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083 天潢之派

平成28年10月27日、三笠宮崇仁親王が100歳で薨去されました。
謹んで哀悼の意を表します。

このニュースが報道されたとき、ほとんどのメディアが「薨去」と報じました。
確か、昭和天皇が亡くなられた際は「崩御」と報じられていたはず‥‥。
なぜ表現が異なるのか、ちょっと調べてみました。

崩御(ほうぎょ)
日本の天皇陛下をはじめ、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、その他君主などが亡くなられたとき

薨御(こうぎょ)
皇太子や大臣が亡くなられたとき

薨去(こうきょ)
皇太子妃、親王、親王妃、内親王、または、*位階が三位(正三位・従三位)以上の方が亡くなられたとき

卒去(そっきょ、しゅっきょ) 王、女王、または、位階が四位(正四位・従四位)、五位(正五位・従五位)以上の方が 亡くなられたとき

*位階とは、長く官職にあった者や特に功績のあった者など付与される栄典の一つで、
第二次世界大戦以降は、故人にのみ与えられています。

これはなかなか難しいですね‥‥。

死去・逝去・永眠・他界・鬼籍に入る。
私のボキャブラリーはこの5つくらいでしたが、どれも皇室には使用しないんですね。
しかも、身分によって使い分けなければいけないところが、非常にデリケートだと感じます。
宮内庁のスタッフはこれら難解な用語がすべて頭に入っているとしたら、恐れ入りますね。

その宮内庁のホームページには「用語集」が掲載されています。
これもなかなかヘビーでしたが、とても興味深い内容でしたので、一部をご紹介します(http://www.kunaicho.go.jp/word/)。

・行幸(ぎょうこう)天皇が外出されること
・還幸(かんこう) 天皇が行幸先からお帰りになること

・行啓(ぎょうけい)皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出されること。
・還啓(かんけい) 皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が行啓先からお帰りになること。

・行幸啓(ぎょうこうけい)天皇・皇后がご一緒に外出されること
・還幸啓(かんこうけい) 天皇・皇后がご一緒に行幸啓先からお帰りになること。

おそらく、「幸」や「敬」には皇族が外出されるという意味があるのでしょうね。
私の持っている漢和辞典には、掲載されていませんでしたが‥‥。

いずれにしろ、こういった使い分けが理解できたら、新聞記事が楽しくなるかも知れません。
眞子様や佳子様、愛子様がご結婚される際には、目新しい言葉が紙面を飾るでしょうから。
ちょっと勉強してみようと思っています。

【余談】
「鬼籍に入る」は、「はいる」ではなく、「きせきにいる」と読むのが正解です。

082 紫電清霜

20年以上前、カミさんと新婚旅行でハワイに行きました。
まずマウイ島に2泊したのですが、そのホテルに、何故か卓球台がありました。
滞在中、マリンスポーツもゴルフも全くせず、迷うことなくふたりで卓球に興じました。
足もとだけはハワイらしく、ビーチサンダルで。

カミさんは、中学で卓球部に所属。
私は、小学校の時、地元の児童館の代表に選出されたことがあります。
そんな血統のせいか、セガレは、中学入学後、卓球部に入部しました。

セガレはいわば卓球初心者ですから、最初は朝飯前にやっつけてやりました。
しかし、敵は上達の一途。
こちらは体力低下、反射神経鈍化、老眼と遠視の進行・・・・。
実力差が、徐々に危うい状況になってきました。

こうなれば、道具に頼るしかありません(この作戦はゴルフと一緒)。
本日、セガレのラケットのラバーを張り替えに行ったついでに、マイラケットを購入しました。
サイトを調べ、いろいろと模索した結果、選んだのは以下の通りです。

ラケットは、BUTTERFLYのKORBEL(コルベル)。
ラバーは、おもてがXION(エクシオン)のヴェガヨーロッパ1.8mm。
うらは、YasakaのマークV中厚。
サイドテープは、BUTTERFLYのRBプロテクター2。

どうですか、文句の付けようのないこのスペック。
まあ、ひとことで言えば、初心者向け(笑)。
しかも、セガレの学校の卓球部がお世話になっている卓球専門店のスタッフさんにすべてお任せ。
サイトを見ても、何を選べばよいのやら、あまりに種類が多くてさっぱり分かりませんでした。

My Racket

サイドテープの色が、ラバーの色と見事にマッチしていて、満足しています。
色なら素人でも選べますからね。

よし、ちょっと腹筋鍛えて、スクワットもやろう!
そして、このラケットでセガレをギャフンと言わせよう!!

【余談】
因みに、リオ五輪で大活躍した水谷隼選手のラケットは、ラバー込みで4万円以上。
しかも、ラバーは数日おきに張り替えるのだとか・・・・。

私のラケットは、税込み11,836円。
そして、ラバーが傷む頃、「オヤジじゃ相手にならない」なんて言われるんだろうなあ。

081 六根清浄

数多くの天神様を参拝させていただいた話の続きです。

天神様巡りは、セガレの入試合格祈願という、非常に明確な目的がありました。
従って、拝殿で手を合わせてご祈願することは、どこに行っても同じでした。

逆に言えば、東京近郊だけでも23ヵ所で同じ祈願をさせていただいた訳です。
ところ変わっても、神々が鎮まるその場所は、私をいつも落ち着かせてくれました。
参拝させていただいた天満宮は、すべて忘れ得ぬ存在になっています。

西新宿の成子天神社は、拝殿のすぐ左側に立派な高層マンションが建っています。
買い物帰りの主婦が、拝殿に一礼してから、マンションのエントランスに消えていきました。
天神様のお膝元で健やかに日々を過ごす・・・・。
将来、こんな環境で生活してみたいなあと、羨ましく思いました。
因みに、ここは御朱印も特徴的。
力強い墨が、隣のページや裏面を汚すこと必至です(笑)。

成子天神社御朱印

横浜の岡村天満宮は、人気デュオ・ゆずの出身地・横浜市磯子区岡村町に鎮座しています。
この神社は、ゆずが路上ライブをしている様子を描いた大きな壁画があることで有名です。
タテ2.7m、ヨコ5.4mのこの巨大壁画は、元々伊勢佐木町の松坂屋に設置されていましたが、店舗の閉鎖に伴い、ファンの存続の声に応える形で、ふたりの地元に移設されました。
正直、あまり本人たちには似ていませんが・・・・。

岡村天満宮

鎌倉の荏柄天神社は、鎌倉駅から徒歩20分ほどの住宅地にあります。
鶴岡八幡宮からは徒歩10分ほどですが、観光客の姿はさほど多くありません。
ここでは、前日までに申し込むと、受験当日、早朝祈祷をしていただけます。
受験当日の早朝・・・・。なんて有難いことでしょう。
「大神様のご祈願を受けているのだ」と感じて迎える試験の朝は、正に勇気百倍ですね。

荏柄天神社

調布の布多天神社では、参拝の記念にえんぴつを購入しました。
学業成就、進学祈願、祈合格と書かれたケースに入っている鉛筆には、こう刻まれています。
「朝に希望 昼に努力 夕に感謝」
・・・・心に染みます。

合格えんぴつは、ほかでも購入しました。
セガレの机の引き出しには、今もたくさん残っています。
北野天満宮、太宰府天満宮、湯島天満宮、荏柄天神社、布多天神社。
シャープペンしか使わなくなったセガレに代わり、私が譲り受けようと思っています。

合格えんぴつ

【余談】
某神社の一之鳥居脇の民家で、「菅原」という表札を見かけたことがあります。
天神様のとなりに住んでいる菅原さん。
神職の方なのか・・・・、ちょっとお目に掛かってみたい気がします。

080 報恩謝徳

昨年7月から、セガレの中学入試合格祈願のため、あちこち天神様を巡りました。
京都の北野天満宮をはじめ、東京近郊だけでも23ヵ所参りました。

その甲斐あって第一志望校に合格することができ、受験後、間もなく御礼参りを始め、先日、ようやく区切りを付けることができました。

拝殿で手を合わせていると、合格祈願のときは心の余裕がなかったな、と感じました。
御礼参りに出向いて、落ち着いた心境で新たに参拝できたことは収穫でした。

湯島天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(文京区)
久里浜天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・(横須賀市)
亀戸天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(江東区)
谷保天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(国立市)
平河天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(千代田区)
五條天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(台東区)
布多天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(調布市)
西向天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(新宿区)
成子天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(新宿区)
永谷天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(横浜市)
岡村天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(横浜市)
牛天神北野神社・・・・・・・・・・・・・・・・(文京区)
荏柄天神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(鎌倉市)
千葉天神〈千葉神社摂社〉・・・・・・(千葉市)
新井天神北野神社・・・・・・・・・・・・・・(中野区)
大宮天満宮〈大宮八幡宮摂社〉・・(杉並区)
町田天満宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(町田市)
徳丸北野神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・(板橋区)
(参拝順)

御朱印をいただいたのは上記18ヵ所です。
櫻木神社(文京区)と北野神社(江戸川区)では、あいにく頂戴できませんでした。

一方、受験が終わってからお参りに伺った天神様もあります。
菅原神社・・・・・・・・・・・・(東京都町田市)
東蕗田天満社・・・・・・・・(茨城県結城郡)
大生郷天満宮・・・・・・・・(茨城県常総市)

これで合計23ヵ所になります。
こんなにもたくさんの天神様でご祈願させていただいたんだ、と感慨深い思いです。
「お主、また来たんか!」と道真公に煙ったがられたかも知れませんが……。

しかし、参拝に訪れたい天神様は、全国にまだまだあります。

やはり、日本三大天神は、ぜひとも制覇したいですね。
北野天満宮には参拝させていただいたので、あとは太宰府天満宮と防府天満宮です。

名古屋三大天神の上野天満宮、桜天神社、山田天満宮もいいですね。
それから、大阪の上宮天満宮と福島天満宮も魅力的です。

忘れてはならないのが、仙台市にある杜の都の天神様・榴岡天満宮です。
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花」
この有名なご詠歌が入った「見開き」の御朱印がいただけるのです。

宮城縣護国神社や大崎八幡宮・亀岡八幡宮も巡りながら、お昼は牛タン、食後は「ずんだ餅」。
そんな目論みを、家族には隠密に、そして、着々と進めています…。

079 妙計奇策

今日はゴルフコンペでした。
ここしばらくすっきりしない天気が続いていましたが、今日は運良く好天に恵まれました。
因みに、私の成績は、11人中8位・・・・。ダメダメでした。

このコンペは年に4回開催していて、1992年の第1回大会以来、ずっと私が幹事を務めており、今回は第99回目の大会でした。
そうです、次回は第100回という大きな節目を迎えるのです。

コンペの創設時、私はハンデキャップについて一計を案じました。

新ペリアは有り触れていて面白味に欠ける・・。
かといって、優勝すると3割カット、準優勝は2割カットでは無味乾燥だ・・。
ローハンデになった時のモチベーション低下を、どうにか回避できないか・・。

試行錯誤の末、以下の公式を編み出しました。

HDCP={(直近3走の平均グロス+コンペでのベストグロス)÷2-72}×0.8
ただし、優勝は0.8、準優勝は0.9、3位は0.95を乗ずる

具体的な例を挙げて説明します。
ベストグロス83の松山くんのここ3走の成績を以下の通りとします。

第93回大会 Gross 104→5位
第94回大会 Gross   95→6位
第95回大会 Gross   98→10位

上の公式に当てはめると、
過去3走の平均グロスは、(104+95+98)÷3 なので、99。
これに自己ベストを加えて2で割ると、(99+83)÷2=91。
で、72を引いて0.8倍すると、(91-72)×0.8=15.2。
第96回大会のハンデは、15.2ということになります。

もう少し続けます。
仮に、松山くんがハンデ15.2で臨んだ第96回大会を、Gross85で制覇したとします。

第96回大会 Gross 85  HDCP 15.2→優勝

すると、次の大会でのハンデはこうなります。
過去3走の平均は、{95+98+(85×0.8)}÷3=87 (優勝時は0.8倍)
以下、[{87+83)÷2}-72]×0.8=10.4

ハンデ15.2で優勝した次走は、ハンデが10.4に減少されます。
「優勝者3割カットルール」だと10.6になるので、大きな差はありません。
しかし、大きな違いは、3走後に現れます。

第97回大会 Gross 99  HDCP 10.4→10位
第98回大会 Gross 95  HDCP 10.9→6位
第99回大会 Gross 96  HDCP 10.5→7位

仮に97回、98回、99回大会の結果が上記のようだとすると、100回大会時のハンデは、
[{(99+95+96)÷3+83}÷2-72]×0.8=14.3 となります。

3大会はシングルハンデ寸前の厳しい状況でしたが、直近3走がハンデ計算の対象なので、4走後には優勝時のハンデカットから逃れられるため、復活することができるのです。

また、もうひとつの特長は、不調で大叩きが続いていても、直近3走の平均グロスに自己ベストを最後に加えて2で割るので、さほど大きなハンデにはならないことです。

同様に、優勝・準優勝と好位が続いた時も、自己ベストを足すことで極端なローハンデになるのを防ぐことができます。

24年前に私が考えたこの公式。
特許取得も可能な画期的計算方法だと、本気で思っているのですが・・。

078 無妄之福

今日10月1日は、都民の日です。

東京生まれ東京育ちの私にとって、都民の日は「お得な休日」という感覚でした。
カレンダーは赤く表示されていないのに、学校に行かなくていい日でしたから。

そして、「1日は休みか!」と直前に気付くことが多かった記憶があります。
「10月10日体育の日」に比べると、都民の日は忘れがちだったように思います。

まずは、制定の経緯を、東京都生活文化局のサイトから引用します。
(http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/keishou/0000000248.html)

「都民の日」のいわれは、明治時代にさかのぼる。
府県や市町村という地方制度は、明治11年の郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則という三つの法令をはじめ、同21年の市制町村制、同23年の府県制、郡制などの法令によってだんだん形作られた。そして同22年5月には、明治元年から置かれていた東京府の中に新たに東京市も誕生した。
しかし、この東京市は、京都、大阪の2市とともに、その誕生直前に公布施行された市制特例という法令によって、他の市にくらべて、市民の市政参加への道が大きく制限されていた。市は置かれたというものの、市長と助投の仕事は国が任命した府知事と府書記官が行い、また市投所の建物もなく市の職員もいないという制度だった。
こうした自治の制限に対し、市民の市政参加の道を広げようとする運動が市会を初め市民の間でねばり強く続けられた。そして明治31年になって、市制特例は廃止され、同年10月1日には、市会によって選ばれた市長をもつ新しい東京市が誕生し、市役所も開設された。この新しい東京市誕生の歴史を忘れないため、大正11年10月1日「自治記念日」に定められ、その後、自治の大切さを自覚しようという願いをこめて、昭和27年に「都民の日」となった。

すぐには理解しがたい社会状況ですね・・。時代を感じます。

調べてみると、東京都以外にも同様の日があるようですので、いくつか紹介しましょう。
(制定していない道府県が結構多いことも申し添えておきます。)

秋田県(8月29日・秋田県の記念日)
1871年8月29日、廃藩置県で秋田県が誕生したことに由来

群馬県(10月28日・県民の日)
1871年10月28日(旧暦)、廃藩置県で群馬県が誕生したことに由来

埼玉県(11月14日・県民の日)
1871年11月14日(旧暦)、廃藩置県で埼玉県が誕生したことに由来

山梨県(11月20日・県民の日)
1871年11月20日(旧暦)、甲府県が山梨県に改称されたことに由来

長野県(2月7日・長野の日)
1998年2月7日、長野オリンピック開会式が行われたことに由来

鳥取県(9月12日・県民の日)
1876年に島根県に編入されて消滅した鳥取県が、1881年9月12日に再び分離独立して、現在の鳥取県が誕生したことに由来

大分県(11月14日・県民の日)
1871年11月14日(旧暦)、廃藩置県で大分県が誕生したことに由来

沖縄県(5月15日・本土復帰記念日)
1972年5月15日、アメリカ軍政下にあった沖縄県が日本に復帰したことに由来

廃藩置県、オリンピック、本土復帰・・・・、様々な由来があるんですね。
しかし、東京都のように公立学校を休校にしているのは以下の5県のみです。

千葉県(6月15日)
群馬県(10月28日)
茨城県(11月13日)
埼玉県(11月14日)
山梨県(11月20日)

東京周辺に偏っているのは、偶然なのでしょうか・・。
せっかくなので、他県の記念日も学校が休みになればいいのに・・とも思います。

私は、横浜の大学に通っていましたが、神奈川県にはそもそも県民の日が制定されていません。
横浜市は、6月2日を開港記念日として市立の学校を休みにしていますが、国立大学には無関係。
都民の日っていいなあ、と強く感じたのは、大学生の時だったかも知れません。

因みに、今年の都民の日は土曜日ですから、来年は日曜日になります。
しかし、国民の祝日とは違うので、月曜日が振替休日にはなりません。
来年、都内の学生達は1日損をしたような気になるのでしょうね。

077 魯魚亥豕

魯魚亥豕(ろぎょがいし)。
字形が似ていて、書き誤りやすい文字のことを指します。

私の名前は「雅己」と書きますが、この「」は少ない画数の割に、厄介な漢字です。
」「」「」と似た字が3つあります。
三画目の書き始めが上だったり下だったり、挙げ句に真ん中もあるので面倒なのです。

因みにこの3つの漢字の読み方は、各々以下の通りです。(出典:http://kanji.jitenon.jp/)
(音読み)こ、き(訓読み)おのれ、つちのと
(音読み)い  (訓読み)すで(に)、や(む)、のみ、はなは(だ)
(音読み)し  (訓読み)

昔の人はこれらを区別して覚える工夫をしていたようです。
上記の読み方を念頭に置き、下の文を解釈してみて下さい。

こきの声、おのれつちのと下につき、いすでは半ば、しみは皆つく

おのれは下に、は上に、すでに・やむ・のみ中ほどにつく

先人たちはすこぶる風流ですね。

こうしてみると「み」と読ませるためには「」と書くべきなのかも知れません。
ひらがなの「こ」は、「」の草書体だそうですし・・。

ただ、私と同じパターンも結構見受けられます。
元読売ジャイアンツの投手・槙原寛さんは「ひろみ」。
タレントの松本伊代さんのご主人・ヒロミさんの本名は小園浩と書いて「ひろみ」。
元・光GENJIの諸星和さんは「かずみ」。

何故、こうしたことが起こったのでしょうか?
」は常用漢字ですが、「」は常用漢字でないことが要因なのでしょうか?

ネットには面白い意見もありました(投稿者不明)。

」には「自分」という意味があります。
「自ら」の語源は「身・づ・から」で、「実践躬行」の「躬」も「み」と読みます。
つまり「」は「自分自身」という意味で「み」と読めるのです。

ん・・、結局、理論的に説明はできません・・。

なお、私の父は克(かつみ)といいます。
ちょっとあり得ない気もするのですが「」です。
聞いたところでは、戸籍と住民票と保険証の字が全部異なっていたそうで、戸籍に記載されている漢字が正しいとの原則に則り、「」に統一したとか。
昔は全て手書きでしょうから、この類いの混乱は珍しくないと思います。

こんなにややこしい漢字ですから、私も、日常的に間違いに遭遇します。
「雅」と書かれることには、かなり慣れました。

しかし、友人の一人が、毎年年賀状の宛名を「雅美」と印字してきます。
それから以前、ゴルフコンペの出走表に「雅光」と書かれたことがあります。
この2件は、「」とか「」とかの問題ではないですからね。

特に小学校の友人のN君。
長い付き合いなんだから、いい加減「雅美」は直して欲しいですね(笑)。

076 百人百様

この週末、セガレの通う中学校では文化祭が催されました。
1年前は受験生の親という立場で見学した文化祭を、今年は生徒の親として参加する訳で、感慨深い思いとともに、月日の経過の早さを感じます。

しかし、親と子供のテンションには、ちょっと温度差があるな、と感じました。
というのも、セガレの所属する卓球部は、練習試合も企画も展示も特にないとのこと。
中学1年生としての企画には参加するようですが、本人はさしたる思い入れはない様子。
終いには、自分が担当として企画に携わる時間帯には来てくれるな、と。

友人といるところに自分の親が現れるのを恥ずかしいと感じる年頃、なのでしょう。
「明日は親が来るんだよ。いやだなあ」と友人のM君も言ってたとか。

まあ、分かる気がします。
振り返ってみれば、自分にも思い当たる節がありますので。
確か「お母さん」から「おふくろ」に呼び方が変わったのは13〜14歳だったと思います。
「お母さん」と呼ぶのはえらく恥ずかしいしカッコ悪い、と感じたのを覚えています。

ふたつ上の姉に対しては、「おねえちゃん」が「姉」になりました。
そうです、「あね」と呼ぶようになったのです。
アクセントは「あ」のところです。
「橋」ではなく「箸」と同じアクセントです。
どうでもいいことですね…。

さて、肝心の文化祭は、私の親友であり、セガレの大先輩にもあたるたけちゃんが来校してくれたお陰で、2倍楽しく過ごせました。
イベントや企画、展示などを様々見て回りましたが、往々にしてオタクと称されがちな部員たちの活躍が光っていました。

例えば生物部。
大量の生物の標本の前で、詳細に説明をしてくれたのは、とても頼もしい高校2年生でした。
蝶と蛾の違いを解説してくれたり、害虫ではないゴキブリの話を聞かせてくれたり。
将来はその道に進むと?と聞いたら、「これでは稼げないですから」と。
なかなか、しっかりした学生さんでした。

例えば天文部。
OBのたけちゃんによると、手作りプラネタリウムが昔から有名なのだそうです。
LEDを1500個使用した段ボール製のプラネタリウムは、なんと作成期間11ヶ月。
文化祭が終わったら解体し、すぐに来年の文化祭の準備に取り掛かるのだそうです。
大きさは直径5メートル、高さ3メートル。
東京ドームのおよそ7300分の1です、との説明は笑いを誘っていました。

例えば日本の城研究会。
天守閣のあるお城は現存12あって、関東以北では弘前城が唯一だと教えてくれました。
夏合宿での研究成果も掲示してありました。
走って、腹筋鍛えて、腕立てやって、だけが合宿じゃないんですね。

みんなちがって、みんないい。
金子みすゞさんの言葉を思い出しました。

075 籠鳥檻猿

セガレの通う学校では、本をたくさん読むようにと指導しています。
読破した本について諸々資料を残すための「読書生活の記録」という冊子が全員に配布され、中高一貫の6年間、時間を作って読書をするよう躾けられているようです。

そして、今夏、セガレは宮部みゆきさんの本に、はまっています。
先日「ソロモンの偽証」を読み終え、次に「模倣犯」を買ってきました。
前者は全6巻、後者は全5巻です。
「なるべく薄い本を選び、感想文を書く。」
そんな邪(よこしま)な考えの父とは違うようです・・。

ところで、私の好きなジャンルはノンフィクションです。
きっかけになったのは中学生のときに読んだ、松本清張の「日本の黒い霧」でした。
この本は、下山事件、松川事件、白鳥事件など戦後日本で起きた怪事件を取り上げていますが、中でも私が最も感興をそそられたのは、帝銀事件でした。

この事件は、終戦から約2年半後の昭和23年1月26日15時過ぎ、閉店後の事務処理をしていた帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店に、東京都防疫班の腕章を着用した中年男が訪れ、行員12名を毒殺したうえ、現金と小切手を強奪したという凶悪なものです。

当初、捜査の中心は、毒物の扱いを熟知した旧陸軍731部隊に向けられていました
犯行の内容から、青酸化合物の扱いに慣れた専門家の仕業だと推察されていたのです。
その理由は以下のとおりです。

  1. 第一薬を飲んだ後に、第二薬を飲んでもらうと示すことで、苦しむ行員が散らばることを防いでいること。
  2. 第一薬として飲ませた薬物は、歯のエナメル質を痛めるので舌を出して飲むようにと、最初に自ら飲み方を見せていること。
  3. 青酸カリのような速効性のある毒物ではなく、遅効性の青酸化合物が使用されたこと。

目の前で飲み方を実際に見せられた訳ですから、行員たちが信頼したのも無理はありません。
しかし、事件の7か月後に逮捕されたのは、毒物とは一見何の関係もない画家・平沢貞通氏でした。

GHQからの圧力が囁かれる中、捜査の中心だった731部隊への追及はいつしか打ち切られ、取り調べの中で自白したこともあって、昭和30年、最高裁で平沢氏の死刑が確定しました。

私がこの事件を初めて知ったのは中学生のときでしたから、平沢氏はまだ存命でした。
しかし、昭和62年5月10日、死刑囚という窮境のまま、八王子医療刑務所で亡くなりました。
逮捕から39年。
死刑確定から32年。
95歳の生涯でした。

私が興味を抱いた最大の理由は、平沢貞通という男の本性です。
即ち・・、
大量殺人を犯しておきながら、無実を訴え続ける人面獣心の男なのか、覚えのない罪を着せられて自由を奪われた不遇にして悲運な男なのか、必ずそのどちらかなのです。

籠鳥檻猿。
「ろうちょうかんえん」と読みます。
自由を奪われ自分の思い通りに生きることが出来ない境遇のたとえです。
平沢氏の人生は、籠の中の鳥、檻の中の猿だったのではないでしょうか。

30人以上の歴代法務大臣が死刑執行に踏み切らなかったのは何故でしょう。
ここに、答えが隠されているように思います。

この事件を知った後、下川事件、三億円事件、オウム真理教関連事件、光市母子殺人事件等、ノンフィクション作品を随分読みました。

その結果、私の本棚は、ちょっと見てくれが悪い状況を呈しています。
扉を開いて、目に飛び込んでくる本の背文字は、
「死刑」
「贖罪」
「死刑の基準」
「殺された側の論理」
「死刑のための殺人」
「殺人犯はそこにいる」
「心にナイフをしのばせて」
「それでも彼を死刑にしますか」
等々・・。
因みに今読んでいるのは、上野正彦先生の著「監察医が泣いた死体の再鑑定」です・・。

「父さんの本棚には、学校が推薦する類いの本は全然ないね。」
全くセガレの言う通りです・・。

誤解を招かないように申し添えますが、小説なんかも、私、普通に読みます。
重松清や東野圭吾、角田光代など、著名な作家の作品も本棚に並んでいます。
やや片隅に追いやられていますが・・。

074 千秋万歳

以前にも少し触れましたが、私には98歳になる伯父がいます。
大正6年10月15日生まれです。

折しも今日は終戦記念日ですが、伯父は太平洋戦争を経験しています。
一度ならず、何度も出征したそうです。
しかし、これまで、戦争について語ることは、ほとんどありませんでした。

「戦地でいろいろあったから、俺は、晩年幸せな人生は送れないかも知れない・・。」

いつぞや、周囲にそうこぼしたことがある、と聞いたことがあります。
この重い言葉に隠された伯父の胸奥を、私には推し量ることなどできません。

私の好きなノンフィクション作家・門田隆将さんの著「太平洋戦争最後の証言」によると、大正生まれの男子1,348万人のうち、およそ200万人が戦死したそうです。
7人にひとりです。
私もあと40〜50年早く生まれていたら、と考えると血の気が引きます。

伯父は子供が4人いますが、全員女の子でしたので、男の私を大層可愛がってくれました。
私に初めて自転車を買ってくれたのも伯父でした。
伯父の住む田舎の広い庭で毎日何十回も転び、寝る前に二人でスネのアザの数を数えました。
そして、ようやく乗れるようになった夏休みは、今も忘れることができません。

大学に合格した時も、たくさんお祝いをいただきました。
「行きたい学校に合格して良かったね。おめでとう。」と喜んでくれました。

家内を連れて遊びに行ったときは、寿司の出前をとってくれました。
カミさんに気遣いして、持てなしてくれたのだ、とすぐにわかりました。
オレは田舎者だから・・といつも謙抑で遠慮深い伯父でしたから。

また、伯父は手先が器用で、何でも作ってしまう人でした。
削いだ竹を編んで作った器は、職人顔負けの出来映えでした。
そして、腕相撲も強かったし、将棋も上手だった。
少年のボクには、何でもできるスーパーマンのような存在でした。

今秋には99歳を迎えますが、いくつになっても、伯父は私にとってスーパーマンです。
尊敬と感謝の念を込めて、白寿のお祝いを贈ろうと思っています。