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185 禍福倚伏

私の通勤手段は車です。
所要時間はおよそ30分ほどです。

行きの車中では、「飯田浩司のOK! Cozy up!」というラジオ番組をよく聴きます。
私が自宅を出る6時ちょうどに始まるので、タイミングがいいのです。

パーソナリティの飯田浩司さんはニッポン放送のアナウンサーですが、なんと、私の大学(横浜国大)の後輩にあたります。
しかも、同じ経営学部。
年齢は私の20コ下。

どんなお顔なのかと興味が湧き、ニッポン放送のサイトで拝顔いたしました。
ちょっと年齢より老けているかなと、感じました・・(失礼)。

この飯田アナは経済に造詣が深く、ズバズバ意見を述べる歯切れの良いアナウンサーです。

22日月曜日の朝もいつものようにラジオを聴いていると、今週は飯田アナウンサーが休暇とのこと。
内田雄基さんという新人アナウンサーが、ピンチヒッターを務めていました。

そして驚くことに、この内田アナも横浜国大の卒業生だというのです。
「学生時代、飯田先輩と同じ居酒屋に通っていたことが分かり、コロナが落ち着いたら一緒に飲みに行く約束をしたんです!」なんて地元ネタをラジオで披露していました。

相鉄線・和田町駅か、あるいは横浜駅周辺か・・。
私の時代にはなかった地下鉄だってあるか・・。

因みに内田アナ、年齢は私の36コ下です。
36歳差って、私が54歳の時に大学に入学したってことですね。
なんだか先輩後輩という域を超えているような感じがします・・。

うちの大学出身のアナウンサーを調べてみると、NHKをはじめ、中京テレビ、朝日放送、新潟放送、岩手放送、テレビ熊本など、そこそこいますね。

女性では阿部哲子や高樹千佳子さんが有名ですが、王様のブランチに出演しているTBSアナウンサーの山本匠晃さんもうちのOB。

それから、テレビ朝日の報道ステーションを担当していて、昨年新型コロナに罹患してちょっと騒ぎになった富川悠太アナもそう。

ひょっとするとアナウンサー率が高いのでは?と思い、調べてみると、アナウンサー出身大学ランキングというサイトがありました。
https://university-rank.com/ranking_announcer.htm

これによると、横浜国立大学は第27位でした。
小さな大学ですから、わりと上位だと言えるかも知れません。

さて、今、受験シーズン真っ只中です。
我が母校は、昨年夏頃、早々に2次試験を行わない旨、発表しました。
即ち、昨年までセンター試験と呼ばれていた「大学入学共通テスト」だけで合否を判定するのです(一部学部を除く)。
数千人という受験生に、安全な受験環境を提供することが困難であるとの苦渋の決断です。
https://www.ynu.ac.jp/exam/faculty/release/pdf/message.pdf

すると、今月中旬頃、志願者が激減しているというニュースが流れました。
https://www.asahi.com/edua/article/14180436

その背景として、共通テストだけで判定するため二次試験での逆転ができず、合格ラインが読めないので、出願しづらかったのではないかと指摘されています。

私が受験した当時、当時の共通一次試験で780点ほどが、経営学部の合格目標ラインだったと記憶しています。
ところが、私は自己採点で732点ほどしか点数が取れませんでした。
志望校変更も考えましたが、二次試験で逆転してやる!と意気込んで、予定通り願書を提出しました。

なるほど・・。
私が今年の受験生だったら、逆転のチャンスはないわけです。
当然、志望校を変えなければなりません・・。

なにはさておき、今年の受験生には、心からエールを送りたいと思います。
コロナのために、進路を変更せざるを得なかった若者が、どれだけいることでしょう。

1980年。
1月12〜13日、共通一次試験実施。
3月4日、二次試験実施。
3月14日、合格発表で不合格。
3月24日、大学から繰り上げ入学の電話。

40年以上前の出来事になりますが、今も24日の電話での会話は、耳の奥に残っています。

173 雪中送炭

「ヒマがあったら読むかい。」

父が日本経済新聞の切り抜きをくれました。
『1位北大、2位横国大」という大きな見出しが目に入りました。

うちの大学が記事になるのは珍しいなあと思いながら受け取ると、企業の人事担当者から見た、大学のイメージ調査に関する記事でした。

調査は各大学の学生イメージについて「行動力」「対人力」「知力・学力」「独創性」の4つの側面で評価したもの。
北大は、2026年の創基150周年に向け、国際社会で活躍できる人材育成に努めているそうで、その結果が数字として現れたと言えましょう。

総合2位に輝いた私の母校・横浜国立大学は、行動力と対人力で2位だったほか、4部門全てで高評価を得たそうです。

3位以下も名古屋大学、京都大学、東北大学が名を連ね、上位10校は全て国立大学。
因みに、早稲田は12位、慶應は15位だったそうです。

ランキングの対象となった大学は、有効回答数805社からの回答数が一定水準以上に達した156校。
156校中の2位ですから、誇らしいですね。

この記事が新聞に掲載されたのが6月3日木曜日。
そして、偶然にも同じ日に、大学からメールが届きました。

その内容は、新型コロナの影響でアルバイト先を失ったり、また、親が経済的に困窮して学業継続の危機に晒されている学生への支援をお願いしたいというものでした。

大学は、遠隔講義受講の環境整備の支援や、PCの貸与などを柱とした「横浜国立大学緊急学修支援事業」第一弾を既に実施したようです。
しかし、長期化が予想される新型コロナ対応に備え、学生支援の枠をさらに広げるため、「緊急学生支援寄附金」への協力を卒業生に依頼したのでした。

具体的には、一人10万円の緊急生活支援奨学金を200人以上に支給するとのこと。
即ち、2,000万円以上が必要です。

6月5日までに、既に1,600万円近くの支援が集まっているようですが、私もわずかばかり協力いたしました。
近々振り込まれるであろう国からの特別定額給付金の一部を充当しようと思っています。

横浜国大のサイトを見ていたら、学生への食料支援も行っており、6月2日には「米2キロ、カップ麺1つと缶詰」が事前予約した100名に配布されたようです。

ただ、心なしか、物量的に手薄な感じがします。
食品業界で活躍するOBにも協力を仰ぎ、より分厚い支援ができないのかなと思います。

食料支援といえば、松山市が今月から経済的に困窮している市内の学生を支援するためのプロジェクトを始めたそうです。
「学飯」と銘打ったこの取り組みは、多くの学生アルバイトの受け皿となっている飲食店がコロナ禍で大きな打撃を受け、学生の困窮が自助努力で解消できなくなっている状況を打破するため、学生に食事券を配布する活動です。

市民や民間企業が一体となって無償食事券を配布する試みは全国でも珍しく、関係者の努力に頭が下がります。
公式サイトによると、協賛金はまだまだ目標額には達していないようですが、今後支援の輪が広がることを期待したいと思います。

大学生の差し迫った困窮ぶりは、学生団体「高等教育無償化プロジェクトFREE」が行ったアンケート調査が如実に物語っています。

これは、全国の大学生や短大生、大学院生ら1,200人を対象に実施した調査で、「経済的理由で退学を考えている」と答えた学生が20.3%にも上ったそうです。

今年度、大学や専門学校などで学ぶ若者は、ミレニアムベイビー世代が中心のため、そもそも人数が多いそうですが、その中で5人に1人が退学を考えているとは、極めて深刻な事態です。

政府は、困窮する学生に対して、総額530億円規模の支援策を講じることを決めましたが、可能な限りの支援を時機を逸することなく、迅速に進めて欲しいと願います。
また、特別定額給付金の10万円を、優先的に配布することはできないものでしょうか。

学生の学びを支えることは、未来への大切な投資です。
コロナプアで世代ごと未来を奪われるようなことは、断じてあってはならぬと思います。

157 短慮軽率

昨日は久しぶりにフリーな1日でしたので、ほぼ終日、読書を楽しみました。
長らく「積ん読」だった本を2冊、自宅で、カフェで読み切りました。

私の好きなジャンルは、ノンフィクションです。
中でも、事件や犯罪、死刑に関する本をよく読みます。
家族からは、薄気味悪いとか、本棚を人様に見せられないなどと言われています。
今日読んだ2冊も同様の本ですから、電車の中など公衆の面前で読む際は、カバーが必須ですね・・。

興味を持つきっかけになった本は、「日本の黒い霧(松本清張 著)」です。
戦後まもなく発生した12の事件に、松本清張が独自の歴史観と大胆な推理で迫った作品です。

中学生だった私がなぜこの本を手に取ったのか、今となっては定かでありませんが、中でも「下山国鉄総裁謀殺論」と「帝銀事件の謎」の2つに魂を大きく揺さぶられました。

下山事件は、昭和24年7月、初代国鉄総裁下山定則氏が、常磐線の線路上で轢死体として発見された事件です。
しかし、ワイシャツや下着、靴にはほとんど血が付いていなかったり、靴下などに大量に付着していた油は、機関車に用いられている鉱物油ではなく植物性の油であったり、いつも身に付けていた眼鏡が現場付近から発見されなかったり、多くの謎に包まれています。

犯人は捕まっておらず、戦後最大の未解決事件と呼ばれることもあります。

一方、帝銀事件は、昭和23年1月、当時の帝国銀行椎名町支店に東京都防疫班を名乗る男が現れ、消毒薬と称した毒薬で行員12名を殺害し、現金や小切手を強奪した残虐な事件です。

・手本として、薬を自分が最初に飲んでみせたこと
・歯のエナメル質を痛めるから舌を出して飲むようにと確実に嚥下させたこと
・第一薬と第二薬の2回に分けて飲ませることで、行員を現場から散らないようにしたこと

などの巧みな手口から、薬物に詳しい者の犯行と思われていましたが、逮捕されたのは平沢貞通という画家でした。

1955年に平沢氏の死刑が確定しましたが、歴代法務大臣が誰も死刑執行命令に署名しなかったこともあり、死刑制度に興味を抱く誘因となりました。

大学に入ってもこの分野への関心は益々強まり、刑法を学んでみたくなりました。

しかし、私の所属する経営学部では刑法に関する授業は開講されていませんでした。
学内を探してみると、隣りの経済学部にあったため、わざわざ出張して授業を受けました。
当時、刑法を担当していたT先生は厳しいことで有名で、経済学部の学生でも履修者は決して多くはありませんでした。
そんな講座に、経営学部から乗り込んで行ったのです。

大学時代勉強はしなかった、と自信を持って言えますが、刑法だけは出席しました。
驚くことに、35年前の成績表が見つかりました。
「優」でした(笑)。

刑法への興味はこの程度に留めておけばよかったのですが、大学4年の時、勢い余った行動に出てしまいました。

「犯罪や事件などに非常に興味を持っています。刑法の単位も取りましたので、この関連テーマで卒論を書いてはいけませんでしょうか・・。」

海上保険学を専攻するゼミ生として、先生に失礼極まりない発言をしました。
正に、若気の至りです・・。

しかし、ゼミの教授は紳士でした。

「山田、キミの気持ちは分かった。しかし、刑法に関する論文を評価する専門家がうちの学部にはいないんだ。折衷案として、海上保険と刑法の両方に関係する資料を用意するが、どうだ?」

「ご理解いただき、感謝いたします!」
深々と頭を垂れ、お礼を申し上げました。

すると、半月後、私の元にB4版のコピーが大量に届きました。

船を故意に沈没させて保険金を詐取しようとした事件に関する、英語の資料でした。
なるほど、確かに海上保険学と刑法にまたがる内容でした。

しかし、専門用語が頻出する英文の翻訳は、困難を極めました。
1973年の秋は、辛く、長い、重苦しい日々となりました。
あんなことを言うべきではなかった・・と、 後悔の念が脳裏を去来しました。

因みに私の卒論のタイトルは、「海上保険学における船底穿孔事件に関する一考察」です。

136 共存共栄

昨年暮れ、相模鉄道とJR直通線の新駅の名称を「羽沢横浜国大駅」にする、という報道を目にしました。
横浜国立大学関係者の利用が多いことを想定し、当初の案「羽沢駅」から変更されたようてす。
母校の名前が駅名になるのは、非常に嬉しいことです。
欲を言えば、単に『横浜国大駅』だったら最高でしたが・・。

ところで、国立大学の名称は「都市名(または地域名)+大学」というパターンが定番です。
北海道大学、東北大学、京都大学、大阪大学、神戸大学、九州大学等々。

そんな中、我が母校だけは横浜大学ではなく、横浜国立大学です。
「☆☆国立大学」という名称は、ほかに例がありません。

横浜市立大学と区別するために横浜国立大学と命名されたのではないか、という説をよく耳にします。
しかし、大阪市立大学や名古屋市立大学、広島市立大学がある府県に、大阪大学、名古屋大学、広島大学がありますから、これは理由になりません。

実は、この名称の秘密は、かなり昔に遡ります。


1947(昭和22)年、学制改革が施行され、小学校6年と中学校3年の9年間が義務教育になり、高等学校は3年、そして、大学は4年と定められました。

この学制改革によって、師範学校などと呼ばれていた学校が、新制大学として生まれ変わることになったため、多くの学校が新しい大学名を付けなければならなくなり、混乱が生じました。

現在の横浜国立大学も、この学制改革により「神奈川師範学校」「神奈川青年師範学校」「横浜経済専門学校」「横浜工業専門学校」の4つの旧制官立学校を統合し、新制大学として1949(昭和24)年に設立されました。

が、時を同じくして「横浜市立経済専門学校」と「横浜専門学校」も、新制大学へ移行する事が決まっていました。
前者は現在の横浜市立大学で、後者は神奈川大学です。

そして、この2校に現・横浜国立大学を含めた3校が名称を申請した際、同じ「横浜大学」という名称を希望する事態になったのだそうです。
そうです、3校が同一の名称を希望してしまったのです。

そこで、3者間で協議が行われました。
その結果、各校とも「横浜大学」という名称を使用しないという約束が交わされたのだそうです。

かくして、旧制官立学校を統合した国立大学は「横浜国立大学」となり、市立経済専門学校は「横浜市立大学」、そして、横浜専門学校は「神奈川大学」を名乗ることと相成りました。

横浜国立大学のサイトによると、当時の文部省が間に入り・・、

「国立には『国立』、市立には『市立』を付け、そして、私学である学校には、もっと大きく神奈川にしてはどうか、というようなアドバイスがあったと伝わっています。」

時代が生んだ事件ですね。

因みに、地元では略して「コクダイ」と呼ばれることが多いのですが、「コクダイ」は国立大学の略であり、ヨコハマ全然関係ないじゃんと思ったりもするわけです。
「ヨココク」という呼称もありますが、「コ」が続いて発音しにくいせいか、地元では「コクダイ」が主流です。
なお、横浜市立大学は「ヨコイチ」と呼ばれているようです。

もしも横浜大学という名称だったら、どう略されていたのでしょう・・。
ヨコダイなら、まだハマダイの方がいいですかね・・。

ところで、昔から不思議に思っていたことがあります。
国立の大学で「県名+大学」がなく、「都市名+大学」が存在する県がいくつかあるのです(国立大学に限っての話です)。

一例として、青森県には国立弘前大学はありますが、国立青森大学はありません。
(私立青森大学はあります)

私が認識しているだけでも同様の事例が以下の通り存在します。

栃木県:×栃木大学 ○宇都宮大学
石川県:×石川大学 ○金沢大学
長野県:×長野大学 ○信州大学
兵庫県:×兵庫大学 ○神戸大学

都道府県名と県庁所在地の名称が異なるところが該当するのか!?と思ったのも束の間、北海道大学は存在しますね・・。

ここにも何か知られざる事情が潜んでいるのでしょうか・・。

131 百花斉放

新聞の大学特集ページで、母校に昨春「都市科学部」が新設されたことを知りました。
この学部は、以下4つの学科を有しているそうです。

  1. 都市を担う人々や文化、社会のあり方を考える「都市社会共生学科」
  2. 都市空間やコミュニティ、生活像をデザインする「建築学科」
  3. 土木工学を軸に防災や環境などの課題に取り組む「都市基盤学科」
  4. 都市の利便性と自然・社会環境から生じるリスクとの均衡を図る「環境リスク共生学科」

建築学科については、横浜高等工業学校建築学科を前身とする歴史ある工学部の理念やノウハウが生かされているのかも知れません。
しかし、これら学科についてサイトをよく見てみると、文系・理系両方の要素を含んでいて、今ドキな印象を受けます。
新聞記事にも、文系と理系を横断した「文理融合」の人材育成が謳われています。
先行研究の少ない、いわば挑戦的な領域でもありますので、今後の発展を期待したいものです。

昭和55年4月。
私が入学したときは、経済学部、経営学部、教育学部、工学部の4つの学部で大学は構成されていました。
そして、私の所属していた経営学部には、経営学科、会計学科、管理科学科の3つの学科がありました。

しかし、設立50周年を迎えた昨年、1学科体制で新たなスタートを切ったようです。
サイトには「特色ある施設・プログラム等」というタイトルで、現在の学部の様子が以下のように紹介されています。

◎経営学部情報センター
100台余りのPC端末が備えてあり、PCを利用した会計教育や英語教育、ビジネスゲームなどを行っています。また、情報検索、情報発信、研究・学習サポートなども行っています。

◎充実した体験型授業
「ビジネスゲーム」では、コンピュータ上に構築された仮想的マーケットの中で、複数の学生が企業の経営者として商品の生産、仕入れ、販売を行い競い合います。また、「マイプロジェクトランチャー」では、学生自らプロジェクトを作成、プレゼンを行い、プロジェクト実践能力を磨いていきます。

e-ラーニングによる効果的な学習
2年次必修外国語科目「英語演習」の課外の自習課題「アルクNet Academy」は、パソコンで行います。これは、TOEIC対策の自習プログラムで、リーディングとリスニング及び模擬演習問題のトレーニングができます。その他にも会計CAIなどパソコンを使った効果的な学習を行うことができます。

企業トップを講師に迎えた講義群
一般的なプログラムの他に、「経営者から学ぶリーダーシップと経営理論」、「ベンチャーから学ぶマネジメント」といった毎週代表取締役クラスの経営者を迎え、様々な角度から企業経営を学ぶ授業があります。インターンシップはこれらの授業を履修してから行います。

PCを利用したビジネスゲーム?
仮想マーケットで学生が経営者として競い合う??
経営者から企業経営を学ぶ???

我々の頃には考えられない授業内容の羅列に、我が目を疑ってしまいました。
35年も経っているのですから、変わって当然なのですが・・。

横浜国立大学は、元々、鎌倉や弘明寺などにキャンパスが分散していましたが、昭和49年8月、程ヶ谷カントリー倶楽部移転跡地に常盤台キャンパスを設置し、これらを統合・移転しました。
私が入学する6年前のことです。

実際、受験前に初めて見学に訪れたとき、学内は総じてキレイでした。
「こんなキレイなキャンパスで勉強できたらいいなあ」と、若干感動すら覚えたものです。
純粋というか無垢というか、受験勉強で心が病んでいたというか・・。

そんな清らかな気持ちで受験したにも拘わらず、入学後は、受験勉強に明け暮れた日々の仇をとるかの如き、遊惰でなまくらな生活に陥りました・・。
入学が決まった時、父から「国の税金を使わせていただくことを肝に銘じて、4年間過ごすように。」と言い付けられたにも関わらず・・。
当時の授業料は年間18万円でしたから・・。

今日は、3月4日。
昭和55年の今日、国立大学の二次試験だったと記憶しています。

共通一次試験の点数で劣っていた私は、ここで大逆転劇を演じなければなりませんでした。
二次試験の願書提出にあたり、過去の入試統計と予備校の自己採点資料をとことん研究し、180人抜き去る必要があるという、実に厳しい結論に至ったのです。

「あそこからあそこの列までの受験生に勝たないとダメなんだな。よ~し!!」

試験会場で、めちゃめちゃ気合いが入っていたのを覚えています。
しかも、38年も前のことが、まるで昨日のことのように思い起こされます。

結果としては・・、
繰り上げ合格だったので・・、
150〜160人くらいしか、逆転できなかったのではないかと思います・・

私の母校は、総合大学と呼べるほど大きな規模ではありませんが、それでも経済・経営・教育・機械・海洋・造船など、様々な分野の学問を学ぶことが可能でした。
しかしながら「大学生は、時間がたくさんあって、お金がちょっとあって、責任がない!」などと傲語していた学生時分を恥じるばかりです。

この歳になって、もっと勉強しておくべきだったと痛感しても、後の祭りですね。

120 心満意足

大学1年生、18歳のとき、無免許運転で警察のご厄介になったことがあります。
大学の同級生・マモとバイクに乗っていたら警官に止められ、御用となったのです。
バイクといっても原付ですから、自転車の延長みたいな気分で乗っていたのですが、これも立派な法律違反です。

「君、まだ未成年だから、保証人のハンコが必要なんだよね。大学の先生か誰かに頼める?」

警官にそう言われたものの、まさか先生にそんなお願いができるはずはありません。
東京の自宅を往復すれば3時間以上かかりますし、そもそも親にはナイショで事を済ませたい訳で、とは言え保証人の印鑑を快く押してくれる方がそう容易くいるはずもなく・・。

「オレの下宿の隣の住人に頼んでみようか?」

マモが突拍子もないことを言い出しました。

「若い女の人がひとりで住んでるんだけどさ、いつも昼間はいるんだよ。で、夕方になると出掛けてってさ、朝になると帰ってくるんだ。たまに男と一緒に帰ってきたりしてね。」

「おいおい、マモ。それ、一番頼みにくいタイプじゃん。あとあと厄介になること請け合いだろ・・。」

「そんなことないよ、何度か話したことあるけど、結構いい人だよ。あ!確か、苗字、お前とおんなじ山田だよ。保証人にうってつけじゃん!」

そこかよ・・と思いつつ、他に頼れる人はいませんでしたので、山田さんを訪ねることにしました。
当時のマモの下宿は、相鉄線星川駅から歩いて10分ほどの木造2階建てアパート。
トイレは汲み取り式、風呂なしの1Kで、家賃は15,000円。
そこにひとりで住んでて、毎日朝帰りの女性、山田さん・・。
やたらどんよりしたのを覚えています。

「すみません、隣の部屋の学生です。お願いがあって来ました。」

ドアをノックすると、中から人の気配がしました。
マモの言う通り、真っ昼間ですが在宅のようです。

「突然すみません、コイツ、大学の友達なんすけど、無免許運転で捕まっちゃって・・。この保証人の欄に20歳以上の人の印鑑が必要なんですが、お願いできないでしょうか?」

「まあ、大変ね。どれどれ・・。でも、アタシでいいのかしら・・。あら?山田君っていうの?私も山田。グーゼンね!」

驚くほどあっけなく、保証人の印鑑がいただけました。
マモの隣人は、心温かで、人情に厚く、ちょっぴりガードの甘い大人の女性でした。

それから数ヶ月経ち、運転免許証を取得することになりました。
無免許運転で捕まっている前歴がありますから、何らかのペナルティーが課せられるであろうと覚悟していましたが、何の障害もなく、当時はすんなりと交付されました。

そして、先日、通算何度目になるのか分かりませんが、免許更新を知らせる通知が届きました。
圧着はがきを広げてビックリ。
なんと、ゴールド免許の対象になっていました。
自分史上、初の快挙です。

免許取得以来、スピード違反では一度も検挙されたことがない、というのが私のプチ自慢ですが、ゴールド免許には縁がありませんでした。

前回の更新時は、その1ヶ月前に、路上のパーキングメーターに67分駐車したとして、わずか7分オーバーで駐車違反の切符を切られました。

その悔しい駐車違反を最後に、今日まで無事故無違反を積み重ね、遂にゴールド免許にたどり着きました。
ほぼ毎日運転している中で獲得したゴールドだから価値がある!と、ひとり悦に入っています。

37年を要して、ようやく優良運転手の証を手に入れることができました。
あの後、ほどなくして転居された山田さんに、改めて謝意を表したいと思います。

116 聚散十春

ロサンゼルスでホームステイしたのは、大学3年生だった昭和57年(1982年)のこと。
35年も前の出来事ですが、今もなお、一部のメンバーと交流が続いています。
わずか27日間の夏を共有しただけで、これほど長く繋がっていられるのは有難いことです。

また、ホストファミリーのFrank&Norma夫妻とも、長い間クリスマスカード等を通じて連絡を取り合っていました。
しかし、私が英語で手紙を書くエネルギーを失ったため、交流が途絶えてしまいました。

ところが、数年前、Facebookで再び繋がることができました。

Oh my gosh, of course I remember you. And in the photos…. you look the same…. What a nice family. You may come to California anytime and visit me with them…. Have a Happy Day.

家族写真を添付し、友達リクエストを送信したところ、こんな嬉しいメッセージが届きました。
ネット上とはいえ、再会できたことに感泣しました。
ただ、Frankが既に亡くなったという大変悲しいニュースも知りました・・。
私が手紙を送り続けていれば、もっと早くに知ることができたのにと、心底悔やみました。

 

話は変わりますが、今年の6月、大学時代の同級生女子と会う機会に恵まれました。
大学卒業以来、実に33年ぶりの再会でした。
と言っても同じ大学ではなく、彼女は横浜のお嬢様学校として有名なフェリス女学院大学の学生で、同じサークルに所属する仲間でした。

富山県出身の彼女は、会話の中に方言がちらほら顔を出す愛嬌のある女子大生でした。
卒業後は地元に戻り、28歳で結婚し、翌年にお嬢さんが誕生。
その後、ご主人の仕事の都合で何度か転居し、今春、千葉県内に移転してきたとのはがきを受け取ったので、会おう!と私から声を掛けました。

33年ぶりの第一声は、「お互い元気で良かったね。」

なんだか年寄りじみていますが 、自然とこういう言葉が口を衝いて出ました。
私も大切な友人を既に亡くしていますが、彼女も学生寮で同室だった友を亡くしているそうです。
すっかり中年になってしまったけれど、元気で再会できたことを素直に喜び合いました。

残念ながら怪しげな不倫のオーラを全く発せられない中年カップルは、年甲斐もなく人気のパンケーキ店でランチし、学生当時に彼女が住んでいた港区内のマンションがそのままだったことに感動し、そして最後は、カフェで33年分のよもやま話に花を咲かせました。
ただ、カフェで注文しようと並んでいたらそこはオーダーをピックアップする列だったり、LINEで友達登録するのに四苦八苦したあたりは、オジサンオバサン感、丸出しでした。

愛らしい女子大生から品格ある淑女へ変貌した彼女と再会できたのは、年賀状をお互い出し続けていたから。
そして、彼女が転居通知を送ってくれたから。

年を重ねるごとに、ご縁や友達の大切さを痛いほど感じます。

義理を欠かさないこと。
改めて、心に刻み込みたいと思います。

102 春風駘蕩

連休最終日、午後からカミさん方の墓参を予定していました。
が、その前に、早起きしてユミに会いに行くことにしました。

ユミと私の関係は「大学時代の同級生の元・嫁さん」とやや複雑です。
今、彼女は、静岡県三島市のお寺で眠っています。

7時前の新幹線に乗り、到着したのは8時過ぎ。
お寺は、春風がのどかに吹いて、正に春風駘蕩たる穏やかな朝でした。

聡明で努力家だったユミは、多様な資格を数多く持っていました。
「オレは運転免許しか持っていない」と言うと「ダメじゃん」と笑われたことがあります。
私が、50歳以降、一念発起、漢検二級や神社検定三級を受験したのは、ユミの影響とも言えます。

まあ、わずか2つくらいでは、ユミの足元にも及びません。
草葉の陰から誉めてもらえるよう、もっともっと努力しなければなりません。

墓参後、近くの三嶋大社を参拝しました。
三嶋大社は、伊豆国一宮と称され、延喜式内名神大社で旧官幣大社です。
「社格」は聞き慣れないと思いますが、要するに「歴史ある由緒正しき神社」な訳です。

ここは天然記念物の金木犀が有名です。
公式サイトには、
「樹齢は1200年を越えると推定される巨木で、現在もっとも古く、かつ大きなモクセイ」
と紹介されています。

一方、桜の名所としても知られています。
境内には、15種・200本の桜があるそうです。
残念ながら、この日はまだつぼみでしたが、境内が桜の花で彩られる日は近そうです。

突然ですが「桜開花の600度の法則」をご存じでしょうか。
「2月1日以降の毎日の最高気温を足し上げ、その累計値が600度を超えた日に桜が開花する」
というものです。

私は今年知りました。
結構当たる法則なんだそうです。

東京の最高気温を足し算してみると、私の計算では今日で591度(くらい・・)です。
明日開花宣言、ということになるのでしょうか。

095 白面書生

先週末、センター試験が行われました。
志願者数は、約576,000人だったそうです。

私が受験したのは、もう37年も前のこと。
当時は共通一次試験と呼ばれていました。
この試験が導入されるまで、国公立大学は一期校・二期校の中から各1校受験できましたが、共通一次試験によって、1校だけしか受験できないことになりました。
しかも、試験は「5教科7科目、1,000点満点」という、なかなか過酷なものでした。

昭和55年1月12日、試験初日の朝、忘れもしない出来事がありました。
寝ていた2階から階下へ行き、居間のドアを閉めながら「おはよう!」と挨拶した瞬間、入口に提げてあったカレンダーがストーンと落ちたのです。
「おはよう!」「ストーン!」の見事なタイミングは、まるで吉本新喜劇のようでした。
絵に描いたような縁起の悪さに、思わず笑うしかなかったですね。

受験会場は東京大学でした。
東京大学受験しているのであって、東京大学受験している訳ではなかったのですが、構内に入ると「よし、大学生になるぞ!」と気分が高揚した覚えがあります。

ただ、自己採点の結果は、目標の780点には遥かに及ばない、732点でした。
二次試験の出願校判断のため、某予備校に結果を提出したら、化学の偏差値が32でした。
順位は、およそ119,000人中、109,000位。
今年に当てはめれば、576,000人中、527,600位ですか・・・・。
理科は苦手でしたので好成績は望んでいませんでしたが、さすがにこれはショックでしたね。

私は、共通一次試験導入後、2年目の世代です。
従って、大学1年生のとき、1,2年生は共通一次試験組、3,4年生は一期校・二期校組でした。
一期校の東大を目指していたのに、何かの間違いで二期校の横浜国大に入ってしまった上級生と、マークシート方式で答案用紙を適当に塗りつぶす共通一次試験を経て入学した下級生。
出来の違いは、極めて明白でした。

ある講座では、担当教員から真顔でこう言われたこともあります。
「今年の生徒は共通一次試験組ですね・・・・。じゃ、試験問題は易しくしてあげますか。」

「ゆとりですがなにか」の昭和版ってところですかね。

おつむの出来は素晴らしい上級生たちですが、反面、ルックスの悪さも特筆ものでした。
薄汚れたジーンズ、何日も着続けているTシャツ、すり減ったサンダル、黒縁メガネ・・・・。
大変に優秀な先輩たちでしたが、まったく憧れの対象にはなりませんでした(笑)。

そういえば、今年のセンター試験は、今季最強寒波の襲来に見舞われましたね。
私も受験の時、寒さ対策にと、股引を履かされました。
ところが、普段履き慣れないために、下半身の暑さが妙な違和感となりました。

股引は、今や冬の必須アイテムとなったワタシ。
時代の趨勢を感じます・・・・。

093 箱根駅伝

お正月の風物詩・箱根駅伝が、来年も1月2日と3日に行われます。
陸上競技にそれほどの興味はないのですが、何となく箱根駅伝だけは見てしまいます。

次回は数えて第93回目。
青山学院大学の3連覇なるか、に注目が集まっています。

ご存知の通り、正月の本戦に出場するためには、前年の大会でシード権を獲得するか、予選会を勝ち抜かなければなりません。

この予選会は、駅伝のように襷をつないで走るのではなく、20kmのコースを一斉に走ります。
各チーム14人までエントリーが可能で、そのうちレースに出場できるのは12人まで。
そして、上位10名の合計タイムが少ない10校に、出場権が与えられます。

今年の予選会は10月15日に行われたようで、何気なく結果表を見ていました。
すると、我が母校(横浜国立大学)も参加しているではありませんか。
元々スポーツの盛んな大学ではないので、予選会に出られる部員数がいることに驚きました。

とはいえ参加選手はギリギリの10人。
全員のタイムがそのまま結果に反映されますし、何より誰か一人でも棄権をしたらアウトです。
条件は厳しいですね。

結果は・・、
参加50チーム中、45位。タイムは、11:41:02。
46位以下は、上智大学、茨城大学、高崎経済大学、東京工業大学大学院、東京大学大学院なので、勝った「大学」は3校だけということになりますか・・・・。
埼玉大学や一橋大学、東京学芸大学など近隣の国立大学には、来年リベンジして欲しいですね。

過去の記録も気になって調べてみると、
2015年:49校中42位、11:31:04。
2014年:48校中38位、11:27:25。
2013年:44校中34位、11:22:10。
2012年:45校中33位、11:31:09。
2011年:40校中32位、11:39:36。

出場校数にばらつきがあるので、単純に順位だけで比較はできませんが、今年は大きくタイムを落としてしまったようです。
来年からは、正月の本戦だけでなく、予選会での母校の活躍にも目を向けたいと思っています。