216 紅顔可憐

ゴールデンウィークに突入しました。
カミさんと買い物に出掛ける程度で、我が家は毎年大した予定がありません。

今日は残った仕事を片付けるため、朝から近所のカフェに来ています。
カフェやレンタルスペースなど、耳障りでない程度のノイズを背景に、自分が誰であるか周囲が知らない場所は、仕事をする環境として嫌いではありません。

ただ、「耳障りでない程度のノイズ」、要するに「いい感じの騒音」が難しいところです。
ガハハと笑いながら同時に数人がしゃべりまくるおばさま集団の存在は仕事の効率を低下させそうですし、一方、ちょっぴり好みのタイプの女性が近くにいたら、注意力散漫になりそうです。

因みに、今、私の前の席では、外国人男性と日本人女性のカップルが、朝から情熱的に肩を寄せ合っていますが、この程度は仕事に影響なさそうです。

私が普段利用している1つは、東京ミッドタウン日比谷のBASE Q内にあるワークスペースです。
1人席は、3時間1,500円、6時間2,000円と、都会のど真ん中にしては良心的な価格です。
ネットで予約ができますので、席を確実に抑えることができます。

個室ではありませんし、隣にカフェが併設されているため、騒音をシャットアウトすることはできませんが、個室型ワークブースの閉塞感が苦手な私にとっては、そこそこ快適な空間です。

会社にいると、電話、来客、その他諸々により、思うように仕事が捗らないことがありますが、外に出ればやりたい仕事に集中できます。
ノートPCのモニターがもう少し大きいと、老眼に優しいのですが・・。

朝、そろそろカフェに行こうか・・と思っていたところ、玄関でガチャという音がしました。
玄関を覗くと、徹夜明けとは思えない、元気溌剌な姿のセガレがいました。
昨日は夕方からサークルの新歓イベント→打ち上げ→カラオケ→朝帰り、と相成ったようです。

私にとって徹夜とは、ほぼほぼイコール徹マンです。
(「徹マン」は令和にあって死語でしょうか・・)

高校から大学にかけて、何回夜通し麻雀に興じたか、数え切れません。
夜も更けて朝が近づいてくると、「自摸って!」なんて声で起こされる寝落ちする輩が出現したり、こいつは半分寝ているだろう思っていたらでっかい手をテンパっていたり、睡魔による感覚マヒで突然強気になる奴が出現したり、予期せぬ事態が多発して楽しいものでした。

特に思い出深いのは、スキー旅行です。
上野から夜行電車に乗り、越後湯沢駅のダルマストーブの前で数時間過ごした後、朝イチのバスで民宿へ。
そして、朝イチからナイターまでゲレンデで過ごし、宿に帰れば深夜まで麻雀という、底なしの体力で遊んだものでした。

ただ、ダルマストーブの前で卓上麻雀に興じていたら、いつの間にか始発のバスが行ってしまったことが一度ありました。
4人もいながら、誰ひとり気付かないほど麻雀に熱中していたのかと呆れました。

ただ、徹マンは話し声はもちろんのこと、牌を手積みする音が響きますので、周囲へずいぶんと迷惑を掛けたことと思います。
また、灰皿は山のように積み上がりますので、健康上もあまりよろしくないですね。

60を過ぎた今は、日付変更線を過ぎるまで起きていることが、年に数回しかありません。
ましてや徹夜などしようものなら、1週間は抜け殻のようになってしまうと思います。

さて、朝からの仕事も一段落しましたので、昼メシの弁当を家族分買って帰ることとします。

215 大慈大悲

昨年11月頃、ネットで京都に関する情報を見つけました。

京都市と京都市観光協会(DMO KYOTO)は、JRグループ6社と連携したデスティネーションキャンペーン「京の冬の旅」を、2023年1月1日~3月27日に実施する。

第57回目となる今回は、1月8日から放送のNHK大河ドラマ「どうする家康」や「親鸞聖人御誕生850年」「弘法大師御誕生1250年」などにスポットをあて、普段は見られない15か所の貴重な文化財を特別公開する。

1年を通すと観光客が比較的少ない冬季の集客を狙って始まったイベントかと思いますが、57回目という回数に驚きました。

これまでも冬の特別公開には興味を抱いてきましたが、普段見ることができない文化財が鑑賞できる機会はとても魅力的です。

清水寺、仁和寺、醍醐寺、大徳寺・・・・。
今回も有名なお寺が並んでいるな・・と思ったその時、目を疑う記事を発見しました。

「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 上徳寺

~「世継地蔵」で知られる家康ゆかりの寺~

「大坂の陣」にも関わったという徳川家康の側室・阿茶局を開基として創建。通称ともなっている「世継地蔵」は「子授け祈願・安産祈願」の信仰を集める像高約2mの石像で、今回は地蔵堂の内部に入って間近で参拝することができる。本堂では、家康と二代将軍・秀忠、阿茶局の肖像画など寺宝も特別展示。また貴族の邸から移築されたと伝わる書院造の客殿は、紅葉や桜を描いた江戸後期の円山派の絵師による襖絵や枯山水庭園がみどころ。

以前何度か紹介させていただきましたが、上徳寺は我が家にセガレを授けてくださった有難いお寺です。
そのお地蔵さんが間近で見られるとは、信じられません。

数年前、毎年2月8日に行われる大祭に参加し、地蔵堂の中に1度だけ入ったことがあります。
しかし、お地蔵様は少し中に鎮座しているため間近で見られた訳ではありませんし、今回の特別公開では地蔵堂のみならず、本堂や客殿にも上がることができると知りました。

そのうえ、本邦初公開です。
こんな貴重なチャンスを逃すわけにはいきません。
1月上旬に、拝観に行ってまいりました。

拝観料800円を納め、本堂に上がらせていただきました。
これまで20回以上訪れているお寺さんですが、本堂内に入るのは初めてのことです。

堂内は荘厳で静謐。
また、堂々とした寺額は、存在感抜群でした。

中には説明をしてくれるスタッフさんがいて、上徳寺は1603年の建立と伺いました。
1603年?
2003年生まれのセガレは、建立400年の年に授かったわけです。
さらに深いご縁を感じ、興奮でちょっと体温が上がった感じがしました。

ただ、残念だったのは、ご本尊の阿弥陀如来様が、今、東京に行っており、3月上旬にお戻りになる予定とのこと・・。
残念ながら、拝顔の栄に浴することはできませんでした。

本堂を見学した後、客殿も拝見いたしました。
ネットでも紹介されていた襖絵は見応えがありましたし、枯山水庭園も見事でした。

そして、最大のイベント、世継地蔵様を間近でお参りする機会が巡ってきました。

結婚して8年、子宝に恵まれなかった我々夫婦が、新幹線内で読んだガイドブックでその存在を知り、初めてお参りしたのが2003年1月。
その年の10月にセガレを授けてくださったお地蔵様を、至近距離で拝むことができるのです。

若干緊張しながら靴を脱いで地蔵堂内にお邪魔し、向かって左側へ進むと、正に目の前、30cmほどの距離に石像が鎮座していました。

その瞬間、図らずもカラダが硬直しました。
どこかが震えているのを感じました。

他に参拝者がいなかったこともあり、しばらくの間、立ちすくんでいました。
写真撮影も許可されていましたが、スマホは握らず、心の中に深く、深く刻むことに決めました。

あれから2ヶ月。
せわしい年度末の日々を過ごしていましたが、ふと、お地蔵様のことを思い起こしました。
あんなに近くで拝顔させていただき、有難かったな・・。
そういえば・・、

ご本尊は東京から戻ってきたのかな・・。
手を合わせに行きたいなあ・・。

ひょっとしたらと思い、Twitterをチェックしてみると、無事、京都にお戻りになっていると知りました。

しかし、今年の冬のイベントは、3月19日まで。
週末はあと1回。
仕事もたくさん残っているな・・と迷いながらも、先日、弾丸で行ってまいりました。

ようやくお目にかかれたご本尊は、穏やかで慈愛に満ちた表情をされていました。

以前お邪魔した際、スタッフさんからご本尊の特徴について、以下のようにご説明を受けました。

  • 右手は胸の前、左手は下に垂すというポーズが多いと言われているが、手の位置が左右逆になっている。
  • 袈裟の右肩をはずして、左肩だけを覆う着方(偏袒右肩)が多いなか、両肩を袈裟で覆っている。

間違いなく、その通りのお姿でした。
感謝を込めて手を合わせてまいりました。

また、お寺の西側にある墓地には、側室でありながら家康公の懐刀として歴史に残る活躍をした阿茶局が眠っています。
この墓地にも、今回初めて入ることができました。

才知の局と紹介された墓碑を読み進めていくと、京都では上徳寺、江戸では雲光院が菩提寺となったと記されていました。

今度、東京の菩提寺も訪問してみようかなと、帰りしなスマホをいじってビックリ。
雲光院は、弊社から徒歩5分のところにあるお寺でした。

弾丸ツアーでしたので時間の余裕はさほどありませんでしたが、益々ご縁を感じる素晴らしい旅となりました。

214 千秋万歳

令和になって4度目の天皇誕生日を迎えました。
今年は、コロナ禍の影響で中止されてきた一般参賀が即位後初めて行われましたので、いっそう喜ばしい日になりました。

「誕生日に、初めてこのように皆さんからお祝いいただくことを、誠にうれしく思います。(中略)皆さん一人ひとりにとって、穏やかな春となるよう願っています。皆さんの健康と幸せを祈ります。」

国民に向かってお言葉を述べられた陛下。
好天のもと、声を発することなく、日の丸を振って祝意を示す参賀者。
日本人としての麗しさを感じました。

来年は、陛下も参賀者も、マスクなしで開催できたらなお嬉しく思います。

天皇誕生日というと、直感的に12月23日を思い浮かべてしまうことがあります。
平成の時代を30年以上過ごしましたので、致し方ないと思いますが、きっと数年すると解消するのだと思います。

上皇さまは昭和8年12月23日のお生まれですが、同じ年の父が、先日誕生日を迎えました。
90歳、卒寿です。

昭和8年の出来事を調べてみると・・、
01月01日 ラジオの時報が手動から自動式になる
01月30日 ヒトラーが独首相に就任
03月04日 フランクリン・ルーズベルトが第32代米大統領に就任、ニューディール政策始動
03月27日 日本政府が国際連盟脱退の詔書を発布
07月25日 山形市で気温40.8度を記録
10月19日 ドイツが国際連盟から脱退

まるで歴史の教科書を読んでいるようですね・・。

注目すべきは、7月25日の「山形市で気温40.8度を記録」です。
2007年8月16日に岐阜県多治見市と埼玉県熊谷市で40.9度を記録するまで、国内最高気温が昭和8年の記録だったとは驚きです。

伊豆の農家の三男坊だった父が上京したのは昭和24年、16歳のときでした。
東京都中央区の印刷会社に住み込みで働き始めました。

東京に行ったらうまくなるぞ!と思っていたことがが3つあったそうです。
ビリヤード、ボウリング、社交ダンスです。
(女性にもてたかったのでしょうか・・)

ビリヤードとボウリングに夢中になっていた姿は、私の記憶にもありますが、社交ダンスは全く知りません。
聞くと、銀座にあった社交ダンスの店へ恐る恐る行くと、スラリとした華やかで美しい女性に「いらっしゃいませ」と出迎えられ、恥ずかしくて逃げてきたそうです。
「でもな、やっぱり習っておけば良かったな」と悔いるように言うときがたまにあります。

90にして今もなお、ほぼ毎日出社しています
運転免許証は返上してしまいましたので、電車通勤です。

本人を目の前にしては言葉にしませんが、生涯現役を貫く姿勢には敬服です。
もちろん、出来ることは年々少なくなってきていますので、温かく協力してくれる社員の皆さんには感謝しなければなりません。
ときに、卒寿の祝いの品を社員からいただいたそうで、本人は心から喜んでいました。

誕生日当日、セガレとカミさんと連れだって、久しぶりに実家へ行きました。
我々の到着よりも早く、事前にオーダーしておいた花が届いていました。
数日後には、名前入りの夫婦茶碗が届く予定です。

セガレは大学に入ってから始めたクラシックギターを演奏するため、ギターを持参しました。
ひょっとすると、花よりも夫婦茶碗よりも、初心者ながら孫のギター演奏が一番心に残ったのかも知れません。

213 総角之好

昨日、小学校時代の友人5人で集まりました。
転校生の私は2年短くなりますが、かれこれ55年近くの付き合いになります。

正に、総角之好(そうかくのよしみ)。
小さい子どもの時分からの長く親しい交際です。
こんなにも長い間、友であり続けることは奇跡とも言えますし、有難いことです。

これまでの会合は居酒屋を本拠地としてきましたが、今回はフランス料理店に舞台を移し、アラカルトをいただきました。
年齢とともに呑む量が減ってきており、飲み放題とは縁遠くなってきました。

ときに、ずいぶん昔のことですが「長い間、友人関係を継続できる要因」について特集した雑誌を読んだことがあります。
誤っている部分があるかも知れませんが、粗々以下のような内容であったと思います。

①自然体でいられる
②連絡を絶やさない
③干渉しすぎない
④馬が合う
⑤共通点がある

早速、我々に当て嵌めてみたいと思います。

まず、小学校時分からの知り合いですから、超自然体です。
親や兄弟のことなど細かいことまで周知の間柄ですから、今さら格好の付けようがありません。

連絡という点では、年賀状でずっとつながってきましたし、反面、干渉し過ぎることはこれまで全くありませんでした。

また、ちょっとお下品な話になると殊のほか盛り上がるところは、馬が合うと言えます。

ただ、共通点という要因には、課題が残ります・・。

小学校の同級生である我々は、中学受験に失敗した私を含め、地元の同じ区立中学に進学しましたが、その後の人生はバラエティに富んでいます。

女子なのに黒いランドセルを背負っていた☆☆江ちゃんは、美容師となり、20代前半に結婚。
早くもお孫ちゃんが4人います。
近年転ぶことが多く、整形外科外来の常連です。

☆☆子ちゃんは、バブル期を謳歌した典型的な元都会派OL。
コロナ前までは頻繁に海外を旅していましたが、近年、両足に人工股関節手術を受けました。
昨年会ったときに比べて回復が進んでいたので安心しましたが、5年以内に同様の手術をすると医師に宣告されている私にとっては、戦友のような思いです。

☆☆代ちゃんは、バッテンを2つ保持するかっこいい女性。
若い頃は実家に上がり込み、☆☆代ちゃんの妹と3人でタバコの煙とコーヒーの香りを絶やさず、朝までよくしゃべり倒したものです。
また、お互いの母同士も、とても仲が良い間柄です

男性チームの相方である☆☆☆っちゃんは、若い頃から寝る間を惜しんで働く男でした。
数年前の早朝、会社で脳梗塞を発症したものの、運良くほとんど後遺症もなく復活しました。
若くして結婚し、2人の子供に恵まれたので、上の子は既に38歳、下の子も33歳。
最近は2歳のお孫ちゃんにもてあそばれているんだ、と嬉しそうに嘆いていました。

かくいう私は、セガレがまだ19歳。
孫どころか、教育費を必死に払っている状況です。

共通点は見出せなくても、幼なじみという強い絆で結ばれているのでしょう。
55年前の偶然の出会いを、これからも大切にしていきたいと思います。

小学生だった我々も、あっという間に61歳になりました。
楽しい時間が過ぎると、最後はこう言って別れます。

「じゃあね、元気でね。」

212 読書三余

読書三余。

この四文字熟語の解説は、「福島みんなのNEWS」サイトにわかりやすく掲載されています。
(http://fukushima-net.com/sites/meigen/411)

読書・勉学をするのに好都合な三つの余暇(自由に使える時間)のことを表しています
一年のうちでは冬、一日のうちでは夜、気候では雨降りをいいます。

出典は『三国志』魏(ギ)志・王肅(オウシュク)伝の注です。

中国三国時代(A.D.220~280)、魏の大司農(ダイシノウ:今の財務大臣)董遇(トウグウ)が、その弟子に教えた勉強法です。

董遇は、弟子に最初から教えようとせず、まず自分で書物を熟読すべきことを説きました。
『読書百遍 義自(おの)ずから見(あら)わる』
まず書物を百回繰り返して読め。百回読めば自然に理解できるようになると弟子たちに教えました。

弟子の一人が「私には、書物を百回も読む暇がありません」と答えました。
すると董遇は「暇がないことはないでしょう。三余にしなさい」と言いました。

三余とは何ですかとの問いに、
冬は歳(とし)の余、夜は日の余、陰雨は時の余なり
1)冬は一年の余り、
2)夜は一日の余り、
3)雨降りは時の余りである
と答えました。

この話は「董遇三余」とも呼ばれています。
余は「余暇」の意味です。自由に使える時間と言う意味です。
「晴耕雨読」が生活の基本であった当時、
農作業の忙しくない季節である冬と、
一日のうちでは夜と、
雨降りの時が
余暇になります。

暇がないと騒ぐのは、今も昔も勉強したくない者の言い訳のようです。

この言葉の奥義は、最後の1行に集約されていますね。

私も、繁忙期になると本を読む時間がないと感じる「勉強しなくない者」の典型です。
思い返してみると、ここ数ヶ月、読書時間は著しく減っていますし、書店にもあまり行っていません。
この正月期間は、読書に時間を割きたいなと思っていました。

そんな中、昨夜、衝撃的なテレビ番組を見つけました。

「NHKスペシャル未解決事件・松本清張と帝銀事件 第1部ドラマ 事件と清張の闘い」です。

帝銀事件とは、1946年、銀行員らに液体を飲ませて12人を殺害し金銭を奪った、戦後最大のミステリーと呼ばれている事件です。

事件から約7ヶ月後、逮捕されたのは小樽在住の画家・平沢貞通氏。
彼は、裁判で終始無実を訴え続けながら、1987年に95歳にて獄中死しました。

作家の松本清張氏は、この帝銀事件をはじめ、下山事件や松川事件など、アメリカ軍占領下で発生した重大事件について独自の視点で真相に迫り、「日本の黒い霧」というノンフィクションを出版しました。

私がこの本に出会ったのは、高校生の時。
平沢貞通という男は、贖罪の念を全く持たない卑劣極まりない人間なのか、あるいは、無実の罪を着せられた極めて痛ましい人なのか・・。

高校生のどこかのスイッチが、オンになった瞬間でした。
その後、事件や事故、死刑制度などの本をたくさん読みました。

そんなちょっと変わった読書癖のきっかけになった本が、ドラマ化されたのです。
昨今、テレビドラマを見ることはほとんどありませんでしたが、昨夜は1時間半、テレビに釘付けになりました。

帝国銀行椎名町支店、松井蔚氏の名刺、青酸ニトリール、テンペラ画家・・。
45年も前に読んだ本が、アタマを巡りました。
青春時代に心揺さぶられたことは、長い時間を経ても忘れないものだな・・と感じました。

大沢たかおさんの鬼気迫る演技も秀逸でした。
今夜9時から放映される第2部が、今から楽しみでなりません。

211 終食之間

最近お気に入りのお弁当があります。
亀戸升本さんが作る「すみだ川あさり弁当」です。

ツイッターでも高評価を得ている亀戸升本さんは、明治38年に酒屋として創業。
その後、幻の江戸野菜「亀戸大根」を復活させ、割烹料理屋として復興したという、少し変わった経歴のお店です。

では、このお弁当のお薦めポイントを3つご紹介します。

お薦め①:亀辛麹(かめからこうじ)
写真中央の小さなカップに入った、米麹と青唐辛子と有機醤油を長期熟成させた秘伝のタレです。
ピリッとした辛さが特徴で、鶏つくね、里芋、ご飯等、何にでも合います。
思い出すと無性に食べたくなる、やみつきのタレです。

お薦め②:卵焼き
ちょっと隠れてしまって分かりづらいのですが、写真の一番下に、かなり分厚くてビッグサイズの卵焼きが入っています。
様々詰められたおかずの中で、ふんわり柔らかくてほんのり甘いこの卵焼きが私は一番好きです。
半分はそのまま、残り半分は亀辛麹と共に楽しむことにしています。

お薦め③:カラダに優しい
美味しいだけではなく、添加物が少ない点も大きな魅力です。
原材料表示は下記の通りです。

お弁当でよく見かける、増粘多糖類、pH調整剤、ソルビット、グリシン、酢酸Na、保存料(ソルビン酸K)などなど、定番の添加物が見当たりません。
私は小さい頃から食の安全について母から教えられてきましたので、このお弁当はとても嬉しいですね。

さてワタクシ、お弁当にまつわる忘れ得ぬ思い出が2つあります。

1つは、小学校高学年の頃。
ひとりで夏期講習か冬期講習に参加したときのことです。
確か、日暮里駅か鶯谷駅の近くにあった、当時としてはそこそこ大きな規模の学習塾だったと思います。

昼の休憩時間、持参したお弁当を席で食べていたら、前に座っていた見知らぬ2人の生徒が振り向きざまにこう言いました。

「お前のエビフライ、ちっちぇな」

そう言い放ったのは背の小さな方。
そして、その横でニヤニヤ笑う小太りの男が持つお箸には、私の2倍以上の大きさのエビフライが握られていました。
その存在感は、抵抗する気持ちを萎えさせるに十分なものでした。

私ひとりで見知らぬ塾生2人を相手に喧嘩をする度胸もなく、「テストの点数は負けねーからな」なんて密かに思うのがせいぜいでした。

「あなたの学習塾の費用が結構バカにならなくてね・・」と大人になってから母に聞かされましたので、あのエビフライのサイズは、当時の我が家の経済状況そのものだったのだと思います。

50年も前の出来事なのに鮮明に記憶しているということは、当時のショックは大きかったことの裏返しなのでしょうか。

今思えば、あの大きなエビフライは、お総菜コーナーで購入したのではないでしょうか。
かーちゃんが愛情込めて手作りしてくれたことに値打ちがあるんだ、なんてやり返すことは、当時無理だったなと思います。

もう1つは高校1年生のとき。
教室の席は氏名の五十音順に決められていましたので、私・ヤマダは最後から3番目の窓側の席でした。
そして、私の右に座っていたのは、お坊ちゃまの雰囲気漂う「前田」。
昼になれば隣の机に広げられる前田のお弁当は必然的に目に入りますが、これがとても印象的でした。

端的に言うと、美しいのです。
男子高校生が持参する弁当ですから、キャラ弁とかいう美しさではなく、まるで仕出し弁当屋さんが作ったように、色や盛り付けがキレイなのです。
しかも、来る日も来る日も期待を裏切らない、見目麗しいお弁当でしたので、前田の弁当をこっそりのぞき見するのが、日々の楽しみにもなっていました。

こう言っては叱られそうですが、私の母の弁当はとても美味しかったけれど、見栄えは普通でした。
高校1年生にして、料理は美を表現できるものなのだ、ということを前田のお弁当を通じて学びました。

我が家のセガレも中学高校の6年間、お弁当を持参しました。
たまには売店でパンを買うとか、食堂で名物の唐揚げ丼でも食べればいいのに・・、と思うことがありましたが、頑なに弁当を持っていきました。

日曜日以外毎日ですから、作る方は大変です。
ほとんど冷凍食品を使わずに、よく作ったものだと感心します。
少しはカミさんに感謝しているのかな、と思ったりします。

あ・・。
かく言う私も、見栄えがどうとか言う前に、母に感謝の言葉を伝えたことはあっただろうか・・。

210 投桃報李

同じ名字の山田という親友がいます。
外見は、ほぼ「その筋の人」です。
青果市場で早朝から働き、午後は別の仕事に就くという、超人的に働くタフな男です。

私は年に数回、ゴルフコンペの商品手配を彼に依頼します。
順位に応じた予算を提示すると、その時の旬なフルーツや野菜を準備してくれます。
それだけでなく、一つひとつに説明書きを添えてくれるのです。

つい先日依頼した時の優勝賞品は、高級ぶどうの詰め合わせでした。
その内訳は、シャインマスカット、ナガノパープル、マイハート、土佐太郎、コトピー、高妻、ゴルビーの7種類。
今回もこれら全てに、事細かな解説が書き添えられていました。

市場というところには、我々が日常スーパーでは見かけることのない品種が数多く並んでいます
また、夏場にミカンがあったり、冬なのにスイカが売っていたり、驚きの光景が広がっています。

さて、上は我が家のダイニングテーブルで撮った写真です。
誤解のないように申し上げておくと、件のコンペで優勝した訳ではありません。
コンペの賞品を引き取りに行った際に、彼がプレゼントしてくれたものです。

彼と私は、折に触れて、モノを贈り合う仲です。
盆暮れに関係なく、彼は旬のフルーツを、私はラーメンやうどんなどを、挨拶代わりに贈り合っています。

写真について、簡潔に解説します。
写真左上、濃紺色のぶとうは「ナガノパープル」という品種です。
あまり聞かない名前ですが、品種登録されたのは2004年ですから、18年も前のことです。
黒系のブドウなので、皮にはポリフェノールがたっぷり含まれており、1房食べると赤ワイン1本分と同程度のレスベラトロール(ポリフェノールの一種)が摂取できると言われています。

その右下、ちょっと粒がばらけてしまっているのが「コトピー」。
シャインマスカットと甲斐乙女を交配した、果皮が赤いぶどうです。
シャインの味がほのかに感じられ、上品な美味しさでした。

その右上は、ご存じシャインマスカット。
「まだ早いから追熟させてから食べてよ」と言われたにも関わらず、我慢できずに少し食べてしまいましたが、十分美味しかったですね。

一番右上のぶどうは「マイハート」です。
その名の通り、ハート型をしています。
生産量が非常に少なく、市場にもごくわずかしか出回らない希少な品種です。
半分に切って並べると、ハートがとても可愛らしいですね。
お弁当に入っていたら、テンションが上がりそうです。

それから、左下に桃が1つあります。
これは「CX(シーエックス)」という山形県産の超レアな品種です。
梨のような食感が特徴の桃ですが、やや固めの食感に反して、実に甘い!
桃の糖度は通常の11〜14度くらいとされていますが、19度という飛び抜けた糖度の品種です。

その桃の上下にキウイがあります。
私がコンペでゲットしたのはこれです。
福岡県産の「レインボーレッドキウイ」という品種で、サイズはやや小ぶりですが、2つに切ると中が赤くてビックリします。

  • 低温でも熟してしまうため貯蔵性が無い
  • 生産量が非常に少ない
  • 出回る時期も限られている

という貴重な品種ですので、当然、お値段も高めです・・。

ワタクシ、第9位という成績で、この商品を獲得しました。
まさか・・と思って確認すると、やはりそうでした。

「9位だからキウイにしたよ」

コンペの表彰式を盛り上げるためのオヤジギャグも仕込んでくれる市場の彼に、謝意を表したいと思います。

【参考】
今回紹介したのは千住の足立市場内にある関水青果さんです。
一般の人でも購入が可能です。
産地の話、食べ方など、いろいろ教えてくれますので、ぜひ足をお運びください。

209 椿萱並茂

私の父は、昭和8年生まれの89歳です。
16歳の時、荷物を1つ抱えて故郷の伊豆から上京しました。
90歳目前ですが、今も現役で働いています。

80歳を過ぎてから、心臓のバイパス手術を受けました。
入院中、「こんな歳だけど、まだやり残したことがあるので、元気になりたい」と看護師に話し、有言実行、仕事復帰しました。

また、昨年は肩に打った注射から感染症を起こし、入院生活を余儀なくされました。
3週間の入院生活は、88歳の老人の脚力を容赦なく奪いました。
それでも、母の協力もあってウォーキングで筋力を戻し、またまた社会復帰を果たしたのは天晴れでした。
44歳のとき弊社を興した本人とはいえ、 仕事への思いは並々ならぬものがあり、生涯現役を貫くつもりなのだと思います。

一方、母は昭和12年生まれで、誕生日は1月1日です。
本当は12月下旬に生まれたそうですが、役場が休みだったから元日生まれで届けを出した、と自身が子供のころ聞かされていたそうです。
元日の方が確実に役場はお休みだと思うので、理屈に合わないのですが・・。

85歳になっても変わらず料理が上手で、今もおかずを作って私に持たせてくれることがあります。
また、スマホでLINEができるのは、この歳にしてはスゴイことだと思います。

日本歯科医師会が80歳になっても20本以上自分の歯を保とうという「8020運動」を推進していますが、母は85歳にして歯の欠損がありません。
「子供の頃、貧しいものしか食べられなかったのが逆に良かったのかも」などと本人は言いますが、驚異的な口腔内健康の持ち主です。

父と同様に、母も若い頃からよく働く人でした。
狭いアパートでノンブルを打つ内職作業を、毎日のようにしていました。

「ノンブル」とは印刷業界用語ですが、ページ番号と表現すればわかりやすいでしょうか。
フランス語で「数」を意味する「nombre」に由来すると聞いたことがあります。

要するに、母の内職は、ナンバリングの機械で伝票に番号を打つ作業でした。
小さい卓袱台のような作業台の前に正座して、1枚1枚番号を打っていくのですが、これが思ったより難しい作業です。

まず、指定の位置に打たなければなりません。
多くの場合は、アンダーラインに沿って、その上側に打っていきます。
上下左右に位置が動いてしまうと、見栄えがよろしくありません。

また、ペラものであれば打つたびに番号を進めればよいのですが、2枚複写であれば2回に1回、3枚複写であれば3回に1回、機械の一番上にあるボタンを親指でノックして番号を進めなければなりません。

そして、機械を紙に強く押しつけると必要以上に紙が凹みますし、機械の番号部分も摩耗します。
なによりアパートでしたから近隣への騒音も気にしなければなりません。

母は、なるべく音を立てないように、でも、番号の印字が欠けないよう絶妙な力加減で作業する達人でした。

「実は、あなたの塾代が結構負担でねえ・・」
15年くらい前、母が打ち明けました。
1回打って1円に満たない内職代が私の通塾を支えてくれたんだなあ、とずいぶんいい歳になってから気付きました。

椿萱並茂。
両親がどちらも健在でいること。

私の年代になると、両親のどちらかを既に亡くされた友人が目立ちます。
中には、両親ともに他界された仲間もいます。

自身が還暦ですから、親は80代から90代。
悲しいことですが、致し方ありません。

両親とも健在、しかも元気で暮らしているのですから、私はとても恵まれています。
そんな両親に、先週の敬老の日には、お気に入りの京都の名店から、秋限定のご馳走膳を贈りました。

208 遊戯三昧

「友達が麻雀を教えてくれたんだけど、用語がなかなか覚えられないや」

福岡旅行から戻ったセガレが突然言い出しました。
その友人は、中学高校の同級生で、学部は違いますが同じ大学に通っています。
聞けば、その友人のクラスでは、麻雀が静かなブームなのだそうです。

若者の麻雀離れが指摘されて、随分経つように思います。
1つの理由として、若者の行動体系が大きく変わったことが挙げられます。
彼女なんて要らないという、私が若い頃には(いや、このトシになっても)理解できない草食男子にとって、4人揃わないと始まらない麻雀は、敷居が高くなって当然と言えるでしょう。

2つめに、金品を賭ける、タバコを吸う、酒も飲む、徹夜もしちゃう麻雀は、イマドキの遊びではないのかも知れません。

私が麻雀を覚えたのは、高校2年生のときでした。
たちまちその奥深さにハマり、「世の中にはこんなに楽しい遊びがあるのか!」とさえ思いました。
多彩な役にも魅力を感じましたが、符の計算が算数のドリルのように楽しくて引き寄せられました。

高校生の時に通った池袋の「平和」という雀荘は、1時間80円でした。
お茶の1杯すら出ませんでしたが、麻雀ができればそれで良かった高校生にはうってつけの場所でした。

大学生になってからは、高田馬場の「西武」に本拠地を移しました。
刺激的な辛さのカレーライスが有名で、眠くなってきた頃に食べると、アタマの芯から汗が出て、覚醒したものでした。

私にとって麻雀は、間違いなく青春の1ページです。

さて、前回のバリカン丸坊主に続いて、高校生活ネタをもう1つ。

私の高校では、日直がクラス日誌を書くことになっていました。
といっても、その日の天気や欠席者など、他愛もないことを書けばよいのです。
そして、その日誌は、担任が手の空いたときに教室で読むことが習慣になっていました。

高校2年生の秋。
日直だった私は、来る日も来る日も同じような内容ばかりでつまらないな・・と思い、何を血迷ったか、日誌に麻雀ネタを書くことにしました。

南3局 西家 持ち点43,000点 トップ
5巡目にリャンソー自摸 何を切るか

こんな感じの「何切る問題」を書きました。

翌日、次の当番に日誌を渡すと、「山田がこんなこと書いてるぞ!」と暴かれました。
そして、私の書いた日誌の内容は、一気にクラス中に行き渡りました。

「このまま出すのか?」
「シャレじゃ済まないぞ」
「自爆だろ!?」

皆にそう言われましたが、せっかく書いた日誌を消すつもりは毛頭ありませんでした。

そして、ある日、本来予定されていた授業が何らかの事情で休講となりました。
こういう場合、担任の監督のもと、生徒は自習するというのが常でした。

各自目的を持って自習するように、と先生から指示が出ても、大半の生徒は上の空でした。
何故なら、教壇に鎮座した担任が、そこでクラス日誌を読むであろうことは、誰でも予想のつくことでした。
ほとんどの生徒は教科書を見ているふりをしながら、担任の動きを目で追っていました。

担任はサトウ先生。
気難しいことで名高い、中年の男性教師でした。

そんなとき、教師の表情が明らかに変わりました。
おそらく、私の書いたページに到達したのでしょう。

「山田、ちょっと来い」

ついにお呼びが掛かりました。
教室内が、急にざわつきました。
私も腹をくくってはいましたが、険しい表情で名指しされましたので、動揺は隠せませんでした。

「おい」
「な、なにか・・」

「お前な」
「あ、はい・・」

「これ、なに切るんだ?」
「え??」

「教えろ」
「はい。持ち点がトップなので平和ドラ1を闇聴で早上がりできるようにもっていくべきであり、であるならば、スーアン自摸による3面待ちを捨てても、油っこい中央付近のウーアン、ローアンを切るべきであると考えます」

「ふーん。なるほどな。戻れ」

昭和って、やっぱり良い時代だったんだなって思います。

207 一球入魂

第104回全国高校野球選手権が開幕しました。
3年ぶりに一般客がスタンドで観戦できることになりましたが、敗戦校が土を持ち帰ったり、勝者が大声で校歌を歌うことはNGだそうで、コロナの影響は未だ色濃く残っています。

大会初日の今日、甲子園地方の最高気温は32度でしたから、猛暑日にならなかったのは良かったと言えます。
ただ、近年の暑さは、昔とは別物と考えなければならないと思います。
ドーム球場で開催すれば、健康面での安全が確保されるのになあ、と思ったりします。
開会式でプラカードを持つ女子学生の親も、安心して送り出せるのではないでしょうか。

しかし、球児たちにとっては、夢の舞台が甲子園球場であることが、意義深いのかも知れません。
アメリカ横断ウルトラクイズ決勝の地がニューヨークでなくてはならないのと同じですね(違うか)。

そんな中、先月下旬、日本高野連は将来的に朝と夕の「2部制」での開催を含め、さまざまな観点から暑さ対策を検討すると発表しました。

これまでも専門の理学療法士を待機させたり、試合中に給水や休憩の時間を設けたりして対策を重ねてきたようですが、暑さ対策についてはより前向きに、そして迅速な対応が必要だと思います。

ところで、日本高校野球連盟の調査結果によると、2021年、同連盟に加盟する47都道府県の高校の硬式野球部の部員数は13万4,282人でした。
2001年は15万328人でしたから、10年間で1万5,000人以上減ったことになります。
また、中学軟式野球部は、もっと大幅に減少しているそうです。

子供たちの野球離れには、以下の複合的ファクターがあると考えられています。

  1. ボールの使用を禁止する公園が増えたこと
  2. YouTubeやeスポーツ市場の拡大によるゲーム人気の高まりなど、娯楽の選択肢が増えていること
  3. 経済的理由で子供の野球用具の購入費用が捻出できないこと

また、もう1つ、独特の要因があります。
「坊主頭」の文化です。

現在は、多くの学校が坊主頭を強制しているのではなく、「暗黙の了解」で坊主頭にしているのだそうです。
先輩が皆丸刈りならば、新入部員が坊主にするのは必然ですから、これを暗黙の了解というのでしょう。

しかし、最近は髪を伸ばした高校球児を見ることが増えたように思います。
中国新聞社が今年の広島県大会前に調べたところ、出場85校(83チーム)のうち、半数以上の46チームが髪形を選手個々の判断に委ねている一方、37チームが今でも全員丸刈りにしているとのこと。
徐々に変わりつつある、といった印象ですね。

2019年夏、45年ぶりに甲子園出場を果たした秋田中央高の佐藤監督(当時)の言葉が印象的でした。
この学校は2019年4月に、監督が坊主頭を見直すのはどうだろうと生徒に提案し、最終的に丸坊主をやめる決断を下しました。
その決断を受け、佐藤監督は部員たちにこう伝えたといいます。

「負けたら色々言われるよ。寝癖がついていればだらしないと思われる。自由というのは一番厳しいんだ。野球だけでなく、普段の身だしなみから自分で考えるべ。坊主頭のままでももちろんいい。でも髪型を考えることを放棄して坊主頭にするのはやめよう」

わがままに何をしてもいいのが自由ではなく、人に対して、そして、自分に責任を持つことが本来の自由であるという指導に感銘を受けました。

私は物心ついたときから野球が大好きでした。
しかし、私の通った東京都文京区の公立小学校にも中学校にも、野球部はありませんでした。
文京区は山手線の内側に位置していますから、野球ができるほどの広い校庭を望むのは所詮無理な話です。

一転、高校には広い土のグラウンドがありました。
もちろん野球部もありましたが、私は入部しませんでした。

坊主頭にするのがイヤだったからです・・。

ご多分に洩れず、我が母校の野球部員は全員丸坊主でした。
髪型が自由だったら、野球部に入部していたかも知れません。
坊主頭ルールが有能なプロ野球選手を1人失った、と言えるかも知れません(違うか)。

また、全く別の意味で、独特の丸刈りルールがありました。
それは、校則違反を犯した者は、懲罰として丸坊主にされるというものです。

丸刈り担当は、ごつくて強面の体教(体育教員の略)でした。

「この間、電動バリカン買ったからな。ガンガン坊主にするぞー!」
ある日の朝礼で、体教が不吉な笑いを浮かべていました。

昨日まで髪の毛フサフサだった友人が、ある朝突然、坊主頭になって登校してくるなんて姿を何度も見ました。
その理由は多様です。

「昼ドキに学校抜け出そうと思ったら捕まった・・」
「パーマ掛けて、直さなかったらやられた・・」
「タバコ持ってるのバレた・・」

根本的な原因は生徒にあるので、当時の学生は不満に思ってはいませんでしたし、今思い返しても、指導の行き過ぎだとは感じません。

ある日、友人のK君が正門前で体教に確保されました。
1978年4月4日の午後でした。

「おい、具合でも悪いのか?それともほかに理由があるのか?」

万事休す・・。
しかし、K君は正々堂々、体教と対峙しました。

「先生、今日はキャンディーズの解散コンサートがあるんだ。今日が最後なんだ。明日、朝イチで体育教官室に行って、どんな処分も受ける。だから今日は行かせて欲しい」

屈強な体教を前に、そして、学校をサボるという立場にありながら、K君は胸を張って言いました。

結果、彼は後楽園球場で解散コンサートを見ることができました。
そして、何故か、電動バリカンの餌食にもなりませんでした。
直球勝負の心意気が先生を動かしたのか、あるいは、その体教もキャンディーズのファンだったのか、真相は闇の中です。

言った生徒も生徒なら、対応した教師も教師です。
昭和の良き風景を感じます。