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009 華燭之典(3)

最近、披露宴を行わないカップルが多いようですね。
ちょっと前は、媒酌人を立てない披露宴が多いと聞いていたのですが、披露宴そのものが少なくなってきたようです。

私の場合は、大学時代の恩師に媒酌人をお願いして、披露宴を行いました。
披露宴をしない、という選択肢はなかったですね。

披露宴には110人以上の方にご参列いただきました。
司会は以前紹介した私の友人の「プロフェッショナル」にお願いしました。

友人からは、
「お前、みっともないから泣くんじゃないぞ。」
「カミさん、普段から泣き虫だから、絶対に泣くだろうな」
などと冷やかされていましたが、ふたを開けてみると、終始笑顔笑顔でした。

だって、100人以上の人達が、我々を祝福するために集まってくれて、何をするにも我々が主役なんですから、それはそれは至福の境地でした。
正に自分たちを中心に地球が回っていると勘違いしそうな一日でした。

余談ですが・・、
披露宴にお招きした人数は新郎側:新婦側=6.5:3.5くらいの比でしたが、私側は友人が多く、カミさんは親戚の方が多かったので、集まったご祝儀は、新婦側の圧勝でした(笑)。

さて、友人の披露宴で司会や余興を数多く担ったことは既にお話ししましたが、仲人はこれまでに一度だけ経験しました。

仲人といっても、ハワイで挙式を挙げた後輩夫婦に付き添ったというもので、昔ながらの厳密な仲人とはほど遠いですね。

オアフ島のちょっと小高いところにある小さなチャペルで挙式をしました。
参列者は、新郎側が我々夫婦2人、新婦側は新婦の女友達2名でした。
式の夜は、アランウォンズという有名なレストランで食事会をしました。
少人数でしたが、アットホームでとても思い出深い一日となりました。

 

それから、披露宴で乾杯の発声も、かつて一度だけ仰せつかりました。
当時、弊社に入社まもない男性社員の披露宴で、職場の上司という紹介でした。

上司といっても、まだ弱冠32歳。
乾杯って、もっと年配の方が似つかわしいですね。
自分にはちょっと場違いな感じがしました。

因みに、その時の仲人は私の両親でした。
そうです、父と母の前で、乾杯の発声をした訳です。
そういう意味でも、ちょっとこそばゆい乾杯でした。

最後に、
私がこれまで唯一の仲人を務めたそのカップル。
残念ながら、今、ふたりは他人になってしまいました・・。
我々夫婦は、仲人に関しては「持っていない」みたいです・・。

008 華燭之典(2)

先日の続きです。

「生ビールがあるじゃないか♪」
は小学校時代の友人の披露宴でした。
新郎側ではなく、新婦側の友人です。 

あ、正確には新郎新婦ではなく、新郎妊婦だったのですが(笑)。

そしてこの妊婦、じゃなくて新婦。
職業は司会者なのです。
披露宴やイベントなどでバリバリ活躍中のプロの司会者なのです。

当然、職場の方々も招かれています。

なのに、二次会の司会を、私にやって欲しいというのです。

「披露宴のスピーチはやるよ。でも司会はダメだよ、いくら二次会でも」

謹んでお断りしました。
当然です。
プロの司会者がたくさんいる前で、素人の私がどうして司会を務めることができましょう。

「披露宴の司会は、プロの仲間に交替でやってもらうの。でも、二次会はプロに頼みたくないの。お願いっ!」

新婦の押しに負けて、結局引き受けることにしました・・。

恥をかいてもいいや。
所詮素人なんだから。
プロのようにできるわけがないのだから。

文字通り開き直りました。

そして、二次会は始まりました。

その二次会でもうひとつ、私は大役を担っていました。

イメージビデオです。

なぜ私が制作することになったのか、正確な経緯は定かではありませんが、画像の編集が好きだったことが高じて、引き受けることになったのでは・・。

内容は、新婦の幼少時代から現在までの写真をつなげたスライドショーです。
しかし、当時はPCソフトでさくっと制作、という時代ではありませんでした。
ビデオデッキにまず音楽を録音し、それから音に合わせて静止画を取り込み、テロップはタイトラーいう専用マシンで入れる、という手間のかかる作業でした。

二次会の中で皆さんにご披露しました。
自分で作った映像を人前で紹介するのは初めてでしたから、非常に緊張しました。
上映中は、妙な汗が止まりませんでした。

上映が終わると、皆さんから暖かい拍手をいただき、ホッとしました。
すると、新婦のお父さんが、泣きながら私に握手を求めてきました。
「感動したよ!やるやるとは聞いていたけど、やるねえ、山田くん!」
新婦の父は、やや酔っぱらっているようでした(笑)。

そして、二次会のエンディング。司会の大役もそろそろ終わりです。
参加者みんなでアーチを作り、新郎新婦を祝福するという企画がありました。

「それでは皆さん、ここから2列に並んでいただけますか?」

と皆さんにお願いをしました。
列が長くなっていくと、ついに会場の反対側にぶつかってしまいました。

・・・反対側までいったら、こちらへ戻るように並んで下さい・・・

頭の中にそんなセリフが浮かびました。
でも、ダメです。禁句です。
「戻る」はNGワードです。

披露宴で使ってはならない言葉って結構あるんですよね。
別離を連想させる「別れる」「切る」「割る」「去る」「帰る」。
再婚を連想させる「戻る」「繰り返す」などなど。

「戻る」がダメなことは認識していました。
「お席にお戻り下さい」ではなく「お席にお着き下さい」と言うんだぞ、とシミュレーションもしていました。

しかし、今回は状況が違います。
向こう側からこちら側に戻ってこなければならないのです。
「こちら側へ戻る」以外になんて表現すればいいのか・・。
「こちら側へ帰ってきて・・」
あ〜、これもダメ。

頭の中、真っ白になりました。
私は適切なボキャブラリーを持ち備えていませんでした。

結局・・・、
「向こう側までいったら、こちら側へ戻るように並んで下さい」
マイクでしゃべってしまいました・・・。

そうしたら、私の近くにいた新婦の職場の同僚、即ちプロの司会者の方が・・・、

「今、司会の方がおっしゃったように、向こう側の壁まで到着したら、
 こちらへUターンして並んで下さい!」

まいりました・・。
脱帽、なんて表現では足りません。
その見事なタイミング、しかも、私に配慮した、優しい言い回し・・。
プロはやっぱりすごかったです・・。

お開きになってから、その方にお礼を申し上げに行きました。

・・口にしてはいけない言葉だとは知っていました。
でも私には適した表現が浮かびませんでした。
助けていただいて有難うございました・・。

すると、

「NGワードと知っているだけですごいことです。全体的にとても立派な司会ぶりでした。間の取り方が上手で、我々プロも勉強になりました。」

上手だったはずがありません・・。
立派な訳がありません・・。

上から目線という言葉がありますが、そんなかけらもありませんでした。
こういう所作ってステキだなあ、と感じました。

あれから、20数年。
まだまだ年齢相応の分別がない自分に、ハッとする思いです。
深く自省が必要です・・。

007 横浜国大

今日は土曜日でしたが、出勤しました。
普段は朝5時に起きるのですが、今朝は6時。
ちょっとだけ朝寝坊して出勤しました。

朝刊を読むヒマがなかったので、帰宅してから読みました。
すると、主婦と生活社から「CHANTO」という雑誌が創刊され、表紙は「阿部哲子さん」だという広告が目に入りました。

阿部哲子さんって、元・日テレのアナウンサーで、たしか、私の大学の後輩じゃなかったっけ?

調べてみるとやはりそうでした。
15年以上離れていますが、横浜国立大学経営学部卒業のようです。
私の、もろ、後輩です。

うちの大学の卒業生、たま〜にテレビで見ることがあります。

例えば、オリラジのあっちゃんと結婚した福田萌さん。
この方も横浜国立大学経営学部卒業。

それから、眞鍋かをりさん。
この方は横浜国立大学教育人間科学部卒業。

また、俳優の加藤雅也さんとB’zの稲葉浩志さんは、ともに教育学部卒。
元・国土交通大臣の馬淵澄夫さんは工学部卒。
今大人気の俳優・西島秀俊さんは工学部中退とか・・。

小さな大学なので、仕事先で先輩後輩に巡り会うことは希有です。
しかし、一度だけ、偶然先輩と遭遇したことがあります。

その方は、車関係の一部上場企業のお客さん・M部長さんです。
ちょっと話しかけづらい雰囲気を持った方で、まだ若かった私は、とても冗談など口に出せませんでした。

あるとき、納品した商品に対して、ちょっとしたトラブルになりました。
私としては問題ないと自信を持っていましたが、M部長さんは不満を抱き、何度かご説明に上がりましたが、解決には至りませんでした。

「結構泣いてる業者さん、いるよ・・」とは部下の女性Kさんの話。

ちょっと重たい気持ちのまま、この日もM部長を訪ねました。
すると、部長の机の端に見たことのある冊子が置いてありました。

「んん?うちの大学の同窓会誌じゃないか???」
意を決してお聞きしました。

「M部長、ひょっとして横浜国大のご卒業ですか?」
なんでそんなことを聞くんだ、と言わんばかりの険しい表情。

「あの、私、昭和59年経営学部卒業なんです」
すると、M部長が今まで見たことのないような笑顔で私を見ています。

「おい、コーヒーでも飲むか?」

その後は言うまでもありません。
大学の後輩として、私をすごーく可愛がってくれました。

やっぱり学校の先輩後輩って、時を超えた絆があるんですね。

逆に、もし同じ大学の繋がりがなかったら、M部長とどうなっていたのか・・。
考えると、今でも冷や汗がでますね。

宮本部長、有難うございました。
(思わず本名で書いてしまった・・。)

006 華燭之典(1)

6月になりました。
6月といえば、梅雨、夏至、株主総会、日本ダービー・・。

そういえば、June Brideなんて言葉もありますね。
皇太子様と雅子様とご結婚されたも、たしか6月だったと思います。

思い返してみると、私は友人の結婚式に25回ほどお招きいただきました。
回数として多いのか少ないのか、平均値はわかりませんが、大学を卒業してすぐにオヤジの会社(零細企業)に入社した私には、会社の同僚という存在がおりません。
従って、出席したほとんどは、仕事とは関係のない友人の披露宴です。

そして、特徴的なことがひとつあります。

何もしなかった披露宴が、「2回」しかないのです。

何もしないというのは、司会・祝辞・歌など何の役目も仰せつかることなく、食事を楽しみ、新郎新婦の門出を祝福していればよい、という意味です。

何かしら、お手伝いをしたことの方が圧倒的に多いのです。

これまでで最も印象的だったのは、小学校の友人の披露宴&二次会。
まず、披露宴では「余興」をリクエストされ、しかも真面目なのはNGだと。
楽しいものにして欲しいと。
格調高いものを求めるなら私にお鉢が回ってくることはありえないので、当然と言えば当然です。

いろいろ考えました。
年齢に関係なく、会場の皆さんが喜んで下さる一芸はないものかと・・。

思いついたのは、当時流行っていた、キリンビールのコマーシャル。
女優の鈴木保奈美さんが草野球のキャッチャーに扮して出演していて、バックに流れていたのは細川たかしさんの「応援歌、いきます」という曲。

「生ビールがあるじゃないか♪」

覚えていませんか?
あっ、1991年5月発売の曲だから、若い人はムリですね・・。

で、話は披露宴に戻ります。

司会者から紹介を受けて、マイクの前へ進み、まず、服装のお詫びをひとこと。
私は背広の襟を立てて片手で押さえ、シャツが見えないよう隠していたのです。
あとで理由が明らかになるので、もうしばらくこの状態でお許しを、と事情説明。

そして、祝辞をスタート。
仲間しか知らないエピソードを交えて、面白可笑しくお話ししたら少し笑いもとれて、
出だしは上々かと・・。

頃合いを見計って、カラオケをスタート。
そこで歌わせていただいたのが、前述の「応援歌、いきます」。

細川たかしさんの歌ですから、当然演歌です。
しかも、サビの部分はCMで有名でしたが、歌い出しはあまり知られていないようで
「このあんちゃん、なんで演歌を歌い始めたのやら」みたいな雰囲気が満ちあふれ・・。

そして、歌がだんだんサビに近づいてきました。

そう、襟を立てていたのは、このサビのためでした。
実は、出番の30分前にトイレに行き、礼服の下に、当時所属していた草野球チームのユニフォームを着ておき、見えないように隠していたのでした。

CMで有名な「生ビールが あるじゃないか♪」の歌詞の寸前、背広を脱ぎ、ユニフォーム姿を披露。
もちろん忍ばせておいた揃いの帽子も着用。

「あ〜、保奈美ちゃんがユニフォーム着ているビールのCMの曲だあ!」

会場のほとんどの方がわかってくれたようでした。

そして、2番のサビでは、ユニフォームを一枚脱ぎました。
そうなんです、夏用と冬用の2枚のユニフォームを重ね着していたのです。
もちろん、帽子も重ねてかぶっていましたよ。

自分で言うのも何ですが、会場は結構盛り上がってくれました。
結構時間を掛けてプランニングしたので、報われた感じがしました。
しかも、出番が来るまで、結構暑い思いをしていましたから。
背広の下に、ユニフォーム2枚ですから。
しかも、片手は押さえていたから使えないわけで、料理食べるのも不自由でしたから。

でも、皆を笑わせる、周囲を和ませるって、ステキなことですよね。
零細企業の社長として、会社の雰囲気を良くすることに努めないといけないと思いますね。

そうそう、例の「応援歌、いきます」の歌詞に「ぐっといこうよ 中村くんよォ」というフレーズがあります。

ここ、新郎の名字に歌詞を変更して歌ったのですが、ちょっと古典的でしたね(笑)。

そしてこの披露宴、二次会でもいろいろありました。
後日、書きたいと思います。

005 福山雅治

今日は土曜日。
東京ガスの方がマンションに来て、ガスレンジ等の交換について10時から説明会を開くことになっています。

新築時に引っ越してきて早10年以上。
いろいろガタがきています。

「あー、いろいろ重なるんだよねー。」
と、うちのカミさん。

「何が重なるの?」

「今日福山さんのコンサートチケット発売なのよ、10時からなのよー。」

ガスの説明会とモロかぶり。
以前、親戚の告別式と発売日が重なったこともあるらしい。

「とーさん、一応置いておくね♥」と、新聞の切れっ端。
そこに書かれていたのは、「福山雅治HUMAN キャンセル分チケット発売決定!」。

キャンセル分って、何枚あるのやら・・。
ま、朝からしていた仕事も一段落したので、電話してあげるか。

10時ジャストからコードレスの子機でダイヤル。
当然つながるはずがない。
スマホも持ち出して、2台操作。
テレホンオペレータみたい、なんて思いながらリダイヤルの嵐。
しかも、説明会に行ったはずのカミさんは掃除機かけてる。
「ったく、オレに委ねるなよ・・。」

10:04。

「ガイダンスに従って操作して下さい。」

「かーさん!つながったよー!!!」
気がつけば掃除機に負けないほどの大きな声をだしている自分。
いい歳してオヤジも少なからず興奮状態。

結局S席2枚、チケットが購入できました。
カミさん、少女のように小躍りして喜んでいたなあ。
まあ、いいことしたんだろうなあ・・。
今夜の晩飯、一品増えるかなあ・・。

004 杞人天憂

私、スタバが大好きです。
「グランデサイズのカプチーノ、低脂肪で」
これがいつものセリフです。

今日、日本橋近辺のスタバに行きました。
注文を終えて商品を待っていると、私の前には大柄な外国人男性。
最初は、ふつーに待っていたのですが、突然カウンターに肘をついて、そう、「クイズ100人に聞きました」の関口宏のように肘をついて、店員さんに話しかけました。

話しかけられたのは、20代前半と思しき女性店員さん。
ワタクシ、とっさに思いました。

「店員さん、どうするんだろう・・・」

そしたらその女性店員さん、そんな私の心配をよそに、ネイティブに負けないくらい流暢な発音で、見事な会話のキャッチボールをはじめました。
それはそれは見事なイングリッシュでした。

ハバ ア ナイスデー!

なんて会話を最後に、外国人男性客は笑顔で店を出て行きました。
残されたワタクシ、なんとなく、敗北感を感じていました。

もしかして、あの店員さん、日本人じゃないとか?

ひねくれた、そして根拠レスな思考が頭に浮かんだその時、
「グランデサイズの低脂肪ミルクでお作りしたカプチーノお待ちのお客様ぁ」

ああ、私だ。
しかも、日本語上手・・。
ネームプレート見たら、
「Mariko」。

まちがいなく大和撫子でした。
素敵な店員さんでした。

003 質素倹約

突然ですが、日本で最も有名な印刷会社ってどこでしょうか?
凸版印刷?大日本印刷?

私は朝日印刷所だと思うのです。
朝日印刷所は東京都葛飾区柴又の印刷屋で、社長は桂梅太郎氏です。

???????
答えは、映画「男はつらいよ」に登場するタコ社長経営の印刷屋です(笑)。

社長は一年中、景気が悪い、景気が悪いと嘆き、常に金策に追われています。
また、寅さんの妹・さくらの旦那さんはここの職人さんです。
インキで汚れたグレイの暗い作業着で一生懸命働き、つつましく生活する。

これが日本の印刷屋の象徴的な姿だと思うのです。

でも、今は朝日印刷所のような活版印刷はほとんど姿を消し、デジタル全盛です。
印刷機を扱う者も、職人よりオペレータという表現が適切かも知れません。

でも、あの時代も、悪くないですね。

活版印刷。

ちょっとの直しだって、結構大変でした。
まさに職人技がそこにはありました。

今の若い人達は、文選(ぶんせん)なんて知らないんだろうなあ・・。

002 時機到来

昨日、プロ野球が開幕しましたね。我が家では夫婦揃ってジャイアンツファンです。
ファンクラブの会員でもあります。
昨年は東京ドームに一度しか観戦に行けませんでしたが、今年はもう少し足を運びたいものです。

さて、新聞等で「球春」という言葉をよく目にします。

これ、私のMACでは変換できません(ATOK使用)。

新聞の見出しにもよく見かける言葉ですが、どういう意味なのか調べたところ、
「プロ野球が、キャンプやオープン戦を手始めに開始される春の時期」とありました(goo辞書)。

ってことは、今頃を表す言葉ではなくて、一ヶ月くらい前を指しているんですね・・。
勉強になりました・・。

ジャイアンツは10年振りにタイガースとの「伝統の一戦」で開幕を迎えました。
昨日は逆転勝利。
今日は5回を終わって1点ビハインドだけど、2戦連続逆転勝利!にならないかなあ・・。
あっ、6回裏、先頭打者ロペスがツーベース。

PC閉じて、応援しようっと。

001 自己紹介

はじめまして。
零細印刷会社・代表取締役の山田です。まずは、カンタンに自己紹介を申し上げます。

昭和36年10月、日本橋の産院で産声を上げる。
東京都北区田端で9年間過ごした後、文京区千石へに移り、34歳の秋まで千石で暮らす。
東京都葛飾区で生まれ育った妻の実家では、自身を「山の手のお坊ちゃま」と称す。
高校1年生の時、父が独立して印刷会社を起業。
大学受験に際しては、将来のためにと経営学部を選んだものの、授業では刑法に目覚めて隣の経済学部の授業を履修、ゼミナールは海上保険を選択と支離滅裂の果てに、成績表には美しいほどに「可」を並べ、入社試験のなかった父の会社に入社。
40歳の頃、社長に就任。現在に至る・・・。

日々仕事に忙殺され、果たしてどのくらいのペースで公開できるのか甚だ疑わしいのですが、よろしくお願いいたします。