吃驚」カテゴリーアーカイブ

197 万能一心

人気動画サイトYouTubeが誕生したのは、2005年の2月だそうです。
最初の動画は、共同創設者のJawed Karim氏が、サンディエゴ動物園でゾウの檻の前に立っているわずか18秒のものだったとか。

今年8月に総務省情報通信政策研究所が発表した『令和2年情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書』によると、YouTubeの利用率は全年代で85.2%でした。
取りわけ、10代から40代で90%を超えているのは特筆すべき現象と思います。
50代は81.2%、60代でも58.9%と世代を超えて浸透しており、誕生からまだ17年に満たないにもかかわらず、その普及度は目を見張るものがあります。
(自分は60代のカテゴリーなのか!と、誕生日以降、こういう時に心理的抵抗感を感じます・・)

また、ソニー生命保険が7月に発表した「中高生が思い描く将来についての意識調査」によると、男子に関しては中学生も高校生も「YouTuberなどの動画投稿者」が、将来なりたい職業の第1位でした。
YouTuberの正確な年収は公表されていないようですが、Hikakinさんやはじめしゃちょーさんなど、1億以上と言われている方も珍しくなく、あまたの1,000万円超えがいるそうです。
私が子供の頃の人気職業は「プロ野球選手」が鉄板だった気がしますが、子供たちにとって夢がある職業も、時代と共に大きく変化しているようです。

さて、私も、そこそこYouTubeを視聴しています。
上記58.9%に属する訳です。

最近、はまっているのは、ロッド・スチュワートのYouTubeチャンネルです。
中でも、2004年10月にロンドンのRoyal Albert Hallにて行われたコンサート映像がお気に入りです。

最初に感動したのは、見慣れぬ女性とデュエットする「I don’t want to talk about it」。
その女性、若干素人のような佇まいですが、歌は上手だし、美人でスタイル抜群だし、ちょっと衣装がセクシーだし・・、というわけで調べてみたところ、スコットランド出身のエイミー・ベル(Amy Belle)という歌手でした。
当時22歳のエイミーはまだ無名でしたが、ロッド・スチュワートの一夜限りのライヴに招待されてデュエットしたのだそうです。

また、名曲「Sailing」は、ステージと会場が一体になって、鳥肌ものです。
エンドロールを迎える頃には泣きそうです。
終わり間近の投げキッスも、さりげなくて印象的です。

そして、私が最も好きなのは、ロン・ウッド(Ronnie Wood)と共演している「Maggie May」です。
とにかくHappyな映像です。
凹んでいるとき、疲れているとき、元気をもらえます。
因みに、この「Maggie May」、元々はシングル「Reason to believe」のB面だったそうです。
(A面、B面という話に、うちのセガレはきょとん顔でした。)

「Hot legs」など、舞台上をパワフルに駆け回っているシーンを数多く目にしますが、驚くことに、この時ロッド・スチュワートは59歳。
今の私とほぼ同年齢で、赤いシャツを羽織り、黄色いジャケットを鮮やかに着こなし、時にお茶目に、時にクールに、10曲以上をライブで披露しているわけです。

同じ男としてこんな風に歳を重ねられたら・・と憧れますが、顔もスタイルも足の長さも全く異次元なので、望むべくもありません。
ただ、端整な顔立ちや魅力的なハスキーボイスは生まれ持ったものかも知れませんが、ミュージシャンとして長く活動している裏側には、隠れた努力の積み重ねがあるのだと思います。
若い頃の画像よりもカッコイイぞ!と思える59歳のロッド・スチュワートは、加齢、衰退、枯凋に抗うためには相応の努力が必要だ、と教えてくれるようで、私には大きな刺激となっています。

そう言えば、大学の同級生でロッド・スチュワートが大好きな女性がいましたっけ。
コロナ禍で叶いませんが、昔の友人たちと還暦同窓会をしたいなあと思ったりします。

195 犬馬之歯

先週木曜日、60歳(還暦)になりました。

還暦で思い出すのは、長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の「今日、初めての還暦を迎えまして・・」というユニークなコメントです。
自分はまだまだ先のことだと思っていましたが、あっという間でした。

平均寿命が長くなり、還暦を長寿の祝いとする習慣は薄れてきましたが「節目の特別な誕生日」という感覚はまだ根強いようで、周囲の方々からお祝いをいただくことが続きました。

以前このブログでも紹介しましたが、あるお客様からは大きな紅白まんじゅうをいただきました。
そして、古くからお付き合いのある紙問屋の営業さんからは蘭の花をいただきました。

また、私が10年以上幹事を務めているゴルフコンペのメンバーから、祝いの品を頂戴しました。
しかも、コンペ終了後のパーティーの席でのサプライズな演出に驚かされました。
いただいたのはポロシャツとカステラのセット。
ポロシャツは私がお気に入りのメーカーでしたし、カステラは私が甘党と知ってのチョイスです。
その心遣いが、二重に嬉しかったですね。

さらに、仕事つながりの4人でゴルフに行った際にも、お祝いをいただきました。
東京オリンピック、ゴルフ日本代表とお揃いのポロシャツを頂戴したことにもビックリしましたが、私の名前と蠟燭60本のイラストが印刷された真っ赤なオリジナルTシャツまでいただき、感動しました。

ハッピーバースデーハットを被り、本日誕生日のタスキをかけた朝イチのティーグラウンドでの写真もありますが、品位等の諸事情を鑑み、非公開とさせていただきます。

それから、兄弟と呼び合う一回り年下のお客さんは、2人だけの食事会を企画してくださいました。
そして、記念の品として、金沢の銘品「金かすてら」をいただきました。
デラックス感は写真でも十分伝わると思います。
リッチで幸せな気分に浸ることができました。

そして、義母からもお祝いの食事会をしよう、とお誘いいただき、叙々苑で高級ランチをご馳走になりました。
こちらが長寿のお祝いをしなければいけないのに、立場が逆転してしまいました。

最後に、小学校の同級生からも贈答品が届きました。
半世紀以上の付き合いになるこの仲間とは、2年に一度京都旅行をしており、なぜか私は「隊長」と呼ばれ、取り纏め役を仰せつかっています。
いただいたのは、私の大好物、京都からのお取り寄せ「権太呂なべ」です。
車海老、蛤、白焼き穴子、鶏肉、生麩などを、絶品の出汁でいただきます。
翌日はおじやにして、もう1日楽しむことができます。

破顔一笑、豪華絢爛、阿鼻叫喚、珍味佳肴、愉快適悦・・。

歳をとることは豊かで素敵なことなのだ、と皆さんから教えられたような気がします。
そして、家族や友人には本当に恵まれたと改めて感じました。

改めて60という年齢に思いを馳せたとき、ピンと来ないというのが正直な心境です。
息子として生まれ、結婚して夫となり、子を授かって父となり、会社の経営を引き継いで社長となり、様々な立場を経て、60歳になりました。

・親孝行な子であったろうか。
・家族思いの夫であったろうか。
・尊敬される父であったろうか。
・社員を守る経営者であったろうか。

顧みると、明らかに反省点が多いです・・。
無駄に歳を重ねてきた面も認めざるを得ません。

歳を重ねることが怖いと思ったことはありませんが、加齢を感じる事象に接するたびに、希望が少しずつ失われていくような想いを感じていました。
今後は、寄る年波を静かに受け入れつつ、時には少し抗い、自分に構うことを忘れず、残りの人生を全うしていきたいと思っています。

193 面目一新

1974年、テレビドラマ「寺内貫太郎一家」が大ヒットしました。
このドラマを見ないで翌日学校に行くと、友達との会話に参加できないくらい、私の学校では皆こぞって見ていました。
それもそのはず、平均視聴率は31.3%だったそうです。

主役を演じたのは、作曲家の小林亜星さん。
ほかに出演していた俳優さんも、今もって鮮明に覚えています。

寺内貫太郎の奥さん役は加藤治子さん、長女で足に障害を持つ役柄を演じたのが梶芽衣子さん、そしてその弟役が西城秀樹さん。
貫太郎の母親役は悠木千帆(樹木希林)さんで、お手伝いさん役が浅田美代子さん。
石屋の職人役は、伴淳三郎さんと左とん平さんという喜劇役者の2人。
それから、由利徹さんは花屋の主人役、篠ヒロコさんは居酒屋の女将さんで、その店の謎めいた常連客役が横尾忠則さん。
そして、梶芽衣子さんの恋人役が藤竜也さんで、このときの藤さんは、子供ながらにスゲーカッコイイ人だなあと感じていました。

47年前に放映されたドラマですから、残念ながら多くの出演者がお亡くなりになりました。
主役を演じた小林亜星さんは、今年5月、88歳でご逝去されました。

なお、余談ですが、当時中学生だった私は、主役を演じている太っちょなオジさんが、著名な作曲家であることを知りませんでした。

亜星さんのプロフィールをネットで見ることができました。

逓信省(現総務省)官僚の父と、小劇場の女優だった母の間に生まれ、父方の祖父が医師だったため、父から「将来は医師になれ」と言われて育つ。
一方、幼少期から音楽が大好きでバンド活動も行っていたが、猛勉強して慶大医学部に進学。
しかし、入学後、父に内緒で経済学部に転部したことが卒業時にバレて勘当。
大学卒業後は日本製紙に就職したものの、約1カ月で退社。
その後は紙問屋を立ち上げて営んでいたものの、大好きな音楽の道に進むことを決断し、作曲家・服部正さんに師事。

慶応の医学部に合格したにも関わらず、音楽の道を選んだと知り、驚きました。
また、日本製紙に就職したこと、そして、紙問屋を興したことにまたまた驚きました。
亜星さんが紙問屋のままでいたら、寺内貫太郎一家はどうなっていたことか・・。

現実の話、東京都の紙商(紙問屋)は、全盛期170社以上ありましたが、現在は70社ほどに減っており、その数はもう少し減るだろうと予想されています。

そもそも、紙の生産量は2000年をピークに減少しており、2020年には減少幅が4割近くに達しました。
ペーパーレスの進行に、新型コロナが追い打ちをかけた格好です。

また、近年の特徴として、衛生用紙の生産量が新聞用紙に迫っています。
要するに、高齢者向けオムツの需要が増えて、新聞離れが進んでいるということです。
現代社会を真っ正面から映し出していますね。

広告ひとつ取っても、オンラインが中心となり紙に代表されるオフライン広告は衰退の一途です。
しかし、保存がしやすい、記憶に残りやすい、質感を感じることができるといった、紙ならではのメリットを心に秘め、紙文化の継承に微力を尽くしていきたい思いです。

天国の亜星さんも、きっと、紙業界の行く末を心配されていることかと思います。

190 古色蒼然

若い頃、多くの車はマニュアル車でした。
エンジンを止めるときは、決まってアクセルを踏んで回転数を上げてから、キーを抜きました。

これを「ブリッピング(空吹かし)」と呼ぶそうです。

その理由のひとつとしては、1960年代半ば頃まではキャブレターと呼ばれる機械式の燃料供給装置が主だったことです。

ブリッピングする理由は、次回のエンジンスタートの際に燃焼室にガソリン成分が残っていて始動しやすいようにするためという人もいます。
実際、高出力エンジン搭載車の場合には、大口径のキャブレターを装着されていた車種が多かったといいます。

そのため、クルマを止める直前に低回転で走行していると供給される燃料に対する燃焼のバランスが崩れ、「プラグがカブる(燃料やスラッジによってスパークプラグの着火が悪くなる)」ことを嫌っていたことがその始まりのようです。

・・・・なんて知ったかぶりをしましたが、上記はネット記事の受け売りです。
私は車のメカニックに関しては全くの無知で、若い頃、単車にもまるで興味がありませんでした。
私の世代としては、少数派かも知れません。

先述のブリッピングもそうですが、昔は常識で、一般的で、正論だったけれど、現代は変わってしまったことを思い浮かべてみました。

「いい国作ろう鎌倉幕府」

我々の年代では「鳴くよウグイス平安京」と双璧の、鉄板語呂合わせです。
ところが最近の研究で、鎌倉幕府は段階的に成立したとする見方が強くなり、1185年が鎌倉時代の始まりとする説が有力なのだそうです。
即ち「いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府」が新定番になります。
なんかしっくりこないですね。

また、子供の頃、一万円札は「聖徳太子」と呼ばれていました。
今となっては死語大賞候補です。
それもそのはず、聖徳太子から福沢諭吉になったのが1984年ですから、もう37年も前。
数年後、渋沢栄一に変更されたら、益々存在感が薄れてしまいますね。

この聖徳太子、最近の教科書では「厩戸王(うまやとおう)」と表現されることが増えたのだそうです。

古典で聖徳太子という呼称を確認できるのは、死後100年以上経った8世紀半ば。
「日本書紀」には「厩戸皇子」との記述があるものの、「皇子」という尊称は聖徳太子より後の7世紀後半に用いられました。
そこで、聖徳太子の時代に使われていた「王」を用いて厩戸王と呼ぶようになりました。

聖徳太子のころは皇太子や摂政といった制度もまだ確立されていなかったとみられ、「摂政として国を支えた」などの表現も使われなくなっているのだそうです。

また、一万円札を聖徳太子と呼んでいた頃、家の財布を握っている妻を、「大蔵省」と呼んでいましたっけ。
いまだに「財務省」という単語に詰まることはあっても、「大蔵省」はすんなり口を突いて出ます。

お金といえば、日本最古の貨幣は「和同開珎(わどうかいちん)」であると小学校で学びました(私は「わどうかいほう」という読みで習いました)。
ところが、1998年に奈良県の飛鳥池遺跡にある7世紀後半の地層から見つかった「富本銭(ふほんせん)」が、最も古い貨幣と認められました。

近年は、「鎖国」や「士農工商」も、その後の研究の結果、教科書に登場しない傾向だそうです。
日本史においては、新しい歴史的発見があったり、研究者の間で議論が進むと、教科書の内容は更新されるのですね。

昔の知識や記憶が通用しなくなるのは残念ですが、人間一生勉強だ、ということですね。

186 雲集霧散

プロ野球のオープン戦は昨日で全日程を終了し、今週金曜日、セ・パ同時に公式戦の開幕を迎えます。
野球好きの私にとっては、心踊るシーズンの到来です。

両親の影響もあり、子供の頃からジャイアンツのファンでした。
最初にファンになったのは、背番号23番、槌田選手。
V9戦士と呼ばれる名選手が数多くいるなか、正捕手の森昌彦に隠れた槌田選手のどこに惹かれたのか定かな記憶はありませんが、私の中でジャイアンツのキャッチャーといえば槌田選手でした。

子供の頃、実家では読売新聞と報知新聞を定期購読していました。
ジャイアンツの記事が大きく取り上げられる報知新聞は、私の大きな楽しみでした。
朧気ですが、自分の名前の次に書いた漢字は「報知新聞」だっと記憶しています。

通っていた小中学校はグラウンドが狭く、野球部がありませんでしたが、週末は、野球好きの友達と近所の公園や河川敷などでよく遊びました。

そして、社会人になって間もなくのこと、草野球チームを結成しました。

チーム結成の由来を説明するのは若干難儀ですが、ざっくり言うと、某高校の野球部仲間だった「ワビ」と「キヨちゃん」が高校卒業後偶然再会した際に、各々の友人を誘い合って野球をやろうと計画したことに端を発します。
私は「ワビ」の中学の同級生で、河川敷で一緒に野球に興じた仲間。
しかも、当時の私のポジションは、草野球では不人気なキャッチャーでしたので、お声が掛かったのだと思います。

チーム名は「インパルス」。
謂れは、山口百恵さん主演のドラマです。

ユニフォームは赤を基調にすることが何故か先に決まっていて、チーム名はその後に検討されました。
某ファミレスで行われた協議の席で、ドラマ「赤いシリーズ」から命名してはどうかと、私が提案しました。

真っ先に上がったのは「赤い疑惑」。
「ダウト」じゃチーム名にならないっしょ、と批判され、じゃあ「赤い衝撃はどう」と私が言うと、仲間が「衝撃って英語でなんつうの?」

「インパルスだよ」

と答える私に皆が賛同し、「インパルス」と命名されたのです。

今にして思うと、衝撃は「impact 」で、「impulse」は衝動じゃないかと・・。
しかも、 なにゆえ複数形ではないのか?
でも「インパルスィス」じゃ舌噛んじゃうか・・。
その前に、疑惑は「doubt」で終わっちゃったけど、「Suspicion」は誰の脳裏もかすめなかったのか・・。
問題点が数多浮かび上がります。

当時、スマホがあれば、赤い迷路、赤い激流、赤い激突など、多くの候補から選ぶこともできたでしょう。
赤い運命の「デスティニーズ」なんて、格好良かったのに・・と思います。
テーマソングはユーミンのDestiny。

チーム名の由来に粗忽さは拭えませんが、我がインパルスは、足立区軟式野球連盟で一時代を築いたのも事実です。

冒頭で説明した通り、構成メンバーは、結成当初から「友達の友達の寄せ集まり」でした。

その輪は、年を追うごとに広がりました。
私は監督という立場でもあったので、チーム内を最も把握していたのですが、その私ですら、どんな経緯で仲間になったのか掴みきれないメンバーもいました。

あちこちから集まった仲間でしたから、バラエティ豊かな面々でした。

野球はお世辞にも上手ではないのにスコアブックを書かせるとピカイチだったYO君。
ライバルチームにいたのに、いつの間にか我がチームに入ったKK君。
腿を高く上げてベースランニングする元陸上部のHI君。
超でっかいホームランを4年に1度打つYI君。

41歳で孫が生まれたなんて奴もいましたが、すっかり名前は忘れてしまいました・・。

そして、我がチームで不動の4番に君臨していたのは、先に登場した「キヨちゃん」。
そのキヨちゃんについては、改めて紹介したいと思います。

185 禍福倚伏

私の通勤手段は車です。
所要時間はおよそ30分ほどです。

行きの車中では、「飯田浩司のOK! Cozy up!」というラジオ番組をよく聴きます。
私が自宅を出る6時ちょうどに始まるので、タイミングがいいのです。

パーソナリティの飯田浩司さんはニッポン放送のアナウンサーですが、なんと、私の大学(横浜国大)の後輩にあたります。
しかも、同じ経営学部。
年齢は私の20コ下。

どんなお顔なのかと興味が湧き、ニッポン放送のサイトで拝顔いたしました。
ちょっと年齢より老けているかなと、感じました・・(失礼)。

この飯田アナは経済に造詣が深く、ズバズバ意見を述べる歯切れの良いアナウンサーです。

22日月曜日の朝もいつものようにラジオを聴いていると、今週は飯田アナウンサーが休暇とのこと。
内田雄基さんという新人アナウンサーが、ピンチヒッターを務めていました。

そして驚くことに、この内田アナも横浜国大の卒業生だというのです。
「学生時代、飯田先輩と同じ居酒屋に通っていたことが分かり、コロナが落ち着いたら一緒に飲みに行く約束をしたんです!」なんて地元ネタをラジオで披露していました。

相鉄線・和田町駅か、あるいは横浜駅周辺か・・。
私の時代にはなかった地下鉄だってあるか・・。

因みに内田アナ、年齢は私の36コ下です。
36歳差って、私が54歳の時に大学に入学したってことですね。
なんだか先輩後輩という域を超えているような感じがします・・。

うちの大学出身のアナウンサーを調べてみると、NHKをはじめ、中京テレビ、朝日放送、新潟放送、岩手放送、テレビ熊本など、そこそこいますね。

女性では阿部哲子や高樹千佳子さんが有名ですが、王様のブランチに出演しているTBSアナウンサーの山本匠晃さんもうちのOB。

それから、テレビ朝日の報道ステーションを担当していて、昨年新型コロナに罹患してちょっと騒ぎになった富川悠太アナもそう。

ひょっとするとアナウンサー率が高いのでは?と思い、調べてみると、アナウンサー出身大学ランキングというサイトがありました。
https://university-rank.com/ranking_announcer.htm

これによると、横浜国立大学は第27位でした。
小さな大学ですから、わりと上位だと言えるかも知れません。

さて、今、受験シーズン真っ只中です。
我が母校は、昨年夏頃、早々に2次試験を行わない旨、発表しました。
即ち、昨年までセンター試験と呼ばれていた「大学入学共通テスト」だけで合否を判定するのです(一部学部を除く)。
数千人という受験生に、安全な受験環境を提供することが困難であるとの苦渋の決断です。
https://www.ynu.ac.jp/exam/faculty/release/pdf/message.pdf

すると、今月中旬頃、志願者が激減しているというニュースが流れました。
https://www.asahi.com/edua/article/14180436

その背景として、共通テストだけで判定するため二次試験での逆転ができず、合格ラインが読めないので、出願しづらかったのではないかと指摘されています。

私が受験した当時、当時の共通一次試験で780点ほどが、経営学部の合格目標ラインだったと記憶しています。
ところが、私は自己採点で732点ほどしか点数が取れませんでした。
志望校変更も考えましたが、二次試験で逆転してやる!と意気込んで、予定通り願書を提出しました。

なるほど・・。
私が今年の受験生だったら、逆転のチャンスはないわけです。
当然、志望校を変えなければなりません・・。

なにはさておき、今年の受験生には、心からエールを送りたいと思います。
コロナのために、進路を変更せざるを得なかった若者が、どれだけいることでしょう。

1980年。
1月12〜13日、共通一次試験実施。
3月4日、二次試験実施。
3月14日、合格発表で不合格。
3月24日、大学から繰り上げ入学の電話。

40年以上前の出来事になりますが、今も24日の電話での会話は、耳の奥に残っています。

175 無妄之福

今年2月頃、ドラッグストアの店頭からマスクが消えました。
深刻な品薄が長期化する中、家電メーカーのシャープがマスクの生産に参入しました。

信頼できる日本企業が、液晶パネルも生産できる国内のクリーンルームで製造するとあって、発売当初から大きな注目を集めました。

因みに、第1回抽選販売の当選倍率は107倍。
その後も人気は衰えず、第11回目の抽選で倍率がはじめて100倍を切ったそうです。
86,000箱の販売に対して、応募総数が8,515,139人でしたので、正確には99.013倍です。

そして、
なんと、
その99倍に、
当選しました(゚Д゚)

随分狭い門を通過できたものです。

当選を知らせるメールが届いたとき、個人的にはマスク不足は解消していましたので、格別嬉しいという感じではありませんでしたが、考えてみれば99人に1人の確率です。

購入を辞退することもできるのですが、この強運を無駄にしてはバチが当たる思い、早速支払い手続きを済ませたところ、先日商品が届きました。

私は、元々クジ運が強い方ではありません。
少なくとも自身の認識はそうでした。

しかし、よくよく思い返すと、過去に特大ホームランを2発、かっ飛ばしています。

ひとつは、2年前、ある夏のイベントの抽選会でのこと。
サマーフェスタと銘打ったそのイベントで、私は焼売と春巻の販売員を務めていました。
そろそろ抽選会が始まるというとき、近くの女性スタッフに半券を委ね、私は売り場に残りました。

「ヤマダさーん!大変、大変!当たったよ〜!!!」

焼売そっちのけで抽選会場へ行くと、1等の箱根宿泊ペアチケットが当たったとのこと。
その確率は、およそ300分の1くらいと思います。
ところが、私の立場はイベントの手伝いに駆り出された、言わば「関係者」。
抽選会の司会をしていた親しいスタッフから「もちろん辞退だよね」と強要され、「パワハラで訴える!」と笑いながら壇上から降り、代わりの景品として麦わら帽子をいただきました。

もうひとつは、かれこれ7〜8年前、ジャイアンツの試合を観戦していたときのことです。

東京ドームでは試合の途中、スポンサーの佐藤製薬が、スーパーバズーカ企画を行っています。
これは、サトちゃんとジャビット君が、カートから「サトちゃんTシャツ」をバズーカで客席にプレゼントするのです。
3塁側内野席に座っていた私は、そのTシャツを見事にキャッチしました。

内外野で行われているのか、1試合で何発のバズーカが発射されるのかなど、詳しいことは承知していませんが、仮に10回発射されたとして、満員の東京ドームの観客数4万人を分母にすると、実に4,000分の1です。

獲ってやる!とムキになったのではなく、来たかな?と思って伸ばした左手に、まるでスローモーションのようにすっぽり収まりました。
周囲の方々から祝福の拍手をいただき、ちょっと照れくさかった記憶があります。
夏になるとパジャマ代わりに着用しているのでだいぶ傷んでいますが、非売品ですし、ここでしか手に入らない貴重品です。

幸運が舞い込むのは無欲なとき、なのかも知れません。

 

167 盲亀浮木

京都駅から北北東へ約1.5km。
五条富小路を少し下ったところに、上徳寺という小さなお寺があります。
子授けや安産祈願の信仰が篤く、「京の世継ぎさん」と呼ばれ親しまれています。

2003年1月、カミさんと京都を旅行した際、ふとしたきっかけで立ち寄り、祈願しました。
すると驚くことに、その年の10月にセガレを授けてくださいました。
以来、ほぼ毎年御礼に詣でています。

観光寺ではありませんので、普段はひっそりと静寂を保つお寺さんですが、毎年2月8日は「世継地蔵尊大祭」が行われ、この日ばかりは大勢の人で賑わいます。
これまで見学する機会はなかったのですが、今年は8日が土曜日と重なったため、意を決して弾丸ツアーを敢行しました。

2月8日は一億日分もの功徳が得られるとされる「一億功日功徳日(いちおくこうじつくどくび)」。
世継地蔵尊の功徳を讃えて、ご利益を祈願します。

午前10時、地蔵堂で「十種福祈願法会」が始まりました。
普段は中を見ることのできない地蔵堂の扉が開いており、安置されている世継地蔵様に初めて拝見の栄に浴することができました。
写真に収めたい気持ちをグッと堪え、心に深く刻んできました。

法会は5人の僧侶が地蔵堂の中へ入り、お経を唱えました。
私はお堂の右手前最前列でその様子を見届け、世継地蔵様に手を合わせ続けました。

また、境内では酒粕汁や多幸焼(たこ焼き)も振る舞われていました。
私も「多幸焼」を少しだけいただきました。

午後2時からは、拝殿前で「柴灯(さいとう)護摩供養」が行われました。
まず、山伏が四方に矢を放ち、穢れを祓います。
そして、松明で火が灯されると白煙が上がり始めました。
その後、次々に護摩木が火中に投げ入れられると、煙はさらに勢いを増し、風向きによっては目が開けられないほどでした。

たくさんの護摩木には、私が家族の願いを記してお納めした3本も含まれています。
30分ほどで全てが無事に炊き上げられ、護摩供養は終了しました。

最後の写真は、煙りを浴びて涙が止まらなくなったため、少し離れて撮った1枚です。
ハンカチを目に当て一息つくと、着ているコートにたくさんの煤が付いていることに気付きました。
これも御利益の一部と思い、さして気にすることなく夕方の新幹線に乗ると、コートの中に着ていたセーターまでもが、煙と焦げの混じった独特のにおいを放っていることに気付きました。
周囲への影響を考え、車内ではセーターを脱ぎ、帰宅後は大量のファブリーズを噴射しました。

慌ただしい旅ではありましたが、お地蔵様を拝顔し、またいつもと全く違ったお寺の光景を見ることができ、大変有意義な週末となりました。

そして今日、そのセーターを着ると、微かに煙の残り香がしました。
半月経ってからもう一度思い出に浸ることができ、少し得した気持ちになりました。

166 夏炉冬扇

今日はトイレについて書き散らします。
ネタがネタだけに、いつにも増して低劣になることを心していただきたく存じます。

近年、公衆トイレに、下図のような「あさがお」が心なしか増えているように思います。
初めて使用した時、便器に近づきやすい構造だなと感じました。

出典:LIXIL公式サイト(https://www.lixil.co.jp/lineup/toilet/hl/sensor_stall_urinal/)

LIXILの公式サイトによると「近寄りやすく使いやすい形状」に設計されているそうです。
設計者の意図を、私はしっかりと汲み取ることができた、という訳です。
そして、こんな説明がついていました。

手元はゆったり、足元はすっきりのアプローチしやすいデザイン。天面はカーブ形状で鉢内を確認でき的外ししにくく、他人からの視線が気になりにくいよう、しっかりストールを配置。

「的外し」。
さすが専門業者。
説明しづらいことを、さりげなくスマートに表現しますね。
なかなか心憎い形容です。

心憎いといえば・・・・、
10年以上前、レストランのトイレで用を足していた際、「あさがお」のすぐ上にこんな貼り紙を見つけました。

Please come close. Your Tomaholk is not so big.

こういうトーンだと素直に協力する気になりますね。

人はダメと言われるとかえって興味を掻きたてられ、逆の行動に走るという心理現象があるそうです(カリギュラ効果)。
浦島太郎は箱を開けてしまったし、鶴の恩返しでは心騒ぎを抑えられず機織り中の娘を覗いてしまいましたね。

この頃の「あさがお」は近づきにくい形状だったため、必然的に掃除が大変だったのでしょうか。
あるいは、心ないお客さんが多いために業を煮やしたのでしょうか。

使用する側は、自宅のトイレと同じ心積もりで用を足さねばいけませんね。

心積もりといえば・・・・、
ここ数年、会社のトイレ掃除を進んで行うようにしています。
ずっと女性社員に任せてきましたが、これではいけないと遅まきながら改心したのです。
自分で掃除をしてみると、その苦労が分かります。
30年以上も汚すだけの立場だったことを、今更ながら心苦しく思っています。

心苦しいといえば・・・・、
私は目黒雅叙園で結婚披露宴を行いました。
ここの1階にあるトイレは、用を足すのが心苦しいと感じるような豪華さです。

工費1億円とも噂されるトイレには、川が流れ、朱塗りの橋が架かっています。
個室のドアも朱塗り。
天井には金箔に包まれた美人画。

日本一きらびやかでゴージャスなトイレではないでしょうか。

披露宴に招いた友人には「必ず1階のトイレに入ってから帰ってね」と伝えました。
ひょっとしたら、皆の心に残ったのは宴よりもトイレだったかも知れません。

心に残るといえば・・・・、
つい先日、偶々、絶景トイレに巡り会いました。

大丸東京店の12階、レストランフロアにある男子トイレです。
トイレの突き当たりには「あさがお」が2つあります。
ここに立つと、東京駅丸の内側が見渡せる大パノラマが目の前に広がります。

丸ビル、新丸ビルが聳える手前には、東京駅のホームも見えます。
心なしか、ホーム上で電車待ちをしている人に向かって放★しているような感覚に陥ります。

ただし、くれぐれも周囲を汚さぬよう心を配りながら、景色を楽しむ心持ちが大切かと思います。

164 三思後行

国内のチーズ消費量が、4年連続で過去最高を更新しているとニュースで知りました。

消費を支えているのは、中高年層だそうです。
「カマンベールに認知症予防効果」「ブルーチーズに血管年齢若返り効果」などの健康効果報道が売上げ増に寄与したと言われています。
原材料価格の上昇などにより乳業大手は値上げをしましたが、中高年層の購買意欲が勝ったと言えるでしょう。

かくいう私も、最近になって、チーズをよく食べるようになりました。
休みの日、おやつ時にカマンベールチーズをひと欠片、楽しんでいます。

きっかけは、糖質オフのお薦めおやつとして、チーズが取り上げられていたから・・。
「健康志向の中高年層」のベン図のド真ん中ですね。

ただ、チーズフォンデュはダメです。
熱せられた鍋から蒸発するワインが、下戸の私には我慢なりません。

グラタンやリゾットも、どちらかと言えば苦手です。
猫舌のくせに早食いの私には、厄介なメニューです。

子供の頃は、チーズがキライでした。
一方、父は、毎朝食べていました。

かまぼこのような形をしたチーズを、果物ナイフでスライスして食べるのですが、ネチネチした食感と、歯にまとわりつくのが苦手でした。
剰え、時間が経ち、周囲がカピカピになって若干透き通ってくると、耐え難い気分でした。

尤も、昭和40年代は、家庭で食べるチーズはせいぜいそんなものだったのかも知れません。
モッツアレラチーズやマスカルポーネチーズなんて、知るよしもありませんでした。

ところで、チーズといえば、写真撮影の決め言葉ですね。
「はい、チーズ」は時代を超えて、使われているのではないでしょうか。

はるか昔、何らかの学校行事で集合写真を撮った際、カメラマンが我々生徒の期待を裏切るセリフを発しました。

「じゃあ、皆さん、撮りますよ。せーの、1たす1は??」

はいチーズを予想していた生徒は不意を突かれましたが、一瞬考えた後、

「にー!!!」

理解できた生徒とできなかった生徒の顔は対照的でしたが、キョトン顔と笑顔が混在する、珠玉の1枚となりました。
カメラマンの技術に脱帽です。

ときに、家族でハワイに行った際、カメラのシャッターを押してくれと頼まれました。
中国からと思しき観光者でした。

「One, Two, Three, Push!!  All right?」

いちにのさん、でシャッターを押すぞ、と言いたかったのです。

「ワン・・、トゥー・・、スリー・・、フォー・・、ファイブ・・・・・・」

アレ、全然ウケない・・。

「マサミ、ファイブくらいまで数えれば全員笑うこと請け合いだ!!」
とロサンゼルスで仕込まれた撮影術なのですが、全員ポカン顔の1枚になってしまいました。
ギャグのセンスが国民性に合わなかったのか、私の英語力に問題があったのか・・。

ところ構わず、何でも言えばいいというものではありませんね。
カメラを返すときの気まずさは、今も覚えています。