健康」カテゴリーアーカイブ

181 鳶目兎耳

若い頃、視力には絶対の自信がありました。

車を運転していると、同乗者が驚くほど遠くの標識が識別できました。
また、大学時代は試験中に周囲の答案を拝覧し、単位取得にずいぶんと役立ちました。
視力検査で1.5以外を計測した記憶はありません。

一方、聴力にも長けていたと思います。
目を瞑って集中した時は、人並み以上の知覚能力があったと自負しています。

ところが、30代後半で老眼の症状が現れ、今は食事の際も老眼鏡が手放せません。

そして、数年前から、補聴器も使用するようになりました。
補聴器無しでは生活できない、というレベルではありませんが、左耳が軽度の難聴です。

補聴器は大きく分けて「耳かけ式」と「耳あな式」がありますが、私は耳かけ式を使用しています。
下は、私が使用している補聴器のメーカー・Widex社の公式サイトに掲載されているイラストです。

出典:https://www.widexjp.co.jp/ha_choice/about/features.html

①のマイクで音を拾い、ベージュ色で表示された本体部分にアンプの機能が内蔵されていて、⑤のレシーバーから音が出る仕組みです。

私の補聴器の本体部分の長さはおよそ2.5cmですから、小豆大のサイズといったところでしょうか。
非常にコンパクトなサイズです。

小さいだけではなく、色も10種類以上ラインナップがあります。
赤やグリーンといった女性を意識した色もあり、肌に同化したベージュ一辺倒だったひと昔前とは全くの別物、と言えるかと思います。
因みに、私の補聴器はグレイです。

装着方法は、本体部分を耳の後ろにセットし、釣り糸のような細いチューブで繋がったレシーバーは耳の穴に入れます。
本体は耳の裏側ですから、顔の正前からは見えませんし、髪が長い人なら完全に隠れてしまいます。
私も本体が隠れるように髪を少し伸ばしたこともありますが、某オフィスの庶務課長さんから「変な髪型してるね、鏡見た?」とイジられて以来、要らぬ抵抗は止めました。

ところで、今年は私のような耳かけ式補聴器のユーザーは、すこぶる困った事態に陥っています。
マスクを外す際に、補聴器が耳から外れてしまうため、私は8ヶ月以上補聴器が使用できずにいます。
慎重にマスクを外せば済むことですが、補聴器は使用感がさほどないので、外すたびに補聴器に注意を向けるのは現実的ではありません。
ましてや補聴器は高価なので、落下したら一大事です。

耳あな式補聴器ならば、マスクとの相性も悪くないと思います。
しかし、マスクのゴムを耳に掛ける以上、耳かけ式補聴器は大問題です。

これまでは、マスクが必要になるインフルエンザの時期だけ補聴器なしで生活していましたが、常時マスクが手放せない時代になり、非常に困っています。

そこで、補聴器の代役として、「オリーブ スマートイヤー」という集音器とも言えぬ商品を購入してみました。
耳の穴にスポッと入れて使用し、スマホで様々な設定ができる先端的な製品です。
https://www.olive.store

正直言って、難聴の補助役としては、補聴器の方に軍配が上がります。
補聴器は個々の症状に合わせた設定をしますので既製品の範疇ではありませんし、管理医療機器です。
そもそも価格にかなりの差があります。

ただ、オリーブスマートイヤーは、Bluetoothでスマホと繋ぐので、ワイヤレスで通話ができたり、音楽を再生できたりする点は非常に便利です。

色は白と黒があって(私は白を購入しました)、若者のワイヤレスイヤホンと見まがうような今ドキの形状をしています。

先週末、オリーブを装着して会社へ向かおうとする私を見て、カミさんがクスクス笑っています。
「R-1のキャップを耳にはめているのかと思った(笑)」。

ファッショナブルな中年を目指しましたが、遥けき夢だったようです。

出典:https://www.meiji.co.jp/dairies/yogurt/meiji-r1/product/

180 無病息災

私の義母は満80歳になります。
若い頃から、風邪もほとんど引かない、元気印の老媼です。

具合が悪くてダラダラしている姿が嫌いで(これを本人は「クタクタしている」と表現します)、風邪気味で声が嗄れていても風邪なんか引いていない!と言い張り、肩こり、不眠症、便秘、冷え性などにも縁が無く、概ね元気に齢を重ねてきました。

しかし、ここ数年、医者通いを強いられています。

糖尿病の疑いで近所の医院へ行った際、「私は内科医になって☆☆年が経つけれど、こんな酷い血糖値は見たことがない!」と医師から叱られました。

また、ここ数年は血圧が高く、降圧剤を処方されています。

そして、ヘモグロビン値が低いので、めまいの検査を受けるようにと紹介された大学病院では、「この数値で、本当に自覚症状はないの?」と言われたそうです。
この病院へはその後も定期的に通院していますが、先日、予定の時間になってもなかなか帰宅しませんでした。
あとで話を聞くと、検査結果が更に悪化していたため、急遽輸血をすることになって時間を要したとのこと・・。

そこで、義母に携帯電話を持ってもらうことにしました。
そもそも、近くへ買い物に行ったきり長時間帰宅しないこともしばしばなので、今後は周囲の心配は軽減されそうです。
ピンク色のらくらくホンをプレゼントし、基本的な発信と着信方法だけをご教示しました。

そんな義母の最大の趣味は「食べること」。
そして、特徴は「ややずぼらなところ」。

糖尿病などどこ吹く風で、食べたいものを食べ、間食も楽しみ、一方、食事前のインスリン注射を怠ったり、薬の服用がちらほら抜けたり・・。
緊張感はさほど感じません。

ただ、そんな若干いい加減なところが、元気の秘訣なのかも知れません。
検査結果に一喜一憂したり、病気のことが始終頭から離れないよりも、少しあっけらかんとした思考が、ほどよく元気を保っているように思います。

コロナのために、会食をずっと控えてきましたが、先日、久しぶりに食事に誘いました。
義母の大好きなホテルのビュッフェ、とはいきませんでしたが、家の近所の和食屋でランチコースをいただました。

デザートを食べてそろそろお開き、というタイミングで、私たち夫婦の結婚25周年へのお祝いをいただくサプライズがありました。

そう、銀婚式です。

義母の傘寿のお祝いもできずにいたなか、逆にお祝いをいただきとても恐縮しました。

1995年11月5日、日曜日、先負。

目黒雅叙園で挙式を行ったあの日から早25年。
私は当時の父の年齢を超え、カミさんは母の年齢を超えました。

披露宴に出席していただいた方で、その後、鬼籍に入った方が少なからずいらっしゃいます。
特に、先日長姉が亡くなったことで、父はすべての兄弟を失いました。
母方も、体調の優れない弟が1人残るのみです。
時の流れの儚さを、しみじみと感じます。

家族元気で仲良く過ごしていることが最大の親孝行だ、と母は言います。

25年の間には、私が入退院を繰り返した時期や、カミさんのメンタルが不安定な時期がありましたが、セガレも含め、元気に日々生活が送れている今を、有難く思います。
コロナ禍にあって、健康の大切さを改めて考えさせられています。

179 眉目秀麗

うちのカミさんは子供の頃「むずむず脚症候群」だったそうです。
昼寝をしなさいと言われたのに、脚がむずむずして寝られないことが頻繁にあったそうで、大人になってからその病名を知ったそうです。

専門サイト・ムズムズドットコム(http://muzumuzu.com)によると、

この病気は女性の方が男性よりも1.5倍程度多く、また患者さんは40歳代以上の中高年で急激に増加し、年齢が高くなるほど増加していく傾向があります。多くはありませんが、小児や児童でもむずむず脚症候群になることがあり、学校の授業に集中できないなど日常生活に影響が出る場合もあります。

中高年に多いものの小児でも罹患するとのことですから、カミさんはこの病だったのかも知れません・・。

ところで、この「むずむず脚症候群」もそうですが、やや変わった名称の病名ってありますね。

 

サザエさん症候群

日曜日の夕方になると、週明け月曜日からの仕事のことを考え、憂鬱な気分に陥ってしまうという症状。
この傾向は海外でも同様で、英語圏では『Sunday Night Blues(日曜の夜の憂鬱)』と呼ばれるなど、週明け以降の業務のことを考え、暗い気分に陥ってしまう方が一定数存在すると思われる。

サザエさんが、毎週日曜日の18:30からテレビで放映されていることが命名の由来のようです。
私がその症状に陥ったら、「笑点症候群」かなと思ったりもしています

 

ピーター・パン・症候群

1970年代後半アメリカで誕生した言葉で、大人の年齢に達しているにもかかわらず、精神的に大人になれず仲間に入ることができない男性のこと。現代では、大人になることを拒み現実逃避する傾向のある男性を指す。
言動が子供っぽいというのが特徴で、それゆえ、精神的・社会的・性的な部分にリンクして問題を引き起こし易いと考えられる。

無邪気にはしゃいだり、些細なことも楽しむ「子ども心」は、人生を豊かにするファクターだと思いますが、どうやら概念が異なるようです。
また、単なるマザコンと括ることも誤りのようです。
「見た目は子ども、頭脳は大人」の名探偵コナンの逆バージョン?と思ったりもしましたが、これも適切ではなさそうです。

 

不思議の国のアリス症候群

主な症状は、目の前の人や物が急に大きく見えたり、小さく見えたり、ゆがんで見えたりするというもの。
また、空中を浮遊しているような感覚や、自分の姿を見下ろしているような離人症状が表れることもある。
原因ははっきりと分かっていないが、エプスタイン・バー(EB)ウイルスに感染することで、脳の表面に位置する大脳皮質と呼ばれる部分に広範囲にわたって炎症が生じ、知覚異常が引き起こされるからではないかとの説がある。

実は私、子供の頃、これに似た経験があります。
体調を崩したときにだけ、決まったキャラのオジサンが部屋の隅に見えるのです。
健康な時には遭遇したことがないので、体調と何らかの繋がりがある症状だったに違いないと思います。

 

ナイチンゲール症候群など

ナイチンゲール症候群とは、看護提供者(通常は看護師)が患者に対して、基本的なケア以上の関係がないにもかかわらず、恋愛・性的感情を抱いてしまう状況を指す。
その感情は、通常患者が回復したり助けを必要としなくなった段階で徐々に失せていく。

私の親友のI君は、高校生のとき大学病院に入院し、退院後、病棟でお世話になった看護師さんと交際に発展した武勇伝の持ち主です。
新人の看護師さんだったとしても、5歳以上年上です。

若い頃、私の周囲でモテた男といえば、I君の右に出る者はいません。
一緒に遊んでいても、カッコイイと評されるのはいつもI君で、私は決まって「面白い人」止まり。
冷静に比較すれば、私よりも明らかに手足が長く、目も格段に大きい。
さらに、口調も穏やかで優しい気質ですから、抵抗の余地はありません・・。

カッコイイと言われたい、という望みはとうの昔に捨てましたが、「面白いオッサン」は、もうしばらく維持したいと思っています。

出典:
むずむず脚症候群 http://muzumuzu.com
サザエさん症候群 http://work-switch.persol-pt.co.jp/anti-sazaesan-syndrome/
ピーター・パン・症候群 https://www.hospita.jp/disease/2191/
不思議の国のアリス症候群 https://medical.jiji.com/topics/1430
ナイチンゲール症候群 https://www.weblio.jp/content/ナイチンゲール症候群

172 解衣推食

新型コロナウイルスの感染拡大により、世界中が甚大な被害を被っています。
我々の業界も、もちろん例外ではありません。

全日本印刷工業組合連合会が行ったアンケートによると、4月時点の売上への影響は「前年同月と比べて大幅に減少した」と回答した組合員企業は60%で、「僅かに減少した」の31%を合わせると9割以上が影響を受けました。

また、日本製紙連合会の紙・板紙需給速報によると、4月の印刷・情報用紙の国内出荷は前年同月比19.7%のマイナスでした。
とりわけ大幅な減少だったのは、カタログやチラシに使われる塗工紙で、25.9%減となりました。

4月上旬には、日本印刷産業連合会会長が新型コロナウイルス感染症の陽性が判明したとのニュースもありました。

一方、海外では、アメリカのビジネスや技術ニュースの専門ウェブサイト「Business insider社」が今年2月、「今後10年で雇用が大きく減少する20の産業」を発表しました。

上位はアパレル関連が多くを占めますが、印刷業界は堂々の14位。
印刷機のオペレーターは2028年までに11.8%雇用が減少、製本関連では労働者が15.2%縮小する可能性が高いと予想されています。

そもそも衰退産業の印刷業界は、新たなウイルスとの戦いでさらに厳しい状況に追い込まれています。

しかし・・、
負の要因ばかり考えていては、先に進めません。

とにもかくにも、弊社は社員が誰ひとり感染せずにここまで来られました。
元気ならば、頑張れます。

非常事態宣言は解除されました。
今日から月も変わりました。
積極的な営業活動はまだ憚られますが、気持ちを新たに明日に向けて歩みを進めていきたいと思っています。

この新型コロナウイルスとの戦いは、ある程度長期戦になることでしょう。
しかし、ポストコロナの時代が必ず到来します。
そして、その姿は従来とは大きく転変することでしょう。

「我々は今、歴史的岐路にいる」という表現は満更大げさではないかも知れません。

在宅勤務やビデオ会議の習慣化、大都市への一極集中の緩和などの労働環境における変化のみならず、人々の価値観にも大きな変化が生じているようです。

即ち、ステイホームを通して、これまでの無駄な消費や生活習慣が浮き彫りになり、簡素な方向へ舵を切る人が増えると言われています。

私も緊急事態宣言下にあって、思うことはありました。
飲食に耽溺していたかな・・。
不要な買い物をしていたな・・。

そして、何よりも強く感じたのは「人との関わりや繋がりの大切さ」です。

料理はテイクアウト、買い物は通販で置き配。
こればかりでは飽きてしまうし、充実感や満足感が足りません。
皆で楽しみ、繋がりが実感できることを求めるのは、いたって自然な流れでしょう。

今後は、個々人が自主的な管理のもと価値観を創造していく時代になるのだと思います。

164 三思後行

国内のチーズ消費量が、4年連続で過去最高を更新しているとニュースで知りました。

消費を支えているのは、中高年層だそうです。
「カマンベールに認知症予防効果」「ブルーチーズに血管年齢若返り効果」などの健康効果報道が売上げ増に寄与したと言われています。
原材料価格の上昇などにより乳業大手は値上げをしましたが、中高年層の購買意欲が勝ったと言えるでしょう。

かくいう私も、最近になって、チーズをよく食べるようになりました。
休みの日、おやつ時にカマンベールチーズをひと欠片、楽しんでいます。

きっかけは、糖質オフのお薦めおやつとして、チーズが取り上げられていたから・・。
「健康志向の中高年層」のベン図のド真ん中ですね。

ただ、チーズフォンデュはダメです。
熱せられた鍋から蒸発するワインが、下戸の私には我慢なりません。

グラタンやリゾットも、どちらかと言えば苦手です。
猫舌のくせに早食いの私には、厄介なメニューです。

子供の頃は、チーズがキライでした。
一方、父は、毎朝食べていました。

かまぼこのような形をしたチーズを、果物ナイフでスライスして食べるのですが、ネチネチした食感と、歯にまとわりつくのが苦手でした。
剰え、時間が経ち、周囲がカピカピになって若干透き通ってくると、耐え難い気分でした。

尤も、昭和40年代は、家庭で食べるチーズはせいぜいそんなものだったのかも知れません。
モッツアレラチーズやマスカルポーネチーズなんて、知るよしもありませんでした。

ところで、チーズといえば、写真撮影の決め言葉ですね。
「はい、チーズ」は時代を超えて、使われているのではないでしょうか。

はるか昔、何らかの学校行事で集合写真を撮った際、カメラマンが我々生徒の期待を裏切るセリフを発しました。

「じゃあ、皆さん、撮りますよ。せーの、1たす1は??」

はいチーズを予想していた生徒は不意を突かれましたが、一瞬考えた後、

「にー!!!」

理解できた生徒とできなかった生徒の顔は対照的でしたが、キョトン顔と笑顔が混在する、珠玉の1枚となりました。
カメラマンの技術に脱帽です。

ときに、家族でハワイに行った際、カメラのシャッターを押してくれと頼まれました。
中国からと思しき観光者でした。

「One, Two, Three, Push!!  All right?」

いちにのさん、でシャッターを押すぞ、と言いたかったのです。

「ワン・・、トゥー・・、スリー・・、フォー・・、ファイブ・・・・・・」

アレ、全然ウケない・・。

「マサミ、ファイブくらいまで数えれば全員笑うこと請け合いだ!!」
とロサンゼルスで仕込まれた撮影術なのですが、全員ポカン顔の1枚になってしまいました。
ギャグのセンスが国民性に合わなかったのか、私の英語力に問題があったのか・・。

ところ構わず、何でも言えばいいというものではありませんね。
カメラを返すときの気まずさは、今も覚えています。

163 聖人君子

令和になって初のお正月が近づいてきました。

最初の元号「大化」が制定されたのは西暦645年。
令和は、248番目の元号に当たります。

これまで、最も期間が長い元号は「昭和」で64年。
次が「明治」で45年、「平成」は4位です。

3位は、1394年から1428年まで35年続いた「応永」だそうです。
金閣寺ができたのもこの時代。
平和な時代だったと言われ、「応永の平和」なんて言葉もあるのだそうです。

しかし、今年2月、日本経済新聞に歴史学者・呉座勇一氏が興味深い記事を寄せています(以下抜粋)。

中世で「応永の平和」と呼ばれる時期がある。戦乱が比較的少なく、社会が安定した。その応永(1394~1428年)は約35年間続き、明治以前では最も長い。

「ほぼ平成と同じ期間だが、応永の平和は問題を先送りして、もめ事が起きないようにして保たれた。その矛盾が噴出したのが応仁の乱だとも言える」

新しい年号の時代が5月に始まる。少子化問題や国と地方に積み上がる借金。次の時代に引き継がれる負の遺産も多い。今まで目をつぶってきた問題がどんな結末になるのか。悲観論者なので、少し心配している。

今の政治に当てはまる部分も大いにあるのではないでしょうか。
令和の時代に、応仁の乱が勃発するようなことがあってはなりません。

ところで・・、
私は、天皇皇后両陛下の大ファンです。
まさに才色兼備な皇后陛下は、ご婚約されたときからファンでした。
一方、天皇陛下を尊崇するきっかけになったのは、2004年5月、皇太子様時代のご発言です。

「雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です。」

陛下の勇気に感動しました。
多くの取り巻き(宮内庁と断言してもいいかも知れません)を敵に回しても妻を守る、という強い意志を感じました。
「僕が一生全力でお守りします」とのプロポーズのお言葉を貫き通す陛下を、同じ男としてただただかっこよく感じました。

そもそも皇后陛下は、魅力ある働く女性の象徴だったと思います。
元外交官で、語学も堪能な皇后陛下は、開かれた皇室と海外の架け橋を担うはずだと信じて疑いませんでした。

しかし、「雅子妃(当時)は外国に行きたがってばかりで、世継ぎについて真剣に考えていない」との歪んだ見方が蔓延っていたのではないでしょうか。
約20年前、子どもができるのは当たり前、できないのは女性が悪い、という時代錯誤な考えがあったと思います。

ご結婚から8年ののち、ようやく愛子様が誕生されました。
しかし、喜びも束の間、すぐに男子の第二子を期待され、おびただしい重圧が雅子様にのし掛かったと、容易に想像がつきます。

しかし、今年、皇后様をお姿をテレビで拝見していると、心身共に健康を取り戻されたようで本当に嬉しく思います。
中でも、11月10日に行われた祝賀御列の儀(パレード)で、オープンカーから手を振られる皇后様は、本当にキレイでした。
多くの国民からの祝福を目の当たりし、孤独と重圧から解放された真の笑顔だったのでしょうか。

そして、去る12月4日、両陛下は皇居・賢所で「御神楽の儀」にのぞみ、即位に伴う一連の全儀式を終えられたとのことです。
年号が変わって早7ヶ月以上が経ちますが、ようやくその務めを終えられたと知り、いささか驚きました。

実は、我が家が子宝に恵まれたのも結婚8年後でした。
天皇陛下は私の2学年上、皇后陛下はカミさんの2学年上、そして愛子様はセガレの2学年上。
共通点を勝手に見出したりもして、親近感を感じています。

この正月、新年一般参賀に初めて行ってみたいな、と思っています。

156 停雲落月

8歳の春、自宅の移転に伴い、小学校を転校しました。

その1年後、ひとりの少年が同じ学校に転校してきました。

彼は女の子のように目がぱっちりとした可愛い顔立ちをしていて、妙に手足が長く、そして、子供とは思えないような気遣いができる心優しい少年でした。
勿論、女の子からの人気は抜群でした。

かくいう私は、典型的なお山の大将。
学級委員を務めたりするものの、皆の意見をまとめるどころか、自分勝手でやりたい放題。
真のリーダーとは程遠い悪ガキでした。

当然こういう類いは全くモテない訳で、女子から絶大な人気を誇る「よそ者転校生」は、私にとって、非常に煙たい存在でした(私も立派な転校生なのですが)。
小学校4年から卒業までの3年間、同じクラスでしたが、親しく話した記憶はほとんどありません。

しかし、世の中は不思議なものです。
モテモテ少年とダメダメ少年は、その後、急に仲良くなりました。
高校、大学は別々の学校に進みましたが、彼以上に一緒の時間を過ごした友人はいません。
しょっちゅう一緒にいるので、妙な噂が飛び交うほどでした。

18歳の夏、忘れられない思い出があります。

彼女に指輪をプレゼントしたいから、買い物に付き合ってくれと頼まれました。
彼女いない歴18年だった当時の私はやや複雑な心境でしたが、親友の頼みを断ることはできません。
池袋のパルコへ同行することとなりました。

「あの、これ、く・だ・さ・い。」

落ち着かない態度でボソボソ話す少年に、ジュエリーショップの店員さんは優しく応対してくれました。

「えーと、おいくつ、ですか?」

「あ、あ、18です。」

「あのさ、年齢答えてどうすんの?指輪のサイズだろ!」

私の突っ込みに、店員さんは大爆笑でした。

地元の仲間なので、家族ぐるみの付き合いをしていました。
本人が留守でも、何の遠慮もなく家に上がり、両親やお姉さんらと喋り込んでしまうような関係でした。

社会人になってからも、近しい関係はしばらく続きましたが、お互いの結婚を境に、徐々に会う機会は減っていきました。
いつしか、2人で遊ぶことも食事に行くことも、ほとんどなくなりました。

ただ、郵便局の郵便部長だった彼とは、年賀状などの仕入れを通じて、接点は保っていましたし、お互いの誕生日には、お祝いのメールを送り合う関係でした。

その彼が、心臓の大手術を受けました。

数年前、大動脈解離で救急搬送され、一命をとりとめたものの、昨年末の検査で、再手術が必要と診断されたのです。

そこで、少しでも気晴らしになればと思い、久しぶりに食事に誘いました。
昔話に花が咲き、とても楽しい時間を過ごすことができました。
ただ・・・・、

「前回は、寝ている間に具合が悪くなって、そのまま訳も分からないうちに手術になっちゃったけどさ、今回は、死亡率が15〜20%だなんて事前に聞かされるし、カレンダーを見ながら、覚悟を決めて手術に臨まなければいけないからね・・。何倍も辛いよね・・。オレ、根性なしだから・・。」

返す言葉など、何一つ浮かびませんでした。
東京スカイツリーソラマチ31階から、ただ下界に視線を落とすだけでした。

そして、手術当日。

朝、LINEでメッセージを送りました。
すると、9時開始予定の手術に備え、既に術着に着替えているよ、と返信がありました。

しかし、これが苦闘の始まりとなりました。
術後、合併症などで回復が順調に進まなかったのです。

毎晩、布団に入ると彼を想いました。
好転を願いながら眠りにつく日々でした。
来る日も来る日も、回復を祈り続けました。

そして、つい先日、奥さんから面会可能との知らせが届きました。
早く会いたくて、面会開始時間ちょうどに病院へ出向きました。

部屋に行くと、車椅子で窓の外を眺めている彼の姿が見えました。
後ろから肩に手を置き、「会いに来たよ」と声を掛けました。
彼は、長い入院生活を感じさせず、いつものとおり男前でした。

100日以上待ちわびた面会ですから、嬉しかったですね。
結局2時間ほど病院に滞在したでしょうか。
彼はきっと疲れたでしょうが、私に付き合ってくれました。

「じゃあ、また来るね。」と言った私に、彼はこう言いました。

「かもめーる、よろしくね。」

今も郵便部長のままなんだな、と苦笑いしながら彼と別れました。

廊下に出た途端、様々な感情が込み上げ、両目に涙が溢れてきました。
2人でまた、眺めの良いレストランで食事をする日を楽しみにしたいと思います。

155 唖然失笑

少し前の話になります。

一昨年秋「仙台ひとり旅」に出ました。
仕事が立て込む日が続いたので、気分転換に東京を脱出したのです。

MacBookを持っていれば、かなりの仕事がこなせる現代は、便利になったとも言えますが、世知辛いと表現できるかも知れません。

いくら仕事がメインとは言え、せっかく仙台まで来たのですから、大好きな神社巡りもしました。
なかでも、陸奥国一之宮・鹽竈神社は、とても心に残る参拝となりました。

というのも、事前に公式サイトを見ていて、興味深い歴史的事実を知ったからです。

鹽竈神社の創建年代は明らかではありませんが、その起源は奈良時代以前になります。平安時代初期(820)に編纂された『弘仁式』主税帳逸文には「鹽竈神を祭る料壱萬束」とあり、これが文献に現れた初見とされています。当時陸奥国運営のための財源に充てられていた正税が六十萬三千束の時代ですから、地方税の60分の1という破格の祭祀料を受けていた事が伺われます。しかし全国の各社を記載した『延喜式』(927年完成)の神名帳にはその名が無く、鹽竈神社は「式外社」ではありましたが中世以降、東北鎮護・海上守護の陸奥國一宮として重んじられ、奥州藤原氏や中世武家領主より厚い信仰を寄せられてきました。特に江戸時代にはいると伊達家の尊崇殊の外厚く、伊達政宗以降歴代の藩主は全て大神主として奉仕してまいりました。よって江戸時代の鹽竈神社には歴代の宮司家が存在せず、実質祭祀を行っていた禰宜家がおりました。(中略)
歴史の謎
鹽竈神社は祭祀料として正税壱万束を受けていた事は前述しましたが、当時全国で祭祀料を寄せられていたのは、他に伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束の三社で共に『式内社』でありますが当社に比べ格段の差があり、国家的に篤い信仰を受けていたにも拘わらず『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというこの相反する処遇はどう解すべきなのでしょうか。

不思議な香り漂う神社です・・。
一之宮なのに式外社だなんて、これまで聞いたことがありません。

参拝当日。
はやる心を抑えて、まずは塩釜仲卸市場へ出向き、海鮮丼をいただきました。
なかなか豪勢な朝食となりました。

駐車場にはこんな車が停まっていました。
市場で早朝から働く皆さん、お疲れなんでしょうね・・。

そして、鹽竈神社の最寄り駅、本塩釜駅へ向かいました。
あいにくの曇り空でしたが、神社へ続く県道は、散策には心地よい道程でした。

徒歩7分ほどで東参道(裏坂)に到着しますが、敢えてここは通り過ぎます。
それから6〜7分ほどで、有名な表参道の石鳥居が見えてきました。

階段の数は、202段。
とりわけ騒ぐほどのことではないだろうと思っていましたが、登り切った時は、ほとんど虫の息で した・・。
自販機でお茶を買い、椅子に座ったまま、5分ほど動くことができませんでした。
神社巡りは、足腰が丈夫でないと続けられないことを痛感しました。

なお、公式サイトの「神社について」の終わりには、こんな文面もあります。

時代は前後しますが、忘れてはならないのは河原の左大臣と称された源朝臣融で、謡曲『融』の主人公にもなりましたが、その別荘の一つが後の宇治平等院、一つは洛北嵯峨の現棲霞寺となっています。融は陸奥出羽按察使に任ぜられています(『三代実録』)が実際に赴任したかどうかは不詳です。しかし塩竈の浦に深く心を寄せ鴨川の辺に六条河原院を建て、『伊勢物語』に庭に塩竈の景色を再現して毎日難波より海水を汲ませてこれを焼かせつつ生涯を楽しんだことが見えます。今もこの付近には塩竈の地名が名残として残っております。

ふーん、京の都に塩竈の風景を再現したんだ・・。
つい最近まではここまでの認識でした。

そして、先週末。
何の気なしに六条河原院について調べてみました。

すると、六条河原院は、融の死後は子の昇が相続し、その後、紆余曲折の末、結局は数度の火災で荒廃したとのこと。
そして、江戸時代になって、跡地の一部に渉成園が作られたそうです。

ん?
渉成園?
セガレを授けてくださった上徳寺さんの近くにある、あの渉成園?

あ!
その上徳寺さんの山号は「塩竈山(えんそうざん)」だ!

鹽竈神社と上徳寺に接点があったとは・・。
思わぬ偶然に、ちょっと鳥肌が立ちました。

急いで上徳寺さんのパンフレットを引っ張り出すと、その中面に、山号「塩竈山」の由来という見出しがありました。

また、塩竈山上徳寺という山号は、この五条の地は嵯峨天皇第二十一の皇子、従一位左大臣源融公が、河原に庵をつくり、池をほり、毎日、潮を三十石ばかり入れて、海底の魚介なども住まし、陸奥の塩竈、千賀の浦の景を模し、海士が塩屋のけむりをたて、趣を賞でたという史跡により、当山に塩竈明神を鎮守としてまつり、塩竈山上徳寺と号して、さきの本尊を安置した。

パンフレット、何にも読んでいなかったんですかね・・。
1年半後の大発見に、苦笑するしかありませんでした。

152 寸草春暉

3月18日は、両親の結婚記念日です。
そして、今日、60回目の記念日を迎えました。

26歳と22歳だった新郎新婦は、86歳と82歳の老夫婦になりました。

しかし、父はまだ毎日仕事をしています。
母も元気ですし、料理の腕前は鈍っていません。

結婚60周年を、一般的に「ダイヤモンド婚式」と呼ぶのだそうですが、夫婦揃って、仲良く、そして元気にこの節目を迎えられるのは、とても幸せなことだと思います。

農家の三男坊として生まれた父は、旧制中学卒業とともに、商人になるという夢を抱いて上京しました。
「“こうりひとつ”で東京に出てきた」と昔から父に聞かされていましたが、「こうり」とは「竹や籐などを編んで作った籠の一種」で「行李」と書くようです。
要するに、荷物ひとつだけを抱え、伊豆の田舎町から東京に出て来た訳です。

一方、母も裕福ではない農家に生まれ、高校に進学することができませんでした。
藁だか何かを編む内職を手伝うから進学させて欲しい、と家族に懇願したそうですが、父を早くに亡くしたこともあり、少女の希望は通りませんでした。
上の学校に進学する級友たちを羨ましく見ていたという母の気持ちを、私には推し量ることなどできません。

そして、同じ印刷会社で偶然働くことになった2人は、昭和34年に夫婦となりました。

中央区月島の狭くて陽当たりの悪いアパートから始まった新婚生活は、まもなく2人の子どもが生まれたこともあり、金銭的には苦労したそうです。

私が社会人になってから、「学習塾の費用の捻出が大変だった」と聞かされました。
その事実を知った時、少なからずショックを受けました。

小学生の頃から、私が行きたいという塾には、自由に通わせてくれました。
中学受験もしましたし(失敗に終わりましたが)、高校も「都立はここしか受けない」と背伸びをした挙句に不合格となり、授業料の高い私立高校に進むことになっても、異議やお小言はありませんでした。
大学はかろうじて国立大学に合格しましたが、追加合格だったため、私立大学に入学金と授業料として70万円近くを出費しました。

進学に関して、私の選ぶ道に反対されたことは一度もありませんでしたが、お金の苦労を子供に悟られぬよう、親は陰で苦労していたのでしょう。
自分たちは進学が叶わなかったので、子供にはきちんと教育を受けさせたいという思いもあったのだと思います。

また、体調面でも、決して順風満帆ではありませんでした。

母は50代で、大腸癌を患いました。
その後、肝炎を起こしたり、腸閉塞で入退院を繰り返すなど、健康を害していた時期もありますが、我慢強い母は、病に負けず、元気を取り戻しました。

父は、一昨年、心臓の手術を受けました。
80歳を過ぎてからの心臓バイパス手術に際して、術前、看護師さんにこう言っていたそうです。

「老人のボクだが、まだやり残したことがある。だから、もう少し生かして欲しい・・。」

どうやら、その本意は「もう少し会社の役に立ちたい。セガレの一助になりたい。」ということだったようです。

自ら会社を興す、即ち、商人になるという夢を叶えたのが44歳の時でした。
学歴も資格もなく、親からの援助も全くなく、ただがむしゃらに家族のため働いてきた父は、80を過ぎてもなお仕事への情熱が衰えておらず、その意欲にはただただ敬慕の念を抱いています。

果たして自分は何歳まで仕事ができるか、そして、子供にどれだけの愛情を注ぎ続けられるか・・。
親のマネは出来ないな、と思っています。

歳を重ねてから、両親は勉強熱心になった気がします。
父は本をよく読みますし、母は四文字熟語の勉強をしているそうです。

人間死ぬまで勉強だと、背中で教えられているように思います。
私も昨年不合格に終わった漢字検定準一級試験を、今年もう一度チャレンジしたいと思っています。

ところで、天皇皇后両陛下にとって、今年は『結婚60年、即位30年』の年にあたります。
今上天皇は、昭和8年12月23日のお生まれで、ご結婚されたのは昭和34年4月10日。
偶然ですが、父と同年齢で、結婚した時期も1ヶ月と変わりません。

先日、陛下の即位30年と、天皇皇后両陛下の結婚60年を祝って、宮内庁職員による茶会が行われたそうです。
私も60回目の記念日当日に届くよう、京都・権太呂のうどんすきを贈りました。
後日、改めて、ささやかながら食事会を開きたいと考えています。

130 嫣然一笑

先日、お客様3人と食事会をしました。
しかも、私以外はすべて女性。
私もまだまだ捨てたものではないなと・・。

仕事で知り合った方と、こういう集いをもてることは本当に有難いことです。
食事もゴルフも「接待」という冠が付いた途端、純粋に楽しむことは難しくなりますが、先の会合は完全なるプライベート。
一緒に食事をするのは初めての機会でしたし、価値観の合う皆さんでしたので、心から楽しい時間を過ごすことができました。

帰り際には、LINEのグループを組みました。
グループ名は「Habitationの会」。
命名の理由は我々だけの秘密です。

また、嬉しいことに、洋菓子のプレゼントをいただきました。
バレンタインデーが近かったからかも知れません。

ひとつは、キースマンハッタンのローストナッツブラウニー。
チョコとナッツの組み合わせが美味しくて、帰ったその夜、寝る直前だというのに、2個食べてしまいました。
このお菓子は、取扱う店舗が限られているため、なかなか入手が困難なようです。
お取り寄せ専門サイトでも紹介されていました。

もうひとつは、焼き菓子専門店・ビスキュイテリエ ブルトンヌのウィークエンドという名のパウンドケーキ。
レモンの香りとシャリシャリの糖衣が、たまりませんでした。
私、元々パウンドケーキに目がないのですが、これまでに食べたものより、抜群の高級感でした。

この連休、甘い物には事欠かずに済みそうです。

この方々からは、以前、私が入院した際に、病室にお花を届けていただいたこともあります。
仕事を超えて、人としてお付き合いができることは無上の喜びです。

これからも「ご縁」は大切にしていきたいと思っています。