのは9時半頃でしたが、すでに多くの人がカメラを持ち、集まっていました。

並んで待っていると、10時の開始直前「参加者が走ってくるので一旦下がって下さい」と。
カメラを構えて、30分以上前から並んでいた人にとっては不満だったでしょう。
中には自分のポジションを守るために、その場から動かない年配の男性もいました。

すると・・・・、
「はいはい、どいて!下がれ下がれ!邪魔、ジャマ!!」
法被が似合うお腹デップリの下町のオジさんは、なかなかの迫力でした。

そうこうするうち、ふんどし姿の男性と、白装束をまとった女性が走ってきました。
そして、2周目、禊の場所に参加者が入ると、下がっていた見物人が一斉に動きました。
元々2列目にいた私は、要領よく最前列を陣取りました。
ま、周囲の平均年齢は明らかに私より上でしたから、当然と言えば当然の結果です(°▽°)

寒中禊を間近で見たのは初めてでしたが、これは真似できませんね。
水を頭から浴びるたび、気合のこもった声を上げる参加者の迫力に押されっぱなしでした。

粉雪が舞った一昨日に比べれば、昨日は幾分気温も上がりましたが、時折強風が吹き荒び、見ているだけでも足先が冷えてきました。
そんな中、もちろん参加者は裸足。
しかも、冷水は一度浴びれば終わりではなく、ローテーションして何度も浴びるのです。

私も少しは見習って、午後から気合いを入れて、残った仕事を片付けたいと思います。

寒中禊02

寒中禊01

097 意気阻喪

弊社の営業マン・F君が、先日資料をくれました。
企業の名刺に対する問題点をまとめた資料でした。

その資料によると、名刺の作成を印刷業者に外注している企業は、全体の66.7%。
何らかの方法で内製しているのは33.3%とのことでした。

2年前、4年前は、外注している割合が、68.2%、74.9%でしたから、印刷会社への依頼が年々減っているのが分かります。

そして、今日の読売新聞の朝刊に、こんな記事を見つけました。

日野市職員の名刺デザインに、実践女子大日野キャンパスで学ぶ学生の作品が採用され、10日にお披露目会が行われた。
同市では、経費削減を理由に1997年から職員の名刺の外注を取りやめ、職員が独自に作っていた。ところが、名刺に統一感がなくなる結果になったため、再統一を図ろうと、包括的協力協定を結んでいる同大に学生によるデザインを依頼した。
(中略)
日野のイメージカラーの緑、同大を象徴する古代紫を配色し、市の鳥カワセミと市の花キクをあしらっている。
デザインデータは職員に配布され、それぞれの名前を入力して庁内の印刷機で出力できる。

デザインの再統一を図るためにデザインを学生に依頼し・・

「フンフン、いいね。」
「内製したら、フォントや文字組みがバラバラになってしまうのは当然!」
「デザインの再統一、いい取り組みだね。」
「印刷業者の名誉回復に一役買って欲しいなあ。」

データを職員に配布し、庁内の印刷機で出力??

「なんだ、結局、印刷業者には発注しないのか・・・・。」
「印刷業者にとってハッピーエンドだと思って読んでいたのに、残念・・・・。」

せっかくの優れたデザインも、時間の経過と共に、結局バラバラなレイアウトになっちゃうぞ、なんて言うと、負け犬の遠吠えになりそうですね。
マーケットが年々狭くなっていく印刷業界の未来は、なかなか厳しいです。

印刷会社の代表でありながら、本業に関することをほとんど書いてこなかったこのブログ。
どうせ書くなら、もっと明るい話題にすれば良かった・・。反省。

096 羽化登仙

人間誰しもウィークポイントがありますが、私にとっては「お酒」でしょうか。

私は、まったく酒が飲めません。
「まったく」です。

「ちょっとなら平気だろ?」
よくそう聞かれるのですが、「ちょっと」もダメです。

以前、お客さんとゴルフに行ったとき、午前のハーフを38で回ったことがありました。
お祝いだから少しだけと、昼食時に瓶のキャップに半分くらい、日本酒を飲みました。
言ってみれば、文鳥が水を飲んだ程度でしょうか。
しかして、午後のスコアは、58。
すんでの所で、100叩きになるところでした。

下戸の原因は明白です。
父型の家系が、バリバリの下戸遺伝子を持っているのです。
当然、私の父も下戸。
祖父も下戸。
私の披露宴で、父方の親族の乾杯用シャンパングラスは、そのほとんどが飲まれることなく、注がれたままの状態で残っていました。

下戸であることで、得をした覚えはほとんどありません。
中でも最も面倒だったのは、大学時分の合コンです。

宴もたけなわの頃、決まって仲間の下宿へ車を取りに行くのです。
酔いつぶれたメンバーを、自宅へ送り届けるためです。
唯一のシラフ・私にしかできない、毎度の任務です。

しかも、自宅へ送り届ける女性に何かちょっかいでも出したら、後が大変です。
「ゴメン、酔ってて覚えていない・・・・」という言い訳は、ゼッタイに通用しませんから。

アルコールが飲めるようになりたい!という夢は、20代前半の頃に諦めました。
努力しても、こればっかりはダメだと・・・・。

ただ、著名人にもお酒を飲まない(飲めない)方が、結構いるようです。

大御所では、北島三郎さん。
若い衆を集め、先頭になって飲んでいるようなイメージがありますが、違うんですね。

的場浩司さんと、漫才のサンドイッチマンのおふたりも飲まないそうです。
ちょっと強面な方だと、ギャップに笑えますね。
その顔で飲めないのか?と私も若い頃しばしば言われましたが、そもそも「飲めそうな顔」の概念がわかりませんし、面構えとアルコール摂取量に相関関係がある訳ないですよね。

舘ひろしさんも意外です。
ブランデーグラスが似合う風貌と相反して、実は下戸なのだそうです。

泉谷しげるさんにいたっては、下戸だとはどうしても信じ難いです。
破天荒なキャラクターイメージとは、かけ離れていますね。

水谷豊さんも飲まないようです。
「下戸でもある」と、wikipediaで人物紹介されています。

B’zの稲葉浩志さんは酒は飲まない、タバコも吸わないとのこと。
学部は違いますが、彼は私の大学の後輩ですからね、親近感が湧きます。

羽化登仙。
羽が生えて天に昇っていくように、酒に酔って良い気持ちになること。
一生に一度でいいからこんな気分を味わってみたい・・・・、と切に思います。

095 白面書生

先週末、センター試験が行われました。
志願者数は、約576,000人だったそうです。

私が受験したのは、もう37年も前のこと。
当時は共通一次試験と呼ばれていました。
この試験が導入されるまで、国公立大学は一期校・二期校の中から各1校受験できましたが、共通一次試験によって、1校だけしか受験できないことになりました。
しかも、試験は「5教科7科目、1,000点満点」という、なかなか過酷なものでした。

昭和55年1月12日、試験初日の朝、忘れもしない出来事がありました。
寝ていた2階から階下へ行き、居間のドアを閉めながら「おはよう!」と挨拶した瞬間、入口に提げてあったカレンダーがストーンと落ちたのです。
「おはよう!」「ストーン!」の見事なタイミングは、まるで吉本新喜劇のようでした。
絵に描いたような縁起の悪さに、思わず笑うしかなかったですね。

受験会場は東京大学でした。
東京大学受験しているのであって、東京大学受験している訳ではなかったのですが、構内に入ると「よし、大学生になるぞ!」と気分が高揚した覚えがあります。

ただ、自己採点の結果は、目標の780点には遥かに及ばない、732点でした。
二次試験の出願校判断のため、某予備校に結果を提出したら、化学の偏差値が32でした。
順位は、およそ119,000人中、109,000位。
今年に当てはめれば、576,000人中、527,600位ですか・・・・。
理科は苦手でしたので好成績は望んでいませんでしたが、さすがにこれはショックでしたね。

私は、共通一次試験導入後、2年目の世代です。
従って、大学1年生のとき、1,2年生は共通一次試験組、3,4年生は一期校・二期校組でした。
一期校の東大を目指していたのに、何かの間違いで二期校の横浜国大に入ってしまった上級生と、マークシート方式で答案用紙を適当に塗りつぶす共通一次試験を経て入学した下級生。
出来の違いは、極めて明白でした。

ある講座では、担当教員から真顔でこう言われたこともあります。
「今年の生徒は共通一次試験組ですね・・・・。じゃ、試験問題は易しくしてあげますか。」

「ゆとりですがなにか」の昭和版ってところですかね。

おつむの出来は素晴らしい上級生たちですが、反面、ルックスの悪さも特筆ものでした。
薄汚れたジーンズ、何日も着続けているTシャツ、すり減ったサンダル、黒縁メガネ・・・・。
大変に優秀な先輩たちでしたが、まったく憧れの対象にはなりませんでした(笑)。

そういえば、今年のセンター試験は、今季最強寒波の襲来に見舞われましたね。
私も受験の時、寒さ対策にと、股引を履かされました。
ところが、普段履き慣れないために、下半身の暑さが妙な違和感となりました。

股引は、今や冬の必須アイテムとなったワタシ。
時代の趨勢を感じます・・・・。

094 合縁奇縁

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

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上の写真は、昨年も紹介した弊社近くの深川資料館通り商店街に毎年出現する正月飾りです。
どんなイラストが飾られるのか、私の年末の楽しみになっています。
今年は、大きなニワトリのバックに雪をかぶった富士山。そして、松竹梅が描かれています。
江戸時代に貯木場として栄えた地に相応しい、新年に打って付けの目出度い装飾ですね。
お正月を彩ってくれる、地元商店街の皆様に感謝したいと思います。

話は変わりますが・・、
去る1月3日、セガレが1年前まで通っていた学習塾へ、久しぶりに顔を出しました。
目的は、中学受験がすぐ間近に迫った現役生を励ますためです。

自分が生徒の時にも、折に触れて先輩方が激励に来てくれたそうです。
合格の秘訣や失敗談を話してくれたり、入学後の中学生活について聞かせてくれたり、帰り際には、お菓子を配ってくれたのだそうです。

この時期、世間がお正月モード全開なのに対して、「正月特訓」真っ只中の現役生は、お正月気分に浸ることも許されず、塾の休みは元旦だけ。
セガレが受験生の前で有益な話ができるとは思っていませんが、受けたご恩をお返しし、人のために時間を使うことの大切さを教えるには絶好のタイミングと思い、差し入れ用に合格祈願の定番お菓子「キットカット」を買って、塾に向かわせました。

塾が指定した時間は、午前最後の授業がそろそろ終わりに近づく頃でした。
セガレの出番は、生徒たちがお弁当を食べ終わり、午後の授業が始まるまでの時間帯です。
時間が来るまで事務室で待機し、その後、教室で15人ほどの後輩の前で話をしたそうです。

自宅に戻ってから話を聞くと、事務室で待っている間、塾長をはじめ、多くの先生方がセガレを覚えていてくれて、様々お話しが出来たのだそうです。
11ヶ月ぶりに顔を出した卒業生を快く迎えてくれ、先生と生徒という関係でなくなった今もご縁を繋げてくださったことを、とても有難く思いました。

また、偶然にも塾長はセガレの学校の先輩にあたりますので、塾長が通っていた頃の学校と現在との違いなどについて、具体的にお話し出来たことも楽しかったようです。

かつて、遊びたい盛りの小学生を塾に通わせることの是非について迷ったこともありますが、我が家にとっては間違っていなかったのかな、と思いました。

「ご縁」という言葉が私は好きです。
英語にすると「meeting」とか「chance」などが該当するのでしょうか。
でも、微妙なニュアンスが伝わらないですね・・。
やっぱり、日本人に生まれて良かったな、と思います。

093 箱根駅伝

お正月の風物詩・箱根駅伝が、来年も1月2日と3日に行われます。
陸上競技にそれほどの興味はないのですが、何となく箱根駅伝だけは見てしまいます。

次回は数えて第93回目。
青山学院大学の3連覇なるか、に注目が集まっています。

ご存知の通り、正月の本戦に出場するためには、前年の大会でシード権を獲得するか、予選会を勝ち抜かなければなりません。

この予選会は、駅伝のように襷をつないで走るのではなく、20kmのコースを一斉に走ります。
各チーム14人までエントリーが可能で、そのうちレースに出場できるのは12人まで。
そして、上位10名の合計タイムが少ない10校に、出場権が与えられます。

今年の予選会は10月15日に行われたようで、何気なく結果表を見ていました。
すると、我が母校(横浜国立大学)も参加しているではありませんか。
元々スポーツの盛んな大学ではないので、予選会に出られる部員数がいることに驚きました。

とはいえ参加選手はギリギリの10人。
全員のタイムがそのまま結果に反映されますし、何より誰か一人でも棄権をしたらアウトです。
条件は厳しいですね。

結果は・・、
参加50チーム中、45位。タイムは、11:41:02。
46位以下は、上智大学、茨城大学、高崎経済大学、東京工業大学大学院、東京大学大学院なので、勝った「大学」は3校だけということになりますか・・・・。
埼玉大学や一橋大学、東京学芸大学など近隣の国立大学には、来年リベンジして欲しいですね。

過去の記録も気になって調べてみると、
2015年:49校中42位、11:31:04。
2014年:48校中38位、11:27:25。
2013年:44校中34位、11:22:10。
2012年:45校中33位、11:31:09。
2011年:40校中32位、11:39:36。

出場校数にばらつきがあるので、単純に順位だけで比較はできませんが、今年は大きくタイムを落としてしまったようです。
来年からは、正月の本戦だけでなく、予選会での母校の活躍にも目を向けたいと思っています。

092 千変万化

初詣に関して、ちょっと衝撃的な報道を目にしました。
東京都港区の愛宕神社が、1月4日限定で、初詣の賽銭を電子マネーで受け入れるのだそうです。
以下、ニュースの抜粋です。

電子マネーの導入は、「楽天エディ」を展開する楽天側が提案した。
当日は楽天が無償で読み取り端末1台をレンタルする。
通常、決済ごとに加盟店からもらう決済手数料もとらない。
午前8時から日没ごろまで、本殿前に常設されている、さい銭箱の横に端末を置く。
参拝者は好きな金額を1円単位で入力。自身のカードや携帯をかざすと決済される。

愛宕神社は虎ノ門ヒルズの近く、都会のど真ん中にあります。
また、自然の地形としては東京23区でもっとも標高が高い愛宕山の山頂に鎮座しています。
総本社は京都の愛宕神社で、防火・防災に霊験のある神社として知られています。

愛宕神社01

偶然ですが、一ヶ月ほど前に、私もはじめて参拝しました。
参道には急な石段があって、「出世の石段」として知られていますが、噂に違わぬ急階段でした。

愛宕神社02

それにしても、お賽銭が電子マネーですか・・・・。
スゴイ時代になったものです。
賽銭泥棒が、成り立たなくなる訳ですね。

そのうち、拝殿で手を合わせている横から「ワオン!」なんて音がしたりするのでしょうか。
御朱印がプリンター出力、なんてことにはならないで欲しいなあと思ったりします。

愛宕神社03

091 忙裡偸閑

ちょっとハードだった週末が終わりました。

一昨日の金曜日夜・・・・、
19時から定期刊行物の編集会議があり、終わったのは22時ちょっと前。
土曜日は早朝3時50分に起床し、館山で行われたお客さんのゴルフコンペに参加。
プレイ後は、毎年お借りしている某企業の研修所へ全員で宿泊。夜は表彰式&宴会。
日曜朝、大半のメンバーが疲労と酒の影響で爆睡中の午前5時、館山を出発して会社へ・・・・。

充実感たっぷりの週末でした。
正直疲労感もありましたが、気合いを入れて取り組むと、予定よりも早く仕事が片付きました。
そこで、念のため用意していたカメラを手に、浅草へ出向くことにしました。

目的は羽子板市です。
浅草寺の境内で、毎年この時期に開催されているようですが、私は初めて訪れました。

予想はしていたものの、仲見世通りは思うように歩けないほどの混雑でした。
やはり、外国人の姿が目立っていました。

人波に飲まれながら仲見世通りから宝蔵門を過ぎると、羽子板を扱う露天が見えてきました。
たくさんの露天の前は、どこも人であふれていました。

あちこち見て回るうち、多くの店で、正札が表示されていないことに気付きました。
私のように不慣れな者が買うには、ややハードルが高いかな・・とも思ったのですが、どのお店の人たちも、とても親切に接客していました。
日本の年末らしい、風情ある光景に、すっかり疲れも忘れてしまいました。
こういった風物詩は、いつまでも続いて欲しいものです。

羽子板市

090 尊尚親愛

突然ですが「中村先生」について書きたいと思います。

中村先生とのお付き合いは、かれこれ15年以上になりますでしょうか。

ある仕事が発注元の周辺では処理しきれず、回り回って中村先生に頼らざるを得なくなりました。
それは、端的にいえば、通常業務を煩わせる以外の何物でもない、極めてご迷惑な案件でした。
そして、第三者が間に入るより、印刷担当だった私が直接お伺いした方が早かろうとのことで、
先生と初めてお目に掛かった次第です。

要するに、
私は、
面倒な仕事を舞い込ませた見知らぬ印刷屋、なのでした。

そんなどこの馬の骨かも分からぬ厄介者に対し、中村先生はご自身が担当される学問について噛み砕いて詳説してくださいました。
それは、浅学の私には思いもよらない内容で、まさに目から鱗でした。
そのとき受けた感銘は、今も鮮明に覚えています。

以来、先生は職場を移られても、名刺のご注文を私にくださいます。
しばらくご無沙汰をしても、私を信頼して仕事をご用命いただける・・・・。
そこに深い深い欣びを感じます。

さらに、近年は、仕事を越えた有難いお心遣いを頂戴しております。

先日は、先生の発表された論文のPDFを頂戴しました。
印刷する立場ではなく、読む側として論文と向き合ったのは、とても新鮮でした。
難解なところに出くわすたび、「先生!難しい!!」と心の中で小さく抗議しながら読破させていただきました(笑)。

そして、本日、りんごをご寄贈くださいました。
私のような一業者が贈り物をいただくとは、身に余る光栄という表現では事足りません。

しかも、先生と私は同い年であることを知りました。
こんな奇縁もあるのだなあと、感慨深く、そして、胸躍る思いに包まれました。

尊敬できる方に出会えるチャンスは、人生でもそう多くはありません。
その機会が仕事を通じて得られたことを、本当に有難く思います。

中村先生は私の尊敬の的であり、そのご活躍は、大きな刺激を与えてくださいます。
これからも末長くご高誼に与りたいと、切に願っています。