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163 聖人君子

令和になって初のお正月が近づいてきました。

最初の元号「大化」が制定されたのは西暦645年。
令和は、248番目の元号に当たります。

これまで、最も期間が長い元号は「昭和」で64年。
次が「明治」で45年、「平成」は4位です。

3位は、1394年から1428年まで35年続いた「応永」だそうです。
金閣寺ができたのもこの時代。
平和な時代だったと言われ、「応永の平和」なんて言葉もあるのだそうです。

しかし、今年2月、日本経済新聞に歴史学者・呉座勇一氏が興味深い記事を寄せています(以下抜粋)。

中世で「応永の平和」と呼ばれる時期がある。戦乱が比較的少なく、社会が安定した。その応永(1394~1428年)は約35年間続き、明治以前では最も長い。

「ほぼ平成と同じ期間だが、応永の平和は問題を先送りして、もめ事が起きないようにして保たれた。その矛盾が噴出したのが応仁の乱だとも言える」

新しい年号の時代が5月に始まる。少子化問題や国と地方に積み上がる借金。次の時代に引き継がれる負の遺産も多い。今まで目をつぶってきた問題がどんな結末になるのか。悲観論者なので、少し心配している。

今の政治に当てはまる部分も大いにあるのではないでしょうか。
令和の時代に、応仁の乱が勃発するようなことがあってはなりません。

ところで・・、
私は、天皇皇后両陛下の大ファンです。
まさに才色兼備な皇后陛下は、ご婚約されたときからファンでした。
一方、天皇陛下を尊崇するきっかけになったのは、2004年5月、皇太子様時代のご発言です。

「雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です。」

陛下の勇気に感動しました。
多くの取り巻き(宮内庁と断言してもいいかも知れません)を敵に回しても妻を守る、という強い意志を感じました。
「僕が一生全力でお守りします」とのプロポーズのお言葉を貫き通す陛下を、同じ男としてただただかっこよく感じました。

そもそも皇后陛下は、魅力ある働く女性の象徴だったと思います。
元外交官で、語学も堪能な皇后陛下は、開かれた皇室と海外の架け橋を担うはずだと信じて疑いませんでした。

しかし、「雅子妃(当時)は外国に行きたがってばかりで、世継ぎについて真剣に考えていない」との歪んだ見方が蔓延っていたのではないでしょうか。
約20年前、子どもができるのは当たり前、できないのは女性が悪い、という時代錯誤な考えがあったと思います。

ご結婚から8年ののち、ようやく愛子様が誕生されました。
しかし、喜びも束の間、すぐに男子の第二子を期待され、おびただしい重圧が雅子様にのし掛かったと、容易に想像がつきます。

しかし、今年、皇后様をお姿をテレビで拝見していると、心身共に健康を取り戻されたようで本当に嬉しく思います。
中でも、11月10日に行われた祝賀御列の儀(パレード)で、オープンカーから手を振られる皇后様は、本当にキレイでした。
多くの国民からの祝福を目の当たりし、孤独と重圧から解放された真の笑顔だったのでしょうか。

そして、去る12月4日、両陛下は皇居・賢所で「御神楽の儀」にのぞみ、即位に伴う一連の全儀式を終えられたとのことです。
年号が変わって早7ヶ月以上が経ちますが、ようやくその務めを終えられたと知り、いささか驚きました。

実は、我が家が子宝に恵まれたのも結婚8年後でした。
天皇陛下は私の2学年上、皇后陛下はカミさんの2学年上、そして愛子様はセガレの2学年上。
共通点を勝手に見出したりもして、親近感を感じています。

この正月、新年一般参賀に初めて行ってみたいな、と思っています。

162 紅灯緑酒

紅灯緑酒(こうとうりょくしゅ)
歓楽街・繁華街の華やかなことの形容。また、歓楽と飽食の享楽生活のたとえ。
「紅灯」はあかいともしび、繁華街などの華やかな明かりをいう。
「緑酒」は緑色に澄んだ酒、質のよい美酒をいう。

私は酒が飲めません。
弱いのではなく、全くカラダが受け付けない、パーフェクトな下戸です。
従って、歓楽街で質の良い美酒を味わうことなどあろう筈がないのです。

「下戸」とは、酒が飲めない人、酒が嫌いな人を指します。
逆の「上戸」もあるのか調べてみると、酒の好きな人、また、酒が好きでたくさん飲める人を「上戸」と言うのだそうです。

上戸というと笑い上戸のような使い方が浮かびますが、これも本来は酒に酔うと出る癖の状態を表すとのこと。

下戸の由来は、平安時代に遡ります。

当時の律令制では、家族の構成や資産によって階級分けがされており、働き手が多く納税額も多い家は「上戸」と呼ばれ、その下が「中戸」、もっとも納税額の少ない家が「下戸」と呼ばれていました。
そして、婚礼などで出せる酒の量もこの階級によって決められており、上戸の家では8かめ、下戸の家なら2かめとなっていたそうです。
このことから、酒をたくさん飲める人のことを「上戸」、飲めない人のことを「下戸」と呼ぶようになったのだとか。

ところで、先日、書店で「下戸の夜」(本の雑誌社)という本を見つけました。
「下戸の矜恃」「下戸と主張」「下戸とカルチャー」など楽しく読み進み、中でも、武田砂鉄さんの文章には、溜飲が下がる思いがしました。

「お酒を飲まない人」のことを、世の中は「お酒が飲めない人」と規定する。「コーラを飲まない人」のことを「コーラが飲めない人」とは言わない。この一点だけでも、お酒って、だいぶ偉そうである。酒でも飲まなきゃ言えない話、なんて言い方があるけれど、じゃあ言わなきゃいいのに、と思う。こっちは、日々、コーラやジンジャエールやコーヒーやピルクルをテーブルに置きながら、言いたいことを言っているのだ。

酒を飲んでもいい。同時に、酒を飲まなくてもいい。それだけならば平和なのに、「え、飲まないの?」とか「ちょっとくらい飲みなよ!」とか言うから平和が崩れる。平和を崩すのはそっちだ。〈中略〉自分は盆栽に興味がない。でも、盆栽が好きな人に「なんで盆栽なんかやってんの?」とは聞かない。あっちも「え?なんで盆栽好きじゃないの?」なんて返してこない。お酒はどうだ。聞いてくる。返してくる。揉める。そんなに偉くないんだぞ、お酒、とお伝えしたい。

いやいや、こんなにも下戸の立場を的確に言い表す文章があるのかと、シビれました。
出版物ですから、面白おかしく表現したり、やや卑屈感を醸し出している部分も感じましたが、下戸が日常、表出できない本音や奥底を高らかに言い放っていました。

50代後半にもなると、さすがに下戸である人生に慣れましたが、これまで飲めないが故の嫌な思いも経験しました。

日本では、親密度が増すと「今度飲みに行こう!」が常套句です。
その度に「すみません、私、飲めないんですよ。」と言わざるを得ません。

そもそも、飲めないことを相手に伝えるために、陳謝の接頭辞が付きます。
こちらとしては何故か卑下している心持ちなのです。

そこに「え?飲めないの?」と返された暁には、ぐっさり傷つきます。
発した側には、ひと欠片の悪意もないのかも知れませんが、失望感は間違いなく感じ取れます。

私が最も嫌いなセリフは、「お前だけは素面(しらふ)だからな」。
この場から去れ、と同義語ではないかと思います。

また、下戸という言葉に「下」という漢字が含まれることも、卑下しているようで、見下ろされているようでイヤですね。

以前、業者仲間の酒屋の社長にこう言われました。

「山田さん、酒飲まないんだよね・・。どうやって夜過ごしてるの?不思議だよなあ・・。」

天職とも言える酒屋を営む社長には、アルコール抜きの夜はあり得ないのでしょう。
どのような時間を過ごしているのか、本気で不思議に思ったのでしょう。

「ピザとジンジャエールだけでも、夜は更けていくんですよ!」
こんな私の答えに対しても、不思議だ不思議だ・・と繰り返していました。
蛇足ですが、この社長とはとても仲が良いので、不穏なことにはなっていません。

マイノリティである状況は認めざるを得ないのですが、不条理さを訴えれば訴えるほど、負け犬の遠吠えになってしまう雰囲気があるのも悔しいですね。

さて、書籍にはこんな一文も。

ただし、ひとつだけ、私には腑に落ちない言葉がある。「お酒は飲めないけれど、お酒を飲む場の雰囲気は好き」というヤツ。〈中略〉ギャンブルは大嫌いだが競艇場の雰囲気は好き、という人を、私は見たことがないからである。

ん、確かにそうですね。
私が下戸と知って引いている相手、しかも本音は帰りたいのだが、経緯上、どうしてもお供しなくてはならない相手に向かって、過去に何度か発したことがあります。
これは、下戸の沽券に関わる問題ですから、改めないといけませんね。

本当は、下戸であることを然許り悔しく人生を過ごしてきた訳ではないのですが、この本に接して、下戸であるが故に抱いてきた劣等感に声を上げたくなってしまいました。

しかし、こんな一文もありました。

「まったく飲めないという体質の方は、ちょっとした幸運をもって生まれてきた。」

酒気帯び運転の可能性が1%もないこの人生。
悪くはないかも知れませんね。

161 銀鱗躍動

今日10月14日は、体育の日です。
1964年(昭和39年)10月10日、東京オリンピックの開会式が行われた日を記念して、1966年(昭和41年)に国民の祝日に制定されました。
その後、2000年(平成12年)から、ハッピーマンデー制度によって、10月の第2月曜日となりました。

この体育の日、来年大きな変化が2つあります。

1つは、名称が「スポーツの日」へと変わります。
日本の祝日では初めてカタカナの名称です。

そして2つ目は、2020年に限って、10月第2月曜日ではなく、7月24日に変更となります。
そうです、2020年東京オリンピック開会式当日です。

加えて、海の日がこれも2020年限定で7月の第3月曜日から23日(木曜日)へ移動するため、土日を入れると4連休となります。

この祝日の変更について、私は仕事上カレンダーを取り扱うため認識していましたが、世間一般に浸透しているとは言えないのではないでしょうか。

今年は、来たる10月22日が即位礼正殿の儀で祝日であることも認知度が低いようです。
知らずに来てしまう患者が多いと予想されるため、休診にできない医療機関もあると、新聞に取り上げられていました。
政府は広報の方法について、もっともっと工夫の余地があるように思います。

さて、スポーツの秋真っ只中、昨日は私にとって堪らなくエキサイティングな日となりました。

ひとつは、ジャイアンツがクライマックスシリーズを制し、6年ぶりに日本シリーズ出場を果たしたことです。

夫婦揃ってジャイアンツファンの我が家にとっては、待ちに待った日本シリーズです。
何よりも楽しみにしているのは、銀座で行われるパレードです。

前回行われたのは2012年11月。
真っ赤な2階建てバス3台に乗った選手たちに、手を振りながら声援を送りました。

朝早くから大変な人出でしたが、近くに居合わせた人たちが、当時9歳だったセガレを、
「こっちにおいで。よく見えるぞ。」
と、人混みの前に出してくださいました。

「有難うございました。また、来年、この場所でお目に掛かりましょう!」
「そうですね!1年後に会いましょう!」

ファン同士、明るく交わした約束から、既に7年も経ってしまいました。
あの興奮と感動を、ぜひ今年は味わいたいと思っています。

そして、もうひとつは、ラグビーワールドカップで日本代表が初のベスト8入りを決めたことです。

ラグビーは、中学時代の同級生が、高校・大学・社会人とラグビー界で活躍したので、若い頃からテレビでよく観戦していました。

ですから、ルールも知っていますし、現在世間に増殖している「にわかラグビーファン」ではありません(笑)。

今、ラグビーに熱狂している大半の人々は「にわかファン」だと言われていますが、下のようなTシャツが販売されたり、決して悪いことではないと思います。

当初はラグビーのワールドカップを日本で開催しても、盛り上がりに欠けるのではないかと想像していましたが、日本代表の快進撃もあって非常に盛り上がっていますね。
メジャーな競技だけでなく、様々なスポーツが認知されるのは、素晴らしいことだと思います。

出展 https://seikatsunotanoshimi.1101.com/2019_spring/shop_list/rugby

野球とラグビーの試合に熱狂した昨日、私は団体競技の方が好きなんだなと改めて感じました。

草野球をしている頃、試合のあとにファミレスで過ごす時間は愉しいひとときでした。
あのカーブは抜群のコントロールだったとか、あの三振はあまりにも無様だったとか、良いプレイもダメなプレイも、いいおかずになりました。
嫁さんや子供や彼女も一緒になって、そして、勝っても負けても、話は尽きませんでした。

年齢を重ね、スポーツに興じる機会はめっきり減り、ゴルフが唯一かも知れません。

ゴルフは個人競技ですが、コンペという楽しさがあります。
25年前の発足当時から幹事を務めているコンペが、先日111回目の大会を終えました。
スコアはすっかり頭打ちですが、少年のようにワイワイ遊ぶ機会を持てることは、幸せなことだと思っています。

160 繁絃急管

先日、ギターを購入するため、楽器屋を訪ねました。
若い頃、姉のギターを借りて、趣味で弾いていたのですが、かれこれ30年程遠ざかっています。
実力は既に初心者同然のはず。
一番安いので十分と思っていたところ、店員さんに勧められたのは55,000円のギター。

予算オーバーだと伝えたのですが、「安いギターは、弾きにくいですよ・・」と店員さん。
でもなあ、55,000円は高いなあ、と悩んでいると、

「となりのは、お値段の割には握りやすいですよ・・。」

即決しました。
「練習してから、MARTINかFENDERを買いにきますね〜」と間に合わせの発言を残し、売り場を後にしました。

ギターが弾きたくなったのは、今から10年ほど前。
セガレがピアノ教室に通い始めた頃です。

ピアノに全く縁のない両親から生まれた割りには、そこそこ実力をつけてきた様子を見て、セガレのピアノ演奏と一緒にギターを弾いたら楽しいだろうな、と思うようになりました。
そして、58歳目前、購入を決断しました。

自宅に持ち帰り、胸躍らせながら弾いてみると・・、

指が!

全く!

言うことを聞きましぇん!!!

「C」ですら、どういう訳か、一弦に触れてしまい、キレイな音が出ない始末です。
これは流石にショックでしたが、少し弾いているうちに、徐々にコツを掴み始めました。

その後、嫌がるセガレを説得し、一緒に弾く曲の楽譜を探すため、防音室に行きました。
B♭やCmなど、セーハがまだうまく握れない現状では、ローポジションコードが多いハ長調の曲が精一杯です。

そして、最初に見つけたのは、福山雅治の「生きてる生きてく」。

♫『不思議なものだ、子どもの頃は、大人になんてなれないのに…。』

調子よく弾き語りしていたら、最後は転調して、セーハだらけ。
速やかに断念し、また、楽譜を探しました。

ありました!
スコット・ジョプリン作曲の「The Entertainer」です。

ピアノの練習曲として大変有名な曲で、セガレも小学校低学年の時に弾いていました。
アカデミー賞を受賞した映画「スティング」のテーマ曲にもなった曲です。

セガレはひょいひょい弾いていましたが、こちらは三重苦。
①指が全然動かない
②左指の腹が切れそうに痛い
③老眼で楽譜の文字が見えない

若い頃との違いを痛感しつつも、楽しい時間となりました。

159 香気芬芬

「父さ〜ん、お風呂で髪の毛を洗う前に、塩を地肌に擦り込んで、しばらくしてからシャンプーすると、皮脂が洗い流せるらしいよ。」

ネイルサロンから仕入れてきた情報をカミさんが教えてくれました。
そのオーナーはオーストラリア産の特別な塩を使用しているとのこと。
もちろん我が家にそんな高級な塩はありませんので、戸棚の奥にあった、ややキメの細かい塩を用いました。

早速試してみると、いつもと若干違う爽快感を風呂上がりに感じました。
案外悪くないな、と思っていると、

「原理はね、青魚を料理する前に塩もみして臭みを除くでしょ。アレと同じなんだって。」

オレは鯖か?
そのうち、熱湯にくぐらせるともっといい、なんて言われるんじゃないか?
加齢臭粉砕のために手段は選んでいられない現状とはいえ、感じ悪さは否めません。

仕事上、人と会う機会が多いので、ニオイには一応注意を払っています。

カラダを洗う石けんは、カミさんが美容院で買ってきてくれる、岩塩&竹炭入りを使用しています。
打ち合わせの前には「ビオレさらさらパウダーシート」で額から首を一拭きします。
激しく汗をかいた時のために、夏期はシーブリーズ・デオ&ウオーターを持ち歩いています。

「でもなあ、所詮、年齢には勝てないんだよなあ・・」と半ば観念しながらビオレシートを1枚抜き出すと、残りが少なくなっていることに気付きました。

私にとってこのシートは夏の必需品ですから、切らす訳にはいきません。
その日のうちにドラッグストアへ行きました。

レジに並んでいると、陳列棚の青いボトルが目に留まりました。
『新提案!!女性の気になる〈体臭〉〈汗臭〉〈オトナ臭〉ニオイまでキレイに』なんてポップも付いています。

どこかで見た記憶があるな・・。

ん?
女性用に開発されたにも関わらず、オッサンでも若い女性の匂いに包まれることができる、とかいうブログがネットを賑わせた商品じゃないか?

勢いよく購入し、帰宅後調べてみると、今年の初夏、ネットで評判になってAmazonでも品切れを起こした「DEOCO」でした。

開発したのはロート製薬。
目薬のイメージが強い企業ですが、公式サイトを見ると、以下記載がありました。

ロート製薬株式会社(本社:大阪市、社長:吉野俊昭)は、加齢に伴う女性の体臭変化に関して研究を行い、女性には「若い頃特有の甘いニオイ」が存在し、それは年齢とともに減少し、曲り角は35歳付近にあること、その正体は「ラクトンC10/ラクトンC11」という成分であることを見出しました。また、「ラクトンC10/ラクトンC11」は30代以降の女性で減少すること、さらに見た目の印象に対して良い影響を与える可能性があることを示しました。本研究成果は、2017年9月に行われた日本味と匂学会第51回大会(神戸市)にて発表いたしました。引き続き加齢に伴う体臭変化に関する研究に取り組むと同時に、製品開発へ応用していきます。

なるほど、若い女性には特有の甘い匂いが存在し、年齢を重ねると失われていくんですね・・。

肝心の使用感ですが、洗っているときは、オッサンのバディが桃の甘い香りに包まれ、幸せな気分でした。
風呂上がりにも甘い香りを幾ばくか感じることができましたが、ブログにあった「就寝時に布団の中から女の子の匂いがして背徳感を感じる・・」といった体験はできませんでした・・。

そもそも「加齢臭」の名付け親は、資生堂だそうです。
ライオン株式会社は、ノネナール臭とは異なるペラルゴン酸 (C9H18O2) を原因とする加齢に伴う臭いがあることを発見したり、株式会社マンダムは、男性の頭部周辺で生成されるジアセチルという成分が不快な強い脂臭を発していると発表しています。

近い将来、オッサン臭を撲滅できる製品の出現を期待したいと思います。

「父さ〜ん、あのボディーソープ、いい匂いだね。」
買ってきた時は若干冷ややかだったカミさんも、結局使ったんじゃん。

158 雲水行脚

最近、ひとり旅がマイブームとなりました。
若い頃は、ひとりじゃ淋しいじゃん、と思っていましたが、歳を重ねて、ひとりの楽しさに目覚めてしまいました。

第一弾は仙台でした。
鹽竈神社表参道の石段には、体力不足を痛感させられました。
また、塩釜漁港の海鮮丼は、過去最高級の朝食となりました。

第二弾は福岡を旅しました。
念願だった太宰府天満宮参拝を叶えることができました。
また、映画の舞台にもなった宮地獄神社や、大分県まで足を伸ばして参拝した宇佐神宮は感動的でした。

そして、今春、第三弾に名古屋を選びました。
目的のひとつは「名古屋三大天神巡り」。
参拝方法は、櫻天神社、上野天満宮、山田天満宮のいずれかの神社で専用の絵馬を受け、参拝したらご朱印をいただきます。
そして、三社目の神社でご朱印を受けると、合格祈願の天神像守りが授与されるのです。
いただいた天神像守りは、絵馬と共にセガレの部屋に祀ってあります。

もうひとつの目的は熱田神宮です。
参拝したい神社は全国に数多ありますが、熱田神宮はそのひとつでした。

降りたのは名鉄の神宮前駅。
名古屋駅からわずか3駅という便利なロケーションでしたが、正門までは徒歩10分ほど要しました。

駅から近い東門から入り、帰りに正門(南門)から出ようかとも思いましたが、どうしても参道を歩いて本殿に向かいたかったので、わざわざ遠い正門を目指しました。

ただ、歩いた甲斐がありました。
広くて長い朝の参道は、清浄な空気に包まれ、心落ち着く空間でした。

本殿へ向かって歩み進めていくと、左側に大きな楠木が見えてきました。
この大楠は、弘法大師お手植えとの伝承があるそうです。
広角レンズを用いても、かなり離れないと全景を捉えられないほどの大きさでした。

そして、本殿に到着です。
ご覧の通り、まさに荘厳です。
参拝客が多く、静謐な感じを撮影するために、ちょっと時間を要しました。

ところで、熱田神宮は決して熱田神社とは称されません。
神宮とか神社などの名称は「社号」といいます。
「社号」について、神社本庁のホームページから引用します。

「神宮」「神社」の名称は、神社名に付される称号で社号といいます。

現在、単に「神宮」といえば、伊勢の神宮を示す正式名称として用いられています。
また、「○○神宮」の社号を付されている神社には、皇祖をお祀りしている霧島神宮や鹿児島神宮、また天皇をお祀りしている平安神宮や明治神宮などがあります。
このほか、石上神宮や鹿島神宮・香取神宮など特定の神社に限られています。

これに対して「神社は、その略称である「社」とともに一般の神社に対する社号として広く用いられています。
また、「宮」や「大社」などの社号もあり、「宮」は天皇や皇族をお祀りしている神社や由緒により古くから呼称として用いられている神社に使われます。
「大社」はもともと、天に国譲りをおこない、多大な功績をあげた大国主命を祀る出雲大社を示す社号として用いられてきました。しかし、現在「大社」は、広く崇敬を集める神社でも使われています。

このほか、社号と異なりますが、古くから神様の名前に「大神」や「大明神」、また神仏習合の影響による「権現」といった称号を付して、社号に類するものとして一般的に用いられ、信仰されている社もあります。

このように神社により社号は異なりますが、それぞれの神社に対する人々の篤い信仰にはいささかの変わりもありません。

難しい説明は一旦置いて、神宮号を名乗る神社は、現在24社あるそうです。

伊勢神宮、伊弉諾神宮、霧島神宮、鹿児島神宮、鵜戸神宮、橿原神宮、宮崎神宮、気比神宮、宇佐神宮、近江神宮、白峯神宮、平安神宮、新日吉神宮、赤間神宮、水無瀬神宮、吉野神宮、北海道神宮、明治神宮、熱田神宮、石上神宮、國懸神宮、日前神宮、鹿島神宮、香取神宮。

これまでに参拝したのはわずかに6社。
北海道神宮から鹿児島神宮まで、全てを参拝するのはちょっと難しそうです‥‥。

熱田神宮の参拝帰り、市営地下鉄の駅まで歩きました。
「伝馬町駅」という駅名を見て、熱田神宮にちなんでいないんだな・・と感じていたところ、今月10日、名古屋市が駅名の変更を検討している、というニュースを目にしました。

はじめて訪れた一観光者の感想は、まんざら間違いではなかったようです。

157 短慮軽率

昨日は久しぶりにフリーな1日でしたので、ほぼ終日、読書を楽しみました。
長らく「積ん読」だった本を2冊、自宅で、カフェで読み切りました。

私の好きなジャンルは、ノンフィクションです。
中でも、事件や犯罪、死刑に関する本をよく読みます。
家族からは、薄気味悪いとか、本棚を人様に見せられないなどと言われています。
今日読んだ2冊も同様の本ですから、電車の中など公衆の面前で読む際は、カバーが必須ですね・・。

興味を持つきっかけになった本は、「日本の黒い霧(松本清張 著)」です。
戦後まもなく発生した12の事件に、松本清張が独自の歴史観と大胆な推理で迫った作品です。

中学生だった私がなぜこの本を手に取ったのか、今となっては定かでありませんが、中でも「下山国鉄総裁謀殺論」と「帝銀事件の謎」の2つに魂を大きく揺さぶられました。

下山事件は、昭和24年7月、初代国鉄総裁下山定則氏が、常磐線の線路上で轢死体として発見された事件です。
しかし、ワイシャツや下着、靴にはほとんど血が付いていなかったり、靴下などに大量に付着していた油は、機関車に用いられている鉱物油ではなく植物性の油であったり、いつも身に付けていた眼鏡が現場付近から発見されなかったり、多くの謎に包まれています。

犯人は捕まっておらず、戦後最大の未解決事件と呼ばれることもあります。

一方、帝銀事件は、昭和23年1月、当時の帝国銀行椎名町支店に東京都防疫班を名乗る男が現れ、消毒薬と称した毒薬で行員12名を殺害し、現金や小切手を強奪した残虐な事件です。

・手本として、薬を自分が最初に飲んでみせたこと
・歯のエナメル質を痛めるから舌を出して飲むようにと確実に嚥下させたこと
・第一薬と第二薬の2回に分けて飲ませることで、行員を現場から散らないようにしたこと

などの巧みな手口から、薬物に詳しい者の犯行と思われていましたが、逮捕されたのは平沢貞通という画家でした。

1955年に平沢氏の死刑が確定しましたが、歴代法務大臣が誰も死刑執行命令に署名しなかったこともあり、死刑制度に興味を抱く誘因となりました。

大学に入ってもこの分野への関心は益々強まり、刑法を学んでみたくなりました。

しかし、私の所属する経営学部では刑法に関する授業は開講されていませんでした。
学内を探してみると、隣りの経済学部にあったため、わざわざ出張して授業を受けました。
当時、刑法を担当していたT先生は厳しいことで有名で、経済学部の学生でも履修者は決して多くはありませんでした。
そんな講座に、経営学部から乗り込んで行ったのです。

大学時代勉強はしなかった、と自信を持って言えますが、刑法だけは出席しました。
驚くことに、35年前の成績表が見つかりました。
「優」でした(笑)。

刑法への興味はこの程度に留めておけばよかったのですが、大学4年の時、勢い余った行動に出てしまいました。

「犯罪や事件などに非常に興味を持っています。刑法の単位も取りましたので、この関連テーマで卒論を書いてはいけませんでしょうか・・。」

海上保険学を専攻するゼミ生として、先生に失礼極まりない発言をしました。
正に、若気の至りです・・。

しかし、ゼミの教授は紳士でした。

「山田、キミの気持ちは分かった。しかし、刑法に関する論文を評価する専門家がうちの学部にはいないんだ。折衷案として、海上保険と刑法の両方に関係する資料を用意するが、どうだ?」

「ご理解いただき、感謝いたします!」
深々と頭を垂れ、お礼を申し上げました。

すると、半月後、私の元にB4版のコピーが大量に届きました。

船を故意に沈没させて保険金を詐取しようとした事件に関する、英語の資料でした。
なるほど、確かに海上保険学と刑法にまたがる内容でした。

しかし、専門用語が頻出する英文の翻訳は、困難を極めました。
1973年の秋は、辛く、長い、重苦しい日々となりました。
あんなことを言うべきではなかった・・と、 後悔の念が脳裏を去来しました。

因みに私の卒論のタイトルは、「海上保険学における船底穿孔事件に関する一考察」です。

156 停雲落月

8歳の春、自宅の移転に伴い、小学校を転校しました。

その1年後、ひとりの少年が同じ学校に転校してきました。

彼は女の子のように目がぱっちりとした可愛い顔立ちをしていて、妙に手足が長く、そして、子供とは思えないような気遣いができる心優しい少年でした。
勿論、女の子からの人気は抜群でした。

かくいう私は、典型的なお山の大将。
学級委員を務めたりするものの、皆の意見をまとめるどころか、自分勝手でやりたい放題。
真のリーダーとは程遠い悪ガキでした。

当然こういう類いは全くモテない訳で、女子から絶大な人気を誇る「よそ者転校生」は、私にとって、非常に煙たい存在でした(私も立派な転校生なのですが)。
小学校4年から卒業までの3年間、同じクラスでしたが、親しく話した記憶はほとんどありません。

しかし、世の中は不思議なものです。
モテモテ少年とダメダメ少年は、その後、急に仲良くなりました。
高校、大学は別々の学校に進みましたが、彼以上に一緒の時間を過ごした友人はいません。
しょっちゅう一緒にいるので、妙な噂が飛び交うほどでした。

18歳の夏、忘れられない思い出があります。

彼女に指輪をプレゼントしたいから、買い物に付き合ってくれと頼まれました。
彼女いない歴18年だった当時の私はやや複雑な心境でしたが、親友の頼みを断ることはできません。
池袋のパルコへ同行することとなりました。

「あの、これ、く・だ・さ・い。」

落ち着かない態度でボソボソ話す少年に、ジュエリーショップの店員さんは優しく応対してくれました。

「えーと、おいくつ、ですか?」

「あ、あ、18です。」

「あのさ、年齢答えてどうすんの?指輪のサイズだろ!」

私の突っ込みに、店員さんは大爆笑でした。

地元の仲間なので、家族ぐるみの付き合いをしていました。
本人が留守でも、何の遠慮もなく家に上がり、両親やお姉さんらと喋り込んでしまうような関係でした。

社会人になってからも、近しい関係はしばらく続きましたが、お互いの結婚を境に、徐々に会う機会は減っていきました。
いつしか、2人で遊ぶことも食事に行くことも、ほとんどなくなりました。

ただ、郵便局の郵便部長だった彼とは、年賀状などの仕入れを通じて、接点は保っていましたし、お互いの誕生日には、お祝いのメールを送り合う関係でした。

その彼が、心臓の大手術を受けました。

数年前、大動脈解離で救急搬送され、一命をとりとめたものの、昨年末の検査で、再手術が必要と診断されたのです。

そこで、少しでも気晴らしになればと思い、久しぶりに食事に誘いました。
昔話に花が咲き、とても楽しい時間を過ごすことができました。
ただ・・・・、

「前回は、寝ている間に具合が悪くなって、そのまま訳も分からないうちに手術になっちゃったけどさ、今回は、死亡率が15〜20%だなんて事前に聞かされるし、カレンダーを見ながら、覚悟を決めて手術に臨まなければいけないからね・・。何倍も辛いよね・・。オレ、根性なしだから・・。」

返す言葉など、何一つ浮かびませんでした。
東京スカイツリーソラマチ31階から、ただ下界に視線を落とすだけでした。

そして、手術当日。

朝、LINEでメッセージを送りました。
すると、9時開始予定の手術に備え、既に術着に着替えているよ、と返信がありました。

しかし、これが苦闘の始まりとなりました。
術後、合併症などで回復が順調に進まなかったのです。

毎晩、布団に入ると彼を想いました。
好転を願いながら眠りにつく日々でした。
来る日も来る日も、回復を祈り続けました。

そして、つい先日、奥さんから面会可能との知らせが届きました。
早く会いたくて、面会開始時間ちょうどに病院へ出向きました。

部屋に行くと、車椅子で窓の外を眺めている彼の姿が見えました。
後ろから肩に手を置き、「会いに来たよ」と声を掛けました。
彼は、長い入院生活を感じさせず、いつものとおり男前でした。

100日以上待ちわびた面会ですから、嬉しかったですね。
結局2時間ほど病院に滞在したでしょうか。
彼はきっと疲れたでしょうが、私に付き合ってくれました。

「じゃあ、また来るね。」と言った私に、彼はこう言いました。

「かもめーる、よろしくね。」

今も郵便部長のままなんだな、と苦笑いしながら彼と別れました。

廊下に出た途端、様々な感情が込み上げ、両目に涙が溢れてきました。
2人でまた、眺めの良いレストランで食事をする日を楽しみにしたいと思います。

155 唖然失笑

少し前の話になります。

一昨年秋「仙台ひとり旅」に出ました。
仕事が立て込む日が続いたので、気分転換に東京を脱出したのです。

MacBookを持っていれば、かなりの仕事がこなせる現代は、便利になったとも言えますが、世知辛いと表現できるかも知れません。

いくら仕事がメインとは言え、せっかく仙台まで来たのですから、大好きな神社巡りもしました。
なかでも、陸奥国一之宮・鹽竈神社は、とても心に残る参拝となりました。

というのも、事前に公式サイトを見ていて、興味深い歴史的事実を知ったからです。

鹽竈神社の創建年代は明らかではありませんが、その起源は奈良時代以前になります。平安時代初期(820)に編纂された『弘仁式』主税帳逸文には「鹽竈神を祭る料壱萬束」とあり、これが文献に現れた初見とされています。当時陸奥国運営のための財源に充てられていた正税が六十萬三千束の時代ですから、地方税の60分の1という破格の祭祀料を受けていた事が伺われます。しかし全国の各社を記載した『延喜式』(927年完成)の神名帳にはその名が無く、鹽竈神社は「式外社」ではありましたが中世以降、東北鎮護・海上守護の陸奥國一宮として重んじられ、奥州藤原氏や中世武家領主より厚い信仰を寄せられてきました。特に江戸時代にはいると伊達家の尊崇殊の外厚く、伊達政宗以降歴代の藩主は全て大神主として奉仕してまいりました。よって江戸時代の鹽竈神社には歴代の宮司家が存在せず、実質祭祀を行っていた禰宜家がおりました。(中略)
歴史の謎
鹽竈神社は祭祀料として正税壱万束を受けていた事は前述しましたが、当時全国で祭祀料を寄せられていたのは、他に伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束の三社で共に『式内社』でありますが当社に比べ格段の差があり、国家的に篤い信仰を受けていたにも拘わらず『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというこの相反する処遇はどう解すべきなのでしょうか。

不思議な香り漂う神社です・・。
一之宮なのに式外社だなんて、これまで聞いたことがありません。

参拝当日。
はやる心を抑えて、まずは塩釜仲卸市場へ出向き、海鮮丼をいただきました。
なかなか豪勢な朝食となりました。

駐車場にはこんな車が停まっていました。
市場で早朝から働く皆さん、お疲れなんでしょうね・・。

そして、鹽竈神社の最寄り駅、本塩釜駅へ向かいました。
あいにくの曇り空でしたが、神社へ続く県道は、散策には心地よい道程でした。

徒歩7分ほどで東参道(裏坂)に到着しますが、敢えてここは通り過ぎます。
それから6〜7分ほどで、有名な表参道の石鳥居が見えてきました。

階段の数は、202段。
とりわけ騒ぐほどのことではないだろうと思っていましたが、登り切った時は、ほとんど虫の息で した・・。
自販機でお茶を買い、椅子に座ったまま、5分ほど動くことができませんでした。
神社巡りは、足腰が丈夫でないと続けられないことを痛感しました。

なお、公式サイトの「神社について」の終わりには、こんな文面もあります。

時代は前後しますが、忘れてはならないのは河原の左大臣と称された源朝臣融で、謡曲『融』の主人公にもなりましたが、その別荘の一つが後の宇治平等院、一つは洛北嵯峨の現棲霞寺となっています。融は陸奥出羽按察使に任ぜられています(『三代実録』)が実際に赴任したかどうかは不詳です。しかし塩竈の浦に深く心を寄せ鴨川の辺に六条河原院を建て、『伊勢物語』に庭に塩竈の景色を再現して毎日難波より海水を汲ませてこれを焼かせつつ生涯を楽しんだことが見えます。今もこの付近には塩竈の地名が名残として残っております。

ふーん、京の都に塩竈の風景を再現したんだ・・。
つい最近まではここまでの認識でした。

そして、先週末。
何の気なしに六条河原院について調べてみました。

すると、六条河原院は、融の死後は子の昇が相続し、その後、紆余曲折の末、結局は数度の火災で荒廃したとのこと。
そして、江戸時代になって、跡地の一部に渉成園が作られたそうです。

ん?
渉成園?
セガレを授けてくださった上徳寺さんの近くにある、あの渉成園?

あ!
その上徳寺さんの山号は「塩竈山(えんそうざん)」だ!

鹽竈神社と上徳寺に接点があったとは・・。
思わぬ偶然に、ちょっと鳥肌が立ちました。

急いで上徳寺さんのパンフレットを引っ張り出すと、その中面に、山号「塩竈山」の由来という見出しがありました。

また、塩竈山上徳寺という山号は、この五条の地は嵯峨天皇第二十一の皇子、従一位左大臣源融公が、河原に庵をつくり、池をほり、毎日、潮を三十石ばかり入れて、海底の魚介なども住まし、陸奥の塩竈、千賀の浦の景を模し、海士が塩屋のけむりをたて、趣を賞でたという史跡により、当山に塩竈明神を鎮守としてまつり、塩竈山上徳寺と号して、さきの本尊を安置した。

パンフレット、何にも読んでいなかったんですかね・・。
1年半後の大発見に、苦笑するしかありませんでした。

154 上下一心

先週末は、仕事にプライベートに充実した時間を過ごすことができました。

まず土曜日。

セガレの通う高校(中高一貫の男子校)で、体育祭が開催されました。
生徒たちは入学時に与えられた赤・白・黄・青の4色に分かれて、優勝目指して戦います。
この色は、卒業まで変わることはありません。

各色とも縦に4分割されるので、中1から高3までが団結しなければなりません。
その旗振り役を担うのは、「4役」と呼ばれる高3の幹部です。
団長・副団長・応援団長・副応援団長によって構成される4役は、その色の象徴的存在であり、その年の体育祭の顔でもあります。

4役はじめ高3の役員らは、年の離れた後輩たちに、競技ごとの秘策や心構えなどを熱血指導します。
「高3になったら4役になる」と心に秘めてきた役員たちですから、体育祭への思い入れは生半可なものではありません。
勝っても負けても、4役らの熱き思いは、下級生へ引き継がれていきます。

なお、高3だけは、体育祭当日に限り、髪を自分の所属する色に染めることが許されます。
そして、この「色」に対する意識は、卒業後も続きます。

私のお客様で、セガレの大先輩にあたる医師がいらっしゃいます。
その先生に入学の報告をしたところ、

「合格おめでとう!で、何色?」

と質問されました。

何組?とか、担任は誰?とか聞く前に、まず色を確認するのが通例であることは事前に抑えておいたので、「青です!」と即答できました。

以前、学校主催の講演会に参加した際、登壇した同校OBの演者がこう自己紹介していました。

「昭和☆年卒の☆☆☆☆です。あっ、色は赤です。これを言わないとダメですよね。」

これを聞いた途端、会場にいた赤組の現役学生から、大きな拍手が湧きました。
同窓が絆を深めるツールとしては、簡単明瞭でとてもいいなと思います。

さて、体育祭当日。
天気は晴れたり曇ったりの運動日和。

セガレの所属する青組は優勝から8年間遠ざかっており、入学後の成績は、4位、2位、4位。
チャンスは今年を入れて3回。
在学中に優勝を経験できなかった先輩たちの無念な思いも抱いて、ぜひとも今年は栄冠を勝ち取って欲しいものです。

果たして、結果は・・・・、

848点を獲得した、青組が優勝しました!!

ただ優勝だけを目指してきた青い髪の少年たちは嬉し涙を流し、最大5つも年の離れた後輩たちと勝利の喜びを分かち合う姿は、青春そのものでした。

一方、応援席では、運営のサポートに尽力した高3の母親たちも、抱き合って号泣していました。
たかが子供の体育祭、では片付けられないドラマを見た気がしました。

私とカミさんにとっても、初めて勝利の余韻に浸りながらの帰路になりました。
せっかくだからと、少し遅れて下校したセガレと渋谷で待ち合わせ、家族3人でささやかな祝勝会を開きました。

そして、翌日曜日。

6時30分に起床し、すぐに仕事に取り掛かりました。

例年、体育祭ではギラギラの太陽に体力を奪われ、その翌日はボロ雑巾のようになってしまうのですが、今年は曇りの時間帯もあったためか、元気に日曜日を迎えられました。

それでも、体育祭をただ座って見ていただけ、もっと言えば、一番気温の上がる時間帯には食堂へ避難して居眠りをしていたにも関わらず、太ももの筋肉痛を抱えながらの仕事となりました。

長椅子に座っていただけで、どうして筋肉痛になるのか理解不能ですが、朝から仕事に向き合えたので良しとします。

そして、午後は、東京国際フォーラムで「葉加瀬太郎・高嶋ちさ子・古澤 巌〜3大ヴァイオリニストコンサート 2019〜」を鑑賞しました。

素晴らしい演奏と、高嶋ちさ子さんの毒舌トークについては、またの機会に書きたいと思います。