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079 妙計奇策

今日はゴルフコンペでした。
ここしばらくすっきりしない天気が続いていましたが、今日は運良く好天に恵まれました。
因みに、私の成績は、11人中8位・・・・。ダメダメでした。

このコンペは年に4回開催していて、1992年の第1回大会以来、ずっと私が幹事を務めており、今回は第99回目の大会でした。
そうです、次回は第100回という大きな節目を迎えるのです。

コンペの創設時、私はハンデキャップについて一計を案じました。

新ペリアは有り触れていて面白味に欠ける・・。
かといって、優勝すると3割カット、準優勝は2割カットでは無味乾燥だ・・。
ローハンデになった時のモチベーション低下を、どうにか回避できないか・・。

試行錯誤の末、以下の公式を編み出しました。

HDCP={(直近3走の平均グロス+コンペでのベストグロス)÷2-72}×0.8
ただし、優勝は0.8、準優勝は0.9、3位は0.95を乗ずる

具体的な例を挙げて説明します。
ベストグロス83の松山くんのここ3走の成績を以下の通りとします。

第93回大会 Gross 104→5位
第94回大会 Gross   95→6位
第95回大会 Gross   98→10位

上の公式に当てはめると、
過去3走の平均グロスは、(104+95+98)÷3 なので、99。
これに自己ベストを加えて2で割ると、(99+83)÷2=91。
で、72を引いて0.8倍すると、(91-72)×0.8=15.2。
第96回大会のハンデは、15.2ということになります。

もう少し続けます。
仮に、松山くんがハンデ15.2で臨んだ第96回大会を、Gross85で制覇したとします。

第96回大会 Gross 85  HDCP 15.2→優勝

すると、次の大会でのハンデはこうなります。
過去3走の平均は、{95+98+(85×0.8)}÷3=87 (優勝時は0.8倍)
以下、[{87+83)÷2}-72]×0.8=10.4

ハンデ15.2で優勝した次走は、ハンデが10.4に減少されます。
「優勝者3割カットルール」だと10.6になるので、大きな差はありません。
しかし、大きな違いは、3走後に現れます。

第97回大会 Gross 99  HDCP 10.4→10位
第98回大会 Gross 95  HDCP 10.9→6位
第99回大会 Gross 96  HDCP 10.5→7位

仮に97回、98回、99回大会の結果が上記のようだとすると、100回大会時のハンデは、
[{(99+95+96)÷3+83}÷2-72]×0.8=14.3 となります。

3大会はシングルハンデ寸前の厳しい状況でしたが、直近3走がハンデ計算の対象なので、4走後には優勝時のハンデカットから逃れられるため、復活することができるのです。

また、もうひとつの特長は、不調で大叩きが続いていても、直近3走の平均グロスに自己ベストを最後に加えて2で割るので、さほど大きなハンデにはならないことです。

同様に、優勝・準優勝と好位が続いた時も、自己ベストを足すことで極端なローハンデになるのを防ぐことができます。

24年前に私が考えたこの公式。
特許取得も可能な画期的計算方法だと、本気で思っているのですが・・。

078 無妄之福

今日10月1日は、都民の日です。

東京生まれ東京育ちの私にとって、都民の日は「お得な休日」という感覚でした。
カレンダーは赤く表示されていないのに、学校に行かなくていい日でしたから。

そして、「1日は休みか!」と直前に気付くことが多かった記憶があります。
「10月10日体育の日」に比べると、都民の日は忘れがちだったように思います。

まずは、制定の経緯を、東京都生活文化局のサイトから引用します。
(http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/keishou/0000000248.html)

「都民の日」のいわれは、明治時代にさかのぼる。
府県や市町村という地方制度は、明治11年の郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則という三つの法令をはじめ、同21年の市制町村制、同23年の府県制、郡制などの法令によってだんだん形作られた。そして同22年5月には、明治元年から置かれていた東京府の中に新たに東京市も誕生した。
しかし、この東京市は、京都、大阪の2市とともに、その誕生直前に公布施行された市制特例という法令によって、他の市にくらべて、市民の市政参加への道が大きく制限されていた。市は置かれたというものの、市長と助投の仕事は国が任命した府知事と府書記官が行い、また市投所の建物もなく市の職員もいないという制度だった。
こうした自治の制限に対し、市民の市政参加の道を広げようとする運動が市会を初め市民の間でねばり強く続けられた。そして明治31年になって、市制特例は廃止され、同年10月1日には、市会によって選ばれた市長をもつ新しい東京市が誕生し、市役所も開設された。この新しい東京市誕生の歴史を忘れないため、大正11年10月1日「自治記念日」に定められ、その後、自治の大切さを自覚しようという願いをこめて、昭和27年に「都民の日」となった。

すぐには理解しがたい社会状況ですね・・。時代を感じます。

調べてみると、東京都以外にも同様の日があるようですので、いくつか紹介しましょう。
(制定していない道府県が結構多いことも申し添えておきます。)

秋田県(8月29日・秋田県の記念日)
1871年8月29日、廃藩置県で秋田県が誕生したことに由来

群馬県(10月28日・県民の日)
1871年10月28日(旧暦)、廃藩置県で群馬県が誕生したことに由来

埼玉県(11月14日・県民の日)
1871年11月14日(旧暦)、廃藩置県で埼玉県が誕生したことに由来

山梨県(11月20日・県民の日)
1871年11月20日(旧暦)、甲府県が山梨県に改称されたことに由来

長野県(2月7日・長野の日)
1998年2月7日、長野オリンピック開会式が行われたことに由来

鳥取県(9月12日・県民の日)
1876年に島根県に編入されて消滅した鳥取県が、1881年9月12日に再び分離独立して、現在の鳥取県が誕生したことに由来

大分県(11月14日・県民の日)
1871年11月14日(旧暦)、廃藩置県で大分県が誕生したことに由来

沖縄県(5月15日・本土復帰記念日)
1972年5月15日、アメリカ軍政下にあった沖縄県が日本に復帰したことに由来

廃藩置県、オリンピック、本土復帰・・・・、様々な由来があるんですね。
しかし、東京都のように公立学校を休校にしているのは以下の5県のみです。

千葉県(6月15日)
群馬県(10月28日)
茨城県(11月13日)
埼玉県(11月14日)
山梨県(11月20日)

東京周辺に偏っているのは、偶然なのでしょうか・・。
せっかくなので、他県の記念日も学校が休みになればいいのに・・とも思います。

私は、横浜の大学に通っていましたが、神奈川県にはそもそも県民の日が制定されていません。
横浜市は、6月2日を開港記念日として市立の学校を休みにしていますが、国立大学には無関係。
都民の日っていいなあ、と強く感じたのは、大学生の時だったかも知れません。

因みに、今年の都民の日は土曜日ですから、来年は日曜日になります。
しかし、国民の祝日とは違うので、月曜日が振替休日にはなりません。
来年、都内の学生達は1日損をしたような気になるのでしょうね。

077 魯魚亥豕

魯魚亥豕(ろぎょがいし)。
字形が似ていて、書き誤りやすい文字のことを指します。

私の名前は「雅己」と書きますが、この「」は少ない画数の割に、厄介な漢字です。
」「」「」と似た字が3つあります。
三画目の書き始めが上だったり下だったり、挙げ句に真ん中もあるので面倒なのです。

因みにこの3つの漢字の読み方は、各々以下の通りです。(出典:http://kanji.jitenon.jp/)
(音読み)こ、き(訓読み)おのれ、つちのと
(音読み)い  (訓読み)すで(に)、や(む)、のみ、はなは(だ)
(音読み)し  (訓読み)

昔の人はこれらを区別して覚える工夫をしていたようです。
上記の読み方を念頭に置き、下の文を解釈してみて下さい。

こきの声、おのれつちのと下につき、いすでは半ば、しみは皆つく

おのれは下に、は上に、すでに・やむ・のみ中ほどにつく

先人たちはすこぶる風流ですね。

こうしてみると「み」と読ませるためには「」と書くべきなのかも知れません。
ひらがなの「こ」は、「」の草書体だそうですし・・。

ただ、私と同じパターンも結構見受けられます。
元読売ジャイアンツの投手・槙原寛さんは「ひろみ」。
タレントの松本伊代さんのご主人・ヒロミさんの本名は小園浩と書いて「ひろみ」。
元・光GENJIの諸星和さんは「かずみ」。

何故、こうしたことが起こったのでしょうか?
」は常用漢字ですが、「」は常用漢字でないことが要因なのでしょうか?

ネットには面白い意見もありました(投稿者不明)。

」には「自分」という意味があります。
「自ら」の語源は「身・づ・から」で、「実践躬行」の「躬」も「み」と読みます。
つまり「」は「自分自身」という意味で「み」と読めるのです。

ん・・、結局、理論的に説明はできません・・。

なお、私の父は克(かつみ)といいます。
ちょっとあり得ない気もするのですが「」です。
聞いたところでは、戸籍と住民票と保険証の字が全部異なっていたそうで、戸籍に記載されている漢字が正しいとの原則に則り、「」に統一したとか。
昔は全て手書きでしょうから、この類いの混乱は珍しくないと思います。

こんなにややこしい漢字ですから、私も、日常的に間違いに遭遇します。
「雅」と書かれることには、かなり慣れました。

しかし、友人の一人が、毎年年賀状の宛名を「雅美」と印字してきます。
それから以前、ゴルフコンペの出走表に「雅光」と書かれたことがあります。
この2件は、「」とか「」とかの問題ではないですからね。

特に小学校の友人のN君。
長い付き合いなんだから、いい加減「雅美」は直して欲しいですね(笑)。

076 百人百様

この週末、セガレの通う中学校では文化祭が催されました。
1年前は受験生の親という立場で見学した文化祭を、今年は生徒の親として参加する訳で、感慨深い思いとともに、月日の経過の早さを感じます。

しかし、親と子供のテンションには、ちょっと温度差があるな、と感じました。
というのも、セガレの所属する卓球部は、練習試合も企画も展示も特にないとのこと。
中学1年生としての企画には参加するようですが、本人はさしたる思い入れはない様子。
終いには、自分が担当として企画に携わる時間帯には来てくれるな、と。

友人といるところに自分の親が現れるのを恥ずかしいと感じる年頃、なのでしょう。
「明日は親が来るんだよ。いやだなあ」と友人のM君も言ってたとか。

まあ、分かる気がします。
振り返ってみれば、自分にも思い当たる節がありますので。
確か「お母さん」から「おふくろ」に呼び方が変わったのは13〜14歳だったと思います。
「お母さん」と呼ぶのはえらく恥ずかしいしカッコ悪い、と感じたのを覚えています。

ふたつ上の姉に対しては、「おねえちゃん」が「姉」になりました。
そうです、「あね」と呼ぶようになったのです。
アクセントは「あ」のところです。
「橋」ではなく「箸」と同じアクセントです。
どうでもいいことですね…。

さて、肝心の文化祭は、私の親友であり、セガレの大先輩にもあたるたけちゃんが来校してくれたお陰で、2倍楽しく過ごせました。
イベントや企画、展示などを様々見て回りましたが、往々にしてオタクと称されがちな部員たちの活躍が光っていました。

例えば生物部。
大量の生物の標本の前で、詳細に説明をしてくれたのは、とても頼もしい高校2年生でした。
蝶と蛾の違いを解説してくれたり、害虫ではないゴキブリの話を聞かせてくれたり。
将来はその道に進むと?と聞いたら、「これでは稼げないですから」と。
なかなか、しっかりした学生さんでした。

例えば天文部。
OBのたけちゃんによると、手作りプラネタリウムが昔から有名なのだそうです。
LEDを1500個使用した段ボール製のプラネタリウムは、なんと作成期間11ヶ月。
文化祭が終わったら解体し、すぐに来年の文化祭の準備に取り掛かるのだそうです。
大きさは直径5メートル、高さ3メートル。
東京ドームのおよそ7300分の1です、との説明は笑いを誘っていました。

例えば日本の城研究会。
天守閣のあるお城は現存12あって、関東以北では弘前城が唯一だと教えてくれました。
夏合宿での研究成果も掲示してありました。
走って、腹筋鍛えて、腕立てやって、だけが合宿じゃないんですね。

みんなちがって、みんないい。
金子みすゞさんの言葉を思い出しました。

075 籠鳥檻猿

セガレの通う学校では、本をたくさん読むようにと指導しています。
読破した本について諸々資料を残すための「読書生活の記録」という冊子が全員に配布され、中高一貫の6年間、時間を作って読書をするよう躾けられているようです。

そして、今夏、セガレは宮部みゆきさんの本に、はまっています。
先日「ソロモンの偽証」を読み終え、次に「模倣犯」を買ってきました。
前者は全6巻、後者は全5巻です。
「なるべく薄い本を選び、感想文を書く。」
そんな邪(よこしま)な考えの父とは違うようです・・。

ところで、私の好きなジャンルはノンフィクションです。
きっかけになったのは中学生のときに読んだ、松本清張の「日本の黒い霧」でした。
この本は、下山事件、松川事件、白鳥事件など戦後日本で起きた怪事件を取り上げていますが、中でも私が最も感興をそそられたのは、帝銀事件でした。

この事件は、終戦から約2年半後の昭和23年1月26日15時過ぎ、閉店後の事務処理をしていた帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店に、東京都防疫班の腕章を着用した中年男が訪れ、行員12名を毒殺したうえ、現金と小切手を強奪したという凶悪なものです。

当初、捜査の中心は、毒物の扱いを熟知した旧陸軍731部隊に向けられていました
犯行の内容から、青酸化合物の扱いに慣れた専門家の仕業だと推察されていたのです。
その理由は以下のとおりです。

  1. 第一薬を飲んだ後に、第二薬を飲んでもらうと示すことで、苦しむ行員が散らばることを防いでいること。
  2. 第一薬として飲ませた薬物は、歯のエナメル質を痛めるので舌を出して飲むようにと、最初に自ら飲み方を見せていること。
  3. 青酸カリのような速効性のある毒物ではなく、遅効性の青酸化合物が使用されたこと。

目の前で飲み方を実際に見せられた訳ですから、行員たちが信頼したのも無理はありません。
しかし、事件の7か月後に逮捕されたのは、毒物とは一見何の関係もない画家・平沢貞通氏でした。

GHQからの圧力が囁かれる中、捜査の中心だった731部隊への追及はいつしか打ち切られ、取り調べの中で自白したこともあって、昭和30年、最高裁で平沢氏の死刑が確定しました。

私がこの事件を初めて知ったのは中学生のときでしたから、平沢氏はまだ存命でした。
しかし、昭和62年5月10日、死刑囚という窮境のまま、八王子医療刑務所で亡くなりました。
逮捕から39年。
死刑確定から32年。
95歳の生涯でした。

私が興味を抱いた最大の理由は、平沢貞通という男の本性です。
即ち・・、
大量殺人を犯しておきながら、無実を訴え続ける人面獣心の男なのか、覚えのない罪を着せられて自由を奪われた不遇にして悲運な男なのか、必ずそのどちらかなのです。

籠鳥檻猿。
「ろうちょうかんえん」と読みます。
自由を奪われ自分の思い通りに生きることが出来ない境遇のたとえです。
平沢氏の人生は、籠の中の鳥、檻の中の猿だったのではないでしょうか。

30人以上の歴代法務大臣が死刑執行に踏み切らなかったのは何故でしょう。
ここに、答えが隠されているように思います。

この事件を知った後、下川事件、三億円事件、オウム真理教関連事件、光市母子殺人事件等、ノンフィクション作品を随分読みました。

その結果、私の本棚は、ちょっと見てくれが悪い状況を呈しています。
扉を開いて、目に飛び込んでくる本の背文字は、
「死刑」
「贖罪」
「死刑の基準」
「殺された側の論理」
「死刑のための殺人」
「殺人犯はそこにいる」
「心にナイフをしのばせて」
「それでも彼を死刑にしますか」
等々・・。
因みに今読んでいるのは、上野正彦先生の著「監察医が泣いた死体の再鑑定」です・・。

「父さんの本棚には、学校が推薦する類いの本は全然ないね。」
全くセガレの言う通りです・・。

誤解を招かないように申し添えますが、小説なんかも、私、普通に読みます。
重松清や東野圭吾、角田光代など、著名な作家の作品も本棚に並んでいます。
やや片隅に追いやられていますが・・。

074 千秋万歳

以前にも少し触れましたが、私には98歳になる伯父がいます。
大正6年10月15日生まれです。

折しも今日は終戦記念日ですが、伯父は太平洋戦争を経験しています。
一度ならず、何度も出征したそうです。
しかし、これまで、戦争について語ることは、ほとんどありませんでした。

「戦地でいろいろあったから、俺は、晩年幸せな人生は送れないかも知れない・・。」

いつぞや、周囲にそうこぼしたことがある、と聞いたことがあります。
この重い言葉に隠された伯父の胸奥を、私には推し量ることなどできません。

私の好きなノンフィクション作家・門田隆将さんの著「太平洋戦争最後の証言」によると、大正生まれの男子1,348万人のうち、およそ200万人が戦死したそうです。
7人にひとりです。
私もあと40〜50年早く生まれていたら、と考えると血の気が引きます。

伯父は子供が4人いますが、全員女の子でしたので、男の私を大層可愛がってくれました。
私に初めて自転車を買ってくれたのも伯父でした。
伯父の住む田舎の広い庭で毎日何十回も転び、寝る前に二人でスネのアザの数を数えました。
そして、ようやく乗れるようになった夏休みは、今も忘れることができません。

大学に合格した時も、たくさんお祝いをいただきました。
「行きたい学校に合格して良かったね。おめでとう。」と喜んでくれました。

家内を連れて遊びに行ったときは、寿司の出前をとってくれました。
カミさんに気遣いして、持てなしてくれたのだ、とすぐにわかりました。
オレは田舎者だから・・といつも謙抑で遠慮深い伯父でしたから。

また、伯父は手先が器用で、何でも作ってしまう人でした。
削いだ竹を編んで作った器は、職人顔負けの出来映えでした。
そして、腕相撲も強かったし、将棋も上手だった。
少年のボクには、何でもできるスーパーマンのような存在でした。

今秋には99歳を迎えますが、いくつになっても、伯父は私にとってスーパーマンです。
尊敬と感謝の念を込めて、白寿のお祝いを贈ろうと思っています。

073 一子相伝

先日、突然夜景が撮りたくなって、レインボーブリッジに行きました。
車は、お台場海浜公園中央駐車場に停めました。

まず目指したのは、アクアシティお台場3Fのスターバックスです。
広い店内に、椅子が独特に配置されており、とても寛げるスペースでした。
また、場所柄なのか、お客さんの平均年齢が非常に若かったですね。
ワタクシ、間違いなく最高齢でした。
カプチーノ(ホット)なんかオーダーしている人、私以外には見当たらなかったです。
2人に1人は、フラペチーノ、飲んでました。
3人に1人は、ポケモンGO、やってました。

ここに寄ったのは、コーヒーが飲みたかったという理由だけではありません。
ここのテラスからの眺望を確認したかったのです。
予想通り、目の前がレインボーブリッジで、少し高い位置から撮影できました。

スタバのテラスから

その後、テラスを歩いていると、若い女性に声を掛けられました。

写真を撮って欲しい、というリクエストでした。
快く応じると、20台前半の男女5人グループで、スマホを渡されました。

スマホか…。苦手だな…。老眼鏡持ち合わせてないし…。

本音は隠し、努めて明るく『撮りますよ〜』と言いながらスマホを構えました。
すると、カメラ越しの若者たちが、意外にカタい表情なのです。

ありゃ、テンション低いな。
ちょっとシャイな若者集団?

それとも、撮影を頼んだこのおっさん、苦手なタイプだった?

よし、アレをやろうと決めました。

じゃあ、もう1枚、撮りますね。
イチ・ニ・サンで撮りますよ。

イ〜チ・ニ〜・サ〜ン・シ〜・ゴ〜・ロ〜ク……。

え?みたいな反応でしたが、クスっと笑ってくれた「ロク」あたりでシャッターを切りました。

これ、アメリカ仕込みの『笑顔を撮る方法』なんです。

ワタクシ、大学時代にアメリカ西海岸でホームステイを経験しました。
そこでお世話になったホストファミリーのご主人・フランクは、大のカメラ好きで、
『これはとっておきの方法だ。必ず笑顔が撮れるぞ。Masamiにだけ特別教えよう。』
ニコンの愛機を手に、自信たっぷりに、伝授されました。

しかし、この必殺技、過去何度か大きく外したことがあります。
そういえば、日米の国民性の違いについては、フランクは言及してなかったか…。

072 遺風残香

今日は土用の丑の日、ウナギを食べることで有名な日です。
そもそも土用って何だろうと、ふと疑問に思いました。

調べてみると、「土用」とは、立春、立夏、立秋、立冬の前、約18日の期間を指すそうです。
即ち、今は土用というと一般的に夏を指しますが、本当は四季全てに存在するのです。

因みに、今年の立秋は8月7日なので、7月19日~8月6日が夏の土用となります。
この18日間の中で、12日周期で割り当てられている十二支のうち丑の日に該当する日、この日が「土用の丑の日」になるのだそうです。

今年は7月30日だけですが、18÷12=1.5なので、土用の丑の日は1度だけと決まってはいません。
並び具合によっては、土用のはじめと終わりに2度丑の日が来る訳です。
一の丑、二の丑と区別して呼ばれるのだそうです。

夏バテ防止のためにウナギを食べるという習慣が定着したのは、江戸時代中後期になってから。
売り上げ不振に悩んだウナギ屋から相談を受けた平賀源内が、「今日は土用の丑の日」と書いた張り紙を出して宣伝したところ、店が繁盛したと言われています(諸説あり)。
当時は、丑の日にちなんで「う」から始まる食べ物を摂るとカラダに良いとの言い伝えがあり、ウナギが合致したと考えられます。

ウナギは夏が旬だと思っている人、多いのではないでしょうか。
私もその一人でした・・。
天然ウナギは、秋から冬にかけてが、旬なのだそうです。

それから「土曜の丑の日」は間違いです、なんて漢字の問題、ありそうですね。
因みに、今年に限っては、まんざら間違いではないような気もしますが・・。

071 嘉辰令月

今日は私がこの世に生を受けて、ちょうど20,000日目にあたります。
私にとって20,000回目の朝なんだなあと、今朝はどことなく感慨深い思いでした。
単純に20,000÷365=54.79ですから、なるほど、55歳の誕生日前にこの日は来るんですね。

20,000日目であることを知ったのは、思いがけないことがきっかけでした。

私には98歳になる伯父がいます。
10月が誕生日なので、来年秋には100歳になります。
100歳って日数にすると何日になるんだろう?
そんな疑問からでした。

振り返ってみると、私にとっての5,000日目は1975年6月30日(月)。
中学2年になって3ヶ月後。
スポーツに打ち込む訳でもなく、
一生懸命勉強する訳でもなく、
生意気盛りの中2には、彼女がいるはずもなく・・。
これといって特徴のある少年ではなかったですね。

10,000日目は1989年3月8日(水)。
27歳春。
どちらかといえば結婚願望のある方でしたが、全く叶いませんでした。
春が身近に感じられず、
将来の展望も開けず、
やや暗い青春時代を送っていました。

15,000日目は2002年11月15日(金)。
結婚して約7年。
40歳を過ぎても子宝に恵まれず、
友人たちの子は着々と成長し、
周囲から二世を期待する声も若干遠ざかりはじめ、
人生設計の修正が必要だな、と感じていました。
カミさんと二人の生活をどう楽しんでいこうかと・・。
まさか、翌年秋にセガレが生まれるなんて、想像もしていませんでした。

そして、20000日目、2016年7月24日(日)。
家庭は円満だし、
両親は元気だし、
今日のご飯に困ってはいないし・・。
人並みに仕事のストレスは抱えておりますが、幸せな節目の日だと思っています。

20000日だ、20000日だ、と騒ぐ私をよそに、家族の反応はいたって冷静でした。
しかし、しつこく訴え続けたらカミさんが晩飯に付き合ってくれました。
『20000円の料理を食べる資格が今日のオレにはあるんじゃないか!』との主張は、
あっさりと否定されてしまいましたが…。

因みに98歳になる伯父は、既に36,000日を超えています。
ん・・、先は長い・・。

070 切磋琢磨

今日、セガレの中学では1学期の終業式が行われました。
中学生になって、最初の通知表をいただいてまいりました。
私立中学でもありますので、どんな通知表なのか私も楽しみにしていましたが、A4コピー用紙に片面プリントしただけという、やや期待はずれの体裁でした・・。

成績の評点は一旦置いといて(笑)、それよりも、遅刻・早退・欠席がゼロだったことを評価してあげたいと思っています。
起床時間が大幅に早まり、片道1時間以上要する電車通学を親は最も懸念していましたが、そんな中での出席率100%です。元気が一番!と誉めてあげました。
子供の順応性は、親の心配を超えていた、ということでしょうか。

入学してから今日まで、様々な行事がありました。

晴れ晴れしい気持ちで迎えた入学式。
借り物のようなサイズの制服でした。

ちょっぴり怖くて、実は優しい先輩たちと一丸となって戦った体育祭。
結果は最下位でしたが、タテの繋がりを経験できました。
体育祭の翌日に渋谷で打ち上げがあると聞いたときは、ちょっと生意気だなあと感じました(笑)。 

7月には東京地方裁判所ではじめて裁判を傍聴しました。
人定質問、甲号証・乙号証など、専門用語をセガレに教えてもらいました。 

そして、週末からは、長野県での林間学校があります。
8月には、部活の合宿にも初参加します。
9月になると、文化祭もあります。

こうしてみると、学生生活は楽しそうだと、つくづく感じますね。
正直言うと「大人はテストがなくていいよなあ」と子供の頃はよく思ったものでしたが・・。

セガレの通う学校は「面倒見の良い学校」として知られています。
先輩に学び、後輩に伝える環境が醸成されている校風の中で、同級生や先輩、後輩から様々な刺激を受けて、個性を伸ばしていけたら何よりと思います。

未来に夢が広がる子供たちを、まぶしく思います。