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208 遊戯三昧

「友達が麻雀を教えてくれたんだけど、用語がなかなか覚えられないや」

福岡旅行から戻ったセガレが突然言い出しました。
その友人は、中学高校の同級生で、学部は違いますが同じ大学に通っています。
聞けば、その友人のクラスでは、麻雀が静かなブームなのだそうです。

若者の麻雀離れが指摘されて、随分経つように思います。
1つの理由として、若者の行動体系が大きく変わったことが挙げられます。
彼女なんて要らないという、私が若い頃には(いや、このトシになっても)理解できない草食男子にとって、4人揃わないと始まらない麻雀は、敷居が高くなって当然と言えるでしょう。

2つめに、金品を賭ける、タバコを吸う、酒も飲む、徹夜もしちゃう麻雀は、イマドキの遊びではないのかも知れません。

私が麻雀を覚えたのは、高校2年生のときでした。
たちまちその奥深さにハマり、「世の中にはこんなに楽しい遊びがあるのか!」とさえ思いました。
多彩な役にも魅力を感じましたが、符の計算が算数のドリルのように楽しくて引き寄せられました。

高校生の時に通った池袋の「平和」という雀荘は、1時間80円でした。
お茶の1杯すら出ませんでしたが、麻雀ができればそれで良かった高校生にはうってつけの場所でした。

大学生になってからは、高田馬場の「西武」に本拠地を移しました。
刺激的な辛さのカレーライスが有名で、眠くなってきた頃に食べると、アタマの芯から汗が出て、覚醒したものでした。

私にとって麻雀は、間違いなく青春の1ページです。

さて、前回のバリカン丸坊主に続いて、高校生活ネタをもう1つ。

私の高校では、日直がクラス日誌を書くことになっていました。
といっても、その日の天気や欠席者など、他愛もないことを書けばよいのです。
そして、その日誌は、担任が手の空いたときに教室で読むことが習慣になっていました。

高校2年生の秋。
日直だった私は、来る日も来る日も同じような内容ばかりでつまらないな・・と思い、何を血迷ったか、日誌に麻雀ネタを書くことにしました。

南3局 西家 持ち点43,000点 トップ
5巡目にリャンソー自摸 何を切るか

こんな感じの「何切る問題」を書きました。

翌日、次の当番に日誌を渡すと、「山田がこんなこと書いてるぞ!」と暴かれました。
そして、私の書いた日誌の内容は、一気にクラス中に行き渡りました。

「このまま出すのか?」
「シャレじゃ済まないぞ」
「自爆だろ!?」

皆にそう言われましたが、せっかく書いた日誌を消すつもりは毛頭ありませんでした。

そして、ある日、本来予定されていた授業が何らかの事情で休講となりました。
こういう場合、担任の監督のもと、生徒は自習するというのが常でした。

各自目的を持って自習するように、と先生から指示が出ても、大半の生徒は上の空でした。
何故なら、教壇に鎮座した担任が、そこでクラス日誌を読むであろうことは、誰でも予想のつくことでした。
ほとんどの生徒は教科書を見ているふりをしながら、担任の動きを目で追っていました。

担任はサトウ先生。
気難しいことで名高い、中年の男性教師でした。

そんなとき、教師の表情が明らかに変わりました。
おそらく、私の書いたページに到達したのでしょう。

「山田、ちょっと来い」

ついにお呼びが掛かりました。
教室内が、急にざわつきました。
私も腹をくくってはいましたが、険しい表情で名指しされましたので、動揺は隠せませんでした。

「おい」
「な、なにか・・」

「お前な」
「あ、はい・・」

「これ、なに切るんだ?」
「え??」

「教えろ」
「はい。持ち点がトップなので平和ドラ1を闇聴で早上がりできるようにもっていくべきであり、であるならば、スーアン自摸による3面待ちを捨てても、油っこい中央付近のウーアン、ローアンを切るべきであると考えます」

「ふーん。なるほどな。戻れ」

昭和って、やっぱり良い時代だったんだなって思います。

207 一球入魂

第104回全国高校野球選手権が開幕しました。
3年ぶりに一般客がスタンドで観戦できることになりましたが、敗戦校が土を持ち帰ったり、勝者が大声で校歌を歌うことはNGだそうで、コロナの影響は未だ色濃く残っています。

大会初日の今日、甲子園地方の最高気温は32度でしたから、猛暑日にならなかったのは良かったと言えます。
ただ、近年の暑さは、昔とは別物と考えなければならないと思います。
ドーム球場で開催すれば、健康面での安全が確保されるのになあ、と思ったりします。
開会式でプラカードを持つ女子学生の親も、安心して送り出せるのではないでしょうか。

しかし、球児たちにとっては、夢の舞台が甲子園球場であることが、意義深いのかも知れません。
アメリカ横断ウルトラクイズ決勝の地がニューヨークでなくてはならないのと同じですね(違うか)。

そんな中、先月下旬、日本高野連は将来的に朝と夕の「2部制」での開催を含め、さまざまな観点から暑さ対策を検討すると発表しました。

これまでも専門の理学療法士を待機させたり、試合中に給水や休憩の時間を設けたりして対策を重ねてきたようですが、暑さ対策についてはより前向きに、そして迅速な対応が必要だと思います。

ところで、日本高校野球連盟の調査結果によると、2021年、同連盟に加盟する47都道府県の高校の硬式野球部の部員数は13万4,282人でした。
2001年は15万328人でしたから、10年間で1万5,000人以上減ったことになります。
また、中学軟式野球部は、もっと大幅に減少しているそうです。

子供たちの野球離れには、以下の複合的ファクターがあると考えられています。

  1. ボールの使用を禁止する公園が増えたこと
  2. YouTubeやeスポーツ市場の拡大によるゲーム人気の高まりなど、娯楽の選択肢が増えていること
  3. 経済的理由で子供の野球用具の購入費用が捻出できないこと

また、もう1つ、独特の要因があります。
「坊主頭」の文化です。

現在は、多くの学校が坊主頭を強制しているのではなく、「暗黙の了解」で坊主頭にしているのだそうです。
先輩が皆丸刈りならば、新入部員が坊主にするのは必然ですから、これを暗黙の了解というのでしょう。

しかし、最近は髪を伸ばした高校球児を見ることが増えたように思います。
中国新聞社が今年の広島県大会前に調べたところ、出場85校(83チーム)のうち、半数以上の46チームが髪形を選手個々の判断に委ねている一方、37チームが今でも全員丸刈りにしているとのこと。
徐々に変わりつつある、といった印象ですね。

2019年夏、45年ぶりに甲子園出場を果たした秋田中央高の佐藤監督(当時)の言葉が印象的でした。
この学校は2019年4月に、監督が坊主頭を見直すのはどうだろうと生徒に提案し、最終的に丸坊主をやめる決断を下しました。
その決断を受け、佐藤監督は部員たちにこう伝えたといいます。

「負けたら色々言われるよ。寝癖がついていればだらしないと思われる。自由というのは一番厳しいんだ。野球だけでなく、普段の身だしなみから自分で考えるべ。坊主頭のままでももちろんいい。でも髪型を考えることを放棄して坊主頭にするのはやめよう」

わがままに何をしてもいいのが自由ではなく、人に対して、そして、自分に責任を持つことが本来の自由であるという指導に感銘を受けました。

私は物心ついたときから野球が大好きでした。
しかし、私の通った東京都文京区の公立小学校にも中学校にも、野球部はありませんでした。
文京区は山手線の内側に位置していますから、野球ができるほどの広い校庭を望むのは所詮無理な話です。

一転、高校には広い土のグラウンドがありました。
もちろん野球部もありましたが、私は入部しませんでした。

坊主頭にするのがイヤだったからです・・。

ご多分に洩れず、我が母校の野球部員は全員丸坊主でした。
髪型が自由だったら、野球部に入部していたかも知れません。
坊主頭ルールが有能なプロ野球選手を1人失った、と言えるかも知れません(違うか)。

また、全く別の意味で、独特の丸刈りルールがありました。
それは、校則違反を犯した者は、懲罰として丸坊主にされるというものです。

丸刈り担当は、ごつくて強面の体教(体育教員の略)でした。

「この間、電動バリカン買ったからな。ガンガン坊主にするぞー!」
ある日の朝礼で、体教が不吉な笑いを浮かべていました。

昨日まで髪の毛フサフサだった友人が、ある朝突然、坊主頭になって登校してくるなんて姿を何度も見ました。
その理由は多様です。

「昼ドキに学校抜け出そうと思ったら捕まった・・」
「パーマ掛けて、直さなかったらやられた・・」
「タバコ持ってるのバレた・・」

根本的な原因は生徒にあるので、当時の学生は不満に思ってはいませんでしたし、今思い返しても、指導の行き過ぎだとは感じません。

ある日、友人のK君が正門前で体教に確保されました。
1978年4月4日の午後でした。

「おい、具合でも悪いのか?それともほかに理由があるのか?」

万事休す・・。
しかし、K君は正々堂々、体教と対峙しました。

「先生、今日はキャンディーズの解散コンサートがあるんだ。今日が最後なんだ。明日、朝イチで体育教官室に行って、どんな処分も受ける。だから今日は行かせて欲しい」

屈強な体教を前に、そして、学校をサボるという立場にありながら、K君は胸を張って言いました。

結果、彼は後楽園球場で解散コンサートを見ることができました。
そして、何故か、電動バリカンの餌食にもなりませんでした。
直球勝負の心意気が先生を動かしたのか、あるいは、その体教もキャンディーズのファンだったのか、真相は闇の中です。

言った生徒も生徒なら、対応した教師も教師です。
昭和の良き風景を感じます。

204 鸞翔鳳集

6月6日、桑田佳祐さんの新曲「時代遅れのRock’n’Roll Band」のミュージックビデオがYouTubeで公開されました。

佐野元春さん、野口五郎さん、世良公則さん、Charさんとの豪華共演で、しかもこの5名は同級生なのだそうです。

桑田さんが、4人それぞれに手紙を送り、所属事務所にデモ音源とともに自ら足を運んで説得したという時代遅れな方法で実現したと知りました。
桑田さんの人柄が感じとれるエピソードですね。

しかし、こんな大物がこぞって同級生だなんてホントかな?
厳密には1人はちょっと年上ですが、なんてエクスキューズがあるんじゃないかな?

ちょっと怪しい匂いを感じ、調べて見ました。

  • 桑田佳祐さん:1956年2月26日生 神奈川県出身
  • 佐野元春さん:1956年3月13日生 東京都出身
  • 野口五郎さん:1956年2月23日生 岐阜県出身
  • 世良公則さん:1955年12月14日生 広島県出身
  • Charさん       :1955年6月16日生 東京都出身

あっぱれです。
文句なしの同級生でした・・。

 

このMVは、現時点で既に320万回以上再生されており、その数字は日に日に伸びています。
私も20回以上鑑賞させていただきました。
スペシャルな面々が各々の持ち味を出していて、聞き応え、見応え満点です。

歌詞のそこかしこにも、桑田さんの才能を感じます。
「力の弱い者が 夢見ることさえ 拒むというのか」
このフレーズはあの人に向けてのメッセージなんだと思います。

また、このMVには2名の特別出演がいます。
原由子さんとハマ・オカモトさんです。

それから、もう1人。
重要な役どころを演じている「特別友情出演」の大友康平さんも忘れてはなりません。

  • 大友康平さん:1956年1月1日 宮城県出身

なんと、先の5名と同級生で、またまた驚きました。

特別友情出演になった理由は「ギターが弾けないから」だそうで、大友さんのオフィシャルブログには、以下のような逸話が紹介されています。

桑田から「大友にも声をかけなかったら、あとで何を言われるかわからないからなあ」の一言には笑えたなあ。

近年の大友さんしか知らない若い世代の方は、ロックンローラーというより、CM「いすゞのトラック」のイメージの方が強いかも知れませんね。
私は、ミュージシャンでありながらコメディアンのようにトークも面白い大友さんの大ファンで、ある事件以来、親近感すら感じています。

その事件とは・・、

年に数回、ゴルフコンペで顔を合わせるRさんという方がいます。
以前、同じお客様に出入りしていた業者仲間という立場で知り合った間柄です。

4〜5年ほど前にコンペでお目に掛かった際、こう声を掛けられました。

「前から思ってたんだけどさ、山田さん、大友康平にチョー似てるよね。」

「え?言われたことないっすよ・・」

過去に似ていると言われたのは、金山一彦さん、辰吉丈一郎さん、西山浩二さんなど・・。
大友康平さんはこの時が初めてでした。

周囲で聞いていた方も「似てる似てる」と笑いながら反応していましたが、本人としては少なからず不服でした。

そんなことがあった1ヶ月ほど後、某大学病院のエレベーターでのこと。
点滴スタンドを転がしながら70歳くらいの男性患者さんが、看護師さんに付き添われて乗ってきました。

「何階に行かれますか?」

と声を掛けたところ、

「あんた、大友康平に似てるって言われるだろ?」

と、出し抜けに言われました。

「ん?2度目だな・・」と思った私は「はい、たまに・・」と申し上げると、

「だよな!そっくりだよなあ!」

狭いエレベーター内でご満悦な点滴オジサン。
同意を求められ、必死に笑いをこらえる看護師さん。

1ヶ月ほど前に納得いかないなあと思ったことを、初対面の方から指摘された訳です。
しかも、コロナ前のマスクをしていない時期のことですから、これは受け入れるしかありません。
私のプロフィールに追加させていただくことといたしました。

MVで演じている三枚目の役柄は、確かに私と共通点が見い出せます。
それにしても、病院内でいきなり声を掛けられるほど、似ているのかなあ・・。
入院生活に少し飽きていて、からかう相手を探していたのかなあ・・。

点滴オジサンが、今日を元気で過ごされていることを祈りたいと思います。

203 大驚失色

携帯電話が日本で発売されたのは1985年、ショルダーホンという名称で、肩に掛けて持ち運ぶスタイルでした。
ウィキペディアによると、重量は900グラムもあったそうです。

私が社会人になったのはその1年前、1984年4月ですから、当時会社との連絡手段はポケットベルでした。
プッシュ回線から数字を送ることができたので、急ぎの時は「9」、大至急の時は「99」というルールを設けて、緊急度を伝えることにしていました。

しかし、いくら「99」と表示されても、公衆電話がなければ連絡ができません。
ポケットベルって便利だなあと当時は思っていましたが、公衆電話が町から消えた今となっては、過去の遺物ですね。

時は流れ、初めて携帯電話を所有したのは、32〜33歳頃だったと思います。
記念すべき1台目は、富士通製でした。

ドッチーモ、なんて機種も使用したことがあります。
1台で携帯電話とPHS双方の機能を持つNTTドコモの端末です。

その後、富士通のほか、NECやSONY など、国内メーカーの製品をずっと使用してきましたが、先日、カミさんと一緒にiPhoneに乗り換えました。

カミさんはiPhone 13 miniの青、私はiPhone 13の赤にしました。
男女逆な感じがしますが、私の赤は還暦にちなみました。

私は仕事ではずっとMacを使用していますし、個人でiPadも所有しているので、携帯電話だけAndroidだったこれまでがちぐはぐだったと言えるかも知れません。
ただ、なんとなくアメリカ製のiPhoneや韓国製のGalaxyではなく、日本製品頑張れという気持ちで主にSONYのXPERIAを愛用してきました。

実際iPhoneを使用してみると、カバーは多くの種類から選べますし、Macとの相性など、便利さを実感しています。

Macに関しては、初めて購入したのは1995〜1996年頃でした。
確かPerforma 5260とかいう機種だったと思います。
NECのPC9801を個人ユースで所有していましたが、Mac購入はDTPへ移行するための第一歩でした。

思い出すのは、漢字Talk7.5.1というOSが、変な名称だなと感じたこと。
プリインストールされていた「3Dアトラス」が面白かったこと。
DTPソフトの先駆けであるQuark Xpressが、1ライセンス248,000円で驚愕したこと。
QuarkもillustratorもPhotoshopも操作がわからず、デザイナーや製版屋の知人に、恥も外聞もなく聞きまくったこと・・。

メモリもハードディスクも、今では考えられないほど小さな容量だったことでしょうが、目の前で処理される様々な事象に驚嘆するばかりでした。

話はポケットベルに戻りますが、ある土曜日、ディスプレイに「999999」と表示されたことがありました。
「99」が大至急なのに、どんだけ急ぎなんだ・・。
下請けの製本屋さんにいたので電話を借りて会社に連絡すると・・、

「事務所の裏が火事です!!!」

急いで会社戻ると、おびただしい数の消防車が到着していました。
野次馬も大勢いて、周辺は騒然としていました。

「今後の状況によっては御社の建物の裏側からも放水します。窓ガラスが割れる可能性が高いですが、お許しください」とのこと・・。

印刷屋の事務所兼倉庫ですから、中は大量の紙で溢れています。
ガラスを突き破って水が入ってきたら、事務所内の製品は全部アウトだ・・と呆然としましたが、幸い放水には至らず、鎮火いたしました。

今でも数字の9がいくつか並んでいるのを見ると、あの喧騒を思い出します。

197 万能一心

人気動画サイトYouTubeが誕生したのは、2005年の2月だそうです。
最初の動画は、共同創設者のJawed Karim氏が、サンディエゴ動物園でゾウの檻の前に立っているわずか18秒のものだったとか。

今年8月に総務省情報通信政策研究所が発表した『令和2年情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書』によると、YouTubeの利用率は全年代で85.2%でした。
取りわけ、10代から40代で90%を超えているのは特筆すべき現象と思います。
50代は81.2%、60代でも58.9%と世代を超えて浸透しており、誕生からまだ17年に満たないにもかかわらず、その普及度は目を見張るものがあります。
(自分は60代のカテゴリーなのか!と、誕生日以降、こういう時に心理的抵抗感を感じます・・)

また、ソニー生命保険が7月に発表した「中高生が思い描く将来についての意識調査」によると、男子に関しては中学生も高校生も「YouTuberなどの動画投稿者」が、将来なりたい職業の第1位でした。
YouTuberの正確な年収は公表されていないようですが、Hikakinさんやはじめしゃちょーさんなど、1億以上と言われている方も珍しくなく、あまたの1,000万円超えがいるそうです。
私が子供の頃の人気職業は「プロ野球選手」が鉄板だった気がしますが、子供たちにとって夢がある職業も、時代と共に大きく変化しているようです。

さて、私も、そこそこYouTubeを視聴しています。
上記58.9%に属する訳です。

最近、はまっているのは、ロッド・スチュワートのYouTubeチャンネルです。
中でも、2004年10月にロンドンのRoyal Albert Hallにて行われたコンサート映像がお気に入りです。

最初に感動したのは、見慣れぬ女性とデュエットする「I don’t want to talk about it」。
その女性、若干素人のような佇まいですが、歌は上手だし、美人でスタイル抜群だし、ちょっと衣装がセクシーだし・・、というわけで調べてみたところ、スコットランド出身のエイミー・ベル(Amy Belle)という歌手でした。
当時22歳のエイミーはまだ無名でしたが、ロッド・スチュワートの一夜限りのライヴに招待されてデュエットしたのだそうです。

また、名曲「Sailing」は、ステージと会場が一体になって、鳥肌ものです。
エンドロールを迎える頃には泣きそうです。
終わり間近の投げキッスも、さりげなくて印象的です。

そして、私が最も好きなのは、ロン・ウッド(Ronnie Wood)と共演している「Maggie May」です。
とにかくHappyな映像です。
凹んでいるとき、疲れているとき、元気をもらえます。
因みに、この「Maggie May」、元々はシングル「Reason to believe」のB面だったそうです。
(A面、B面という話に、うちのセガレはきょとん顔でした。)

「Hot legs」など、舞台上をパワフルに駆け回っているシーンを数多く目にしますが、驚くことに、この時ロッド・スチュワートは59歳。
今の私とほぼ同年齢で、赤いシャツを羽織り、黄色いジャケットを鮮やかに着こなし、時にお茶目に、時にクールに、10曲以上をライブで披露しているわけです。

同じ男としてこんな風に歳を重ねられたら・・と憧れますが、顔もスタイルも足の長さも全く異次元なので、望むべくもありません。
ただ、端整な顔立ちや魅力的なハスキーボイスは生まれ持ったものかも知れませんが、ミュージシャンとして長く活動している裏側には、隠れた努力の積み重ねがあるのだと思います。
若い頃の画像よりもカッコイイぞ!と思える59歳のロッド・スチュワートは、加齢、衰退、枯凋に抗うためには相応の努力が必要だ、と教えてくれるようで、私には大きな刺激となっています。

そう言えば、大学の同級生でロッド・スチュワートが大好きな女性がいましたっけ。
コロナ禍で叶いませんが、昔の友人たちと還暦同窓会をしたいなあと思ったりします。

195 犬馬之歯

先週木曜日、60歳(還暦)になりました。

還暦で思い出すのは、長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の「今日、初めての還暦を迎えまして・・」というユニークなコメントです。
自分はまだまだ先のことだと思っていましたが、あっという間でした。

平均寿命が長くなり、還暦を長寿の祝いとする習慣は薄れてきましたが「節目の特別な誕生日」という感覚はまだ根強いようで、周囲の方々からお祝いをいただくことが続きました。

以前このブログでも紹介しましたが、あるお客様からは大きな紅白まんじゅうをいただきました。
そして、古くからお付き合いのある紙問屋の営業さんからは蘭の花をいただきました。

また、私が10年以上幹事を務めているゴルフコンペのメンバーから、祝いの品を頂戴しました。
しかも、コンペ終了後のパーティーの席でのサプライズな演出に驚かされました。
いただいたのはポロシャツとカステラのセット。
ポロシャツは私がお気に入りのメーカーでしたし、カステラは私が甘党と知ってのチョイスです。
その心遣いが、二重に嬉しかったですね。

さらに、仕事つながりの4人でゴルフに行った際にも、お祝いをいただきました。
東京オリンピック、ゴルフ日本代表とお揃いのポロシャツを頂戴したことにもビックリしましたが、私の名前と蠟燭60本のイラストが印刷された真っ赤なオリジナルTシャツまでいただき、感動しました。

ハッピーバースデーハットを被り、本日誕生日のタスキをかけた朝イチのティーグラウンドでの写真もありますが、品位等の諸事情を鑑み、非公開とさせていただきます。

それから、兄弟と呼び合う一回り年下のお客さんは、2人だけの食事会を企画してくださいました。
そして、記念の品として、金沢の銘品「金かすてら」をいただきました。
デラックス感は写真でも十分伝わると思います。
リッチで幸せな気分に浸ることができました。

そして、義母からもお祝いの食事会をしよう、とお誘いいただき、叙々苑で高級ランチをご馳走になりました。
こちらが長寿のお祝いをしなければいけないのに、立場が逆転してしまいました。

最後に、小学校の同級生からも贈答品が届きました。
半世紀以上の付き合いになるこの仲間とは、2年に一度京都旅行をしており、なぜか私は「隊長」と呼ばれ、取り纏め役を仰せつかっています。
いただいたのは、私の大好物、京都からのお取り寄せ「権太呂なべ」です。
車海老、蛤、白焼き穴子、鶏肉、生麩などを、絶品の出汁でいただきます。
翌日はおじやにして、もう1日楽しむことができます。

破顔一笑、豪華絢爛、阿鼻叫喚、珍味佳肴、愉快適悦・・。

歳をとることは豊かで素敵なことなのだ、と皆さんから教えられたような気がします。
そして、家族や友人には本当に恵まれたと改めて感じました。

改めて60という年齢に思いを馳せたとき、ピンと来ないというのが正直な心境です。
息子として生まれ、結婚して夫となり、子を授かって父となり、会社の経営を引き継いで社長となり、様々な立場を経て、60歳になりました。

・親孝行な子であったろうか。
・家族思いの夫であったろうか。
・尊敬される父であったろうか。
・社員を守る経営者であったろうか。

顧みると、明らかに反省点が多いです・・。
無駄に歳を重ねてきた面も認めざるを得ません。

歳を重ねることが怖いと思ったことはありませんが、加齢を感じる事象に接するたびに、希望が少しずつ失われていくような想いを感じていました。
今後は、寄る年波を静かに受け入れつつ、時には少し抗い、自分に構うことを忘れず、残りの人生を全うしていきたいと思っています。

193 面目一新

1974年、テレビドラマ「寺内貫太郎一家」が大ヒットしました。
このドラマを見ないで翌日学校に行くと、友達との会話に参加できないくらい、私の学校では皆こぞって見ていました。
それもそのはず、平均視聴率は31.3%だったそうです。

主役を演じたのは、作曲家の小林亜星さん。
ほかに出演していた俳優さんも、今もって鮮明に覚えています。

寺内貫太郎の奥さん役は加藤治子さん、長女で足に障害を持つ役柄を演じたのが梶芽衣子さん、そしてその弟役が西城秀樹さん。
貫太郎の母親役は悠木千帆(樹木希林)さんで、お手伝いさん役が浅田美代子さん。
石屋の職人役は、伴淳三郎さんと左とん平さんという喜劇役者の2人。
それから、由利徹さんは花屋の主人役、篠ヒロコさんは居酒屋の女将さんで、その店の謎めいた常連客役が横尾忠則さん。
そして、梶芽衣子さんの恋人役が藤竜也さんで、このときの藤さんは、子供ながらにスゲーカッコイイ人だなあと感じていました。

47年前に放映されたドラマですから、残念ながら多くの出演者がお亡くなりになりました。
主役を演じた小林亜星さんは、今年5月、88歳でご逝去されました。

なお、余談ですが、当時中学生だった私は、主役を演じている太っちょなオジさんが、著名な作曲家であることを知りませんでした。

亜星さんのプロフィールをネットで見ることができました。

逓信省(現総務省)官僚の父と、小劇場の女優だった母の間に生まれ、父方の祖父が医師だったため、父から「将来は医師になれ」と言われて育つ。
一方、幼少期から音楽が大好きでバンド活動も行っていたが、猛勉強して慶大医学部に進学。
しかし、入学後、父に内緒で経済学部に転部したことが卒業時にバレて勘当。
大学卒業後は日本製紙に就職したものの、約1カ月で退社。
その後は紙問屋を立ち上げて営んでいたものの、大好きな音楽の道に進むことを決断し、作曲家・服部正さんに師事。

慶応の医学部に合格したにも関わらず、音楽の道を選んだと知り、驚きました。
また、日本製紙に就職したこと、そして、紙問屋を興したことにまたまた驚きました。
亜星さんが紙問屋のままでいたら、寺内貫太郎一家はどうなっていたことか・・。

現実の話、東京都の紙商(紙問屋)は、全盛期170社以上ありましたが、現在は70社ほどに減っており、その数はもう少し減るだろうと予想されています。

そもそも、紙の生産量は2000年をピークに減少しており、2020年には減少幅が4割近くに達しました。
ペーパーレスの進行に、新型コロナが追い打ちをかけた格好です。

また、近年の特徴として、衛生用紙の生産量が新聞用紙に迫っています。
要するに、高齢者向けオムツの需要が増えて、新聞離れが進んでいるということです。
現代社会を真っ正面から映し出していますね。

広告ひとつ取っても、オンラインが中心となり紙に代表されるオフライン広告は衰退の一途です。
しかし、保存がしやすい、記憶に残りやすい、質感を感じることができるといった、紙ならではのメリットを心に秘め、紙文化の継承に微力を尽くしていきたい思いです。

天国の亜星さんも、きっと、紙業界の行く末を心配されていることかと思います。

190 古色蒼然

若い頃、多くの車はマニュアル車でした。
エンジンを止めるときは、決まってアクセルを踏んで回転数を上げてから、キーを抜きました。

これを「ブリッピング(空吹かし)」と呼ぶそうです。

その理由のひとつとしては、1960年代半ば頃まではキャブレターと呼ばれる機械式の燃料供給装置が主だったことです。

ブリッピングする理由は、次回のエンジンスタートの際に燃焼室にガソリン成分が残っていて始動しやすいようにするためという人もいます。
実際、高出力エンジン搭載車の場合には、大口径のキャブレターを装着されていた車種が多かったといいます。

そのため、クルマを止める直前に低回転で走行していると供給される燃料に対する燃焼のバランスが崩れ、「プラグがカブる(燃料やスラッジによってスパークプラグの着火が悪くなる)」ことを嫌っていたことがその始まりのようです。

・・・・なんて知ったかぶりをしましたが、上記はネット記事の受け売りです。
私は車のメカニックに関しては全くの無知で、若い頃、単車にもまるで興味がありませんでした。
私の世代としては、少数派かも知れません。

先述のブリッピングもそうですが、昔は常識で、一般的で、正論だったけれど、現代は変わってしまったことを思い浮かべてみました。

「いい国作ろう鎌倉幕府」

我々の年代では「鳴くよウグイス平安京」と双璧の、鉄板語呂合わせです。
ところが最近の研究で、鎌倉幕府は段階的に成立したとする見方が強くなり、1185年が鎌倉時代の始まりとする説が有力なのだそうです。
即ち「いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府」が新定番になります。
なんかしっくりこないですね。

また、子供の頃、一万円札は「聖徳太子」と呼ばれていました。
今となっては死語大賞候補です。
それもそのはず、聖徳太子から福沢諭吉になったのが1984年ですから、もう37年も前。
数年後、渋沢栄一に変更されたら、益々存在感が薄れてしまいますね。

この聖徳太子、最近の教科書では「厩戸王(うまやとおう)」と表現されることが増えたのだそうです。

古典で聖徳太子という呼称を確認できるのは、死後100年以上経った8世紀半ば。
「日本書紀」には「厩戸皇子」との記述があるものの、「皇子」という尊称は聖徳太子より後の7世紀後半に用いられました。
そこで、聖徳太子の時代に使われていた「王」を用いて厩戸王と呼ぶようになりました。

聖徳太子のころは皇太子や摂政といった制度もまだ確立されていなかったとみられ、「摂政として国を支えた」などの表現も使われなくなっているのだそうです。

また、一万円札を聖徳太子と呼んでいた頃、家の財布を握っている妻を、「大蔵省」と呼んでいましたっけ。
いまだに「財務省」という単語に詰まることはあっても、「大蔵省」はすんなり口を突いて出ます。

お金といえば、日本最古の貨幣は「和同開珎(わどうかいちん)」であると小学校で学びました(私は「わどうかいほう」という読みで習いました)。
ところが、1998年に奈良県の飛鳥池遺跡にある7世紀後半の地層から見つかった「富本銭(ふほんせん)」が、最も古い貨幣と認められました。

近年は、「鎖国」や「士農工商」も、その後の研究の結果、教科書に登場しない傾向だそうです。
日本史においては、新しい歴史的発見があったり、研究者の間で議論が進むと、教科書の内容は更新されるのですね。

昔の知識や記憶が通用しなくなるのは残念ですが、人間一生勉強だ、ということですね。

186 雲集霧散

プロ野球のオープン戦は昨日で全日程を終了し、今週金曜日、セ・パ同時に公式戦の開幕を迎えます。
野球好きの私にとっては、心踊るシーズンの到来です。

両親の影響もあり、子供の頃からジャイアンツのファンでした。
最初にファンになったのは、背番号23番、槌田選手。
V9戦士と呼ばれる名選手が数多くいるなか、正捕手の森昌彦に隠れた槌田選手のどこに惹かれたのか定かな記憶はありませんが、私の中でジャイアンツのキャッチャーといえば槌田選手でした。

子供の頃、実家では読売新聞と報知新聞を定期購読していました。
ジャイアンツの記事が大きく取り上げられる報知新聞は、私の大きな楽しみでした。
朧気ですが、自分の名前の次に書いた漢字は「報知新聞」だっと記憶しています。

通っていた小中学校はグラウンドが狭く、野球部がありませんでしたが、週末は、野球好きの友達と近所の公園や河川敷などでよく遊びました。

そして、社会人になって間もなくのこと、草野球チームを結成しました。

チーム結成の由来を説明するのは若干難儀ですが、ざっくり言うと、某高校の野球部仲間だった「ワビ」と「キヨちゃん」が高校卒業後偶然再会した際に、各々の友人を誘い合って野球をやろうと計画したことに端を発します。
私は「ワビ」の中学の同級生で、河川敷で一緒に野球に興じた仲間。
しかも、当時の私のポジションは、草野球では不人気なキャッチャーでしたので、お声が掛かったのだと思います。

チーム名は「インパルス」。
謂れは、山口百恵さん主演のドラマです。

ユニフォームは赤を基調にすることが何故か先に決まっていて、チーム名はその後に検討されました。
某ファミレスで行われた協議の席で、ドラマ「赤いシリーズ」から命名してはどうかと、私が提案しました。

真っ先に上がったのは「赤い疑惑」。
「ダウト」じゃチーム名にならないっしょ、と批判され、じゃあ「赤い衝撃はどう」と私が言うと、仲間が「衝撃って英語でなんつうの?」

「インパルスだよ」

と答える私に皆が賛同し、「インパルス」と命名されたのです。

今にして思うと、衝撃は「impact 」で、「impulse」は衝動じゃないかと・・。
しかも、 なにゆえ複数形ではないのか?
でも「インパルスィス」じゃ舌噛んじゃうか・・。
その前に、疑惑は「doubt」で終わっちゃったけど、「Suspicion」は誰の脳裏もかすめなかったのか・・。
問題点が数多浮かび上がります。

当時、スマホがあれば、赤い迷路、赤い激流、赤い激突など、多くの候補から選ぶこともできたでしょう。
赤い運命の「デスティニーズ」なんて、格好良かったのに・・と思います。
テーマソングはユーミンのDestiny。

チーム名の由来に粗忽さは拭えませんが、我がインパルスは、足立区軟式野球連盟で一時代を築いたのも事実です。

冒頭で説明した通り、構成メンバーは、結成当初から「友達の友達の寄せ集まり」でした。

その輪は、年を追うごとに広がりました。
私は監督という立場でもあったので、チーム内を最も把握していたのですが、その私ですら、どんな経緯で仲間になったのか掴みきれないメンバーもいました。

あちこちから集まった仲間でしたから、バラエティ豊かな面々でした。

野球はお世辞にも上手ではないのにスコアブックを書かせるとピカイチだったYO君。
ライバルチームにいたのに、いつの間にか我がチームに入ったKK君。
腿を高く上げてベースランニングする元陸上部のHI君。
超でっかいホームランを4年に1度打つYI君。

41歳で孫が生まれたなんて奴もいましたが、すっかり名前は忘れてしまいました・・。

そして、我がチームで不動の4番に君臨していたのは、先に登場した「キヨちゃん」。
そのキヨちゃんについては、改めて紹介したいと思います。

185 禍福倚伏

私の通勤手段は車です。
所要時間はおよそ30分ほどです。

行きの車中では、「飯田浩司のOK! Cozy up!」というラジオ番組をよく聴きます。
私が自宅を出る6時ちょうどに始まるので、タイミングがいいのです。

パーソナリティの飯田浩司さんはニッポン放送のアナウンサーですが、なんと、私の大学(横浜国大)の後輩にあたります。
しかも、同じ経営学部。
年齢は私の20コ下。

どんなお顔なのかと興味が湧き、ニッポン放送のサイトで拝顔いたしました。
ちょっと年齢より老けているかなと、感じました・・(失礼)。

この飯田アナは経済に造詣が深く、ズバズバ意見を述べる歯切れの良いアナウンサーです。

22日月曜日の朝もいつものようにラジオを聴いていると、今週は飯田アナウンサーが休暇とのこと。
内田雄基さんという新人アナウンサーが、ピンチヒッターを務めていました。

そして驚くことに、この内田アナも横浜国大の卒業生だというのです。
「学生時代、飯田先輩と同じ居酒屋に通っていたことが分かり、コロナが落ち着いたら一緒に飲みに行く約束をしたんです!」なんて地元ネタをラジオで披露していました。

相鉄線・和田町駅か、あるいは横浜駅周辺か・・。
私の時代にはなかった地下鉄だってあるか・・。

因みに内田アナ、年齢は私の36コ下です。
36歳差って、私が54歳の時に大学に入学したってことですね。
なんだか先輩後輩という域を超えているような感じがします・・。

うちの大学出身のアナウンサーを調べてみると、NHKをはじめ、中京テレビ、朝日放送、新潟放送、岩手放送、テレビ熊本など、そこそこいますね。

女性では阿部哲子や高樹千佳子さんが有名ですが、王様のブランチに出演しているTBSアナウンサーの山本匠晃さんもうちのOB。

それから、テレビ朝日の報道ステーションを担当していて、昨年新型コロナに罹患してちょっと騒ぎになった富川悠太アナもそう。

ひょっとするとアナウンサー率が高いのでは?と思い、調べてみると、アナウンサー出身大学ランキングというサイトがありました。
https://university-rank.com/ranking_announcer.htm

これによると、横浜国立大学は第27位でした。
小さな大学ですから、わりと上位だと言えるかも知れません。

さて、今、受験シーズン真っ只中です。
我が母校は、昨年夏頃、早々に2次試験を行わない旨、発表しました。
即ち、昨年までセンター試験と呼ばれていた「大学入学共通テスト」だけで合否を判定するのです(一部学部を除く)。
数千人という受験生に、安全な受験環境を提供することが困難であるとの苦渋の決断です。
https://www.ynu.ac.jp/exam/faculty/release/pdf/message.pdf

すると、今月中旬頃、志願者が激減しているというニュースが流れました。
https://www.asahi.com/edua/article/14180436

その背景として、共通テストだけで判定するため二次試験での逆転ができず、合格ラインが読めないので、出願しづらかったのではないかと指摘されています。

私が受験した当時、当時の共通一次試験で780点ほどが、経営学部の合格目標ラインだったと記憶しています。
ところが、私は自己採点で732点ほどしか点数が取れませんでした。
志望校変更も考えましたが、二次試験で逆転してやる!と意気込んで、予定通り願書を提出しました。

なるほど・・。
私が今年の受験生だったら、逆転のチャンスはないわけです。
当然、志望校を変えなければなりません・・。

なにはさておき、今年の受験生には、心からエールを送りたいと思います。
コロナのために、進路を変更せざるを得なかった若者が、どれだけいることでしょう。

1980年。
1月12〜13日、共通一次試験実施。
3月4日、二次試験実施。
3月14日、合格発表で不合格。
3月24日、大学から繰り上げ入学の電話。

40年以上前の出来事になりますが、今も24日の電話での会話は、耳の奥に残っています。