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131 百花斉放

新聞の大学特集ページで、母校に昨春「都市科学部」が新設されたことを知りました。
この学部は、以下4つの学科を有しているそうです。

  1. 都市を担う人々や文化、社会のあり方を考える「都市社会共生学科」
  2. 都市空間やコミュニティ、生活像をデザインする「建築学科」
  3. 土木工学を軸に防災や環境などの課題に取り組む「都市基盤学科」
  4. 都市の利便性と自然・社会環境から生じるリスクとの均衡を図る「環境リスク共生学科」

建築学科については、横浜高等工業学校建築学科を前身とする歴史ある工学部の理念やノウハウが生かされているのかも知れません。
しかし、これら学科についてサイトをよく見てみると、文系・理系両方の要素を含んでいて、今ドキな印象を受けます。
新聞記事にも、文系と理系を横断した「文理融合」の人材育成が謳われています。
先行研究の少ない、いわば挑戦的な領域でもありますので、今後の発展を期待したいものです。

昭和55年4月。
私が入学したときは、経済学部、経営学部、教育学部、工学部の4つの学部で大学は構成されていました。
そして、私の所属していた経営学部には、経営学科、会計学科、管理科学科の3つの学科がありました。

しかし、設立50周年を迎えた昨年、1学科体制で新たなスタートを切ったようです。
サイトには「特色ある施設・プログラム等」というタイトルで、現在の学部の様子が以下のように紹介されています。

◎経営学部情報センター
100台余りのPC端末が備えてあり、PCを利用した会計教育や英語教育、ビジネスゲームなどを行っています。また、情報検索、情報発信、研究・学習サポートなども行っています。

◎充実した体験型授業
「ビジネスゲーム」では、コンピュータ上に構築された仮想的マーケットの中で、複数の学生が企業の経営者として商品の生産、仕入れ、販売を行い競い合います。また、「マイプロジェクトランチャー」では、学生自らプロジェクトを作成、プレゼンを行い、プロジェクト実践能力を磨いていきます。

e-ラーニングによる効果的な学習
2年次必修外国語科目「英語演習」の課外の自習課題「アルクNet Academy」は、パソコンで行います。これは、TOEIC対策の自習プログラムで、リーディングとリスニング及び模擬演習問題のトレーニングができます。その他にも会計CAIなどパソコンを使った効果的な学習を行うことができます。

企業トップを講師に迎えた講義群
一般的なプログラムの他に、「経営者から学ぶリーダーシップと経営理論」、「ベンチャーから学ぶマネジメント」といった毎週代表取締役クラスの経営者を迎え、様々な角度から企業経営を学ぶ授業があります。インターンシップはこれらの授業を履修してから行います。

PCを利用したビジネスゲーム?
仮想マーケットで学生が経営者として競い合う??
経営者から企業経営を学ぶ???

我々の頃には考えられない授業内容の羅列に、我が目を疑ってしまいました。
35年も経っているのですから、変わって当然なのですが・・。

横浜国立大学は、元々、鎌倉や弘明寺などにキャンパスが分散していましたが、昭和49年8月、程ヶ谷カントリー倶楽部移転跡地に常盤台キャンパスを設置し、これらを統合・移転しました。
私が入学する6年前のことです。

実際、受験前に初めて見学に訪れたとき、学内は総じてキレイでした。
「こんなキレイなキャンパスで勉強できたらいいなあ」と、若干感動すら覚えたものです。
純粋というか無垢というか、受験勉強で心が病んでいたというか・・。

そんな清らかな気持ちで受験したにも拘わらず、入学後は、受験勉強に明け暮れた日々の仇をとるかの如き、遊惰でなまくらな生活に陥りました・・。
入学が決まった時、父から「国の税金を使わせていただくことを肝に銘じて、4年間過ごすように。」と言い付けられたにも関わらず・・。
当時の授業料は年間18万円でしたから・・。

今日は、3月4日。
昭和55年の今日、国立大学の二次試験だったと記憶しています。

共通一次試験の点数で劣っていた私は、ここで大逆転劇を演じなければなりませんでした。
二次試験の願書提出にあたり、過去の入試統計と予備校の自己採点資料をとことん研究し、180人抜き去る必要があるという、実に厳しい結論に至ったのです。

「あそこからあそこの列までの受験生に勝たないとダメなんだな。よ~し!!」

試験会場で、めちゃめちゃ気合いが入っていたのを覚えています。
しかも、38年も前のことが、まるで昨日のことのように思い起こされます。

結果としては・・、
繰り上げ合格だったので・・、
150〜160人くらいしか、逆転できなかったのではないかと思います・・

私の母校は、総合大学と呼べるほど大きな規模ではありませんが、それでも経済・経営・教育・機械・海洋・造船など、様々な分野の学問を学ぶことが可能でした。
しかしながら「大学生は、時間がたくさんあって、お金がちょっとあって、責任がない!」などと傲語していた学生時分を恥じるばかりです。

この歳になって、もっと勉強しておくべきだったと痛感しても、後の祭りですね。

120 心満意足

大学1年生、18歳のとき、無免許運転で警察のご厄介になったことがあります。
大学の同級生・マモとバイクに乗っていたら警官に止められ、御用となったのです。
バイクといっても原付ですから、自転車の延長みたいな気分で乗っていたのですが、これも立派な法律違反です。

「君、まだ未成年だから、保証人のハンコが必要なんだよね。大学の先生か誰かに頼める?」

警官にそう言われたものの、まさか先生にそんなお願いができるはずはありません。
東京の自宅を往復すれば3時間以上かかりますし、そもそも親にはナイショで事を済ませたい訳で、とは言え保証人の印鑑を快く押してくれる方がそう容易くいるはずもなく・・。

「オレの下宿の隣の住人に頼んでみようか?」

マモが突拍子もないことを言い出しました。

「若い女の人がひとりで住んでるんだけどさ、いつも昼間はいるんだよ。で、夕方になると出掛けてってさ、朝になると帰ってくるんだ。たまに男と一緒に帰ってきたりしてね。」

「おいおい、マモ。それ、一番頼みにくいタイプじゃん。あとあと厄介になること請け合いだろ・・。」

「そんなことないよ、何度か話したことあるけど、結構いい人だよ。あ!確か、苗字、お前とおんなじ山田だよ。保証人にうってつけじゃん!」

そこかよ・・と思いつつ、他に頼れる人はいませんでしたので、山田さんを訪ねることにしました。
当時のマモの下宿は、相鉄線星川駅から歩いて10分ほどの木造2階建てアパート。
トイレは汲み取り式、風呂なしの1Kで、家賃は15,000円。
そこにひとりで住んでて、毎日朝帰りの女性、山田さん・・。
やたらどんよりしたのを覚えています。

「すみません、隣の部屋の学生です。お願いがあって来ました。」

ドアをノックすると、中から人の気配がしました。
マモの言う通り、真っ昼間ですが在宅のようです。

「突然すみません、コイツ、大学の友達なんすけど、無免許運転で捕まっちゃって・・。この保証人の欄に20歳以上の人の印鑑が必要なんですが、お願いできないでしょうか?」

「まあ、大変ね。どれどれ・・。でも、アタシでいいのかしら・・。あら?山田君っていうの?私も山田。グーゼンね!」

驚くほどあっけなく、保証人の印鑑がいただけました。
マモの隣人は、心温かで、人情に厚く、ちょっぴりガードの甘い大人の女性でした。

それから数ヶ月経ち、運転免許証を取得することになりました。
無免許運転で捕まっている前歴がありますから、何らかのペナルティーが課せられるであろうと覚悟していましたが、何の障害もなく、当時はすんなりと交付されました。

そして、先日、通算何度目になるのか分かりませんが、免許更新を知らせる通知が届きました。
圧着はがきを広げてビックリ。
なんと、ゴールド免許の対象になっていました。
自分史上、初の快挙です。

免許取得以来、スピード違反では一度も検挙されたことがない、というのが私のプチ自慢ですが、ゴールド免許には縁がありませんでした。

前回の更新時は、その1ヶ月前に、路上のパーキングメーターに67分駐車したとして、わずか7分オーバーで駐車違反の切符を切られました。

その悔しい駐車違反を最後に、今日まで無事故無違反を積み重ね、遂にゴールド免許にたどり着きました。
ほぼ毎日運転している中で獲得したゴールドだから価値がある!と、ひとり悦に入っています。

37年を要して、ようやく優良運転手の証を手に入れることができました。
あの後、ほどなくして転居された山田さんに、改めて謝意を表したいと思います。

116 聚散十春

ロサンゼルスでホームステイしたのは、大学3年生だった昭和57年(1982年)のこと。
35年も前の出来事ですが、今もなお、一部のメンバーと交流が続いています。
わずか27日間の夏を共有しただけで、これほど長く繋がっていられるのは有難いことです。

また、ホストファミリーのFrank&Norma夫妻とも、長い間クリスマスカード等を通じて連絡を取り合っていました。
しかし、私が英語で手紙を書くエネルギーを失ったため、交流が途絶えてしまいました。

ところが、数年前、Facebookで再び繋がることができました。

Oh my gosh, of course I remember you. And in the photos…. you look the same…. What a nice family. You may come to California anytime and visit me with them…. Have a Happy Day.

家族写真を添付し、友達リクエストを送信したところ、こんな嬉しいメッセージが届きました。
ネット上とはいえ、再会できたことに感泣しました。
ただ、Frankが既に亡くなったという大変悲しいニュースも知りました・・。
私が手紙を送り続けていれば、もっと早くに知ることができたのにと、心底悔やみました。

 

話は変わりますが、今年の6月、大学時代の同級生女子と会う機会に恵まれました。
大学卒業以来、実に33年ぶりの再会でした。
と言っても同じ大学ではなく、彼女は横浜のお嬢様学校として有名なフェリス女学院大学の学生で、同じサークルに所属する仲間でした。

富山県出身の彼女は、会話の中に方言がちらほら顔を出す愛嬌のある女子大生でした。
卒業後は地元に戻り、28歳で結婚し、翌年にお嬢さんが誕生。
その後、ご主人の仕事の都合で何度か転居し、今春、千葉県内に移転してきたとのはがきを受け取ったので、会おう!と私から声を掛けました。

33年ぶりの第一声は、「お互い元気で良かったね。」

なんだか年寄りじみていますが 、自然とこういう言葉が口を衝いて出ました。
私も大切な友人を既に亡くしていますが、彼女も学生寮で同室だった友を亡くしているそうです。
すっかり中年になってしまったけれど、元気で再会できたことを素直に喜び合いました。

残念ながら怪しげな不倫のオーラを全く発せられない中年カップルは、年甲斐もなく人気のパンケーキ店でランチし、学生当時に彼女が住んでいた港区内のマンションがそのままだったことに感動し、そして最後は、カフェで33年分のよもやま話に花を咲かせました。
ただ、カフェで注文しようと並んでいたらそこはオーダーをピックアップする列だったり、LINEで友達登録するのに四苦八苦したあたりは、オジサンオバサン感、丸出しでした。

愛らしい女子大生から品格ある淑女へ変貌した彼女と再会できたのは、年賀状をお互い出し続けていたから。
そして、彼女が転居通知を送ってくれたから。

年を重ねるごとに、ご縁や友達の大切さを痛いほど感じます。

義理を欠かさないこと。
改めて、心に刻み込みたいと思います。

102 春風駘蕩

連休最終日、午後からカミさん方の墓参を予定していました。
が、その前に、早起きしてユミに会いに行くことにしました。

ユミと私の関係は「大学時代の同級生の元・嫁さん」とやや複雑です。
今、彼女は、静岡県三島市のお寺で眠っています。

7時前の新幹線に乗り、到着したのは8時過ぎ。
お寺は、春風がのどかに吹いて、正に春風駘蕩たる穏やかな朝でした。

聡明で努力家だったユミは、多様な資格を数多く持っていました。
「オレは運転免許しか持っていない」と言うと「ダメじゃん」と笑われたことがあります。
私が、50歳以降、一念発起、漢検二級や神社検定三級を受験したのは、ユミの影響とも言えます。

まあ、わずか2つくらいでは、ユミの足元にも及びません。
草葉の陰から誉めてもらえるよう、もっともっと努力しなければなりません。

墓参後、近くの三嶋大社を参拝しました。
三嶋大社は、伊豆国一宮と称され、延喜式内名神大社で旧官幣大社です。
「社格」は聞き慣れないと思いますが、要するに「歴史ある由緒正しき神社」な訳です。

ここは天然記念物の金木犀が有名です。
公式サイトには、
「樹齢は1200年を越えると推定される巨木で、現在もっとも古く、かつ大きなモクセイ」
と紹介されています。

一方、桜の名所としても知られています。
境内には、15種・200本の桜があるそうです。
残念ながら、この日はまだつぼみでしたが、境内が桜の花で彩られる日は近そうです。

突然ですが「桜開花の600度の法則」をご存じでしょうか。
「2月1日以降の毎日の最高気温を足し上げ、その累計値が600度を超えた日に桜が開花する」
というものです。

私は今年知りました。
結構当たる法則なんだそうです。

東京の最高気温を足し算してみると、私の計算では今日で591度(くらい・・)です。
明日開花宣言、ということになるのでしょうか。

095 白面書生

先週末、センター試験が行われました。
志願者数は、約576,000人だったそうです。

私が受験したのは、もう37年も前のこと。
当時は共通一次試験と呼ばれていました。
この試験が導入されるまで、国公立大学は一期校・二期校の中から各1校受験できましたが、共通一次試験によって、1校だけしか受験できないことになりました。
しかも、試験は「5教科7科目、1,000点満点」という、なかなか過酷なものでした。

昭和55年1月12日、試験初日の朝、忘れもしない出来事がありました。
寝ていた2階から階下へ行き、居間のドアを閉めながら「おはよう!」と挨拶した瞬間、入口に提げてあったカレンダーがストーンと落ちたのです。
「おはよう!」「ストーン!」の見事なタイミングは、まるで吉本新喜劇のようでした。
絵に描いたような縁起の悪さに、思わず笑うしかなかったですね。

受験会場は東京大学でした。
東京大学受験しているのであって、東京大学受験している訳ではなかったのですが、構内に入ると「よし、大学生になるぞ!」と気分が高揚した覚えがあります。

ただ、自己採点の結果は、目標の780点には遥かに及ばない、732点でした。
二次試験の出願校判断のため、某予備校に結果を提出したら、化学の偏差値が32でした。
順位は、およそ119,000人中、109,000位。
今年に当てはめれば、576,000人中、527,600位ですか・・・・。
理科は苦手でしたので好成績は望んでいませんでしたが、さすがにこれはショックでしたね。

私は、共通一次試験導入後、2年目の世代です。
従って、大学1年生のとき、1,2年生は共通一次試験組、3,4年生は一期校・二期校組でした。
一期校の東大を目指していたのに、何かの間違いで二期校の横浜国大に入ってしまった上級生と、マークシート方式で答案用紙を適当に塗りつぶす共通一次試験を経て入学した下級生。
出来の違いは、極めて明白でした。

ある講座では、担当教員から真顔でこう言われたこともあります。
「今年の生徒は共通一次試験組ですね・・・・。じゃ、試験問題は易しくしてあげますか。」

「ゆとりですがなにか」の昭和版ってところですかね。

おつむの出来は素晴らしい上級生たちですが、反面、ルックスの悪さも特筆ものでした。
薄汚れたジーンズ、何日も着続けているTシャツ、すり減ったサンダル、黒縁メガネ・・・・。
大変に優秀な先輩たちでしたが、まったく憧れの対象にはなりませんでした(笑)。

そういえば、今年のセンター試験は、今季最強寒波の襲来に見舞われましたね。
私も受験の時、寒さ対策にと、股引を履かされました。
ところが、普段履き慣れないために、下半身の暑さが妙な違和感となりました。

股引は、今や冬の必須アイテムとなったワタシ。
時代の趨勢を感じます・・・・。

093 箱根駅伝

お正月の風物詩・箱根駅伝が、来年も1月2日と3日に行われます。
陸上競技にそれほどの興味はないのですが、何となく箱根駅伝だけは見てしまいます。

次回は数えて第93回目。
青山学院大学の3連覇なるか、に注目が集まっています。

ご存知の通り、正月の本戦に出場するためには、前年の大会でシード権を獲得するか、予選会を勝ち抜かなければなりません。

この予選会は、駅伝のように襷をつないで走るのではなく、20kmのコースを一斉に走ります。
各チーム14人までエントリーが可能で、そのうちレースに出場できるのは12人まで。
そして、上位10名の合計タイムが少ない10校に、出場権が与えられます。

今年の予選会は10月15日に行われたようで、何気なく結果表を見ていました。
すると、我が母校(横浜国立大学)も参加しているではありませんか。
元々スポーツの盛んな大学ではないので、予選会に出られる部員数がいることに驚きました。

とはいえ参加選手はギリギリの10人。
全員のタイムがそのまま結果に反映されますし、何より誰か一人でも棄権をしたらアウトです。
条件は厳しいですね。

結果は・・、
参加50チーム中、45位。タイムは、11:41:02。
46位以下は、上智大学、茨城大学、高崎経済大学、東京工業大学大学院、東京大学大学院なので、勝った「大学」は3校だけということになりますか・・・・。
埼玉大学や一橋大学、東京学芸大学など近隣の国立大学には、来年リベンジして欲しいですね。

過去の記録も気になって調べてみると、
2015年:49校中42位、11:31:04。
2014年:48校中38位、11:27:25。
2013年:44校中34位、11:22:10。
2012年:45校中33位、11:31:09。
2011年:40校中32位、11:39:36。

出場校数にばらつきがあるので、単純に順位だけで比較はできませんが、今年は大きくタイムを落としてしまったようです。
来年からは、正月の本戦だけでなく、予選会での母校の活躍にも目を向けたいと思っています。

078 無妄之福

今日10月1日は、都民の日です。

東京生まれ東京育ちの私にとって、都民の日は「お得な休日」という感覚でした。
カレンダーは赤く表示されていないのに、学校に行かなくていい日でしたから。

そして、「1日は休みか!」と直前に気付くことが多かった記憶があります。
「10月10日体育の日」に比べると、都民の日は忘れがちだったように思います。

まずは、制定の経緯を、東京都生活文化局のサイトから引用します。
(http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/keishou/0000000248.html)

「都民の日」のいわれは、明治時代にさかのぼる。
府県や市町村という地方制度は、明治11年の郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則という三つの法令をはじめ、同21年の市制町村制、同23年の府県制、郡制などの法令によってだんだん形作られた。そして同22年5月には、明治元年から置かれていた東京府の中に新たに東京市も誕生した。
しかし、この東京市は、京都、大阪の2市とともに、その誕生直前に公布施行された市制特例という法令によって、他の市にくらべて、市民の市政参加への道が大きく制限されていた。市は置かれたというものの、市長と助投の仕事は国が任命した府知事と府書記官が行い、また市投所の建物もなく市の職員もいないという制度だった。
こうした自治の制限に対し、市民の市政参加の道を広げようとする運動が市会を初め市民の間でねばり強く続けられた。そして明治31年になって、市制特例は廃止され、同年10月1日には、市会によって選ばれた市長をもつ新しい東京市が誕生し、市役所も開設された。この新しい東京市誕生の歴史を忘れないため、大正11年10月1日「自治記念日」に定められ、その後、自治の大切さを自覚しようという願いをこめて、昭和27年に「都民の日」となった。

すぐには理解しがたい社会状況ですね・・。時代を感じます。

調べてみると、東京都以外にも同様の日があるようですので、いくつか紹介しましょう。
(制定していない道府県が結構多いことも申し添えておきます。)

秋田県(8月29日・秋田県の記念日)
1871年8月29日、廃藩置県で秋田県が誕生したことに由来

群馬県(10月28日・県民の日)
1871年10月28日(旧暦)、廃藩置県で群馬県が誕生したことに由来

埼玉県(11月14日・県民の日)
1871年11月14日(旧暦)、廃藩置県で埼玉県が誕生したことに由来

山梨県(11月20日・県民の日)
1871年11月20日(旧暦)、甲府県が山梨県に改称されたことに由来

長野県(2月7日・長野の日)
1998年2月7日、長野オリンピック開会式が行われたことに由来

鳥取県(9月12日・県民の日)
1876年に島根県に編入されて消滅した鳥取県が、1881年9月12日に再び分離独立して、現在の鳥取県が誕生したことに由来

大分県(11月14日・県民の日)
1871年11月14日(旧暦)、廃藩置県で大分県が誕生したことに由来

沖縄県(5月15日・本土復帰記念日)
1972年5月15日、アメリカ軍政下にあった沖縄県が日本に復帰したことに由来

廃藩置県、オリンピック、本土復帰・・・・、様々な由来があるんですね。
しかし、東京都のように公立学校を休校にしているのは以下の5県のみです。

千葉県(6月15日)
群馬県(10月28日)
茨城県(11月13日)
埼玉県(11月14日)
山梨県(11月20日)

東京周辺に偏っているのは、偶然なのでしょうか・・。
せっかくなので、他県の記念日も学校が休みになればいいのに・・とも思います。

私は、横浜の大学に通っていましたが、神奈川県にはそもそも県民の日が制定されていません。
横浜市は、6月2日を開港記念日として市立の学校を休みにしていますが、国立大学には無関係。
都民の日っていいなあ、と強く感じたのは、大学生の時だったかも知れません。

因みに、今年の都民の日は土曜日ですから、来年は日曜日になります。
しかし、国民の祝日とは違うので、月曜日が振替休日にはなりません。
来年、都内の学生達は1日損をしたような気になるのでしょうね。

056 暮雲春樹

平成22年1月4日、
49歳という若さで逝ってしまった「ユミ」は、今年七回忌を迎えました。

節目の時期から2ヶ月遅れてしまいましたが、先週日曜日、墓参に出向きました。
ユミは、ご両親が暮らす静岡県三島市に眠っています。
1年3ヶ月ぶりの再会でしたが、お彼岸の中日に会えて、良かったなと思っています。

一緒に行ったのは、大学の同級生2人と、その奥さん1人。

同級生の1人は、福島市に単身赴任中の「ミゾ」。
広島出身のミゾは、酒も結構飲むし、不規則な生活をしている割には、中年太りとは縁がなく、大学時代よりも体重が減って、現在53kg!
身長は私と大差ないので、たぶん172〜173cm。
メタボは全く心配ないけど、ある意味心配かと・・・・。

いつも飄々としているミゾは、この日も「時間に遅れそうだから先に行ってくれ」と電話をしてきたかと思ったら、発車時刻ギリギリに新幹線に飛び込んできました。
スリムな体型を活かして、東京駅構内をダッシュしてきたようです。
しかし、そこは50代半ば。
新横浜駅あたりまでは、虫の息でしたね。

もう1人は、数年前に自宅を新築し、また借金生活だ!と苦笑している「あっちゃん」。
大学時代から穏健な男で、知恵袋的存在だった彼は、近年手足の痺れに悩んでいます。

「分かりやすく言うと、左手では大ジョッキが持てない。」

明るくそう言う反面、
「ちょっとずつだけど、時間と共に進行しているような気がする。」
とも言います。

手術も受け、脊髄症を疑われているものの、病名も原因も今一つはっきりしないために、治療法もどこか手探りなのだそうです。

「少し酒を控えようと思って、自分から誘うのを止めたら、週の半分が休肝日になった!」

お酒の量が減るのはきっといいことなのでしょうが、やっばりあっちゃんには、
大ジョッキで軽やかに乾杯して欲しいな、と思ってしまいます。

そして、もう一人。
墓参には一緒に行かなかったけれど、大切な友人のひとりが、近年体調を崩しています。

大学時代の彼を一言で形容すると、「天真爛漫を絵に描いたような若者」でした。
私は彼の下宿に頻繁に泊めてもらいました。

そして、ある試験の前夜・・・・。
「授業には出ていない、試験範囲は分からない、頼りになる友人もいない、まいった。」
私が煎餅布団で悶々としていると、
「お前な、今日それを考えて、結論出るか?出ないだろ。じゃ、寝ようぜ。」
まもなく、彼のイビキが聞こえてきました。
明日のテストに向けて、何ひとつ準備もせず・・・・。

あ~、自分もこういう思考回路になりたいなあ、とつくづく思ったものです。
奔放で悠然とした彼と違って、うじうじした自分が、とても煙ったく感じました。

しかし、時を経て、立場が変わり、双肩に担うものが増え、少しナーバスになったようです。
彼とは、仕事の環境が似ているので、決して他人事ではありません。
私も正に紙一重、明日は我が身です。

しかし、私には、彼に何の力も与えられません。
春の訪れと共に、少しずつ前に進めるよう、ただただ、ひたすら、願うばかりです。

遠く離れた友を思い、心を痛めています。
改めて自らの足下も見つめ直しつつ・・・・。

053 万死一生

我が家のセガレは小学校6年生です。
つい先日、中学受験を終え、運良く第1志望の学校から合格をいただきました。

そして、今日、2月11日は、「統一招集日」でした。

これは、一部の私立男子校が同じ日、同じ時間に実施している「合格者招集日」のことで、例年2月11日の13時なのだそうです。

因みに、この招集に応じないと、入学拒否と見なされます。

なぜ、同じ日時に保護者同伴で招集するかというと、学校側が入学予定者数を把握し、定員充足に向けて必要な 「繰上げ合格者」を出すことができるからと言われています。
即ち、この日は、繰り上げ合格連絡の日、でもあるのです。

昭和55年3月、私は、第1志望だった大学の合格発表から漏れました。
遺憾ながら、第6志望の大学への入学を決めました。
入学金に加え、授業料も振り込みました。

その後、高校の同級生とスキーに行きました。
誰がどこに受かったとか、様々な情報が入ってきました。
なんだか、凹みました。
苗場のシングルリフトで寒風にさらされ、いじけたのを覚えています。

スキー旅行から帰宅したその夜、自宅の黒電話が鳴りました。
昼はスキー、夜は麻雀という3泊4日から戻った私は、かなりヘトヘトでした。
家人が誰も電話をとらないので、舌打ちしながら嫌々受話器を取りました。

「はい、もしもし・・。」
「山田様でしょうか。こちら、横浜国立大学経営学部学務課の中村ですが・・・」

ありゃりゃ、受験の時、何かやっちまったかな??
確か、タバコは吸っていないよな??
不正行為なんて、ゼッタイしてないし・・。

瞬間パニックに陥りましたが、電話の趣旨は「繰り上げ合格」でした。

あるんですね。こういうことって。

そして、今日。
塾で親しくさせていただいたお母さんから、一報がありました。
ご子息が開成中学に繰り上げ合格になったと。

18歳の春を思い出しました。
我が事のように嬉しかったです。

015 隔世之感

私の通っていた大学は、横浜市保土ヶ谷区にありました。
横浜って一般的には都会的でおしゃれな街、というイメージが強いと思います。
山下公園や中華街、みなとみらいなどが象徴的ですね。

ところが我が大学のあるエリアは、おしゃれ感とは隔たりがありました。
大学ホームページのアクセスを見ても、横浜駅からの電車+徒歩でのご案内として、
★横浜市営地下鉄三ツ沢上町から正門まで徒歩16分
★相鉄線和田町駅から南門まで徒歩20分
と紹介されています。

因みに私が在籍していた頃、地下鉄はまだ開通していませんでした。
従って、文京区の自宅から通学していた私は、和田町駅から20分歩きました。
しかも、この20分が、平坦な道ではないのです。
言ってみれば山歩きみたいな行程なのです。

この山越えが苦痛になり、まもなくバス通学に変えました。
横浜駅から相鉄バスに乗り、国道一号線沿いの岡沢町という停留所で降ります。
経営学部の校舎まではそこから徒歩5分ほどです。
しかし、道路の渋滞が時間通りにバスを走らせてはくれません。

そして、もうひとつ「敵」がいました。
岡沢町というバス停の前に、「岡沢ボウル」というボウリング場がありました。
バス停で降りても学校には行かずボウリング場へ、なんてことが日常茶飯事でした。

この岡沢ボウルには、当時の仲間と足繁く通いました。
所属プロの山本由美子さんをはじめ、フロントの方とも親しくなり、常連の皆さんからも可愛がっていただきました。
マイボウル、マイシューズを購入し、トーナメントにも頻繁に参加しました。
トーナメントへの参加率は、大学のゼミへの出席率を確実に上回っていたと思います。

なお、余談ですが、残念ながら岡沢ボウルは平成17年5月に閉鎖されてしまいました。

 

卒業して30年。先日久々に家族でボウリング場に行きました。
そこで見たのは、私が知っているボウリングとは様変わりしていました。

とにかく驚いたのは、ボウリング独特のマナーが消滅していたことです。
それは、「隣のレーンの人と同時投球をしない」というマナーです。

ボウリングのレーンは隣との距離が狭いため、同時に投球すると危険が伴います。
また、集中力を妨げることにもなりますので、一般的に右側の人が優先とされています。

しかし、この日見たボウリングには、「同時投球」という概念がありませんでした。
隣の人には目もくれず、ピンめがけてひたすら投げる若者たちで溢れていました。

思うに、若い人達はマナーを守っていないのではなく、知らないのではないでしょうか。
一方で、ボウリング場側は「楽しく遊ぶために、最低限のルールを守りましょう」とあまねく知らせる努力を怠っているのではないかと感じました。
このままでは、ボウリングのマナーやルールは消滅する危機に瀕している、と言っても過言ではないと思います。

異次元を感じたのはそれだけではありません。
というのも、私が投げようとしたとき、突然、館内の照明が消えたのです。
何が始まるのか分からず呆然としていると、この後の投球でストライクが出るとご褒美がいただける、というイベントであることを知りました。

以前、各レーンに1本だけ赤いピンが含まれていて、そのピンがヘッドピンにきたとき、ストライクを出すと景品がいただけるという企画に遭遇した記憶があります。

しかし、今回はボウリング場が一体となって行われていました。
照明が消えたあとには、DJのごとき館内放送が流れて、イベント開催が告げられ、スタートの合図とともに、隣のことなど我関せず、一斉に投球をはじめるのでした。

そう・・、週末のボウリング場で見た光景は、スポーツというよりもゲームでした。
裏を返せば、若者層を取り込むために、ボウリング場も色々趣向を凝らしているのでしょう。
私は間違いなく浦島太郎でした・・。

因みに、私は薄暗い中、ストライクを一度出すことができました。
ちょっとした記念品と、ポラロイドで家族写真を撮っていただきました。
時代の趨勢なんだなあと、アンビバレントな心情に浸った休日でした。

補足:ボウリングのマナーの一部を下に記します。常識だったんだけどなあ・・。
☆投球の際にファールラインを越えない
☆ロフトボウルをしない(ボールをドスンと投げない)
☆アプローチで飲食をしない
☆投げ終わったらアプローチから速やかに降りる
☆靴下は必ず履く